週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【提起】ステージ牧師とピロートーク牧師、どちらがあなたの人生を変える?

ステージの上でのメッセージ(説教)が上手い牧師と、メッセージは下手だけど個人的に話せる牧師、どちらが人生に影響を与えるでしょうか。

 

 

良い説教とは?

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 日曜日に教会に行くと、ほとんど必ず牧師による「説教」がある。教会によっては「メッセージ」とも言う。牧師が聖書を引用し、何やら語るのだ。短い時もあれば、長い人だと1時間以上になる時もある(たいてい途中からうんざりする)。

 この「説教・メッセージ」が「礼拝」のメインディッシュだと考える人もいるようだ。私は違うと思う。生き方そのものが礼拝であり、メッセージは「礼拝会」の一要素でしかない。詳しくは以前書いた記事を参考にしていただきたい礼拝についての記事はこちら)。もっと言えば、牧師だけがメッセージをする権利があるとも思っていないが、そこは後日。

 さて、生き方そのものが礼拝であるならば、人生に影響を及ぼす話が、一番いいメッセージだろう。メッセージの中に面白おかしく笑えるジョークがあったり、難しいヘブライ語ギリシャ語の解説ができても、聞いている人の生き方が全く変わらなければ、意味がない。まだ落語や政治家の演説を聞いている方がマシだろう。あなたの人生が、よりイエスの生き方に近づくか、というのがメッセージと落語や演説との大きな違いである。

 

 

ステージ牧師とは

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 「メッセージ・説教」の観点から見ると、牧師の中には、大きく分けて「ステージ牧師」「ピロートーク牧師」の2種類いると思う。もちろん、人それぞれなのだが、一旦大胆に二分してみる。

 「ステージ牧師」というのは、その名のとおり、ステージ(講壇)でのメッセージが上手い牧師だ。この手の人たちには、天才的な才能がある。ジョークやエピソードトークを織り交ぜ、40分のメッセージを飽きさせずに語れる。誰も居眠りしない。テンポよく話すが、大事なところでは力を込めて語る。わかりやすく、ポイントが明確。聖書の背景や、ヘブライ語ギリシャ語の深い解説がある・・・等々、上手な人にもタイプが分かれるが、本当に心から関心するトーク技術がある。これがステージ牧師だ。

 彼らは、おそらく何回も練習し、努力して「聞かせる技術」を培ったに違いない。中には生まれつきのステージ牧師もいて、そういう人は自分が普段、神から語られていることを話し出すと止まらなくなる。で、たいてい用意した原稿よりそっちの方が面白いし、心にも残る。

 あなたがクリスチャンならば、心の中に「ああ、あの人はそうだな」と思い浮かぶ人が何人かいるだろう。こういうステージ牧師たちは偉大なカリスマ性を持っていて、その人の名前だけで人が集まり、大きな集会がひらける。毎回なんだか同じような話をしていても、「●●先生のお話素晴らしかったです~!」とオバちゃん達が言う。そんな人たちである。

 私はそういうステージ牧師たちを尊敬する。やはりそのトーク技術には感服せざるをえない。しかし、人生に影響を与えたかというと、微妙なところだ。今までそういう人たちのメッセージが「面白かった」とう記憶はあるのだが、では何を学んだか、それが自分の人生にどう影響を与えたかと考えてみると、全く思い出せないのである。実は、そのような「ステージトーク」は、その時の気分を盛り上げる効果や、何かのキッカケになる場合はあっても、それ自体が人生に影響を及ぼすケースは比較的少ないと、私は思う。

 

 

ピロートーク牧師とは

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 では、「ピロートーク牧師」はどうだろう。この人たちは、たいてい人前でのメッセージはそんなに上手くない。むしろ下手くそな人も多い(自分調べ)。メッセージは退屈だし、ジョークはそんなに上手くないし、なんだかオドオドしている人もいる。少しでも分かりやすくしようと工夫したたとえ話は、余計に話を分かりづらくする。中には細かい枝葉の部分に気を使いすぎて、メッセージのポイントが何だかサッパリ分からないという人もいる。読者の中には「ああ、いるいる~」と思い浮かぶ人がいるだろう。

 しかし、彼らは、個人的な会話になるとめっぽう聞き上手なのだ。そして、質問上手。たまに、グサッと心に刺さる聖書の言葉もプレゼントしてくれる。そういう牧師たちは、キャンプで寝る前だとか、洗い物をしている時だとか、お風呂に入っている時だとか、ささいなシチュエーションで個人的な時間を作り出すマジシャンだ。しかも、彼ら悩みを抱える人を見つけ出す超能力を持っている。そういう牧師たちが、目立たないが大勢いる。

 私は彼らを「ピロートーク(=枕をともにして話す)牧師」と呼ぶことにした。彼らは大衆からの称賛は受けないし、ほぼ無名である。しかし、見えないところで多くのクリスチャンたちを育てているのだ。

 実のところ、ピロートーク牧師たちとのささいな時間は、ステージ牧師たちの面白い1時間のメッセージよりも、はるかに影響力がある。そこでさりげなく出された聖書の言葉は、意外と忘れないもので、人生の礎となる。彼らとのコミュニケーションが、イエスとの関係を修復し、より強固なものとする。私はそういうケースを何回も体験したし、目撃してきた。

 私が体験したケースをひとつ書いてみよう。(出てくる登場人物は全て仮名)

 

 

「今日はキミと過ごそう」

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 イスラエルという国は、過激なようで実は時間がゆっくり流れている。留学中の僕は、ヒマを持て余していた。そんなとき、信仰の師匠であるユダヤ人のヨセフから、一通のメールが来た。

「やぁ、タクマ。今度、エルサレムで大きなアジア人信者向けの集会をやるんだけど、来ないかい?」

 ヨセフは典型的なアメリカ生まれのユダヤ人だ。彼は、名門コロンビア大学の卒業で、日本語ペラペラ。何を思ったか禅を学びに日本に来たところ、なんとイエスに出会ってしまい、クリスチャンとなったという人物である。それ以来、長年日本で宣教師をしていた彼は、満を持してイスラエルに帰還した。

「日本、韓国、中国のクリスチャンたちを300人ぐらい集めて、東アジアの仲間が一致する会合にしたいんだ」

 彼はそう語った。僕は二つ返事でOKした。夏休みで、特にやることもなかったので、丁度よかった。留学先のハイファのバスターミナルで、35シェケル(700円)払って緑色のエゲット・バスに乗り、3時間半ほど高速道路を走ってエルサレムに着いた。10月のはじめで、「仮庵の祭り」の季節だった。会場のホテルに向かうタクシーの中から、黒服の超正統派のユダヤ教の家族が祭りの準備のために、緑色のしゅろの葉っぱを手にして歩くのが見えた。街のあちこちに、スカー(仮庵)と呼ばれるほったて小屋が並んでいた。

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↑スカーと呼ばれるほったて小屋

 ホテルに着くと、ヨセフが迎えてくれた。「久しぶり。元気だった?」彼は流暢な日本語で笑った。サンタクロースのような立派な白いひげの奥に、ニッコリ笑う小さな口が見えた。ヨセフに聞くと、今回の参加者の大半は中国人と韓国人で、日本人は僕を入れて、たったの3人だという。日本人との関わりに飢えていたので、少しガッカリした。

 その日に、3人の日本人参加者でお昼を一緒に食べることになった。1人は6歳年上の友人、ヨシヤ。もう1人は、岡さんといって、60代くらいのコワモテだった。宮城で牧師をしているという彼は、今回の集会にゲストとして呼ばれていたのだった。

「タクマくんは、なんでイスラエルに留学しているの?」

 食事をしながら、岡さんはさりげなく僕に話しかけてきた。

 僕は、それきたとばかりに話しだした。自分が16歳でイエスを信じたこと。すぐに牧師になりたいと思ったこと。アメリカの神学校に行こうと思ったが、神に止められていると感じ、日本の大学に進学したこと。聖書の舞台であるイスラエルに留学に来て、ヘブライ語を学んでいることを話した。この手の自己紹介は慣れたもので、僕のお得意のトークだった。

「へぇ、牧師になりたいの」

 ほらきた。僕はほくそ笑んだ。「牧師になりたい」とうのは、キラーワードで、これを言うだけで、大抵のクリスチャンの人は「この人はしっかりしている」とか思ってくれるのだ。とはいえ、ウソを言っているわけではなく、本心だったのだが。

 しかし、岡さんは違ったようだった。

「へぇ、牧師になりたいの。なんで?」

 岡さんは、パグみたいなしわくちゃの顔を、さらにしわくちゃにして笑った。

「え、神様の愛を伝えたいからです」

「へぇ、なんで神様の愛を伝えたいの?」

 岡さんは続けた。なんだこの人は、めっちゃ聞いてくるじゃん。

「神の愛を知って感動したからです。福音を伝えたいからです」

「素晴らしいね。でも福音を伝えるのは、牧師にならなくてもできるよね」

 確かに。僕はなんとか答えようと必死だった。

「そうですね。でも、やっぱり”フルタイム”で神様に仕えたいんです」

「そうなんだね。じゃあ、フルタイムで神様に仕えるってどういうこと?」

「うーん。神の栄光を表すことじゃないでしょうか」

「ほう」

 岡さんの、細い目の奥がキラリと光った気がした。少しの沈黙。そして彼は続けた。

「神の栄光って何だと思う?」

「えっ、神の栄光・・・ですか?」  

 僕はあせっていた。腋から汗がつーっと流れた。心のたまねぎを剥かれて、剥かれて、何も残らない自分がさらけ出されたようだった。顔が火照ってきた。

 フルタイムで仕える。神の栄光。漠然と考え、使ってきたワードは、一体何なのだろうか。答えを必死で探す。そして、答えを持っていない自分に気づく。ない答えを必死で探して、作り出そうとして、見つからない。負けた。僕は何も答えられなかった。

「よし、決めた」

 岡さんは立ち上がって、右手で僕の肩をポンと叩いた。

 

「今日は、君と過ごそう」

 

 彼は、既にめいいっぱいしわくちゃな顔を、もっとしわくちゃにして笑った。は? 僕と過ごす? 何を? それにこの後はメインの集会があったはずだ。

「え? でも集会は・・・」

「いいんだ。こういう集会ってあんまり興味ないんだよね。それより、今目の前にいる君と話したい」

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 岡さんは、僕をホテルの部屋に招き入れた。セミダブルのベッドが2つある大きな部屋だった。小さなライトスタンドのオレンジ色の光が、部屋を薄暗く照らしていた。僕らは、ベッドに腰掛けて、それからその日の夜まで語り合った。

「ザアカイの話を知っているよね?」

 もちろん知っていると、答える僕。じゃあその箇所を開こうか、と岡さん。僕は中途半端に使い古した聖書をリュックから取り出し、福音書をひらいた。どの福音書にあった話なのかも、どの章だったかも分からない。焦りを必死で隠しながら、震える指先で聖書のページをめくった。岡さんは、ただ黙って、しわくちゃの顔でずっとほほえんでいた。

 

 僕はやっとルカの福音書19章にザアカイの話があるのを見つけた。「読んでみようか」と岡さん。僕らは2人でザアカイの話を読んだ。イエスがエリコの街に来た時、大勢の人々がイエスを見にやってきた。税金を取り立てる仕事をしていたザアカイも、イエスを見にやってきた。彼は金持ちだったが、皆の嫌われ者だった。彼は背が低かったので、人混みの中でイエスを見ることができなかった。そこで、木に登ってイエスを見ようとした。イエスは、木の上にいるザアカイを見つけ、声をかけた。

「今日、あなたの家に泊まることにしてあるから」

 そのイエスの一言が、ザアカイの人生を変えた。ザアカイは、不正に取り立てていた税金を返す約束をした。イエスはザアカイの心の変化を見て、「今日、救いがこの家に来ました」と宣言したのであった。

 

 ザアカイを見つけたイエスの姿が、岡さんの姿と重なって見えた。部屋のベッドの上で、僕は悔しさと嬉しさを混ぜ合わせたような、なんだかよくわからない気持ちを噛み締めながら、岡さんと抱き合った。

「君には、イエスの姿を知ってほしかったんだ」

 岡さんは、しわが目立つ腕で、僕を力強く抱きしめながら、そう言った。

 

 それから、何を話したのかは、よく覚えていない。しかし、僕の心は溶かされた。イスラエルでの貴重な1日を、僕なんかのために捧げてくれた岡さんの心意気にやられてしまった。僕のプライドは取り去られた。この日、僕の夢は、変わった。大勢の前でメッセージを語る牧師になるよりも、誰も知らない一部屋で目の前の一人と語り合える、そんな人間になりたいと思うようになった。

 

 

今すぐあなたもピロートーク牧師に

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 今のエピソードは、単なる私の体験談に過ぎない。ステージ牧師から影響を受ける人もいるし、ピロートーク牧師から影響を受ける人もいる。それぞれが、神からユニークな特性をもらっている。だから聖書は、教会の共同体の一人ひとりを「キリストのからだ」と表現した。右手もいれば、左目もいる。腎臓もいる。激しく動き続ける心臓もあれば、腎臓もある。それぞれの働きが大切で、不可欠だ。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(中略)私たちは互いにからだの一部分なのです。

(エペソ人への手紙 4:16~25)

 

 イエス自身も、両方の働きをした。5000人の前でも話した(とされている)し、ザアカイのように個人的に話もした。しかし、どう考えてもイエスが注力したのは、目の前の一人だったのではないかと思う。

 ステージ牧師になるのは大変だ。でも、ピロートーク牧師になら、「牧師」や「伝道師」なんて肩書きがなくても、いつでもなれる。今、目の前の一人を思い浮かべてみよう。あなたの関心のベクトルを、その人に向けてみよう。その人は、今どんな聖書の言葉を必要としているだろうか。どんな問題を抱えているだろうか。全身全霊で、その人と向き合ってみよう。それが、「愛する」ということだ。その瞬間に、もうあなたはピロートーク牧師になれる。あなたが人を変えるのではない。そこに働く神の力、神の息吹、聖霊が人の生き方を変えるのである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。