週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】なぜ教会は「クリスマス」は祝うのに聖書の祭りは祝わないのか

クリスマスもイースターも聖書に書いてないって知ってましたか?

 

 

▼ウソと偽りのクリスマス

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 キリスト教といえば、クリスマスにイースター。誰もが思い描くイメージだろう。「普段は教会行かないけど、クリスマスとイースターだけは行くんです」・・・よく聞くセリフだ。はっきり言っておく(イエス風に)。クリスマスも、イースターも聖書には記述がない。ええっそんなばかな、と思うかもしれないが、本当だ。

 ウソだと思うならば、聖書を調べてほしい。確かに、イエスが生まれた記述や、復活した記述はある。しかし、「クリスマス」「イースター」などという単語はどこにもない。実は、両方とも後代に作られたただの文化なのである。そもそも、イエスが12月25日に生まれたという記述はどこにもないし、「イースター」という日に復活したという記述もない。

 しかし、聖書には、「これを覚えて行え」と命じられている大切な7つの祭りが書かれている。しかし、ほとんどの教会がこれを行っていない。なぜか。今回は、「祭り」についての記事を書く。

 

 

▼クリスマスのウソ

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 クリスマスが12月25日だというのは、大ウソだ。エスが生まれた際、羊飼いたちが外で寝ずの番をしていたという記述がある。イスラエルといえど、冬はかなり寒い。体感では東京と同じくらい。私が留学していた時は、大雪が降ったくらいだ。外で寝ずの番をしたら、凍え死んでしまう。

 このことなどから、イエスは冬ではなく、春頃か秋頃に生まれたというのが通説である。しかし、聖書に具体的な日にちが書かれていない以上、ハッキリとはわからない。

 それなのに、なぜ12月25日がイエスの誕生を記念するクリスマスとなったのか。それは、ローマ帝国が「キリスト教」を公式に認めた頃、その地域で盛んだった「ミトラ教」の太陽神の祭りがその頃だったからだ。つまり、クリスマスは元々「異教の祭り」なのだ。これを未だに大真面目に祝っているのは、ちゃんちゃらおかしい話である。

 イエスがいつ生まれたかわからない以上、365分の1の確率で、12月25日に生まれた可能性も否定できない。だから、12月25日をその日だと決めて、世界中みんなで祝うのは、良いことだと思う。今さら違うと声をあげても、もうほぼ世界中で認められた祭日となってしまったのだから、それを覆すエネルギーを使うより、利用するエネルギーにした方がいい。聖書にダメと書いてない以上、それを否定する必要はない。

 とはいえ、聖書には、覚えておくべき大切な祭りについて記述がある。私が問題だと思うのは、クリスマスやイースターなどという、あえて言えば「どうでもいい」祭りばかりに力を注いで、本来聖書が命じている大切な祭りをおろそかにしている点だ。では、その祭りとは何なのか、見ていこう。

 

 

▼聖書の7大祭り

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 聖書には、7つの大切な祭りが書かれている。そして、それぞれが重要な意味を持っている。以下の祭りだ。

 

【聖書の7大祭り】(時期はユダヤ暦のため毎年ズレる)

1:過ぎ越しの祭り(ペサハ)<春・3月~4月頃>

2:種なしパンの祭り(ハグ・ハ・マツォット)<春・3月~4月頃>

3:初穂の祭り(ヨム・ハ・ビクリーム)<春・3月~4月頃>

4:7週の祭り(シャブオット)<春・5月~6月頃>

5:ラッパを吹き鳴らす祭り、ユダヤ新年(ヨム・テルーア、ロシュ・ハ・シャナー)<秋・9月頃>

6:大贖罪日(ヨム・キプール)<秋・9月頃>

7:仮庵の祭り(スコット)<秋・9月~10月頃>

 

 これに加えて、毎週土曜日の「安息日」が大前提の祭りとしてある(毎週お祭りイスラエル!) 。

 これらひとつひとつを解説していると、日が暮れてしまうので、今回は割愛するが、どれも聖書の中で命じられている、大切な祭りだ(興味がある方はレビ記23章を参照)。

 なぜ大切なのか。ユダヤ人のための祭りであって、我々外国人には関係ないのではないのか。とんでもない。聖書には、様々な「伏線」がある。これらの祭りは、全て大切な「伏線」になっているのである。詳しくは省くが、だいたい、以下である。

 

<春の祭り>

1:過ぎ越しの祭り →イエスの十字架

2:種なしパンの祭り →イエスの十字架と復活全体

3:初穂の祭り →イエスの復活

4:7週の祭り →ペンテコステ聖霊が下った日)、教会の共同体の誕生

<秋の祭り>

5:ラッパ(角笛)を吹き鳴らす祭り、ユダヤ新年 →イエスの再臨? 携挙(けいきょ)?

6:大贖罪日 →大艱難時代? 最後のさばき?

7:仮庵の祭り →千年王国? 新しいエルサレム? 新しい天と地?

 

 1~3の祭りは、実は1週間のうちに凝縮されている。全てが、エスの十字架の死と復活の伏線となっている。この3つの祭りは、有名なモーセの時代に、イスラエルの民がエジプトから脱出する時の話が元ネタとなっている。この過ぎ越し、種なしパンの祭りの意味を学べば学ぶほど、全てがイエスにつながってくる。興味がある人はぜひgoogle先生で検索して学んでみてほしい。

 現代の教会に行くと、ふかふかのパンとワインが出されて、「これがキリストのからだです」とか言ってみんなで食べる儀式がある。いわゆる聖餐式<せいさんしき>だ。イエスが弟子たちとメシを食いながら、「これを覚えて行え」と命じた、有名な最後の晩餐のシーンである。この食事、実はタダの食事ではなく、この「過ぎ越しの祭り」の食事なのである。だから、本来はイースト菌でふくらんだパンではなく、イースト菌が入っていない「種なしパン」(マッツァ)で聖餐式をやるのが正しい。マッツァは、パサパサしたクラッカーのような味。正直美味しくない。興味がある人は、一度食べてみては。アマゾンとかコスコとかで買える。

 7週の祭り、(シャブオット)は、新約聖書にも記述がある(使徒の働き2章)。ギリシャ語では、「ペンテコステ」ともいう。過ぎ越しの祭りから7週間経った次の日、つまり50日目なので、ギリシャ語の50日目を表す言葉が由来だ(7x7=49+1=50日目。ペンタゴンというのを思い出せば覚えやすい)。

 この日に、イエスが約束した「助け主」である「聖霊」が弟子たちの上に下った。この時から、弟子たちは、イエスの福音を大胆に伝えるようになった。福音が世界中に広がっていったのだ。この時が、教会の共同体の誕生である。7週の祭りは、この聖霊の働きと、共同体の誕生の伏線となっているのである。

 

▼まだ未回収の「伏線」 

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 秋の3つの祭りは、未だにが未回収の伏線である。

 秋の祭りは「ラッパの祭り」から始まるが、新約聖書には、「ラッパ」と書いてあるが、これは金管楽器のラッパではなく、「角笛」を指す。イスラエルでは、進軍の合図や、集合の合図、神殿での賛美などの用途に使われた。新約聖書では、この「ラッパの音」の合図で、イエスが地上に戻って来るという記述がある。それとともに、イエスを信じる者が一気に引き上げられるとある。

 

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身(イエス)が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主(イエス)と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

(テサロニケ人への手紙第一 4:16~17)

 この箇所は、「イエスの再臨」だとか、「携挙(けいきょ)」とか言われる。ただ、伏線が未回収なので、具体的にどういうタイミングで、どういう形で実現するかは、誰もわからない。残念ながら神の計画のネタバレサイトはない。推理している人たちは大勢いるが、本当のところは誰も知らない。知り得ない。ただ、この世界の筆者である神のみぞ知っている。実は、驚くことに、イエス自身も知らないと言っているのだ。

 

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子(イエス)も知りません。ただ、父(神)だけが知っておられます。洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らにはわかりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。

(マタイの福音書 24:36~39)

  イエス自身も知らないというのだから、私達人間が深入りするのはよしておこう。まさに、神のみぞ知るセカイなのである。もしあなたの身の回りに「イエスはもう来た」とか、「いついつに来る」とか言っている人がいたら要注意。某隣国には、何百人とそういう人がいるという。推理するのは楽しいが、エスの信者に必要なのは、いつ来てもいいように、絶えず目を覚まして準備しておくことなのである。この未回収の伏線が、いつ実現するのか、楽しみに待とうではないか。

 

 

▼聖書の祭りを祝おう!

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 現代の教会は、なぜ聖書の祭りをやらないのか。実は、カトリックが大きな間違いを犯している。キリスト教が国教として認められると、教会組織は、「こういうユダヤ教の祭りなんかを祝ったら、教会から除名するからな!」というおふれを出してしまったのだ。なんという暴挙。なんという間違い。なんとういう愚かな行為だろうか。彼らは、この偉大な「伏線」を理解できなかった。新約聖書にガッツリ伏線が回収されているのに、それに気がつけなかったのだ。

 今からでも遅くない。私は、現代の教会にこれらの祭りを祝うようにオススメしたい。勘違いしてほしくないが、別に外国人である私たちに祭りを行う義務はない。ユダヤ教のようにマジで安息日を守って働くなとか、1kmしか歩いちゃいけないとか、ケータイ使うなとか言っているわけじゃない。余談だが、ホンマモンのユダヤ教徒の人は、大贖罪日などの例祭には、歯も磨かないそうだ(ばっちい!)。

(※上記はユダヤ人以外がユダヤ人みたいに律法を厳守する必要はないという趣旨で、ユダヤ教を揶揄する意図はない)

 大切なのは、その祭りの節々に隠されている伏線を学び、思い出すことだ。1年に7回ある祭りを祝い、経験し、神がどんなに大きいスケールで伏線を隠し、それを成就したのか、毎年思い返そう。そして、神がどれだけの計画を私達のために用意しておられるのか、知り、感謝しようではないか。そのために、これらの祭りを、たとえ日本人であっても祝おうではないか。

 クリスマスやイースターも大切だ。ペンテコステを祝う教会もある。大切な文化だ。でも、それは「キリスト教」という宗教の文化になっていないか。もう一度、聖書にどう書いてあるか、その伏線はどう実現したのか、基本に戻ろう。文化の祭りを祝うのならば、なおさらのこと、聖書で大切と書いている祭りを祝おう。私は、この7つの祭りは、日本の教会でもおおいに活用できると思う。

 別に、本当に種なしパンを用意したり、ワインでやる必要はない。ビスケットでもクッキーでも、ぶどうジュースでもコーラでもいい。別に、仮庵を作らずとも、かまくらを掘って、その中でモチを焼いてもいい。季節は違うが。大切なのは、そこに込められた意味なのだ。

 でも、できれば「形」も大切にしてほしい。なぜなら、その儀式の一つ一つには、隠された意味があるからだ。例えば、ユダヤの伝統では、過ぎ越しの祭りの食事の際に、種なしパンを3つ重ねる。祈りをした後に、そのパンの真ん中の1つだけを割る。これは、イエスを信じる人々の間では、「父・子・聖霊」のいわゆる「三位一体」の真ん中、「イエス」が犠牲となった象徴だとされている。モーセの時代からの伏線が、ここで回収されたのである。

 そのように、祭りの細かい指示のひとつひとつに、実は意味が隠されている。外国人である私達が、そこまでやるのはマストではないが、実際にやってみると、意外に面白い。仮庵の祭りの際に、実際にテントを作ってみるのも面白いだろう。そこで星を見上げて、神を思い起こしてみたら、意外とその場所があなたのイスラエルになるかもしれない。イスラエルの民の疑似体験ができるかもしれない。聖書の祭りを、あなたも体験してみてはどうだろうか。

 聖書がせっかく伏線のヒントを提供しているのに、それを無視してクリスマスとイースターだけやっているのは、どうも勿体無いと思うのだ。

 

あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。あなたがたの子どもたちが「この儀式には、どういう意味があるのですか」と尋ねるとき、あなたがたはこう答えなさい。「それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ」すると民はひざまずいて礼拝した。

出エジプト記 12:24~27)

これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。

レビ記 23:43)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【参考リンク集】

過越の祭り | 聖書入門.com

種なしパンの祭り | 聖書入門.com

初穂の祭り | 聖書入門.com

七週の祭り | 聖書入門.com

ラッパの祭り | 聖書入門.com

贖罪の日 | 聖書入門.com

仮庵の祭り | 聖書入門.com

 

主の例祭についての預言的意味 - 牧師の書斎

三つの主の例祭 - 牧師の書斎

春の四つの主の例祭の真意 - 牧師の書斎

秋の三つの主の例祭の真意 - 牧師の書斎


ユダヤの7つの例祭(英語)7Jewish Holidays

www.hebrew4christians.com


 

【就活イエスNo.1】「絵は人を喜ばせられる」大鍔ひとみ@似顔絵会社勤務

 今回の週刊イエスはスピンオフ

「就活イエス

エスを信じる人たちの「就活」、「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズの第一回は、大鍔ひとみさん!

 

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Profile

名前:大鍔ひとみ(Hitomi Ohtsuba)

生まれ:1992年

出身:パプアニューギニアラバウル

最終学歴:SYME(School of Youth Ministries in English)

World of Life Bible Institue Jeju

職業:似顔絵会社勤務

 

 

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 今日はよろしくお願いします。

f:id:jios100:20180702132810j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひとみちゃんの人生マジクレイジーすぎて、どこからツッコめばいいのか・・・

f:id:jios100:20180702132810j:plain そうかも(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain 似顔絵の会社に勤めてるんだよね? 普段はどんな仕事をしているの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。今は本当にいろいろ。アーティスト養成コースをサポートしたり、印刷物を準備したり、出席簿をつけたり、スタンプカードを準備したり、大人のコースをサポートしたり、最近は子供にアートを教えたりしてるよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひぇ~~マルチタスクゥ~。

f:id:jios100:20180702132810j:plain テキトーじゃない?(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain 実は、僕のアイコンもひとみちゃんが描いてくれたんだよね。

f:id:jios100:20180702132810j:plain イスラエルにいた頃の変顔写真を見て、つい描いちゃった(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain あまりにもいい出来だったので勝手に拝借しました。スンマセン。

 

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 ↑ひとみさん作、宣教師のおじさんの似顔絵。力作だ!

 

パプアニューギニアでの生活

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f:id:jios100:20180702131349j:plain まず生まれがパプアニューギニアっていうのがもうね。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。両親が宣教師で、パプアニューギニアで聖書を翻訳してたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain その頃は何をして遊んだりしてたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 意外と結構普通で、ブランコとかかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ブランコ(笑)

f:id:jios100:20180702132810j:plain 家の中にもブランコがあって、学校でもよくブランコの取り合いをしてたよ。あとは、雨が降った日は、マッドスライディングっていって、坂道を泥だらけにになりながら滑るっていう・・・私は親に禁止されてやらせてもらえなかったけど。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それ絶対楽しいやつやん。・・・いつまでパプアニューギニアに?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 小学校2年生が終わるまで。その後は、青森に少しだけいて、その後はずっと北海道。高校卒業するまでいたかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 絵は小さい頃から描いてたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そうだね。両親も兄弟も絵が好きだし、上手だったから。その影響もあって物心ついた時からずっと何かしらの絵は描いていたなぁ。

 

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パプアニューギニアにいた頃

 

▼聖書学校へ ~信仰のターニングポイント~

f:id:jios100:20180702131349j:plain その後の進路は?

f:id:jios100:20180702132810j:plain それが、その頃はずっと日本から出て行きたくて。それでTOEFL(※英語圏に留学するための英語力テスト)を受けようとしたんだけど、買った参考書があまりにも厳しすぎて嫌になっちゃって(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 難しすぎて逆にやる気なくなるみたいな。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。それで、いろんな人に相談したんだけど、結局自分がどうしたいか分からなくなっちゃって。そんな時に、一番上の兄と電話で話して。

f:id:jios100:20180702131349j:plain お兄さんは何と?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 兄が、「ひとみなぁ、人生なんてそう計画通りにいかないものなんだ。水の流れに自分を任せるように肩のちからを抜け」って。それが本当に腑に落ちて、「あ、そうか。神様が私に行ってほしいと思っている道に行きたいです」と素直に祈れるようになったんだよね。それで、祈り始めたすぐ後に、SYME((School of Youth Ministries in English)のことを知って。

f:id:jios100:20180702131349j:plain SYME<エスワイエムイー>とは?

f:id:jios100:20180702132810j:plain Word of Life(ワードオブライフ)っていう団体の、聖書と英語を学ぶ短期の学校。軽井沢にあるんだけどね。NHKの社員寮の跡地ですっごいいいところ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain またいいところを抑えたもんですな。

f:id:jios100:20180702132810j:plain 学校から浅間山がきれいに見えるよ~

 

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↑SYME時代

f:id:jios100:20180702131349j:plain SYMEには何年いたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 元々1年のコースで、その後は大体みんなもっと本格的な聖書学校に行くんだよね。私も1年軽井沢で学んだ後、韓国のチェジュ島にある聖書学校に通ったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain その時期に聖書のことを学んだんだ。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。両親は宣教師だったから、聖書の話は知ってはいたけど、ほとんど表面的にしか読んではいなかった。SYMEに入ってから、もっと深く、本格的に聖書を読むようになったんだよね。軽井沢とチェジュ島での2年間が、私の信仰のスタート地点な気がする。初めて親元を離れて、親の信仰から自分の信仰になったというか。その頃が実は信仰のターニングポイントで、今までずっと日本から離れたいという気持ちがなくなって。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 僕もそういうことあったなぁ。それはどういうきっかけで?

f:id:jios100:20180702132810j:plain チェジュ島の学校のプログラムで、タイに宣教旅行に行ったんだけどね。その時に、日本がアジアでも最もイエス様のことが伝わっていない国のひとつだと知って。ずっと外国で、親の苦労する姿を見ていたから。現地の言葉を学んで、文化を知って、それから聖書翻訳をするっていう。だから、「私はなぜ日本語も日本の文化も知っているのに、海外にいるんだろう」って思って。その時から、逆に日本に対する思いを持つようになった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain その頃も絵をたくさん描いてたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain それが、SYMEにいた頃から、絵を全く喜んで描けなくなっちゃった時期があって・・・

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、そんな時があったの?!

 

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 ↑この頃はTammy<タミー>と呼ばれていた。

 

▼絵が描けない?! ~スランプを乗り越えて~

f:id:jios100:20180702131349j:plain 絵が描けないってどういうこと?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 理由は自分でもよく分からないんだけどね。その時も、クラスメイトの似顔絵なんかを描いていたんだけど、絵を描くのが全然楽しくなくなっちゃって。本当に不思議。自分の得意なことのはずなのに、なぜか喜んでできない。むしろ虚しさがあって。ただ楽しくなくなっちゃったっていうより、もっと深いスランプ。絵を描くのをもうやめようと思った。

f:id:jios100:20180702131349j:plain えーーっ! もったいない!!

f:id:jios100:20180702132810j:plain もう、絵が描けるってことを誰にも知られたくなかったくらいなんだよね。だから、軽井沢からチェジュ島の学校に移った時は、自己紹介でも全く絵のことは言わないで、ナイショにしてた。もう虚しさが苦しいし、そういう気持ちで描いてるってことも知られたくないし。韓国で新しい人間関係の中に入ったから、これはいいタイミングだと思って、絵は封印したんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも、今は絵を描いてるよね? どうやって乗り越えたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain やっぱり、隠そうとしても、情報っていうのはどこからか漏れ伝わるもので(笑)。どうやって伝わったか知らないけど、ある日、小学生の男の子が、「似顔絵描いてよ~」って言ってきて。私は「え~~、今そういうコンディションじゃないんだけどな・・」と思いつつ、小学生相手だったから断れなくて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それで・・・

f:id:jios100:20180702132810j:plain 似顔絵を描いたら、その子がものすごく喜んでくれて。私も素直にすごく嬉しかったんだよね。その時に、「ああ、似顔絵って人を喜ばせられるんだ」って気づいた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なるほど。似顔絵のスランプを脱したきっかけも、またその似顔絵そのものだったんだね。

 

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↑チェジュ島の学校

 

▼絵を描くことが、神の愛への応答

f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、韓国の学校が終わって、日本に帰ってからは何をしてたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 北海道に戻ってから、さぁこれからどうしようってバイトしたりしてたんだけど、やっぱり絵のことが忘れられなくて。絵に関わる仕事をしたいなぁって。そんな時に、たまたま今の会社のお店に行ったことを思い出して。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 東京のお店?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。浅草の店舗で。その時にお店で少し話した似顔絵師さんが今の上司なんだよね(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 稀有なこともあるもんや。

f:id:jios100:20180702132810j:plain (笑)。で、その時にその似顔絵師さんに、「似顔絵師養成コースがあるよ」っていうのを聞いて。それが、北海道に戻ってもずっと頭に残ってたんだよね。その後もウェブサイトとかいろいろ調べていたりはして。でも、神様がその会社で働くことを私に望んでるかどうか確信が持てなかった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain どうやってそこから受験に至ったの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 実は、お世話になってる牧師さんに相談したら、「ひとみちゃん、僕たちには自由意思があるんだよ」って。「自由があることは神の愛だ。それを拒絶する自由もあるし、その愛を受け取って、愛する自由もあるんだよ」って言ってくれて。ああそうか、私は自由なんだって素直に思えたんだよね。そう考えたら、私がその神様の愛に自由に応答することは何かと思ったら、もう絵を描くことしかなかったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ナルホド。その言葉が一歩踏み出すキッカケになったんだね。

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain その後、その似顔絵の会社を受けたの? 

f:id:jios100:20180702132810j:plain いや、英会話教室の先生をしばらくやってた。お金をためつつ、似顔絵の会社を受験する準備を進めてて。それも普通の就活とは違ってね・・・ 

 

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 ↑英会話教室

 

▼一本釣りの就活 ~挫折と転機~

f:id:jios100:20180702131349j:plain 普通の就活とは違う?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 全く違ったよ。今働いている似顔絵の会社は、まず2ヶ月間集中で「プロ養成コース」を受ける。もうひたすら課題が出て、描いて描いて描きまくる。それで、講師からレビューをもらって、また描き直す。その繰り返し。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それが終われば採用?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そんな生易しいものじゃなくて、養成コースの最終試験で成績が良ければ、その後の「特別コース」にはいれて、そこでまた課題漬け。その後でやっと正社員になるための試験を受けられるんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひぇ~~長い道のり。他の会社は受けなかったの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 受けなかった。もうこの会社でアーティストになりたいって決めてたから。

f:id:jios100:20180702131349j:plain まさに一本釣り! 会社はどういうポイントで選んだの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 3つのポイントがあって。1つはやっぱり自分がやりたいこと。私にとってはさっきも言ったように、それが絵だったから、絵に携われる会社。

2つ目は、その会社のリーダーシップがどうか。言い換えれば、社長がどんな人か。インターネットで会社の情報を集める過程で、社長のブログや講演のビデオがたくさん出て来て。それで、ああ、熱い想いを持っていて、リーダーシップに優れている人だなァって。それだけじゃなくて、私が好きな絵とスポーツ両方の経験と情熱を持っているっていう点も惹かれたかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain へ~~。僕は最終面接の直前まで社長の名前知らなかったヨ・・・(笑)

3つ目は?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 3つ目はやっぱり給料面かな。奨学金の返済もあって、それに十分な待遇を得られるっていうのは必要な条件だった。そういう意味では、この会社は好きな絵で、きちんと正社員として雇ってくれるっていう意味で、これ以上ない条件だったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain やっぱり背に腹はかえられないんだぜ。

 

f:id:jios100:20180702143026j:plain

↑会社の先輩と

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも、最終的にはアーティストにはならなかった?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。私の時は、「プロ養成コース」に15人の受講者がいて、その中の上位3位だけが次のコースに進めることになってたんだ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain え、順位をつけるの?!

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。描いた絵が壁にはられて、自分以外の人に順位をつけていくの。講師がつける点数は価値が高いんだけどね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そういうもんなのか。その中で3位以内に入らないといけないなんて、めちゃくちゃ狭い門だね。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。それで、1位から3位まで発表されたんだけど、私の名前は呼ばれなかった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain えーーっ! ちなみに何位?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 気になって何位だったか聞いてみたら、4位だった・・・。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うわ~~。ギリギリ・・・。ベルギー戦くらい悔しいわ。

f:id:jios100:20180702132810j:plain やっぱり悔しかったよね。小さい時から絵に関しては誰にも負けたことがなかったから。でも、私より上の3人は、やっぱりすごく上手かったし。絵って悔しいんだけど、大体この人の方が上手いとか下手とかすぐ分かっちゃうんだよね。何よりその3人は覚悟が違った。2回までしか受験できなくて、後がない人や、毎週東北から通ってくる人もいて、本気度が私と違ったなという感じ。だから、結果には納得してたかな。やっぱりプロになるっていうのは、生半可な気持ちじゃダメなんだと痛感したよ。

 

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f:id:jios100:20180702131349j:plain じゃあ、その後どうやってその会社で働くことになったの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 今の会社とは、それっきりだと思ってた。でも、その後2ヶ月ぐらいしたら、急に連絡があって。「本社で事務職として働かないか」ってオファーが来たんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 縁が切れたと思ったら復活。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。私としては、奨学金を払い戻さないといけないし、英会話教室の仕事だけでは経済的に厳しかった。想像していたアーティストとしての仕事ではなかったけど、それでも絵に携わりながらお金を稼げるなんて、これ以上ない条件だったんだよね。ただ、英会話教室の仕事との兼ね合いもあって、1年間は非正規で働いて、その後に正社員にしてもらった。

 

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 会社に入ってからは、どんな仕事をしていたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain まずは営業を知れっていうことで、営業部。似顔絵の受注を電話やインターネットで受けて、それを整理してアーティストさんに依頼を流していくっていう感じの仕事をしてた。店舗に来られないお客さんもいっぱいいるから。ネットとか電話とかでお問い合わせ対応をして。写真を複数枚送ってもらうんだけど、プリクラとかSNOWはダメ(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain アーティスト目指していた身からすると、「ああ、自分も描きたい~~」ってならなかった?

f:id:jios100:20180702132810j:plain それは意外とあんまり。仕事を覚えるの精一杯だったし。自分でちょこちょこ描いてはいたからね。

 

▼これから目指していること

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今は子供にアートを教えているんだよね。

f:id:jios100:20180702132810j:plain 去年の12月から部署が変わって、教育部署になった。いろいろな仕事があるけど、子どもたちに英語でアートを教えるクラスを担当したりしているよ。子どもたちは、集中するものはものすごく集中するけど、逆にそれだけになっちゃったりして、カリキュラムを円滑を進めるのが、結構難しかったり。でも、子どもたちの目の輝きを見ていると、やってよかったなぁと思うし、アートを好きになるきっかけになってもらえたら嬉しいな。

 

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 ↑ 子供のアート教室

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今後もアートに携わっていく?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 具体的な形は見えていないけど、絵はずっと描いてきたし、これからも描いていくつもり。友人に発信も大事だと言われて、ちょこちょこインスタに描いた絵をアップとかもしてるよ。まだまだやりはじめたばっかりだけど、フォロワーが増えたり、「いいね」がもらえたりすると、素直に自信になるよね。でも、同時に絵で生計を立てる難しさも知っているし。あとは、やっぱり神様のために直接、宣教師とか、伝道師とか、形は分からないけど、何かをしたいという気持ちもやっぱり強くあって。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 正直、僕もやりたいこといっぱいあるなぁ。

f:id:jios100:20180702132810j:plain やっぱり、それは日本に戻ろうと思った時から強く思っていて。今は、一生懸命働きながら、将来のことを模索している感じかな。目の前の一つひとつのステップのために祈りながら。

 

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タブレットには、今まで描いた作品がズラリ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain イエスを信じる者として働いていて、職場で何か変わったこととかあった?

f:id:jios100:20180702132810j:plain うーん。何かあったかなぁ。特別なことは思いつかないけど、ある上司に「大鍔さんは一番ポジティブだよね」と言われて。自分では全くそんな自覚はなくて、むしろ落ち込んでいる時もあったんだけどね。もしかしたら、エスさまに赦されているっていう気持ちが、自然と前向きな姿勢につながっているのかなとは思うかな。

 あとは何を信じているかって話しになったときに神様の話ができるのは嬉しい。いずれは違いをもたらすんじゃないかなと。会社だけにとどまらず。その人の人生に違いをもたらすことはできるんじゃないかなって。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うーん。まさに地の塩、世の光、ですな!

f:id:jios100:20180702132810j:plain テキトーじゃない?(笑)

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 ↑ コバヤシのイチオシ作品。

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に、ひとみちゃんイチオシの聖書の言葉を教えてください。

f:id:jios100:20180702132810j:plain いつも心に覚えたい聖書の言葉が2つあるので紹介します。

詩篇16:8「私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません」

箴言16:3「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」

 

f:id:jios100:20180702132810j:plain いつも、自分ではなく、主権は神様にあることが分かっていたら、揺れ動くことはないっていう点で、この2つは共通点があるかなと思って。正直、常にこの言葉を覚えてそのとおり生きられるわけじゃないけど、いつも神様のもとに引き戻される言葉です。

f:id:jios100:20180702131349j:plain いつも、自分ではなく、神に人生を委ねていきたいね! 今日は、お時間いただきありがとうございました。

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】ステージ牧師とピロートーク牧師、どちらがあなたの人生を変える?

ステージの上でのメッセージ(説教)が上手い牧師と、メッセージは下手だけど個人的に話せる牧師、どちらが人生に影響を与えるでしょうか。

 

 

良い説教とは?

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 日曜日に教会に行くと、ほとんど必ず牧師による「説教」がある。教会によっては「メッセージ」とも言う。牧師が聖書を引用し、何やら語るのだ。短い時もあれば、長い人だと1時間以上になる時もある(たいてい途中からうんざりする)。

 この「説教・メッセージ」が「礼拝」のメインディッシュだと考える人もいるようだ。私は違うと思う。生き方そのものが礼拝であり、メッセージは「礼拝会」の一要素でしかない。詳しくは以前書いた記事を参考にしていただきたい礼拝についての記事はこちら)。もっと言えば、牧師だけがメッセージをする権利があるとも思っていないが、そこは後日。

 さて、生き方そのものが礼拝であるならば、人生に影響を及ぼす話が、一番いいメッセージだろう。メッセージの中に面白おかしく笑えるジョークがあったり、難しいヘブライ語ギリシャ語の解説ができても、聞いている人の生き方が全く変わらなければ、意味がない。まだ落語や政治家の演説を聞いている方がマシだろう。あなたの人生が、よりイエスの生き方に近づくか、というのがメッセージと落語や演説との大きな違いである。

 

 

ステージ牧師とは

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 「メッセージ・説教」の観点から見ると、牧師の中には、大きく分けて「ステージ牧師」「ピロートーク牧師」の2種類いると思う。もちろん、人それぞれなのだが、一旦大胆に二分してみる。

 「ステージ牧師」というのは、その名のとおり、ステージ(講壇)でのメッセージが上手い牧師だ。この手の人たちには、天才的な才能がある。ジョークやエピソードトークを織り交ぜ、40分のメッセージを飽きさせずに語れる。誰も居眠りしない。テンポよく話すが、大事なところでは力を込めて語る。わかりやすく、ポイントが明確。聖書の背景や、ヘブライ語ギリシャ語の深い解説がある・・・等々、上手な人にもタイプが分かれるが、本当に心から関心するトーク技術がある。これがステージ牧師だ。

 彼らは、おそらく何回も練習し、努力して「聞かせる技術」を培ったに違いない。中には生まれつきのステージ牧師もいて、そういう人は自分が普段、神から語られていることを話し出すと止まらなくなる。で、たいてい用意した原稿よりそっちの方が面白いし、心にも残る。

 あなたがクリスチャンならば、心の中に「ああ、あの人はそうだな」と思い浮かぶ人が何人かいるだろう。こういうステージ牧師たちは偉大なカリスマ性を持っていて、その人の名前だけで人が集まり、大きな集会がひらける。毎回なんだか同じような話をしていても、「●●先生のお話素晴らしかったです~!」とオバちゃん達が言う。そんな人たちである。

 私はそういうステージ牧師たちを尊敬する。やはりそのトーク技術には感服せざるをえない。しかし、人生に影響を与えたかというと、微妙なところだ。今までそういう人たちのメッセージが「面白かった」とう記憶はあるのだが、では何を学んだか、それが自分の人生にどう影響を与えたかと考えてみると、全く思い出せないのである。実は、そのような「ステージトーク」は、その時の気分を盛り上げる効果や、何かのキッカケになる場合はあっても、それ自体が人生に影響を及ぼすケースは比較的少ないと、私は思う。

 

 

ピロートーク牧師とは

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 では、「ピロートーク牧師」はどうだろう。この人たちは、たいてい人前でのメッセージはそんなに上手くない。むしろ下手くそな人も多い(自分調べ)。メッセージは退屈だし、ジョークはそんなに上手くないし、なんだかオドオドしている人もいる。少しでも分かりやすくしようと工夫したたとえ話は、余計に話を分かりづらくする。中には細かい枝葉の部分に気を使いすぎて、メッセージのポイントが何だかサッパリ分からないという人もいる。読者の中には「ああ、いるいる~」と思い浮かぶ人がいるだろう。

 しかし、彼らは、個人的な会話になるとめっぽう聞き上手なのだ。そして、質問上手。たまに、グサッと心に刺さる聖書の言葉もプレゼントしてくれる。そういう牧師たちは、キャンプで寝る前だとか、洗い物をしている時だとか、お風呂に入っている時だとか、ささいなシチュエーションで個人的な時間を作り出すマジシャンだ。しかも、彼ら悩みを抱える人を見つけ出す超能力を持っている。そういう牧師たちが、目立たないが大勢いる。

 私は彼らを「ピロートーク(=枕をともにして話す)牧師」と呼ぶことにした。彼らは大衆からの称賛は受けないし、ほぼ無名である。しかし、見えないところで多くのクリスチャンたちを育てているのだ。

 実のところ、ピロートーク牧師たちとのささいな時間は、ステージ牧師たちの面白い1時間のメッセージよりも、はるかに影響力がある。そこでさりげなく出された聖書の言葉は、意外と忘れないもので、人生の礎となる。彼らとのコミュニケーションが、イエスとの関係を修復し、より強固なものとする。私はそういうケースを何回も体験したし、目撃してきた。

 私が体験したケースをひとつ書いてみよう。(出てくる登場人物は全て仮名)

 

 

「今日はキミと過ごそう」

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 イスラエルという国は、過激なようで実は時間がゆっくり流れている。留学中の僕は、ヒマを持て余していた。そんなとき、信仰の師匠であるユダヤ人のヨセフから、一通のメールが来た。

「やぁ、タクマ。今度、エルサレムで大きなアジア人信者向けの集会をやるんだけど、来ないかい?」

 ヨセフは典型的なアメリカ生まれのユダヤ人だ。彼は、名門コロンビア大学の卒業で、日本語ペラペラ。何を思ったか禅を学びに日本に来たところ、なんとイエスに出会ってしまい、クリスチャンとなったという人物である。それ以来、長年日本で宣教師をしていた彼は、満を持してイスラエルに帰還した。

「日本、韓国、中国のクリスチャンたちを300人ぐらい集めて、東アジアの仲間が一致する会合にしたいんだ」

 彼はそう語った。僕は二つ返事でOKした。夏休みで、特にやることもなかったので、丁度よかった。留学先のハイファのバスターミナルで、35シェケル(700円)払って緑色のエゲット・バスに乗り、3時間半ほど高速道路を走ってエルサレムに着いた。10月のはじめで、「仮庵の祭り」の季節だった。会場のホテルに向かうタクシーの中から、黒服の超正統派のユダヤ教の家族が祭りの準備のために、緑色のしゅろの葉っぱを手にして歩くのが見えた。街のあちこちに、スカー(仮庵)と呼ばれるほったて小屋が並んでいた。

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↑スカーと呼ばれるほったて小屋

 ホテルに着くと、ヨセフが迎えてくれた。「久しぶり。元気だった?」彼は流暢な日本語で笑った。サンタクロースのような立派な白いひげの奥に、ニッコリ笑う小さな口が見えた。ヨセフに聞くと、今回の参加者の大半は中国人と韓国人で、日本人は僕を入れて、たったの3人だという。日本人との関わりに飢えていたので、少しガッカリした。

 その日に、3人の日本人参加者でお昼を一緒に食べることになった。1人は6歳年上の友人、ヨシヤ。もう1人は、岡さんといって、60代くらいのコワモテだった。宮城で牧師をしているという彼は、今回の集会にゲストとして呼ばれていたのだった。

「タクマくんは、なんでイスラエルに留学しているの?」

 食事をしながら、岡さんはさりげなく僕に話しかけてきた。

 僕は、それきたとばかりに話しだした。自分が16歳でイエスを信じたこと。すぐに牧師になりたいと思ったこと。アメリカの神学校に行こうと思ったが、神に止められていると感じ、日本の大学に進学したこと。聖書の舞台であるイスラエルに留学に来て、ヘブライ語を学んでいることを話した。この手の自己紹介は慣れたもので、僕のお得意のトークだった。

「へぇ、牧師になりたいの」

 ほらきた。僕はほくそ笑んだ。「牧師になりたい」とうのは、キラーワードで、これを言うだけで、大抵のクリスチャンの人は「この人はしっかりしている」とか思ってくれるのだ。とはいえ、ウソを言っているわけではなく、本心だったのだが。

 しかし、岡さんは違ったようだった。

「へぇ、牧師になりたいの。なんで?」

 岡さんは、パグみたいなしわくちゃの顔を、さらにしわくちゃにして笑った。

「え、神様の愛を伝えたいからです」

「へぇ、なんで神様の愛を伝えたいの?」

 岡さんは続けた。なんだこの人は、めっちゃ聞いてくるじゃん。

「神の愛を知って感動したからです。福音を伝えたいからです」

「素晴らしいね。でも福音を伝えるのは、牧師にならなくてもできるよね」

 確かに。僕はなんとか答えようと必死だった。

「そうですね。でも、やっぱり”フルタイム”で神様に仕えたいんです」

「そうなんだね。じゃあ、フルタイムで神様に仕えるってどういうこと?」

「うーん。神の栄光を表すことじゃないでしょうか」

「ほう」

 岡さんの、細い目の奥がキラリと光った気がした。少しの沈黙。そして彼は続けた。

「神の栄光って何だと思う?」

「えっ、神の栄光・・・ですか?」  

 僕はあせっていた。腋から汗がつーっと流れた。心のたまねぎを剥かれて、剥かれて、何も残らない自分がさらけ出されたようだった。顔が火照ってきた。

 フルタイムで仕える。神の栄光。漠然と考え、使ってきたワードは、一体何なのだろうか。答えを必死で探す。そして、答えを持っていない自分に気づく。ない答えを必死で探して、作り出そうとして、見つからない。負けた。僕は何も答えられなかった。

「よし、決めた」

 岡さんは立ち上がって、右手で僕の肩をポンと叩いた。

 

「今日は、君と過ごそう」

 

 彼は、既にめいいっぱいしわくちゃな顔を、もっとしわくちゃにして笑った。は? 僕と過ごす? 何を? それにこの後はメインの集会があったはずだ。

「え? でも集会は・・・」

「いいんだ。こういう集会ってあんまり興味ないんだよね。それより、今目の前にいる君と話したい」

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 岡さんは、僕をホテルの部屋に招き入れた。セミダブルのベッドが2つある大きな部屋だった。小さなライトスタンドのオレンジ色の光が、部屋を薄暗く照らしていた。僕らは、ベッドに腰掛けて、それからその日の夜まで語り合った。

「ザアカイの話を知っているよね?」

 もちろん知っていると、答える僕。じゃあその箇所を開こうか、と岡さん。僕は中途半端に使い古した聖書をリュックから取り出し、福音書をひらいた。どの福音書にあった話なのかも、どの章だったかも分からない。焦りを必死で隠しながら、震える指先で聖書のページをめくった。岡さんは、ただ黙って、しわくちゃの顔でずっとほほえんでいた。

 

 僕はやっとルカの福音書19章にザアカイの話があるのを見つけた。「読んでみようか」と岡さん。僕らは2人でザアカイの話を読んだ。イエスがエリコの街に来た時、大勢の人々がイエスを見にやってきた。税金を取り立てる仕事をしていたザアカイも、イエスを見にやってきた。彼は金持ちだったが、皆の嫌われ者だった。彼は背が低かったので、人混みの中でイエスを見ることができなかった。そこで、木に登ってイエスを見ようとした。イエスは、木の上にいるザアカイを見つけ、声をかけた。

「今日、あなたの家に泊まることにしてあるから」

 そのイエスの一言が、ザアカイの人生を変えた。ザアカイは、不正に取り立てていた税金を返す約束をした。イエスはザアカイの心の変化を見て、「今日、救いがこの家に来ました」と宣言したのであった。

 

 ザアカイを見つけたイエスの姿が、岡さんの姿と重なって見えた。部屋のベッドの上で、僕は悔しさと嬉しさを混ぜ合わせたような、なんだかよくわからない気持ちを噛み締めながら、岡さんと抱き合った。

「君には、イエスの姿を知ってほしかったんだ」

 岡さんは、しわが目立つ腕で、僕を力強く抱きしめながら、そう言った。

 

 それから、何を話したのかは、よく覚えていない。しかし、僕の心は溶かされた。イスラエルでの貴重な1日を、僕なんかのために捧げてくれた岡さんの心意気にやられてしまった。僕のプライドは取り去られた。この日、僕の夢は、変わった。大勢の前でメッセージを語る牧師になるよりも、誰も知らない一部屋で目の前の一人と語り合える、そんな人間になりたいと思うようになった。

 

 

今すぐあなたもピロートーク牧師に

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 今のエピソードは、単なる私の体験談に過ぎない。ステージ牧師から影響を受ける人もいるし、ピロートーク牧師から影響を受ける人もいる。それぞれが、神からユニークな特性をもらっている。だから聖書は、教会の共同体の一人ひとりを「キリストのからだ」と表現した。右手もいれば、左目もいる。腎臓もいる。激しく動き続ける心臓もあれば、腎臓もある。それぞれの働きが大切で、不可欠だ。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(中略)私たちは互いにからだの一部分なのです。

(エペソ人への手紙 4:16~25)

 

 イエス自身も、両方の働きをした。5000人の前でも話した(とされている)し、ザアカイのように個人的に話もした。しかし、どう考えてもイエスが注力したのは、目の前の一人だったのではないかと思う。

 ステージ牧師になるのは大変だ。でも、ピロートーク牧師になら、「牧師」や「伝道師」なんて肩書きがなくても、いつでもなれる。今、目の前の一人を思い浮かべてみよう。あなたの関心のベクトルを、その人に向けてみよう。その人は、今どんな聖書の言葉を必要としているだろうか。どんな問題を抱えているだろうか。全身全霊で、その人と向き合ってみよう。それが、「愛する」ということだ。その瞬間に、もうあなたはピロートーク牧師になれる。あなたが人を変えるのではない。そこに働く神の力、神の息吹、聖霊が人の生き方を変えるのである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【個人エッセイ】本当の「安息日」とは何か  

 本当の「聖地」、本当の「安息日」とはどんなものなのでしょうか?

 

▼わたしの証

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 「証<あかし>」という言葉を知っているだろうか。英語でtestimonyといって、クリスチャン界ではよく聞く言葉だ。神が人生の中でどう働いたか、それぞれのエピソードを語るのが「証」だ。口頭の場合もあるし、文章の場合もある。よく、「証」と称して、自分の自慢話をするだけの人もいるが、本来は神の素晴らしさを証言するのが証である。

 これは、私がイスラエルに留学していた2012年に書いた証である。しばらく忘れていたのだが、つい先日、思い返すタイミングがあり、一部を修正し、ここに再掲する。いつもと趣向は違うが、どうぞお読みいただきたい。

 

 

▼証・本当の「安息日」とは何か

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 僕は、イスラエルに留学している。通っている大学は、イスラエル北部にあるハイファ大学だ。ハイファは、イスラエルでも指折りの「世的」な街だ。「安息日」つまり土曜日は、完全な休みの日。イスラエル中が休む日だ。お店は全て定休日。交通機関もすべて凍結。しかし、ハイファだけは、1時間に1本はバスが走っている。

 大学には、ユダヤ人もいれば、アラブ人もいる。留学生も大勢いる。大学のキャンパスは、預言者エリヤが活躍したカルメル山の頂上にあって、僕の寮の部屋からは、ハイファの街並みが一望できる。

 僕は、ハイファの生活が好きだ。時間が空いた時は、キャンパスにいる韓国人、アメリカ人、ドイツ人のクリスチャンの友達と一緒に、賛美をしたり、祈り合ったりしている。 安息日には、全てが文字通り「ストップ」する。僕はよく、安息日に、キャンパスの端にある芝生のところに行く。ルームメイトから1万円で買ったギターを手に、ひとりで賛美し、聖書を読み、祈る。祈りと賛美に夢中になって、気づいた頃には、4時間以上経っていたときもあった。1日、ゆっくり神様と時間を過ごす。そのゆとりが、僕は大好きだ。

 

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 ハイファはいい街だが、イスラエルと言えば、やっぱりエルサレム。僕は、この3か月で、10回ほどエルサレムに足を運んだ。あるときは学校の課外学習で。あるときは日本から来た友人を案内するために。あるときはクリスチャン集会に招待されて。ハイファの大学から、700円くらい払って、3時間弱ほどバスに揺られれば、エルサレムの街につく。「聖地」に足を運ぶには、近すぎる距離だ。僕は、イエスが十字架を持って運んだルートや、ゴルゴダの丘にある教会、イエスの墓に、足しげく通った。

 けれども、エルサレムから戻る度に感じたのは、いつも、空しさだった。僕の心は、エルサレムの空気のように渇いていた。嘆きの壁の前に立っても、十字架の場所に行っても、ダビデの墓を訪れても、心から祈ることはできなかった。そこで激しく祈ろうとしても、祈りの言葉が枯れてしまったようだった。金色に飾られた十字架や、神々しく描かれたイエスの絵が、僕の心にひっかかっていた。僕は、ひざまずいて、涙を流して祈っている大勢の人々を、どこか外側から眺めていた。

 エルサレム旧市街の通路は、細くて暗い。迷路のように入り組んでいる。そこは、小さな露店で溢れかえっている。木製の十字架が、プラスチック製のかごに積み上げられ、イエスを描いたマグネットや、彼をかたどった木製の置物が、露店の棚に所狭しと並べられている。人間は、どの時代も同じだ。商売人の台を倒したイエスの絵を描いて、同じ場所で、同じように売り買いしている。2000年前、いけにえの売買が盛んに行われていたところは、今や人類のいけにえとなったイエスの像を売り買いする場所になっている。僕は、4000円で、創世記の場面の絵が描かれた巻物を買った。今思うと、ぼったくりだった。

 

 

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 一度、エルサレムの課外学習を途中で抜けて、友達と死海に遊びにいった。僕たちは、金曜日の4時半、安息日に入るギリギリ前の最後のバスに乗って、死海に向かった。バスドライバーは、伝えた目的地と違う所で、僕たちを降ろした。仕方がなく呼んだタクシーは、アラブ系の若い男が運転する乗用車だった。大阪から来た女の子が、彼と交渉して、10分のドライブを2000円から1500円に値切った。

 死海のビーチに着いた時は、もう夜だった。死海の水の中で、体の力を抜くと、本当に浮いた。死海に体を委ねながら、上を見ると、今まで見たことのない、美しい星空が広がっていた。日本では見たことがない、多くの星の輝きが、そこにはあった。僕は、ふと、アブラハムはこの星を見ながら、神様からの約束を受け取ったのだと、思い出した。死海の中では、何もしなくていい。身を委ねれば、自分の体は自然と浮かぶ。無数の星が、頭上にきらめいている。無理に動こうとすると、塩水が目に入って、この世のものとは思えないほど痛かった。自分で動かない方が、逆にいいのだ。いのちのない死海の中で、僕は神様の守りの中にいるように感じた。僕は、ただ、神様に身を委ねるだけでいいのだ。そこには、本当のいのちがあった。安らぎがあった。賛美と祈りが、自然と口から出て来た。

 

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 神がそばにいると僕に教えてくれたのは、聖地・エルサレムではなく、ハイファでの、のんびりとした日常や、死海や、そのまわりの砂漠だった。死海のまわりは、完全に砂漠で、人の手でつくったものは、何もない。僕は、エンゲディの崖をのぼり、崖の上の小さな泉を見つけた。泉の中に足を踏み入れ、目を閉じて、静かに神様のことを考えた。イェシュア(イエス)は、この砂漠で断食をしたのだろうか。試練を受けたのだろうか。イェシュアが祈ったのは、エルサレムの神殿ではなかった。人のいない、寂しげな山や砂漠だった。

 結局、すごいのは聖地ではなくて、イェシュア自身なのだ。ハイファの芝生の上で、ひとりで木に寄りかかって、ギターで賛美しているときは、自然と賛美と祈りが口から溢れて止まらなかった。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】牧師が間違っていると思った時どうすればいいのか <後編>

牧師や教会のリーダーに意見するのは気が引ける・・・一体どうしたらいいのでしょうか。

 

★前編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

▼「指摘」はどんどんしよう

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 <前編>でも既に述べたが、「裁く」と「指摘する」は根本的に違う。イエスは「さばいてはいけません」と言ったが、「指摘してはいけない」とは言っていない。イエスの言葉のポイントは「まず自分自身を点検せよ」「そうすれば他人のズレを指摘できる」というところにある。聖書はむしろ信仰の仲間のズレを指摘することは推奨している。

 教会の共同体のかしらはイエスご自身であり、その他の信仰の仲間は、それぞれの部分である。牧師であれ、伝道者であれ、他のどのようなリーダーであれ、それぞれは教会の共同体の働きの部分である。どれかひとつだけがより重要とか、より特別とかいう区別はない。

 聖書の中には、プリスキラやアキラ、パウロカナン人の女など、相手が権威あるリーダーであっても勇気を持って「ズレ」を指摘した例が多くある。そして、そのような勇気ある行動は、良い結果をもたらしている。クリスチャンは、相手の顔色やその場の空気をうかがわず、「裸の王様」を指摘する勇気を持つ必要がある。

 とはいえ、実際問題、今すぐ「牧師のズレを指摘する」のはなかなか気が引ける、どうすれば「賢く」指摘できるのか分からない、という意見が大半であろう。「伝え方の批判」に終始してはいけないが、当然、「伝え方」を全く考えなくていいわけではない。では、どのように伝えればいいのだろうか。今回は具体的な「伝え方」について書く。

 

 

▼まずは「心の動機」をチェック ~ミリアムの失敗例~

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 誰かに何かを「指摘」したい。そう思う時は、まず「心の動機」のチェックが必要である。ここまで「指摘しよう!」と言っておいて何なのだが、たいていは、実はあまり相手に問題はなく、自分の心の中に問題がある場合が多い。過去に受けた苦い経験や傷が、あなたの心を蝕み、まっすぐに相手の言葉や行動を受け取れなくなっている時がある。そのような場合、あなたの「指摘」は相手やまわりにとっては「言いがかり」「被害妄想」になってしまう。それではもったいない。だからこそ、イエスは「まず自分の目から梁を取り除きなさい」と教えたのである。

 聖書の中で、間違った「心の動機」で指摘してしまったがゆえに、失敗してしまった例を挙げよう。

 

【ミリアムの失敗例】

 モーセとアロンには、ミリアムという姉妹(新改訳聖書では「姉」となっているが、必ずしもそうとは限らない)がいた。モーセとアロンはイスラエルの民のリーダーだったが、ミリアム自身も女預言者であり、イスラエルの民の賛美をリードする者であった。現代の教会ならば、いわゆる「賛美リーダー」のような感じ。このミリアム、モーセを「非難」したために、神に怒られる。該当箇所を見てみよう。

 

そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難したモーセがクシュ人の女を妻としていたからである。彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか」主はこれを聞かれた。モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。

主は突然モーセとアロンとミリアムに、「あなたがた三人は会見の天幕のところへ出よ」と言われた。そこで彼ら三人は出ていった。主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入り口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。二人が出ていくと、主は言われた。

「聞け、わたしのことばを。(中略)なぜあながたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか」主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。

雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアト(重い皮膚病と考えられている)に冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。

民数記 12:1~10)

 この事案の首謀者がミリアムであるのは明らかだ。ミリアムはアロンと共謀して、モーセを非難した。モーセは反論しなかった。すると、神が突然三人を呼び、ミリアムとアロンを叱った。そして、ミリアムは罰として重い皮膚病になってしまった。こういう話である。

 この場面は、ミリアムの「心の動機」が透けて見えて面白い。ミリアムがモーセを非難した「大義名分」は、モーセが外国人の妻をめとっていた点だった。しかし、よく考えてほしい。イスラエルの民の「選民思想」というのは、まだ後代のように確立していなかった。実は、彼女の非難の「心の動機」は別の所にあったのだ。

 「主はただモーセとだけ話されたのか」というのが、ミリアムの本当の動機だった。ミリアムは、モーセだけが神と直接話す特権を与えられたのを見て、悔しかったのだろう。「私だって預言者なのに、なんでモーセだけ!」「私だって神の預言者だ!」そういう感情に支配されてしまったのだ。

 だからミリアムは、「外国人の妻がいる」という「大義名分」をおっ立てた。人間というのは不思議な存在で、はじめは「大義名分」でも、言い続けるうちに、まるでそれが本当の理由のように思えてくる。はじめはどうでもいい理由でも、考え続けるうちに、それが本当の理由になってしまう。だから、「指摘」する前に「本当にそれが問題なのか?」と、自分の「心の動機」のチェックが必要不可欠である。

 また、ミリアムはモーセと個人的に話すことをせず、アロンという「後ろ盾」をつけた。だからミリアムの「指摘」は指摘とならず、「非難」となってしまった。もし、正当な理由での指摘だったら、アロンと一緒になって言う必要はなかった。心のどこかに自信がないから、アロンを後ろ盾として、自分の心を安心させていたのである。

 神は、ミリアムの心なんてお見通しだった。だから、怒った。神の怒りで、皮膚病にかかってしまったミリアム。やさしいモーセは彼女が癒やされるように神に祈った。ミリアム、赤っ恥。それから後は、二度と同じ過ちは繰り返さなかったことだろう。

 この例から、以下のような教訓が得られると思う。誰かに何か「指摘」する前に、以下のような点を鑑み、自分の心をチェックしてみてはどうだろか。

【ミリアムの失敗例から学ぶ教訓・3つのチェックポイント】

1:あなたの「指摘」の動機は、別のところにあるのではないか。

2:あなたの「指摘」は「非難」になっていないか。

3:あなたは誰かを「後ろ盾」にしようとはしていないか。

 

 もう一点、「心の動機チェック」のオススメのやり方がある。単純だ。誰か信頼している信仰の仲間に相談すればいい。「今、こういう問題を抱えてるんだけど」「牧師がこう言っていて、私は違うと思うんだけど、どうかな?」と、信頼している人に聞いてみよう。きっと、あなたが考えつかなかったアイディアをくれるだろう。

 問題を抱えている時は、往々にして視野が狭くなりがちだ。まずは、相談し、セカンドオピニオンを聞いて、「心の動機」をチェックしよう。ただ、相談する相手の意見に同調しすぎてしまうと、「怒りの増幅」「ゴシップ、ウワサ話になりやすい」という副作用があるので、注意しよう。

 

 

▼あなたは毎日聖書を調べているか?

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 さて、「心の動機」をチェックした後、もうひとつ、何よりも大切なポイントがある。それは、あなたの「指摘」は聖書の言葉に基づいているか? という点だ。一番重要、かつ必要不可欠なポイントである。

 もし牧師や他のリーダーたちの意見が、「何か違うな?」と思ったら、まずは聖書を調べよう。そして、具体的にどの聖書の言葉とズレているのか、整理しよう。ここで、聖書の言葉が動機になっていないのであれば、もしかしたらあなたの動機は別の所にあるのかもしれない。

 聖書の中にも、こんな箇所がある。

 

この町(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。そして彼らのうちの多くの人たちが信じた。

使徒の働き 17:11~12)

 ベレヤという町の人々は、パウロとシラスの言葉を、ただ受け入れて信じたわけではなかった。彼らは、新しい意見に耳を傾け、その上でそれが本当かどうか、「毎日」「聖書を調べた」のである。これが、いわゆる「クリティカル・シンキング」である。

 現代のクリスチャンたちも、ベレヤの人々のような姿勢で生きるべきだ。牧師の言うことを鵜呑みにしてはいけない。果たしてその通りかどうか、聖書を調べまくって、自分の頭で考えよう。そうして、聖書をベースにして初めて「指摘」ができ、「健全な話し合い」ができる。

 牧師や宣教師の言うことを、ただ鵜呑みにするのでは三流。それが本当かどうか、毎日聖書を調べて二流。それを自分の言葉で伝えられて初めて一流。このようなマインドが当たり前になってほしいと、私は思う。

 

 

▼「私メッセージ」と「受け入れる素地」

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 さて、「指摘」の具体的なやり方のオススメは、「私メッセージ」である。「私は正しい、あなたは間違ってる」という言い方ではなく、「私はこう思うんですが、どう考えますか?」という言い方だ。クリスチャンの中には、「聖書にこう書いてあるんだから、あなたは間違っている」と言ってしまう人もいる。それだと、「間違い」という「結果」を押し付けていることになる。それはまさに<前編>で言った「裁く」になってしまう。

 「私の」オススメは、「私は、聖書にこう書いてあるのを読んで、あなたの意見に違和感を覚えるのですが、どう考えますか?」という問いかけ方だ。これなら、「一緒に考える」という相互のやりとりに持っていきやすい。

 聖書を根拠とし、「私はこう思うが、どう考えるか?」という私メッセージを、個人的に投げかける。これをされたら、まぁ「できた大人」なら、意見を聞き入れて、一緒に考える時間を持てくれることだろう。そこから、問題の解決が始まる。個人的に、それから複数人で、それでもダメなら共同体で、という<前編>で書いたイエスの基準を忘れずに。

 たいていの場合、リーダーたちはシッカリ聖書を読み込んでいる(・・・そう信じたい)。だから、あなたが「聖書にこう書いてある」と言った時、「そうだね。でも別の場所にはこうとも書いてあるよね」と柔軟な対応をしてくれるだろう。そして、あなたに新しい視点を与えてくれるだろう。そうなっても、その「指摘」はムダにならず、あなたの視野を広げてくれる。だからこそ、「指摘」して、「話し合う」のはとても良い作用をもたらす。

 ただ、中には、残念ながら根本からズレてしまっている牧師やリーダーたちも多くいる。あなたが、「聖書にこう書いてあって、あなたの意見は違うと思うんですけど」と指摘した時、「ウチの教団ではこうなんだ」とか、「キリスト教の伝統ではこうなんだ」とか、「●●の本にはこう書いてある」とか言ってきたら、黄信号。その人は「聖書」よりも「伝統」や「教団の決まり」を重視してしまっているのである。アチャー・・・。

 イエスは、聖書より伝統を重視したパリサイ派を批判した。覚えているだろうか。

 

またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。(中略)このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。

(マルコの福音書 7:9~13)

 聖書を土台に議論をしたいのに、そういう「伝統ではこうだ」とか「●●先生はこう言っている」とか、抽象的な議論に引っ張ってくる人がいる。残念でならない。私は、聖書の言葉と聖書の言葉で議論をぶつけ合いたいのだ! (タルムードの議論のように・・・)

 

 残念ながら、反対意見を言われると、すぐに態度を硬化させたり、意見を無視したり、その人の悪いウワサを触れ回る、残念な大人が大勢いる(しかも、牧師もいっぱい!)。イエスの教えにならい、まずは個人的なメッセージを送ってみて、何度無視されたことだろう。一度、若者の意見(それも素晴らしい意見)を無視しているリーダーがいたので、個人的に「リーダーが若手の意見を無視するのは、おかしいんじゃないですか」と指摘してみた。するとその人は、「ああ、アイツの言うことは偏っているから相手にしなくていい」と言ったのだ。呆れて物も言えなかった・・・。私は、そんな大人にはならないと決意している。いい大人なら、冷静で、論理的な議論をしてほしいものである。

 ただ、そういう残念な大人と鉢合わせてしまっても、悩まない方がいい。逆ギレして非難されても、あなたが気にする必要はない。アッチの問題なのだ。そういう時は、「かわいそうな人やなぁ」とでも思って、あわれみ、祈ってあげよう。あなたの怒りがもったいない。

 イエスも、パリサイ派は相手にしたが(まだパリサイ派は議論の余地が1ミリぐらいあったのだろう。)、サドカイ派なんて相手にもしなかった。全部を相手にしていると、心が疲れる。頑固な態度を取られたら、ササッと身を引くのがいいかもしれない。ただ、相手の悪いウワサ話だけはしないように気をつけよう。

 

 

▼教え合うコミュニティになれるか

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 聖書は「互いに教え合え」と勧めている。

 

キリストのことばが、あなたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

 あなたがクリスチャンならば、ただ黙って傍観者になるのではなく、知恵を尽くして互いに教え合おうではないか。「心の動機」をチェックした上で、相手が誰であっても、相手を大切する思いで「指摘」し、「忠告」し合おうではないか。「責め合う」のではない。互いに、寝ても覚めてもエスと一緒に生きるために、お互いにチェックしあうのだ。そしてお互いを高め合おうではないか。プライドを捨て、イエスにピントを合わせ、ますます喜びに満ちた人生を歩もうではないか。

 

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(1テサロニケ 5:10)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】牧師が間違っていると思った時どうすればいいのか <前編>  

牧師が言っていることに納得できない。そんな時はどうすればいいのでしょうか?

 

▼牧師に意見できない風潮f:id:jios100:20180604155757j:plain

 友人のA君が、久しぶりに電話をかけてきた。「ご飯に行こう」と言う。会ってみると、驚いた。待ち合わせの店に来た彼は、ひどく落ち込んでいた。いつも明るかった彼が、うつむき加減で、ぼそぼそと話している。話を聞くと、彼は、教会の中で人間関係の問題を抱えていた。

 彼は、ある日曜日の牧師のメッセージ(説教)が、納得できなかったのだという。それをつい口にしてしまったために、まわりの信者たちから「牧師に反抗するなんて、とんでもない」と言われ、責められた。村八分にされた。奉仕も辞めさせられたという。「教会に居場所がない」というので別の教会へ移るよう勧めた。「でも、教会を裏切れない」と彼はガックリ肩を落として語った。

 彼の気持ちは、痛いほどよく分かる。私もかつて、韓国系の教会に通っていた。儒教の影響が強い韓国の教会では、牧師の権限は絶大。牧師の言うことに意見するなど、とんでもないご法度だった。何か言おうもんなら、もう非難の集中攻撃。でも、みんな影ではコソコソ牧師の悪口を言っていたのだった。

 確かに、教会の中では牧師に意見するなど、とてもできないといった風潮がある。韓国ほどではないが、日本もその傾向が強い。牧師の言うことはみな正しくて、従うべきで、疑問を抱いてはならないのである。表立って牧師に意見する人は少ない。でも、不満は当然あって、それが悪口、うわさ、ねたみ、苦々しい思いとなって教会の人間関係を壊していく・・・。

 日大のアメフト監督やコーチの指示による、反則タックルが問題となっている。誰もが間違っていると思いながらも、異論を唱えられない空気があったという問題だ。教会の中にも、同じような問題がないだろうか。そもそも、牧師の言うことは全て正しいのだろうか。全て従うべきなのだろうか。疑問を一切抱いてはいけないのだろうか。それを口にしてはいけないのだろうか。今回はそんな観点から記事を書く。

 

 

▼牧師ってそんなに偉いの?

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 牧師とは、そもそもどのような存在なのだろうか。聖書を見てみよう。

 

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師(牧者)また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

(中略)

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:11~16)

  実は、「牧師」という単語は聖書にたった1回、この箇所にしか登場しない。そもそも、ギリシャ語を直訳するなら「牧者・羊飼い」で、この箇所は意図的に訳を変えてあるだけ。そもそも「牧師」は中国で作られた造語なのだ。明治、大正時代の翻訳者たちがそれを考えなしに輸入してしまっただけなので(参考:「聖書の日本語」鈴木範久)、「牧師」なんていう言葉は意味はないし、聖書に登場すらしないのである。

 また、牧師は教会のトップと考えられがちだが、それは間違いだ。ハッキリと、「かしらであるキリストに向かって成長する」と書いてある。教会のトップはイエスだ。牧師ではない。また、文脈からも分かるように、牧師はイエスを頭とした共同体の「働きの一部分」であって、他よりも重要だとか、特別な役職ではない。「牧師」は、使徒預言者、伝道者、教師と並列で並んでいる役目の一部分なのである。

 教会という共同体は、ただイエスだけがトップであり、あとは全員互いにキリストのからだの一部分だ。そこに優劣はない。

 

ですから、あなたがたは偽りを捨てて、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

(エペソ人への手紙 4:25)

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。

(中略)

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。人つの部分が苦しめば、全ての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

(コリント人への手紙第一 12:22~27)

 クリスチャンは、キリストのからだの一部分である。牧師はその働きの一部分である。その中で誰が偉いとか偉くないという議論は、やれ、目が大事か、右手が大事か、肝臓が大事かと言って争っているようなものである。働きや機能は違えど、からだは、どの部分も大切なのである。

 牧師が特別ではないというのは、少し間違いかもしれない。というのも、どの働きも特別だからである。クリスチャンは、それだけで、キリストのからだにとってたった一人の特別な存在なのだ。

 

 

▼信仰の仲間に間違いを「指摘」していいのか

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 牧師は教会という共同体のトップではなく、それだけが特別な役職ではないと分かった。共同体のトップはイエスであり、他の働きはそれぞれがキリストのからだの一部分である。つまり、牧師も伝道者も使徒も教師も預言者も、信仰の仲間の一人なのだ。

 では、信仰の仲間に「あなたの言っていることは違うんじゃないか」と意見していいのだろうか。奥ゆかしい日本人は、人に意見するのをためらいがちである。「私なんかが意見していいのだろうか」と、ためらってしまうのだ。しかし、それは間違った謙遜である、と私は思う。

 聖書はどう勧めているのだろうか。イエスはこのように言っている。

 

また、もしあなたの兄弟(=肉親の兄弟ではなく、信仰の仲間のこと)があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会(集会)に伝えなさい。教会(集会)の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

(マタイの福音書 18:15~17)

 なんとびっくり、イエスはきちんと罪を指摘するように勧めている。余談だが、「新改訳聖書第3版」では「責めなさい」と訳してあるところが、「新改訳聖書2017」では「指摘しなさい」になっている。個人的に「指摘」の方がマイルドで好き(笑)。名訳。

 さて、ここで面白いのは、

→「まずは2人だけで解決」

→「ダメなら3人か4人で解決」

→「それでもダメなら共同体で解決」

という順番をイエスが明確に示している点だ。個人的な問題は、まず個人個人の関係の中で解決すべきだ。だから、例えば牧師の言うことが「違うな」と思ったら、まずはその人との個人的関係の中で問題を解決した方がいい。具体的な言い方のオススメは<後半>で書く。

 二つ目の「ほかに1人か2人、一緒に連れて行け」というのも、なかなか面白い。旧約聖書の律法では、裁判の証言は「2人か3人の証言」が必要だった(参照:申命記17:6、ローマ9:1など)。1人のみの証言では、裁いてはいけなかったのである。だからパウロも、ローマ9章で「キリストと聖霊によって証する」と2人の(最強の)証人を示している。エスは、まずは個人的に解決を試み、それでもダメなら旧約聖書の常識に当てはめ、3、4人で解決するよう教えた。確かに、1人だけに言われると、言いがかりな気もするが、2、3人に同じ指摘を受けたら、ある程度高慢ちきな人でも思い直すだろう。イエス・グッドアドバイス

 しかし、それでもダメというコウマンチキを極める人もいる。その場合は、「教会(集会)に伝えなさい」とある。これを逆手にとって、牧師に意見する人を、教会が断罪するという愚かなことを正当化しているところもある。しかし、それは間違いだ。よく考えてみよ。エスの時代には、まだ今のような「教会」はなかった。聖書では「会堂」と翻訳されている、ユダヤ教の「シナゴーグ」があったのみである。イエスが「教会」と言う際に、そのまま今の「教会」に当てはめてはいけない。そのような時制的違和感を持つのは、聖書を読む時には重要だ。

 「シナゴーグ」は、当時、社会的に裁判所のような役目も担っていた。日本のお寺が、地域の行政的役割を担っていたように、当時の「シナゴーグ」は宗教的役目に留まらず、民事裁判を行う役目も担っていたのだ。イエスがいわんとしていたのは、「個人的、複数人でも解決できなければ、あとは共同体の裁定に委ねなさい」ということである。至極まっとう、当然のことである。

 では、現代において、どのように適用すればいいのだろうか。聖書には「信者の中の問題を一般社会に持ち込むな」ともある(参照:コリント人への手紙第一6章)。よっぽどのことでない限り、裁判沙汰位にするのもどうかと思う。ここは難しいところだが、具体的なやり方のオススメは後述する。まずは、「信仰の仲間同士の問題は、まずは個人的、それでもダメなら、小さいグループの中で解決しよう」という点を覚えておいてもらいたい。

 聖書は、信仰の仲間の間違いやズレ(「罪」のギリシャ語の意味は「ズレる・的外れ」である)を指摘するのは、とても重要だと教えている。相手のポジションは関係ない。いや、教える立場にある人が、間違っているなら、その影響力を考えるならば、むしろそういう人たちにこそ、「指摘」は必要だ。

 

私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。

ヤコブの手紙 5:19~20)

 

 

▼「裁く」と「指摘」の違い

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 人の間違いやズレを指摘した方がいい。こう言うと、必ずこの言葉を引用して「それは違う!」という人がいる。このイエスの言葉だ。

 

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

(マタイの福音書 7:1~4)

 この聖書の言葉を引用し、人のズレを指摘する人を、「ほら、さばいてる!」とか、「さばかないで!」とか言う人がいる。こういう人は、日本語の理解がちと足りない。

 「裁く」を日本語の辞書で調べてみた。

 

さば・く【裁く】<広辞苑第6版>

理非(道理から外れていること)を裁断する。裁判する。

さいだん【裁断】<広辞苑第6版>

理非・善悪を判断してさばくこと。

 「さばく」とは、「不完全である人間」が、「善悪を判断して、裁断を下すこと」である。人間の社会の中においては、法律というルールにのっとって、裁判官が裁く。言い換えれば、「罪にあたるかそうでないか判断する」ということである。これは、「ズレを指摘する」と全く違うとうのは、明らかであろう。

 

裁く  →罪であるか断定し、その結果を一方的に宣告する。

指摘するそれズレてない? と声をかける。結果は話し合って相互に考える。

 罪かそうでないか裁く権利と正当性を持っているのは、唯一完全である神だたひとりである。だから「さばいてはいけません」というイエスの言葉はもっともだ。しかし、それは「間違いやズレを指摘するな」という意味ではない。

 「さばく」については、別記事を書くつもりなので、ここまでに留める。「さばく」と「ズレを指摘する」というのは全く別物である。いたずらに「さばくな!」と「さばき返し」しないでほしい。

 また、前述のイエスの言葉は、続きがある。

 

偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟(=信仰の仲間)の目からちりを取り除くことができます。

(マタイの福音書 7:5)

 イエスの言葉は、「さばくな」ではなくて、「まず自分の姿を見直せ」「そうすれば他の人の間違いもただすことができる」という点にポイントがある。至極まっとうな教えである。イエスは、「人の間違いを指摘してはいけない」などとは、一言も言っていない。「人の間違いをただす」という目的のために、「まず自分の姿を見直せ」と言っているのだ。イエスの教えを捻じ曲げて捉えてはならない。

 

 

▼聖書で「指摘」をした人々

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 聖書でも、その身分に関わらず、人の間違いやズレを指摘したケースが数多くある。3つ紹介しよう。

 

【プリスキラとアキラ→アポロ】

 プリスキラとアキラという夫婦がいた。プリスキラが妻で、アキラが夫である。普通、夫の名前を先に書くが、この2人は初登場時こそアキラ・プリスキラの順で書かれているが、それ以降はずっとプリスキラ・アキラの順で書かれている。それほど妻・プリスキラの存在感が大きかったという解釈もある。面白い。

 この2人はコリントに住む天幕職人だったが、パウロと出会い、一緒にエペソにやって来ていた。パウロはそこからカイサリア→エルサレム→アンティオキアと移動したが、この2人はしばらくエペソにとどまったようである。さて、そのエペソにアポロという口のうまい男がやって来る。

 

さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は街道で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。アポロはアカイアに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるようにと、弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、おおいに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。

使徒の働き 18:24~28)

 アポロは、聖書に相当詳しかったであろう。「主の道について教えを受け」とあるから、おそらくユダヤ教のラビの教えを受けたか、バプテスマのヨハネの弟子たちや、イエスの弟子たちから直接教えを受けたと考えられる。

 一方、プリスキラとアキラはただの天幕職人。一般信徒であった(※のちに「執事」になるようだが)。プリスキラとアキラは、アポロが大胆にイエスのことを語っているの聞いて、関心したことだろう。しかし、同時に、「ちょっと違うな」と思ったのに違いない。「彼をわきに呼んで」というのは、後日ゆっくりというのではなく、おそらく「すぐに」と考えた方が自然だ。彼らは、すぐにアポロに「ちょいちょい、アポロさん、あんたの弁論はすごいけど、実はちょっと足りない点がありまっせ」と言ってアドバイスしたのである。

 プリスキラとアキラは、大胆な指摘をした。アポロも、謙遜にその意見を受け入れ、より深い知識を身に着けた。その結果、アカイアにいる信仰の仲間の大いなる助けになった。プリスキラとアキラの行動力、アポロの謙遜な心によって、福音の働きがさらに拡大したのである。

 クリスチャンの方々。あなたは、牧師が何か物足りないことを言ったとき、すぐに指摘できるだろうか。牧師やリーダーの方々。あなたは、信徒から何か指摘されたときに、謙遜な心で受け入れることができるだろうか。Get Away プライド~!

 

パウロ→ペテロ】

 パウロは、自らを「使徒」と自称しているが、実はかなり図々しい話である。使徒」とは、そもそもイエスが12弟子のみに命名した、「イエス軍団」のようなネーミングだ。例えて言うなら、「たけし軍団」的な。イエスが弟子たちに「岩(ペテロ)」とか「雷の子(ヨハネ)」とか「馬好き(フィリポ)」とか、ふざけたニックネームをつけてるのも、たけし軍団っぽい・・・。

 とにかく、ペテロやヤコブヨハネらは、「俺たちは特別だぜ。イエス軍団の使徒だぜ!」と思っていたことだろう。ユダが裏切り、マッティアが補充され使徒となったが、原則、使徒はこの12人のみである。

 しかし、パウロは勝手にこの「使徒」を自称した。ペテロたちは「何やねん!」と思ったことだろう。「イエス親分に会ったこともないくせに!」というのが12弟子たちの素直な気持ちだったのではないか。

 さて、このパウロ、「使徒」を自称するのみならず、元祖使徒の中核的存在、ペテロ(ケファ)にさえ物申す。こんな聖書の箇所がある。

 

ところが、ケファ(ペテロ)がアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私(パウロ)は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れていったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。彼らが福音の心理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこういいました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強いるのですか」

(ガラテヤ人への手紙 2:11~14)

 ペテロは、神から幻まで示され、「ユダヤ人ではなく、異邦人(外国人)にも救いが開かれている」という事実を学んだ(参照:使徒の働き10章)。それにもかかわらず、ペテロはユダヤ人の顔色をうかがって、だんだんと外国人と関わらなくなってきたのである。なんたる体たらく! 

 パウロは、「おい、ペテロ。何やっとんじゃ!」とかなり厳しく指摘したのである。面と向かって。しかも、他の人々の面前で。ある意味、ペテロの顔に泥を塗るような辱めである。ペテロ、赤っ恥。でも正論だから何も言い返せない。こればっかりはパウロが正しすぎる。日本人は「何も皆の前で言わなくても・・・」とパウロの「やり方」を批判するだろう。しかし、聖書にはそう書いていない。「やり方批判」の前に、問題の深刻さに目を向けるべきである。

 使徒」に勝手に後乗りしたパウロは、勇気を持って、大胆に「使徒」の中心的人物であるペテロを批判した。クリスチャンも、このパウロの姿勢に倣うべきではないか。誰かが聖書からズレてしまっているとき、それを指摘するのは、むしろ推奨されるべき行為だと思う。

 

カナン人の女→イエス

 イエスに意見した女さえいる。しかも、ユダヤ人ではない、外国人だ。しかも、当時は弱い立場にあった女性。外国人の女性は、イエスに何と言ったのか。

 

エスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。

しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。

弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます」

エスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」

しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください」

すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです

しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」

彼女の娘は、すぐに癒やされた。

(マタイの福音書 15:21~28)

 イエスは、この女の受け答えを「あなたの信仰は立派です」と褒めた。実は、聖書の中でイエスが信仰を「立派」とほめたのは、この女とローマの百人隊長の2人しかいない。エスは、なぜ彼女をほめたのだろうか。

 実は、女の「主よ、そのとおりです」というのは誤訳だと私は思う。これは、よくある日本語と英語などの外国語の文法の違いによる誤訳だ。日本語と英語では、「Yes」と「No」の使い方が違う。簡単な例で見てみよう。

 

<日本語の文法>

Q:ケンジ君に彼女はいないよね?

(いる場合) →A:いいえ。います。

(いない場合)→A:はい。いません。

 

<英語の文法>

Q:ケンジ君に彼女はいないよね?(Kenji does not have a girlfriend, right?)

(いる場合) →A:はい。います。(Yes, he does)

(いない場合)→A:いいえ。いません。(No, he does not)

 おわかりだろうか。日本語は、質問を基準に「はい」、「いいえ」と答える。しかし、英語は、質問の答えを基準に「はい」、「いいえ」と答えるのだ。

 つまり、「AはBではないですよね?」という否定の問いかけに対して、日本語で「はい」と答えれば「AはBではない」という意味になるが、英語の「Yes」だと、「AはBである」という意味になる。英語初心者の日本人が、よく戸惑う文法の違いである。

 さて、このYesーNo文法において、ギリシャ語の文法は、おおむね英語と同じだそうだ。そこで、この「主よ、そのとおりです」のギリシャ語を見ると、「ナイ(Yes)」となっている。イエスの問いかけとの関係を整理しよう。

 

エス「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは『良くない』(エイミ・オウ→英語のit is not)ことです」

 

女「『ナイ』(英語のYes)『ガール』(英語のfor~)、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」

    ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

エス「小犬にパンをあげるのはよくないよね?

 

女「いえ、よいことです。 小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのですから

 おわかりいただけただろうか。イエス「NOT GOOD, is it?」という否定の問いかけに対して、女の答えは、「Yes, for~(順接)」なのだ。

 だから、この部分は、

「主よ、そのとおりです。ただ~」

と訳すべきではなく、

 

 「主よ、とんでもございません! ~なのだから」

と訳すべきなのである。

 そもそも、日本語で「主よ、そのとおりです。ただ~」と訳されている「ただ」も誤訳だ。該当部分のギリシャ語は「ガール」で、英語でいうと順接の「for」だ。日本語にすると「~なのだから」になる。日本語訳にある「ただ」という逆説(but)の意味には、どう考えても取れない。なぜかこの部分は、現代に至っても誤訳されたままなのである。

 ちょっと再度、整理してみよう。以上を鑑みると、本文はこうなる。

 

すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」

しかし、彼女は言った。「主よ、とんでもございません! 小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのですから

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」

 こう翻訳した方がスッキリするのではないか。今までの翻訳だと、なぜか外国人であるだけで差別された女が、謙遜にもそれを受け入れたことをほめた・・・という話になってしまう。そんな理不尽なことをイエスが本当に言うだろうか。

 ではなく、「イエスの問いかけに勇敢にも信仰を持って、『とんでもございません!』と言った女をほめた」と考えれば、この話がスッと腑に落ちる話ではないか。

 どうやら、英語など他の言語の翻訳だと、全部この誤訳の方が採用されているようである。しかし、ヒエロニムスのラテン語訳だけが、上記のような「とんでもございません!」訳になっているという(参照:「イチジクの木の下で」山浦玄嗣)。さすがヒエロニムス。

 想像するに、「イエスに意見したなど、とんでもない」という先入観から、このような誤訳が生まれしまったのであろう。しかし、イエスも本気でこんなことを言っていたのであろうか。だとしたらイエス、ひどすぎないか?! イエスはそんな人種によって差別するような方ではない(ただし、アブラハムと神の契約、イスラエルと神の契約は変わらない)。私は、イエスのこのいじわるな問いかけは、周りにいたユダヤ人、とりわけ律法主義的な人々への皮肉だったのではないかと思う。だとしたら、このいじわる質問にも納得がいく。

 イエスは、「なぁ、外国人のおまえに奇跡はもったいないだろ?」と、あえて言った。まわりのユダヤ人は心の中で「そうだそうだ!」と思ったかもしれない。しかしカナン人の女は引き下がらなかった。イエスは女をほめた。さっきまで心の中で「そうだそうだ」と思っていたユダヤ人はどうだろう。赤っ恥である。イエスは見事に、彼らの心の中の差別意識をあぶり出したのだ。ユダヤ人しか神に選ばれていない」という当時の常識の中で、「いえ、とんでもございません!」と言えた女の信仰、素晴らしいではないか。

 

 

▼「指摘」のすすめ

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 いかがだろうか。アポロを教えたプリスキラとアキラ。ペテロを「ふざけんな!」と批判したパウロ。イエスに「とんでもございません!」と意見した外国人の女。どれも、立場を超えて、それでも自分の信仰に確信を持って、相手に「指摘」をした例である。同様の例は、他にも、モーセに意見したしゅうとのイテロ(出エジ18章)、ダビデ王に意見した将軍ヨアブ(第二サムエル14、24など)や預言者ナタンなど、枚挙にいとまがない。

 牧師は特別ではない。教会という共同体のひとつの働きだ。そんな立場で遠慮することはない。牧師が言っていることが聖書と違う、聖書とズレている、と感じたら、勇気を持って踏み出してみよう。イエスは、「まず個人的に」、「それから複数人で」、「その後で共同体全体で」という「指摘」の仕方をオススメしている。「裁く」と「指摘」は違う。勇気を持って、信仰に確信を持って、さぁ、今一歩、踏み出してみようではないか。

 

 ・・・とはいえ、実際難しいというのはよく分かる。後半は、具体的にどうしたらいいのか書こうと思う。実は、勇気を持って踏み出したが、「心の動機」が間違って、神に叱られたケースもある。次回はその教訓から学ぼう。当然、「判断基準は聖書」でという点も忘れずに。

 

★後編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「奉仕」をたくさんする人は偉いのか?<後編> ~奉仕で燃え尽きないために~

「奉仕」で燃え尽き症候群になってしまうクリスチャンが大勢います。何が問題なのでしょうか。

 ★前編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

 

「奉仕とは何かf:id:jios100:20180529012334j:plain

 前回の記事<前編>では、奉仕とは何かまとめた。聖書において、「奉仕は、様々な場面で登場する単語である。奉仕は教会の中のピアノの奏楽や案内係、といった小さな枠には収まらない。あなたの人生そのものが「奉仕」なのだ。

 日本語の「奉仕」には「君主のそばにいて働く」という意味がある。あなたは君主たるイエスのそばにいるだろうか。また、「国のために働く」という意味もある。あなたは「神の国」のために生きているだろうか。

 「奉仕・仕える」といった日本語には「無償でする」という概念はない。報酬を目的とせず、誠実に相手に尽くすというモチベーションに力点が置かれている。

 日本のクリスチャンは、奉仕の天才だ。多くのクリスチャンが、教会で何かしらの「奉仕」をしてる。もはや奉仕のために教会に行っていると言ってもいいくらいだ。しかし、これまた多くの人が、奉仕が負担になり、次第に疲れ、燃え尽きてしまうというのも事実だ。なぜ日本のクリスチャンたちの多くが、教会の奉仕で疲労感を覚えるのだろうか。なぜ多くのクリスチャンが、「燃え尽き症候群」、いわゆる「バーンナウト」してしまうのだろうか。なぜ教会での奉仕が「仕事」になり、クリスチャンは奉仕の奴隷になってしまうのだろうか。今回はその問題点を指摘し、改善策を提案する。

 

 

あなたの居場所は「奉仕」ではない

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 奉仕をしまくるクリスチャンは、いずれエネルギーを失い、いわゆる燃え尽き症候群・バーンナウト」に陥る。燃え尽きた結果、人と関わるのを避けるようになる。教会の集まりに来るのをヤメてしまう人も多い。あんなに奉仕に熱心だった人がなぜ・・・というケースも少なくない。なぜそのようなケースが多発してしまうのか。

 私は、その原因はモチベーションにあると考える。あなたが奉仕をするのはなぜだろうか。一生懸命奉仕をする人は、たいてい「教会に仕える」とか、「神に仕える」とか言っている。本当だろうか。あなたの脳裏に「牧師」や「伝道師」「教会のリーダー」「婦人会のおばちゃん」の顔がチラついていないか。あなたの脳裏に「人からの評価」を気にする心はないか。

 人に認められたい。誰かの力になりたい。お世話になった人に恩返しをしたい。そういったモチベーション自体は素晴らしいものだ。しかし、それは永久に続くモチベーションではない。人は絶対ではない。人間は完全ではないから、変化する。良くも悪くも。エスではない誰かに、全幅の信頼を寄せると、いずれ裏切られる。絶望する。その人は変わっていなくても、自分が勝手に思い込んで、人間関係が壊れたりもする。逆もまた然り。やがて、自分の中のエネルギーは尽きてゆく・・・

 奉仕に夢中になる人を見ていると、どうも、奉仕の中に「自分の居場所」を見出している場合が多いような気がする。一生懸命奉仕をして、安心感を感じようとしているのだ。自分には価値があるのだと。奉仕をすればするほと、神に愛されていると錯覚してしまうのだ。または、奉仕をすればするほど、「信仰にアツい」と証明できると思っているパターンもある。

 とんでもない。あなたはそのままで、本当に本当に価値がある存在なのだ。あなたは、神が自分のひとり子を殺してまで愛した大切な存在なのだ。だから、もう奉仕を「居場所」にしなくていい。あなたの「居場所」は、イエスそのものなのだ。

 

わたし(イエス)はぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

(中略)

父(神)がわたし(イエス)を愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(中略)わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

ヨハネ福音書 15:5~9)

 イエスの愛の中にとどまれば、そこが居場所になる。エスを居場所にすれば、あなたは喜びで満ち溢れる。そうイエスは約束している。

 では、イエスを「居場所」と感じるには、どうしたらいのだろうか。聖書は、困難が起こった時に、「イエスを見よ」「イエスのことを考えよ」とアドバイスしている。

 

こういうわけで、このように多くの証人たち旧約聖書でイエスについて預言した様々な人たち)が、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

(ヘブル人への手紙 12:1~3)

 この聖書の言葉には、あなたの「奉仕=人生」のモチベーションを決定づける要素が凝縮されれている。私たちは、なぜ人生という奉仕を走り続けるのか。あなたの目線の先には誰がいるのか。それはイエスだ。イエスは自分のいのちをてをかなぐり捨てて、あなたに寄り添ってくださったのだ。あなたに手を伸ばしてくださったのだ。どんなに大きな喜びだろうか。人は変わる。しかし、イエスは変わらない。いつも変わらず、ずっとあなたのそばにいる。

 走り疲れ、もう自分の力では動けない、という時、イエスが何をしてくださったか考えてみよう。きっと、あなたの心は元気を失わず、疲れない。

 

「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ

(中略)

若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

イザヤ書 40:6~31)

 エスの存在こそが、クリスチャンの奉仕の目的であり、モチベーションである。エスの愛は無条件の愛である。どんなに清く正しく生きたかは関係ない。だって、生まれる前に十字架で死んでいるのだから。

 

 

「御恩と奉公」が奉仕の理由

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 奉仕は「無報酬」ではないと前回述べた。ではクリスチャンの「報酬」とは何だろう。実は、クリスチャンの「報酬」は、既に「前払い」で払われている。それは、イエスのいのちだ。私たちが生まれる、ずーーーーっと前から、イエスが自分のいのちを差し出してくださったのだ。イエスが何をしてくれたか。考えるだけで喜びにあふれる。これが、「奉仕=人生」のモチベーションなのだ。人ではない。唯一の救い主、イエスこそが、あなたの奉仕のモチベーションだ。

 

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙 5:8)

 

 「御恩と奉公」という言葉を聞いたことがあるだろうか。歴史の授業で習ったと思う。「御恩と奉公」とは、鎌倉時代室町時代の日本にあった制度で、以下のようなものである。

 

「御恩」将軍が、契約した武士の領地を保護したり、報酬を与える。

「奉公」武士が、契約した将軍に忠誠を誓う。戦争に出陣する。

 「御恩と奉公」は、将軍と武士との「契約」だ。武士は、将軍から「御恩」を受けるから「奉公」するのであって、その逆は成り立たない。そこがポイントだ。

 奉仕のマインドは、まさにこの「御恩と奉公」だ。クリスチャンは、イエスが十字架で罪を背負って死に、よみがえったことを信じる。クリスチャンは、神に信頼し、「契約」を結ぶ。信じれば救われるという契約だ。クリスチャンは、この恵みを受けるので、喜びを持って仕える。逆はありえない。必ず神の御恩が先に来る。 

 たくさん「奉公」したから神に認めらるとか、神に愛されるというのは間違いだ。また、「奉公していないから御恩を受けていない=奉仕していないから信仰が足りない」というのは、間違いだ。逆説は成立しない。この基本を忘れてはならない。

 

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方(イエス)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

(エペソ人への手紙 1:4~5)

 神の救いを実際に体感した人は、人生が変わる。生き方が変わる。この、「御恩と奉公」が身にしみてくると、奉仕を仕事と思わなくなるだろう。あなたのライフスタイルそのものが、自然と奉仕になってくるのである。

 

 

教会の実態に見合わない奉仕

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 これまでは、一人ひとりのモチベーションの話をしたが、もう少し実際の組織の話をしたい。日本の教会の多くが「身に合わない奉仕」が設定されてしまっている。実態よりも過剰な奉仕があるのだ。これは問題だ。

 日本の教会は、世界的に見たら圧倒的に小さい。アメリカでは「普通の教会」といえば、だいたい100~400人くらいの教会をイメージする。1000人以上の教会だってザラだ。韓国には何万人という教会もある。しかし、日本では50人いれば、大きな教会として数えていいだろう。

 その人数で、教会の様々なアクティビティを回そうとするから、大変だ。日曜の礼拝会の司会、賛美のリード、楽器の奏楽、案内係、子どもたちの日曜学校の教師、祈り会や聖書勉強会の運営、説教、式次第(週報と呼ばれる)の印刷、チラシの作成、掃除、受付、献金の管理、などなど・・・。教会の運営というのは数々の役割がある。全員でやればいいのだが、たいてい、50人くらいのメンバーがいると、中心的になるのは多くて10人ぐらい。この10人に圧倒的な負荷がかかる。牧師がこのほとんどを1人でやっているところもある。これでは潰れてしまうのは当たり前だ。

 こうなってくると、次第に、一緒に神に感謝し、祈り、歌い、もっと神のことを知るために聖書を読み、お互いに教え合う、といったような共同体の本来の目的がどこかにいってしまう。いつの間にか、日曜の礼拝会をうまく回すことが優先となり、教会の組織、運営、形を保つことが重要になってしまう。

 そのためには、教会メンバーを「執事」なり、「奉仕者」なり「スモールグループリーダー」なりの役職に任命して、奉仕を「押し付ける」しかなくなる。空気を読む日本人。依頼された奉仕を断りきれず、喜びのないまま続けてしまう。だんだんと日曜がおっくうになってくるという負のスパイラルが始まる。いつの間にか、「私が支えなきゃダメだ」「私がやらないと誰がやるんだ」といった感情に支配されてしまう。

 こうして、奉仕が、いつの間にか神や人を愛するためではなくて、組織を維持するためになってしまうのである。エスが「安息日」に関するやりとりで言ったことを思い出す。

 

そして(イエスは)言われた。安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」

(マルコの福音書 2:27)

 まさに今の日本の教会の奉仕の現状は、「人のため」ではなく、「教会のため」になってしまっているのではないか。私たちは教会という組織のために造られたのではない。私たちのために、教会という共同体があるのだ。というか、私たち一人ひとりが教会の一部分なのだが・・・。

 何のための日曜の礼拝会か。何のための奉仕か。もう一度見直すべき時が来ているのではないか。

 

 私は、日本の教会は、ほとんどがムリをしていると感じる。少ない人数で、フルバンドの賛美。相当なムリをしてやっと維持している今流行りの「祈りの家」。水曜日の祈り会。聖書勉強会。イベントの数々。教会の修養会。カフェの経営。バザー。などなど・・・教会の活動は多岐にわたる。

 本当にそれらの活動は、必要なのか。需要と供給がマッチしてるか。必要なスタッフはいるのか。経済的余裕はあるのか。器に見合わない仕事を設定していないか。ムリをしていないか。

 神が100の能力を与える人もいるが、50の人もいる。30の人もいる。大切なのは、どれだけやるかではない。これはイエスの有名なタラントのたとえ(マタイ25章など)でも明らかだ。大切なのは、もらった能力、人数、時間、経済力などに応じて、どれだけ誠実に奉仕するかだ。大切なのは結果より、モチベーションだ。

 そう考えた時に、私はどうしても日本の多くの教会が器に合わない活動を広げてしまっているように感じてならない。集った仲間通しで助け合い、もてなし合い、お互いがさらにイエスに近づいていく、お互いに愛し合い、祈り合い、助け合う、という本来の目的を見失ってしまっているように思えてならない。聖書にもこう書いてある。

 

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。

(ペテロの手紙第一 4:8~11)

 「神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい」とある。ふさわしく、というのは、もちろん一生懸命やるという意味もあるが、同時に「過剰でない」という意味もある。過剰にやりすぎているのは、「ふさわしい」奉仕ではない。神が備えてくださる力以上のことを、自分の力でやろうとしていないか。今一度立ち止まり、「やりすぎていないか?」「本来の目的からそれていないか?」と考えてみようではないか。

 

 

あきらめる勇気

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 私は、日本人のクリスチャンに対して、「あきらめ」をオススメする。教会のサイズに見合った奉仕を設定するのが良いと思う。もう自転車操業はやめたらいい。いずれつぶれてしまう。永遠に残る教会などない。いずれなくなる。だったら、教会の体裁を保つのに、そんなに頑張らなくていいではないか。

 例えば、ピアノをひける人がいなければ、アカペラでやればいいのだ。少しピアノができる人に無理強いしてやらせる必要はない。私が10代の頃通っていた長野の田舎の教会は、日曜の礼拝会出席者が5、6人しかいない時代があった。楽器ができる人がいないので、賛美はなんと、なつかしのミニディスク=MDでやっていた。MDを流して、それに合わせて歌うのである。もう歌の繰り返しのパターンも決まっているから、だんだんと覚えてしまう。しかも、パソコンもプロジェクターもないから、歌詞はOHPでアリモノしかない。MDも4曲くらいしか入っていないものが2種類しかなかった。つまり私たちは、8曲の賛美をヘビーローテーションして賛美していたのである。毎週、毎週、同じ賛美。一体、何度「主はアルファでオメガ~」と歌ったことだろう(笑)。

 しかし、そのMD賛美には、確かに喜びがあった。5、6人が大声張り上げて、感謝と喜びをもって歌い上げていた。東京に上京したとき、フルバンドのクオリティ高い音楽を聞いても、傍観者のようにしていたクリスチャンたちを見た時は、なんだか違和感を覚えたものだった。

 週報の印刷もそうだ。そもそもアレは必要なのか? 労力の割に誰も見ていない気がするのだが・・・。目次ならホワイトボードに書いて置いておけば済む。紙もムダだし、時代遅れだ。ヤメたほうがいい。

 案内係、必要か? そもそも、一人ひとりの出席者が自発的に初めて来た人に話しかければ済む。あなたの教会ポスト、必要か? 日曜学校という形、必要か?

 教会の修養会を、びっちりスケジュールで埋める必要はあるのか? 計画だけに一生懸命になって、「開催すること」自体が目的化していないか?

 今流行りの「祈りの家」、本当に必要か? 韓国のメガチャーチの体力、人数、経済力に騙されていないか? イエスサマリアの女に「どこでも礼拝できる」と言ったのではないか。どこでもかしこも祈れることを教えた方が、100倍いいのではないか。教会を24時間無理して開放するより、教会の仲間がいつでもどこでも祈る、祈りの戦士になった方がいいのではないか。

 別に、週報がいらないとか、案内係がいらないとか、祈りの家がいらないと言いたいのではない。そこは誤解なきようお願いしたい。それぞれ、素晴らしい働きだと思う。ただ私は、一旦立ち止まって考えてみようと言いたいのだ。何が目的で、その奉仕を設定しているのか。そして、現状は目的にマッチしているか。全ての奉仕を意図的にしてみたら、きっと今より効果的になることは間違いない。できることからはじめよう。

 

野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

箴言 15:17)

 イベントや教会を大きくするより、大切なことがある。

 日本の教会は、アメリカや韓国の影響を受けているところも多い(自分調べ)。彼らのアドバイスは、とても貴重だ。しかし、教会のサイズも文化もまるで違うのだから、そのまま鵜呑みにしてはいけない。特に、韓国系の教会にいた私の経験からすると、韓国の教会や宣教師は、「無理してやる」ことを勧めがちだ。彼らは、「信仰があるなら、やるでしょ?!」「仕事より家族より、まずは神様でしょ?」と言ってくる。彼ら自身のモチベーションに私は賛同こそしないが、彼らの心自体は純粋で素晴らしいと思う。しかし、それは韓国の儒教文化、加えて、何百人、何千人いるメガチャーチだから成り立つし、うまくいく。数十人、多くてもせいぜい100人程度しかいない日本の教会で同じことをやろうとすると、つぶれてしまう。声を大にして言いたいが、「神のために」といって仕事や家族や人生を放り投げるのは、「奉仕」とは言わない。「無謀」と言う。エスは「わたしのために家族を捨てる者は報いを受ける」と確かに言ったが、これは意味が少し違う。別の記事をいつか書きたいなと思っている。簡単に言えば、イエス一派と一緒にいたら親子もろとも殺されるようなヤバイ政治状況だったということ)

 日本には、日本に合った教会のあり方、奉仕のあり方があると思う。すべてをかなぐり捨てて教会のために人生を使うのもいいかもしれない。しかし、あなたの人生すべてを通して、仕事も遊びも家族団らんも、イエスといつも一緒にいるという生き方を、私はオススメしたい。いつでもどこでも、イエスを宣言するという生き方を、私はオススメしたい。

 

 

奉仕を辞める勇気

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 また、奉仕を喜びをもってやっていたが、様々な事情で続けるのが難しくなる状況にある人もいる。私のオススメとしては、ちょっとでも「負担」だと感じたら、奉仕をストップしてほしい。その勇気を持ってほしい。神に信頼する仲間を愛せなくなり、お互いを憎しみ合うようになってしまった時点で、ズレてしまっているからだ。

 日本人は、責任感が強い。今やっている奉仕を辞めるのは、無責任と考える人がいる。とんでもない。本来の目的と心がズレてしまっている状態で、奉仕を続ける方こそ無責任だ。ハッキリ言う。その状態で奉仕を続けられるのは、他の人にとって迷惑だ。

 人生いろいろ。仕事で大失敗することもあるだろう。仕事で大炎上したり、クビになってしまうかもしれない。夫婦仲がハイパー険悪になってしまうかもしれない。子供が病気になったり、グレたりするかもしれない。心身が病気になることもある。単純に他の教会スタッフの人と合わないこともある。聖書を読めなくなる時だってあるだろう。

 でも、あなたがその責任を感じる必要はない。あなたのせいじゃない。そういう困難は、神が与えるものだと聖書に書いてある。

 

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

 苦しみでさえ恵み! ワオ! 聖書は面白いことを言う。なぜ、神はこのように私たちを苦しめるのか。また後日、「苦しみと成長のらせん階段スパイラル」についても記事を書くが、今回はヘブル12章の聖書の言葉を紹介するに留める。

 

肉の父(実際の父親)はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

(ヘブル人への手紙 12:10~11)

 だから、奉仕を辞めたいと内心思っている人にオススメしたい。奉仕を辞める勇気を持とう。「私がやめたらどうなるの」と思うかもしれない。実は、意外とどうにかなるものだ。私も、「全部自分でやりたい」という性格なので、懸念はよく分かる。しかし、自分が手放した方が、実はいい結果になる場合も多いのだ。

 奉仕者を抱える教会スタッフにオススメしたい。辞めたいという声を敏感に察知してほしい。そして、快く休ませてあげてほしい。組織をまわすことより、一人の苦しみに寄り添ってほしい。苦しんでいる人に、さらに重い荷物を乗せないでほしい。イエスは、そのようにしているパリサイ派の人々を批判したのではないか。一緒に奉仕している仲間の心の状態に、お互いに敏感になれたらいいなと、私は思う。

 

 

 

「無償」は当たり前ではない

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 奉仕は無償のものだと思っていないだろうか。既に述べたように、「奉仕」という日本語に「無償」という意味合いはない。実は、ヘブライ語ギリシャ語でもそうだ。

 しかし、クリスチャンは「イエスのいのち」を前払いされているので、既に報酬は受け取っている。では、クリスチャンは教会のために、何でも「タダ働き」しなければならないのだろうか。

 旧約聖書で「奉仕」という言葉が使われているのは、ほとんどがレビ族や祭司が幕屋や聖所といった聖なる場所で仕事をする場面だ。レビ族や祭司は、「相続地」の割り当てがない代わりに、イスラエルの民が献上する「いけにえ」を報酬として受け取っていた。現代において、公務員が税金から給料をもらっているのと、構図は似ているので、そんなイメージでいいだろう。とすると、レビ族や祭司は給料をもらって「奉仕」していたのだ。

 新約聖書時代はどうだろうか。パウロはこんなことを言っている。

 

あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる者を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

(コリント人への手紙第一 7~14)

 パウロは、レビ族や祭司が報酬をもらっていることを引き合いに出し、福音の働きをする人も、生活のための収入をもらうのは当然だと語った実は私は以前、これは、「牧師」や「宣教師」などの、いわゆる「フルタイム奉仕者」の人が給与をもらうべきだと解釈していた。しかし、他の奉仕をする人だって、福音のための働きをしているわけなのだから、「生活の支え」を得ていいのではないか。

 クリスチャンは、何にも代えがたいイエスのいのちをもらっている。だから、それに感謝して奉仕する。それは大大大原則だ。しかし、なぜ牧師や宣教師は「有料」でやっていることを、他の信者は「タダ働き」が当たり前になっているのか。ちょっとおかしくないだろうか。

 私は、大胆な提案をしたい。教会は、できたら「奉仕者」に報酬を出したらどうか。バイト代程度でいい。もちろん、これは実務的に教会の規模や経済力にもよるだろう。難しいのは分かっている。牧師の給与ですら雀の涙程度しか出せないのが日本の教会の現状だ。私が言いたいのは、「無料奉仕は当たり前ではない」というマインドを持ってほしいということだ。

 最低でも、教会に賛美アーティストやメッセンジャーパフォーマーなどを呼ぶときは、報酬ありきで考えよう。働きをしている人に、報酬を払うのは当然ではないか。これは、聖書だけではなく、一般社会の常識でもある。 

 

 

支え合うコミュニティ

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 教会は、お互いに、お互いを大切にし合うコミュニティだ。その中心はイエスだ。互いにイエスの方を向き、神に近づくのが目的だ。そうやって、その共同体が神の取り仕切りの中で、ひとつに繋がっていく。それが神にある共同体だ。

 

キリストによって、(キリストの)からだ全体(=教会)は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:16)

  まず、教会の一人ひとりが、組織や人からの評価ではなく、イエスに向かっているか。「行い」ではなく、「恵み」が原動力となっているか、チェックしよう。教会がうまく回ること、礼拝会が滞りなく進むこと、イベントが成功することより、それを通して一人の人がイエスにより近づけるか、考えよう。

 もし、完全なイベントをしても、そこで語られたメッセージや気持ちの盛り上がりは、やがて忘れてしまう。しかし、段取りがダメダメなイベントでも、一人の人が、誰かとの個人的な会話で、「はっ」と気付いたことは、人生の糧となる。だったら、そっちの方が魅力的じゃないか。

 その意味で、「奉仕」を存分に利用しようではないか。「ギター上手いね! 今度一緒にやってみない?」「スモールグループ、リードしてみない? 楽しいよ!」「イベントの準備、一緒にやってみない?」と、誘ってみよう。そうやって誘うのと、「メンバーなんだから奉仕してよね」「そろそろ受けるより流す側にならないとね」というのでは、だいぶニュアンスが違ってくる。どうせなら、楽しく、トムソーヤ少年が楽しそうにペンキを塗ったように、奉仕に誘ってみようではないか。「それぞれの分に応じた働き」を通して、愛の中に建てられていこうではないか。

 

 

マルタとマリアの話

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 奉仕をたくさんする人が偉いわけではない。最後に、有名な、マルタとマリアの話を紹介する。

 

さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせていてるのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください」主(イエス)は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」

(ルカの福音書 10:38~42)

 このエピソードでは、姉妹とされているマルタとマリアが対比されている(どちらが姉か妹かはハッキリしない)。イエスのためを思って、あくせく給仕する、文字通り「奉仕した」マルタ。一方、イエスの足もとに座って、ただ話を聞いていたマリア。対照的である。「何よあいつ、私ばっかりに仕事させて。何もしてないじゃない」。マルタは、何も手伝わないマリアに腹がたったのだろう。イエスに訴える。「イエスさま、コイツになんとか言ってくださいよ!」と。しかし、イエス「マリアが良い方を選んだ」と言う。マルタ、赤っ恥。

 しかし、私は、どうしてもマルタが嫌いになれない。だって、あのイエスさまが来たんだから、精一杯のもてなしをしなきゃと思うのは当然ではないか。美味しいものを作らなきゃ。あっ、お茶は出したかしら。部屋は片付いているかしら。村のみんなを呼んできた方がいいかしら。飾り付けは・・・など、考えることでいっぱいだっただろう。「心が乱れている」のは当然だ。一般常識では、一生懸命働いているマルタの方が、ただイエスの話を聞いていたマリアより偉いに決まっている。

 しかし、イエスは逆だという。イエスは、「聞き入る」のが大切だと言ったのだ

 多くの日本人は、マルタ・タイプ。教会のほとんどの人は、マルタ・タイプ。一生懸命、神のために、イエスのために、そして教会のために働いている。その働き自体は素晴らしい。しかし、そうやって「心が乱れて」くると、「私はこんなにやっているのに、あの人はやっていない」「私はこんなに尽くしているのに、あの人はチャランポランだ」という思いに支配される。エスは、マルタのそのような心の中の思いを指摘したのではないか。

 あなたは、マルタのような心になっていないか。「あの人は何もしていない」「あの人は全然礼拝会に顔を出さない」「あの人は金持ちなのに献金してない」とか思い始めたら黄信号。目線がイエスからずれてしまっているかもしれない。

 「聞く」というヘブライ語の単語は「シェマ」。単純に「聞こえる」だけでなく、「聞いて、従う」という意味がある。旧約の一番大切な教え「心を尽くし神を愛せよ」の一番最初は、「聞け、イスラエル」である。

 イエスは、「聞き入る」のが大切だと言う。イエスは何と言ったか。「互いに愛し合いなさい」ではないか。わたしたちは、教会をまわすことより、奉仕をたくさんすることより、互いに愛し合うことを、第一にしようではないか。

 

主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

(サムエル記第一 15:22)

 

 奉仕をたくさんする人が偉いのではない。イエスはこう言っている。

 

まことに、あなたがたにいいます。(生き方の)向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

(マタイの福音書 18:3~4)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。