週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】「奉仕」をたくさんする人は偉いのか?<前編> ~奉仕とは何か~

教会に通いだすと、「奉仕」をやらないかと勧められる。たくさん「奉仕」をした人は偉いのだろうか?

 

 

「奉仕」の奴隷となっているクリスチャン

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 あるクリスチャンの友人が、体験談を話してくれた。彼は、以前所属していた教会でリーダー的な役目を担っていた。イベントの企画、教会の中のグループの取りまとめ、ピアノの奏楽など、様々な活動があった。クリスチャンではない人を、何人以上教会に誘うといったノルマまであったのだという。彼は「奉仕」に疲れ、教会に行くのが嫌になったと語った。

 こうした様々な活動を、クリスチャンの世界では、「奉仕」と呼ぶ。そして、多くのクリスチャンが、この「奉仕」のために教会に通っている。イエスを信じ、最初は希望に溢れて教会に通い出す。しかし、ある程度教会に通うと、この「奉仕」の一旦を担うよう打診される。はじめは、自分が共同体の一体となったように感じ、「自分でいいのかしら」という思いも持ちながら、引き受ける。始めた頃は楽しい。しかし、だんだんと最初の気持ちを忘れ、「奉仕」が「仕事」に変化する。次第に、クリスチャンはこの「奉仕」の奴隷となる。毎週日曜日がおっくうになる。教会が喜びの場所ではなく、息苦しい場所になる。

 このように、「奉仕」の奴隷になってしまっている人を、私は大勢見てきた。ただでさえ働きすぎの日本人が、月曜から金曜、人によっては土曜まで働き、そして日曜日も教会で「労働」しているのである。これでは潰れてしまう。

 「奉仕」が「仕事」になってしまったら本末転倒だ。しかし、教会によっては、「奉仕をしなければ信仰がない」というようなことまで教えられるところもある。そのような教会は、いわば、「神の恵みを感じるなら、奉仕をするはずだ」といって、信者をタダで働かせまくるのである。ブラック企業ならぬ、ブラック教会。とんでもない話だ。

 前半の今回は、「奉仕」とは何かという視点でまとめる。

 

 

「奉仕」「仕える」とは何か1 ~日本語の意味~

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 そもそも、「奉仕」とは何だろうか。聞き慣れない日本語である。私が、小学校6年生の時に転校した学校には、「奉仕委員会」なる委員会があったのだが、意味が分からなかった。聞くと、「ボランティア」という意味だという。本当にそうなのか。辞書をひいてみた。

ほうーし【奉仕】<広辞苑6版>

1:つつしんでつかえること。奉事。

2:献身的に、国家・社会のためにつくすこと。「社会奉仕」

3:商人が客のために特に安価に売ること。サービス。

ほうーし【奉仕】<新明解国語辞典

1:報酬を度外視して国家・社会・人のために尽くすこと「無料奉仕」

2:商人が安い値段で品物を売ること。サービス。

 日本語の「奉仕」は主に1:つつしんでつかえる 2:国家につくす という意味合いがあるようだ。商売関連の「奉仕」は、現代ではあまり聞かないし、特殊なので今回は省く。

 「奉仕」には、意外にも「無報酬」という意味合いがないのがポイントだ。新明解国語辞典」には「採算を度外視して」とあるが、「無報酬」という意味ではない。同項目に「無料奉仕」という熟語が例示されていることから分かるように、「奉仕」は通常、「無報酬」で行うものではない。もし奉仕が無料のものだったら、「無料奉仕」は、「無料無料」という熟語になってしまい、意味の重複だ。

 奉仕はあくまでも、「なにかのために、誠心誠意、利益を気にせず働く」という意味である。今の国家公務員が、ほとんど残業代が出ない中、昼夜問わず働いているのは、まさに「国家のための奉仕」といえよう。

 一方、英語の「volunteer<ボランティア>」は、英英時点で調べてみると、意味合いの力点が「自発的」かつ「無報酬」というところにある。有料だったらボランティアではなく、バイトである。だから、「奉仕」と「ボランティア」は明確に違う。また、「servie<サービス>」という単語は、公的機関での「仕事」というニュアンスが強いように受け取れる。

 

 ついでに聖書に「奉仕」とあわせて、よく出てくる「仕える」も調べてみた。

つか・える【仕える】<広辞苑6版>

1:目上の人の身近にいてその用を足す。かしずく。奉仕する。

2:宦などについて職を行う。

つか・える【仕える】<新明解国語時点>

1:主君・主人などのそばに居て、不自由が無いように働く。「病床の親に仕える」「神に仕える<奉仕する>身」

2:<身分・俸給を得るために>(役人として)勤める。

おまけ

かしず・く【傅く】<広辞苑6版>

1:子どもを大切に育てる。

2:人につかえて、世話をする。貢献する。 

 「仕える」はより明確で、1:主君のそばにいて働く 2:役人が国のために職務を遂行する の2つの意味である。どちらも「有償」なところがポイントだ。「仕える」は無報酬に力点がおかれているのではなく、1:その人のそばにいてうやうやしく働く2:国家・社会のために働いているというモチベーションに力点が置かれているのである。

 「奉仕」「仕える」は、どちらとも、基本的に対象は「人」だ。概念は対象にならない。「国」や「社会」は概念に近いが、特殊な用例である点と、公務員は「国民」のために仕えているのだから、不自然ではない。人間は、「殿様に仕える」とか「両親に仕える」とはいっても、「パソコンに仕える」とか「哲学に仕える」とかは言わないのである。

 こう見ると、よく例の「ブラック教会」などで聞かれる、「教会に仕える」という言葉は、どうも日本語として違和感を覚える。私たちは、「神に仕える」、「イエスに仕える」、「信仰の仲間に仕える」ことはできても、「教会(組織)に仕える」というのは、モチベーションとしてはもちろん、日本語としてもなんだかオカシイ話なのである。

 もちろん「国会」「社会」と同じように「教会」に所属する「人」に仕えているのだ、という主張もあろう。しかし、「教会に仕える」という際に、あなたが思い浮かべているのは誰だろうか。たいてい、「教会という漠然とした組織」または「牧師や伝道師など教会のリーダーたち」を思い浮かべているのではないだろうか。もしあなたが組織に仕えているとしたら、あなたは実態のない、空虚な「組織」というシロモノにあなたのエネルギーと時間を使っているのである。それは、ハッキリ言って虚しい。

 

 まとめると・・・

・日本語の「奉仕」「仕える」に、「無償」の意味はない。

・日本語の「奉仕」「仕える」は、「対象者のそばにいて働く」という意味である。

・日本語の「奉仕」「仕える」は、「役人が国のために職務を遂行する」という意味もある。

・日本語の「奉仕」「仕える」は、「人」が対象であって「モノ・概念」は対象とはなりえない。(国家、社会、会社などは、所属する人が対象になる)

 日本語の「奉仕」「仕える」の意味は、ある程度整理できた。では、聖書の大元、ヘブライ語ギリシャ語ではどうなのだろうか。

 

 

「奉仕」「仕える」とは何か2 ~ヘブライ語ギリシャ語の意味~

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 日本語の「新改訳聖書3版」では、「奉仕」が128回(旧約102回・新約26回)、「仕える」は181回(旧約139回・新約42回)登場する。無視できない、非常に重要な単語だといえる。

 「奉仕」にあたるヘブライ語は、「アボダー」で、これは「仕事」という意味である。「労働」や「奴隷の労働」を指す語である。旧約には141回登場し、そのうち102回が「奉仕」となっている。英語(KJV)でもほとんど同じ回数「serivce」と翻訳されている。「work」と翻訳されている回数は意外に少なく、10回のみ。後述するが、この語が使用されているのは、ほとんどが神殿や幕屋での役目を担っていたレビ族や祭司の役割を説明する時のものだ。祭司やレビ族は、当然無報酬ではなく、対価をもらっていた、れっきとした、生まれながら割り当てられる仕事だった。

 「仕える」は単純に「アボダー」の動詞形「アボッド」で290回登場する。英語ではほとんどが「serve」と翻訳されている。これも同じく、ほとんどが祭司やレビ族が幕屋や神殿で仕事をする時に使われている。

 「奉仕」、「仕える」にあたるギリシャ語は、「ラトネオー」(働く)、「ドゥーレノー」(奴隷として服従する)や、「ディアコネオー」(役に立つ・お世話をする・給仕する)など、様々だ。このうち、「ディアコネオー」は最も多く、37回登場する。

 

 

「奉仕」「仕える」の単語の使われ方

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 単純に単語だけを見ても分からない部分が多いので、聖書で「奉仕」と「仕える」という単語がどのように使われているか調べてみた。ざっと以下である。

 

●「奉仕」の使われ方 ( )の中は奉仕する人。<>の中は出自。

【旧約】

1:幕屋、聖所の奉仕全般(レビ族、祭司)<出エジ全般>

2:いけにえを献上する(イスラエルの民)<出エジ36:5>

3:主の宮で歌を歌う、賛美(レビ族)<1歴代6など>

4:天幕などの門番(コラ人)<1歴代9、26など>

5:立琴で預言する(アサフ、へマン、エドトン)<1歴代25>

6:王に奉仕する地区長の役割(レビ族、ヘブロン人)<1歴代26>

7:いけにえをささげる(レビ族、祭司)<2歴代35など>

 

【新約】

1:神が望むことを行う(ユダヤ人)<ヨハネ16>

2:祈り・みことばを語る(マッテヤを含む新十二弟子)<使徒6>

3:宣教の活動(パウロ)<使徒21、26など>

4:共同体の中で働く(信者たちへのすすめ)<ローマ12、エペソ4>

5:献金、支援物資を運ぶ(パウロ)<ローマ15>

6:献金をする、支援物資を送る(異邦人信者たち)<ローマ15>

7:神の命令を守って生きる(信者へのすすめ)<1コリ7>

8:宮で仕える(祭司やレビ人)<1コリ9>

9:いろいろな種類がある(一般論)<1コリ12>

10:もてなすこと(ステパノの家族)<1コリ16>

11:福音を伝える(3とほぼ同じ)(テモテ)<ピリピ2>

12:自由であることを教える(テモテ)<1テモテ4>

13:主人に仕える(奴隷)<1テモテ6>

14:旧約の預言者たちの預言(預言者たち)<1ペテロ1>

15:信仰の仲間と助け合う(信者全般)<1ペテロ4>

 

◎「仕える」の使われ方 ( )の中は奉仕する人。<>の中は出自。

【旧約】

1:働く(エサウ)<創世記25>

2:王のもとで働く(ヨセフ)<創世記41>

3:神にいけにえをささげる(イスラエルの民)<出エジ10>

4:奴隷、雇い人として働く(イスラエルの民)<出エジ14>

5:異邦の神々を崇拝する(イスラエルの民)<出エジ23>

6:祭司としての職務を行う(レビ人・祭司)<出エジ35>

7:神に従う(イスラエルの民)<ヨシュア24>

8:お供をする(預言者エリシャに仕えたゲハジ)<2列王8>

 

【新約】

1:誰かの下で働く(しもべ、雇い人、奴隷)<マタイ6>

2:給仕する、お世話する(イエス)<マタイ20>

3:神のことばの働きをする(聖書筆者たち)<ルカ1>

4:神を礼拝する(信者全般)<ルカ1>

5:お供をする(イエスの弟子たち)<ヨハネ12>

6:食事を提供する(弟子たち)<使徒6>

7:星を拝む(イスラエルの民)<使徒7>

8:いけにえをささげる(レビ人・祭司)<1コリ9>

9:(新しい)契約を守る(信者全般)<2コリ3>

10:福音を宣べ伝える(パウロ)<エペソ3>

11:共同体のために働く(パウロ)<コロサイ1>

12:祭司としての職務を行う(レビ人・祭司)<ヘブル13>

 

 旧約と新約での「奉仕」、「仕える」の概念をまとめると以下のように絞れると思う。

【聖書の「奉仕」「仕える」の種類】

1:祭司やレビ族が幕屋や聖所に関する職務を行う。その全般。幕屋の建設、運搬、いけにえ、賛美、門番など。

2:王や主人など、誰かのもとで働く。雇われて働く。

3:神、異邦の神々を崇拝する。神に従う。神の命令を守る。

4:祈りやみことばを語る。宣教の活動。福音を伝える。

5:共同体の中で仲間を助ける。もてなす。給仕する。

6:献金をする。支援物資を運ぶ。

 

 

私たちにとって「奉仕」とは

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 上記の6つの「奉仕・仕える」は私たちにとってどのような意味があるのだろうか。

 

1:祭司としての奉仕

 1番は、一見、旧約聖書時代だけの話に見える。しかし、今や私たちはメシアであるイエスによって、「王であり祭司」である。

 

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

(1ペテロ 2:9)

 クリスチャンは、イエスにあって王であり、祭司である。神の栄誉を告げ知らせるのが、祭司の役目。つまり、1番は2~6番全てにかかる、「自分は神の祭司である」というモチベーションにかかってくる。「王である祭司」は、自分の人生全てを通して、神の栄誉を告げ知らせるのである。

 

2:雇い人としての奉仕

 2番は、主に「奴隷」に関することである。「奴隷」といっても、聖書に出てくる「奴隷」は、南北戦争の際のアメリカ南部で使役された奴隷とは少しニュアンスが違う。「住み込み雇い人」とでも言おうか。単純化すれば「雇い人・エンプロイー」である。

 サラリーマンならば、会社のために働く。公務員なら公共機関に。自営業なら自分の事業のために。それぞれが、それぞれの仕事をして生活している。聖書は、誠実に働くよう勧めている。

 

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

(エペソ人への手紙4:28)

 クリスチャンは、「教会での自分」、「職場での自分」という区別をつけるべきではない。TPOにふさわしく振る舞うのと、裏表があるのは違う。あなたは、いつでもどこでも100%イエスを愛して、イエスに自信を持って、イエスを堂々と宣言して生きているだろうか。あなたは、金太郎飴のようにどこを切ってもイエス大好きな姿勢で、仕事をしているだろうか。

 仕事の仲間に誠実に、仕事の相手に誠実に、そして仕事でかせいだお金に誠実に生きる。これが「雇い人」としての奉仕である。

 

3:イエスの弟子としての奉仕

 クリスチャンは、もちろん、この世界を創った唯一の神に信頼する、神のしもべである。そして、イエスの弟子である。イエスが十字架で犠牲となっため、旧約聖書の律法を守る必要は既になくなった。今の私たちは、イエスの新しい教えを生きる指針として、生きる。イエスの最大の教えは以下である。

 

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:34~35)

 互いに愛し合う。これがイエスの新しい戒めである。お互いを大切に思い、思いやりを持って支え合って生きる。その生き方が、イエスの弟子としての生き方である。当然、神を大切に思い、神に従うのは、その大大大前提である。

 

4:宣教者としての奉仕

 クリスチャンは、どこにいても、何をしていても、福音を伝える宣教者である。あらゆる聖書の言葉が、福音を伝えるよう教えている。

 

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

(マタイの福音書 28:19~20)

むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

(ペテロの手紙第一 3:15)

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

(テモテへの手紙第二 4:2)

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

(コリント人への手紙 第一 9:16)

 信徒全般へのすすめもあれば、パウロからテモテへのすすめ、パウロ自身の思いなど、ざまざまな形で、福音を伝えよと命じられている。クリスチャンは、牧師、宣教師などにかかわらず、全員がその生き方すべてを通じて、イエスの十字架と復活の福音を伝える役目を追っているのだ。実際、何の役職もないプリキラとアキラは、宣教者であるアポロに聖書のことを教えた。

 

この人(アポロ)は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを性格に語ったり教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は街道で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。

使徒の働き 18:25~26)

 

 

5:共同体の仲間としての奉仕

 教会というのは、信者の共同体である。組織ではない。教会という組織をうまく回すための働きが奉仕なのではなく、共同体の仲間を支え合い、助け合うのが奉仕である。聖書の中には、様々な助け合い、もてなしの奉仕があった。

 

信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

使徒の働き 2:44~47)

 はじめの頃の共同体は、財産を分け合い、富んでいる者も、貧しい者も一緒に助け合って生活していた。食事を作る者も、片付ける者もいただろう。それぞれが、それぞれの役割を果たして助け合っていたのだ。

 

またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の子の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた。(中略)やもめたちはみな彼(ペテロ)のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。

使徒の働き 9:36~39)

 ドルカスという女性は、得意技の裁縫で、仲間に服を作ってあげていた。貧しく、服も満足に繕えない人々にとって、彼女の存在は、どれほど優しく、あたたかみのあるものだっただろうか。

 

あなたがたの仲間の一人、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと行っています。彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。

(コロサイ人への手紙 4:12)

 エパフラスという人は、離れた場所にいた信仰の仲間のために祈っていた。当時は、スカイプはおろか、ケータイも何もない時代である。名前も知っていたかどうか怪しい。エパフラスは、顔も知らない人々のために、いつも祈っていたのであった。

 他にも、食事を作って給仕をしたり、献金や支援物資を運んだり、聖書のことばを教え合ったりと、一人ひとりが、自分の得意技で、できることを、できるペースで、できる量を共同体の中でやっていた。それぞれの働きが尊く、大切で、優劣がないのは言うまでもない。

 

 

6:捧げる者としての奉仕

 自分の持っているものを捧げるのは、とても大切な「奉仕」である。「自分が所属する教会にたくさん献金を捧げる」なんていうケチケチした考えではない。それはカンチガイだ。献金についての記事はこちら)

 最初の頃の共同体は、お互いを支え合っていた。現に、遠くにある共同体が、エルサレムにいる信仰の仲間のためにお金や物資を拠出し、パウロたちはそのお金や物資を運んでいたのである。

 

しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私(パウロ)はエルサレムに行きます。それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。(援助)私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように。

(ローマ人への手紙 15:25~31)

 最初の頃の信者たちは、自分が何人か、どこの共同体に所属しているかに関わらず、お互いを金銭的に、物質的に援助しあっていたのだ。なんと寛大な心、壮大な連帯であろうか!

 

 

まとめ:「奉仕」はあなたの「生き方」である

 「奉仕」とは何かを、細かくみてきた。「奉仕」は、あなたの所属する教会の中で、ピアノをひいたり、子どもクラスをリードしたり、案内係をすることだけではない。もちろん、そういった一つ一つの教会の役割も大切だ。優劣などない。しかし、本来「奉仕」とは、あなたの生き方そのものなのだ。あなたの生き方を通して、イエスの素晴らしさを示す。あなたの置かれている場所で、誠実に働く。あなたの口で、神を賛美し、福音を伝える。共同体の中で、自分に何ができるか、神に聞き、小さな助け合いを実行する。なけなしのこづかいで、遠く貧しい信仰の仲間に献金をする。それら一つ一つが、「奉仕」だ。あなたの生き方が奉仕になるのである。

 ステージの上で聖書の言葉を語る牧師や、ステージの上で歌う賛美リーダーだけが偉大な奉仕者ではない。朝、誰も来ていない教会に来て、人知れずトイレ掃除をする。誰も見向きもしない人に話しかける。誰も手をつけない皿洗いを人知れず、こっそりやっている。そのような人が、偉大な奉仕者ではないか。

 もっと大きな「奉仕」のスケールを持とう。日本語の「仕える」は、「主君のそばにいる」という意味がある。あなたは、あなたの主君、ただ一人の神のそばにいるだろうか。あなたが仕えているのは、教会組織だろうか。それとも、目の前の一人にだろうか。あなたは、目の前の一人の人の瞳の中に、イエスを見出しているだろうか。

 

 後編は、「奉仕でつぶれないために」、「奉仕のモチベーション」について書く。

 

★後編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「洗礼」はクリスチャンになる条件なのか?<後編> ~洗礼は救いの条件でも、牧師の特権でもない~

「洗礼」は救いの条件なのでしょうか。

★前編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 
▼洗礼とは何か

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 前回の記事では、洗礼とは何かをまとめた。簡単にポイントだけ挙げる。

 

1:「洗礼」は、信仰を宣言する、信仰のスタートに関わる儀式である。

2:「洗礼」は、「きよめ」ではなく、「生まれ変わり」を象徴する儀式である。

3:ヨハネは「水」でバプテスマを授けたが、イエス「霊」バプテスマを私たちに与えた。

4:私たちの「肉」は、「神の息」に満たされた、「霊」のからだに「生まれ変わる」必要がある。そうしないと、神の基準で生きることはできない。

5:旧約聖書には「ノアの箱舟」や「モーセの海割り」など、「洗礼・バプテスマ」の「伏線」がたくさんある。

 さて、以上の点をふまえた上で、次回は以下の点を考えていきたい。

 

1:「洗礼」はクリスチャンになる条件なのだろうか。

2:洗礼を受けるためには「準備コース」たるものを受講しなければならないのだろうか。勉強して理解した上でないと、洗礼を受けてはいけないのだろうか。

3:洗礼を授けるのは牧師だけの特権なのだろうか。

 この3つについて、順番に見ていこう(※本来、「洗礼」は「バプテスマ」と表記すべきであるが、分かりやすさを優先し、この記事では基本「洗礼」と記する)。

 

▼「洗礼」はクリスチャンになる条件ではない

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 「洗礼」は、「きよめ」ではなく、「生まれ変わり」の儀式である。これは前編で述べた。では、洗礼は救いのための条件なのだろうか。言い換えれば、「洗礼を受けた時にクリスチャンになる」のだろうか。「洗礼を受けなければ、たとえイエスを信じていてもクリスチャンではない」のだろうか。色々な意見があると思うが、私の個人的見解は、完全にNOである。聖書にはこう書いてある。

 

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(中略)では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある」。これは、私たちが述べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ人への手紙 10:3~10)

 ハッキリと、「人は心に信じて義と認められ」「口で告白して救われる」と書いてある。洗礼の「せ」の字もそこにはない。私たちは、ただメシアであるイエスを信じ、受け入れ、宣言することによってのみ救われるのだ。洗礼は、救いとは全く関係がない。私たちは洗礼によって救われるのではなく、「イエスを主と告白するなら救われる」のである。

 また、別にハッキリと「洗礼は救いではない」と書いてある箇所がある。先の、ノアの箱船の箇所だ。

 

この水(ノアの洪水の水)はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

(ペテロの手紙第一 3:21)

 洗礼は、良心をもって、イエスを信じる告白をした後に行う「誓約」である。いわば、「信仰を公に表明する儀式」といってもいいだろう。よく「洗礼式」は「神との結婚式」とも言われるが、この「誓約」という文言から来た発想であろう。

 洗礼の「水」は、罪を取り除く象徴ではない。罪を取り除く象徴は、キリストの血である。「水」は生まれ変わりの象徴であり、誓約の証である。

 洗礼は救われる条件ではなく、救われたことを宣言する儀式なのだ。順番を整理しよう。

 

1:福音を聞き、イエスを信じる

2:救われる。義と認められる。

3:その誓約として、洗礼を受ける。信仰を公に表明する。

 こういう順番である。決して、洗礼を受けたから救われるのではない。だから、洗礼を受けていなければクリスチャンではないという考えは、間違っている。エスを救い主として信じる人がクリスチャンなのだ。

 

 

▼考えうる反証「バプテスマを受ける者は救われる?」

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 あえてカウンターアーギュメントをあげるとすれば、以下の言葉が引用できるだろう。

 

信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

(マルコの福音書 16:16)

 これは、イエスの言葉である。「バプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる」という文言は、「受けなければ救われない」といったようにも受け取れる可能性がある。

 しかし、それは間違いだ。後段を読めばよく分かる。後段は、「バプテスマを受けない者は罪に定められる」とは書いていない。「信じない者は罪に定められる」と書いてあるのだ。この箇所は「バプテスマを受ける」が対比されているのではない。あくまでも、「信じる」と「信じない」が対比されている箇所なのだ。信じる者は、その証明として、その誓約として、洗礼を受ける。ただそれだけだ。信じる者は救われ、信じない者は救われない。やはり、この箇所を根拠に「洗礼を受けないと救われない」と論じるのは間違っている。

 

 

▼洗礼に「学び」は必要なのか

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 2つ目のポイントに移ろう。洗礼に「学び」、「洗礼準備コース」たるものは必要なのだろうか。私の意見では、全くもって必要ない。しかし、シンプルな福音の理解と宣言は必要と考える。聖書の洗礼が行われた人々の例を5つ挙げる。

 

【1:バプテスマのヨハネと民衆】

そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを述べ伝えて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。(中略)そのころ、エルサレムユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

(マタイの福音書3:1~6)

ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえか彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。

(ルカの福音書 7:29)

 ヨハネは大勢の民衆にバプテスマを授けた。ヨハネの弟子たちも授けていたであろう。周辺地域から大勢の人が来て、「悔い改めなさい」というヨハネのメッセージを受け取り、バプテスマ=洗礼を受けていた。ヨハネは、この大勢の群衆一人ひとりに、「洗礼準備コース」たるものを受講させたのだろうか。ハッキリ言って、物理的に不可能である。ヨハネが洗礼に提示した条件はただひとつ。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言ったのみであった(マタイの福音書3:8)。

 

【2:ペンテコステの3000人の信者】

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(中略)彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

使徒の働き 2:37~41)

 使徒の働き2章には、イエスの昇天後、初めて「聖霊」が下り、神の力が如実に現れた「ペンテコステ」の日の記述がある。詳細は別の機会にするが、一同に介したイエスの信者たちが、突然、外国語で神の素晴らしさを語りだしたのである。びっくりした周辺の人々に対して、ペテロはハッキリと、「イエスがメシアであり、お前たちはそのメシアを十字架につけたんだ」と宣言する。それを聞いた人々は心を刺され、3000人もの人々が洗礼を受けたのであった。

 3000人の人は、「その日」に洗礼を受けた。6ヶ月もの「洗礼準備コース」なんて受けやしなかった。その場でペテロのメッセージを受け入れ、イエスをメシアとして信じ、証明として洗礼を受けたのである。彼らは、「イエスを十字架につけろ!」と叫んでいたユダヤ人である。それが即日悔い改めて、洗礼を受けたのだ。なんとシンプルで簡単な救いだろうか。

 

【3:ピリポと宦官】

そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピアがいた。彼は礼拝のためにエルサレムに上り、帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。(中略)そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。(中略)ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、エスの福音を彼に伝えた。道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」そして、馬車を止めるように命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。

使徒の働き 8:27~38)

 このエチオピア人の宦官も、信じたその場でバプテスマを受けた。「洗礼準備コース」など受講していない。彼は、エチオピア人と書いてあるが、おそらくソロモンの時代に交易関係にあったエチオピアに移民したユダヤ人の子孫であろう。だからイザヤ書を読んでいたのだ。ちなみに、今日のイスラエルには白人のユダヤ人も黒人のユダヤ人も、様々なバックグラウンドの人がいる。

 彼が、ユダヤ教の素養があったことから、「一定の学び、旧約聖書の理解が必要だ」という意見もあるだろう。しかし、エチオピア人の宦官は、肝心のメシアについては旧約の内容ですら何も分かっていなかった。だから、ピリポがイザヤ書(53章)の内容は、イエスについての預言なのだと解説する必要があったのだ。宦官は、福音を聞いてすぐに「洗礼を受けたい」と申し出た。ピリポは、すぐさま宦官に洗礼を授けた。宦官は「勉強をして知識がついたから」洗礼を受けたのではなく、「福音を聞いて信じたから」洗礼を受けたのであった。

 

【4:ペテロとコルネリウス

割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから」ペテロはコルネリウスたちに命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、何日か滞在してもらった。

使徒の働き 10:45~48)

 コルネリウスは、カイサリアという場所にいたイタリア隊という部隊の100人隊長だった。彼は夢で、ペテロのところに行けと神のお告げを受けた。ペテロも同時に夢で、神からお告げを受けて、カイサリアに行き、コルネリウスと彼の家族に会った。そして、そこで洗礼を受けるよう命じたのであった。興味深いことに、この書き方を見ると、ペテロ自身が洗礼を授けたのではないようだ。誰が授けるかは重要ではないことがうかがえる。

 コルネリウスは神を信じていたが、外国人であった。彼は、外国人で初めて洗礼を受けた人となった。コルネリウスは外国人であったが、ユダヤ教訓練コース」なんか受けなかった。ただ彼は、イエスを救い主、メシアを信じただけであった。

 

【5:看守と家族】

目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。二人(パウロとシラス)は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。

使徒の働き 16:29~33)

 パウロとシラスは、言いがかりで逮捕され、牢屋に入れられていた。すると、地震が起こり、牢屋の扉もひらき、鎖も外れた。この箇所は、その時看守が、責任を感じて自殺しようとしたシーンである。

 この看守は完全に外国人である。ほぼ確実にユダヤ人ではない、ローマの兵隊だ。その彼も、彼の家族もすぐに信じてバプテスマを受けたのだ。ユダヤ教訓練コース」はおろか、「洗礼準備コース」など受けていない。外国人であるから、旧約聖書の素養もほとんどないだろう。ただ、彼らは、「主イエスを信じた」のみであった。それですぐに洗礼を受けたのであった。

 

 どうだろうか。これらの例を見れば、「洗礼に学びが必要」とはとても思えない。共通しているのは、「イエスを救い主、メシアと信じる」という事実である。「イエスを信じる」というのが、たった一つの洗礼を受ける条件なのだ。細かい神学的なことは、その後学べばいいのだ。イエスを信じ、洗礼を受ける。その後で、大好きなイエスのことを、もっと学んでいけばいいのだ。

 もちろん、「当時の人は神の存在を当たり前に信じていたのだから、そもそものベースが現代の日本人とは違う」という意見もあるだろう。確かにそうだ。だから、私は、洗礼を受けるならば以下のような点を信じる必要があると思う。

1:神は唯一であり、この世界、そしてあなたを創った。

2:あなたは神と一緒でないと、本当の意味で生きられない。

3:神と一緒になるためには、あなたはあまりにも不完全な存在である。

4:あなたの努力によって、神と一緒に生きるにふさわしい者になるのは不可能である。

5:あなたがあまりにも大切な存在なので、神はあなたと一緒に生きるために、イエスを地上に送った。

6:イエスはあなたのために十字架で死んだ。そしてよみがえった。

7:イエスを信じれば、あなたはいつまでも神と一緒に生きることができる。

 あえて細かく羅列したが、福音はもっとシンプルだ。単純に言えば、あなたは「イエスを救い主」と信じれば洗礼を受ける資格がある。細かい神学は後でいい。「洗礼準備コース」なんてくだらない。どうせ覚えていやしない。私はそんなものは受けていない。意味がない。でもイエスが大好きだ。だから洗礼を受けるのだ。一体、日本の教会はいつになったら「洗礼を受けたい人を妨げる」のをヤメないのか。この意味のない「洗礼準備コース」が、いたずらに洗礼のハードルを上げているのは間違いない。エスを信じたい人の気持ちをくじくのは、やめていただきたい!

 

 

▼洗礼のすすめ

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 さて、イエスを信じてはいるが、まだ洗礼を受けていない人にオススメする。洗礼を受けよう。受けない理由はどこにあるのだろうか。「準備コース」が必要? くだらない。そんなくだらないことを強要する教会に参加するのはやめてしまえ(!)・・・というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、あなたが洗礼を受けたいと思うなら、教会の人に相談してみてはどうだろうか。

 もし、教会が「絶対に準備コース受けなきゃダメ!」と言うなら仕方がない。付き合ってあげようじゃないか。あなたが信じたい、大好きなイエスのことをタダで教えてもらえるのだ。ラッキー! 結構なことじゃないか。存分に牧師とか、教会スタッフの時間を使ってもらおうじゃないか。すぐに洗礼を受けなくても、あなたは既に救われている。焦る必要はない。大好きなイエスのことを、もっと知れると思って、洗礼に一歩踏み出そう。

 あなたが洗礼を受けるのをためらっているとしたら、何か理由があるのだろう。その理由をしっかり考えてみよう。今、心に浮かんだことは、言い訳ではないだろうか。洗礼を受けていなくても、あなたはイエスを信じていればクリスチャンである。よく、「クリスチャンか」と聞くと、「洗礼“は”受けていない」と答える人がいる。では、受けない理由は何か。自分の心に聞いてみよう。「家族がクリスチャンじゃない?」「お墓どうする問題?」「まだ信心深くない?」・・・それらは、本当にあなたが大好きな(大好きになろうとしている)イエスより大事なのだろうか。イエスは、あなたがどんなに「いい人」なのかは全く気にしていない。さぁ、イエスの腕の中に飛び込もう!

 あなたがイエスを信じ、イエスと一緒に生きたい! と思うのであれば、私はすぐにでも洗礼を受けることをオススメしたい。

 

さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方(イエス)の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。

使徒の働き 22:15)

 もちろん、まだ踏み出せない、という方もいらっしゃるだろう。ゆっくりでもいい。洗礼は救いの条件ではない。しかし、信じる決心ができたなら、すぐに受けることをオススメしたい。

 

 

▼「洗礼」は牧師の特権なのか

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 さて、本記事のメインディッシュ。洗礼は牧師の特権なのか。洗礼はその大切さが強調されるあまり、ほとんどの教会では、洗礼を授けるのは牧師だけの特権となっている。牧師でなければ洗礼を授けてはいけないというのは、本当だろうか。聖書の中の例を見ていこう。

 

【聖書の中で洗礼を授けた人リスト】

※(?)付きの人物は、その人が授けたという明確な記述がないが、文脈からほぼ明らかに授けたと分かる人々。

バプテスマのヨハネ

バプテスマのヨハネの弟子たち(?)

・イエスの弟子たち

・ペテロ(?)(使徒2章)

・12弟子やほかの弟子たち(?)(使徒2章)

・ピリポ

・アナニア(?)(使徒9章・サウロ<パウロ>に授けた?)

・ペテロに同行した人々(?)(使徒10章・コルネリウスと家族に授けた?)

パウロ(1コリ1章)

・シラス(?)(使徒16章・看守に授けた?)

・アポロ

 洗礼を授けたと明確に記述がある人は、意外に少ない。では、彼らは「牧師」だったのだろうか。実は、ただの1人も牧師ではないのである(※というか、牧師っていう職業自体ほとんどなかったのだが、またこれは別の機会に)

 バプテスマのヨハネは祭司の息子だから、それなりの教養はあったであろう。しかし、ペテロは、イエスの弟子だったが、神学教育は全く受けていない、ただの田舎の漁師だった。ヨハネやイエスの弟子たちも、ほとんどが田舎者であった。取税人出身者もいた。右翼活動家もいた。ピリポは、使徒ですらない、教会の事務職だった人物である使徒6章参照)。

 アナニアに至っては、単に「アナニアという弟子がいた」と書いてあるだけ(使徒9章参照)。そのアナニアが、あのパウロに洗礼を授けたのであった(※「パウロは立ち上がってバプテスマを受けた」としか書いていないので、もしかすると洗礼を授けたのはアナニヤではない可能性はあるが、十中八九アナニヤが授けたのであろう)。アポロなんかは、イエスの弟子でもないし、「聖霊」の理解もないのに、勝手に洗礼を授けていたのである。

 これらの例を見ると、「牧師でないと洗礼を授けてはいけない」という考えは、全く根拠がない。アナニヤはどうなのか。ピリポはどうなのか。アポロはどうなのか。私たちは、イエスの弟子である。エスの弟子であるなら、誰でも洗礼を授ける資格がある。その資格は神から来るものだ。「牧師」という称号がその資格を与えるのではない。

 パウロは、洗礼=バプテスマについてこう言っている。

 

あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。(中略)キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が虚しくならないようにするためです。

(コリント人への手紙第一 1:12~17)

 コリントの教会では、「誰に洗礼を受けたか」によって争いがあった。パウロはそれを「バカじゃねぇのお前ら」と一蹴したのである。彼は、はっきりと「私はバプテスマを授けるためではなく、福音を述べ伝えるために遣わされた」と宣言した。よく、クリスチャンの中に「私は●●先生から洗礼を受けました」と言う人がいるが、このコリントの箇所を読んだことがないのだろうか。誰が洗礼を授けたかは、全く意味がない。

 パウロに倣うのであれば、牧師ならむしろ、洗礼を授けないべきだ。洗礼を何人授けたかが重要ではなく、どれだけ福音を述べ伝えたかが重要なのである。

 

 

▼洗礼を授けることはイエスの命令

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 まだ納得できない方がいるのならば、イエスのこの命令を読んでいただきたい。

 

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイの福音書 28:18~20)

 これは、イエスの最後の命令で、大宣教命令(The Great Commission)と呼ばれるものだ。有名な箇所である。大宣教命令の内容をまとめると以下だ。

 

1:私(イエス)には一切の権威がある、ですから・・・(権威の宣言)

2:行け(派遣・拡散)

3:あらゆる国の人々を弟子とせよ(弟子化)

4:バプテスマを授けよ(洗礼)

5:命令を守るよう教えよ(教育)

6:私はずっと一緒にいる(約束)

 これは有名な箇所で、よく宣教をせよという内容で、一般の信徒に語られる箇所だ。これは、11人の弟子たちに語られたことだが、現代の私たち一人ひとりに語られていると受け取って異論はないだろう(※11人だけであらゆる国の人々を弟子とするのはそもそも不可能である・・・)。なぜこの「大宣教命令」のうち、「バプテスマ」だけは牧師だけの権利なのだろうか。イエスはそんなこと、一言も言っていない。

 であるとするならば、エスの命令を実行しようとする人を、なぜとがめるのか。エスの教えは、あなたの教会の伝統より価値がないのだろうか。あなたは、教会や教団の伝統を、イエスの命令より優先するのか。エスは、そのようにしていたパリサイ人を批判したのではないのか。

 

またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物はコルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら-』と言って、その人が、父または母のために何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:9~13)

 エスの命令を無視し、あなたの教会や教団、「キリスト教」の伝統を優先させるならば、あなたは神のことばを空文化しているのである。あなたは、イエスの教えを無下にしているのである。

 洗礼は、イエスを信じる、イエスの弟子、クリスチャンであるならば、誰でも授けることができる。むしろ、そうせよというイエスは命令している。そして、それは名誉とはならない。名誉と栄誉を受けるのはただ一人、イエスご自身である。

 

 

▼おまけ1:「滴礼」と「全浸礼」はどちらが望ましいか

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 さて、最後に2つだけ付け足したい。まず前編の最初に記述した、「滴礼<てきれい>」「全浸礼<ぜんしんれい>」の是非について述べる。

 

 「滴礼」と「全浸礼」どちらが望ましいのか。聖書を読むと、バプテスマのヨハネや、イエスの弟子たちは、川や泉で洗礼を授けていた。ピリポは宦官に「水のあるところ」で洗礼を授けた。また、洗礼の語源、「バプテゾー」は「浸す」という意味である。これらを素直に受け入れれば、前身が水に浸る、「全浸礼」が望ましいとも取れる。

 ただ、パウロの場合はどうか。アナニヤは、パウロが泊まっていた家でパウロのために祈った。そのとき、パウロの目からうろこが落ちて、見えるようになった。そして、パウロは「立ち上がってバプテスマを受けた」と書いてある。それがその家だったのか、それとも泉や川に行ったのかは不明だ。家の中で、そのまま「滴礼」または「灌水礼<かんすいれい:頭に水を注ぐ>」のように行った可能性もある。ほかにも、一日に3000人が洗礼を受けたりしていたことから(使徒2章)、「全浸礼」は難しかったのでは、という指摘もある。

 私は、別にどっちだっていいと思う。それでケンカするくらいなら、しない方がいい。大切なのは儀式の意味合いで、形ではない。大切なのは、洗礼の方式ではなく、イエスに対する信仰だ。

 個人的好みを言えば、全浸礼の方が好きである。なぜなら、イエスを信じ抜くという人生の大きな決断を、水でチョロチョロっと頭を濡らしただけでは、どうも物足りなく感じるからだ。人生で一番大きくて、大切な決断なのだから、全身ザブンと水に入って出る儀式をした方が、それっぽいだろう。記憶にも残る。全身が生まれ変わる。「バプテゾー」の意味は「浸す」。それら全てを総合的に考えて、個人的な好みは「全浸礼」である。

 私が洗礼を受けた時に参加していた教会は、「滴礼」が基本だったが、頼み込んで川での「全浸礼」にしてもらった。牧師は快く受け入れてくれたし、同時に洗礼を受けた仲間もそうした。思い出に残る式だった。でも、別に好みなので、あなたが信仰を持って選んだやり方が正しいと思う。

 

 

▼おまけ2:「幼児洗礼」の是非

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 では、生まれたばかりの赤ん坊に洗礼を授ける「幼児洗礼」はどうだろうか。これは、「滴礼・全浸礼」の議論とは少し違う。私の意見では、幼児洗礼はオススメしない。なぜか。以下のような点が理由である。

 

1:幼児は、洗礼の大大大前提である、福音の理解とイエスを信じる判断ができない。

2:エスを信じていない洗礼に意味はない。頭が濡れるだけ。

3:将来的に、「幼児洗礼を受けた」という事実が「言い訳」となり、「自分の意思での洗礼」から遠ざける危険性がある。

4:聖書に幼児洗礼をした例はない。

 幼児洗礼をする人たちの心境は、以下の2点であろう。

 

1:幼児がすぐ死んでしまったら救われないかもしれない。洗礼を受けさせれば救われる。

2:親が子どもを神に捧げる意思を示す。

 1については、今までさんざん述べたように、洗礼について全く間違った解釈をしているので、改めて論評するに値しない。もし1のようなモチベーションで幼児洗礼を受けさせるのであれば、間違っている。

 2については、その心情は理解できる。旧約聖書で、サムエルの母ハンナが子どもを捧げる宣言をしたように(1サムエル1:11)、そのような宣言を両親がするのは良いことであると思う。しかし、そうしたいのであれば、ただその宣言を公にすればいい話であって、幼児洗礼をする理由にはならない。

 いたずらに幼児洗礼をしてしまうと、3で示したように、「幼児洗礼を受けたから」というのが「言い訳」となってしまい、「自分の意思での洗礼」を阻害してしまう可能性がある。もし、あなたの決断があなたの子どもを信仰のスタートである洗礼から遠ざけてしまうのであれば、あなたの幼児洗礼の決断は、害悪以外の何物でもない。あなたの自己満足のために、イエスが死んでまで愛してくださった、あなたの子どもを滅ぼさないでいただきたい。幼児洗礼はオススメしない。子どもを捧げるのであれば、洗礼ではない別の儀式や宣言によって示すべきである。

 ただ、既に幼児洗礼を受けた人は、悩む必要はない。それはただ頭が濡れるだけの儀式なのであるから、意味はない。あなたがイエスを信じたいのであれば、洗礼を受ければ良いと思う。ぜひ!

 

▼おまえはもう死んでいる

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 今回の記事の概要をまとめたい。

 

1:「洗礼」はクリスチャンになる条件なのだろうか。

→違う。洗礼はイエスを信じた人の誓約式である。救いの条件は水ではなく、イエスの血である。

 

2:洗礼を受けるためには「準備コース」たるものを受講しなければならないのだろうか。勉強して理解した上でないと、洗礼を受けてはいけないのだろうか。

→違う。洗礼に必要なのは、福音の理解とイエスへの信仰だ。学びはその後で良い。

 

3:洗礼を授けるのは牧師だけの特権なのだろうか。

→全く違う。むしろ、洗礼を授けるのはイエスの命令である。エスを信じる者ならば、誰でも洗礼を授けて良い。

 洗礼を受けたあなたは、既にこの世では死んでいる。しかし、イエスを信じるなら、神の息、神の霊があなたの中にある。イエスによって、あなたは新しい存在として生まれ変わったのだ。その生まれ変わりを象徴し、あなたの信仰を宣言する儀式が「洗礼」である。生まれ変わったあなたは、他の人にもその祝福、「良い知らせ(福音)」を伝える特権が与えられている。目の前の友達が、イエスを受け入れる準備ができたなら、さぁ、父、子、聖霊の名前によって洗礼を授けようではないか。

 

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

(ローマ人への手紙 6:4)

 

私たちは、新しいいのちを歩んでいるのである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「洗礼」はクリスチャンになる条件なのか?<前編>  ~洗礼はきよめではない~

 「洗礼」を受けないとクリスチャンにはなれないのでしょうか。

 

 

▼ハードルが高い「洗礼」

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 クリスチャンになるには、「洗礼<せんれい>」を受けないといけない。多くの日本人がそう思っていることだろう。ハッキリ言う。それは間違いだ。

 イエスを信じている友人が相談してきた。「牧師に洗礼を受けたいと言ったら、『じゃあ洗礼準備コースを受講してください」と言われたとのことである。準備コースの期間を聞くと、6ヶ月だという。それを終えないと洗礼は受けられないということだった。

 彼は、「今すぐにでもクリスチャンになりたいのに、あと6ヶ月待たなければいけない」とガッカリしていた。私は、憤りを抑えて彼に言った。「イエスを信じているなら、キミはもうクリスチャンだよ」と。クリスチャンである母に聞いてみると、やはり「6ヶ月の洗礼準備コースを受けさせられた」とのことだった。理解ができなかった。

 ちなみに、私は16歳のときにイエスを救い主として信じ、受け入れた。しかし、当時の長野県内の教会の牧師が心底嫌いだったので、洗礼は受けなかった。1年後、ようやく「洗礼は人から受けるものではない」と思えるようになり、同じ牧師から洗礼を受けた。新潟では「信濃川」と呼ばれる「千曲川」での洗礼式だった。

 

 

▼「洗礼」の意味とは

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 「洗礼」とは何か。現代のプロテスタント教会で行われる「洗礼」には、大きくわけて2種類ある(※この是非については後述)。

 

「滴礼」<てきれい>

牧師が手に水をとり、信者の頭にふりかける。たいてい教会堂の中で行われる。

 

「全浸礼」<ぜんしんれい>

川や池、湖などに、信者の全身を沈める。室内プールでやる場合もある。

※追記※
「灌水礼」<かんすいれい>というものもあるらしい。水を頭に注ぐのだそうな。筆者は見たことはないし、滴礼と変わるのは水の量くらいだろう。

 いずれも、通常、エスを救い主として受け入れた人のための儀式として、人生1回こっきりで行われる。中には、生まれたばかりの新生児に洗礼を授ける、「幼児洗礼」たるものを行う教会もある(※詳細、是非については後編で述べる)。

 「洗礼<バプテスマ>」という単語は、旧約聖書には1度たりとも登場しない。ただしその起源は、いわゆるノアの箱舟、そしてモーセの海割り」であろう。その後も、エッセンスとしては、祭司の「ミクバ」でのきよめの儀式などとして登場する(※これらも後述する)。

 洗礼が本格的に登場するのは、新約聖書福音書からだ。ギリシャ語では、「バプテゾー」という単語で出てくる。転じて「バプテスマ」、または「洗礼」といわれる。この単語の意味も、改めて後述する。

 「洗礼」は、イエスを救い主と信じた人のための特別な儀式なのは間違いない。では、聖書は、洗礼がどのようなものだと説明しているのか。新約聖書から見ていこう。

 

 

新約聖書の「洗礼」

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 聖書で一番はじめに洗礼を授けたのは、言わずと知れたバプテスマのヨハネである。彼は、ヨルダン川バプテスマを授けていた。人々がヨハネのもとに集い、罪を告白し、おそらくヨルダン川にザブンと入って、新生を象徴する儀式を行っていたと想像される。

 歴史を学んだ人は、バプテスマのヨハネの「エッセネ派」特有の儀式だと言うだろうが、今回のテーマからは逸れるので割愛する。さて、このバプテスマのヨハネが登場するシーンを見よう。

 

バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを述べ伝えた。ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。(中略)

そのころ、エスガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受けられた。

(マルコの福音書 1:4~9)

 ヨハネ、めちゃ突然の登場である。彼は突然、荒野に現れ、バプテスマを授けだした。実は、イエス自身もヨハネからバプテスマを受けたのであった。「正しいこと」とイエスが言ったことから(※マタイ3章参照)、「バプテスマ」行為そのものは肯定的に受けてとめて良い。

 同時に、王の王であるイエスが人間のヨハネから洗礼を受けたことから、誰が授けるかは重要ではないとも受け止められる。ヨハネ自身、「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要がある」とイエスに言ったのに、イエスはそれを諌めて、ヨハネから洗礼を受けたのであった。

 では、イエスは誰かに洗礼を授けたのだろうか。

 

パリサイ人たちは、イエスヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが― ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

ヨハネ福音書 4:12)

 エスご自身は誰にも洗礼を授けなかった。少なくとも記述はない。ただ、イエスの弟子たちは洗礼を授けていた。詳細な記述はないが、おそらくバプテスマのヨハネと同じように、「罪の赦しに導く、悔い改めのバプテスマ」だったと考えられる。

 バプテスマの際に、必ず伴ったのは「罪の告白」と「悔い改め」だった。また、パウロ(サウロ)、コウネリウス、エチオピアの宦官、パウロとシラスに自殺を止められた兵士など、新約聖書には「洗礼」が信仰告白とともに行われている。このことから、「洗礼」は、信仰のスタートに関わる、重要な儀式であると分かる。

 ヨハネはイエスについて、「水のバプテスマを授ける人だとは説明しなかった。ヨハネは、イエスはこんな方だと言う。

 

バプテスマのヨハネの言葉)私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方(イエス)は聖霊によってバプテスマをお授けになります。

(マルコの福音書 1:8)

 聖霊によるバプテスマ。ぶっちゃけ、パッと読んだだけでは、何のことだかわからないだろう。新約聖書旧約聖書の知識を前提として書いているので、「バプテスマ」の意味については記述が足りないのだ。では、「バプテスマ」とは何なのか、旧約聖書の視点もふまえながら考えていこう。

 

 

▼洗礼はきよめの儀式ではない ~よくあるカンチガイ~

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 「洗礼・バプテスマ」の元々のギリシャ語、「バプテゾー」は、本来は「浸す」とか、「沈める」という意味だ。北海道の方言では「うるかす」とか言うらしい。

 ゆえに「洗う」という意味の「洗礼」という単語は間違いだ。前回の記事(※記事はこちら)で書いたように、中国訳をそのまま日本に輸入してしまったのが原因である。中国語への翻訳過程そのものが間違いだらけだった。それを日本語に無理やり導入したのだから、さらに本来の意味と離れてしまった。

 「洗礼」は誤訳――これは現代キリスト教の世界では常識である。その証拠に、多くの日本語訳が「洗礼」ではなく「バプテスマ」としている。たとえ「洗礼」という漢字があっても、「バプテスマ」のルビをふっているパターンがほとんどだ。「ガリラヤのイェシュー」の著者、山浦玄嗣は「バプテスマ」を「お水くぐり」と翻訳している。

 日本人は、神道などの文化から、水をかぶる行為を「きよめ」としてイメージしてしまいがちだ。「洗う礼=洗礼」という誤訳も相まって、洗礼は「罪をきよめる儀式」と考えられがちだ。しかし、それは間違いだ。旧約聖書の「水」は「きよめ」とは少しニュアンスが違う。

 どう違うのか。イエスは、パリサイ派のラビ、ニコデモとこんな議論を交わしている。これもまた奇妙なやりとりだが、ここにヒントがある。

 

エスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。

ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」。

エスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風(プネウマ)は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」

ヨハネ福音書 3:3~8)

 この箇所は、「水」「霊」「肉」「風」といった単語の旧約聖書の意味合いを知らないと正しく解釈できない。旧約聖書ヘブライ語の「水」「霊」「肉」「風」という単語には、どのような意味合いがあったのであろうか。簡単に見ていこう。

 

【水】

ヘブライ語の文脈で「水<マイム>」は、羊水を意味する。または「いのち」を表す。「水よって新しく生まれる」というのは、文字通り、「肉体が新しく母の胎から生まれる」ことを意味した。水に一回入って、出て来るという行為は、「きよめ」ではなく「生まれ変わり」を意味した。

【霊】と【風】

ヘブライ語「ルアフ」は、「風・息・霊・生命」など、様々な意味がある。上記の箇所で「風」と翻訳されているギリシャ語の「プネウマ」も、「風・息・霊・生命」などを意味する。アダムに神が吹き入れた「息」も「ルアフ」である。「霊によって生まれる」とは、神の息が吹き込まれるという意味である。「神の息」が吹き込まれると、いのちが満ち溢れるのだ。そしてその「息」がどこから来るかは、神のみぞ知る。この認識を持つと、最後の段落が少し理解しやすくなるだろう。

【肉】と【霊】

日本語の「肉」は、「肉欲」といった「性的」「世的」「金銭的」なニュアンスで使われがちだが、ヘブライ語の「肉」は少しニュアンスが違う。ヘブライ語の世界の「肉」は、「有限」を意味する。「いつか腐ってなくなるもの」「朽ち果てるもの」という意味合いがある。

「肉」の対語としてるのが、「霊」だ。「霊」は永遠に続くもの。日本語の「霊」は「お化け」とか「死んだ人の魂」のようなイメージがあるが、上記のようにヘブライ語の「霊」は「神の息」の意味であって、永遠を象徴するものである。

 

 これらを総合すると、イエスがニコデモに伝えた内容は以下である。

 

1:人は、有限の「肉」によって生きている。人はいつか必ず朽ち果てる有限の存在だ。

2:人は、「水」をくぐって、もう一度「生まれ変わる」ことができる。

3:人は、「水」をくぐった後、「神の息(霊・風)」によって満たされ、有限の「肉」の存在ではなく、永遠の「霊」の存在になる。

4:「水」をくぐり、「神の息」に満たされ「生まれ変わる」。そうすれば、「神の国」すなわち、神の完全な支配を体験できる。その人は、神の基準で生きるようになる。有限の「肉」のからだではこれは体験できない。

 ニコデモは、この「生まれ変わり」を理解できなかった。エスは、「肉」→「霊」の生まれ変わりを論じた。しかし、ニコデモは「肉」→「肉」の生まれ変わりでしか考えられなかった。だから、「年取ってるのに、また母ちゃんのお腹にもどれっちゅうんか?!」と、トンチンカンなリアクションをしたのである。  

 このエピソード、「からだのよみがえり」を信じていたパリサイ派のラビのニコデモでさえ、理解できなかったというのが面白い。おそらく、パリサイ派の信じる「からだのよみがえり」は、自分の肉体が墓場からゾンビのように復活することだったのだろう。現に、エルサレムのオリーブ山には無数のユダヤ人の土葬のお墓がある。オリーブ山は、お墓の一等地。有名なラビでも相当なお金を積まないと入れない高級墓地なのだとか。なぜか。彼らはメシアがオリーブ山に来ると信じているからだ(※イエスの再臨もオリーブ山だと言われている)。メシアが来ると、死者は復活する。彼らはそう信じている。だから体がよみがえった時、すぐにメシアに会えるように、オリーブ山にお墓を作るのだ。

 そういう理由で、「水をくぐって生まれ変わる」というのが、ニコデモには理解できなかった。ニコデモの言葉は、「輪廻転生するとでもいうのか」とでも訳せるだろう。輪廻転生の発想がある日本人には、あまりピンとこないが、「霊的な復活」の概念が、ニコデモには分からなかったのだ。

 復活を論じた箇所でも、このような言葉がある。

 

血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった」。しかし、最後のアダム(イエス)はいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。

(コリント人への手紙第一 15:44~46)

 話が少し逸れたが、これらを総合的に考えれば、「洗礼」は「きよめ」の儀式ではないと分かる。「洗礼」は「生まれ変わり」を示す儀式だ。「肉」のからだから、「霊」のからだへと作り変えられるための、「生まれ変わり」の儀式なのである。

 

 

旧約聖書の「洗礼」の伏線

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 「洗礼」という単語こそ、旧約聖書には1度も出てこない。しかし、その伏線はたくさん張り巡らされている。何といってもその起源は、ノアの箱船だ。新約聖書にも、ハッキリこう書いてある。

 

その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。

(ペテロの手紙第一 3:19~21)

 ノアとその家族は、大洪水の中、箱舟を通して生き延びた。「水を通って生きる」という伏線である。また、「イエス」という箱舟を通して救われるという伏線でもある。

 

 その後も、様々な伏線がある。ひとつは、いわゆる「モーセの海割り」だ(※「モーセ十戒」とカンチガイしている人がたまにいるが、モーセが海を渡ったのと、十戒とは別のエピソードである)。

 知らない人のために、エピソードを簡単に説明する。アブラハムの孫、ヤコブの一族は、ききんのためにエジプトに下った。はじめは良かったのだが、そのうち、悪いファラオの時代になり、イスラエル人は奴隷に成り下がってしまった。そこに登場したのがモーセ。紆余曲折を経て、神はモーセをリーダーとして、イスラエルの民をエジプトから脱出させる。エジプトからカナンの地を目指すイスラエルの民。しかし、目の前には紅海が。後ろからは、エジプトの軍勢が追ってくる。

 そこで、神の命令通り、モーセが紅海に杖を向けると、一晩中強い風が吹いて、紅海が真っ二つに割れた。イスラエルの民は急いで海が割れた間のかわいた地面を通って、紅海を渡った。後を追ってきたエジプトの軍勢が、海の間を通っているときに海が元に戻った。エジプトの軍勢は、全員溺れ死んでしまい、イスラエルの民は助かった。これがいわゆる「モーセの海割り」である(※出エジプト記14章参照)。

 

 イスラエルの民は、神の導きによって、海を通って命を救われた。「モーセの海割り」は、何度も何度もイスラエルの民が口ずさみ、祈り、歌い、記憶している感動的なエピソードなのだ。詩篇などで何度も登場する。実は、このエピソード、「水を通って命が救われる」というところが、後の「バプテスマ」の「伏線」となっているのだ。

 新約聖書も、それについて解説している。

 

兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくはありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中でモーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

(コリント人への手紙第一 10:1~4)

  海とはもちろん、「モーセの海割り」の紅海のことである。「雲の下」「雲の中」というのは、イスラエルの民が荒野で40年間放浪した時、民を導いた神の雲の柱のことを指す。「霊的な食べ物」はマナ(出エジ16章参照)、「霊的な飲み物」はメリバの岩から出た水(出エジ17章参照)のことである。それらが全て、バプテスマ、そしてイエスの伏線なのである。

 

 他にも、イスラエルの民がいよいよ約束のカナンの地に入る時、民がヨルダン川を渡って約束の地に入るシーンもある。祭司たちがヨルダン川に足を踏み入れると、水が積止まり、川を渡ることができた。これも「水を通る」という伏線である(※ヨシュア記4章参照)。

 また、祭司が幕屋で奉仕する前の準備として、「ミクバ」という一種の「お風呂」のようなものに入る儀式がある。今でもイスラエルに「ミクバ」の遺跡はたくさんある。よくわからない人は、プールに入る前に通る消毒槽みたいなものをイメージしてもらえばいいと思う。これこそ、まさに「お水くぐり」といった感じだ。これも、「きよめ」の儀式というより、一度「生まれ変わり」新しい状態で神の前に出るという意味合いがあった。旧約聖書の文脈では、「生まれた状態」のものはすべて「良い」ものなのである。神が創造の際に「すべて良かった」と宣言したからである(※創世記1章参照)。

 「洗礼」は、決して軽んじていい儀式ではない。旧約から何度も伏線がはられ、バプテスマのヨハネによって行われ、イエスも受けた上で本当の「生まれ変わり」を示すものとして説明した。「洗礼」はイエスによって「生まれ変わる」ための大切な、大切な儀式なのである。

 

 今回の記事のポイントをまとめると、以下である。

 

1:「洗礼」は、悔い改め、罪の告白をして、信仰を宣言する、信仰のスタートに関わる儀式である。

2:「洗礼」は、「きよめ」ではなく、「生まれ変わり」を象徴する儀式である。

3:ヨハネは「水」でバプテスマを授けたが、イエスは「霊」のバプテスマを私たちに与えた。

4:私たちの「肉」は、「神の息」に満たされた、「霊」のからだに「生まれ変わる」必要がある。そうしないと、神の基準で生きることはできない。

5:旧約聖書には、「ノアの箱舟」や「モーセの海割り」など、「洗礼・バプテスマ」の「伏線」がたくさんある。

 

さて、以上の点をふまえた上で、次回は、以下の点を考えていきたい。

 

1:「洗礼」はクリスチャンになる条件なのだろうか。

2:洗礼を受けるためには、「準備コース」たるものを受講しなければならないのだろうか。勉強して理解した上でないと、洗礼を受けてはいけないのか。

3:洗礼を授けるのは、牧師だけの権利なのだろうか。

 

 この3つについて、次回の記事で詳細に考えていく。

 

★後編はこちら★

yeshua.hatenablog.com


(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「母教会」って何? ~“教会籍”という謎のシステム~  

 「母教会」「教会籍」「転会式」っていう耳慣れない謎の言葉を、クリスチャンの世界ではよく耳にする。なんやそれ?

 

 

▼「母教会」という謎の言葉

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 世間はゴールデンウイーク真っ只中。地元に里帰りする人も多いだろう。クリスチャンの世界では、こういう時期に、よく「連休中は母教会に帰る」という表現を耳にする。母教会・・・? なんやそれ。クリスチャン世界のよくワカラナイ専門用語である。正直、意味不明。

 母教会とは、一体何なのか。また、他にも「教会籍」という謎のシステムや、「転会式」という謎の儀式もある。実は、これらに精神的に囚われてしまっているクリスチャンは多い。クリスチャンはイエスによって自由にされたはずなのに、不自由になっているのである。なんと悲しいことか。

 今回は、この「母教会」「教会籍」「転会式」といった言葉、文化の意味不明さを明確にしたい。

 

 

▼「母教会」「教会籍」とは何か

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 クリスチャン文化になじみがない人に、まず「母教会」の意味を解説する。「母教会」とは、「自分が生まれ育った教会」「自分が会員となっている教会」を指す。または、「自分が初めてつながった教会」や、「自分がイエスを信じるきっかけとなった教会」を指す場合もある。

 「母教会」という単語を使う人は、両親がクリスチャンの家庭で生まれ育った場合が多い(いわゆるクリスチャンホーム)。物心ついた時には、その教会に所属し、毎週日曜日にその教会に通うのが当たり前。地方出身の場合、彼らは都心の大学などに進学すると、必然的に違う教会に所属しなければならない。そうなると、彼らは、自分の生まれ育った「母教会」と「今通っている教会」を区別するようになる。

 その際、必ず「教会籍」の問題が発生する。クリスチャン文化に慣れない人には、違和感があるだろうが、日本の多くの教会には、「戸籍」のように、「教会籍」が存在する。いわゆる、「メンバーシップ」だ。教会の会員とも考えれば分かりやすいだろうか。教会の名簿に名前や住所を記載し、名実ともにその教会のメンバーとなる。それが「教会籍」だ。この「教会籍」が、これまたやっかいなシステムなのだ。

 

 

▼「教会籍」システムの弊害

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 「母教会」に「籍」をおいている人は、引っ越しとともに、違う教会に「転会・転籍」する必要がある。「母教会」に愛着がある人は、この「転会」をしたがらない人もいる。または、様々な事情によって「転会」できない人もいる。これが問題を引き起こす。それは何か。

 教会によっては「転会」しないと、教会の中の役割(奉仕)を担えないところもある。そのため、「転会」するまで何もさせてもらえないという悩みを抱えるクリスチャンは多い。また、「母教会」のルールによって、ほかのクリスチャンの集まりに自由に参加できないという人もいる。中には、教会の「奉仕」を優先しなければならず、家族や仕事をおろそかにしてしまう人たちもいる(※この「奉仕」の問題については、また別途記事を書く予定)。どこから突っ込めばいいのか。ちゃんちゃらおかしい話なのだが、これが多くの教会の現状である。

 もちろん、「母教会」と言わない人もいるし、「教会籍」システムを用いない教会も一定数ある。本来、私たちはどこの教会に行くかは自由だし、教会のメンバーシップに縛られることはない。しかし、多くのクリスチャンたちは、「教会を何よりも優先しなければならない」という間違った強迫観念にかられ、本来の自由で解放された生活、自由で解放されたミニストリー、自由で解放された信仰生活ではなく、束縛された教会員としての生活に甘んじている。自分の所属する教会や、牧師や、牧師の妻や、教会メンバー同士の悪口を言っているというのも、実はよく目にする。

 日本のクリスチャンたちは、なんと不自由な生活を送っていることか。このような束縛から解放されたら、どんなに自由で活発な活動ができるだろうか。

 

 

▼外側から見た「教会籍」の違和感

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 少し私の個人的な話をしたい。私が初めてプロテスタントの教会に行ったのは、10歳の時だ。ニューヨーク郊外の小さな日本人教会だった。その前は、1年間「エホバの証人」というカルトの集会に参加していたのだが、そこから一家命からがら逃げ出し、ようやくプロテスタントの普通の教会にたどりついたのであった。

 私が今まで参加した教会は、「教会籍」システムを採用していない教会ばかりだった。ニューヨークに始まり、長野の田舎の韓国教会、長野の小さな独立した教会、大学時代の教会、イスラエル留学中につながった教会、社会人になってからつながっている葛西の教会・・・etc。他にもカナダやアメリカ、韓国にも留学していたので、その間も様々な教会につながった。総合すれば10以上の教会に所属したことになるが、そのどれも正式な「メンバー」として「教会籍」を登録した記憶はない。

 私は、そんな感じで自由で自発的な信仰生活を送ってきた。だから、上京した際に、「教会籍」の問題で悩む同世代のクリスチャンたちを見て、ものすごく違和感を感じた。ある友人からは、「転会式がうまくいくように祈ってくれ」と言われた。私は1ミリたりともピンとこなかった。そんなの、自由にやればいいではないか。「教団が違うからこの集まりには参加できない」という人がいた。唖然とした。同じイエスを信じる仲間ではないのか。「“執事”に選ばれてしまったから、嫌だけど強制的に奉仕をしないといけない」という人がいた。理解ができなかった。嫌なら違う教会に行けばいいじゃないか、と思った。

 その教会が居心地が悪いのであれば、違う教会に行けばいい。とてもシンプルな解決方法があるのに、どうしてたくさんのクリスチャンたちがそうしないのか。私は本当に理解に苦しむ。たかだか人口の1%にも満たない信者たちの間で、そんな「囲い込み」をしているのである。このような弊害を生み出す「教会籍」システムは、百害あって一利なしだ。

 

 

▼そもそも「教会」とは?

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 「教会籍」を議論する前に、「教会」とは何か確認する必要がある。「教会」は、ギリシャ語の「エクレシア」の訳語だ。「エクレシア」を広辞苑でひくと、以下のように書いてある。

エケレジヤ【ecclesia】

キリシタン用語)教会堂。聖堂。エクレシア。<広辞苑六版>

 これは、日本人の誤解を示す、いい例である。正直、驚いた。広辞苑でさえ、「エクレシア」を「教会堂」と、場所の名前を指す語として記載していたからだ。「教会」でさえ誤訳なのに、「教会堂」とは……。これは明らかに誤った解説だ。

 「エクレシア」の本来の意味は、次の聖書の言葉からも分かるように、「人の集まり」を指す。太線の部分は、いずれもギリシャ語の「エクレシア」である。

 

人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。(中略)町の書記官が群衆を静めて言った。(中略)「もし、あなたがたがこれ以上何かを要求するのなら、正式な集会で解決してもらうことになります」。(中略)こう言って、その集まりを解散させた。

使徒の働き 19:33~40)

 太字の「集会」や「集まり」は、「教会」と全く同じ単語の「エクレシア」である。他の箇所は、ご丁寧に「教会」と訳してあるのに、この部分だけ意図的に「集会」や「集まり」と訳出されている。これは意図的な翻訳だ。

 「エクレシア」の元々の語源は、「呼ばれた人々」で、神に呼ばれて集まった人々の集合体を指す語であった。同時に、上記のように、「人の集まり」を意味する語として、当時、一般的に使われていたことがうかがえる。「正式な集会」という記述から分かるように、ローマの直接民主制の文化では、そのような町のさばきごとを人々の「エクレシア」で決めていたようだ。

 いずれにせよ、「エクレシア」は、「集会」とか、意訳しても「共同体」とするのが自然である。なぜ、「教える会=教会」になってしまったのか。それは、聖書用語を日本語に翻訳する過程で、多くの言葉が中国語の聖書から直接輸入されてしまったからだ。なまじ日本の知識人たちが漢文を読めてしまったばかりに、中国で採用された訳語がそのまま入ってしまったのだ。中国語と日本語の意味のズレを無視して入ってしまったのである。「神」「愛」「洗礼」「聖霊」などがいい例だ。「教会」もその誤訳の中のひとつで、今だに日本に福音が広まらない大きな障害のひとつなのだ。

 ちなみに、ヘブライ語では「ケヒラー」という言葉がこれにあたり、同じく「集会」という意味になる。イエスをメシアと信じるユダヤ人たち、メシアニック・ジューの人々は、決して「教会・チャーチ」という単語を使わず、「集会・ケヒラー」という単語で自分たちの集まりを表す。

 

 

▼聖書に「教会籍」の根拠はあるのか ~概念的な“教会”と地域的な“教会"~

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 さて、聖書の中に「人の集まり」たる「エクレシア」において、「教会籍」のシステムを採用することに、根拠はあるのだろうか。ハッキリ言う。全くない。あるなら示してほしい。もちろん、「教会籍」を禁止する記述も、聖書にはない。中には、「教会」は「キリストのからだ」なのだから、そのメンバーを登録するのは当然だ、といった理論を展開する人もいる。該当するのは、以下の聖書の部分だ。

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙 1:23)

 「教会はキリストのからだ」なのだから、自分もその一員になるべき、という主張は一定理解できる。しかし、私は、それを「ある教会の会員になる」ことだとは思わない。「教会はキリストのからだ」という時の「教会」は、概念的な信者の集合体を指すのであって、具体的な場所と名前がある「ひとつの教会」を指すのではない。

 聖書に出てくる「教会」は、この「概念としての教会」と、「具体的・地域的教会」の2種類がある。前者は、上記のようなエペソ人への手紙に代表される、「教会」とは一体何かを説明する際の「概念的」なもの。概念的には、私たちひとりひとりが「教会」であり、その私たちクリスチャンの集合体が「教会」である。

 後者の「具体的・地域的教会」は、「コリントの教会」「テサロニケの教会」といったように、ひとつの共同体のことを指す。聖書の時代には、「●●教団・●●教会」といったような教会は存在しなかった。ただ、「コリント」とか、「テサロニケ」といった町々に、それぞれ信者のふわっとした集まり、共同体が存在していただけだった。集まる場所も、「会堂管理者・会堂司」という表記(使徒18:8、使徒18:17など)から分かるように、ユダヤ人のように「会堂・シナゴーグ」で集まる場合もあれば、誰かの家に集まる場合もあった(使徒16:40など)。現代においては、「●●教団東京●●教会」みたいな感じで、ひとつの教会を指す。

 この2つの違いに注意しないと、間違いが起こる。まとめると……

 

【概念としての「教会」】

・イエスがペテロに「わたしはあなたの上にひとつのエクレシアを建てる」と言った「教会」

・イエスが臨在している状態、キリストのからだ。

・私たちひとりひとり、そして互いの関係性が「教会」である。

【具体的・地域的な「教会」】

・「コリントの教会」、「テサロニケ」の教会といったように、地域それぞれにある「教会」

・かつては、地域でのふわっとした集まり、共同体だった。

・現代においては、「●●教団・東京●●教会」のように、ひとつひとつの「教会」を指す。

 「キリストのからだ」は、私たちひとりひとりを指す概念的なものだ。だから、「キリストのからだ論」を地域教会の「教会籍」問題にそのまま当てはめるのはナンセンスだ。もし、「東京●●教会」が「キリストのからだ」であるのなら、「●●教団」とか、「●●派」みたいに分裂している現状こそ、キリストのからだをバラバラにしていることそのものではないか。

 私たちは、どこの教会に集っていても、イエスを信じるただその一点で、同じ「キリストのからだ」である。だから、本質的にはどの教会に集っていようが、関係はない。各々の教会が、名簿を作って、信者を登録して、数を数えて、その信者を囲うことは、どんなに愚かで無意味な行為だろうか。

 

 

▼現代においての地域教会のあり方

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 聖書時代は、「東京の教会」とか、「文京区の教会」といったように、ふわっとそのエリアに住んでいる信者たちの集まりがあった。どちらかと言えば、「労働組合」チックなものを考えればいいのだろう。「卒業生会」のようなものかもしれない。早稲田で言えば「東京・稲門会」みたいなものをイメージしていただければいい。いわば、「イエス同盟」みたいなものだ。

 しかし、それをそのまま現代に当てはめるのも、またナンセンスだろう。そもそもの人口が、当時とは比べ物にならない。クリスチャンも当時より比率として多くなっている。全員が一カ所に集まるのは不可能だ。その一方で、移動手段も格段に進歩した。今は、比較的遠い場所でも、その集会に集うのが可能になった。インターネットも発達し、極論を言えば、地球の裏側の教会の一員になるのも可能である。

 そうなってくると、確かに、「コリントの教会」のように地域に教会がひとつだけ、というのは現代の日本社会では難しい。田舎では、まだ可能かもしれないが、特に東京なんかの都心では難しいだろう。人と人とのつながりもどんどん薄くなっている。そんな時代だからこそ、一定のつながりを保つために、メンバーシップの制度を取る。これは目的としては一定の理解ができる。しかし、それは、メンバーを拘束していい理由にはならない。

 やはり、大切なのは「心の動機」だ。教会を「母教会」と呼ぶ時、あなたの心はどこに帰属意識を持っているか。あなたの「教会」か。それとも「イエス自身」か。あなたが「教会籍」を作るとき、あなたの心にあるのは、「教会で認められること」か。それとも、「イエスに根ざす」ことか。あなたが教会でメンバーシップを作るとき、あなたの心にあるのは、ダビデが失敗したような「自分の力を誇る気持ち」か。それとも、「仲間のために名前を挙げて祈るだめ」か。

 

 

▼クリスチャンは、もっと自由になったらいい

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 私のオススメは、以下である。オススメであって、聖書がこう言ってるからという命令ではない。オススメである。

 

【教会の運営者へのオススメ】

1:教会の運営者は、公式にはメンバーシップの制度をとらない。とるとしても、目的に合わせて、内々でやった方が良い

2:教会の運営者は、集まるメンバーを数えて、その数字に一喜一憂しない

3:教会の運営者は、来る者拒まず、去る者追わずの精神が望ましい。ただし、カルト・異端からのスパイ・潜入者は別である。カルト・異端のメンバーは、下着さえも忌み嫌って追い出せ

【ひとりひとりのクリスチャンへのオススメ】

1:今集っている共同体の居心地が悪いのであれば、悩む必要はない。違う共同体を探せば良い。あなたが帰属するのは「教会」ではなく「イエス」なのだから

2:できれば、共同体には一定の時間は留まった方が良い。そうしないと、永遠に「知り合い」で終わってしまう。「信仰の友」になるには、時にはぶつかる必要もある

3:何事も、祈って決断した方が良い。しかし、必ずあなたの「心の動機」を吟味せよ

 

 日本のクリスチャンたちは、あまりにも「教会」への帰属意識が高すぎる。ここで育ったから。ここでイエスを知ったから。ここで奉仕をしているから。だから違う教会に行くことは、その恩を裏切ることになる。義理堅い日本人は、そう考えてしまいがちだ。

 それは違う。その教会があなたにイエスを伝えたのではない。イエスご自身があなたを見つけ出してくれたのだ。その教会があなたを育てたのではない。イエスご自身が聖霊を通して、あなたを養ってくれたのだ。あなたはその教会に奉仕をしているのではない。イエスご自身に対して奉仕しているのである。だから、他の教会に行きたければ、好きにすれば良い。まさか、違う教会に行くと、イエスが違うイエスになるわけでもあるまい。

 

 重ねて、教会を選ぶ際に、参考にすると良い、4つのポイントを挙げよう。

 

1:地理的要因

2:ミニストリー的要因

3:スタイル的要因

4:神からの示し的要因

 

【1:地理的要因】

 スラムダンク流川楓「近いから」という理由で高校を選んだように、単純に近い教会を探す。簡単だ。一番大切な要因でもある。

 長距離の移動というのは、以外に骨が折れるものだ。教会の集会に通うだけで疲弊してしまっては、元も子もない。ムリして通っても、往々にして続かない。

 私の友人の中には、牧師が引っ越したので、県をまたいで引っ越した、という人がいる。さすがに驚いた。あなたが礼拝するのは牧師ではない。神ご自身だ。知っている牧師や教団が近くにないからといって、自分の生活まで捻じ曲げる必要はない。たいていの人は、週5とか6日働いて、週に1日教会に集う。7分の6より7分の1を優先して、あなたの人生が潰れてしまわないよう、地理的にムリをしないことは大切だ。

 地理的に、教会の建物や集会の場所がある町の人々に福音を伝えるためにも、地理的条件というのはとても大切である。

 

【2:ミニストリー的要因】

 あなたが神から与えられている能力、パッションはどこにあるだろうか。海外宣教をしたい人と、国内のホームレス伝道をしたい人では、まるで方向性が違う。教会によって、力を入れているミニストリーは違うだろう。イベントごとかもしれない。賛美かもしれない。祈りかもしれない。日本人伝道かもしれない。発展途上国への伝道かもしれない。聖書翻訳かもしれない。教会開拓かもしれない。クリスチャン教育かもしれない…。

 全ての教会が同じである必要はない。全てのクリスチャンが同じである必要はない。私たちは、互いに器官なのだから。

大勢いる私たちも、キリストにあって、一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。 (ローマ人への手紙 12:5)

 

【3:スタイル的要因】

 教会の礼拝会(※「礼拝」についての記事はこちら)のスタイルも重要な要素だ。あなたの好みの音楽、雰囲気、時間、メッセージのやり方、集会の規模、、、まちまちだろう。私の個人的意見では、自分の好みのスタイルのところに行けばいいと思う。正解はないのだから、そんなスタイルとかどうでもいいことで悩んだり、心から神を賛美できなくなるくらいなら、自分が腑に落ちるところを探せば良い。

 日本人は、よく、「この教会を内側から変える」と言うが、私には理解できない。一度あるものを作り変えるエネルギーは莫大だ。ゼロから作り上げる方が、よっぽど楽だ。「教会」を変えることにエネルギーを注ぐぐらいなら、福音を伝える方にエネルギーを使った方が良い。

だれも、真新しい布切れで古い頃もに継ぎ当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしません。そんなことをすれば革袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、革袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。

(マタイ 9:16~17)

 

【4:神からの示し的要因】

 一番大切なのは、神の導きに従うことだ。それには祈りが必要だ。祈って、神に示されたらそれが一番いい。たとえ人間の目には全く合理的でなくとも、それが神の道なら、それに従うのが一番いい。

 しかし、私の経験上、「あなたは●●教会に行きなさい」と神が示すことは、まぁかなりのレアケースだ。神は、あなたがどこの教会に行こうが、たぶんどうでもいい。大切なのは、あなたがどう生きるかだ。

 だから、あなたは集う教会を選ぶ時、自分の「心の動機」を探った方がいい。そこに答えはあるのだから。

 

 

 私たちが帰属するのは教会ではない。イエスご自身だ。私たちクリスチャンは、どの教会に集っていても、同じイエスを信じる、信仰の友であり、家族なのだ。家族同士でいがみあったり、そねみあったりするくらいなら、いっそのこと、その集いから離れてみるというのも、ひとつの手ではないだろうか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】日曜日の「礼拝」は本当に「礼拝」なのか?!

多くの教会が、日曜日の午前10時30分から「礼拝」という集会をやっていますが、それは本当の「礼拝」なのでしょうか?

 

 

▼日曜日の「礼拝」

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 クリスチャンならば、「日曜礼拝」という言葉は、耳馴染みがあるだろう。プロテスタント「礼拝」カトリックならば「ミサ」とでも言おうか。そう、多くの教会が、日曜日の午前10時30分くらいから「礼拝」と称する集会をやっている。

 たいてい、最初に賛美歌とかワーシップソングというクリスチャンの歌を何曲か歌って、その後、「主の祈り」とかを全員で祈って、司会者による聖書朗読があって、牧師の説教(メッセージ)があって、祈りがあって、また賛美歌を歌って、その間に献金袋が回って、最後に「祝祷」とかいう祈りを牧師がして、終わる。そういう「礼拝」だ。この「礼拝」たるものが、クリスチャンの教会では毎週日曜日に行われている。

 クリスチャンではない人からは、よく「クリスチャンになったら、日曜日に教会に行かなきゃいけないんでしょう?」と聞かれる。確かに、毎週行われているのだから、教会のメンバーならば参加しないといけない感じはある。しかし、それは明確な間違いだ。私は、そのような疑問に、「義務ではないですよ」と説明する。では、この「日曜礼拝」はなぜ存在するのか。この「礼拝」という集会は、果たして本物の「礼拝」なのだろうか。聖書にどう書いてあるのか、見ていこう。

 

 

▼「礼拝」とは?

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 そもそも、聖書は「礼拝」について、どういうものだと説明しているのだろうか。おそらく、「礼拝」についての箇所で一番有名なのは、次の聖書の言葉である。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(ローマ人への手紙 12:1)

 ローマ12章のとても有名なこの言葉は、「礼拝」を議論する際には欠かせない。この聖書の言葉によれば、「礼拝」とは、「自分自身のからだを、聖なる生きたささげ物として献げること」である。なんじゃそりゃ。パッと聞いただけではイメージがわかない。

 それもそのはず。この箇所は、旧約聖書の知識がある前提で説明している。だから、まず、旧約聖書での「礼拝」はどんなものだったか考える必要がある。

 この箇所の「礼拝」には、ギリシャ語で「ラトリア」という単語が使われている。新約聖書全体で5回しか登場しないレアな単語だ。「礼拝」と翻訳されているが、「礼拝」そのものの行為よりも、「礼拝の儀式」とか、「定められた礼拝の方法」といった意味があるようだ。この単語の意味を考えても、旧約の儀式の内容を前提に読んだほうが良さそうだ(※ちなみに、一般的な「礼拝」は、ギリシャ語では「プロスクネオ」で、新約聖書に60回登場する)。

 

 では、まず旧約聖書の「礼拝の儀式」はどんなものだったか見ていこう。

 

 

旧約聖書の「礼拝」はどんなものか?

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 旧約聖書で、一番最初に「礼拝」の単語が出て来るのは、次の箇所である。

 

それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻ってくる」

(創世記 22:5)

 この箇所で、「礼拝」、ヘブライ語「シャハー」という単語が初めて登場する。ほとんど「礼拝」と訳されるが、「地面に伏して崇拝する」という意味がある。「伏し拝む」とも翻訳される。現代においては、イスラム教の人が絨毯をひいて、ひれ伏して礼拝をしているのをイメージすれば、分かりやすいだろうか。

 これは、アブラハムがイサクを「いけにえ」として神に捧げようとするシーンである。彼らの目的は、「全焼のいけにえ」を神に捧げることであった。「礼拝」は一義的には、シンプルに「ひれ伏して拝む」ことだ。しかし、その行為には、必ずといっていいほど「いけにえを捧げる行為」が付随するのである。申命記には明確な命令がある。

 

「今ここに私は、主よ、あなたが私に与えてくださった大地の実りの初物を持って参りました」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前で礼拝しなければならない。

申命記 26:10)

 これは、「約束の地」にイスラエルの民が入る前の話。「こう言って収穫に感謝し、ささげ物をささげることで、礼拝しなさい」と、神がイスラエルの民に命じた箇所だ。「礼拝」=「いけにえを捧げる行為」までいくと言いすぎだが、「礼拝」と「いけにえ・ささげ物」はセットなのである。

 

 他にも、もういくつか、旧約聖書の「礼拝」を見てみよう。

 

この人(エルカナ・サムエルの父)は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた。

(サムエル記第一 1:3)

ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。

(サムエル記第二 12:20)

こうして、サマリアから捕らえ移された祭司の一人が来てベテルに住み、どのようにして主を礼拝するべきかを教えた。

(列王記第二 17:28)

また、あなたの神の宮での礼拝のために渡された用具は、エルサレムの神の前に供えよ。

エズラ記 7:19)

 

 他にもたくさんの「礼拝」の記述があるが、以下のような点にまとめられる。

 

1:「礼拝」は、「いけにえ」とセットだった

2:「礼拝」は、もともと、一義的には「地に伏して神を拝む」シンプルなものだった。

3:後代になり、「礼拝」のための場所(幕屋、シロ、主の家、神の宮など)が決まっていった。

4:後代になり、「礼拝」は、祭司やレビ人などの特別な人が、特別な役割を担う仕組みになっていった。

5:後代になり、「礼拝」は、手順などのルールができていった。それは、やり方を教えなければいけないほど複雑だった。

6:後代になり、「礼拝」には様々な用具も必要になっていた。

 まさに、ヘブル人への手紙に書いてある通りである。

 

さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。

(ヘブル人への手紙 9:1)

 ヘブル9:1の箇所のギリシャ語も、「ラトリア」(礼拝の儀式)である。礼拝は「いけにえ」などの「ささげ物」がセットの、複雑な儀式だったのだ。

 もっとも、ダビデはベッドの上でも「礼拝」したようである(列王記第一 1:47)。だから、後代になっても、「礼拝」は、一義的にはもっとシンプルな、「ひれ伏す」行為のことだったのかもしれない。しかし、それはひれ伏して、神に恐れと崇拝の心を示す行為だった。決して、毎週日曜日の午前10時半に集まる集会のことを指すのではなかったはずだ。

 

 

新約聖書の「礼拝」はどんなものか?

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 では、新約聖書において、「礼拝」とはどのようなものなのだろうか。ローマ12章の箇所は、既に触れた。ここでは、イエスがどう教えたか見よう。ヨハネ4章の有名な箇所がある。

 

彼女(サマリアの女)は言った。「主よ。あなた(イエス)は預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

ヨハネ福音書 4:19~24)

 ここの「礼拝」は、「ラトリア」ではなく、「プロスクネオ」である。意味合いは、ヘブライ語の「シャハー」とほぼおなじで、「ひれ伏す」という意味だ。しかし、文脈を考えれば、この「礼拝」も、いわゆる、宮に行って、所定のいけにえを捧げて、儀式を行う、あの「礼拝」と考えて差し支えない。

 サマリヤ人は、もともとイスラエルの民だったが、アッシリヤの侵略によって、周辺諸国と民族が混ざってしまうこととなり生まれた、混血の民だった。彼らは、エルサレムではなく、ゲリジム山を「礼拝」するべき場所だと定めていた。「モーセの律法」ではなく、「サマリヤ五書」という律法も持っていたようである。

 しかし、イエスはその女に、「本物の礼拝」とは何か教えた。それはどういうものか、イエスは主に2つのポイントを話している。

 

1:「本物の礼拝」は、どこでも「礼拝」できる。

2:「本物の礼拝」は、御霊と真理によって「礼拝」する。

 1つ目のポイントはわかりやすい。エルサレムでも、ゲリジム山でも、イスラエルでも、日本でも、どこでも「礼拝」できるという、文字通りの意味だ。

 2つ目は、ちょっとわかりにくい。しかし、先に論じた旧約聖書の常識と比較すれば、容易に理解できるはずだ。

 

旧約聖書モーセ律法の常識】

「礼拝」は、「決められた場所で」祭司を通して行うもの。所定のいけにえを捧げ、決められた儀式の手順を守ることで、やっと聖なる神に近づき、礼拝できる。

 

新約聖書、イエスの常識】

「礼拝」は、「いつでもどこでも」、ただ聖霊によって知り、受け入れることのできる大祭司イエスを通して行うもの。儀式は必要なく、ただ唯一の完全ないけにえであるエスの犠牲によって、聖なる神に近づき、礼拝できる。

 お分かりいただけただろうか。もう少し噛みくだくと、以下のようになる。

 

「御霊」

聖霊聖霊なくして、イエスを知り、受け入れることはできない。

 

「真理」

エス自身。イエスが唯一のいけにえであり、大祭司であるという真理。救い、贖い、なだめの真理。イエスによって救われ、神に近づけるという真理。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

 イエスが、旧約聖書の様々な規定のある「礼拝」の概念を、完全に変えたのである。「礼拝」のパラダイムシフトが起きたのだ。まさしくヘブル9章に書いてある通りである。

 

この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。(中略)しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

(ヘブル人への手紙 9:9~12)

 イエス以降の時代に生きている私達は、いつでも、どこでも「礼拝」できる。聖霊によって、イエスを知り、受け入られる。旧約のいけにえ、儀式をしなくても、ただイエスお一人を通して、聖なる完全な神に近づき、神との関係を楽しめる。なんという恵みだろうか。

 

 

▼「礼拝」はあなたの人生を「いけにえ」として捧げること

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 ここまで読めば、最初のローマの箇所の意味が、腑に落ちると思う。もう一度読もう。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(ローマ人への手紙 12:1)

 筆者のパウロは、当然、旧約の礼拝で使った「いけにえ・ささげ物」と対比してこの箇所を書いたに違いない。「完全なささげ物」は、イエスただ一人である。私達は、イエスを通して礼拝できる。

 しかし、パウロはそれにとどまるなと言っているのである。さらに上のレベルのことを、文字通り「オススメ」している。それは何か。それこそが、「自分自身をささげ物として献げなさい」という言葉だ。

 旧約の時代では、「ささげ物」を捧げることが「礼拝」だった。しかし、今の時代の私達にとっては、「自分自身」を捧げることが「ふさわしい礼拝」となったのだ。あなたの「生き方」そのものが、「礼拝」となるのだ。

 イエスを信じた瞬間から、自分の命は自分のものではない。あなたの命は、イエスによって買い取られたのだ。あなたの人生は、もはやあなたのものではない。「お前はもう死んでいる」のである。

 

 真の礼拝者は、もはや自分の力で生きない。聖霊の力で生きる。

 真の礼拝者は、もはや曜日や時間に縛られない。24時間365日、神と共に生きる。

 真の礼拝者は、もはや自己中心の道を歩まない。神の道を歩む。

 真の礼拝者は、もはや虚しいもので心が満たされない。ただ神との人生を喜ぶ。

 真の礼拝者は、もはや選択を迷った時に自分の判断で決断しない。神に寄り頼む。

 真の礼拝者は、もはや失敗してもくよくよしない。神に感謝して立ち上がる。

 真の礼拝者は、もはや人をねたまない。恵みに満ち溢れる。

 真の礼拝者は、もはや罪に縛られない。イエスによって解放されている。

 

 あなたの生き方そのものが、全て、「礼拝」になるのである。

 

 

▼日曜日の「礼拝」は「礼拝会」にすぎない

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 ともすると、日曜日、午前10時半の「礼拝」とは一体何なんだろう。もはや、それが「礼拝」ではないことは明らかだ。聖書の記述のどこに、賛美歌を歌って、司会者がみことばを朗読し、牧師がメッセージをして、また賛美をして、その間に献金袋を回して、最後に祝祷を祈ることが「礼拝」だと書いてあるのだろうか。全く書いていないのである。実は、それらはただの「文化」なのである。「礼拝」の本質は、「日曜礼拝」にはないとハッキリいいたい。もっといえば、「主日礼拝」なんてものはない。強いて言えば、毎日が「主日礼拝」なのだ。

 誤解してほしくないのだが、私は、日曜日の集会を否定しない。しかし、それを「礼拝」と呼ぶのは気が引ける。それは、「礼拝」ではなく、単なる「礼拝会」、または「礼拝式」だ。もちろん、「礼拝会」そのものは、とても重要で、参加した方が良い集会だ。ヘブル人への手紙には、こうも書いてある。

 

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。エスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることがわかっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 1019~25)

 パウロは、集まりをやめたりしないように注意している。自分の人生そのものが「礼拝」だという認識が強まりすぎると、自分だけで生きていけるような錯覚に陥る。それは間違いだ。私たちは、同じイエスの子どもとして、お互いに励まし合い、教え合い、お互いを大切にし合い、支え合い、一緒に笑い合い、時にぶつかり合い、時に助け合う必要がある。人間は弱く、すぐ自分の力で生きようとしてしまうからだ。しかし、それは間違いだ。それを忘れないための「礼拝会」だ。

 「礼拝」のために「礼拝会」があるのではない。「礼拝会」のためにあなたがいるのでもない。ただ、お互いが「礼拝」と呼べる人生を送れるよう、お互いに心を新たにするために集まるのである。そのための「礼拝会」だ。

 

 また、イエスが提起した「礼拝」のパラダイムシフトがもうひとつある。それは、次のイエスの言葉だ。

 

まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:19~20)

 これは、ユダヤ人にとって驚きの言葉だったに違いない。なぜか。ユダヤ教では伝統的に、10人集まらないと会堂で祈れなかったからだ。彼らは、10人集まらないと、「礼拝」を始められなかった。この伝統は、今も受け継がれている。この理由は、アブラハムが神と交渉した際、人の最小単位を10人とした故事に起因する(創世記18章参照)。

 ユダヤ人は10人が礼拝の最小単位だった。しかし、イエスは、2人か3人が集まるとき、その中に自分自身もいると宣言した。「礼拝」のパラダイムシフトが起こったのだ。この瞬間から、私たちは10人ではなくても、どこでも、イエスと共に礼拝できるようになったのだ。

 重要なのは、「1人」とは言っていない点だ。私たちは、2人でも3人でも、共に集まり、イエスの名前を宣言し、礼拝できる。お互いに希望を告白できる。自分たちの心をイエスにチューニングできる。しかし、それは1人ではできない。2人でも3人でも、信仰の友と集まるのは重要である。

 私たちが信仰の友とともに、告白するべき希望は、政治的信条ではない。私たちが告白する希望は、「イエスによって、大胆に神に近づける」という希望だ。私たちは、「完全ないけにえ」となったイエス師匠を目指して、自分自身も「完全ないけにえ」に近づけるよう、毎日毎日、一歩ずつ、イエスに近づいていくのである。その人生そのものが、「礼拝」なのである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンはタバコを吸っていいのだろうか?  

 クリスチャンは、タバコを吸ってもOKなの?

 

 

▼「酒」よりハードル高そうな「タバコ」

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 クリスチャンにとっての飲酒の是非は、既に記事を書いたので参考に読んでいただきたい(→飲酒の是非の記事はこちら)。さて、「酒」より「ハードル」が高そうなのは、「タバコ」である。喫煙はクリスチャンにとって、いいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。

 インドネシアに伝道旅行に行った際、とある聖公会のチャプレンに出会った。キリスト教系の高校生の引率だった。彼は、教え子たちがいる前で、タバコをプカプカしていた。衝撃だった。私は、以前、クリスチャンにとって、喫煙は当然のように罪だろうという考えを持っていた。クリスチャンであれば、タバコなんぞに手を出さないのは当たり前で、そこに疑問の余地はないと考えていたのだ。しかし、目の前で教職者がタバコをファーッとふかしている。驚きを禁じ得なかった。ある意味、「喫煙」は「飲酒」よりショッキングな出来事であろう。

 

 

イスラエルでのパラダイム・シフト

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 学生時代の留学先はイスラエルだった。イスラエルに行くと、私の狭い常識は、いっそう打ち砕かれた。ユダヤ人とドイツ人の信仰の友が、バイブルスタディーに誘ってくれた。喜んで行くと、皆の真ん中には、テーブルではなく、大きな水たばこがあった。彼らは、ヘブライ語「ナルギーラ」という水タバコの煙を、ブクブクと音をならして吸い込み、ファーッと煙を吐き出しながら、聖書の言葉を共に読みはじめた。はじめは戸惑ったが、留学中ということもあり、「ええい、ままよ」の精神で、僕もジョインしてみた。これが、結構ハマった。僕らの「ナルギーラ・バイブルスタディーは、定期的な習慣となった。これまた、いい霊的教訓の場になったのである。

 

 僕は一度、ユダヤ人の友人、ジェイク(仮名)に尋ねてみた。「タバコやナルギーラはOKなのかい?」。ジェイクは、ユダヤ人だがイエスをメシア(救い主)だと信じている、「メシアニック・ジュー」だ。彼は、いつもの「ナルギーラ・バイブルスタディー」のメンバーだった。彼は非常に熱心な信者だった。そんな彼がタバコも水たばこもやっているのが不思議だったのである。

 彼は当然のように言った。「え? 聖書に全く書いてないからいいに決まってるでしょ」。なるほど。ユダヤ人にとっては聖書の律法が全て。それがハッキリ分かった。

 そんなジェイクは、イエスを信じている。彼は、ユダヤの律法は、もはや意味がないと知っていた。それでもなお、彼は、習慣的に律法を守っていた。肉と乳製品は一緒に食べないし、食器やスポンジも別。電子レンジも、肉用の電子レンジと乳製品用の電子レンジで分けている。安息日(土曜日)は出歩かないし、頭にはいつもユダヤ人が身につける小さな帽子、「キッパ」を被っている。そんな彼は、イエス(イェシュア)を心から、本気で、めちゃめちゃ信頼していた。彼とは、たびたび夜通し、イエスや聖書について、熱く語ったものだ。そんな彼も、パーティーの時は思いっきり酒も飲むし、ナルギーラもブクブクとやっていた。

 僕の「信者像」は、ガラガラと音を立てて崩れていった。酒やタバコをやらないといった、僕が「クリスチャンらしさ」だと思っていた部分は、イスラエルでは全く通用しなかった。逆に彼らにとっては、「安息日に出歩かない」とか、「肉と乳製品を分ける」とか、「豚肉を食べない」ことが、「信者らしさ」であった。このとき、私は初めて、「信仰って何だろう」と考えるようになった。パラダイム・シフトが起きた。イスラエル留学は、自分で聖書を吟味しようと思ったきっかけになった。

 

 さて、聖書はタバコについて何と教えているのだろうか。

 

 

▼タバコの記述、実はなし?!

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 ジェイクの言うように、聖書には、タバコに関する記述が全くない。良いとも、悪いとも言われていないのである。どんなに探しても、ないのである。もっとも、中東経験のある人ならば、アブラハムとかイサクとかヤコブといった族長たちが、タバコをプカプカしながら、チャイを飲んでいた、といったような風景は、容易に想像できるだろう。しかし、明確な記述がない以上、それは想像の域を出ない。

 では、どう考えたらいいのか。まず、大前提として、飲酒の是非の記事でも述べたが、「それ事態でNGな行為は、もはやない」のである。私たちは、「これはやっていい」、「これはやってはダメ」といった、律法主義的な考えからは、既に解放されている。そのような律法の要求は、全てイエスが十字架の上で完結させたのだ。イエスによる「なだめの香り」によって、現在過去未来の全ての罪に対しての神の怒りは、既に鎮まっているのである。

 完全に自由であるといっても、何でもかんでもしていいわけではない。それはもう、「心の動機」に聞けば分かる。あなたは、あなたの行為の「結果」(consequences)を刈り取る。食べ過ぎれば太るし、寝不足になれば健康を害する。それと同じで、あなたと神様の関係を傷つける行為をすれば、当然、神様との距離は離れる。神が離れるのではない。あなたが自発的に離れていくのだ。あなたと信仰の友との関係を傷つける行為をすれば、当然、あなたと信仰の友との距離は離れる。では、「喫煙」という行為は、どういう影響を及ぼすのか。

 今回は、1:あなたと神の関係2:あなたと信仰の友の関係、の2つの視点から、喫煙について考えていきたいと思う。

 

 

▼あなたと神の関係(1) ~あなたは聖霊の宮である~

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 喫煙をするとしないとでは、あなたと神の関係は変わるのだろうか。正直いうと、私はほとんど変わらないと思う。ある意味、お酒より変わらないと思う。

 よく、クリスチャンの間で、喫煙を避けるべきという人が引用するのは、以下の聖書の言葉である。

 

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

(コリント人への手紙第一 6:19)

 あなたは、聖霊の宮」なのだから、その宮を喫煙によって汚してはいけないという理論である。これは、2つの点から間違っている。

1:性的な失敗の文脈であり、喫煙について書いてある箇所ではない。

2:喫煙だけが「汚す」ものではない。

 この箇所は、「性的な失敗」について書いてある箇所だ。喫煙についてではない。聖書は、婚前交渉や近親相姦、同性愛などを明確に禁じており、それについての箇所である。少し前の箇所を見てみよう。

 

それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」(※創世記2:24の引用)と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

(コリント人への手紙第一 6:16~18)

 「淫らな行い」というのは、「ポルネイア」(この部分は、ポルネオ)というギリシャ語で、「ポルノ」の語源となったと言われている。「ポルネイア」は、婚前交渉や近親相姦、同性愛や獣姦など、「正しくないセックス」を指す。異論はあるだろうが、今は議論は避ける。

 コリントの箇所は、「性的失敗」は、神との関係を阻害するものとして警告している。それらを避け、神と一つの存在となるべきと書いてあるのであって、喫煙や飲酒の是非と問うているわけではないのである。

 私たちは聖霊の宮である。だからこそ、毎日毎日、神を知り続け、神とのシンクロ率を高めていく必要がある。それが根本のメッセージであり、「神の宮だから禁煙!」というのは論点がズレている。

 

 

▼あなたと神の関係(2) ~喫煙はあなたを汚すのか~

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 しかし、神とひとつのからだとなったのだから、タバコを吸ったらからだが汚れるのではないか、という指摘もあるだろう。これに対しては、イエスは明確な方針を示している。

 

エスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」(中略)イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」

(マタイの福音書 15:10~20)

 当時、手を洗わないで食事をするのは、ユダヤの律法的にご法度だった。というか、現代でも手を洗わないで食事をするのは、ばっちいからヤメた方がいいが、ユダヤ的には清潔+清めの儀式としての意味合いもあったようである。パリサイ人たちは、手を洗わないで何かを食べれば、からだが汚れると心から信じていた。

 しかし、イエスは、「どうせ食ったものはウンコになるんだから、別にどうってことない。本当にヤバイのは、心の問題だ。食べるものより悪口を言わないように気をつけろバカヤロー!」と言ったのである。タバコも同じではないか。もちろん、健康には良くないだろう。しかし、霊的な目線では、飲酒よりも、喫煙よりも、悪口の方が100億倍悪いのだ。

 あなたがタバコを吸ったところで、せいぜい健康的影響は、微々たるものだろう。もちろん、両手を上げて健康に良いとは言わない。肺がんのリスクは高まるし、様々な身体への悪影響はあるだろう。妊婦は喫煙を避けるべきだし、ニコチンによる依存症もある。だから、お酒と同様、自分なりの「線引き」はした方がいいだろう。しかし、たばこを吸っても、吸わなくても、人はいつか死ぬのである。あなたはどんなに健康に気をつかっても、あなたの寿命を1秒たりとも長くすることはできないし、1秒たりとも短くすることもできない。それは、イエスがハッキリと言っている。

 「この世の健康」に気をつかい出すと、キリがない。無闇やたらなオーガニック主義、紫外線恐怖症、過度なダイエットなど、ある意味「偶像礼拝」に陥ってしまう危険性もある。気をつかい出すと、気楽に外食もできないし、外も安心して出歩けないし、食物を感謝して受け取ることもできなくなる。コリントの箇所に記述がある通り、「『食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある』が、神は、そのどちらも滅ぼされる」のである(コリント6:13)。

 

 むしろ、そのような健康に気をつかうより、「悪い考え」や「ののしり」に気をつけるべきと、イエスは教えている。さすがに、「殺人」はなくても、「不倫」や「婚前交渉」の罠には、意外と簡単に陥ってしまう。手癖が悪い人は「盗み」、ちょっと話に盛りグセがある人は「偽証」にも気をつけないといけない。教会の裏口でコッソリとタバコを吸っている人より、公然と牧師や教会スタッフ、他の教会メンバーの悪口を言う方が、100億倍危ないのである。あなたがもし、悪意のあるウワサ話をするなら、それはあなたの霊のからだを汚すことであり、あなたと神との関係を傷つけ、霊的成長を阻害することになる。タバコを吸っても、それは阻害されない。むしろ、上記のような心の問題に気をつけるべきである。

 

 

▼信仰の友との関係 ~喫煙は、あなたの信仰の友にとって「愛」となりうるか~

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 喫煙は、「あなたと神の関係」においては、さほど影響がないと分かった。もちろん、依存症による悪影響は避けられない。だから、気をつける必要がある。しかしながら、「禁止」するべきかというと、そうではないと思う。

 では、「あなたと信仰の友との関係」においてはどうだろうか。喫煙が、決定的に「飲酒」などと違う点は、副流煙の存在である。これは、現代社会において大きな問題となっている。政府・与党は、日本においても基本的に店舗での喫煙を規制しようと動いている。東京都では、既に路上喫煙や店舗での喫煙が、条例によって規制されている。

 あなたが吸いたいと思っても、他の人がどうかは分からない。人によっては、匂いだけで嫌な気持ちになるし、服についたニオイもなかなか取れない。「副流煙」は、タバコを吸う人が吸い込む「主流煙」と比べて、ニコチンが2.8倍、タールが3.4倍、一酸化炭素が4.7倍も含まれている(出展:すぐ禁煙.jp)。

 タバコは、吸っている本人より、周りにいる人の方が、害を受けてしまうのだ。自分の意思とは関係なしに、吸い込んでしまい、健康は害されるし、嫌な気分になるわで、いいところが一つもない。がんや、脳卒中、呼吸系の病気、妊婦の出産のリスクなどが高まり、百害あって一利なしである。

 もちろん、リラックスしたり、気分転換するという意味で、タバコにも利点はある。しかし、「副流煙」を考えると、配慮は必要不可欠だ。クリスチャンは、「愛」の観点から、喫煙のマナーには、一層気をつける必要がある。

 

ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

(マタイの福音書7:12)

 

 これは、イエス旧約聖書の教えを、ざっくり一言にまとめた箇所である。「律法」と「預言者」というのは、大まかに「旧約聖書」のことを指す。「人からしてもらいたいことは何でも、同じようにする」。言い換えれば、日本語でとても耳馴染みのある言葉、「他人の気持ちになって考えてみよう」ということである。

 もし、あなたがタバコを吸いたくなったら、他の人の気持ちになって考えてみよう。もしあなたがタバコが嫌いだったら? もしあなたの妻が妊婦だったら? もしあなたが喘息だったら? もしあなたの家族が肺がんで死んでいたら?

 

 そのような気持ちを考えたとき、「分煙」のマナーを守るのは、至極当然であろう。

 

 また、加えるならば、ニコチンはとても依存度が高い物質である。もしあなたの何気ない喫煙が、やっとこさ「禁煙」に成功した信仰の友の決意を、揺らがせることにならないだろうか。あなたの喫煙の習慣が、信仰の友との関係を阻害していないだろうか。喫煙事態は悪い行為ではないが、特段の配慮が必要なのは、言うまでもない。しかし、一人でカフェに行って、喫煙席に座り、一人でタバコを楽しむのは、全く問題ないと思う。むしろ、弱い人間にこのような嗜好品を与えた神に感謝して、これを受け取るべきだ。

 

 

▼リーダーはどうあるべきか

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 最後に、リーダーたちがどうあるべきか書く。「飲酒」については、明確な注意喚起や基準が定められている。しかし、「喫煙」については、明確な記述がない。

 であるならば、根本的には「自由」だ。しかし、愛の原則を忘れてはならない。これはもう解説するまでもなく、ひとりの人間として当たり前のことである。もちろん、喫煙は国や文化の背景によって、常識がかなり違うので、その文化背景も尊重する。では、マリファナはどうか? 覚せい剤はどうか? という議論になるとラチがあかないので、ここでは避ける。

 とにかく、日本の文化背景では、「分煙」のマナーを守る。「ポイ捨て」をしない。これが最低限のマナーではなかろうか。そう考えると、高校生の引率で来ていた例の聖公会のチャプレンが子どもたちの前でプカプカやっていたのは、ちょっといかがなものかとも思う。

 

 あなたの考えている「信仰」は、実はただの「文化」かもしれない。僕は、イスラエルで自分の「信仰観」を打ち崩された。僕は、そこからやっと、しっかりと自分の足で歩き出すクリスチャンになれたのである。あなたはどうだろうか。自分の足で歩いているだろうか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンはお酒・アルコールを飲んではいけないのか?!<後編>  

クリスチャンは、お酒、アルコール飲料とどのように付き合っていけばいいのでしょうか?

※前編の記事はこちら

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼アルコールとどう付き合うべきか

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 前編で述べたように、アルコールを飲むのは「悪」でも、「罪」でもない。大切なのは、酒とどう付き合うかだ。極論、たくさん飲んでも、コントロールできれば良いのだ。

 とはいえ、果たして、ぐでんぐでん、ベロンベロンの状態で、「御霊に満たされ続ける」のは可能なのか。私はとてもそうは言えないと思う。パウロは、アルコールをコントロールするために、たびたび厳しい指摘をしている。

 

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者(すなわち信者の中で)で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。

(コリント人への手紙第一 5:11)

 このように、新改訳聖書2017では「酒におぼれる者」となっている。第3版では「酒に酔う者」となっているが、「おぼれる者」の方がニュアンスが伝わりやすい。パウロは、信者の中で、「酒におぼれる者」、つまり、「アルコール依存症の人」、「酒にコントロールされてしまっている人」とは一緒に食事もするなとまで言って注意している(※信じていない人が飲んでも、その人と一緒に食事をしてもそれは全く問題ない)。

 「酒におぼれる者」という表現は、不倫をしている人や、偶像礼拝をする人と同列で書いてある。これは2つの意味で重要だ。

1:飲酒は、それほど注意しなければならない人の弱さである。

2:飲酒は、性的な失敗や、偶像礼拝など、他の失敗につながりやすい。

 「酒をコントロール」と一言で言っても、それはとても難しい。聖書で飲酒は「禁止」されてはいないが、ハッキリと注意喚起はされているのである。また、前編でも取り上げたように、お酒による失敗談も数多く記述がある。飲酒に気をつけろというメッセージが聖書にあるのは、明らかであろう。

 私はまだ診断が必要なほどの依存症の自覚はないが、周りの依存症の人を見ていると、特徴として、他のどんなことよりアルコールを優先させる傾向にある。ある人は、私にビールを買いに行くよう言って、私が買いに行く間、ものの15分も我慢ができず、自分でコンビニに行ってビールを買って飲んでいた。そこまでの状態になると、もうアウトだ。

 また、アルコール依存症になると、もう家族や兄弟姉妹との会話とか、聖書を読むとか、祈りとか、大切なことより酒を優先するようになる。しまいには、仕事も家族も自分自身の健康もおろそかにしてしまうのである。アルコールとの付き合いは、知恵と自制が必要なのである。そのため、ある程度の「線引き」はとても大切である。ただ、人によって、どこが適切な線引きかは、個人差があると思う。

 

<認めたくない現実まとめ>

1:飲酒は、他の失敗ともつながりやすい。

2:飲酒の程度を自分でコントロールするのは、とても難しい。

3:依存症になると、他の何よりも酒が優先順位が高くなる傾向にある。

4:過度な飲酒は、あなたの家族、友人、人間関係を壊し、あなたの健康、そして人生も壊す可能性が高い。

 

 

▼リーダーたちへの基準

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 また、パウロは、教会のリーダーたちには、さらに厳しい基準を示している。

 

ですから監督は、避難されることがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。

(テモテへの手紙第一 3:1~4)

同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。

(テモテへの手紙第一 3:8~9)

 この「監督」「執事たち」が教会でどのような役目なのかは、いろいろな意見があるが、今回はざっくりとリーダーと捉える。パウロは、「酒飲み」でない人をリーダーにすべき、逆に言えば「酒飲み」はリーダーにふさわしくないと指導している。酒をコントロールできない人には、自分をコントロールできない。そういう人がリーダーに相応しくないのは、当然だろう。

 面白いのは、「監督」と「執事」で基準の差があるところだ。「監督」は「酒飲みでなく」なのに対し、「執事」は「大酒飲みでなく」とある。「執事」はある程度の飲酒は許容されているようである。「監督」はより厳しい選考基準があり、より重い責任があったことが、この記述からも読み取れる。

 もっとも、「たしなむ」程度なら、普通、「酒飲み」とは言わないから、「監督」であっても酒は飲んでいたと考えるのが素直な受け取り方であろう。この部分のギリシャ語は、「NOT・パラオイノス」。「横に・ともに」という意味の「パラ」と、「ワイン・ぶどう酒」の「オイノス」を結合させた形容詞だ。「常に酒が横にある状態」とでも言おうか。

 これは、単純に「飲酒をする人」よりかは、「一升瓶を腰につけている、いつも酔っ払ってる人」と捉えた方が、私は素直だと思う。タンタンの冒険のハドック船長とか、ドカベンの徳川監督とか、そういった類の人だ。だから、「監督」(大方、『牧師』に適用する)は、一切酒を飲んではいけないというのは、私は間違いだと思う。

 聞いた話では、教会員がお酒を飲んでいたら、教会内での役目をクビにする教会もあるという。ちゃんちゃらおかしい。もちろん、アルコール依存症と診断されたら、病気なのだから、しばらく休んでもらってもいいかもしれない。しかし、1回や2回の飲酒で、何か犯罪を見つけたように、即解任となるのは筋違いではないか。

 私は、牧師であっても、執事であっても、長老であっても、酒を飲んでもいいし、それを見ても私は何とも思わない。それで「つまずき」だという人は、信仰をカンチガイしていると思う(※クリスチャンが大好きな「つまずき」についても記事を書く予定)。

 もちろん、コントロールできないという可能性を謙虚に受け止め、一切飲まないという「線引き」をしている人を、私は心から尊敬する。

 

 

▼「集い」の中での飲酒はどうか

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 いずれにせよ、いろいろな意見はあるが、「飲酒」そのものは悪いことではない。個人レベルでは飲酒は自由だ。では、「集い」の中での飲酒はどうだろうか。私は、一定の配慮が必要だと考える。この問題の答えは、ローマ人への手紙14章にあると考える。長いが、一部を抜粋する。

 

ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。(中略)ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日と尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(中略)こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(中略)食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙14章)

 

 複雑だが、ポイントをまとめると以下のようになるだろう。

 

<ローマ14章まとめ>

1:それ自体でNGな食べ物、飲み物はない。

2:何を食べるか、何を飲むか、どの日を大切と考えるかは、人によって違う。

3:あなたは、あなた自身の信仰によって行動すべきである。

4:正しいと思う行動は正しい。しかし、「自分の信仰」に基づかない行動は良くない。

5:あなたの行動は自由であるが、信仰を持つほかの兄弟姉妹が、それによって傷ついているなら、それは愛ではない。また、あなたの行動によって彼らを信仰から遠ざけていないか、吟味が必要である。

6:イエスは、あなただけでなく、兄弟姉妹全員のために死んでくれたのだ。あなたの自由な行動によって、イエスが死んでまで愛した人を傷つけたり、信仰から遠ざけるべきではない。

 繰り返すが、酒を飲もうが、タバコを吸おうが、何をしようと、あなたが疑問を抱かず、信仰に基づいて行っているのなら、それは正しい。それ自体でダメなものはない。しかし、あなたのその行為が、まわりの兄弟姉妹を傷つけていないか。彼らを信仰から遠ざけていないか。吟味が必要である。

 私は、別に教会の集いの中で酒を飲んでもいいと思っている。礼拝堂がある建物の中でアルコールを飲んでもいいとも思っている。しかし、その集会の中に、やっとアルコール依存症から解放されたばかりの信者の仲間がいたら、どうだろうか。美味しそうに酒を飲むあなたたちを見て、彼はもう一度アルコール依存症に戻ってしまわないだろうか。もし、そういう人がいるのが明らかなら、集いの中での飲酒はヤメたほうがいい。

 もしかしたら、あなたの集会の中に、酒乱の両親に暴力をふるわれた人がいるかもしれない。あなたがお酒を飲む行為が、その人に過去のトラウマをフラッシュバックしてしまうかもしれない。その結果、その人が、礼拝会の集会に来にくい環境を作ってしまうかもしれない。もし、そういう人がいるのなら明らかなら、集いの中での飲酒はヤメた方がいい。

 もし、あなたの「飲酒」があなたの信仰の友を傷つけ、信仰から遠ざけると分かっていながらやめられないのであれば、それは愛ではない。あなたの愛は、「飲酒」を「ギブアップ」できる愛だろうか。イエスは自らの命までも「ギブアップ」して、その友を救ったのだ。

 

 もちろん、そんな細かなことまで気にし出すと、教会の集まりで何もできなくなってしまう。上っ面だけの、偽善者の集まりになってしまう。イエスはそれを一番批判した。パリサイ人や律法学者たちは、うわべと中身が違っているから批判を受けた。飲酒の間違いから遠ざかるために、「予防線」を張るのは大切だが、それにこだわりすぎると、すぐに「律法主義」の罠にハマる。

 私は、信仰の友と酒を飲むときは、こういう「線引き」をしている。もし、一緒に食事をする信仰の友の飲酒に対するスタンスが定かでない場合は、飲酒が「offensive」(不快な思いをさせる行為)でないか、いつも尋ねるようにしている。正直、「居酒屋」とかで集まった時点で、大丈夫かもと思うのだが、半ば儀式的に尋ねるようにしている。「空気」を読むのが日本人の得意技なのだから。

 何よりのオススメは、「相談相手」(Acountability)を作ることである。これは、飲酒に限ったことではない。「相談相手」とは、信仰の友同士で、お互いの霊的状況を相談し合う、「相互カウンセラー」のようなものだ。「霊的五人組」とでも言おうか。お互いに問題があれば、お互いに注意し合い、お互いに刺激し合い、お互いに励まし合う。もし飲酒が過剰になっていたら、ストレートに「気をつけろ」と言える仲間が、あなたの教会にいるだろうか。あなたの集いの中で、あなたの抱えている問題を分かち合える信仰の友はいるだろうか。もしいるなら、もっと親密になろう。もしいないなら、少しでも自分から心を打ち明けてみよう。それが一番の「予防線」になる。

 

 ただ、注意しないといけないのは、「自分の信仰を保つ」というポイントだ。何度も繰り返すが、飲酒そのものは悪い行為ではない。クリスチャン界には、「つまずき」をいたずらに警戒する悪しき文化がある。その「つまずき」は、正しい「つまずき」なのかも吟味の必要がある。本来聖書が自由としているものを、勝手に「ダメだ」と禁止したり、タブー視するような空気が、教会や集いの中にあるのなら、それは健全とは言えない。お互いに意見を交わし、お互いを尊重し合う文化の情勢が必要である。そうしないと、「つまずいた」という側の言い分が、なんでも正しいということになってしまう。それは、単なるワガママである。

 もし、あなたの価値観が、誰かに言われたことだけで作られているとしたら、問題だ。他人の言葉を鵜呑みにしているだけなら、それは信仰とは言えない。自分で聖書を読み、神と対話し、自分の生き方を決めていく必要がある。自分で考えた結果、飲酒をするもよし、やめるもよし、人に勧めるもより、勧めないもよしだ。大切なのは、自分で聖書を調べ、果たして本当かどうか吟味することである。やはりここで大切になってくるのは、「心の動機」である。

 あなたが酒を飲む、「心の動機」は何だろうか。「美味しいから?」、「辛いことを忘れたいから?」、「付き合い?」、もしかして、「誰かを酔わせたいから・・・?」

 あなたが酒を飲まない「心の動機」は何だろうか。「お酒が好きじゃないから?」、「別に飲む必要もないから?」、「教会の決まりだから?」、「罪悪感があるから?」、もしかして、「罪だとカンチガイしているから・・・?」

 

 あなたの心の動機は何だろうか。

 

 

▼酒は神からの恵み

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 最後に、一番大切なポイントを指摘して終わりたい。

 

 私たちは行いによって救われるのではない。

 

 クリスチャンにとっては当たり前の話だが、この手の議論をするとき、多くの人が、この恵みによる救いを忘れがちだ。「飲酒」は罪ではない。私たちはもはや、全てのことに対して自由にされているのである。律法の要求は、イエスが完成させている。私たちは、神の恵みの中にあって自由にされている。だからこそ、「自分の信仰」が大切なのだ。なんでもかんでもしていいのとは違う。それは、あなたの「心の動機」に聞けば分かるだろう。だから、結局の所、本来はこんな「飲酒はいいのか悪いのか」みたいな議論には意味がない。エスを信じていれば、どうぞご自由に。以上。

 

 その上で、「酒は神の恵み」だと指摘しておきたい。いくつかの聖書の言葉を紹介する。

 

これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。

(テモテへの手紙第一 5:23)

 少量の酒は、良薬にもなる。実際、飲酒が程度によっては健康にいい効果をもたらすという研究データもあるそうだ。

 

ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えなさい。その人は飲んで自分の貧しさを忘れ、もう自分の労苦を思い出すことはない。

箴言31:6~7)

 飲酒は、時にこの世の労苦を忘れさせてくれる。ストレス発散のために酒を飲むのは、むしろ正しい行為だと思う。

 

あなたは、そこで(約束の地)その金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。

申命記14:26)

 ぶどう酒や強い酒は、主の前で食べ、家族とともに喜びを分かち合うためにある。神の、素晴らしい創造物である。家族の喜びの交わりの中に、お酒の存在はあるのだ。お酒は本来、神が作った恵みなのである。

 

 ほかにも、ネヘミヤが民が悲しんでいる時に上質なぶどう酒を飲めと勧めたり、ぶどう酒を捧げ物として用いたり、お酒のポジティブな面を表した箇所はたくさんある。

 私のオススメする生き方は、自分なりの節度とルールをもって、神が作ったアルコールという、素晴らしい創造物を、感謝して喜び楽しみ、それを分かち合うという生き方である。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。