週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】神の「コーリング」を絶対待たなければいけないのか?

クリスチャンはよく「神のみこころ」とか「コーリング」という言葉によって自分の人生を決めようとします。それらは、絶対に待たなければいけないものなのでしょうか?

 

 

▼神の「コーリング」とは?

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 クリスチャン用語にコーリング」というものがある。「コーリング」とは、英語の「Calling」から来ていて、直訳すれば「(神の)呼びかけ」という意味である。日本語で最も分かりやすい表現をすれば「神のお告げ」とでも言うのが適切かと思う。

 クリスチャンは神の計画通りに生きたいと願う。それゆえ、「神の計画」(みこころ)を知りたいと願う。だから、適切な時に「神からの呼びかけ」があれば、それに従いたいというのが、クリスチャンの性なのだ。「神の計画」、いわゆる「みこころ」を知るための何らかのキッカケなどを「コーリング」と呼ぶのである。

 この「呼びかけ」は、何についての呼びかけなのか。内容については様々な考え方がある。

<“コーリング”で示されるもの>

◆神から示される「将来の目標」

◆神から示される「仕事や役割」

◆神から示される「時期」

◆神から示される「路線変更」

 

・・・などなど

 

 クリスチャンはよく、「将来やるべきこと」や「特殊な役割・ミッション」について神から示された、という時にコーリングを受けた」などと説明する。「神に牧師になるよう示された」とか「神に宣教師としてアフリカに行くように示された」などというのは、よく聞く話だ。人によっては、牧師や宣教師になるときには「コーリング」が必ず必要だとする意見もある(※私はそうは思わないが。後述)。また、今やっている仕事や事業、ミニストリーなどの「変化の時期」についても「コーリングがあった」などと説明する人もいる。

 一番気になるのは、この「コーリング」は一体どういう形で分かるのか、という問題だろう。摩訶不思議だが、「耳で声が聞こえた」という人もいる。またある人は「夢で幻を見た」という人もいる。そういう場合は、たいていただの夢ではなく、やけにハッキリしていたり、同じ夢を何度も連続で見たり、異なる場所にいる複数の人が同時に全く同じ夢を見たりする。他にも、聖書の言葉からピンと来たとか、周りの人にアドバイスを受けた体験を、「神からのコーリング」として捉えるケースもある。様々な形で、クリスチャンたちは「神のコーリング」を受け取るのである。これについては、次回の記事で詳しく書きたいと思う。

 クリスチャンたちは、時にこの「コーリング」を「待ちすぎる」傾向がある。「まだ神のコーリングを受け取っていないから」と言って、人生において足踏みしてしまっているケースをよく見る。ここでひとつの疑問が出てくる。クリスチャンならば、必ず神のコーリングがあるのだろうか? それはどんな形で聞こえるのだろうか。そして、必ずそのコーリング通りに生きなければいけないのだろうか。ひとつひとつ見ていこう。

 

 

▼全員が「神の声」を耳で聞けるわけではない

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 まず端的に私の意見を述べたい。「誰しもが神の声を、耳で聞けるわけではない」というのが、私の意見である。誤解を恐れずに言えば、神の声が耳(の鼓膜の振動)で聞こえたとか、幻が見えたとか、奇跡を体験するなんていうのは、むちゃくちゃ激レアさんなケースだと思う。ほとんどの場合は、神の声は耳では聞こえないし、幻なんて見えないし、死んだ人が生き返るレベルの奇跡を目の前で体験することなどない。そんな超奇跡的な「コーリング」を期待していたら、もしかすると間違いかもしれない。

 誰もが神からの劇的なコーリングの体験をする・・・そんな勘違いは、皮肉にも聖書の様々なエピソードが原因だろう。聖書の登場人物は、あらゆる形で劇的な「コーリング」を体験する。聖書の中から、いくつか例を挙げてみよう。

アブラハム(神の声を聞く)

→神から「生まれ故郷を出て、私が示す土地へ行け」というお告げを受ける

(創世記12章参照)

モーセ(“燃える柴”の不思議な奇跡を体験、神の声を聞く)

→燃えているのに燃え尽きない不思議な柴を見つけ、それに近づいたところ、神の声がした。神の声で「わたしがあなたを遣わす」と約束された

出エジプト記3章参照)

◆サムエル(神の声を聞く)

→「サムエル、サムエル」という神の声を3度聞いた。預言者エリの助言により、「ここにおります」と答えると、神の声でお告げを受けた

(サムエル記第一3章参照)

◆ギデオン(天使のお告げを受け、神の奇跡を体験する)

→神の御使い(天使)が突然現れて、「神があなたを遣わす」というお告げを受ける。その証拠として、ギデオンが献げた肉とパンは一瞬で燃え尽きてしまった。しかし、まだ信じられないギデオンは「羊の毛皮」の奇跡を証拠として要求する。そして神はギデオンが望んだ通りの奇跡を二度に渡って見せたのであった

士師記6章参照)

◆ダニエル(幻を見る、聖書の記述から悟る)

→ダニエルはこの世のものとは思えない幻を見た。それは終末についてのお告げだと考えられている。また、ダニエルは預言書の記述から、イスラエルが捕囚状態から解放される未来を悟った

(ダニエル書参照)

パウロ<サウロ>(イエスの姿を見る、声を聞く、奇跡を体験する)

→イエスの信者を迫害していたパウロは、道中に突然、光に包まれたイエスの姿を見る。イエスは死んだはずであった。そして「サウロ(パウロの元の名前)、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞く。その後、一時的に目が見えなくなるが、「目からウロコが落ちる」体験をして、目が見えるようになるという奇跡を体験する。神はパウロを「わたしの選びの器」であり「どれほど苦しまなければならないか示すつもりだ」と宣言する

使徒の働き9章)

 

 ・・・いかがだろうか。聖書の登場人物たちは、実に様々な形で「神のお告げ」、「コーリング」を受け取っている。詳細は省くが、サムエルやサムソン、イエスのように、本人ではなく、親にコーリングが与えられるケースもある。

 このような記述を見ると、ついつい自分も神の声が聞こえたり、幻が見えたり、ありえない奇跡を体験するのではないか・・・と期待してしまう。ある意味で、自然な成り行きだろう。聖書の記述が、クリスチャンたちに「自分にも奇跡的なコーリングがあるのでは・・・」と勘違いさせてしまっているのである。

 しかし、そういった、あえて言えば「過剰なコーリング待ちの状態」が、クリスチャンの中で横行していないだろうか。起こるはずのない「コーリング」を待ち続ける行為は、裏を返せば「何もせず口をあけて待っている」だけの行為に等しい。コーリング」にこだわりすぎる姿勢が、クリスチャンの人生選択を、がんじがらめにしてしまっているのである。

 大胆に私個人の意見を言えば、聖書にあるような、とてつもない奇跡を伴うコーリングは、特別な使命を持った人々だけに与えられるものではないかと思う。アブラハムイスラエルの民全体の父祖である。モーセは民全体のリーダーであり、神と顔と顔を合わせて語り合うことのできた唯一の預言者である。サムエルは親の代から神に預言され、聖別された預言者である。ギデオンは他民族から迫害されていたイスラエルの民を救い出した勇士だった。ダニエルはバビロンの高官であり、イスラエルの民の中で政治的に最も力を持つ人物であった。パウロは神によって特別に選ばれた使徒だった。

 そんな特別な役割があった彼らと、現代の私たち1人ひとりを比較した時、果たして全く同じだと言えるだろうか。私たちはイスラエルの民のリーダーだろうか。預言者だろうか。勇士だろうか。国の高官だろうか。そして、使徒時代の迫害を生き抜き、新約聖書に多くの手紙を残すような「使徒」だろうか。もしかすると、当てはまる人はいるかもしれない。しかし、私たちの多くはそれらに当てはまらない。いわば「モブキャラ」なのだ!

 もしかすると、そのような聖書のリーダーたちと、現代に生きる私たちが、同じような「コーリング」を受けると「期待しすぎる」のは、間違いかもしれない。誤解なきようお願いしたいが、私は個人的に聖書にあるような「神の声」が聞きたいと願っている。幻が見えたり、夢でお告げを受けたり、奇跡を体験したりできたらいいなと期待している。むしろ、積極的にそれらを認めるし、そういう体験談を聞いたら素直にすごいと思う。それに、現代でもそのような奇跡は起きると信じている。

 ただ、同時に「過剰な期待」は、クリスチャンの人生選択をゆがめ、狭め、不自由にするのではないかと危惧している。聖書にあるようなとんでもない奇跡を待つあまり、人生の選択が滞っていないだろうか。次のステップに踏み出す勇気を、くじいてはいないだろうか。聖書にあるような大きな奇跡を伴う「コーリング」は、それと同じように大きな使命を背負う人に示されるべきものなのかもしれない。私は奇跡的なコーリングを否定しない。しかし、それにこだわりすぎるのは危険だと思っている。

 

 

▼牧師や宣教師になるには「コーリング」が必要?

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 クリスチャン界で流布している嘘の中に、「牧師や宣教師には、特別なコーリングを受けないとなってはいけない」というものがある。完全な間違いである。私は、このごまかしを本気で信じ、「自分にそのコーリングがいつあるのか」、今か今かと待っていた時期もあった。しかし、成長するにつれ、こんな疑問が浮かんできたのである。「あれ、『牧師や宣教師になるために、特別なコーリングが絶対に必要だ』って、聖書のどこに書いてあるんだろう・・・?」そして今ハッキリ言えるが、そんな記述はどこにもなかったのだ。ただの欺瞞だったのである。

 さて、聖書はどのように書いているのだろうか。少しだけ見てみよう。まず、いわゆる「牧師」についての唯一の記述を見てみよう。

しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。

(中略)

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

(中略)

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4章7~16節)

 

 ここから分かるのは、以下である。

1:信者は一人ひとり、それぞれの賜物(わかりやすく言えば、才能)が与えられている

2:キリストご自身が、その賜物に従い、それぞれ別の役割に人を任命している

3:それは信者たちを整え、教会(キリストのからだ)をひとつとするためである

4:キリストにあって一人ひとりが役割を全うすることにより、教会の共同体は成長する 

 

 これだけを見ると、「それぞれの役割に任命されている」のだから、特別な「コーリング」が必要にも感じるだろう。しかし、「どんな役割がどうやって分かるのか」については書いていない。では、他の聖書の部分を見てみよう。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

(エペソ人への手紙 1章4~5節) 

 

 いかがだろうか。神の特別なコーリングとは、実は牧師や宣教師になるためのものではなく、「イエス・キリストによって神の子となる」ためのものなのである。信者は、既に「イエスを信じること」に「呼ばれている」のである。これこそが、神のコーリングである。牧師とか宣教師になるとか以前に、エスを信じるということそのものが、神からの特別なコーリングなのだ。

 コーリングを受け、神の子となり、イエスの弟子となった者たちは、イエスによってこのように命じられた。

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイの福音書 28章18~20節)

 

 あらゆる国の人々を弟子とせよ。命じたすべてのことを守るよう教えよ。これがイエスの命令であった。これは、当時の弟子たちだけに語られた言葉だろうか。私は、イエスの弟子の弟子の弟子の弟子の・・・弟子である私たちにも、同じように語られた言葉だと信じたい。

 まとめると、私の意見では神の特別なコーリングは必ずある。しかし、それは「聖霊を受け、イエスを信じ、神の子となる」ための特別なコーリングだと思う。牧師や宣教師になるといった個別具体的なものではない。強いて言うならば、クリスチャンはみな「王である祭司」として選ばれている。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

(ペテロの手紙第一 2章9節)

 

 教会の共同体の中では、それぞれに見合った役割がある。それははじめからイエス自身が、私たちに定めている役割である。ある人は牧者または教育者としての役割がある。ある人は預言者として。ある人は伝道者として。ある人は使徒として。それぞれが、「違う役割」であって、優劣はない。ただ、役割が違うのである。どの役割を担うかについて、特別なコーリングが必要だと聖書は書いていない。ただ、「キリストの賜物の量りにしたがって」とある。

 私は、それぞれが持っている「志」や「情熱」、「的確な才能」や「経験」がコーリングの一部に値するのではないかと思っている。それが恵みによって与えられた「キリストの賜物」であると思う。聖書が「神の特別なコーリングがないと牧師になってはいけない」などと言っていない以上、「必ずコーリングが必要だ」と断言するのは根拠に乏しい。牧師になりたいと思ったらそのために努力すればいいし、宣教師になりたいと思ったら、そのために動けば良いと思う。誰しもが、かならず明確に神の声を耳の鼓膜で聞こえるわけではないのだから。

 

 

▼誰でも「コーリング」を受け取れる

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 ここまで強調した上で、私の意見を述べよう。どんな人でも、神のコーリングは受け取れる。それが私の意見である。矛盾するように感じるかもしれない。しかし、これが私の本音である。ただ、それは聖書にあるような「神の声が聞こえる」といった形ではないかもしれない。「もっと小さな何か」によって示される可能性もある。

 クリスチャンは、イエスを信じた時点で、「神の子」として呼ばれている。既に特別なコーリングを受け取っているのである。クリスチャンは、誰しもが王である「祭司」として、イエスのことを伝える使命がある。そして、イエスの命令を教える役目がある。これが「コーリング」である。

 牧師や宣教師などというのは、その大きな使命の中の「小さなひとつの役割」に過ぎない。それについて、必ずしも明確なコーリングが必要だとは、聖書は書いていない。しかし、それぞれに役割があり、適切な才能が与えられ、それぞれの役割を果たすことによって、教会の共同体はキリストのうちにひとつとなり、成長していくとは書いてある。

 もし、あなたが神に祈り、「これをやりたい!」という情熱が湧いてきたら、その情熱こそが神からの「コーリング」かもしれない。あなたが持っている才能がその役割に適切ならば、それこそが「コーリング」の可能性がある。あなたが読んだ聖書の言葉から、強い思いが湧き上がってきたらならば、それこそが「コーリング」と言えるかもしれない。周りの人たちの助言が、神からの「コーリング」かもしれない。

 しかし、ただのカンチガイの可能性もある。そのため、「コーリングかも?」と思ったら、少し立ち止まって吟味することをオススメしたい。では、どうやったら「コーリング」が本物かどうか、ハッキリ分かるようになるのだろうか。その「見分け方」については、次回の記事で5つのポイントにまとめたいと思う。今回の記事は、ここで閉じる。

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【お知らせ】しばらく休載します

※追記:次回更新は2020年1月22日の予定です

 

こんにちは。

ブログ主のコバヤシタクマです。

 

当ブログは2年間、毎週水曜日に更新し続けてきましたが、

ここで初の「休載」としたいと思います。

 

理由は前回の記事でも書いたように、来月に結婚式を控えているためです。

今まで騙し騙しやってきましたが、正直、仕事をやりながら、結婚式の準備をしつつ、ブログを毎週更新するのはさすがに限界でした。

結婚式が終わるまで、しばらく休載させていただきたく思います。

 

次回更新は、2020年1月15日を予定しています。

次回更新は、2020年1月22日にします。スミマセン。

 

記事を楽しみにしてくださっている方がいらっしゃるのであれば、大変申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

 

(以上)

【疑問】いわゆる「独身の賜物」は存在するのか?!

クリスチャン業界には摩訶不思議な「独身の賜物」という言葉が存在します。一体どういう意味なのでしょうか?

 

 

▼「独身の賜物」とは?

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 先週、「ネタ切れ」と書いたところ、早速アイディアをいただいた。「独身の賜物」について書いてくれとの要望だった。クリスチャン業界になじみのない方は、おそらく初めて聞いた言葉だろうが、クリスチャンの間では「独身の賜物」という摩訶不思議な言葉がある。どういう意味なのだろう。これは、イエス使徒パウロが言った言葉に由来する。まずは、それぞれを見てみよう。

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」

(マタイの福音書 19章3~12節)

 

 これはイエスの言葉である。イエスは「母の胎から独身者として生まれた人たちがいる」と言った。また、「人から独身者にさせられた人たち」もいるし、「天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいる」とした。

 使徒パウロはこの言葉を受けて、このように勧めている。

私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

(コリント人への手紙第一 7章7節)

 

 パウロは、「すべての人が私のように独身であることを願う」「しかし、一人ひとりが賜物(神から受けた才能)があるので、人それぞれの生き方」があるとした。これについては、パウロがどのような主張をしている中での発言なのか、文脈を見るのが非常に重要だが、詳しくは後述する。

 以上のイエスパウロの言葉を由来として、クリスチャンの世界には「独身の賜物」という言葉が存在する。例えば、教会で適齢期を過ぎても結婚しない人がいると「『独身の賜物』があるかもしれないね」とか言うわけである。または、適齢期が来ても結婚できないと、「私には『独身の賜物』が与えられているのかもしれない」などと考えたりする。このように、「独身の賜物」という言葉の裏には、「はじめから独身と定められた運命にいる人」といったニュアンスが含まれている。

 しかし、一度立ち止まって考えてみたい。クリスチャン業界で言うような、いわゆる「独身の賜物」というものは、本当に存在するのだろうか。今回は、イエスパウロの言葉の真意は何だったのか。そもそも神が結婚を創造したのではないか。聖書の言葉の適切な適用はどんなものか、考えてみたい。

 

 これから先を読む前に注意してほしいが、この記事は「結婚」という、人によってはとてもデリケートなテーマを扱う。この記事を読んで「傷つく」人も、もしかするといるかもしれない。私は私なりに「配慮」して記事を書くが、配慮しすぎて適切な記事が書けないのも問題であるから、率直に書いている部分もある。なので、ここから先を読む場合は、そういった「率直」な内容がある点をふまえて読んでいただきたい。

 また、この記事を読んで、事実関係に間違いがあればご指摘はつつしんで受けるが、読んで上で「傷つきました!」「誰かが(誰だよ)傷つく可能性があります!」という批判は批判にすらなっていないのでお断りしたい。これは「様々ある中のひとつの意見」だという当たり前の事実が分かる方だけ、これから先を読むことをオススメする。たとえ心が痛くても、事実や真実には目を向けるべきだと、私は思う。

 

 

▼イエスの真意は何か

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 さて、エスの言葉の真意は何だったのか。一にも二にも、聖書は旧約聖書の前提と、文脈を見た上で理解する姿勢が大切である。まずはもう少し広げてイエスの言葉を見てみよう。

パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか

エスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。

あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです

しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」

(マタイの福音書 19章3~12節) 

 

 これは、パリサイ派とイエスの「離婚・再婚」議論の中で出た言葉である。パリサイ派は「離婚は律法にかなっているか」とイエスに質問した。これはイエスのあげ足をとるためであった。パリサイ派の理解では、離婚は「合法」であった。それは聖書の申命記の言葉に由来する。

人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

申命記 24章1~4節)

 

 これは、一義的には「離縁した妻が既に他の男と再婚し、その後離婚している場合であっても再び再婚はできない」という規定である。直接的に離婚を認めた記述ではない。聖書の「結婚」の価値観は「ふたりがひとつの存在となる」というものであるので、離婚した後に他の男に嫁いだ女は、他の男とひとつとなっているので、取り戻せない。それは不倫と同じである。それがモーセの言葉の意味であった。

 しかし、パリサイ派は「この記述は離婚が前提となっている。だからモーセは離婚を許容したのだ」と解釈していた。無茶苦茶な気がするが、これが当時の価値観であった。しかし、この無茶苦茶な論法に疑問の声が上がるのは当然なので、おそらくパリサイ派の間でも議論の分かれるポイントであったのだろう。だからこそ、意見の分かれる難しい議論をイエスにふっかけたのである。

 当然イエスは、神の創造の本来の意味を語り、ハッキリと離婚した後に再婚する者は不倫と同じであると断言した。離婚・再婚については以前、詳しく記事を書いたので参照いただきたい。

 

 当時の価値観としてもっと驚くべきは、その議論の後の弟子たちの反応である。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しない方がマシ」。これが弟子たちの言葉だった。

 当時の価値観では、女性はいわば「男性の所有物」であった。律法の解釈では「離婚はOK」だった上に、どうやら正式に離婚を決められるのは男性だけだったようである。当時の男性にとって妻は所有物でしかなく、気に入らなくなったら簡単に「ポイ捨て」できてしまっていたのである。例えば、料理が下手だとか、裁縫で失敗したとか、容姿が気に入らなくなったとか、そんな理由であっても簡単に離縁、そして再婚できてしまっていたのである。現代で言えば、コロコロ彼女を変える男みたいなものである。

 そんな彼らからすれば、「再婚は不倫と同じ」と断言したイエスの言葉は衝撃だっただろう。だからこそ、「それなら結婚しない方がマシ」とイエスに訴えたのであった。

 

 前置きが長くなったが、この弟子たちの言葉を受けて、イエス「独身者」について語り始める。この際、「独身者」という言葉が何を指すのか調べる必要がある。ギリシャ語を見てみよう。

<聖書のギリシャ語>

「独身者」= ユノーコス

 

 「独身者」という翻訳は、実は正確ではない。この部分のギリシャ語は「ユノーコス」で、直訳すれば「去勢された者」という意味になる。「ユノーコス」は本来「寝床を守る者」という意味であり、転じて「去勢された者=宦官(かんがん)」という意味になった。

 宦官とは、宮廷で仕える召使いのことで、王妃を襲ったりしないように去勢されていた。家畜を去勢するのと同じで、人間を去勢して召使いにしていたのである。現代では許されないような残虐な制度だと、私は思う。不思議なことに、思春期以前に去勢すると男性は性欲を失う(らしい)。

 多くは、戦争によって捕虜となった奴隷だったり、犯罪者が罰として去勢されて奴隷となったりしたケースだったと想像される。ユダヤ人たちは「去勢された者」は汚れた者とみなし、集会には加えなかった。このような記述がある。

睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない。

申命記 23章1節)

 

 そんな「去勢された者=宦官」という言葉を用いて、イエスは弟子たちに話しているのである。「独身者」と「去勢された者」は明らかにニュアンスが違う。「独身者」という翻訳は、「去勢された者」よりも広い意味になってしまう。もちろん宦官はもれなく独身だったわけだが、独身者がみな去勢された者ではない。まるで、「すべての日本人は人間である」から「日本人」という言葉を「人間」と読み替えているようなものである。

 よく考えてほしい。「去勢された者」に通常女性は含まれないが、「独身者」には女性は含まれてしまう。意味が変わってしまっているのである(卵巣除去は一応去勢ではあるが、通常は男性の陰茎を切り取る行為を「去勢」と呼ぶため)「すべての日本人は人間である」という文章は成立するが、「すべての人間は日本人である」という言葉は成立しない。あくまで「独身者」という大きな枠の中に、「去勢された者」が入っているだけである。大きな範囲を指す言葉と、その中の小さな範囲を指す言葉はイコールではない。

 だから「ユノーコス」を「独身者」と訳す翻訳は、明らかな間違いだと、私は考える。ちなみに英語はもれなく「ユニック」(Eunichs、男性名詞。もちろんユノーコスが由来)という「去勢された者、宦官」という言葉になっている。日本語の聖書の翻訳は、おかしくなってしまっているのである。

 「ユノーコス」の意味、そして文脈を見れば、イエスの言葉はこのように捉えられるのではないだろうか(※基本的に、結婚関係以外の性交渉は罪という前提に立っている)

<イエスの言葉の個人的解釈>

「再婚が不倫と同じなら、結婚しない方がマシ? はっ(笑)言ったね? でも、それは、『言うは易く行うは難し』だよ。ハッキリ言うけど、結婚しないで独身のままでいられる人は少ないんだ。神が独身のままでいられるようにした人だけが、独身でいられるんだ。生まれつき去勢された人は独身でいても性欲は抑えられるかもしれない。不運な事故でイチモツを失ったり、犯罪者として去勢されたり、戦争で捕虜になって去勢された人も、独身のままでも性欲は爆発しないかもしれない。そして、神に仕えるために自発的に去勢する人もいるかもしれない(いるのか?! イエスの皮肉か?)。君たちが、性欲を抑えて一生独身でいられるなら、そうしてごらんなさいよ!(というイエスの皮肉?)。でもね、それは誰にでもできるわけじゃない。独身のままでいるのは、難しいことなんだよ。だから神が造った結婚という関係を大切にしなさい。女性は所有物じゃない。大切なパートナーなんだよ」

 

 私には、イエスの言葉はこう聞こえる。イエスは、女性を所有物のように扱い、気に入らなくなったら「ポイ捨て」していたユダヤ人たちに、「違うでしょ。神は男女がひとつになるために結婚を創造したんだよ」と教えたのではないか。「結婚しない方がマシ」と虚勢をはる弟子たちに、「何が結婚しない方がマシだよ。バカか。お前たちは性欲抑えられるのか。虚勢はやめなさい。だったら神のために去勢してみろ」と一括したのではないか。

 だから、イエスの言葉をもって「生まれつき独身でいる運命の人もいる。それが『独身の賜物』だ。適齢期なのに結婚できないのは、『独身の賜物』があるからだ」などと言うのは、明らかな間違いであると、私は思う。

 

 

パウロの真意は何か

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 では、パウロの真意は何だったのか、見てみよう。パウロの言葉を再掲する。

私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

(コリント人への手紙第一 7章7節)

 

 これもまた、文脈を見る必要がある。やや長いが、もっと広い範囲を見てみよう。

さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。

(中略)

未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。

(コリント人への手紙第一 7章1~28節)

あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。

ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分の思いを制して、婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。

(コリント人への手紙第一 7章32~40節)

 

 パウロは大胆にも「夫も妻も自分のからだについて権利は持っていないのだから、お互いに義務を果たせ」「相手を拒んではならない」と言っている。つまり、「セックスレスはよろしくない」と勧めているのである。男も女もそれぞれ結婚し、セックスしなさい。それがパウロの「譲歩」としての意見であった。

 では、「譲歩」ではない「理想」は何だったのか。それが、先の「すべての人が私のように独身であること」であった。しかし、その後すぐに「しかし、人それぞれの生き方がある」と補足している。これはあくまでも「パウロの理想論」であり、「結婚するな」という神の命令ではないと、パウロはわざわざ何度も強調している。例えば再婚については「命じるのは私ではなく主(神)です」と強調した後で、未婚の人たちの処遇については「主の命令を受けてはいないが、(個人的な)意見を述べる」とわざわざ区別している。

 パウロは、むしろ「自制できないなら結婚しなさい」「情欲に燃えるより、結婚するほうがよい」と勧めている。性欲を抑えられずに、独身でいながらオナニー漬けになるよりも、結婚してセックスした方がいいとパウロは言っているのである(そこまでは言っていないか笑)。

 ここで、先のイエスの言葉を思い出す。「性欲を抑えられる奴なんて基本的にはいない」というのが私の意見である。「俺はそんなことない」なんて虚勢をはるのはよそう。チンチンを切ってしまったら、そりゃ性欲はなくなるかもしれない。現代の日本に宦官はいないが、例えば性的なトラウマを抱えていて、性行為自体を望まない人もいるかもしれない。けれども、それはごく一部の特殊なケースであって、ほとんどの人がセックスしたいし、そうやって人類は増え広がってきた。それが神の創造のデザインなのである。性欲を抑えるなんて、基本的には不可能なのである。もっと人間、謙虚になった方がいい。

 

 では、なぜパウロは「独身でいるように」と勧めたのだろうか。2つのポイントがある。

 ひとつ目のポイントは、「差し迫っている危機のゆえ」という言葉である。当時、イエスを信じる人々は、激しい迫害の下にあった。中には捕らえられ、むち打たれ、死刑になる者たちもいた。そのような激しい迫害の中にあって、結婚して守る家族ができるよりも、独身でいた方が「身軽」である。

 また、パウロは、いわゆる「世の終わり」が人間的な尺度でもっと早く来るだろうと予測していたように見受けられる。イエスも預言しているように、いわゆる「世の終わり」には激しい苦難がある。信者がその「患難」を体験するかしないかは諸説あるが、深入りは避ける。とどのつまり、そのような苦しい時代を結婚して通るよりも、独身の方が簡単だと、パウロは言いたいのである。

 しかし、繰り返すがこれはパウロの「オススメ」であって、命令ではない。だからパウロも何度も「結婚は罪ではない」「結婚は良いことだ」と何度も強調しているのである。

 

 2つ目のポイントは、独身の方が「主(神)に仕えやすい」からである。もちろんパウロが言うように、「結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるか心を配るが、未婚の女は主のことに心を配る」(男女で比較されているのが興味深い)という側面がある。パウロは、既婚者と未婚者を対比し、未婚者の方が主に奉仕できると言っている。主にひたすら仕えるために、未婚の者は未婚のままでいた方が良いと、パウロは主張しているのである。

 しかし、大先輩パウロに意見するのも恐縮だが、これは100%その限りではないと、私は思う。人によっては、結婚してパートナーとチームになった方が主に奉仕できるケースは、いくらでもある。もちろん「身軽」ではなくなるだろう。しかし、夫婦が「ひとつ」となり、良いチームとして神のための働きをするのは可能である。そして、チームになった方がより神に仕えられる人は、実は大勢いると、私は考える。もちろん大先輩パウロもそれは分かっていて、だからこそ結婚は良いものだと何度も強調しているのだと思う。

 これは私の個人的観測に過ぎないが、パウロ自身、こんなことを言っておいて、人一倍結婚にこだわりがあったようだ。もしかすると、パウロは一度結婚した経験があるのではないか。パウロは、「サンヘドリン」という地方評議会のメンバーであったとされているが、歴史的にはサンヘドリンのメンバーになるには、既婚者の男性という条件があったので、パウロは少なくとも一度は結婚していたのではないかと考えられる。

 個人的にはそれ以上に、パウロによるセックスレスの記述などがあまりにも生々しいので、とてもパウロが「童貞」だとは思えない。また、「ケパ(ペテロ)のように妻を連れて歩く権利がないのか!」という感情的な記述(コリント人への手紙9章5節)からも、パウロの結婚に対する渇望、しかし現実にならない葛藤が見て取れる。

 先に引用したコリント人への手紙7章40節を見ても、パウロは配偶者と死別した者の再婚について論じる流れで、「主にある(信者同士という意味か)再婚はしてもよい。そのままでいられるなら、その方が幸いだ。私も、神の御霊をいただいていると思う」と述べている。「私も」という言葉から、パウロも同じく「配偶者と死別し、それ以降は独身でいた」と考えるのが自然であろう。しかし、これは推測の域を出ない。

 パウロのあまりの結婚へのこだわりと、それでもなお独身を貫いた姿勢から、「パウロは実は同性愛者で、結婚したが女性を性的に愛せないと気がついたのではないか。それで死別か離縁か分からないが、独身の道を選び、以後独身を貫いたのでは・・・」と推測する人々もいる。私個人としては、その可能性は否定できない面白い説だなという程度にとどめている。

 

 まとめると、パウロの「オススメ」は以下である。

1:苦難の時代においては、独身の方が「身軽」であるパウロの個人的意見)

2:独身の方が神にひたすら仕えることができるパウロの個人的意見)

3:しかし、自制できないなら結婚した方がよい。結婚はよいものである

 

 ほとんどの人は性欲がある。多かれ少なかれ、ある。ほとんどの人が「自制できない」し、「情欲に燃える」のである。だとすれば、パウロの言葉から「独身の賜物」がまるで多くの人にあるように解釈するのは、少しズレていると、私は感じる。ほとんどの人が3番の「結婚した方が良い」という言葉に当てはまるのではないだろうか。そう私は思う。

 しかし、断っておきたいが、これは何も「結婚できない人はおかしい」と言いたいのではない。むしろ結婚せずに独身を保ち、ひたすら神に仕える人を、私は尊敬する。ただ、これは、あくまでも「性欲」との現実的な向き合い方についての意見である。性欲を抑えられないなら、結婚して夫婦の間でのセックスを楽しみなさい。結婚は良いものである。それがイエスの言葉であり、パウロの真意であると、私は思う。私は性欲が我慢できないので、結婚したいと思う。

 

 

▼結婚は神が創造した「良いもの」

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 そう、結婚は神が創造した「良いもの」である。聖書の一番初めの書物、「創世記」にはこう書いてある。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」。

(中略)

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

(創世記 1章27節~31節)

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記 2章24節)

 

 男と女が結ばれ、ふたりは一体となる。それが神の創造であった。「生めよ。増えよ。地に満ちよ」。それが神の計画であった。そして、「それは非常に良かった」のである。ヘブライ語の「良い」は「トーブ」といい、日本語の「良い」よりもさらに「とてつもなく素晴らしい」というニュアンスのある言葉である(例えば、「神は素晴らしい」という表現も、「神はトーブ」という。英語でいうと” God is good” )。

 この男女の関係、結婚という関係、セックスという関係は、神の創造である。神の素晴らしい創造である。それは「非常に良かった」のである。

 それを、イエスパウロの言葉を曲解し、まるで「結婚は汚らわしいもの」のように扱う人たちがいる。「結婚は人生の墓場」だという嘘が、蔓延している。カトリックなどは、聖職者は独身でなければいけないなどと、聖書が教えてもいない嘘を強制している。むしろ、聖書にはこう書いてある。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。

(テモテへの手紙第一 4章1~4節)

 

 これは、他でもないパウロ大先輩の手紙である。この言葉から、パウロには「結婚を禁じる意図」は全くなかったと分かる。むしろ「結婚を禁じる行為」は、「良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善」だとバッサリ切っている。それは「悪霊の教えに心を奪われている」のである。

 つまり、カトリックのように(※言っておくが、カトリックの「人」を批判するつもりはない。「制度」を批判しているのである)、制度的に、一律に聖職者に独身を強制するような制度は明らかに聖書の記述に反している。結婚を牧師が禁じたり、「あなたは『独身の賜物』があるから、結婚はやめなさい」などと牧師や牧師の妻が信者に強制する、頭のおかしいプロテスタントの教会もある。そのような人々は、神が創造した結婚の素晴らしさを全く分かっていない。全くのデタラメ。嘘である。

 むしろ旧約聖書の律法には、妻を大切にするよう、このような規定すらある。

人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。

申命記 24章5節)

 

 何度も言うが、結婚は神の素晴らしい創造である。「独身の賜物」という言葉で、間違った解釈を押し付けてくるような人々に、惑わされないようにしようではないか。

 

 

▼「独身の賜物」があるかないか考えるのはヤメよう

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 結びに、私もパウロ大先輩に倣って、僭越ながら個人的な「オススメ」を書きたい。

 まず、結婚したいなら結婚したらいいと思う。「結婚したい」と思ったり、「結婚」を考えている時点で、いわゆる「独身の賜物」はないと私は思う。もっと端的に言うならば、性欲があるなら「独身の賜物」などない。結婚した方が良い。私はそう考える。

 性欲は神が人間に与えた良いものである。ただ、それを男女の結婚という特別な関係の中で享受するかが大事である。性欲が抑えられないなら、結婚した方が良い。それがシンプルな聖書の教えだと思う。

 適齢期になっても結婚しない・できない人がいる。そういう人は、教会で聞いたことのある「独身の賜物」という言葉が頭にチラつくのではないだろうか。「私は、もしかすると『独身の賜物』があるのではないか」、そう考えるのではないだろうか。それは、言い換えれば「私は結婚できない運命なんだわ」となる。そういった「運命論」に対して、私は明確に「NO」と言いたい。結婚したいのに運命的に結婚してはダメなどということがあって良いだろうか。「もうあなたは結婚できない運命です」などと、信仰の友に向かって言っていいだろうか。それでも相手がいないんですという人たちもいる。言いにくいが、それは選り好みしてるだけなのではないだろうか・・・(私も以前そう言い続けていた・・・)。

 むしろ「独身の賜物」という発想は、人生を振り返った際に、「ああ、私は『独身の賜物』を頂いていたのだ」と解釈する、慰めのためのものでもあるのではないか。「みこころ」と同じようなものではないか。私にはそう思える。

 断っておくが、「独身の賜物」というものは、私は個人的には存在すると思う。激レアさんだが、たまに性欲が全くなかったり(去勢してないのに!)する人もいる。また結婚に対する憧れや渇望がなかったり、セックスしたいと思わない人がいる(個人的にはマジで信じられない! けど実在する)。激レアだが、存在するのである。そういう方々を、私は尊敬するし、パウロが言うように独身である方が「身軽」であり、「ひたすら神に仕える」ことが可能である。

 しかし、そのような激レアさんではないのに、「私には『独身の賜物』がある」と思い込み、性欲があるのに、結婚したい願望があるのに、子供が欲しいのに、結婚しないと決めつけて(または決めつけられて)しまう人の人生は、辛いものになる。私は、教会や牧師が独身を強制するようなことは、あってはならないと考える。もしそのような教えが教会でなされているようなら、即刻縁を切ったほうが良いと、私は思う(その教会と縁を切るという意味であり、イエスと縁を切ってはダメ、絶対。あと他のクリスチャンにはいい人もいるからクリスチャンと縁を切るのもオススメはしない)。

 結婚は良いものである。少しでも結婚したいと思ったり、セックスしたいと思ったり、性欲があると思うなら、「独身の賜物」はないと、私は思う。だったら、堂々と結婚するために動いたらいいと思う。自分を磨き、相手がいそうなコミュニティに飛び込み、コミュニケーションを学び、気になる相手を思いやってアプローチする。そういった行動をとればいいと思う。何もせずに、何も起こらないから「独身の賜物」と考えるのは安直である。「独身の賜物」を受け取らなきゃいけないのだろうか、などと不安に思う時点で、それは「独身の賜物」ではないから、安心したらいいと、私は思う。すぐに「『独身の賜物』があるかもしれない」と諭される場合は、ただのインチキなので気にしない方がいい。

 自分の容姿や境遇、経済力や経歴、コミュニケーション力に悩む人もいると思う。正直いる思う。私もそうだ。26歳まで一度も交際相手ができなかった。コンプレックスだった。そんな私も、一ヶ月後に結婚する。人生、どうなるか誰も分からない。出会って数ヶ月で結婚した知人もいる。結婚したいのであれば、まずは神に祈り求め、行動したらいいのではないだろうか。

 親や親族が結婚相手を見つけてきた時代とは違い、現代の日本は自由恋愛が主流となってしまい、結婚に至るまでに努力が必要になっているのは事実だと思う。晩婚化が進み、適齢期に結婚しないのが社会的に「普通」になっているのもまた事実だと思う。しかし、そういった社会的要因は「独身の賜物」とは関係ないと、私は思う。結婚したいのであれば、そのために行動する。「独身の賜物」があるかないか考えて迷うよりも、まずは自分を磨く。神に祈る。そして行動する。それが、私のオススメである。

 

 ただ、一言付け加えれば、重い障害があったり、難病に苦しんでいたり、また様々な理由で異性に性的関心を持たない・持てない人もいる。そういった人々に対して、私は「結婚の賜物」があるとは言い切れない。しかし一方で、「絶対結婚できますよ」なんて無責任なことも言えない。結局言い切れないのがこの問題の歯がゆさであり、デリケートさであり、議論を難しくしているのだ。正直に言えば、私はそういったケースにどう対応していいか分からない。まだ青二才なのである。

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【体験】「あの人を変えてください」という祈りで自分が変えられた話

今回はネタ切れのため、私個人の体験談をつづります。

 

 

▼バイト先の嫌な先輩

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 バイト先に嫌な先輩がいた。飲食店のバイトだった。表では山田さん(仮名)と言っていたが、裏ではコッソリ山田くんと呼んでいた。

 山田くんは偉そうな奴だった。僕のような新人から、パートのおばちゃんまでお構いなしにタメ口で指示を出して、失敗するとお客の前でも怒鳴るような輩だった。ご飯の盛り方が汚いと、お腹を殴られた。小麦粉と水の分量がなってないと、何度も足を蹴られた。初日から「嫌なバイト先を選んでしまった」と思ったが、僕はこのバイト先が見つかるまで8回も面接に落ちていたので、もう他のところを探す余裕もなかった。ファストフードのチェーン店で、私は厨房で慣れない手付きで料理を続けるしかなかった。

 山田くんは、僕よりも1つか2つだけ年上の先輩だったが、実際はバイト先の店長のようなポジションだった。僕が来たときは既に、彼が新人教育、シフト作成、材料の発注など、重要な業務をすべて担当するようになっていた。彼の憎らしいところは、偉そうなだけではなく、誰よりも仕事ができる所だった。だからこそ、反論も許される雰囲気ではなかった。

 僕はいつも「彼と仕事が被らないように」と願っていたが、週8でシフトに入る彼と鉢合わせないのは不可能だった。それどころか、何でも「はい、はい」ということを聞く僕の存在が都合が良かったのか、必ず彼と一緒のシフトに入れられた。「勘弁してくれよ」と思いつつも、バイトをしないと生活できないので、やめるわけにもいかなかった。

 

 

▼神に「あの人を変えてください」と祈る

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 僕はイエス・キリストを信じるクリスチャンだ。クリスチャンにできるのは、真実な祈りである。僕はバイト先に向かう自転車のペダルをこぐ前に、神に祈るようになった。「神様、今日バイトで殴られませんように」「神様、僕が忍耐をもって山田くんに接することができますように」「神様、どうか山田くんの心を変えてください。彼の人格を優しく変えてください」そんな祈りをしながら、高田馬場のバイト先まで自転車をこいで出勤した。

 しかし、現実は甘くなかった。祈って他人の人格が変わるならば、こんな楽なことはない。現実の山田くんは、相変わらずの傍若無人ぶりで手のつけようがなかった。僕の後に入った後輩バイトもすぐに辞めてしまって、僕はいつまで経っても一番下っ端だった。しばらく経っても、閉店後の片付けが遅いだの、仕込みがなっていないだの何かと目をつけられては、叩かれたり、怒鳴られたりした。

 まともな人ならば、店長に相談するのだろう。当然、僕だってそうしようと思った。ところが厄介なことに、店長は山田くんを気に入っていたのだ。なぜなら、彼は人一倍働くし、シフト作成や材料発注などの手間のかかる業務を、彼が一手に引き受けていたからである。店長にとっては、問題を大きくして彼がいなくなっても困るし、彼自身の責任になっても困る。見ても見ぬふり。これが店長の処世術だった。一アルバイトでしかない僕は、泣き寝入りという処世術を使うしかなかった。

 

 

▼山田くんが終電を逃す

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 年が明けて1月になった。大学3年生の冬、僕は相変わらず同じ店でバイトをしていた。夜の5時間だけのシフトが、いつまで経っても永遠に思えていた。

 その日は、長く勤めたバイトの先輩が退職するので、11時の閉店の後、近くの店に飲みに行く流れになった。「小林も行くよな?」山田くんが誘ってきた。下っ端の僕は、当然逆らえない。味のしないビールを2時間半も飲む羽目になった。

 やっと帰れると思った矢先、山田くんが僕に言った。「俺、終電ないからお前ん家泊まるから」。なんと彼は千葉の柏から高田馬場まで通っていたのである。当然終電はなかった。死ぬほど嫌だったが、帰れない先輩を前に断るわけにもいかず、山田くんが僕の家に泊まるという、1ミリも望んでもいないイベントが発生したのである。

 嫌なバイトの後に、嫌なやつが自宅に泊まるなどという、考えたくもない嫌な夜を過ごした。当然、彼はベッドで寝て、僕は床で寝る羽目になったのであるが、無事朝を迎えた。家のwifiのパスワードを勝手に変えられたのと、シャワーを浴びている間にお湯の温度を50℃にされて火傷しそうになったの以外は平和な夜だった。肩透かしを食らった気分だった。

 それから、山田くんは頻繁に僕の家に泊まりに来るようになった。店を閉めるのは夜11時だったのだが、「発注が終わっていない」とか、「冷蔵庫のドアを掃除しておけ」とか、「シフト作成が終わっていない」とか、普段しないはずの仕事まで命じたりして、何かと理由をつけて終電を逃すようになった。女の子の家でもないのに、なぜ「わざと」終電を逃すのか、疑問だった。毎回家に来られるのは心から嫌だったので、本当にやめてほしいと願ったが、泊めれば泊めるほど、彼は僕の家に来るようになった。

 そのうち、本当は廃棄の時期が来ていない食材を横流ししてくれたり、シフトに融通をきかせてくれるようになったり、ご飯の盛り方にグチグチ言わなくなったり、山田くんは少し優しくなったように見えた。相変わらず僕のベッドで寝るし、シャワーの温度を勝手に上げてくるのはやめないし、僕の水タバコの部品を勝手に買い替えたりしたけれども、なんとなく以前の関係とは違ってきたように思えた。

 それでも山田くんは、まだ「嫌な奴」で、僕の神に対する祈りは聞かれていないように思えた。

 

 

▼山田くんの家で見えた人生

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 「柏の俺の家に泊まりに来いよ。4月1日な」。バイト終わりに、山田くんはいきなりこう言ってきた。彼の家に呼ばれたのは初めてだった。僕は、本心では嫌だったが、またいつもの断れない悪い癖で、第一志望の出版社の面接をサボって、彼の家に泊まりに行った。

 彼の家は、柏駅から歩いて20分ほどの公営住宅だった。2LDKの間取りは、彼の私物で埋め尽くされ、どう見ても「家族で」住んでいるようには見えなかった。「親父と住んでるんだよ」。そう彼は言った。おふくろは? の問いに、彼は、「親父と離婚はしていないがずっと前から別居している」と話した。

 しばらくは何もすることもなく、かといって話す話題もなく、ただテレビを見ていた。すると、彼は突然テレビを消した。「親父が録画している番組があるから。テレビ見てるとちゃんと録画されないんだよね」と彼は言った。部屋は、いつもの彼の傍若無人ぶりとは打って変わってキレイだった。僕が飲んでいた爽健美茶のペットボトルを捨てようとすると、「おい、ちゃんとラベルとフタを分別しろよ。親父がうるさいから」という声が聞こえた。僕はペットボトルをゴミ箱には捨てず、そっとかばんにしまった。

 彼の家に行って、彼の人生が見えた。納得した。なぜ彼がご飯の盛り方に厳しいのか。閉店時の掃除に厳しいのか。ごみの分別に厳しいのか。なぜ細かい言葉遣いに厳しいのか。なぜ彼がすぐ手を出すのか。なぜ出来ない人を罵倒しても、褒められないのか。すべてに合点がいった。彼の背後には、父親がいた。父親から受けた、「愛情」。それが彼の人格を形造っていたのだった。

 すべてが見えた気がした。母親のいない寂しさが。父親の容赦ない厳しさが。友達のできない辛さが。居場所がない怖さが。山田という人間は、孤独と恐怖で出来上がっていたのだ。部屋の住みにあった古びた抱き枕も。愛情が金に変換された最新のパソコンも。日焼けしたマンガも。傾いたタペストリーも。すべてが彼の人生を物語っているように思えた。

 その日、何をして、何を話したのか、もはや覚えていない。しかし、その日を境に、僕が山田くんを見る目が変わった。「彼を変えてください」とずっと祈っていたのに、変えられたのは、僕の心の方だったのだ。

 

 

▼誰が隣人になったか

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 変えられたのは自分の方だった。ずっと「彼が変わるように」と神に祈っていたのに、自分が変わってしまう体験をしたのである。彼が変わったのではなく、彼を見る僕の心が変わったのである。彼との関係性が変わったのである。

 僕はふと、こんな聖書のエピソードを思い出した。

さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」

エスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」

すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」

エスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」

 

しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか」

エスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。

彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です」

するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい」

(ルカの福音書 10章25~37節)

 

 これは、イエスのたとえ話である。イエスは「誰がこの人を愛しましたか」と聞かなかった。「誰がこの人の隣人になったか」と聞いたのであった。「隣人」とは本来、日本語では「同胞」のような意味で、ユダヤ人を指す言葉だ。しかし、僕にとってはその瞬間、その言葉は「友人」のように読み取れた。そうだ。友達を愛するなんて大それたことを言う前に、その人と友達にならなきゃいけないんだ。そう気が付かされた。

 僕は、山田くんの友人になったのだろうか。分からない。未だに彼は嫌な奴であるのは変わらない。相変わらず叩いてくるし、家でのイタズラはやめないし、人の家のwifiのセキュリティを勝手に強化するし、彼のやっている行為は変わっていない。

 けれども、明らかに僕の気持ちは変わった。もはや、彼の行動が気にならなくなった。むしろ、いじらしいと感じるようになった。可愛そうだと思うようになった。可愛いと思うようになった。彼は変わっていない。けれども、僕らの関係性が変わったのである。

 「彼を変えてくれ」と神に祈った。神が変えたのは、僕らの関係だった。その結果、変えられたのは自分の心の方だった。僕らは大学を卒業して、それぞれ就職した。バイトも辞めた。それ以来、彼とは連絡を取っていない。

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】ローマ教皇という立場は、聖書で定められたものなのか

ローマ教皇が38年ぶりに来日し、プチブーム的に沸いていますが、そもそも教皇という存在そのものは聖書で決められているものなのでしょうか?

 

 

ローマ教皇に興味などない

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 ローマ教皇・フランシスコが、38年ぶりに来日している。クリスチャンが1%にも満たない日本でも、教皇の来日には多少沸いているようだ。先日、会社の上司から「クリスチャンのコバヤシ君は、やっぱり教皇の来日楽しみなの?」とか、「東京ドームのミサに出席するの?」などと聞かれた。正直言って私は、ローマ教皇に1ミリも興味がなかったので答えに困った。「いいえ、全く興味ありません。むしろ悪魔の親玉ぐらいに思っています」と答えておいた。

 横道に逸れるが、「ローマ法王」なのか、それとも「ローマ教皇」なのか、という議論があるらしい。日本では元々「ローマ法王」の方の呼び名が浸透していたが、「法王」という用語が適切なのか議論があった。カトリック中央協議会は「ローマ教皇」の方をオススメしているらしく、外務省も今回の来日に合わせて「ローマ法王」から「ローマ教皇」に呼び方を変更した。私が勤める会社も、それに倣って最近呼び名を変更したようだ。その際、上司が「クリスチャンであるコバヤシ君も以前から『ローマ教皇』と言っていたので、より実態に近くなったのでしょう」と言っていたのだが、私は申し訳ないがローマ教皇に1ミリも興味がないので、正直なところ無意識であった。スンマセン。

 

 さて、ローマ教皇は、カトリックの親玉である。NHKは、ローマ教皇はこのように説明している。

ローマ教皇は、13億人の信者を持つローマ・カトリック教会の最高指導者で、「キリストの代理人」とも位置づけられています。

初代教皇とみなされているのは、イエス・キリスト使徒聖ペテロで、現在は266代目です。

(中略)

教皇の主な仕事は、ミサなどの宗教的な行事のほか、カトリックの布教活動です。また、バチカン市国の立法、司法、行政の全権を行使します。ローマ教皇は、世界で起きる紛争や災害の犠牲さなどにも目を配り、テロへの非難など積極的に発言することで国際世論に強い影響力をもっています。

(引用:NHK記事

 なるほど、ローマ教皇ローマ・カトリックの最高指導者であり、「キリストの代理人」なのだという。ペテロが初代で、その権利を受け継ぎ続けているのが教皇というわけだ。教皇を選ぶ選挙は「コンクラーベ」と呼ばれ、決まらない場合は黒い煙が、決まった場合は白い煙が上がる面白いイベントになっている。なかなか決まらない場合もあり、まるで本当に「根比べ」のようだ。カトリックの信者は、次の教皇が誰になるか、今か今かと待っているのである。

 しかし、プロテスタントである私にとって、教皇なんていうものは「どうでもいい存在」である。むしろ、「なぜ教皇が必要なのか」「そもそも教皇の存在は聖書の記述から見て適切なのか」という疑問があるくらいだ。今回は、それらの疑問に加え、エスが権利や権力に対して何と言っているのか確認してみたい。

 断っておくが、この記事は、カトリックが正しいとか間違っているとか論じるものではない。あくまでも「教皇」という存在に絞って、聖書の記述と照らし合わせて考えてみる試みである。

 

 

▼東京ドーム5万人ミサの“違和感”

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↑写真はベネディクト16世

 ローマ教皇来日にあわせて、25日、東京ドームに約5万人がつめかけ、大規模ミサを行った。テレビのニュースを見ると、東京ドームの外にも人が溢れ出すほどであったようだ。中には、フィリピンなど海外からわざわざ来た人たちもいたという。38年ぶりの来日だから、人が殺到するのも無理はない。しかし、ここで疑問なのは、「なぜそこまでしてローマ教皇を見たいのか」という点である。

 映像を見ると、車の上に乗った教皇に、大勢の人が旗や手を振り、歓迎している。まるでジャニーズのコンサートのように、教皇の来日に熱狂している様子がうかがえる。教皇という人物の人格まで否定するつもりはない。しかし、ただ一人の人間に、なぜここまで熱狂するのか疑問である。

 また、コンサート会場ではたくさんの教皇関連グッズを販売していたことも話題となった。別にグッズを販売する行為自体は罪でも何でもないから咎めたくはない。しかし、私はその様子をテレビで見て、宮でいけにえの動物を売買していた人々に対し怒り、商売台を倒しまくったイエスの姿が思い浮かんだ。

それから、エスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている」

(マタイの福音書 21章13~14節)

 

 一体、何のためのミサなのか。教皇を見るためのミサなのか。それとも神に出会うためのミサなのか。教皇グッズを売り買いする商売のためのミサなのか。それとも、神をたたえるためのミサなのか。率直に何のために集まっているのか疑問だった。

 また、東京ドームの定員は約5万人である。報道によれば、参加者はカトリック教会関係者などから抽選で選ばれたという。「キリストの代理人(この表現の是非は後述)を一目みたいと思っても、抽選で外れたら叶わなかったのである(そして本当に「抽選」なのか・・・?)。参加者を見る限り、有名人などは「招待」されているようで、まるで「キリスト教版・桜を見る会」を見ているようでもあった。

 「代理人」に会うのには抽選が必要だ。しかし、イエスに会うのに抽選は要らない。エスを信じる者たちは、もう一度イエスとお会いすると約束されている。そこには「抽選」はない。聖書にはこう書いてある。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたし<イエス>の父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたし<イエス>が行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」

ヨハネ福音書 14章1~4節)

 

 これは、「結婚する前に花婿が家を準備する」というユダヤの習慣を念頭に、キリストと教会が結婚するという比喩になぞらえてイエスが語った言葉である。なんとロマンチックだろうか。エスは、私たちのために家を備えて、そして迎えに来てくれるのである。そこには「住む所がたくさんある」。抽選はない。抽選で選ばれた人しか会えなかったローマ教皇とは対照的である。

 もちろん、ローマ教皇は人間なのだから、物理的に東京ドームに呼べる人に制限があるのは仕方がない。人間は遍在ではない。人間は一時、一か所にしか存在できない。しかし、神は時を超えて存在するお方である。神が「わたしはある(存在する)」と名乗ったように、現在、過去、未来すべてに存在するのが神である。イエスは、多くの人に同時にお会いになることのできるお方である。教皇」などとは比べられないほどの存在、それが神であり、イエスである。

 

 

▼なぜ教皇が存在するのか?

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 そもそも、なぜ「教皇」が存在するのだろうか。私はカトリックの信者ではないので、正直いってあまり内情は分からない。高校レベルの歴史で学ぶのは、ペテロ以降、時間が経つにつれて徐々に制度が確立していったというものである。ローマ・カトリックの歴史を見ると、信仰と政治が一体の時代も長く、教皇の持つ権力は絶大なものであったというのが分かる。現代においても、教皇の発信力、権限、権力、影響力は計り知れないものがある。

 カトリックの考えでは、教皇の存在の根拠となっているのは以下の聖書の言葉である。

エスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ(ヨナの子の意)・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩の意)です。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」

(マタイの福音書 16章 15~19節)

 

 カトリックは、「この岩の上に、わたしの教会を建てる」「あなた(ペテロ)に天の御国の鍵を与える」という聖書の言葉を用いて、エスが「教会」の権威をペテロ個人に与えたという解釈をしている。ペテロに与えられた権威が、脈々と引き継がれ、現代の教皇にまで至るというのである。

 しかし、以前ブログでも言及したように、エスのこの言葉は「『イエスがメシアである』とのペテロの宣言が、教会の基礎となる」という意味であって、決してペテロ個人に権威が与えられたわけではない。それは、新約聖書のペテロやヤコブ、そしてパウロのやりとりを見ても明らかであろう。ペテロは決して絶対的な権力とは考えられていない。むしろ新参者の使徒パウロなどは、ペテロに対して公然と叱責までしている(ガラテヤ人への手紙2章)。今のカトリックだったら考えられない出来事である。このような点を見ても、教皇がペテロの後継者、といった考えは後付けの伝説にすぎず、根拠に乏しいと思われる。

 

 

▼イエスは何と教えたか

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 さて、イエスはこのような権力を持った「教皇」についてどんなことを教えているのだろうか。残念ながら「教皇」という言葉は聖書にはないため(後付けなのだから当たり前だが)、エスが「権力」について何と言っているか見てみよう。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子(イエス)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」

(マタイの福音書 20章25~28節)

彼ら(パリサイ派たち)がしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。 宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです」

(マタイの福音書 23章5~8節)

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」

(マタイの福音書 18章 1~4節)

  

 ・・・いかがだろうか。イエスは、ハッキリとクリスチャンが権力を追及するべきではないと教えている。「上に立ちたい者は皆に仕える者になれ」「あなたがたはみな兄弟(仲間)である」とイエスは教えている。エスによれば、クリスチャンに上下関係はなく、みな兄弟である。誰かが神の取り次ぎをするという考えは、イエスの言葉を見ると、ハッキリ間違っている。この視点で「教皇」の現状を見ると、イエスの言葉には合致していないのではないかと思う。

 教皇の立場になり、少しでも慢心しない人がいるだろうか。教皇という立場の人を見ても、「兄弟」として接することのできる信者がいるだろうか。とても自信を持ってYESと言えるとは思えない。

 エスが現代の教皇と、彼をまるでスターのように扱う信者たちを見たら、どう思うだろうか。私は、どうもまた怒りをもって東京ドームのグッズ販売コーナーで暴れまわり、ローマ教皇に「ああ白く塗った壁」と言うイエスの姿しか思い浮かばないのだ・・・。

 このように、一人の人間に権力や尊厳が集中してしまい、半ば「偶像礼拝化」してしまう現象は、カトリックに限らず、プロテスタントでも起こり得る。プロテスタントにおいても、一部の牧師やリーダーたちが、尊敬されすぎてしまい、権力化してしまうケースはままある。一部の教会では、牧師の発言に異議を唱えてはいけないとか、牧師の「何回忌記念礼拝」をやったりしているところもある。エスを信じているのか、牧師を信じているのか分からなくなってしまっているのである。カトリックプロテスタントに限らず、このような「人間崇拝」の危険性はある。だからこそ注意が必要なのだ。

 

 

▼本物の「代理人」は誰か

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 さて、NHKによると、ローマ教皇は「キリストの代理人」だという。果たして、それは本当なのだろうか。そもそも、今の私たちにとって、「キリストの代理人」というものは存在しているのだろうか。聖書を見てみよう。

そしてわたし<イエス>が父<神>にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

(中略)

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

ヨハネ福音書 14章16~28節)

わたし<イエス>が父<神>のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

ヨハネ福音書 15章26節)

しかし、わたし<イエス>は真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

(中略)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

ヨハネ福音書 16章15節)

 

 いかがだろうか。イエスは、ハッキリと次のように述べた。

<イエスの言葉まとめ>

・イエスはもうすぐいなくなる。

・しかし、その代わり「助け主」を遣わす

・「助け主」というのは、聖霊のことである

・イエスは、また帰ってくる

聖霊はイエスの栄光を現す 

聖霊は信じる人を心真理に導く

聖霊はイエスが神から受けたものを、そのまま人に与える

 

 つまり、一義的にはイエスはもはや我々人間と「一緒には」いない。その代わり、イエスは「助け主」である「聖霊」を我々人間に遣わしたのである。この「聖霊」こそが我々にとっての「キリストの代理人」なのである。

 では、「キリストの代理人」である「聖霊」の働きとはどのようなものか。簡単に説明して、この記事を閉じたい。聖書を見よう。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

(ローマ人への手紙 5章5節)

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12章3節)

しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。

(ユダの手紙 1章20節)

 

 いかがだろうか。聖霊によって、私たち人間はキリスト(イエス)の存在を知ることができる。聖霊によって、私たちには愛が注がれている。聖霊によって、私たち人間はイエスの存在を告げ知らせる。聖霊によって、私たち信者の集まり教会はひとつとなる。聖霊によって、私たち人間は神の言葉を理解できる。今や、大胆に言えばイエスは私たちと共にはいない。しかし、聖霊が「イエス代理人」として私たちと共にいてくださるのである。

 いかがだろうか。私は一プロテスタントのイエスを信じる者として、カトリックの教義に文句をつけるつもりはない。しかし、以上の点から鑑みて、私は個人として教皇の存在を積極的に支持はできない。違和感しかない。イエスが怒る姿しか想像できない。そして、何よりも、私たちにとっての「イエス代理人」は他でもない「聖霊」である。教皇という人間に、その役割りは担えないと、私は思う。

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンが食べてはいけないものは存在するのか?

クリスチャンですと自己紹介すると、「食べちゃいけないものはあるのか?」とよく聞かれます。聖書には何と書いてあるのでしょうか?

 

 

▼食べてはいけないものがある?

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 クリスチャンではない人に、「私はクリスチャンです」と自己紹介すると、必ずいくつかの質問をされる。「酒は飲んでいいのか」「婚前交渉はいいのか」「日曜に教会に行くのか」「カトリックプロテスタントか」「洗礼名はあるのか」などなど・・・。その中で、たまに聞かれるのが「食べちゃいけないものはあるの?」という質問だ。

 正直いって、私はクリスチャンとして生きている上で「食べてはいけないものが存在する」と考えてこなかったので、この手の質問にはいつも驚く。日本人にとって信仰は「行動を制限するもの」なのだ。確かに、仏教でも坊主が肉や魚を食べるのはご法度。ユダヤ教やイスララム教徒も豚を食べない。そう聞くと、クリスチャンも食べてはいけないものがあるのではないか、と考えるのも無理はない。

 クリスチャンにとって食べてはいけないものは存在するのか。今回は、そんな素朴な疑問に答えたい。おそらく素朴すぎて、きちんと検証されて来なかったであろうトピックかもしれない。旧約聖書ユダヤ教)においてはどうだったか。イエスは何といったか。「外国人」である現代の日本人にとってはどうか。聖書の記述を元に考えてみたい。

 

 

ユダヤ教の食べ物の決まり

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 ユダヤ教徒は豚を食べない。これは常識だが、実は豚に限らず、ユダヤ教には、他にもたくさんの規定がある。この食物の規定を「コーシェル」(英語では「コーシャー」)と言う。現代のユダヤ教徒は、人によって程度はあるが、この「コーシェル」を基本的には固く守っている。宗教的なユダヤ人は、豚肉もエビもイカもウナギも食べない。それどころか、使う食器やスポンジまで区別する人もいる。

 その決まりの根本は、聖書の記述である。旧約聖書には、様々な食べ物の規定が書いてある。まずは、それを見てみよう。レビ記11章に細かな記述がある。「ポケモン」ではないが、地上の動物、水の中の動物、鳥、昆虫、爬虫類などに分けて細かく規定されている。あまりに長いので、今回は代表的なものだけ記述する。興味がある方はレビ記11章または申命記14章を読んでみると、オモシロイのでおすすめだ。

 

<地上の動物の規定>

主はモーセとアロンに告げて、こう彼らに言われた。「イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。ただし、反芻するもの、あるいは、ひづめが分かれているものの中でも、次のものは食べてはならない。らくだ。これは反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。岩だぬき。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。野うさぎ。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。これはひづめが分かれていて、完全に割れてはいるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。

レビ記 11章1~8節)

 

レビ記の記述に基づけば、以下のような規定になる。

<食べて良い動物まとめ>

・反芻する動物 かつ ひづめが完全に分かれている動物

 これによれば、牛や鳥、羊やヤギは食べて良い。一方で、ラクダは食べてはいけないことになる。反芻はするが、ひづめが分かれていないからだ。逆に、豚はひづめが分かれているが反芻しない。ユダヤ教は「豚がNG」という印象が強いが、これを読めば別に「豚」が特別なのではなく、あくまで「反芻し、ひづめが完全に分かれている動物は食べてOK」という規定に豚が当てはまらないだけである。

 また、動物に限らず、魚や鳥、昆虫、爬虫類などについての規定もある。

 

<魚についての規定>

水の中にいるすべてのもののうちで次のものを、あなたがたは食べてもよい。海でも川でも水の中にいるもので、ひれと鱗のあるものはすべて食べてもよい。しかし海でも川でも、すべて水に群がるもの、またはすべて水の中にいる生き物のうち、ひれや鱗のないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。これらは、あなたがたには忌むべきものである。それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸を忌むべきものとしなければならない。水の中にいるもので、ひれや鱗のないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

レビ記11章9~12節)

 

<鳥についての規定>

また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べることはできない。すなわち、禿鷲、禿鷹、黒禿鷹、鳶、隼の類、烏の類すべて、だちょう、夜鷹、かもめ、鷹の類、ふくろう、鵜、みみずく、白ふくろう、森ふくろう、野雁、こうのとり、鷺の類、やつがしら、こうもりである。

レビ記11章13~20節)

 

<昆虫についての規定>

羽があって群がり、四本の足で歩き回るものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。ただし、羽があって群がり、四本の足で歩き回るもののうちで、それらの足より高い二本の跳ね足を持ち、それで地上を飛び跳ねるものは食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、コオロギの類、バッタの類。しかし羽があって群がり、足が四本あるものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

レビ記11章21~23節)

 

<爬虫類等についての規定>(もぐらやねずみは哺乳類)

地に群がるもののうち次のものは、あなたがたにとって汚れたものである。すなわち、もぐら、跳びねずみ、大トカゲの類、ヤモリ、ワニ、トカゲ、砂トカゲ、カメレオンである。

レビ記11章29~30節)

 

 魚や鳥、昆虫、爬虫類などについての規定は、まとめると以下になる。 

<食べても良い魚まとめ>

・ひれがあり かつ ウロコがある魚(シンプル)

 

<食べても良い鳥まとめ>

・ハゲワシ、ハゲタカ、クロハゲタカ、トビ、ハヤブサ、カラス、だちょう、よだか、カモメ、タカ、ふくろう、う、ミミズク、白ふくろう、森ふくろう、のがん、こうのとり、サギ、ヤツガシラ、コウモリ以外の鳥(なんだそりゃ)

 

<食べても良い昆虫まとめ>

・羽があって、4本足の昆虫はNG

・ただし、イナゴ、毛がないイナゴ、コオロギ、バッタはOK(まあわかる)

 

<食べても良い爬虫類などまとめ>

モグラ、跳びねずみ、大トカゲ、ヤモリ、ワニ、トカゲ、砂トカゲ、カメレオン以外(なんだそりゃ)

 

 ・・・いかがだろうか。正直、ほとんどが現代であっても「ゲテモノ」とされるもので、正直「そんな事言われなくても食べないよ」と思う動物もいるのではないか。誰もねずみやカメレオン、コウモリなど食べようとも思わないだろう。長野県出身の私は、イナゴは食べるが・・・。

 しかし、それは食べ物が豊富にある現代の話。おそらく日々食べるものにも困っていたと想像される何千年も前の中東は、動き回る動物、昆虫、魚、すべてが「食べ物」に見えていた時代だったかもしれない。上に挙げたような生き物の中には、当然、食べるに適していないものも存在した。病原菌を媒介したり、保存に適していなかったり、健康に悪影響を与える生き物も多かったのではないか。それらを区別するための一定の基準が、レビ記申命記の食物の規定ではないだろうか。

 私は個人的に、このようなユダヤ教の「食物の規定」は、古代の社会において社会的に病気の蔓延や食中毒を防ぐための知恵だったのではないかと思っている。しかし、それは神の存在を否定するものではない。神がこのような知恵を預言者を通して、イスラエルの民に与えたのだと、私は信じている。しかし、この時代にとって必要だったものが、必ずしも現代も必要だとは限らない。

 レビ記は神がモーセを通じて、イスラエルの民に与えた「律法」のひとつである。モーセは、今からさかのぼって、約3500年ほど前の時代の人物だと言われている。では、約2000年前のイエスは何と言ったのか、聖書を見てみよう。

 

 

▼イエスは何と言ったのか?

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 今から約2000年前、イエスは「食べ物」について何を語ったのか。以前もブログで紹介したが、改めて見てほしい。

エスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」(中略)イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません

(マタイの福音書 5章1~20節)

 

 何を食べるか、何を飲むか、当時のユダヤ人たちが人生をかけて守っていた「言い伝え」を、イエスはバッサリ切った。「食べた物はどうせウンコになるのだから、気にするな」。それがイエスの言葉であった。「それよりも、心の中から出てくるものが大事だ」・・・それがイエスの教えであった。

 当時の人々は食事の前に必ず手を洗うのが、宗教的な決まりだった。しかし、イエスの弟子たちは手を洗わずに食事をしていたようである。先のイエスの言葉の前段には、実はこんなやり取りがあった。

そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません

(マタイの福音書 5章1~2節)

 

 もちろん、現代においても食事の前には手を洗った方が清潔だ。しかし、当時は、清潔というよりも、宗教的な意味合いにおいて食事の前に手を洗うのが決まりであった。しかし、イエスは「手なんか洗わなくてもオッケー。むしろ大切なのは、心の中から出てくるものだ」と教えていたのである。

 弟子たちが手を洗っていなかった点からも、イエスは普段からそのように教えていたのではないかと推測できる。または、イエスの弟子たちがただ野蛮で粗暴だっただけかもしれないが・・・(笑)。普段から、野宿の生活をしていたイエス一行にとっては、手を洗う「水」すらも贅沢だったのかもしれない。

 

 

▼イエスの弟子たちは何と教えたか

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 イエスの弟子たちは食べ物についてどう考えていたのか。弟子のペテロは、イエスが死んで復活した後も、食べ物に気をつかっていたようである。しかし、神はこの「食物」を用いてペテロに啓示をした。このようなエピソードが「使徒の働き」にある。

彼(ペテロ)は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥(※ユダヤ人にとっては汚れた動物)がいた。そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」

使徒の働き 10章10~15節)

 

 これは、神がペテロに幻を見せたシーンである。ユダヤ人にとって「汚れた物」を神が「食べなさい」という、この一連のシーンは、「異邦人」(外国人)も神・イエスを信じれば「神の民」に入れられるということを象徴している。象徴なので、直接「食べ物」を論じたシーンではないが、「神がきよめた物」がきよい、という真理が伝わってくるエピソードだ。

 この経験のあと、ペテロは「外国人であっても神を信じた者は信仰の仲間だ」と考えるようになった。「ユダヤ人かどうか」ではなく、「神を信じるかどうか」で考えるようになったのである。食べ物においても、「きよい・きよくない」ではなく「神がきよいと言っているかどうか」という基準で考えたらよいというヒントが、ここにあるのではないか。

 

 「神がきよめたもの」という視点で見ると、以下の言葉も思い浮かんでくる。使徒パウロが書いたとされる手紙の一部である。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。

(テモテへの手紙第一 4章1~5節)

 

 「食物は感謝して受けるように、神が造ったもの」「感謝して受けるとき、捨てるべきものは何ひとつない」それがパウロの教えだった。何を食べて良いか、何を食べてはいけないかを気にするのではなく、どんな心で食べて、飲んでいるのかが大切だ・・・エスパウロも、そう言いたいのではないか。とすると、クリスチャンはこれこれを食べてはいけないという議論そのものがナンセンスになる。

 人間は、すぐに「これをしてはいけない」「あれをしてはいけない」という「縛り」を儲けようとする。その決まりを守って、安心しようとするからだ。決まりを守っているから安心だという安心感のために、人間は自分勝手なルールを設ける。しかし、イエスは人の心の内側こそが大切であると説いたのであった。とどのつまり、クリスチャンにとって「食べてはいけないもの」は存在しないのである。

 

 

▼“外国人”である私たちはどうすべきか

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 最後に、ユダヤ人ではない“外国人”である日本人、とりわけ現代の日本人は、現実問題どう食べ物と向き合っていけばいいのか、簡単に考えてみたい。

 まず、我々“外国人”が、ユダヤ人のように「コーシェル」を守る必要があるかというと、その必要は全くない。たまに、日本人の中にも「ユダヤ人のように律法を守ろう」という人たちがいるが、私の意見では全くのナンセンスである。ユダヤ人の方々にも失礼だし、彼らからしても「何してんの?」と失笑を買うだろう。そもそも、“外国人”である日本人は、ユダヤ教徒になる資格すらないので、ユダヤ人のための律法を守る意味はないのである(※ただし、リベラルな派閥のユダヤ教には日本人であっても改宗できるため、そのような人たちにとっては意味があるかもしれない)。

 イエスをメシアと信じるユダヤ人たちもいる。彼らの中には、人によって厳しく「コーシェル」を守る人たちもいれば、あまり気にしない人もいる。あるイエスを信じるユダヤ人に話を聞いたところ、こんなことを話していた。

「別に宗教的意味でブタを食べないのではなくて、単純に気持ち悪いから食べていないだけです。日本人もゴキブリを食べたくないでしょう? それと同じで、私たちにとってブタは気持ち悪い存在なんですよ。食べたくないから食べないだけ。別に食べていても問題はないと思います」

(あるイエスを信じるユダヤ人の言葉)

 

 なるほど、ゴキブリはさすがに食べたくない。彼らの文化では、豚は食べてもいいと言われても、食べたくない生き物なのである。

 クリスチャンの中には、酒を飲まない人もいる。また、中にはベジタリアンだったり、食べ物について特定の主義・主張を持っている人もいるだろう(例えばクジラを食べない等)。そういう人々に対して、1世紀のパウロは、こう書いている。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

(中略)

私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

(中略)

食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙 14章1~23節)

 

 パウロの主張は明確である。 

・何を食べようと、食べまいと自由

それ自体で汚れているものは何ひとつない

・すべての食物はきよい

・しかし、それが汚れていると思う人にとっては汚れている。疑いを持って食べるなら、それは罪である

・自分の信仰は自分で保ち、他の人が何を飲むか、食べるかについて口出しすべきではない

 

 パウロの教えは単純明快。私は、21世紀の今も、この基準は適応できると思う。誰が酒を飲もうが、飲まないと決断しようが、それはその人と神との間での取り決めである。自分と神との関係において、自分を律するために、酒を飲まない、特定の食べ物を食べないと決めるのは大いに結構である。しかし、それは各々が神との関係の中で決めることであって、何か一律に「これを食べてはダメ」「これは食べてOK」と基準を定め、それを守るように強いるのはズレてしまっているのではないか。

 基本的にクリスチャンは何を食べても、何を飲んでも自由である。しかし、もし「本当にいいのだろうか」という疑いがあるのであれば、それは良くない行為である。もし、疑問があるならやめればいいし、疑問がないなら、堂々と神に感謝して食べたり、飲んだりすればよい。しかし、他の人がどうこうしようと、それはあなたが口出しする問題ではない。 

 クリスチャンになるというのは、「神のしもべ」になるという意味である。他のクリスチャンの人は、あなたの支配下でも、教会の支配下でも、牧師の支配下でもなく、神の支配下にある神のしもべである。その人が何を食べるか、何を飲むかは、神とその人の問題である。だから、もし暴飲暴食が問題だと思っても、私としては、その人のためにそっと陰で祈るようオススメする(※ただし、過食症、拒食症、中毒、アルコールなどの依存症などは、専門機関の治療が当然必要である)。

 結局のところ、イエスの教えによれば、大切なのは「何を体内に入れるか」ではなく、「心から何が出てくるか」である。あなたの心からは、何が出ているだろうか。あなたの口からは、何が出ているだろうか。今一度、吟味してみてはどうだろうか。

 

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

(コリント人への手紙第一 10章31節)

  

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス14】「両方やっていいんだ!」小口理英@音楽家・医師

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第14弾は、小口理英さん!

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【Profile】

名前:小口理英(Rie Oguchi)

生まれ:1984

出身:東京都

学歴:昭和大学医学部医学科卒業

→Berklee College of Music Professional Music Major卒業
(米バークリー音楽大学卒業)

職業:楽家・医師

音楽事業HP:https://roguchi.wixsite.com/rieoguchi

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain はじめまして。今日はよろしくお願いします。

f:id:jios100:20191108105220j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おそらく読者の方は、経歴を見て「えっ、説明求む」状態だと思うので、今何をなさっているのかご説明いただけますか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですよね。今やっているのは音楽の会社です。ライブ、イベントの企画をしたり、CDを出したり、曲のカバーや作曲もします。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どんな曲を作るんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain ジャンルでいうとジャズですね。こんな感じです。

youtu.be

f:id:jios100:20180905032057j:plain お~。すごい癒やされるような音楽ですね。ライブではご自身も演奏されるんですか。

f:id:jios100:20191108105220j:plain もちろん演奏しますよ。専門はアルトサックスです。そういった興行の他に、音楽のレッスンや、「リトミック」という子供にリズムを教える教室をやったりしています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain リトミック・・・それやると音痴じゃなくなるんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain ははは(笑)。効果あると思いますよ!

f:id:jios100:20180905032057j:plain やっておけばよかった・・・それと、もうひとつ気になるのは「医師」という方ですが・・・

f:id:jios100:20191108105220j:plain 音楽の仕事を本格的にやる前は、麻酔科医として働いていました。実は今もアルバイトとしてやっていますよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え! 麻酔科医ってアルバイトなんてあるんですか。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 結構あるんですよ。病院によっては毎日手術をしないところもあったり、お医者さんが少数しかいないところもあって、そういったところは常駐の麻酔科医がいないんです。そういう病院から、手術をやる時に結構需要があるんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド・・・楽家と医師という2つの職業を両立している方って、ものすごく珍しいと思います。今日はたっぷりお話聞かせてください!

 

 

▼医学部で初めてサックスを吹いた?!

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↑ 研修医時代

f:id:jios100:20180905032057j:plain 音楽をはじめたキッカケは何だったんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 小さい頃から、ずっとピアノは習っていました。クラシック。でも、ずっと自分はピアノのセンスがないと思っていました。自分より上手な人はいくらでもいるし、自分の演奏に満足できてなかったんです。音楽は好きだけど、これは趣味なんだろうなと思ってました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最初はサックスじゃなかったんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain アルトサックスに出会ったのは18歳のときですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え?! 18歳?

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。医学部に入って、音楽サークルの見学に行ったんです。ビックバンドって言って、ジャズのバンド形式のひとつなんですけど。音楽は好きだったので、見に行ってみたんですね。その時、アルトサックスを持った瞬間に「これ、吹けるかも」と思ったんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain つまり、大学に入って初めてサックスを吹いて、プロになっちゃったんですか?!

f:id:jios100:20191108105220j:plain そういうことになりますね。そこからは、毎日、地道な練習の繰り返し。毎日1フレーズずつ反復練習を重ねる毎日でした。実は、音楽の練習って、勉強と似てるんです。英単語を毎日1単語覚えるみたいに、毎日1フレーズずつ繰り返し、繰り返し覚えていく。そうしていくと、だんだんと曲が演奏できるようになってくるんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain スゲー! 飽き性のワタシにはとてもできません!(笑)医大に行った人に聞くのも野暮ですが、勉強は好きだったんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 勉強は好きでしたね。コツコツ何かを積み重ねるのは、昔から好きでした。楽家の仲間の中には、普段の地味な練習が嫌いという人もいるんですけど、私は嫌じゃないんです。そこは勉強の習慣が役に立ったんだと思います。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 勉強ができたから、医大に行こうと?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 今思えばそれはプライドですよね。ある程度成績が良くて、理系コースだったら、先生や親や周辺が「医者になれば?」と勧めるじゃないですか。

f:id:jios100:20180905032057j:plain あるあるですよね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 例にもれず、私の場合もそうでした。周りも勧めるし、親の期待もあるし、自分は当然医者を目指すんだと思ってました。それで、現役で医大に受かって、医者になるレールに乗っていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まさかその医大で、アルトサックスに出会ってしまうとは・・・運命ですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうなんです。そこから、「音楽」と「医師」という2つの道で悩むようになりました・・・。

 

 

▼研修医から音楽大学

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アメリカの音楽大学

f:id:jios100:20180905032057j:plain 医大を卒業した後はどうしたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 卒業した後は、2年間「研修医」として働きました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 研修医! 「ブラックジャックによろしく」で読みました・・・大変そうですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 医者としての仕事は楽しかったですよ。ただ、めちゃめちゃ忙しいんです。一週間、ずっと病院にいるような生活でした。その当時はクリスチャンではなかったので、別に日曜日教会に行きたいという悩みはなかったんですが、単純に忙しかったです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 音楽は続けていたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 続けていました。研修医をやりながら、空いた時間でライブ活動をしたりしてました。DJさんと一緒にライブハウスでサックスを演奏したり・・・

f:id:jios100:20180905032057j:plain めちゃめちゃ忙しい中で、音楽も研修医も両立するって・・・体力オバケですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 研修医も楽しかったんですが、音楽をやるためには1人の時間が足りませんでした。音楽って、演奏して、フィードバックして、その反省を活かしてまた練習して・・・っていう作業の繰り返しなんですね。1人になる時間が必要なんです。でも、仕事が忙しすぎてそんな時間ありませんでした。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そのあたりから、音楽と医師の2つの道で悩むようになったと。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。私の中では「やっぱり音楽がやりたい」という気持ちがあったので、音楽大学への進学を考え始めました。そんな時に、アメリカ・ボストンの「バークリー音楽大学」の入学オーディションが東京であると知って「申し込むしかない」と思って、申し込みました。実は、それを知ったのは本番の1週間前だったんですよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんと!! オーディションの1週間前?! 申し込みよく間に合いましたね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 本当に。申し込みも締め切り前日とかのギリギリでした。しかも、音楽業界では申込みに「推薦状」を書いてもらうのが当たり前なんですが、当然そんな常識も知らずに応募したんです。推薦状ゼロ枚状態で(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 推薦状ゼロ枚状態で、ギリギリに応募して、本番1週間前で・・・!!!

f:id:jios100:20191108105220j:plain でも、そんな状態で受験したんですが、合格しました。奨学生にも選ばれたので、奨学金もゲットできたんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えーーっ! すごい!! 大学からはじめて、音大の奨学生に受かるって並大抵じゃないですね・・・

f:id:jios100:20191108105220j:plain 今思うと、「そこしかない!」というタイミング。神様の計らいだったと思います。

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↑ 大学のバンドで活躍。映画「セッション」のよう?

f:id:jios100:20180905032057j:plain それですぐ留学したんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain タイミングよく2年間の研修医を終えていたので、問題なく留学できました。ただ、親には音楽の道に行くのを反対されました。せっかく医者になれるのに、って。なので、お金は自分で工面しました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、研修医のお給料って厳しいんではないですか?(ブラックジャックによろしくの知識)

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。奨学金をもらったとはいえ、アメリカの大学の学費ってものすごく高いんですよね。持っているだけでは足りなかったので、ローンを組みました。そのローンも、私が医者じゃなかったら組めなかったので、それまでの道は全く無駄ではなかったと思います。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。医師免許をゲットしたからこそ、音大への道が拓けたんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain ただ、アメリカにいる間は、本当に本当に貧乏でした。お金がなかったので、ストリートでサックスを吹いて、投げ銭をもらって生活費にしていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 1日どのぐらい稼げるんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 日によってバラつきあるんですけど、少なくても15ドルぐらいですね。アメリカにいる間は、毎日お腹がすいていたのを覚えてます。

 

 

▼音楽と医師の道の間で揺れて・・・

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↑ ストリート演奏でお金を集めた

f:id:jios100:20180905032057j:plain アメリカの大学生活はどうでしたか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 英語は元々できたので、その面では苦労しませんでした。逆に、人間関係、特に日本人との人間関係で苦労しました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 英語できたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 高校時代に、イギリスに3週間ほど留学したんですよね。その時、現地の人とコミュニケーションが取れないのが悔しくて、2日徹夜で英語の本を読みふけりました。それから、「自分がこう言ったら、相手はこう返してくるだろう、それに対してはこう返答しよう」という会話のシュミレーションをしていました。その期間で、ある意味のブレイクスルーみたいなものがあって、英語ができるようになりましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ・・・(只者じゃねぇ・・・)!!!

f:id:jios100:20191108105220j:plain なので、アメリカ時代も、英語では苦労しませんでした。でもその分、現地の人とのつながりが深くなって、日本人の友人とうまくいきませんでした。深くお互いの心を分かち合ったり、支え合える人もいなかったんですね。それが私にとっては辛くて。現地の人と仲良くしている分、日本人とは、ふとしたことからすれ違いがあったり、嫌な思いをすることもありました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、僕も海外にいた経験がありますが、海外にいる時に日本人とどう関わるかって意外と大きいですよね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。日本人との関係で悩んでいた頃、たまたまクリスチャンの日本人の友達がいて。彼女は日本にいたんですけど、相談したところ、毎日聖書の言葉を送ってくれたんですよね。当時、私はクリスチャンではなかったんですが、嬉しかったですね。日本人に応援してもらっているんだという感覚になりました。彼女の励ましで、自分の音楽を貫こうと思えるようになりました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それは心強いですね。

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 帰国してからはどうしたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 2014年に日本に帰国しました。その後は、2年間麻酔科医として、病院で勤務しました。フルタイムで。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 音大を出て、また医者の道に戻ったんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。自分の中では音楽をやりたいという気持ちはあったんですけど、「医者なのに、音楽をやるなんてどうなんだろう」という感覚も当時はありました。もちろん、周囲と話しても「音楽は趣味なんでしょう?」とか「いつ医者に専念するの?」と言われる方が圧倒的に多かったんですね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 音楽と医者を天秤にかけると、日本の常識ではそういう感覚があるのは分かりますね・・・どうしても医者の方が安定しているふうに見えるというか。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 医者として生きるのか。音楽で生きるのか。私にとってはいつも悩んでいたことでした。社会的に認められて、安定して食べていけるのはもちろん医師の道。だけど、自分が心から楽しんでできるのは音楽。どちらか一つ選ばなきゃいけないと、ずっと思っていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 究極の2択ですね・・・

f:id:jios100:20191108105220j:plain 次第にその気持は、「音楽をやっちゃいけないのではないか」という思いに変わっていきました。音楽を諦めれば、医師として生きていける。自分は音楽をしちゃいけないのかもしれない・・・。そう思うようになっていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。悩むうちに、音楽をやること自体がダメだと感じてしまっていたんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain その時は、医者として生きるのが、ものすごくストレスでした。今思えば、それは「導き」ではなかったからだと思います。神様が備えている方向ではない方に向かっているから、心のどこかでそれが分かっていて辛い。ストレスになる。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「導き」ではない方向に行くと、ストレスになる・・・確かにそうかもしれませんね。僕も心当たりあります。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 私にとって、受験勉強も音楽の勉強・練習も苦じゃなかったんですね。それはなぜかと考えたときに、「音楽が導きだからだ」と素直に思えるようになったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうして、その迷いから脱出できたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 私にとって、音楽と医者の道で迷ったことと、自分の信仰は切り離せないことなんです。それは・・・

 

 

▼「神の子ども」というアイデンティティ

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↑ 教会のインドの支部

f:id:jios100:20191108105220j:plain 日本に帰ってきて、友達が「教会に遊びにおいでよ」と誘ってくれたんですね。私は日曜日は仕事で行けなかったので、別の日にやっている「アルファコース」という勉強会に参加しました。たまたま、その曜日だけ定時で上がれる日だったので、参加できました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どういうふうに誘われたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain バイリンガルで聖書の話ができるよ~みたいな感じだったと思います。ずっとクリスチャン系の学校に通っていたので、クリスチャン系の集まりに抵抗はそれほどありませんでした。むしろ馴染みがありました。でも、その集まりに行ったとき、初対面の人に「愛とは何だと思いますか」と聞かれて。「初対面なのに、“愛”とか語っちゃうの?!」とビックリしたのを覚えています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 初対面で愛とか語っちゃうの、ウケますね(笑)

f:id:jios100:20191108105220j:plain 最初はビックリしましたけど、教会の礼拝でも、ピアノを弾かせてもらうことになったんですね。だんだんと、教会の集まりが、自分にとって「音楽ができる居場所」になっていったんです。それがキッカケで教会に行く機会が増えました。その時は、医師としてフルタイムで働いていて、まるで自分が音楽をやってはいけないと言われている気持ちになっていました。誰にも推薦状も貰えず、親にも応援してもらえず、寂しかったんです。自分は音楽をやってはダメなのかなって思っていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そんなときに、教会で音楽ができた。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。「音楽をやっていい」と言われたような気がしました。そんな時、2015年ですけど、教会のパスター(牧師)から「バプテスマを受けないか?」と聞かれたんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain お~。なんて答えたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 自分としては、まだまだ聖書などの勉強が必要だと思っていたので、まだ先かなぁと思っていたんですね。しかも、牧師の提案は一週後の集まりでバプテスマを受けないかというものでした。「えっ、そんなにすぐ?」とは思って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain オーディションの時もそうですが、いつも急転直下なんですね(笑)

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうなんです(笑)。でも、自分のアイデンティティを考えて、答えが出ました。私はずっと「医者」か「音楽」かって考えていたんです。それで迷っていたんです。でも、本当に大事なのは「神の子どもとして生きる」ってことだと思ったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど! イエスを信じる「神の子ども」というアイデンティティに出会ったわけですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そう思った時に、解放された気がしました。「自分はクリスチャンです」と堂々と言いたいなという気持ちもありました。それで、バプテスマを受ける決心をしました。2015年のゴールデンウィークのときですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どこでバプテスマ受けたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain ディズニーランドのそばの、葛西臨海公園です。たまたまそこでキャンプをしたので(笑)私の教会で葛西臨海公園バプテスマをやったのはその時だけなんですよ(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain エスを信じた後で、変わったことはどんなところですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain それまでは、基本的にネガティブでした。周りの人にどう思われるかが、すごく気になっていました。その上、周りの人は自分のことを否定的に見ているのではないかという不安、恐れがいつもありました。でも、エスを信じてから「人からどう見られるかを基準にするのではなく、神がどう見るかという目線で決める!」と思えるようになりました。それからは、人生楽になりましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かります。僕もそうですね。イエスを信じたら、人の目が気にならなくなって、大胆に生きられるようになりました。

 

 

▼両方やっていいんだ!

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トライアスロンの救護班としても活動

f:id:jios100:20180905032057j:plain 信じた後は、仕事はどうしたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 2015年にバプテスマを受けて、その年のうちに務めていた病院を辞めました。実は、一定期間病院に勤務すると、「標榜医」(ひょうぼうい)という厚労省の資格と、「認定医」という医師会の資格が取れるんです。この両方の資格がないと、独立しようと思っても、なかなか難しいんですね。私の場合は、両方の資格が取れたので、次のステップに進むことができました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 次のステップというのは、今のように音楽と医師と両輪で働くっていうことですか。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。元々、「音楽」か「医師」かどちらか一方しかできないと思い込んで、悩んでいたんですね。でも、お世話になったパスター(牧師)の働き方がとても参考になりました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain と、いいますと?

f:id:jios100:20191108105220j:plain パスターは職業としては「国際弁護士」をやっていたんです。彼の意見は「お金のために牧師をやってはいかん」というものでした。「何かミニストリー(クリスチャンの働き)をするのであれば、それとは別に生活のための仕事があった方が良い」というのが、彼の主張でした。現に、彼は国際弁護士として生活費を稼いで、そのお金で世界中を飛び回って、聖書のこと、神のこと、イエスのことを伝える働きをしています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごく共感します! 僕も、この時代、職業は一つだけという考えに囚われずにやった方がいいと思います。特に牧師だけじゃ食べていけませんから。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 私は彼の生き様を見たときに、「両方やっていいんだ!」と思えたんですね。ずっと「いつ医者に戻るの?」とか、「中途半端」とか言われるのが怖くて、悩んでいました。そんな私にとって、「どっちもやっていんだ」と思えたのは、ある意味パラダイムシフトでした。その時に、「せっかく医者という資格を持っているんだから、それを活用して働きながら、音楽も同時にやっていこう」と思えるようになったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。医師の資格を最大限活用した上で、音楽もやっていくと。

f:id:jios100:20191108105220j:plain はい。それで、2016年から今のような活動をはじめて、会社は2017年に立ち上げました。今は、本当に自分のライフスタイルに合った働き方ができていると思います。週に1~2回、麻酔科医として働いて、残りの時間は音楽の活動に充てられています。医師の仕事があるから、最低限の生活費、音楽活動の資金、時間、場所を確保できているっていう形ですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最高の働き方ですね。

 

 

▼人を助けて、音楽を奏でる

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↑ 現在は医療と音楽の2つの道で活躍している

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「音楽」と「医師」を両輪でやるようになって、フルタイムの医師の時と、気持ちは変わりましたか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 気持ちにも余裕が出てきました。フルタイムの医師として働いていた時は、とにかく忙しくて・・・患者さんが来ても「また来たよ」とか思ってしまう時もあったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かります。僕も記者なので、なにか事件や政治の動きがあると「またかよ」と思ってしまう時ありますね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain それは本当に良くないと思んですね。本来、患者さんのためにやっている仕事なのに、人を助ける仕事なのに、助けを必要としている人を見て「また来たよ」と思ってしまう自分が嫌でした。感謝がなくなった仕事はしたくない、っていう強い思いは常にありました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい・・・(私はそんな高尚な思いがない・・・)。

f:id:jios100:20191108105220j:plain でも今は、時間も資金も場所も、音楽の仕事も全て与えられているんです。神に感謝しかありません。また、派遣されて病院に行くと、病院に勤務していた時より感謝してもらえるんですね。「来てくださってありがとうございます!」といった感じで。それを通して、自分が今与えられている環境も、当たり前じゃないって気が付きました。自分も人に感謝しようって改めて思えるようになりましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい・・・(私はそんな高尚・・・略)。

f:id:jios100:20191108105220j:plain あと、ひもじい時って、寂しい曲しか出てこないんですよ(笑)。おなかすいちゃってるので(笑)。そんな状態だと、どうやって人を愛する歌なんか作れるんだ! っていうような思いにもなりますし、何より歌えないんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「お腹が空いてると寂しい曲しか出てこない」っていうのはリアルすぎまる・・・切実な思いですね(笑)

f:id:jios100:20191108105220j:plain 医者として人を助けて、それで得た糧で音楽を奏でるっていうのが今のスタイルになってます。それが、自分にも合っているって感じますね。

 

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 理英さんの今後のビジョンを教えて下さい。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 音楽としては、今は日本を中心に活動していますが、ゆくゆくは世界に焦点を持っていきたいと思っています。世界に作曲する人は大勢いるので、その中で競い合って、認められるように競争を勝ち抜いていきたいと思っています。認められないと、曲を作っても聞いてもらえないので。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 世界に通用する曲作りですか・・・

f:id:jios100:20191108105220j:plain そういうコンペティション(競争)の中で通用する音楽を作りたいと思っています。かつては、自分は「演奏者」と思っていたんですが、今は「作曲者」でもあると思っています。曲を作れば、自分ではない他の人が演奏しても、その音楽は広がると気がついたんです。演奏者によって表現も違うので、同じ曲でも多様性が出るなと。自分が作った曲が色々な形で演奏され、歌われるようになりたいと思っています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ありがとうございます。最後に、いつも握っている聖書の言葉を教えて下さい。

f:id:jios100:20191108105220j:plain マタイ7章ですね。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

(マタイの福音書 7:7~8 新改訳聖書2017)

f:id:jios100:20191108105220j:plain 今までの道も、不思議なタイミング、不思議な備えで、神様がひらいてきてくださいました。これからも、神様に求め続けたいと思います。

f:id:jios100:20180905032057j:plain りえさんの今後の道も、神様によって拓かれていきますように!!

 

(おわり)