週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

歴史を面白く学ぶ番組「COTEN RADIO」が、キリスト教についてあまりに間違っていることを話しているので苦言を呈したい。

 歴史を面白く学ぶラジオ「COTEN RADIO」をご存知だろうか。PodcastYouTubeといったプラットフォームで、歴史の様々なテーマについて語るラジオ番組である。Apple PodcastSpotifyのランキングで常に1位に輝いている、今や大人気のコンテンツだ。

coten.co.jp

 私も2021年にこの番組の存在を知り、ドハマりした。運転中や皿洗い中など、暇さえあれば聞き続けた。現在300話以上あるエピソードは、ほぼすべて聞き、楽しませてもらっている。まだ聞いたことがない方は、めっちゃオススメだ。

 

 さて、COTEN RADIOのコンテンツは大好きだが、一方で、正直に言うとキリスト教に対する理解が甘いところが多いと感じている。「世界三大宗教」編では、「イエスは何よりも愛が大切だと語った」と大味すぎて誤解を招くことを言ったり、「性の歴史」編では、「使徒パウロのせいでキリスト教は性に厳しくなった」という趣旨の歴史的にも神学的にも間違ったことを言ったり、室越さん初登場回では、れっきとした宗派のひとつであるペンテコステ派を「キリスト教のカルト」と偏った紹介をしたりと、とても聖書やキリスト教そのものを「学んでいる」とは思えない発言や理解が多くみられた。 

 大好きなコンテンツだけに、イチ信者、イチ牧者として、かなり「もったいない」と感じ、気になっていた。たぶんCOTEN RADIOの皆さんは、聖書を一貫して読んだことはないんだろうなぁ、と理解していた。

 

 とはいえ、僕が感じていた不満は、キリスト教についてほとんど知らない日本人にとっては些末なことに違いない。これで間違っていると騒いでも、はたからみれば「キリスト教のめんどくさい信者」である。そう見えたら意味がない。だから黙っていた。

 

 COTEN RADIOはもともと、聖典・原典にあたるのではなく、関連する一般書籍をキュレーションして、面白い上澄み部分を抽出するというスタイルをとっている。キリスト教に関する日本語の書籍(一般書もキリスト教系の出版物も)の質が決して高くないことを考慮しても、「間違ってはいるけど、その程度の解像度として捉えればいいか」と思い、これまで大きく声をあげることはしてこなかった。

 また、去年あたりから、COTENが会社としてアメリカの神学大学で学んでいる(教えている?)方から、直接キリスト教の講義を受けているということも耳にし、その際にパーソナリティーの深井さんが「今までキリスト教について何もわかっていなかった」とおっしゃっていたのは、素直に感心した。「今後、キリスト教についての理解を深めた状態での発信が楽しみだな」と、嬉しく思った。

 

 しかし、今回の「みんなちがってみんないい! 宗教ロジックが障害者にもたらす多種多様な専門職【COTEN RADIO #298 】」 を聞いて、ついに黙っていられなくなった。宗教の中で障害者がどう捉えられていたかを説明したうえで、宗教に障害者を排除するロジックと救済するロジックがある、という内容だったが、まず取り上げられたのが「キリスト教が障害をどう捉えているか」だった。

 この説明がさすがにひどすぎた。キリスト教について、誤解というレベルではきかない、重大な間違いを堂々と語っているのだ。ただの間違いでなく、教義を180度ひっくり返してしまうような、そんなレベルの間違いだ。例の講師の先生は、これを聞いて反論しないのだろうか、と不思議になった。

 問題の回は、これだ。筆者が問題だと感じたキリスト教についての言及は、開始9:30〜17:40なので、もしよかったらまずは聞いてほしい。

youtu.be

 深井さんは、冒頭で「宗教は一筋縄で語れるものじゃない」と一応の弁明をしていた。以下の通りだ。

深井氏(開始9:30~)
「宗教の話するとき、毎回、前回もこれいいましたけど、宗教って一筋縄に本当は語れるものじゃないので、それぞれの信者の方がこの話を聞いたら『いやぁ、そうじゃねぇし』って思う人いるかもしれないんですけど、その全部を包括して完全に語るっていうのはちょっとできないなって思ってまして、★いわゆる典型的な例として出していきたいと思います」

 

 つまりこれは、「あくまでも各宗教の『典型的な例』を扱うから、細かいことは語れないよ」というエクスキューズだ。宗派や教派ごとの考え方の違いまでは言及できないけど、「キリスト教」とか「イスラム教」っていう大きな枠組みで見るとこう言えるよね、という話をしますよ、という弁明である。

 

 もし、今回の話が「解釈の違い」とか些細な問題であったら、静観しただろう。しかし、今回のCOTEN RADIOのキリスト教に関する説明は、キリスト教の「典型的な教え」から見れば真逆の説明になっていたのである。教義の真逆を言っているのだ。完全に間違っているばかりか、ユダヤ教キリスト教をごっちゃにしているし、救いの理解を完全に間違えているし、イエスや聖書の言葉や文脈と真逆のことを言っているしで、さすがに一信者、一聖書マニア、一イエスの弟子として、黙っていられなかった。だから久々にキーボードを引っ張り出してきたのである。

 

 読者の方は、ぜひCOTEN RADIOの当該エピソードのキリスト教部分(9:30~17:40)だけでもいいので聞いていただき、この記事を読んで参考にしていただければ幸いである。

 

▼何が問題なのか

 では、COTEN RADIOの今回のエピソードが、キリスト教の観点からなぜ間違っているのか。問題は大きく3つ挙げられると思う。

 

1:ユダヤ教旧約聖書+口伝律法)と、キリスト教(旧約+新約聖書)をごちゃまぜにして語っている

 

2:「救い」に関する理解が、キリスト教の観点から完全に間違っている

 

3:聖書の文脈を完全に無視して引用しており、結果として間違った結論に導いている

 

 以上、3つを順に説明していくが、その前に一方的に文脈を無視した批判をするのもおかしいので、キリスト教の該当部分を聞いて文字起こしした。お時間がある方はざっと目を通していただければ幸いだが、長いので読み飛ばしても後にポイントは触れるので問題はないと思う。

 

【該当部分 文字起こし】(★は筆者追記、特に読んでほしい部分)

09:30~
深井氏
「…… 一方で差別と排除のロジックというものは強固に加速していってるんですよ。これはロジックなんですよね。またこれが実態社会でどれぐらい機能しているかっていうのは別なんだけど、結構連動してるかなとは思うんですけど、各宗教でこれこれこういう理由で障害ってこうだよねっていうみたいな話をし始めるわけです。それがどうなっているのかっていうこと」

 

樋口氏
「理由ね」

 

深井氏
「理由ですね。一方でやっぱり宗教のいいところとしては救済をしようともする。弱者に。障害者に関わらずですけど、弱者を救済しようとする。弱者の救済のロジックっていうのも出てくるので、その2つの側面を紹介していきたいなと思います

 

樋口氏
「なるほど。作り出しもするし救済もするっつうことか」

 

深井氏
「そうですね」

 

楊氏
「ダブルのロジックが働いているのが実は宗教の特徴としてあるかなぁと思いますね」

 

深井氏
「宗教の話するとき、毎回、前回もこれいいましたけど、宗教って一筋縄に本当は語れるものじゃないので、それぞれの信者の方がこの話を聞いたら『いやぁ、そうじゃねぇし』って思う人いるかもしれないんですけど、その全部を包括して完全に語るっていうのはちょっとできないなって思ってまして、★いわゆる典型的な例として出していきたいと思います

 

楊氏
「ということで、宗教について話していきたいというふうに思うんですけど~(割愛)」
キリスト教における障害者に関する記述はあります。目の見えない人、身体障害者精神障害者、思い皮膚病におかされた人たちが実は登場してくるんですよね。まずキリスト教での障害者に対して配慮したり救済するロジックですよね。これがどういうふうに出てきたのかというと、例えばですね、レビ記っていう書物に書いてあるんですが、『耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前で障害物を置いてはならない』というふうに書いてあるんですよね。これも、この裏でどういった考えがあるというと、★なんか『隣人』という考え方があるんですよね。なんか神と人との関係の規範と日常生活における隣人に対する倫理っていうのが働いてて、これは何かっていうと、ともに生きる、★互いに愛し合うというひとつの考え方なんですよ。だからそこに障害者も入ってきたっていう話ですよね。★障害者や社会的弱者を隣人としてともに生きていくという視点が重要視されてたという話ですよね」

 

樋口氏
「うんうん」

 

楊氏
「あとはイエスですよね、イエスによって障害や病を抱えた人を癒やしていくっていう物語って結構多く記載されているんですよね」

 

深井氏
新約聖書にね」

 

楊氏
「そうだよね。で、これはその、どういった解釈があるかって、いろいろ読んだんですけど、ひとつ紹介すると、障害があるがなかろうが、貧しかろうが豊かであろうが、神への服従を要求されている人間として同じであることを強調してるんですよね。まずそのイエスをちゃんと信じなさいと。それによって罪がすべてつぐなわれるという考えですね。そこに障害は別に関係ないと。★それまでキリスト教の中でも障害は罰であるっていうふうに旧約聖書とかの中でもそういうふうに読める記述とかがあったんですけど、イエスの登場によってそういうものがなくされていくと。そういうのは関係ないよと。★とりあえずイエスを信じればみんなは救われるっていうことを強調してますね」

 

樋口氏
「なるほど」

 

楊氏
「あとは、キリスト教で結構特徴的な挙動として出てくるのは障害者に対する救済っていうのが起きてくるんですよ。キリスト教が浸透するにつれて、★人間は現世における善い行い次第で死後最後の審判の際に天国か地獄がいずれか行くか判定されるっていう考え方が広まっていくんですよ。★その善い行いのひとつとして障害者の救済があったんですね。障害者に対する救済措置がとられていくというのが出てきます。ルカの福音書という書物がですね、これは新約聖書のひとつなんですけれども、★『宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、まぁ障害者ですよね、足なえ、盲人、目の見えない人ですよね、を招くが良い』というふうに書かれています。『そうすれば、正しい人々の復活の際にはあなたは報いられるであろう』といふうにあるんですよね。だからこれは何かっていうとですね、★社会問題を解決を目指してるわけじゃないんです。ソーシャルビジネスじゃない。ソーシャルな目的じゃなくて、★あくまで自分たちが救われるために障害者を救うっていうロジックですよね。★だから信者たちはですね、死後の救いを確保するために、障害者、あるいは貧者、貧しい者への施しと、教会に対して寄進をしたりとかするんですよ

 

楊氏
「で、一方ではですね。★差別と排除のロジックもキリスト教の中では用意されていますね。汚れた者として重い皮膚病が捉えられてたりとかしてますね。だから、汚れていると捉えているし、不浄であるので健常者の共同体から隔離されてたっていうふうに記述としては残ってます。あとは★身体に障害がある人たちは祭壇での奉仕は許されないんですよね。祭壇に近づいてはいけないと。これは何かっていうと、これは要するに宗教ってとても神聖性を重視するじゃないですか。★この神聖性を守るために聖なる領域が強調される必要があったんです。だから汚れた人たちを排除していくっていうふうなロジックが成り立つんですね。これはまぁイメージしやすいでしょうね」
「あとはこういった障害者を排除して差別していくっていうロジックの裏にはですね、当時の宗教の背景があってですね、会社でいうとスタートアップっていう感じですよね。スタートアップの時期にちゃんとチームビルディングをしっかりとしてチーム一丸となってやらないといけないっていうフェーズがあるじゃないですか。宗教にしてもそうで、ちゃんと宗教規範をすごく強化するっていうフェーズがあったんですよ。他にもいろんな宗教があるんですよね。★いろんな宗教のなかで自分たちキリスト教一神教を貫くためにちゃんとこう、なんていうかですね、他の宗教に染まらないようにしないといけないんですよ、自分たちのメンバーが。そのひとつの手段、脅しの手段として障害が罰として語られてた側面があるわけですよね。他の宗教にいくとお前こういう障害の罰を受けちゃうんだぞというふうな語り方をされる」

 

樋口氏
「そうねぇ」

 

楊氏
「これはもう宗教的なニーズによって生まれたひとつのロジックですね」

 

樋口氏
「アメとムチのムチ側というか」

 

楊氏
「そうですそうです。はい。というのがキリスト教ですね」

 

樋口氏
「なんかあれですね。なんか、ちゃんと書かれてた、旧約聖書に目の見えない人に物を置くな、目の前にというのがあって、逆に言うとそういう人がいたっていうことかなと思ったんですよね」

 

楊氏
「認識はされてたと思いますよ」

 

樋口氏
「ということですよね。だからなんか、宗教が障害を決めたっていう捉え方もできるけど、そもそもあったものをフォローするために明文化したっていう捉え方もできて、なんか鶏と卵じゃないですけど、どっちが先なのかわからないなっていう印象は今受けましたね」

 

楊氏
「そうですね」

 

樋口氏
「というのは思ったので、絶妙やなぁと思いました」

 

楊氏
「このやっぱり両方のロジックがあるっていうのが多分当時の宗教によって必要だったんですよね。自分たちの基盤を獲得するために。救うロジックを用意することによって社会から排除されてきたものを自分のグループに宗教共同体に入れることもできるし、★逆に障害を持つ人を罰として見ることによって、自分たちの神聖性を保ったりとかですね、自分の、メンバーに対してもしっかりとしめるという役割を障害に担わせたっていうことでもあるんですよね」

 

樋口氏
「そうですね。ちょっとコメント長くなりますけど、ソーシャル的な考えっていうよりはあなたが救われるっていうような話もあったですけど、もしかしたら根本的にはソーシャル的な目的をしていたけど、それを実際に行動させるためにあなたにメリットがありますよって言っている可能性もあるし、だから宗教の根本的な目的と、そこに書かれているメリットの提示みたいなものがまた離れている可能性はあるなとちょっと思ったですね。わかんないですけどね」

 

(※イスラム教の話へ~)

 

 この内容について、上に挙げた3つのポイントについて解説する。

 

 

▼1:ユダヤ教キリスト教を混同している

 今回のCOTEN RADIOの間違いのすべての原因はここにある。ユダヤ教キリスト教の違いが分かっていないのだ。言い換えれば、旧約聖書新約聖書をごちゃまぜにして、同じ「キリスト教聖典」という文脈で語ってしまっているのである。

 例えばこの部分。

楊氏
「まずキリスト教での障害者に対して配慮したり救済するロジックですよね。これがどういうふうに出てきたのかというと、例えばですね、レビ記っていう書物に書いてあるんですが、『耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前で障害物を置いてはならない』というふうに書いてあるんですよね。これも、この裏でどういった考えがあるというと、★なんか『隣人』という考え方があるんですよね。なんか神と人との関係の規範と日常生活における隣人に対する倫理っていうのが働いてて、これは何かっていうと、ともに生きる、★互いに愛し合うというひとつの考え方なんですよ。だからそこに障害者も入ってきたっていう話ですよね。★障害者や社会的弱者を隣人としてともに生きていくという視点が重要視されてたという話ですよね」

 

 ヤンヤンこと楊睿之(ようえいし)さんが引用したレビ記」は旧約聖書の書簡だ。いわゆる「モーセ五書」(創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記)の一巻であり、ユダヤ教で「トーラー」(律法)と呼ばれ、最も重要とされる書物のひとつである。楊さんが引用したのは、レビ記の19章14節で、確かにそう書いてある。引用自体は間違っていない。

 しかし、この「律法」がなぜ存在するのかという背景を話す際に、楊さんは「『隣人』という考え方がある」と説明している。この説明が間違っている。ひとつ、「隣人」とは旧約聖書では「同胞」という意味である。同じユダヤ人を指す言葉であり、文字通りの「隣人」ではない。しかし、これは語釈のマニアックな問題であり、キリスト教神学の世界では常識であっても、一般の方にここまで読み込めというのは多少酷であろう。

 問題は次の「互いに愛し合うというひとつの考え方」という部分だ。

 実は、「互いに愛し合う」という概念は、旧約聖書には出てこない。一度たりとも。だからレビ記の記述の背景に「互いに愛し合う」というのがあったという説明は事実と異なる。「互いに愛し合う」という概念を初めて聖書で出したのは、他ならぬイエスである。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネ福音書 13章34節)

 

 聖書の言葉に書いてあるように、これは「新しい戒め」だったのだ。イエスによるユダヤ教の革命だったのだ。だからインパクトがあったのだ。それまでユダヤ人は「隣人」、つまり「同胞」しか愛さなくてよかった。神に従わない「罪人」や、外国人(異邦人)は無碍に扱ってよかったのだ。しかし、イエスが「互いに」という考え方を導入し、すべてが変わった。これはユダヤ教にとって大革命であり、のちに「キリスト教」が生まれるポイントになった。

 

 また、さらに重要な点を指摘したいが、レビ記の記述を「キリスト教の規範」として紹介するのは大きな間違いである。旧約聖書の律法は「イスラエルの民/ユダヤ人」に与えられた規範であり、キリスト教徒が守るべき教えではない。エスはこの旧約聖書の律法を「更新」し、新しい規範を導入した。その結果、ユダヤ人ではない外国人も神の子となる権利が与えられ、律法を守る行いではなく、ただイエスを信じるだけで救われるようになったのだ。

 つまり、キリスト教徒が旧約聖書の律法を守る必要はないのだ。旧約の律法を守る義務があるのか、ないのか。これがユダヤ教キリスト教を分ける決定的な違いである。旧約と新約の違いの理解がないため、旧約聖書の律法を「キリスト教徒が守るべき教え」として紹介してしまっている。これは本当にまずい。

 キリスト教旧約聖書も信じている。しかし、そこに書かれている「律法」を守る必要はないと考えている。律法を守る「行い」によってではなく、神の「恵み」とイエスを救い主と信じる「信仰」によってのみ救われるからだ。これがカトリックプロテスタントに関わらず、キリスト教徒が「典型的な例」として信じていることだ。私の個人的な見解ではなく、ユニバーサルに「キリスト教」が信じていることだ。

 旧約と新約の違いを理解していないゆえに、楊さんのプレゼンの全体にわたり誤解のオンパレードになってしまっている。ハッキリ言って、旧約と新約の違いは、キリスト教を理解する上での基本中の基本である。正直、そこは抑えておいて欲しかった。

 

 そして、もう一つ重大なミスが、以下の発言に含まれている。

楊氏
「で、一方ではですね。★差別と排除のロジックもキリスト教の中では用意されていますね。汚れた者として重い皮膚病が捉えられてたりとかしてますね。だから、汚れていると捉えているし、不浄であるので健常者の共同体から隔離されてたっていうふうに記述としては残ってます。あとは★身体に障害がある人たちは祭壇での奉仕は許されないんですよね。祭壇に近づいてはいけないと。これは何かっていうと、これは要するに宗教ってとても神聖性を重視するじゃないですか。★この神聖性を守るために聖なる領域が強調される必要があったんです。だから汚れた人たちを排除していくっていうふうなロジックが成り立つんですね。これはまぁイメージしやすいでしょうね」

 

 キリスト教「差別と排除のロジックも用意されている」と聞いて、耳を疑った。まったくの勘違いだ。楊さんが引用した考え方はすべて旧約聖書、つまり「ユダヤ教」のものだ。イエスは「重い皮膚病」(ツァラアト)を汚れではないとした。重い皮膚病の人を共同体から隔離していたのは旧約聖書時代のユダヤ教であり、キリスト教ではない。エスがそれを打破したのだ。それまで社会的に差別されていた障害者や宗教的弱者を解放し、救いの道を示したのがイエスであり、そしてキリスト教である。

 祭壇での奉仕が許されていないというのも、おそらくレビ記21章の「祭司の資格」や、ダビデ王の時代の祭司制度を念頭に話しているのだろうが、これらも旧約聖書時代のユダヤ教のしきたりに関する話であり、キリスト教とはまったく関係ない。キリスト教では、障害者も司祭や牧者になれるし、実際にその例もある。これはカトリックでもプロテスタントでも変わらない「典型的な例」だ。使徒パウロも、障害があった(盲目、または弱視であった)可能性が指摘されている。

 それなのに、キリスト教は神聖性を保つために、障害者を祭壇の奉仕から排除した」と説明するのは、まったく事実と異なる。風評被害もいいところだ。これについては、黙っているわけにはいかない。旧約聖書の記述をそのまま「キリスト教では~」と説明に使うのは、まったくもって間違っている。

 

 付言するが、楊さんは「初期キリスト教は、宗教の基盤を確立するために、違う神を拝んだら障害者になると脅した」という旨の説明をしているが、これも完全な間違いである。

 先祖の間違った行いが障害として表れるという考え方は、確かに旧約聖書に存在するが、それ自体、旧約聖書で否定されている(例:エゼキエル書18章20節)。また、罪を犯した人に罰がくだるという考え方も、旧約聖書ヨブ記を読めば否定できるのは明らかだ。旧約聖書だけでも、因果応報は否定できる。ましてや、新約聖書以降の時代のキリスト教においては、因果応報は明確に、完全にクリアに否定されている。歴史的にみても、神学的にみても、宗教的にみても、楊さんの「宗教を確立するために障害者を利用した」という説明はまったく事実と異なる。謝罪が必要なレベルの、偏見に満ちた説明と言わざるを得ない。

 

 まとめると、楊さんの説明は次の理由から問題がある。

A:レビ記の記述はユダヤ教」の規範であり、キリスト教の規範ではない

B:レビ記の記述の背景説明に、ずっと後の時代にイエスが導入した「互いに愛し合う」という概念を用いて説明してしまっている。時代が合わないし「隣人」の概念も正確でなく、適切な説明とはいえない

C:障害者を排除するロジックとして紹介された例は、すべて旧約聖書ユダヤ教の規範や文化であり、キリスト教のものとして説明するのは適切ではない

D:「神聖性を保つために障害者を排除した」との説明は、旧約聖書の記述でも否定されている一部の考えの切り出しであり、適切ではない

 

 長くなるのでもう挙げないが、ほかにも旧約と新約の違いを理解せずに混同している例が多くあった。楊さんのプレゼンの一番の問題点はそこにある。ユダヤ教の、しかもイエスより前の古代の時代の概念、かつイエスがくつがえした概念を「キリスト教の考え方」として紹介するのは、どう考えても間違いである。

 

 

▼2:「救い」に関する理解が、キリスト教の観点から完全に間違っている

 今回のエピソードを聞いて、僭越ながら申し上げると「おっ、COTEN RADIO、やるじゃん」と思った。聖書を引用しはじめたからだ。これまでは、聖書を直接引用することはほとんどなく、一般書の記述のみでキリスト教を語っていた印象だった。その結果、上に挙げたような間違いや誤解を招く表現が多かった。しかし、今回、レビ記やルカの福音書を引用しているのを聞き、「ようやく聖書そのものにあたってくれたのか」と、嬉しく思った。

 しかし、あと一歩のところで、大きな間違いがあった。以下のルカの福音書の引用部分だ。

楊氏
「あとは、★キリスト教で結構特徴的な挙動として出てくるのは障害者に対する救済っていうのが起きてくるんですよ。キリスト教が浸透するにつれて、★人間は現世における善い行い次第で死後最後の審判の際に天国か地獄がいずれか行くか判定されるっていう考え方が広まっていくんですよ。★その善い行いのひとつとして障害者の救済があったんですね。障害者に対する救済措置がとられていくというのが出てきます。ルカの福音書という書物がですね、これは新約聖書のひとつなんですけれども、★『宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、まぁ障害者ですよね、足なえ、盲人、目の見えない人ですよね、を招くが良い』というふうに書かれています。『そうすれば、正しい人々の復活の際にはあなたは報いられるであろう』といふうにあるんですよね。だからこれは何かっていうとですね、★社会問題を解決を目指してるわけじゃないんです。ソーシャルビジネスじゃない。ソーシャルな目的じゃなくて、★あくまで自分たちが救われるために障害者を救うっていうロジックですよね。★だから信者たちはですね、死後の救いを確保するために、障害者、あるいは貧者、貧しい者への施しと、教会に対して寄進をしたりとかするんですよ

 

 楊さんの説明を簡単にまとめると、

キリスト教に障害者の救済の概念が出てきた

・人間は現世における善い行い次第で死後、天国か地獄か判定される

だから、障害者を救済する

・ルカの福音書にも、「宴会に障害者を招けば報いがある」と書いてある

・だからキリスト教信者は「社会を良くするため」ではなく「自分が救われるため」に障害者を助ける

 

 こういう説明である。この理解は、キリスト教の教義として明らかに間違っている。楊さんは、キリスト教の「救い」の概念についてまったく理解できていないで語っている。キリスト教における救いの「典型的な例」は、以下の聖書の言葉に凝縮されている。

4: しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5: 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(中略)
8: この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9: 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
新約聖書 エペソ人への手紙 2章4-9節)

 

 カトリックであれ、プロテスタントであれ、正教であれ、キリスト教の「典型的な信仰の例」の根幹は「行いではなく、神の恵みと信仰による」という部分である。これを否定するキリスト教はないし、肯定しなければキリスト教ではないと言っていいぐらいの基本中の基本の教義だ。

 つまり、楊さんの「人間は現世における善い行い次第で死後最後の審判の際に天国か地獄がいずれか行くか判定される」「その善い行いのひとつとして障害者の救済があった」とする説明は、完全に、完璧に、弁明の余地なく間違っている。行いによる救いを求めるのはキリスト教の考えではない。これは最も重要な教義のひとつであり、解釈違いとか、説明不足とかいうレベルの問題ではない。教義を180度くつがえすレベルの間違いだ。

 キリスト教が弱者救済のため努力するのは、ひとえに弱者によりそったイエスの姿に心打たれているからであり、罪ある者が赦されたということに感動し、その神の愛の大きさに心打たれているからである。自分が神の愛と恵みを受けたのだから、他の人も助けたいという心である。それを「ソーシャルな目的じゃなくて、あくまで自分たちが救われるために障害者を救うっていうロジック」と説明されると、怒りに手が震える。バカにするなと言いたい。

 エスの活動は、むしろ「ソーシャルワーク」として評価されている面も多く、実際にカトリックプロテスタントの一部では、自己の救済が目的ではなく、重要な信仰体現の活動の一環として社会活動をしている人々や団体も多い。楊さんの説明は、そういった活動をしている世界のすべてのキリスト教信者をバカにするものであり、とうてい容認できるものではない。軽々しく間違ったことを世に広めないでほしい。

 

 今回のCOTEN RADIOのエピソードは、終始、「キリスト教は自己救済とご利益のために障害者を利用している」という観点で語っている。自分が救われるために、障害者を利用して、救済しようとした。このような説明がなされている。これは明らかに宗教やキリスト教を敵視した、偏見に基づく理解であり、聖書の記述やキリスト教の「典型的な例」としても完全に間違っている。キリスト教は「行い」による救済ではなく、神の「恵み」と、イエスを信じる「信仰」を説いている宗教だ。これはキリスト教の基本中の基本中の基本であり、出発点から間違ってしまっている。

 大体、楊さん自身がこう言っているではないか。

楊氏
「★それまでキリスト教の中でも障害は罰であるっていうふうに旧約聖書とかの中でもそういうふうに読める記述とかがあったんですけど、イエスの登場によってそういうものがなくされていくと。そういうのは関係ないよと。★とりあえずイエスを信じればみんなは救われるっていうことを強調してますね

 

 このように、エスへの信仰こそが救いの道だという理解を一旦は示しているのに、その数分後に真逆のことを言ってしまっているのである。どうしちゃったの? 自分で言ったこと忘れちゃったの? と、思わずツッコんでしまった。キリスト教の「救い」について、もう少し勉強してくださいというレベルでさえなく、真逆のことを言ってしまっているので、さすがにこれは一キリスト教徒として黙っているわけにはいかなかった。

 

 

▼3:聖書の文脈を完全に無視して引用しており、結果として間違った結論に導いている

 また、ルカの福音書の引用もひどい。文脈を完全に無視している。楊さんが引用した聖書の箇所は以下と思われる。

<楊さんの聖書引用>
「『宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、まぁ障害者ですよね、足なえ、盲人、目の見えない人ですよね、を招くが良い』そうすれば、正しい人々の復活の際にはあなたは報いられるであろう』といふうにあるんですよね」

 

<楊さんが引用したと思われる実際の聖書の記述>
12: イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。
13: 食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。
14: その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです」
新約聖書 ルカの福音書 14章 12-14節)

 

 これも、引用した内容は間違っていない。部分的に見れば、楊さんの説明も正しいように思える。しかし、前後の文脈を見ると趣旨が間違っていることに気がつく。

 ルカの福音書14章7節~24節は、主に3つのエピソードを描いている。いずれも、「宴会」をモチーフとしたエピソードである。福音書は詳細な時系列ではなく、テーマ別に構成されることが多いので、おそらくルカの福音書の筆者はこの「宴会」をテーマに3つのエピソードを並べたのだろう。では、3つのエピソードの趣旨を見てみよう。

<ルカの福音書 14章7〜24節で提示される3つのエピソードまとめ>
パート1(7節~11節):宴会で上座を選ぶユダヤ教宗教指導者たちへの批判
パート2(12~14節):宴会に招かれた人に、本当に招くべきは貧しい者であるとの勧め
パート3(15~24節):盛大な宴会に招かれた人々のたとえ話(神の呼びかけに答えないユダヤ人と、答える罪人や外国人どちがら神の国にふさわしいか説く)

 

 このようになる。この3つのエピソードを通じて、イエスやルカの福音書の筆者が伝えたいことは何なのか。パート1で、社会的地位があったユダヤ教宗教指導者パリサイ派の高慢さを批判し、パート2で本来招くべきは地位がある者ではなく、社会的弱者を招くべきであると教え、パート3では地位がある人が選ばれるのではなく、招きに応じる者が宴会に参加できるというたとえ話を通して、当時のユダヤ教選民思想を否定する。

 この流れを見ると、エスはここで「地位が高い者(ユダヤ人、宗教指導者)を神が選ぶわけではなく、むしろ神の呼びかけに応じる社会的弱者(宗教的咎人、障害者、外国人など)が選ばれる」という神の逆説的な真理を説いているのである。

 楊さんの説明だと、エスは「現世利益はないかもしれないけど、来世利益があるから、障害者に優しくしよう」と言ったということになる。しかし、それは全体の文脈を見ると正しくない。これは全体的に「神の国」に選ばれる者について話しているのであり、復活後(来世)でご利益があるというのがポイントではない。むしろ、樋口さんのリアクションの方が流れを正しく掴んでいる。

樋口氏
「ということですよね。だからなんか、宗教が障害を決めたっていう捉え方もできるけど、そもそもあったものをフォローするために明文化したっていう捉え方もできて、なんか鶏と卵じゃないですけど、どっちが先なのかわからないなっていう印象は今受けましたね」
「そうですね。ちょっとコメント長くなりますけど、ソーシャル的な考えっていうよりはあなたが救われるっていうような話もあったですけど、もしかしたら根本的にはソーシャル的な目的をしていたけど、それを実際に行動させるためにあなたにメリットがありますよって言っている可能性もあるし、だから宗教の根本的な目的と、そこに書かれているメリットの提示みたいなものがまた離れている可能性はあるなとちょっと思ったですね。わかんないですけどね」

 

 樋口さんの「根本的にはソーシャル的な目的をしていたけど、それを実際に行動させるためにあなたにメリットがありますよ」という説明が、この「パート2」を理解するうえでは、より適切である。

 このポイント3は、ポイント1(旧約、新約を混同)、ポイント2(救いの概念の間違い)に比べると、ややテクニカルだが、エスが「個人の来世利益のために、社会的弱者を宴会に招け」と教えたとするのは、やはり文脈を無視した無理解と言わざるを得ない。エスは「神が選ぶのは、強い者ではなく、弱い者なのだ」ということをたびたび言っており(例:マタイの福音書9章12節など)、その多くは宗教的(=社会的)強者と宗教的(=社会的)弱者の対比で言及しているのである。それを「個人のご利益のために」と説明するのは、いささか言いすぎと言わざるを得ない。

 

 

▼まとめ:宗教を語る時にこそ「メタ認知」が必要なのでは?

 以上、まとめると、今回のCOTEN RADIO「みんなちがってみんないい! 宗教ロジックが障害者にもたらす多種多様な専門職【COTEN RADIO #298 】」には、キリスト教の観点から教義を180度ひっくり返すような重大な間違いが多く含まれていた。

 ひとつ。ユダヤ教の規範である旧約聖書の記述を、あたかもキリスト教の教義のように説明していた点。キリスト教では、旧約聖書の律法を守る必要はない。この基本的な理解が欠けている。

 ふたつ。「救い」の概念を理解していない点。キリスト教はあくまでも個人の救いのために弱者救済をしていたのであり、社会的な目的ではない」との説明は間違っている。キリスト教において「救い」は神の「恵み」とイエスへの「信仰」によるものであり、「行い」によるものではない。個人の救いのためという説明は間違いである。また、イエスは社会的弱者を救済する活動をしたと評価されており、多くのキリスト教徒が彼の姿にならい、社会活動を行っている。

 みっつ。聖書の引用の際に文脈を無視している点。一部分を抜き出すのではなく、前後の文脈を理解することが必要である。イエスの発言をよく読めば、ルカの福音書14章の記述は「個人の来世利益のために弱者を宴会に招くべき」という意味ではないことは、簡単にわかる。

 

 私が今回のCOTEN RADIOを聞いて感じたのは、彼らの宗教への嫌悪感である。宗教は人を縛るものである。宗教は、昔の時代に社会的ニーズがあったから生まれただけの、今の時代から見れば古くて、悪いものである。宗教は多くの人への差別を生み、不幸にしてきたものである。このような「前提」を、彼らの言葉やアプローチから感じる。

 そして、その「前提」こそが、ポストモダニズム以降の時代に生きる私たちの思考のベースになっているのではないか。宗教を否定的に捉え「昔は社会的に宗教にニーズがあって、しょうがなかったけど、今人類は理性を得たから、宗教から脱却できるよね」と考える。そして、それが「進んでいる」と捉える。そんな思考がないだろうか。「歴史思考」とか「メタ認知」と言いながら、自分たちもこの歴史の渦の中で、宗教を偏った目で見て、理解していないだろうか。しかも、無意識に。

 ちょっと国を変えて、イスラム圏などに行けば、宗教や信仰があるのは当たり前。神がいるのも当たり前。宗教や神は人を不幸にするものではなく、幸せにするものである。宗教が不幸を生んだというロジックは、一部の国と時代の偏った考え方にすぎないのに、あたかもそれが普遍的で中立で理性的な視点かのように語っている。違和感を覚える。

 もちろん、パーソナリティの方々は「中立に」とか「宗教を否定したいわけじゃなくて事実を話してる」とか「本に書いてあることを話してる」と説明する。そう思っているのだから、当たり前だと思う。しかし、その読んでいる本の著者の意図はどうだろうか? 歴史の流れの中で、ポストモダニズム以降の「先進国的」考え方に影響された人の著作ではないのか? それを鵜呑みにしていないか? キリスト教の理解として間違っていないのか、確認したのか?「宗教なんだから、障害者を利用したに決まっている」と決めつけていたのではないのか?

 

 宗教は人を縛るもの。この考え方も、時代の影響下で生み出された考え方にすぎない。

 

 自分たちが宗教をどう見ているか。そのメタ認知が、まず必要なのではないか。そう提言して、終わりたい。これからのCOTEN RADIOのコンテンツを、楽しみにしている。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。