週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】「神のみこころ」は、どうやって見極めるのか?

クリスチャンはよく「神様のみこころだ」と言って物事を決めますが、本当に「神様のみこころ」なのでしょうか?

 

 

「みこころ」の乱用

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 クリスチャンと話していると、時々、耳慣れないフレーズが出てくる。「みこころ」というのもそのひとつだ。「御心」と書く。「みこころ」とは、神の御心、つまり、「神の計画」を意味する。それなら、神の計画と普通の言葉で言えばいいだが、なぜかクリスチャンはそういう特殊な用語が大好きで、このような言葉をよく使う。

 クリスチャンは、神の計画通りに生きていきたい、という考えを持っている。クリスチャンにとって、この「みこころ」を知り、それに従うというのは、人生の至上命題だ。進学、就職、結婚、子育て、転職、などなど・・・。人生の分岐点で、「みこころ」を求めるのは、クリスチャン人生の常である。

 本当に神の計画に従いたいというモチベーションを持っているのであれば、それは素晴らしい。しかし、時としてこの「みこころ」という言葉は、人が道を間違える原因にもなったりする。どのようにしてか。それは、自分の決断を、「みこころだ」と言って正当化する時である。本当は、自分勝手な考えで決断しただけなのにも関わらず、「神のみこころだ」と言って、自分自身を納得させる。または、他の人の忠告を聞き入れない理由にする。神から何の語りかけも、促しもないのに、「これは神のみこころだ」と言って、正当性を作り出そうとする。または、全力を出さない言い訳に使われる。信じられないかもしれないが、これはクリスチャンの世界のあるある話なのだ。

 クリスチャンでない人は、これを聞いて、「えっ、それって神への冒涜じゃないの?」と思うかもしれない。その通り。完全に冒涜だ。私は、この「みこころ」を利用する行為が大嫌いで、神の計画だと語る際は、慎重にならないといけないなと思っている。しかし、残念ながら「みこころ」という言葉は、乱用されているように感じる。では、どんなケースがあるのか、簡単に見ていこう。

 

 

それ、「みこころ」じゃなくて「おこころ」じゃないの?

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 いくつかの例を紹介する。

 私が韓国系の教会に通っていた時に、いきなり、何人かの大人たち(女性たち)が、「神のみこころだ」と言って、教会に学校を作った。いわゆる、「チャーチスクール」というものである。長い話を短くすると、この「みこころ」で始まったチャーチスクール、2年と持たずにつぶれた。「みこころ」ではなかったのだ。(※つぶれることも含めて「みこころ」だったのかもしれないが、それはひとまず置いておこう)

 状況を見れば、当たり前だった。「みこころ」と言って始めたのにも関わらず、先生は誰ひとり確保できていなかった。カリキュラムも教科書もなかった。結局、子どもたちは、ほったらかし状態。まともな教員も確保できず、だんだんとその女性たちの間に争いが起き、そして分裂した。結局、子どもたちはロクな教育も受けられず、親の暴走の犠牲者となったのであった。私もその一人である。

 彼女たちは、「本当はみこころではない」と分かっていたのだろう。もし、本当に「みこころ」だと思っていたのなら、もっと本気で準備をしたはずである。神の計画に対して、本気で、全力でやらなければ、神に対して失礼だ。単純明快。彼女たちは、本音では、「神のみこころ」じゃなくて、「自分のおこころ」だと分かっていたのである。

 お国柄か、お隣の国の教会では(短絡的な一般化をゆるしてほしいが、本当に実体験なので・・・)、このような「みこころ暴走」が起こりがちだ。クリスチャンは、このよな暴走に巻き込まれないように、「みこころ」かどうか、慎重に吟味しなければならない。

 

 もうひとつ、よくある「みこころ暴走」の例が、男女のお付き合い、そして結婚である。本当によくある。あるあるすぎて笑える。「みこころの結婚相手は存在するのか?」という視点で、以前、記事を書いたので、詳しくはそちらを参照してほしい。

yeshua.hatenablog.com

 

 簡単に言えば、「運命の赤い糸」のような「みこころの相手」は存在しない。しかし、「あなたが一生愛すると神の前で約束した相手」は「みこころの相手」である。人間の好き嫌いの感情で結婚するのではなく、決断としてその人と一生寄り添うというのが、「みこころ」である。具体的に言えば、クリスチャン同士が結婚するのであれば、それは「みこころの相手」になり得る。

 しかし、たまに暴走して、相手のこともよく知らないのに「みこころだ」と言って結婚してしまうカップルがいる(向こう見ず・暴走)。または、単純に相手のことが好きなだけなのに、「みこころだ」と言って結婚してしまうケース(感情や行動の正当化)。または、「感情では好きではない」のに、「みこころだから」と自分を納得させて結婚してしまうケース(感情の無視)。または、未婚というコンプレックスから逃れるために、「みこころだ」と言って、よく考えず結婚してしまうケース(結婚自体の目的化)。いずれも、後々上手くいかなくなるケースが多い。

 

 特に、男性側が、「あなたが『みこころの相手』だと示されました。結婚してください」と、突然迫ってくるケースを、本当によく聞く。どこからともなく現れたその男が、「みこころだから結婚して」と言うのである。一般の世界だったら、ただのストーカーだが、クリスチャンの世界ではこれが通じてしまうから、恐ろしい。

 また、牧師たちが、「この人と結婚したらどうだろう」という紹介をするケース。これも本当に多い。私は、紹介による結婚を否定しない。私が違和感を覚えるのは、「牧師に言われたから『神のみこころ』に違いない」という考えだ。これが、本当によく耳にするケース。声を大にして言いたい。そんなわけ、ねーだろ!!! ・・・言い過ぎた。「そうかもしれないし、違うかもしれない」。これが適切な表現だ。

 こうして、感情や「心の動機」にフタをしたまま結婚した人たちはどうなるのだろうか。その結果は、悲惨だ。人間関係を壊し、信頼を壊し、家庭を壊してしまうことになる。一番悲惨なのは、その結婚により、神への信仰を失ってしまうケースである。

 「みこころ」を履き違えると、暴走する。客観的に見ていて、「ありえない」「やりすぎ」「ちょっとおかしい」、そんな行動が正当化されてしまう。その結果は、破滅の道である。

 

 

聖書で「みこころ」を履き違えた人たち

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 聖書にも、この「みこころ」を履き違えてしまった人たちがいる。ひとつの例を紹介しよう。私の聖書の中の好きなキャラの一人、カレアハの子ヨハナンである。

 背景を少し紹介すると、イスラエルが北イスラエルと南ユダに分裂していた時代。南ユダは、バビロンに攻められ、多くの者がバビロンに補修された。しかし、南ユダに残っていた者たちもいた。バビロンは、この地域を治めるために、ゲダルヤという人を総督として、その地域を治めようとした。

 ゲダルヤは結構イイやつだったが、イシュマエルという人のクーデターによって殺されてしまう。軍の高官だったヨハナンは、イシュマエルたちを恐れ、残っている民全員を連れて、エジプトに逃げようと画策する。そんな時の話である。聖書をすべて書くと長いので、簡単に流れを紹介する。

 

●カレアハの子ヨハナンたち

預言者エレミヤさん。神が私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくれくれるように、神様に祈ってくれや。」

預言者エレミヤ

「承知した。神様に祈ってみるけんね。神様に言われたことは、全部言うけんね」

●カレアハの子ヨハナンたち

「私たちは必ず、あなたを通して神様がお告げになることを行います。それが良いことでも悪いことでも、必ず従います」

<10日後・・・>

預言者エレミヤ

「お、10日後に返事が来たぞ。おーい、ヨハナンたち、神様から返事が来たぞ!」

●カレアハの子ヨハナンたち

「おおっ、どないです?」

預言者エレミヤ

「もしこのユダの土地に残るなら、神様はあなたたちを守ります。もし、エジプトに逃げようとするなら、必ずそこで死にます。だからエジプトに行っちゃダメよ」

●カレアハの子ヨハナンたち

「・・・ウソや! あんたウソついてるやろ! それは神様の計画じゃない! そんなこと言うて、俺たちをバビロンに連れて行こうっていう算段なんやろ。俺たちはエジプト行くもんね!

 

 この後、カレアハの子ヨハナンたちがエジプトでどうなったか、言うまでもあるまい。結局彼らは、口では「良いことでも悪いことでも従います」と格好いいことを言っておきながら、心の中では既に決断をしていたのである。彼らは、「神のみこころを求める」というポーズはとったが、本心では「エジプトに逃げよう」と決心していたのである。

 カレアハの子ヨハナンは、有能な将軍だった。その有能さが仇となった。神のことばより、自分の判断の方が正しいと思ってしまったのだった。

 

 このエピソードから、何が神の「みこころ」で、何が「みこころでなかった」かを判断する時は、慎重に自分の心をチェックしなければならないことが分かる。

 

 

「みこころ」かどうか見分けるポイント

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 では、どうすれば「みこころ」と、そうでないものを見分けられるのだろう。一番カンタンなのは、「みこころ」と言わないことである。どんなことでも神に信頼して、自分のベストを尽くす。これがシンプルかつ最善の方法だ。

 しかし、そうも問屋がおろさない。クリスチャンにとって「みこころ」は超大事。無視できないものである。なので、3つほど、私なりのオススメのやり方を下に示してみた。

 

1:心の動機をチェック

 やはり鍵になってくるのは、「心の動機」である。本当の自分のモチベーションである。

 この「心の動機」は、いわば自分の「良心」である。自分の良心は、本当の心の動機をよく知っている。パウロもこう述べている。

 

律法を持たない異邦人(外国人)が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

(ローマ人への手紙 2:14~15)

 あなたが、「神のみこころだ」と言う時、あなたの「良心」は、チクリとあなたの心を刺してはいないだろうか。または心の中で言い訳をしていないだろうか。自分の心の動機に素直になれば、意外と人間は正しい判断ができるのだ。神はそのように自分の心を判別できるように、人間を造っている。

 

2:聖書の本質からそれていないか

 聖書の言葉は、自分の心を判別する一番のツールである。聖書にこう書いてある。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル 4:12)

 神のことばは、あなたの霊を刺し通し、本当の「心の動機」を見分けることができる。あなたが言う、「みこころ」は、聖書の言葉に基づいているだろうか。もしそれがなければ、少し危ないかもしれない。

 また、あなたが言う「みこころ」は、聖書の本質から外れていないだろうか。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」申命記6:5)、「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」(マタイ7:12)、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:34)という、聖書の本質を実行できているだろうか。もしそうであれば、「みこころ」という印籠を手に、人をこき使ったりはしない。

 教会の中には、「みこころ」を免罪符に、信者たちを奴隷のごとくこき使うところも多い(特にお隣の・・・略)。それは、この聖書の本質から、明らかに外れている。いつも、聖書と実態がズレていないか、チェックが必要だ。

 この際、聖書の言葉を見つけて、「この言葉が与えられた」といって、自分の意見を正当化する人がいる。これは非常に厄介。本物と見分けにくいからだ。聖書の言葉を使っているからといって、「みこころ」だとは限らない。悪魔でさえ、聖書の言葉を使って、イエスを誘惑した事実を忘れてはいけない(マタイ4章)。

 この時もやはり、1番目の「心の動機」が重要になってくる。時系列がカギだ。聖書の言葉を読んで、悟りを得たのか。それとも、自分の思いが先にあって、後から聖書の言葉を取ってつけたのか。この2つは似て非なるもので、本人の「良心」は必ずどちらか分かっている。結局、判別も決断も、最終的には自分の心でしかできないのである。

 

3:怒りなど、「忠告を受け入れない」反応が出ていないか

 周辺が判別できるとしたら、「忠告を受け入れるか」であろう。客観的に見ていて、明らかに「暴走」している場合、周辺の人は当然忠告をする。忠告に対して、どのように反応するかで、相手の「心の動機」を判別できる。

 以下、忠告を受け入れた王様と、受け入れなかった王様の反応の違いを例として挙げる。

 

【忠告を受け入れた王・アマツヤ

(アマツヤは、敵と戦うために、軍隊を招集して、賃金を払った。その時・・・)

すると、神の人(預言者)が彼(アマツヤ)のもとに来て言った。「王よ、イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわちエフライムのいかなる人々とも、ともにおられないからです。しかし、もしあなたが行くのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神はあなたを敵の前につまずかせられます。神には、助ける力も、つまずかせる力もあるからです」

マツヤは神の人に言った。「では、イスラエルの部隊に与えた100タラント(お金)はどうしたらよいのか」

神の人は答えた。「主は、それよりも多くのものを、あなたにお与えになることができます」

そこでアマツヤは、エフライムから彼のもとに来た部隊を、もとのところに帰すために切り離した。

(歴代誌第二 25:7~10)

【忠告を受け入れなかった王・ウジヤ】

(ウジヤは元々、神に従う、良い王様だったが・・・)

しかし、彼(ウジヤ)が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。

すると、彼の後から祭司アザルヤが、主に仕える80人の勇敢な祭司たちとともに入ってきた。彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって言った。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは主の信頼を裏切りました。あなたには、神である主の誉れは与えられません」

ウジヤは激しく怒った。香をたくための香炉を手にしていたが、彼が祭司たちに対して激しく怒ったとき、主の神殿の中にいた祭司たちの前、香の壇の傍らで、彼の額にツァラアトが現れた。

(歴代誌第二 26:16~19)

 

 この2人の反応は、対照的である。忠告を受け入れたアマツヤ王は、冷静に、「では、どうしたらよいのか」と預言者に訪ねた。そして、預言者の言葉にすぐに従った。彼は、忠告を受け入れる心があったのである。

 忠告を受け入れなかったウジヤ王は、激しく怒った。祭司たちの忠告は、正しいものだったのにもかかわらず、激高したのである。その結果、「ツァラアト」という皮膚病になってしまい、もはやそれまでの王としての威厳を失ってしまったのであった。

 私たちの心には「良心」がある。「図星を突かれると人は怒る」とはよく言ったものだ。良心が「みこころではなく、自分で決めたことだ」と分かっている場合、「違うんじゃないの」という忠告の声ほど痛いものはない。結果、激しく怒ったりなど、過剰に、感情的に反応することが多い。冷静に人の忠告を聞けない状態の人の「みこころ」は、どうもアヤシイと言えるだろう。

 

 

「みこころだ」ではなく「みこころだった」と言おう

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 私は「これはみこころだ」という言い方はしない。なぜなら、この地上で起こっていることは、全て「神のお取り仕切り」の中にあるからである。聖書にこう書いてある。

 

だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか」

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ローマ人への手紙 11:34~36)

 この世の全てのことが、「神のみこころ」なのだ! アラ、簡単。私たち人間は、まるで大仏の手のひらで踊る孫悟空のようなものである。全ては神の手うち。この世で起こっている「悪いこと」も、実は神の計画のうちなのである。聖書にはこうある。

 

すべてのものを、主はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた。

箴言 16:4)

 理由はよく分からないが、戦争、飢餓、殺人、事故、災害など、この世の不条理も含めて、全て「神の計画」なのである。

 とはいえ、人間が何もできないわけではない。神は人間に「自由意志」も与えている。私たちは、良いことばかりするロボットではない。人間は、常に決断し続け、行動し続けている。私たちは、自分の行動の報いを受ける。夜にラーメンを食べれば太るし、運動すれば痩せるのである。

 であるなら、私は、未来の話に「みこころ」を用いるのは適切ではないと思う。むしろ、「思い返せば、これはみこころだった」と、過去の出来事に対して使う方が、「みこころ」の使い方として適切だと思う。

 「ああ、あの時は辛かったけど、今思えば、その経験が活きている。あれは、神様の計画だったんだ」「ああ、あの時は絶望していたけど、その経験がなければ、この人には出会えなかった。全て神様の計画だったのだ」。このようなメンタルが、クリスチャンには求められているのではないだろうか。

 クリスチャンは、常に、「イエスならどうするか」を基準に、自分の頭で考え、行動する必要がある。いつも、「神様、あなたの道に従いたいです。聖霊様、助けてください」というマインドで、全力を尽くす必要がある。人事を尽くして天命を待つ、とはちょっと違う。天命にゆだねて、人事を尽くす。これこそが、クリスチャンに求められているマインドではないだろうか。

 

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。

あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。こういうわけで、なすべき良いことを知っていながらそれを行わないなら、それはその人には罪です。

ヤコブの手紙 4:13~17) 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエスNo.3】「現代の箱舟を作りたい」大原昌人(フォト・ダニエル)@会社経営者

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第3段は、大原昌人さん! 

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【Profile】

名前:大原昌人(Masato Ohara)(フォト・ダニエル)

生まれ:1991年

出身:埼玉県富士見市

最終学歴:慶應義塾大学環境情報学部卒業

職業:楽天株式会社 → 株式会社ダニエルズアーク代表取締役社長

仕事HP:PHOTO DANIEL 

 

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今日はよろしくおねがいします。

f:id:jios100:20180816142653j:plain よろしく。出てきた質問には何でも答えるので。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ありがたいです! 男性にインタビューするのは初めてですね。今は、どんな仕事をしているんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 前働いていた楽天を辞めて、「ダニエルズアーク」っていう会社を立ち上げたばかりなんだよね。ちょうど1ヶ月前くらい。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、1ヶ月前?! どんな会社なんですか。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain おいおい話すけど、企業を対象に、撮影の仕事とかクリエイティブ系の案件をやっているよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ほおおお。確かに、いつもハイクオリティな写真をupするのを見かけます。じっくり聞かせてください・・・。

 

 

自信を喪失して・・・

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f:id:jios100:20180702131349j:plain イエスを信じてクリスチャンになったきっかけは何だったんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain  高校までは、とにかく自信満々な子どもで。自分最強くらいの感じで、自分は何でもできると思っていた。でも、高校1年生のときに付き合っていた彼女に突然フラれて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain あちゃー。辛いっすね。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そう。それがキッカケで、心がやたら敏感になって。いつも不安を抱えて生きるようになった。電車に乗るのも、町中で人とすれ違うのも怖くなってたくらい。高校時代は、そういうふうに、もがいていたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そんな時に・・・

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そんな時に、大学のオープンキャンパスに行ってね。慶応じゃなくて早稲田なんだけど(笑)。そこで、クリスチャンの人に声をかけられて。教会に誘われたんだよね。その時は、なんとなく今の自分が知らない世界を見られそうな気がして、全く抵抗なく行ったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 初めての教会はどんな印象でしたか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 教会の空気感とか、いる人たちの雰囲気が、なんだか他と違うなと思ったよね。その頃は1年以上、ずーっと落ち込んでいたんだけど、なぜか教会にいる時だけ心がふわっとつつまれて、解放されるような感覚があった。で、結局、浪人することになるんだけど、その頃から毎週教会に行くようになったかなぁ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それでイエスを信じた。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain うん。自分は結構疑い深い性格で、「宗教は弱いやつが信じるものだ」と思ってたんだよね。だけど、聖書をちゃんと読むと、あれ、これ否定できないなぁと思ったんだよね。あれ、これリアルじゃね? って思い始めて。ちょうどその頃、人生どん底で迷っていて、最終的に人生を神様にかけてみようと思って信じた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 自分最強から、どん底に落ちて、そこからイエスに出会う。ジェットコースターみたいな人生ですね。

 

 

▼ドキュメンタリーに作家にクリエイティブに教会に・・・

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f:id:jios100:20180702131349j:plain そのあと、慶応大学に。

f:id:jios100:20180816142653j:plain そうそう。湘南藤沢キャンパス(SFC)ってとこでね。元々自分は理系だったんだけど、特にやりたいこともなくて。「高校時代に将来やりたいこと決めなきゃいけないの?」って思ってた。だから、理系とか文系問わず、総合的なことを学べるところがいいなと思ってSFCに行ったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学時代は何に力を入れていたんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain ドキュメンタリー制作の研究会に入っていて。あとは、作家の先生のもとで、文章の書き方とかを教わるコースにも通っていた。ガチでやってたのはその2つかな。あとは、個人的な趣味で、Macを広げて、Photoshopとか、Illustratorで作品を作ったりしてたっていうのが大学の4年間かな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うっへぇ、なんでもやってますね。教会生活は?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 教会のウエイトも大きかったよね。教会生活は、ものすごい濃かった。だいたい土日は一日中教会だったな。2011年の震災の時は、トラックで東北に人を送り込んで、軍隊みたいなこともやってたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 結構激しめの教会生活ですよね・・・

 f:id:jios100:20180816142653j:plain ほんとだよね。今思うと、社会人の時にクリスチャンになってたら、あの生活はできなかった。最適なタイミングで神様に出会えたと思うよ。

 

 

▼元々就職活動するつもりはなかった

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 就職活動はどうしたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 元々就活する気はなかったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、そうなんですか。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そう。僕の時は、大学3年生の12月が就活が始まる時期だったんだけどね。12月に入っても何もしてなかった。というのも、大学を卒業したら、教会が運営する「神学校」に入ろうと思ってたんだよね。牧師になろうかなと思っていて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain へぇ。実は私もそうでした。就活に切り替えたのは、なぜですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 教会の牧師さんに、「神学校に行こうと思ってる」って相談したら、意外に、「社会人経験が何もないまま牧師になっても、人生の厚みが薄くなってしまうよね」みたいなことを言われて。自分でも、確かにそうだなと思って。

f:id:jios100:20180702131349j:plain よく言われますよね。

f:id:jios100:20180816142653j:plain そう。で、じゃあ1年は働いてみようかなと思ってね。1年限定で働くつもりで就活を始めたんだよね。12月の後半くらいだったかなぁ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 受ける会社の分野は決めていたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 1年で辞めるつもりだったから、どうせやるならハード目の方がいいかなって(笑)。あまり分野は絞らず、理念とか面白そうだと思った会社は全部、説明会に行ってたよ。で、行っていた学部がネット系に強かったし、自分もMacでいろいろやっていたっていうのもあって、最終的にはインターネット系で、かつ1年で比較的辞めやすいっていう点で、楽天に決めた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 1年で辞めるとは言っていたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain いや、それは流石に言わなかった(笑)。やっぱり、採用コストを考えると、3年で辞めるならまだしも、1年で辞める人は雇わないからね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain さすが、経営者の目線ですね(笑)。面接ではどんな面白エピソードを語ったんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain メインのトピックは、教会生活の話かな。教会でどんなことをしていたとか。みんな、あんまり聞いたこと無いトピックでしょ? だから、興味を持ってもらえたっていうのはあるかな。

 

 

楽天に入社して

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 楽天で最初の配属はどこだったんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 最初は、楽天市場のクリエイティブの部署。「編成部」っていうところに配属された。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 編成部・・・何をするんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 楽天市場のトップページに、セールとか、イチオシの商品とかの企画があるでしょ? あれを作る部署。その時期に何を売り出そうとか。夏だけど、どういうキャンペーンをやろうかとかを考えて、プロジェクト作って、みたいな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain デザインもやっていたんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain いや、自分はテレビ局でいえばプロデューサーとか、ディレクターみたいな立場で。実際の作業はプログラマーさんにお願いして、自分はディレクションするみたいな感じ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 楽天って新入社員からバリバリ働くイメージがありますが・・・

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 本当そうだよ。結構、「入社1年目の社員に、こんなにやらせるの?!」みたいな感じだった。仕事はバリバリやってはいたね。だけど、自分は、仕事の細かさとか、マナーとか、そういうところは弱かったので、その点ではかなり怒られたりしたなぁ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain マナーで怒られるとか、楽天はフラットなイメージがありましたけど、意外ですね。

f:id:jios100:20180816142653j:plain 意外と気にする人は気にするんだよね。コミュニケーションをよくとるとか。仕事のお願いの仕方とか。あとは、リリースするページの抜けや漏れをキッチリ確認しないと怒られたり。それまでは、自分は苦手なことは得意な人にやってもらおうっていう考えだったから、いい訓練になったよ。

 

 

預言者の登場 ~買って応援プロジェクト~

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↑ ダニエル氏提案の「買って応援」プロジェクト

f:id:jios100:20180702131349j:plain 一番達成感のあった仕事は何ですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 一番は、熊本地震があったときのキャンペーン。さっきも言ったみたいに、東日本大震災のときは、自分も現地に行って、バリバリ支援をしていたんだけど、熊本地震の時は、なぜか客観視してしまっていた自分がいたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 分かります。社会人だと、学生の頃より、遠い世界の話だと感じる。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そうそう。で、そのとき、本当にたまにしか教会に来ない人がいてね。半年とか1年に1回くらいしか会わない人。その人がちょうどそのタイミングで教会に来て。その人が、「今、おまえ何もやらないの?」と言われた。「お前、神様の子供だよね」みたいな感じで。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ドンピシャリのタイミング。

f:id:jios100:20180816142653j:plain うん。自分としては、神様が預言者を自分のところに遣わしたと思ったよ。別にその人と仲いいわけじゃないし。その時だけ、なぜか自分に対して強くそう言ってきたから。これは神のおぼしめしだと思ってハッとしたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それでどうしたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain そのすぐあとに、自分に何ができるか考えたんだよね。やっぱり仕事で何かできないかなぁと思った。その時は、楽天市場のプロデューサーの立場だったから、自分で企画を作れると思ったんだよね。そんな時に、熊本を「買って応援する」という店に行列ができたという記事を読んで。それがキッカケで、楽天でも「買って応援」の企画を作ったらどうかと思いついた。それで、パワーポイントに企画をまとめて、三木谷社長楽天市場のトップの執行役員の人にメールで送ったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、三木谷さんにメールを! 行動早いですね。そして大胆。

f:id:jios100:20180816142653j:plain うん。例の預言者が現れた次の日にメールを送ったよ。そしたら、普段社長にメールするなんてありえないんだけど、数十分で社長が返事をくれて。「やっていいよ」と言ってくれた。それで、執行役員の人がいろいろな人と繋げてくれて、「買って応援」のキャンペーンが、その5営業日後くらいでリリースされた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain スピード感がはんぱない!

f:id:jios100:20180816142653j:plain 普通はそういう企画って、楽天でも1~2ヶ月はかかるんだよね。それを1週間で作り上げた。お店とか楽天市場のユーザーから、「今までにないよね」とか、「現地の励ましになるよね」っていう感じで、ツイッターとかで口コミで広がって話題になったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain どういう企画だったんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 楽天市場のすべての商品に対して、1つの商品を買うと、楽天がそれに対して10円分の義援金を出すっていう企画。それがすべて熊本の被災地への義援金になった。1週間で4万3000件以上の商品が売れたよ。しかも、その後Yahoo!が全く同じ企画を後追いでやってきたりして、日本のeコマース(インターネット市場)業界では話題になった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うへーービッグ・プロジェクトになったんですね。

f:id:jios100:20180816142653j:plain マジであの預言者がいなかったらやらなかった。この仕事が認められて、楽天市場MVP賞に選ばれたんだよね。入社2年目の5月だったかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain あの預言者の一言が、熊本に元気を与えただけでなく、仕事の成功にもつながったんですね。神様が働くってすごいパワーですね。

 f:id:jios100:20180816144801j:plain

 ↑ 楽天市場のMVPに選ばれた

 

 

▼「牧師」は目的じゃない

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 結局、楽天では何年働いたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 結局のところ、楽天では3年働いたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 1年で辞めなかった理由は?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 働いてみて、「牧師」っていう肩書きは目的じゃないって気がついたんだよね。人生の路頭に迷っている人たちに、力づくでイエスさまを信じさせることはできないけど、彼らの心にふれることはできる。そういうことをやりたいと思っていたから、牧師を目指したんだよね。で、1年間働いてみて、「あ、これって牧師にならなくても、サラリーマン、社会人でもできるじゃん!」って気がついたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 分かります。牧師じゃなくても、本質的なことはできる。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain ビジネスマンっていろんな幅があって、社会に与えるインパクトも大きいなぁって思ったんだよね。そしたら、「牧師になるぞ」っていう気持ちがだんだんなくなってきて。自分がやりたかった、「人の心にふれる」っていうことは、牧師じゃなくてもできるぞって思った。それが1年で辞めなかった理由かな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 1ヶ月前に楽天を辞めたと。独立に踏み切るキッカケはあったんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain さっきも言ったけど、自分が何をするかは、自分で決めたいっていうタイプなんだよね。だから元々自分で何かをやりたいとは思っていた。

でも、やっぱり一番のキッカケは、「箱舟を作りたい」っていうことかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 箱舟を作りたい・・・??

 

 

株式会社ダニエルズアークを設立 ~現代の箱舟を作りたい~

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f:id:jios100:20180816142653j:plain ある時、本屋でクリスチャンの写真家の本をたまたま見たんだよね。そこに書いてあったことに心を打たれて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 何て書いてあったんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain イエス・キリストは、病人を癒やしたりして、その時代に生きていた人の心にふれた。今の時代は、例えばロックバンドとかが、彼らの曲を通して、飢え乾いている若者の心にふれていると。要するに、アプローチが違うだけなんだと。それ読んで、面白いなと思ったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なるほど。「心にふれる」という本質は同じだと。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain その通り。エスさまの当時の人間の問題は、病気とか飢えだった。でも、現代の先進国では、心に飢えた人が多い。そういう人にとっては、音楽で心をゆさぶる人はある意味「メシア」になる。「心にふれる」という意味では、イエスさまのアプローチと、自分たちのアプローチは違うんだなと思った。だったら、自分ができる「心にふれる」ことは何かと考えた時に、自分はビジネスを通してできるんじゃないかなと考えたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それが「箱舟」と。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そう。今の社会は、企業や社会の固定観念に囚われている人たちが多いでしょ。仕事ってこういうもんだっていう。そういう人たちを、自分の会社で解放していきたいなと思った。新しいビジネスを生み出すって、ある意味でイエスさまがしたことと、同じじゃないかと。だから、「囚われていた人たちを解放する」という意味での「箱舟」を作りたいなと。社名はそこから来てる。「株式会社ダニエルのはこぶね」っていうのも最後までアリかなぁと思っていたよ(笑)。結局、「株式会社ダニエルズアーク」になったけど。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なるほど、「囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ」と聖書に書いてあるとおりですね。

 

 

会社を立ち上げて

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↑ 今までのお仕事で作ったポスター

f:id:jios100:20180702131349j:plain 会社はすぐ立ち上げたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 楽天を辞める前に、半年ぐらいよく考えて、しっかり準備もしたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 準備とはどういう?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 例えば、ウェブとか写真を仕事にしたときに、マネタイズ(利益になる)できるようにする準備。仕事にできるようにする下準備かな。実績づくりとか、サンプルづくりとか。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 会社はどんなことをしているんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 最初チラっと言ったけど、ウェブデザインとかクリエイティブ系のことから、写真撮影の案件とか、いろいろ。主に企業を対象に、セミナーとか座談会の撮影とかも請け負っているよ。まだ会社が始まって1ヶ月くらいだし、まだまだこれから。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 気になってたんですけど、なんでニックネームが、「フォト・ダニエル」なんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain それは、楽天にニックネームで呼び合う制度があったからだね(笑)。自分は、神様を優先するっていうダニエルの生き様が好きで。この神様が本物だと他の人にも思ってもらえるように、ダニエルをニックネームにした。

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今後のビジョンは?

f:id:jios100:20180816142653j:plain ちゃんと売上のベースを作って、この箱舟にもっと人を載せていくことかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 人を雇いたいと?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 「雇う」っていう言い方も自分はあんまりしっくりきてなくて。一緒にやりたいことをやって遊んで、それで利益出していこうっていう感じかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今は起業したわけですけど、1回会社に入ったのは経験としてどうでしたか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain それも、めちゃめちゃ良かったと思う。特に、「あ、人ってこういうことで怒るんだ」ってわかった(笑)。今までは、自分の価値観しか知らなかったけど、他の人はこんな考え方をするんだって分かって良かった。あとは、ビジョンだけ掲げても、人はついてこないんだなって体感できたことかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain へぇ。人はビジョンじゃなくて、何で動くんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain ビジョンじゃなくて、こいつだったら仕方がないな、という人間関係で人は動く。信頼関係。例えば、配慮して根回しをしておくとか。人は偉大なビジョンについていくんじゃなくて、「こいつがこう言ってるからしょうがないな」という感じで、ヌルヌルと動くものなんだって学べた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なるほど・・・僕も勉強になります。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 今までは、偉大なビジョンを掲げれば、勝手に人はついてくると思ってたんだけど、それじゃあ人は動かないって学べた。それは会社に入ってなかったら学べなかったなぁ。

 

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↑ ダニエルズアークでは、こんな美しい写真作品もお願いできちゃうゾ!

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に、いつも握っている聖書の言葉があれば教えてください。

f:id:jios100:20180816142653j:plain 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたの正しさを、真昼のように輝かされる」

詩篇 37:5~6)

神様に道をゆだねたとき、神様の光がこの世の中に表れるっていうイメージがいつもあります。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 神様にゆだねて進んでいる姿を見て励まされました。僕の心は既にふれられました・・・。ありがとうございました。

 

ダニエルさんのHPはこちら!
PHOTO DANIEL

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】「とりあえず伝道師」そろそろやめてみませんか?

神学校を卒業した人は、すぐに「牧師」にならずに、「伝道師」となるケースが多いそうです。なぜなのでしょうか?

 

 

 ▼「とりあえず伝道師」

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 「牧師になるには、どうすればいいの?」よくある質問のひとつだ。私は、「日本には牧師という国家資格はないので、今すぐにでもなれますよ」と答える。実は、牧師になる明確な条件、資格などない。団体に所属する牧師になりたいのであれば、各団体の基準があるだろう。特定の学校を卒業するのが条件だったり、特定のトレーニングを受けるのが条件だったりする団体もある。団体に所属しない教会などでは、独自の基準があったり、逆に全く基準がなかったりもする。

 では、聖書には何と書いてあるのだろうか。実は、何も書いていない。牧師の資格など、どこにも書いていない。もし、「牧師」を「監督者」や、「執事」と捉えるならば、明確な基準が聖書に書いてあるが、それは別の機会に書く。

 一般的なケースは、牧師になる前に、「神学校」という学校で一定期間、勉強をするというものだ。2~4年間くらい、神学校で勉強をする。卒業してから、さぁ牧師になろうというのが、よくあるパターンだ。

 しかし、神学校を卒業しても、すぐに牧師になるわけではない。どこかの教会に行って、「伝道師」となるケースが大半だ。この「伝道師」というポジションがクセモノで、別に「伝道」をするわけではない。牧師ではないのだが、なんちゃって牧師みたいな、サポート的な立場になるのが一般的だ。いわば、「ディレクター」になる前に、「AD」の仕事をやらないといけないような感じだ。

 「伝道師」は、牧師ではないが、牧師っぽい立ち位置になる。教会の若者たちの担当になる場合も多い。肩書は「伝道師」なのだが、伝道がメインの仕事ではない。私は、この伝道師を「とりあえず伝道師」と呼んでいる。

 この「とりあえず伝道師」は、すぐに牧師にならない。いや、すぐに牧師になってはいけない空気感がある。私は、この「とりあえず伝道師」はもう時代遅れだと思う。即刻やめた方がいいと思う。その理由を、これから簡潔に述べる。

 

 

▼そもそも牧師と伝道師は別の役割

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 「伝道師」は、「牧師」になる前のステップなのだろうか。言い換えれば、伝道師より牧師の方が格上なのだろうか。聖書が何と言っているか見てみよう。

 

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

(エペソ人への手紙 4:11~12)

 (※少し横道にそれるが、そもそも、「牧師」という単語は、この部分の1回しか聖書に出てこない。しかも、「牧師」というのは意図的な誤訳で、本来は「牧する者」という意味であるから、「牧者」または「羊飼い」が正しい。「伝道者」は「師」ではなく「者」となっている。同様に、「教師」も本来は「教育者」とすべきである。当記事では、今後、「牧者」と「伝道者」と表記する)

 

 この箇所から、「教会」と名付けられた共同体には、大きく分けて5つの役割があるとされている。順番に、使徒」「預言者」「伝道者」「牧者」「教育者」である。これを、いわゆる「五職」と呼ぶ。

 ただ、最後の「牧者」と「教育者」はひとつの役割だという意見もある。「使徒」「預言者」「伝道者」「牧者+教育者」の「四職だとする見解だ。確かに、ギリシャ語を見ると、その主張には根拠がある。それぞれの役割をつなぐ接続詞には、全て「and」という意味での「デ(de)」という単語が用いられている。しかし、「牧者」と「教育者」をつなぐ部分のみが、「デ」ではなく、「カイ(kai)」という単語を使っている。「カイ」は「and(~も)」にもなるが、「also(~であり、また)」という意味もある。

 この部分のギリシャ語が全て並列の関係ならば、全て「デ」を用いれば良いのに、最後だけ「カイ」を使っているのである。その意図を考えると、「牧者であり、また教師でもある」と解釈した方が正しいかもしれない。

 

 話を元に戻すと、「五職」だろうが、「四職」だろうが、「牧者」と「伝道者」は、本来は違う役割なのである。「伝道者」は、「牧者」になるためのステップとしてのポジションではない。もしそう考えているならば、明確な間違いだ。

 

 

▼「五職・四職」とは

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 「五職・四職の内容については、多少議論がある部分なので、詳細は語らないが、だいたい以下である。当然、異論があるところもあるが、参考にしていただきたい。

 

使徒

神の特使。狭義の使徒は、イエスの12人の弟子+マッテヤ。イエスが12人の弟子たちを、「使徒」と名付けたところが起源。12弟子ではないパウロは、自身を「使徒」だとした。広義としては、福音をあますところなく述べ伝え、リーダーを育成し、教会を生み出していく働き。現代用語では、起業家、開拓者、創始者、コーディネーター。

預言者

神のことばを伝える役割。未来を予知する「予言」とは違い、神の意思を地上で明らかにする役目。広義の預言は、聖書のことばを解説することも含むとされる。「預言」は唯一、誰もが行うことのできる賜物として聖書に明記されている(1コリント14:31)。

【伝道者】

聖書に直接の記述が少ないが、神の道を伝える人。福音を伝える人。エチオピアの宦官に聖書の解説をして、イエスの福音を伝えたピリポは、伝道者と形容された(使徒21:8)。

【牧者】

羊飼いの意味である。イエスは、ついてくる者たちを羊に例えた。そこから、教会の共同体においては、集っている一人ひとりのことを指す。その一人ひとりをケアし、正しい道へと導き、攻撃から守るのが牧者である。現代用語では、カウンセラーのような役割である。

【教育者】

共同体の中で、知識的に教育をする役割である。知識的な部分においても、霊性の部分においても、人間性の部分においても、共同体の一人ひとりを教え、訓練する役割である。多くの場合、「牧師」はこの「教育者」の役割にエネルギーを割いている。

 

 「五職・四職」の役割の違いは、だいたい、こんなところである。こう見ると、「牧師予備軍」の人々が「伝道師」として教会に飼い殺されるのは、ちゃんちゃらおかしい話なのである。この役割の違いすら分かっていない。「伝道師」となるならば、文字通り、「伝道者」の役割を果たさなければならない。それは決して、牧師への準備期間や、訓練期間、ステップアップのための期間、役割ではない。

 イエスを信じるクリスチャンが、もし職業として「牧者」や「伝道者」を目指すならば、この「五職・四職」の役割の違いを意識すべきだ。記者になりたい人は、記者の訓練をする。ドラマのプロデューサーになりたい人は、ドラマの現場で修行を積む。記者になりたい人は、ドラマのADはやらない。それぞれが目的に沿った訓練をしなければ、2テモテ2章に書かれるような、「熟練した者」にならない。

 

 ただ、パウロは自身を「宣教者、使徒、また教師として任命された」と語っている(2テモテ1:11)。このことから、複数の役割を1人が担うことも可能だと分かる。ゆえに、「伝道者でもあり牧者でもある」というのであれば、「とりあえず伝道師」は、あながち間違いではない。

 しかし、そんなパウロみたいなスーパーマン、そんなに存在しない。現実の教会を見ると、両方をしっかりやろうというモチベーションのある人が、どれだけいるだろうか。ほとんどの人が、牧師へのステップアップとして伝道師の役割を捉えているのではないだろうか。

 私は、完全に「教育者タイプ」の人が、無理をして「カウンセラー」をしているパターンや、逆に「カウンセラータイプ」なのに、無理をして「教育者」になろうとしているケースをたくさん見てきた。それは、リーダーにとっても、共同体の一人ひとりにとっても、全員不幸である。説教が下手でもいいが、下手なら他の上手な人にゆずって、カウンセラーとしての役割をまっとうすればいいのに、なぜ一人で全部やろうとするのだろうか。

 聖書が違う役割として説明しているものを、ないがしろにはしていないだろうか。

 

 

▼人手不足の牧師業界

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 私が、「とりあえず伝道師」をやめようというのには、もうひとつ理由がある。それは、圧倒的な牧師不足の現状である。2014年の国際宗教研究所の統計によると、日本の牧師の42%が65歳以上。23%が71歳以上である。つまり、2018年の今、少し乱暴に数えれば、約65%の牧師が70歳以上なのだ。日本人の平均寿命は83歳。あと10年、15年もすれば、半分以上の牧師がいなくなってしまうのである。(参考:国際宗教研究所「現代宗教2014」)

 日本基督教団の教会は日本全国で約1700。そのうち担当牧師が1500。すでに教会の数より、牧師の数が少ない。そのうち半数以上があと10年~15年でいなくなる。日本のキリスト教会は、絶望的な牧師不足に陥っているのである。

 そんな人手不足の中、なぜ、「とりあえず伝道師」にならなければいけないのか。準備が必要? その準備のために、神学校で2年も3年も4年も勉強するのではないか? 神学校は、大学院的な位置づけのところが多い。大学卒業して22歳。その後、神学校に2~4年行ったとして、24~6歳。その後、一体何年「とりあえず伝道師」をすれば牧師になるのだろうか。結局、牧師になる頃には、30代。家族がいる。飯を食わさなければならない。現実的に、牧師にならない、なれない。こうして、人手はどんどんどんどん不足していくのである。

 人手不足なのに、牧師になろうとすると、やれ、「神学校行かないといけない」、やれ、「何年、伝道師やらなきゃいけない」と周りが言う。そこまでハードルを上げられると、「じゃあ別の道に行こうかな」となる。牧師不足の現状を生み出しているのは、なりにくい制度そのものなのではないだろうか。人手がほしいなら、ハードルを下げる。条件をよくする。世の中では当たり前の話が、なぜクリスチャン界では通用しないのか。理解に苦しむ。

 

 

▼完璧な牧師などいない

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 ここまで言うと、「訓練されていない人が、いきなり牧師になるなんてありえない!」というヒステリックな声が聞こえてきそうだ。ちょっと待ってほしい。そんなことは言っていない。私も、共同体の中の重要な役割を担う人は、それなりの訓練が必要だと思う。

 聖書には、こう書いてある。

 

あなたは努めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。

(テモテへの手紙第二 2:15)

 先にも述べたが、「ふさわしいと認められる人」の部分が、新改訳聖書第三版では、「熟練した者」となっている。これは、パウロが弟子であるテモテに対して送った手紙の内容だ。テモテは、まだ若手のリーダーだった。若いなりに、苦労があったのだろう。パウロは、こんな励ましの言葉をテモテに送っている。

 

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12)

 パウロは、「若さを不完全さの言い訳にするな。むしろ、熟練した者として、みんなの模範になれ!」と、厳しい言葉で、テモテのケツを叩いたのであった。これを見ると、答えは明瞭だ。リーダーにとって、若いとか年寄りとか、年齢が重要なのではなく、知識において、人間性において、どれだけ訓練され、練達しているかが重要なのである。

 だから、教会の中の役割を担う人々に、訓練は必要なのである。問題は、「神学校がその訓練となっているのか?」「とりあえず伝道師になることが、訓練になるのか」というポイントである。私の個人的な意見では、全く訓練になっていないと思う。ただただ、眠たい授業を我慢する、自分の意見を飲み込んで我慢する、無駄な時間になっているのではないだろうか。(我慢の訓練にはなっているのかもしれないが・・・)

 ほとんどの場合が、「まだ若いから」という理由で、牧師ではなく、伝道師として飼い殺されてしまっているのではないか。若い時の情熱やエネルギーが削がれ、牧師になる頃には、すっかりツマラナイ人間になってしまう。そんなケースを、私は何度も目にしてきた。

 どのようにして、人は練られていくのだろうか。どのようにして人は成長するのだろうか。人は、人との関係の中で成長するのである。「五職・四職」を神が立てたという箇所の続きは、こうなっている。

 

キリストによって、からだ全体(教会の共同体のこと)は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:16)

 共同体の中で、「五職・四職」のリーダーたちが、一人ひとりをそれぞれの役割に従って「整える」。そうすれば、「キリストのからだ」と例えられる共同体が、その中の一人ひとりが働き合い、支え合っていくことで、お互いに成長していくのである。

 つまり、何が言いたいか。神学校に行くことや、伝道師の肩書きを持つことが、人を成長させるのではない。机にかじりつくことが人を成長させるのではない。人から「先生」と呼ばれることが人を成長させるのではない。人と人の人間関係において、人は成長していくのである。それは、教会の中でも同じである。

 私は、年が若くても、どんどん「牧者」になればいいと思う。同じように「預言者」「伝道者」「教育者」になればいいと思う。完璧な牧者などいない。完璧な伝道者などいない。知識は、やりながら増し加えられる。人と関わっていけば、おのずと成長していく。何事も、トライ&エラー。なぜ、足踏みをしているのか。神学校に行って、信仰的に落ち込む人をどれだけ見てきたか。「とりあえず伝道師」になって、素晴らしかった情熱を失ってしまい、イヤミな人間になってしまった人を、どれだけ見てきたか。なんと悲しいことだろうか。

  もちろん、何でもかんでもOK! となってしまうリスクがあるという指摘はある。その懸念は分かる。しかし、「とりあえず伝道師」を卒業して「牧師」になった人も、失敗はするし、完全ではない。だったら、早いウチに始めた方がいいのではないだろうか。教会のリーダーの役割を担う人々は、よく自分の心を見張り、ほかのクリスチャンの仲間や、リーダーの仲間たちの心をチェックし合う必要がある。

 現行の牧師になるシステムは、少しハードルが高すぎると思う。教会の中に人が何千人もいて、人手が余って余ってしょうがないのであれば、今のシステムは分かる。経済的援助も楽だろう。アメリカや韓国ではうまくいくのかもしれない。

 しかし、日本は状況が違う。圧倒的にマンパワー、経済力が足りない。私は、今のような「牧師」の考え方では、いずれこのシステムは破綻してしまうと思う。しかも、相当近い将来に。職業としての牧師や伝道師のあり方、教会のあり方を、見つめ直さなければならない時代になっているのではないだろうか。

 

 

▼牧師とか伝道師とかいう肩書きはオマケ

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 では、どういうあり方がいいのだろうか。私が個人的にオススメしたいのは、「もう肩書なんてオマケだよ」と思うことである。どんな仕事をしていても、どんな立場であっても、「牧者」としての働きはできる。「伝道者」としての働きはできる。それが当たり前になれば、人手不足は解消する。「献身者」と「一般信徒」、「直接献身」と「間接献身」、「伝道師」と「信徒伝道者」などという、くだらないラベリングは、もういい加減やめたらどうだろうか。

 クリスチャンは、それぞれが神から与えられた能力がある。よく、「賜物」とか「ギフト」とか言うのがそれだ。それぞれが、自分がどのタイプか考えて、神のために生きていく。自分が「使徒タイプ」だと思えば、教会やミニストリーや会社、団体をどんどん立ち上げていけばいい。「預言者タイプ」だと思えば、神からの示しを求めたり、聖書の難解な箇所を解説すればいい。「伝道者タイプ」だと思えば、イエスの素晴らしさ、恵みの福音を、会う人、会う人にどんどん伝えていけばいい。「牧者タイプ」だと思えば、人の話をよく聞いて、導くカウンセラーになればいい。「教育者タイプ」だと思えば、いいカリキュラムを作ったり、教壇に立って教えればいい。

 この素晴らしい福音、イエスの素晴らしさを、共に喜び、ともに建て上げていく。肩書きなんてオマケだ。大切なのは、その中身の働きなのだ。別に、他の仕事をしていても、その働きはできる。

 最後に、私が感動した、ある人の言葉を紹介しよう。詳細は、来週アップする予定の職業インタビュー記事(就活イエス)でご覧いただきたい。

 

エスさまは、人々を癒やすことを通して、当時の固定観念に囚われている人たちの心にタッチして、彼らの心を解放した。

僕は、自分の会社を立ち上げることによって、社会の固定観念に囚われている人たちの心にタッチして、彼らを解放したい。

(ー株式会社ダニエルズアーク代表取締役社長 大原昌人)

 

 人の心に触れるのは、別に「牧師」という職業でなくともできるのだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【旅行記】イスラエルで見た聖書<ナザレ村>

イスラエルに一度足を踏み入れてみてください。聖書の世界がビビットになりますよ。

 

▼なぜイスラエル

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 読者のみなさんは、イスラエルに行った経験はあるだろうか。イスラエルに行く前と後では、聖書の読み方が変わる。イスラエルには、聖書にある地名がそのまま残っている。読み飛ばしていた片仮名の地名が、目につくようになる。その情景、温度、空気、匂い、地理感覚が分かるようになる。曖昧模糊だった聖書の世界が、ビビットになる。まだイスラエルに足を踏み入れていない方には、ぜひその一歩を踏み出すよう、オススメしたい(実は飛行機、10万円前後で行ける)。

 先週、私は1週間ほどイスラエルに旅行に行った。1年の留学をしていた頃から、実に5年ぶりだったが、やはり何度行っても面白い。今回は、新たなに訪れた「ナザレ村」について書く。

 

 

▼ナザレ村って一体何?!

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 ナザレというと、キリスト教をかじったことがある人は、ナザレのイエスというフレーズを思い出すだろう。そう、ナザレとはイエスの出身地である。あれ? 生まれたのはベツレヘムでは? と思う人がいるかもしれないが、生まれた町と「出身地」は違う。例えば、私は、長野県立科町で生またが、幼少期に育ったのは同県小谷村。現在、実家は東御市というところにある。同じようにイエスベツレヘムで生まれたが、実は幼少期をエジプトで過ごし、その後、家族とともにナザレに住んだ。イエスは生涯の大半をこのナザレで過ごしたのであろう。当時は名字はなかったため、「どこどこの誰々」というのが通称だった。さしずめ「ナザレ村のイエスさん」ということであろう。

 このナザレという町、今でも存在する。イスラエルの北部に位置する町だ。実は、今はアラブ人の町となっていて、8万人ほどが住んでいる、ムスリムもいれば、クリスチャンもいる、比較的多様な町である。

 ナザレの中心部から10分ほど歩いたところに、「ナザレ村」という場所がある。え? ナザレが2つあるの? そういうことではない。1世紀頃、ちょうどイエスがこのナザレにいた頃を再現した、いわば「博物館」のようなものだ。このナザレ村、今回始めて訪れたのだが、驚くほど聖書、キリスト教のエッセンスが詰まっている。いくつか、面白かったものを紹介しよう。

 

 

▼ロバの道 〜ナビとしてのロバの存在〜

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 ナザレ村に入ると、まずロバたちが出迎えてくれる。

 ナザレに限らず、イスラエルは山の斜面の上に町が建てられていることが多い。エルサレムやハイファも、山の町だ。車で行くと、細い坂道ばかりで、「なんでこんなところに道を作ろうと思ったの?!」と不思議になる。実は、ロバが道を作ったのである。

 そのような山の町々は、古代から建てられていた場合が多い。その際に、欠かせなかったのはロバだった。ロバは、本能的に山の斜面で、登りやすく、一番合理的な道を見つけ出す名人だ。いわば、ロバはその時代の「グーグルマップ」だった。人々は、ロバに導かれ、山の上に町を作ったのであった。

 ロバが道案内をしたという、面白い記述が民数記22章にある。説明を聞きながら、その情景を思い出した。バラムという預言者が、バラクという王様(ややこしい。私は「オバマが王様」と覚えている)に、イスラエルの民を呪ってほしいと依頼される。はじめは断っていたが、贈り物など、次々と好条件を出された預言者バラムは、ついにロバに乗ってバラク王に会いに行く。その道中で、ロバは神の使いが道をふさいでいるのを見て、止まろうとする。神の使いが見えなかった預言者バラムは、「なぜ行かないのか」とロバを叩く。するとロバが喋りだし、「なぜ私を打つのですか」と叫ぶ。その後で、神がバラムの目を開き、バラムはロバが正しく、自分が間違っていたことを知る。そんなストーリーである。そのようなエピソードは、きっとロバが人の道案内をするという常識から生まれたのであろう。他にも、イエスがロバの子に乗って、エルサレムに入場する象徴的なシーンなど、ロバは何回か聖書に登場する重要な動物である。

 

 少し進むと、今度は羊たちと出会う。

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 羊は、聖書の中で最も言及が多い動物ではないだろうか。よく、エスは「羊飼い」に、信者たちは「羊」に例えられる。羊は、目が悪い動物だ。ほとんど見えない。盲目である。その代り、耳が発達していて、よく聞こえる。イエスは、こういうたとえ話をしている。

 

あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

ヨハネ福音書 10:26~27)

 エスは、自分の教えに従う人々を、羊飼いの声に従う羊になぞらえた。そのとおり、羊は目が見えない弱い動物だが、羊飼いの声を聞き分けられるのだ。良い羊は、羊飼いのそばにいることが一番安全だと知っているのである。他の人間が声マネをしても、ついていかないというから驚きである。

 また、聖書の中の「詩篇」にはこんな台詞もある。

 

主(神)は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。(中略)たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖。それが私の慰めです。

詩篇 23:1~4)

 なるほど、イエスはこの詩篇の記述を念頭に、先のたとえ話をしたのかもしれない。

 しかし、ひとつ疑問がある。「ムチと杖」が慰めとはどういうことだろうか。まさか、これを歌った詩篇の作者に「Mの気」があったわけではあるまい。この疑問は、羊飼いがどのように羊を導き、守ったかを知ればすぐに解決する。

 羊は目が見えない。では、羊飼いはどうしたかというと、道からそれそうになった羊を、杖をつかって矯正し、正しい道に導いたのだ。杖は、羊を正しい道に導き、崖から落ちないように守った道具だった。

 ムチはどうだろうか。ムチは、羊を襲う動物を追い払うための道具だった。敵を追い払い、羊を守るムチ。危険から守ってくれるムチは慰めであった。なるほど、しっくりくる。

 

 ナザレ村には、残念ながらヤギはいない。なぜなら、ヤギは言うことを聞かず、飼うのが難しいからだそうだ。エスが従順な人を「羊」に、強情な人を「ヤギ」にたとえた話を思い出す。

 他にも、動物を使ったたとえ話は枚挙にいとまがない。ロバや羊などの動物は、この時代の人たちの生活に、密接に関わる動物だった。聖書の中で何度も登場するのは、その時代の人々にとって、とても身近な、イメージしやすい存在だったからである。現代の私たちは、聖書をより深く理解するために、その動物の特徴や性格をよく知り、学ぶ必要がある。

 

 さて、町といっても、当時のナザレは数百人が住む小さな村だったと考えられている。そんな小さな村で、人々は何をしていたのだろうか。

 

 

▼ワイン踏み場と物見やぐら 〜イエスのたとえ話のリアリティ〜

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 羊とバイバイすると、大きな岩場が見えてくる。実は、この岩、1世紀の「ワイン・プレス」の遺跡なのだという。ワイン・プレスとは、「ぶどう踏み場」とも訳せばよいだろうか。ぶどうの実を収穫し、それを足で踏みつけて、ワインを作るための果汁をしぼるための場所である。1世紀は機械などもちろんないので、岩場にくぼみを作り、人の足で踏みつけて果汁を採っていた。

 その隣には、ワインづくりを見守る「物見やぐら」がある。当時の人々にとってはワインは、水と同じくらい大切なものだった。日常的に飲んでいたと考えられている。聖書の中でも、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい」(テモテへの手紙第一 5:23)と書いてあるくらいだ。

 そのワインづくりを見守り、泥棒や野生の動物から、ぶどうを守る役目を担っていたのが、「見張り人」であった。彼らは、交代で「物見やぐら」にのぼり、ぶどう畑や、ぶどう踏み場を監視していたのだった。

 ナザレ村にある畑は、ぶどう踏み場の遺跡以外は再建したレプリカだ。しかし、当時の様子をイメージするのに役立つ。イエスのたとえ話でも、このような記述がある。

 

それからイエスは、たとえで彼らに話始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした・・・

(マルコの福音書 12:1~2)

 垣根、踏み場、見張りやぐら。全て、ワインづくりに欠かせない、当たり前の畑の風景だった。なるほど、こうして見ると、エスのたとえ話は、いかに当時の人たちの生活になじんだものだったのかが分かる。エスは、実際に自分が目にしたもの、じっと見つめ、自分の手で触ったもの、体験したものを中心に、ストーリーを組み立てていったのであろう。

 

 

▼コミュニティセンターとしてのシナゴーグ

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 さらに奥に進んでいくと、ひとつの建物がある。シナゴーグだ。日本語の聖書では、「会堂」と翻訳されている。ヘブライ語では「ベイト・ハ・クネセト」という。

 ナザレ村にあるシナゴーグは、そんなに大きくない。バスケットコートの半分くらいの広さだ。このシナゴーグは、今日のように土曜日(安息日)の集会にも使われたが、それ以外にも、教育や裁判など、地域のあらゆる行事のために使われていた。いわば、コミュニティセンターのような役目を担っていたのだ。

 イエス自身も、このコミュニティセンターとしてのシナゴーグで何度も教えた。山上の説教などが有名だが、実はイエスはほとんどの教えをこのシナゴーグで行ったと考えられている。パウロなど使徒たちも、基本的にはこのシナゴーグで教えていた。

 写真にある巻物は、イエスが読んだある箇所を想起させる。この場所である。

 

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために」イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。

(ルカの福音書 4:16~22)

 

 イエスが読んだのは、旧約聖書の「イザヤ書」の61章の記述である。イエスは、土曜日(安息日)にこの聖書の巻物を皆の前で読み、「私が旧約聖書で預言されていたメシア(救い主)である」と宣言したのであった。

 ナザレの人々は、「これは素晴らしい教えだ」と最初は受け入れた。しかし、イエスがすぐ後に、ユダヤ人だけでなく、外国人にも神の恵みがあると言い始めた途端、ナザレの人々は怒り、イエスを殺そうとした。「崖から突き落とそうとした」とルカの福音書4章にある記述は、当時よくある処刑のスタイルだったらしい。両手を縛って、逆さにして頭を打ちつけるように落とす。崖といっても、身長より少し高いくらいの低い崖だったようだ。それでも死なない場合、上から岩を落としてトドメをさす。これがいわゆる「石打ち」である。この説明を聞くまで、いくつもの石を投げつけて殺すのかと思っていたので、少しイメージが変わった。

 イエスは、彼らからどうにかして逃れて、ガリラヤ湖畔のカペナウムという村に行った。そこで、またシナゴーグに入って人々を教えたのであった。今回の旅では、ナザレからガリラヤ湖まで運転したのだが、意外に遠くて、1時間弱かかった。その道を歩いていくのは、結構な労力だったであろう。

 

 また、このシナゴーグの天井を見ると、いわゆる「からぶき屋根」になっている。

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  イエスがカペナウムという町の家にいたとき、群衆が押し寄せて、あまりの人の多さに入れなかったため、人々が屋根をはがして病人をイエスのもとに吊り降ろしたという有名な話がある(マルコの福音書2章)。日本の瓦屋根の常識からいうと、「屋根をはがすなんてえらいこっちゃ!」と思うのだが、この当時の屋根は、このような「からぶき屋根」で、土とワラを混ぜて作ったようなものだった。イスラエルは乾燥地帯だが、秋から冬にかけては雨も降るので、土が固まって、いい屋根になるのだそうだ。このような福音書の記述も、当時の常識で考えないと、深い理解ができないのかもしれない。

 

 

▼オリーブ搾り機 〜3度祈る意味〜

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 イエスは、「良い麦と毒麦」のたとえ話もしている。良い麦に毒麦が混ざってしまったので、収穫の時まで待てという話である。これは、世の終わりを示したたとえ話である。

 毒麦と良い麦は、成長しないと違いがわからない。写真の手前が、実がなる良い麦。奥の茶色いのが毒麦だ。良い麦は、実を結ぶと、その重さで頭を垂れる。実を結ぶと、おのずと頭を垂れて、謙遜な姿になることの証とされている。早稲田のシンボルマークもそんなような意味だったような・・・(笑)。

 

 さて、ナザレ村の奥の方に、作業場がある。作業場の隅には、私が個人的に一番印象的だったものがある。オリーブ絞り機だ。

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 この機械の奥に、オリーブを袋につめて置く。オリーブは一気に絞るのではなく、重さを変えつつ、3回に渡って絞るという。面白い。

 1度目は、優しく、少ない力で絞る。このとき採れる油は、とても上質な油。イエスが女性に油を注がれたシーンがあるが、その時の油である。イスラエルでは、王様に任命する際に、この油を頭から注ぐ習慣があった。そのような儀式で使う油が1つ目の油である。

 2度目は、手前の3つの重りをつけて、ある程度の負荷をかけて絞る。その時採れた油は、食用の油になる。オリーブオイルは、当時の生活にはなくてはならないものだった。

 3度目、最後は、もっと重りを重くして、かなりの力をかけて絞る。オリーブはカスカスになっているが、まだまだ油は絞れる。このときの油は、イメージするような輝く緑色ではなく、赤黒い色をしているという。この油は、灯りをともす燃料の油になる。イエスのたとえ話でも、この油を持って花婿が来るのを待っていた侍女たちが登場する(マタイ25章)。

 

 面白いのが、この3度という回数だ。イエスは、ゲッセマネの園で、神に3回祈った。十字架で死ぬことから免れるよう、祈っていたのである。3度目に祈ったときに、血のような汗が流れたと聖書に記述がある。オリーブを3度目に絞るときは、赤黒い油が採れるというから、興味深い。しかも、ゲッセマネという単語は、「オリーブ絞り機」(ガット・シュムニームという単語が由来だというから、さらに面白い。

 実は、この3度という数字は、聖書では大切な意味がある。何度も登場する。ペテロは、イエス3度「知らない」と言った。イエスは、ペテロに3度「わたしを愛するか」と聞いた。パウロは「自分のとげ」を取り去ってくださいと神に3度願った。ペテロは3回ユダヤ人が食べてはいけない食物を入れた風呂敷が下がってくる幻を見た。サムエルは3回神様からの呼びかけを聞いた。ルツはナオミに3回「帰りなさい」と言われたが拒んだ。ユダヤ人は3回まで他人の間違いを許せと言われていた、などなど・・・。3回という数字は、聖書の中にたくさん出てくる。

 この3回という回数が、数学的な量を表す3回なのか、それとも聖書でよくある、ある一定の「繰り返し・段階」を意味する、意味合い、象徴としての3回なのか。これについては、様々意見がある。しかし、このように当時の文化の中にあった3回という数字を、聖書の中の数字と関連付けて考えてみると、興味深い事実がたくさん見えてくる。

 

 

ミニストリーとしてのナザレ村

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 このように、「ナザレ村」では、1世紀当時の暮らしを、耳で聞いて、目の前でじっと見て、触って、体験することができる。ただ、このナザレ村、イスラエルにある他の博物館とは少し、毛色が違う。ガイドのお姉さんが、最後にこんな台詞を言っていたのが印象的だ。

 

この「ナザレ村」は、ただの博物館としてやっているわけではありません。ビジネスでもありません。これは、ミニストリーとしてやっているのです。 〜ナザレ村のお姉さん〜

 

 ミニストリーというのは、イエスのことを少しでも伝えたい、という思いからなされる様々な活動のことを指す。このナザレ村の目的は、1世紀の暮らしをそのまま伝えることではなく、聖書をより深く理解して体験するため、なのだ。ゆえに、ナザレ村の多くがレプリカであり、本物の遺跡ではない。本物なのは、ぶどう踏み場と動植物だけだ。あとは、体験のためのレプリカである。正直、ビジネスとしての博物館的なクオリティを期待していくと、物足りないかもしれない。しかし、ガイドの解説は、他のどこよりも聖書の記述に基づいている。ひとつひとつは細かいことかもしれない。しかし、聖書の細かなニュアンスが、よく分かるようになる。だから、「ミニストリー」という言葉がしっくりくる。

 聖書の世界を、耳で聞いて、実際にじっと目で見て、自分の手で触って、体験できる。そんなナザレ村に、ぜひ足を運んでみてはどうだろうか。

 

www.tripadvisor.jp

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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【就活イエスNo.2】「仕事場はミッションフィールド」ユジナ・ファング@医療機器の輸入販売会社勤務

「就活イエス」第二弾!

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの「就活」、「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。 

シリーズ第2弾は、ユジナ・ファングさん!

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【Profile】

名前:ユジナ・ファング(Eugena Fung)

生まれ:1987年

出身:アメリカ合衆国インディアナ州

最終学歴:米コーネル大学経済学部卒業・鍼灸の専門学校卒業

職業:漢方薬会社・安全管理

医療機器の輸入販売会社・安全管理責任者

 

 

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 今日はよろしく!

f:id:jios100:20180729110848j:plain よろしくー。ワタシ、話長いから。気をつけて! 

f:id:jios100:20180702131349j:plain そんな感じしてました(笑)。長いストーリーを短くするのは僕の仕事なのでおまかせを!

f:id:jios100:20180729110848j:plain さすが~。でも悪口は書いちゃダメだよ!!

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは。モチのロン。早速、仕事についてだけど、今は、医療機器の輸入販売の会社で働いてるんだよね?

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。でも実はこの春に転職したばかりで。以前は漢方薬の会社に9年勤めてたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、そうなの?! そこも聞かないと・・・

f:id:jios100:20180729110848j:plain まぁまぁ、そう焦んないで聞いておくんなせえ。

 

 

▼激動の幼少期

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f:id:jios100:20180702131349j:plain そもそも、ユジナはどこの人なの? 何なの?笑

f:id:jios100:20180729110848j:plain 変な人だよね、ワタシ。笑 

バックグラウンドから話すと、お父さんがアメリカに帰化した香港の人。お母さんは日本に帰化した台湾の人なんだよね。母親は、結局アメリカが長いからアメリカ人みたいなもんだけど。

 しかも、ワタシのひいひいひいひいおばあちゃんはオランダから台湾に来た宣教師の娘なんだよ。ひいおばあちゃんはクオーターだからすごい西洋人ぽい。ワタシは32分の1オランダ人(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ますますアイデンティティがよくわかんなくなってきた(笑)。家族のコミュニケーションは何語?

f:id:jios100:20180729110848j:plain まぜまぜかな。お父さんとは英語だけど、お母さんや弟は英語と日本語まぜまぜ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 日本にはどういうつながりが? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain えっとね、母方の親戚のおじさんが全員日本に住んでいるっていうものあるし。生まれたのは、ユタ州で、その後、幼稚園の頃は福岡。カトリックの幼稚園だったな。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain そこで日本語を学んだの? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain いや・・・そうでもないかな。ワタシ、昔は無口だったから。

f:id:jios100:20180702131349j:plain えっ・・・想像できない・・・今と正反対(笑)。

f:id:jios100:20180729110848j:plain  はは。今でも日本人の中にいるとおしゃべりだけど、アメリカ人の中にいるとみんなうるさいから黙ってるよ(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain 福岡の後は?

f:id:jios100:20180729110848j:plain その後は、またアメリカに戻って、メリーランド州。その後、ペンシルバニア州。で、小学校4年生のときにインディアナ州に引っ越して、そこでやっと落ち着いたって感じかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひえーー。クレイジー引っ越しライフ。子供のころから勉強好きだったの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain いや、勉強自体全く好きじゃなかった(笑)。母親はものすごく勉強が好きな人なんだけど、そこは遺伝しなかった・・・笑

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは。でも、結局かなり勉強したんじゃない?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 親からの勉強しろっていうプレッシャーはものすごくて。中国系の教育方針だから、98点でも、「なんであと2点取れなかったの?」ってなるんだよね。もう相当涙を流したよ・・・。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも、猛勉強の甲斐あって、めちゃくちゃ頭の良い大学に入れたんだよね。

 f:id:jios100:20180729110848j:plain ワタシ、頭悪そうに見えるから、よく意外って言われる(笑)。

 

 

▼闇の? 大学時代

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 猛勉強の末、ニューヨークにあるコーネル大学に。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。

f:id:jios100:20180702131349j:plain コーネル大学といえば、アイビーリーグのひとつだよね?! すごい! 専攻は何だったの?

(「アイビーリーグ」というのは、ハーバード大学コロンビア大学など、アメリカ東部の8つの超名門私立大学のことだゾ!)

f:id:jios100:20180729110848j:plain 学部は経済学部だったよ。理由は簡単で、一番授業数が少ないから(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain ウケるwww 

f:id:jios100:20180729110848j:plain まぁ、ヒマだった分、ほかのことも勉強してたからね。でも、大学の授業はほとんど人間関係で解決してた。レポートとかやってもらったり・・・(笑)何もわかんなかったもん。まわりの人たちが頭良すぎてショックだったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学で一番力を入れたことは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain オーケストラに入っていて、ヴァイオリンをやってた。それを一番頑張ってたかな。単位も一応もらえたしね。音楽以外はゲームばっかりしてた(笑) 

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは。プレステとか?

f:id:jios100:20180729110848j:plain いや、いろいろあったけど、特に当時、ギターヒーローっていうゲームが流行ってて。太鼓の達人のギター版みたいなやつ。めちゃくちゃドハマリしちゃって。もう中毒。めっっっっちゃ上手いよ、ワタシ。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain それ自慢されても・・・(笑)

f:id:jios100:20180729110848j:plain はは(笑)。ゲームしてる時って、何も考えなくていいから楽なんだよね。ワタシ、こう見えて病み症だから、いろいろ考えちゃって。

 ちなみに当時は、名前ばかりのクリスチャンでね。小さい頃から教会には連れて行かれたりしてたから、聖書のストーリーは情報としては知っていたけど、神様との関係は全くなかったな。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain そうだったんだ。いつイエスを信じたの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain それは就職した後なんだよね。ま、おいおい・・・。

 

 

リーマン・ショックで就職難、そして日本へ

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ギターヒーロー中毒時代

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学を卒業したのは何年?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 大学に入ったのが2005年で、卒業が2009年。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 就活はアメリカでしたの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain もちろんしたよ。しないと親に怒られるし(笑)。当時付き合ってた彼氏もアメリカにいたからね。でも、当時ガッツリ、リーマン・ショックの時代で・・・

f:id:jios100:20180702131349j:plain あっ、そうだね。めちゃくちゃ大変だったんじゃない?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 本当に大変だったよ。完全に就職氷河期もう全くと言っていいほどチャンスがなくて。最初はマーケティング系で探してたんだけど、全く引っかからなくて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そうか。アメリカの就活って「会社」じゃなくて「職種」で選ぶもんね。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そうそう。最初は名刺の会社とか受けてたかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain でもダメで。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そうそう。それでボストンのキャリアフォーラム(日本企業が海外の学生を採用するためのフォーラム)とかも行ったりしたけど、大学時代に日本語全く使ってなかったから、日本語が相当怪しくなってて、笑われたりした。

 それで、全く興味ねぇけど、内定なさすぎても辛いから、銀行系とかも受けてた。ファイナンスの専攻してた友達にキーワードを聞いて、いかにも知ってる風に面接受けたり。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 対応力ハンパないな・・・。 

f:id:jios100:20180729110848j:plain 実は、その作戦で、大手の投資銀行とかかも、ほとんど内定直前まで行ってたんだよ。だけど、なぜかキャンセルになっちゃったり。ことごとく道が閉ざされていったんだよね。今思うと、リーマン・ショックじゃなかったら就職できた会社はたくさんあったと思うし、実際にそう言われたこともある。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、日本へ来ることに?

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。最後に残ったのが2つの就職先しかなくて。1つはJET(ジェット)プログラムっていって、日本で英語を教える仕事。2つ目は、この春まで働いてた漢方薬の会社。この2つしか内定がなくて、2つとも日本だった。それで日本に来ることになったんだよね。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 漢方薬の会社にしたキッカケは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 単純に、東京に来たかったから(笑)。JETプログラムの方は、栃木じゃないとダメっていう感じで。栃木かよって(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain 栃木の人に失礼(笑)

f:id:jios100:20180729110848j:plain でも、マジで、せっかく日本に来るなら、人が多い東京に来たかった。ワタシ、人と関わっていないとすぐ病んじゃうから。生きていけない。人のために生きていないと、生きる意味を見いだせないんだよね。

 

 

漢方薬の会社に入社 ~失恋からのイエスとの出会い~

f:id:jios100:20180729105232j:plain

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、漢方薬の会社(クラシエ)に入社したんだ。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。でも、1年で辞めようと思ってた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なぜ?!

 f:id:jios100:20180729110848j:plain さっきも言ったけど、当時付き合っていた彼氏がアメリカにいたから、長く離れ離れでいたくなかったんだよね。アメリカに戻りたかった。でも、1年も持たなかった(笑)もう、仕事はじめて3ヶ月で辞めようと思ったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは(笑)。早い! それはなんで?

f:id:jios100:20180729110848j:plain やっぱりプライドがあったんだよね。せっかくアメリカのいい大学出たからには、もっといい会社で勤めたい、もっと責任ある仕事がしたいっていう思いはあったかな。仕事の内容も、漢方薬の安全管理って、お客様からあった報告をまとめて、入力したり、ヤバイ副作用とかあったやつは国に報告するために、その内容をまとめるっていう。もう本当に単純作業ばっかりで。「ワタシはこんなことをしてる場合じゃない」って本当に思ってた。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain どうやって乗り越えたの? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain 乗り越えられなかった(笑)。会社の中にもすごく嫌いな女性がいてね。もう触れられるどころか、見るだけでもイヤで。心の中がどす黒くなっていくのがもう見えるくらい。自分の心黒っっっ! って思ってた(笑)。

 もうすぐに会社辞めたくなって、転職活動をしようとしたんだけど、日本の会社だと、入社して3ヶ月で転職活動なんかしてる人を雇ってなんかくれないじゃん? 当然だけど。ズルズルと1年が経っちゃってね。それでもう無理! と思って、アメリカにいる彼氏に会いに行ったんだよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そしたら。

f:id:jios100:20180729110848j:plain これめっちゃウケるんだけどね、「ユジナとの将来を想像できない」とか言われて、フラれた(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain ガビーーン。 

f:id:jios100:20180729110848j:plain まじでガビーーンだよ。そうでなくとも、仕事のことで落ち込んでたのに、最後にとどめを刺された感じ。

 その頃のことはもう闇の時代すぎてあんまり覚えてない。仕事もミスが多くなって、当時は自分の仕事は自分の責任だったから、後日チェックしている時に「なんだこれ、誰がやったんだ?」と思ったら自分のミスだったり。鬱状態だった。ご飯も大好きなのに何も食べられなくなったり。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 想像できへん。

f:id:jios100:20180729110848j:plain もう自分でもやばいと思った。で、心配したのか母親と弟が日本に遊びに来てね。で、母親がワタシを見かねて、「聖書とか読んでみたら?」ってアドバイスしてくれて。今思うと「アンタも読んでないやろうが」って感じなんだけど、なぜかその時は素直に受け入れられたんだよね。当時はまだ2010年でガラケーだったから、ガラケーiモードとかezwebみたいなやつで聖書を読んでた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なつかし〜〜。俺はezwebだったな・・・。聖書を読み始めて何か変化はあったの?  

f:id:jios100:20180729110848j:plain それが大アリでね・・・フラれた1ヶ月後に、彼氏とやっぱりヨリを戻そうかなと思って。スカイプしたんだよね。そしたら、そのスカイプで、彼が共通の男友達の彼女といい感じになってたことが発覚して。あ、もうこいつとはヨリ戻らないと思った。それ以降は連絡取ってない。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それはショックだね。

f:id:jios100:20180729110848j:plain でもね、これが本当に不思議なんだけど。普通だったら、その元彼のことも、共通の男友達の彼女のことも、責めたり、嫌いになったりするじゃない? ワタシは特に、人のことを評価しがちな性格だったし。

 だけど、だんだんと「あれ? ワタシ怒ってないぞ・・・?」って気がついたんだよね。あれ、なんで怒ってないんだろう。なんでなんで? と、そうやって考えているうちに「ああ、彼も人間だし、失敗もするよな。なんだゆるせるじゃん」と気がついた。「アレ? これなに? これイエス様の心じゃん!」ってその時初めて気がついたんだよね。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 後々気がついた。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。なぜ自分がゆるせたのか考えたら、自分の心の中に勝手にイエス様が入っていたことに気がついたんだよね。ああ、これがみんなが教会とかで言ってる「イエス様との個人的な関係」なのかって気がついた。その後、今行っている渋谷の教会の土曜日の礼拝に行って、すぐに洗礼受けたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain へぇ! すぐに洗礼!

f:id:jios100:20180729110848j:plain ウチの教会のフィリピン人の牧師に洗礼を受けたいと言ったら、「どうして洗礼受けたいの?」って確認されて。そしたら、とっさに「長い間、神様から離れていました」っていう言葉が出てきて、「えっ! ワタシって神様から離れていたんだ!」ってその時初めて自分で認識したの。もう本当にこれは自分の言葉じゃなくて、聖霊がワタシの口から語ったことだと思う。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 洗礼受けて何か職場で変化はあった?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 奇跡的に、さっきも言った会社にいた女性との関係が改善したんだよね。これは本当に奇跡。自分の心持ちが変わったから、相手が変わらなくても、平気になった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 神様を信じると、なぜだか心がどんどん変えられていくよね。分かるなァ~。

 

 

▼”仕事はミッションフィールド”

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f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、結局、仕事はどうなったの?

 f:id:jios100:20180729110848j:plain 本当は3ヶ月で辞めようと思っていたんだけど、神様を信じてから、「仕事場はミッションフィールドだ」って分かって。

 f:id:jios100:20180702131349j:plain 仕事場はミッションフィールド。カッコいい・・・

f:id:jios100:20180729110848j:plain 社会人1年目で神様を信じたから、もうその後は、「神様がいてほしいと思う間、この会社で働きます」という気持ちで、出ていいと神様から言われたと思うまで頑張って。で、結局9年間その会社で働いてたなー。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 前の仕事場で学んだことは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain やっぱり、プライドが砕かれたことが一番大きいかも。9年間ずーーっと同じ部署で、ずーーっと単純作業。はじめはプライドが邪魔をして辛かったけど、神様を信じてからは、心を無にして単純作業ができるようになった。でも、人生そんな楽じゃなくてね・・・ 

f:id:jios100:20180702131349j:plain え、まだあるんすか。闇の時代。

 f:id:jios100:20180729110848j:plain あるよ(笑)。

 

 

鍼灸師の学校へ 

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f:id:jios100:20180729110848j:plain ワタシの中で、母親との関係で難しさを覚えることが多くて。いつもケンカばっかり。でも、ある日めずらしく母親がワタシに鍼灸師になることを勧めてきたんだよね。で、ワタシとしてもいろいろ考えながら、シャワー浴びて祈ったりしてたんだよね。そしたら、鍼灸師の専門学校に行こうという気持ちになった。で、社会人4年目になってから、仕事と学校の二足のわらじ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain え! 仕事をやりながら学校に行ったの?! 

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。職場も融通を利かせてくれて、時短にしてもらったんだよね。16時半まで働いて、18時から21時過ぎまで授業。この生活を続けていた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひぇ~~。僕は絶対無理っす。大丈夫だったの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain ワタシはプライド高いからイケると思っていて。ワタシはできる、できる、できる・・・できない! ってなったの(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは(笑)。どのくらい続けられたの? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain 専門学校1年目まではなんとかできたけど、2年目から体調を崩しちゃって。過呼吸とかになった。あとテストに全く受からなくなって、それでまた鬱になって、ブラックホール状態。仕事もろくにできなくなって、週3に減らしたり。あとは勉強しようとすると、急におなかが痛くなったり、頭が真っ白になったりして、全く勉強ができなくなった。不思議なんだけどね。

 もう、無理して勉強して、プライドがズタズタになって。罪の渦。ヤバすぎて言えないやつ。痛み止めだよね。罪を行うことで頭をごまかすというか。心の傷を直視しないために、何かでごまかすって感じで。

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも学校は卒業したの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain なんとか専門学校は2016年の3月に卒業できたんだけど。それから国家試験は連敗に次ぐ連敗でまだ受かってない。去年の2月も落ちた。補講も受けたりしているけど、なかか大変。だけど、ここまで続けられているっていうのは、何か意味があると思うから。あとはめげずにどれだけ辛抱強く続けられるかがポイントだと思ってる。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それが転職するキッカケだったの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain いや、それは全然別の話でさ・・・

f:id:jios100:20180702131349j:plain (なんやねんこの人の人生・・・)

 

 

▼9年働いた会社を転職 ~新しいステージ~

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 ↑以前の職場の仲間が描いてくれた似顔絵

f:id:jios100:20180702131349j:plain 9年間も働いた会社から転職しようと思ったキッカケは?

 f:id:jios100:20180729110848j:plain なんかね、去年ぐらいから転職する気がしてたんだよね。あるじゃんたまにそういう時。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ないです。

f:id:jios100:20180729110848j:plain あるんだよ。なんか感じたんだよね。去年の後半くらいから。実は、今勤めている会社の社長は、同じ教会のおじさんで。地元がインディアナ州っていう共通点もあって、関わりはあったんだよね。向こうがワタシのことを気にかけてくれていたというか。彼は、折に触れて「転職したいなら協力するよ!」と言っていてくれたんだけど、ワタシとしては「まぁそのうち」とか言ってペンディングしていたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain どういうタイミングで動き始めたの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 実は、アメリカの高校の時のカウンセラーの旦那さんが、社長と同級生で。で、社長が「今度あなたのカウンセラーだった人と一緒にディナー行くけど、どう?」と言われて。14年ぶりだったから、「覚えてるかなー」と思ったけど、向こうは覚えててくれて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そこでまた「働かない?」と? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain 言われたけど、ワタシとしては「今年じゃなくて、来年からだと思います」って素直に言ったかな。そうこうしてるうちに、1月に胃腸炎になって、会社をずっと休まなきゃいけなくなっちゃって。有給を全部使っちゃったんだよね。半年間有給ナシになって。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain えええ。それは大変。

f:id:jios100:20180729110848j:plain もう半年間有給使えないとか無理じゃん?(笑)だから、「もう明日半休とって辞めるしかない」と決めて、回復した時に、前の会社の上司にメールしたんだよね。そしたら、今の会社の社長にもう一回ご飯に誘われて。「今、安全管理の仕事ができる人を探してる」って。ワタシがずっとやってきたことだったから、もう神様の導きを感じて。今の社長も、「今夜、履歴書を出しなさい」って。で、次の日に「今夜面接してください」ってなって。

f:id:jios100:20180702131349j:plain もうトントン拍子。

 f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。面接もいい感触でね、これはイケたと。でも、社長からメールが来て、「残念だけど、違う50代の人が採用になりました」って。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ガッカリ。

f:id:jios100:20180729110848j:plain 残念だったね。でも、その後すぐに、これまたお風呂入ってた時なんだけど、「そういえば、大学の時も”ウェイトリスト”(補欠合格)に入ってたなー」って思い出して。「あっ、これはもしかして受かる流れだ」って直感で思ったんだよね。80%くらいの確信があった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そしたらやっぱり。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。最初の人がオファーを蹴ったから、ワタシが受かった。すぐ転職になったよ。3月20日に前の会社を辞めて、その月の22日からもう働いてた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain はやっ。

f:id:jios100:20180729110848j:plain 新しい冒険からしょうがない。前の職場は大好きだったし、「なんで辞めるんですか」ってめっちゃ言われたけど。ワタシにとってはすごくステップアップさせられた。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 前の会社と違うところは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain クラシエは大きい会社だったから、自分の責任の範囲が狭かった。今の会社は15人くらいしかいない小さな会社だから、問題は紛れてくれないし、自分がカバーしなきゃいけない範囲も大きい。大変だけどいい経験になってるよ。

 

 

▼転職のポイント 〜船に飛び乗れ!〜

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に聞きたいんだけど、転職先を決めたポイントは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 実はないんだよね。「ジャンプシップ」という英語の表現があるんだけど、

f:id:jios100:20180702131349j:plain 来た船に飛び乗れ! って感じ?

f:id:jios100:20180729110848j:plain そうそう。本当は海に飛び込んじゃうところに、神様が別の船を用意してくれて、そこに飛び移れたって感じ。まぁ、社長が同じ教会の人っていうのもあったし。神様の導きっていうものを感じたのは事実かな。目の前の扉が開いたら、そこに突き進むしかないよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain さっきも、仕事はミッションフィールドと。クリスチャンだから作れた違いはある?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 奇跡的な人間関係を神様がプレゼントしてくれたと感じるかな。この前も、会社を辞めた後なのに、前の職場の仲間が誕生日会に26人も来てくれて。よく「ユジナは太陽みたい」と言われるけど、それはワタシの中のイエス様が輝いているからであって。本来のワタシは病んでることが多いんだけどね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今後のビジョンは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain うーん。ワタシは見通しを立てられないタイプだから(笑)。毎日、毎日、一歩一歩神様に人生を委ね続けていきたいと思っているよ。これ、意外と難しいから。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 本当それはよくワカル。それが一番難しいんだよね。また違う船にジャンプする?

f:id:jios100:20180729110848j:plain それは神様次第。今の職場は勉強させてもらってばっかりだから、1~2年は絶対いると思う。小さい会社だからこそ学ぶことも多いし。地味だけど、細かくて大事な仕事。大きな会社だとわからないことも学べるし。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に、いつも心にとめている聖書の言葉を。 

f:id:jios100:20180729110848j:plain これはワタシの人生の聖書のフレーズ(Life Verse)。マタイの福音書22章。

 

エスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

(マタイの福音書 22:37~39)

 

 

f:id:jios100:20180729110848j:plain いつも、この心がけで人生歩んでいきたい!

f:id:jios100:20180702131349j:plain ユジナらしい最後のシメ! 仕事場はミッションフィールド。本当にそう思います! ありがとうございました!

 

(終わり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンになったら全てがハッピーなのか? ~ヘブル12章「成長のらせん階段」セオリー~

クリスチャンになったら人生全て上手くいってハッピー? そんなわけ!

 

 

▼全てがハッピー・ハッピー?

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 私がイエスを信じたばかりの16歳の頃、こんな賛美の歌を知った。

 

"Jesus(イエス)あなたと出会えた日から、

 全てがハッピー・ハッピー!"

  その軽快なリズムや曲調が好みで、よく歌っていたのだが、その歌詞に少しばかり違和感があった。それは、「イエスを信じたら、その後の人生は全てうまくいくのか?」という疑問である。

 そんなわけない、という答えは最初から分かっていた。聖書を読めば明らかである。イエスの弟子たちは、ヨハネ以外、軒並み殺された。パウロはいつも命を狙われ、何度もむち打ちの刑を受け、貧しい人生を送った。旧約聖書のヨブの例もある。彼は神を堅く信じる敬虔な人だったが、理由なしに大病を患うことになり、子どもが全員死に、おまけに全財産を失うといった壮絶な人生を送るハメになった。ヨブは最終的には報われたのだが、その苦しみが消えるわけではない。

 極めつけは、この聖書の言葉だ。

 

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

 新改訳聖書第3版では「信仰だけでなく、苦しみをも賜った」とある。驚くべきことに、聖書は「信仰だけではなく、苦しみさえも神からのプレゼントだ」と言っているのだ。

 

 聖書の様々な人物モデルや、このような記述から、「クリスチャンになったら全てが上手く行ってハッピー・ハッピー」なのではなく、むしろ「クリスチャンになったら苦しむ」のだと分かる。えっ、神を信じたら、苦しむ? 神はなぜそんな仕打ちをするのだろう。当然の疑問である。

 私も、かつて同じ疑問から抜け出せなかった時期があった。しかし、ある聖書の言葉と出会い、自分なりの回答を得た。それは、ヘブル人への手紙12章の記述である。今回は、その記述をもとに、私の生きる糧となった、「苦しみと成長のらせん階段」について書く。

 

 

▼ポイント1:試練を乗り越える秘訣

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 まずヘブル12章の冒頭部分を見ていこう。この部分は、人生の中で直面する試練を、どうやって乗り越えていけばいいのか。その秘訣が書いてある。(ヘブル11章は旧約聖書の人物モデルを挙げ、「昔の人々は神の約束を信じた」というアプローチから、「信仰の大切さ」について語っている。その文脈からの12章である。)

 

1:こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2:信仰の創始者であり、完成者であるエスから、目を話さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

3:あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方(すなわち、イエス)のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

(ヘブル人への手紙 12章1〜3節)

 

 人生の中の困難に対して、どのように向き合うべきか。その答えがここに凝縮されている。「イエスから目を離さず、イエスのことを考え続ける」。これこそが、試練を乗り越える秘訣なのである。

 イエスは、自分自身は何も落ち度がないのに、十字架で死ぬことを選んだ。不完全な私たちの「身代わり」として死んだ。それを自発的に選んだのである。イギリスの聖書学者、リチャード・ボウカムは、イエスが十字架の上で、麻酔薬である「没薬(もつやく)をまぜたぶどう酒」の受け取りを拒否した事実を指摘し、こう述べている。

 

このようにイエスは社会の最も悲惨な人々、その悲惨が耐え難い人々と自らをひとつにされた。同時にその飲み物(没薬をまぜたぶどう酒)を断ることで、エスは単に彼らの一員ではなく、環境による無力な犠牲者ではなく、自発的に彼らの苦しみを共有し、明確な意識を持って、彼らにとって耐え難いことを、彼らのために耐えられた。このようにイエスは王であり、無力な人々と深く連帯し、無力な人々のために責任を果たすためにぶどう酒を控えられた。

(リチャード・ボウカム著「『聖書と政治』社会で福音をどう読むか」P.112 岡山英雄 訳)

  イエスは、神ご自信であり、王の王である方だ。その王の王であるイエスが、自発的に、自分の選択で、私たちのような弱い人間のために、苦しみ、死ぬことを選んだのである。

 そのイエスのことを見続け、エスのことを考えると、不思議なことに、力が湧いてくる。試練を試練と思わなくなる。もはや私たちは、「疲れ果ててしまうことがない」のである(本当に!)。

 

 

▼イエスという希望を抱く 

 なぜ、イエスのことを考えるだけで、力が湧いてくるのか。学生のバイブル、「夜と霧」に、関連するエピソードがある。

       f:id:jios100:20180725013655j:plain

(ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」訳1956. みすず書房

 「夜と霧」は、精神科医だった著者フランクルの、ナチス強制収容所での実体験に基づいた作品だ。日本では多くの人が一度は手にしたことがあるであろう、ロングセラーである。未読の方は是非一読を。

 詳細は割愛するが、本の中で、特に印象的なエピソードがある。それは、強制収容所でのある日を巡る出来事。強制収容所での生活は、想像を絶するものだったが、それでも人間の生命力というものはすさまじく、多くの人々が生き残っていた。

 しかし、ある日を境に、バタバタと人が倒れて死んでいく。ある日というのは、クリスマスだった。その年のクリスマスを境にして、年が変わるのも待たずに、大勢の人が息を引き取っていった。別に、クリスマスが終わったから処刑が始まったわけではなかった。明確な理由なしに、クリスマスが過ぎたら、大勢が亡くなっていったのである。

 なぜか。それは、多くの強制収容所にいた人たちが、「クリスマスまでには、きっと戦争が終わって、解放される」という希望を抱いていたからだ。何か根拠があったわけではない。ただ、クリスマスというのが、希望を抱くには、あまりにもピッタリな日だったというだけだ。しかし、無情にも何も状況が変わらないまま、クリスマスが終わった。人々は、希望を失った。失望した人たちは、生きる気力を失い、バタバタと死んでいったのである。

 このエピソードから、「人は希望がなければ生きられない」という教訓を得られる。フランクルが伝えたかったことのひとつは、この教訓ではないか。クリスマスまでには、きっと解放される。フランクルがいた強制収容所の人々は、そんな希望を失い、絶望して死んでいったのであった。

 

 逆に言えば、「人は希望がある限りは生きていられる」のである。

 

 クリスチャンの希望は、イエスだ。エスが十字架で身代わりとなって死に、自分たちは赦されているという希望。イエスが、死を打ち破ってよみがえり、天にのぼり、やがて帰ってくるという希望。クリスチャンが抱く希望は、そんな希望である。

 ヘブル書の別の場所には、「私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではない」(ヘブル4:15)という記述もある。イエスは、弱い私たちに寄り添ってくださる方である。人は、そのイエスがどんなことをしてくれたか。そのイエスの優しい心、懐の深さを見て、思い出すたびに、言いようもない安心感と力を得ることができるのである。

 イエスを見続け、イエスのことを考え、イエスのことを思い出し続ける。イエスという希望を、握りしめ続ける。これが、最良の試練を乗り越える方法である。

 

 

▼ポイント2:試練は何のためにあるのか

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 すると、もう一つの疑問がわいてくる。「そもそも、試練は何のためにあるのか」という疑問である。当然だろう。なぜ人は苦しまなくてはならないのか。辛い思いをするなら、なぜ、神を信じなければならないのか。神を信じるメリットはどこにあるのだろうか。ヘブル書の続きの箇所を、見てみよう。

 

4:あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。

5:そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。

6:主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから

7:訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

8:もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

9:さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

10:肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

11:すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に義という平安の実を結ばせます。

(ヘブル人への手紙 12章4〜11節)

 

 ここは、神を「父親」になぞらえて、なぜ試練があるのか説明している箇所だ。現実の父親を「肉の父」、神を「霊の父」として、対比している。ヘブル書は、私たちが体験する試練は「神からの訓練」だと言う。神は私たちを「子ども」とみなしている。ゆえに、神は子どもである私たちの成長のために、試練を与えて訓練する、とこういう塩梅である。

 もちろん、ほとんどの「肉の父親」は、息子をいい方向に育てようと、愛情を持って厳しく叱ったり、指導したりする。「『巨人の星』の星一徹の顔が思い浮かぶ人もいるだろう。良い結果が出れば、子どもは成長する。しかし、時に悪い動機で叱る親もいる。そのような場合は、子どもを苦しめるだけで、何の成長も生まないことも多い。

 神の試練は、人間の父親の与える試練とは違う。神が与える試練の目的は、「私たちが神の聖さにあずかり、平安の義の実を結ばせる」ことである。これを、キリスト教の用語で「聖化」と言う。または、「キリストの似姿に近づく」とも言う。聖書の別の箇所には、こう書いてある。

 

確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いがかかっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

(コリント人への手紙第二 3:15~18)

 私たち人間は、神が与える試練を通じて、成長し、「主と同じかたちに姿を変えられていく」のである。これが「聖化」である。聖化には、試練が伴う。苦しみが伴う。それは、楽ではない。「苦しく思われる」ものである。しかし、ポイント1で述べたように、主(イエス)を見続けることによって、私たちはその試練に耐えることができる。

 鏡は、光の方向に向いていなければ、光を反射できない。私たちが「主に立ち返るなら」いつでも、「覆いは取り除かれる」。そして、光の方角、すなわち、光であるイエスの方を向き続けるなら、その光を反射し、輝くことができる。そうして、徐々に、徐々に、変えられ続けていくのである。これは、努力で勝ち取るものではない。「まさに、御霊なる主の働き」によるのである。

 筋トレすると、なぜ筋肉がつくのか。それは、筋肉を一度痛めつけ、破壊したものが「超回復」して、元の筋肉より肥大するからだ。筋トレをしている時、身体は辛い。しかし、一度砕かれた身体は、元の身体より大きくなる。私たちの人間性霊性も同様に、試練を乗り越えることを通して、成長する。

 試練を通っている時は苦しく、辛い。孤独を感じ。時に、絶望する。しかし、その中で神の光、イエスの光り輝く姿のほんの少しのカケラが見えたとき、隣でずっと寄り添ってくれていたイエスの存在に気がつく。そうして私たちは、成長し、徐々にイエスの姿に近づき、変えられていくのだ。

 

 

▼ポイント3:ひとつの疑問 聖くなければ主を見られない?

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 試練を乗り越える秘訣は、イエスを見続けること。試練は、私たちが成長し、イエスの姿に似ていくためにある。ここまではロジカルだ。しかし、ヘブル書の続きの箇所を見ると、ある疑問が出てくる。

 

12:ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。

13:また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道をつくりなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。

14:すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

(ヘブル人への手紙 12章12〜14節)

 私は、初めてここの最後の部分を読んだ時に、ある矛盾が気になった。これまでの理論をシンプルにして、整理しよう。

 

1:イエスを見続ければ、試練を乗り越えられる。

2:試練を乗り越えれば、神の聖さにあずかり、成長する。

3:聖さがなければ、だれも主(イエス)を見ることができない。

 この3番が問題なのである。「聖さがなければ主を見ることができない」のであれば、そもそも1番の「イエスを見続ければ、試練を乗り越えられる」が成立しないではないか! 

 言い換えれば「聖くされるために試練がある」のに、その試練を乗り越える条件が、「聖い人しか見ることのできないイエスを見る」ことというのは、一体どういうことなの?! という疑問である。これは矛盾している。

 これでは、試練を乗り越えるのは不可能ではないか! 私は困惑した。まるで矛盾している。私は、しばらくの間混乱した。しかし、すぐに聖書のほかの場所を読んでいて、この疑問が解決し、腑に落ちた。

 

 

▼「聖化」のらせん階段

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 私が読んだのは、このような聖書の言葉である。

 

日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰っていく。

(伝道者の書 1:5~7)

 この箇所は、直接、試練について語っている場所ではない。しかし、「巡り巡る」という表現が示唆するものが、私に気づきを与えた。

 

 そうか、「巡り巡る」のだ。成長は1度だけではない。成長し続け、聖くなり続けるのだ。

 

 そう気づいた瞬間、ただの「円」だった成長サイクルのイメージが、急に立体的になった。「らせん階段」のイメージが私の脳裏に浮かんだ。

 そうか。人間は、試練を通して、挫折を経験する。その中で、イエスの姿を見出し、成長して、聖くなる。より聖くなれば、今まで見えなかった別のイエスの姿が見えてくる。そうすれば、より大きな試練に耐えうる力を得られる。そして、また次、またその次の試練へと続いていく・・・その繰り返しなのだ。

 そう気がついた時、に、一気にこのヘブル12章の3つのポイントがつながった。私たちは、遠いむかしから現代、また未来に至るまで、このサイクルを続けていく。水が巡り巡るように。風が巡り巡るように。時が巡り巡るように。繰り返し、しかし、着実に変化していく。「*遠い過去と遠い未来をつなげるために。そのためにオレはいるんだ」というわけだ。 *「ヒカルの碁」23巻より

 

 聖書のほかの場所にも、このように書いてある。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

(ローマ人への手紙 12:1~2)

 

 心を新たにし続け、神の力によって変えられ続ける。そうすれば、何が神の道なのか、「見分け続ける」ことができる。私は、その成長、聖めのプロセスを「苦しみと成長のらせん階段」と呼ぶことにした。鉄が熱され、叩かれ、鍛えられるように、「鉄は鉄によって研がれ、人は友によって研がれる」(箴言27:17)。人は、他の人との人間関係を通して、苦労し、成長するのかもしれない。

 人は、同じことで悩み、苦しみ、また同じ失敗をしてしまう。そのたびに、落ち込む。見える景色は同じかもしれない、しかし、同じところをグルグルと回りながら、着実に人は成長していくのだ。

 

 この永遠に続くサイクルの中に、神はいる。だからこそ、神は、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」(黙示録4:8)と呼ばれる。神は自分の名前を、「わたしはある」という名前だと名乗った(出エジ3:14)。「わたしはある」というのは、ヘブル語で、過去も現在も未来も「ここにいるよ」とささやき、存在される方という意味がある。まさに、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」なのである。

 

 今、あなたはどのような試練の中にいるだろうか。どのような困難にぶち当たっているだろうか。または、どのような苦難の道を通ってきただろうか。そこで得たものは何か。今一度考えてほしい。

 聖書の神は、「耐えられない試練はない」と約束している。イエスは、いつも、いつまでも、あなたのそばで、ずっとあなたに「ここにいるよ」とささやいている。

 

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

(コリント人への手紙第一 10:13)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】清く正しく生きることが「証<あかし>」になるのでしょうか?

教会で悩み相談をすると、よく「そんなの証し<あかし>にならないよ!」と言われます。どういう意味でしょうか?

 

 

▼証しにならない?!

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 「それは証し<あかし>にならないよ」。教会でよく言われる言葉だ。「証し<あかし」という単語にピンとこない人も多いかもしれない。要するに、「そんな生き方を他人に見せたら、クリスチャンらしくないからやめなさい!」という意味である。例えば、酒を飲むとか、テストでいい点をとらないとか、きちんと働かないとか、失敗してくよくよ悩んでいるとか、そういう姿である。そういう人たちに対して、教会のオバちゃんたちは、「そういうのは証しにならないわよ」とバッサリ言うのである。教会で、仕事の悩みなどを相談すると、絶対にこの言葉を聞くことになる。そういう経験を一度すると、教会で本音の話ができなくなってしまう。

 「証しにならない」と言う人たちの頭の中には、「クリスチャンたるもの、常に清く正しく美しく生きなければならない」という考えがあるのだろう。または、「クリスチャンは常に成功していなければならない」という想いがあるのかもしれない。でも、その考えは本当に正しいのだろうか。

 今回の記事は、「そもそも証しって何?」「本当の証しとは何か」という視点で書いていこうと思う。

 

 

▼「証し」の言葉の意味

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 教会で聞く「証し<あかし>」または「証し<あかし>をする」という耳慣れない表現は、どこから来た表現なのか。実は、聖書にはこの「証し」という表現がたくさんある。その例を見てみよう。

 

彼(バプテスマのヨハネ)は光ではなかった。ただ光(イエス)について証しするために来たのである。

ヨハネ福音書 1:8)

もしわたし(イエス)自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。

ヨハネ福音書 5:31)

 このように、「あかし」という言葉は聖書のいたるところに出てくる。では、「●●が●●を証しする」というのは、どういう意味なのだろうか。「ガリラヤのイェシュー」を書いた山浦玄嗣氏は、このように解説している。

 

 聖書には「証し」とか「証しする」という言葉がよく出てきます。国語辞典にはこうあります。

 

 証し=①証拠・証明。 

    ②後ろ暗くないことの証明。

 

 普通、世間では「証しする」という言い方はしません。「証し」は、「身の証しを立てる」とか、「生きている証しだ」という言い方で用います。「証し」は「あかす」という動詞の連用形から派生した名詞です。クリスチャンと名乗る方はよく「聖書の学びをする」という奇妙な言い方をします。「聖書を学ぶ」と言えばいのに、なぜでしょう。これはキリスト教特殊語法です。「証しする」も、この類です。

 ところで、聖書で「証しする」という意味は、前後関係から見て、「証し=証明・証拠」と説明する国語辞典の意味とは趣が違います。(中略)

 「犬が哺乳類であることを証明する」という文は意味が通りますが、「犬を証明する」は何のことやら見当もつきません。証明とは常に「AがBであることを」が内容として示されなければなりません。A、Bどちらを省いても証明になりません。

 「証しする」と訳された「マルテュレオー(ギリシャ語)」の意味は、辞書によると「証言する、証人である、証しする」です。日本語の「証言」の意味は次のようです。

 

  証言=①事実を証明すること。

     ②証人の陳述。

 

出展:山浦玄嗣「イチジクの木の下で 上」P:224-227 2015.

  

 山浦氏によれば、聖書の「証しする」は、「証人として●●を証言する」、言い換えれば「ああ、いかにもそうだなぁ、と思わせる」ということだそうだ。

 若干補足すれば、福音書の著者たちの宗教的な思考言語であったであろう、ヘブライ語の「あかし」は、「エイド」という言葉で、こちらも「証人・証言」という意味である。つまり、ヘブライ語的にも、「証しする」という言葉は、「証拠・証明」というよりは、「証言する」「証人となる」という意味なのだ。わかりやすく言い換えれば、「明らかにする」「確からしくする」という意味と考えられる。

 以上のようなことから、先に示したヨハネ福音書の内容を、山浦氏は以下のように訳した。

 

その人(バプテスマのヨハネ)はその光ではなくて、光(イエス)についてあまねく世に知らせようとして来た人だ。

ヨハネ福音書 1:8)

もし俺(イエス)が、俺の言うことは本当なんだと自分でいくら言い立てたとて、そんな言葉は信用できまい。

ヨハネ福音書 5:31)

 

 「証しをする」というのは、「『ああ、●●って本当なんだなぁ』と思わせるように、証言する行為」と言えるだろう。

 

 

▼クリスチャンたちが言う「証し」とは?

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 では、クリスチャンたちが「証しする」と言う時、何を「本当なんだなぁ」と思わせようとしているのか。無論、「神の存在」「イエスの存在」である。もっと踏み込めば、「神がどれだけ偉大な方か」「イエスの懐がいかに深いか」を明らかにするのが「証し」である。

 よく、クリスチャンの集会に行くと、「証し」と称して誰かの過去話を聞かされる場合がある。「証し」は、神やイエスの素晴らしさを明らかにするものだが、時々この重要なポイントを忘れてしまっている人がいる。そういう人たちの「証し」は、「私はこれだけ頑張って、これだけ成功しました!」という、ただのサクセスストーリーだ。そういう人たちの証しは、一見、「神」という言葉は使っているが、その結論がしょうもない。「たくさん献金したら、もっとお金が入ってお金持ちになりました!」とか、「神様のおかげで一流大学に合格しました!」という、「神、関係なくない?」といった話が多いのである。これでは、「証しではなく」ただの「深イイ話」である。これらは、驚くべきことに、全て私が教会で聞いたことのある実話だ。

 今まで聞いた証しで一番しょうもなかったのは、某国の自称クリスチャン・アーティストが、「神様はボクをこんなにカッコよく造ってくれました。だからこうしてみんなの前で歌えます」と言って、上着を脱ぎ、タンクトップ姿になった証しだ。えっ・・・神の素晴らしさではなく、結局ただの自慢じゃん・・・と思ったのだが、会場は「キャー」という黄色い声援に包まれていた・・・。

 

 「神を信じたら、人生うまくいった」

 「神にお願いしたら、お願い事が叶った」

 

 クリスチャンの「証し」って、そんな程度のものなのだろうか。努力で勝ち得るものなのだろうか。否。本物の証は違う。

 私が考える、本物の証しは、「神がどれほど憐れみ深い方か」明らかにするものである。クリスチャンは、自分が清く正しく生きたから、救われるのではない。イエス自身が、まだ私たちが生まれるはるか前に、十字架で死ぬことを選び、私たちに寄り添うことを選んだのである。自分たちの努力によらない、一方的な救いである。クリスチャンはこれを「恵み」と呼ぶ。

 努力によらず、行いによらず、ただ「恵み」による救いを信じるのが、クリスチャンだ。であるならば、その神の「懐の深さ」を証明するには、「清く正しい生き方」ではなく、「どんなに自分がしょうもない人で、だけどそんな自分を神が見つけてくれた」という話が「証し」なのではないか。もっと単純に、「俺が信じてる神ってすごいんだぜ?!」というのが証しなのではないか。

 「そんなの証しにならないよ」と言われても、クヨクヨ悩まなくてもいい。そんなあなたの等身大の姿を、イエスは愛してくれたのだから、それを思いっきり誇ればいいのだ!

 

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(中略)「誇る者は主(神)を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント人への手紙第一 1:26~31)

 

 

▼「良い行い」を備えるのは神

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 「証しにならない」と言う人々が、おそらく「でもこう聖書に書いてありますよ」と、主張する聖書の言葉がある。以下の言葉だ。

 

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

(マタイの福音書 5:13~16)

 これは、有名なイエスの言葉である。ここだけを読むと、「ああ、自分の良い行いを見て、他の人の証しにならなくちゃ」と思うわけである。でも、果たしてそうなのだろうか。聖書の別のところには、こうも書いてある。

 

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

(エペソ人への手紙 2:8~10)

 

 この聖書の言葉によれば、以下の2つは明らかである。

 

1:行いではなく、恵みによって与えられる信仰で救われる。

2:良い行いは、自分のものではなく、神があらかじめ備えたもの

 

 「良い行い」は、自分が頑張ってするものではなく、神が備えるものなのである。

 

 

▼弱い時こそ強い

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 「良い行い」は、自分の力ではなく、神の備えであると分かった。すると、もう一つの疑問が浮かんでくるだろう。「良い行いができていないのは、神が働いていないからだ。自分は、神の力が働くに値する者ではないのだろうか」という疑問である。本当にそうなのだろうか。別の聖書の言葉を見てみよう。

 

しかし主(神)は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私(パウロ)は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

(コリント人への手紙第二 12:9~10)

 

 パウロは、「弱いときにこそ、強い」と断言している。このパウロの姿勢から、以下のことが分かる。

 

1:自分が弱い時にこそ、神・キリストの力が完全に働く。

2:人間の弱さは、実は神の強さである。自分の弱さのうちに神の力が働くので、その弱さを誇ることができる。

 

 クリスチャンは、もはや自分の力で歩まなくて良い。また、等身大の自分を隠して、「オモテムキ」の自分を作る必要もない。なぜなら、神が弱いままの自分を愛し、その弱さの中に働いてくださるからだ。

 だから、本当の「証し」というのは、この自分の「『弱さ』の中に、神がどのように働いてくださったか」というものだと思う。クリスチャンにとっては、もはや弱さは「自慢」なのだ。

 カンチガイしてほしくないが、「弱さをそのままにしていいや~好き勝手やっておくんなせぇ」と言っているわけではない。詳しくはまた別記事を書くが、クリスチャンは「神のきよさ」に向かって、「変えられ続ける」必要がある。しかし、それは、この世の中で「活躍」することだったり、「成功」することだけを指すのではない。それだけが「証し」ではない。人の心をゆさぶるのは、「サクセスストーリー」ではなく、「失敗や挫折、弱さのその先にあるもの」なのである。

 

 

▼「地の塩、世の光」とは?

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 では、イエスの言う「地の塩、世の光」とは、どういう意味なのだろうか。もう一度見てみると、スッキリすると思う。

 

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

(マタイの福音書 5:13~16)

 クリスチャンは、自分で輝けるのだろうか。否。クリスチャンは自ら輝けない、月のような存在である。月が輝くには、方法はただ一つ。光の方を向くことだ。クリスチャンにとっての光は誰か。それは、神であり、イエスである。エスが、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ福音書1:9)なのである。

 つまり、イエスは、「俺を信じることをハズカシイと思うなよ。俺をシッカリと見て、俺の光を受けて輝け! 俺についてこい!」と言っているのである。イエスを信じる人は、もはや「弱さ」を隠さない。なぜなら、その弱さのうちにイエスの力が働くからである。

 「証しにならない」と言っている人はどうか。むしろ、その人たちは、「自分がもっとシッカリしていないとダメだ」と考え、そこにイエスが働くことを忘れていないか。「もっと清く正しく美しく生きなければ」という考えに支配されると、いつのまにか、ありのままの自分を愛してくれたイエスを忘れていく。だんだんと、「こんな自分がクリスチャンだと言ったら、悪影響だ」という言い訳を自分に作って、「クリスチャンであること」「イエスを信じていること」を隠していく。まさにそれは、「塩気をなくした塩」「升の下に置かれた明かり」ではないか。

 クリスチャンは、堂々とありのままの自分をアピールしていい。「俺はイエスを信じているんだ! イエスはすごいよ?! そりゃ毎日大変なこともあるけど、でもイエスが自分の中で働いてくれるんだ! こんな喜びに満ちた人生ないよ?」と、イエスを自慢しよう。それが、一番の「証し」ではないだろうか。

 「証言をする」のが「証し」なのであれば、ありのままの弱い自分に寄り添って、そっと抱きしめてくれたイエスの姿を、明らかにしていこうではないか。

 「クリスチャンたるもの、こうでなければならない」「クリスチャンはこれをしてはいけない」という考え方ではなく、「クリスチャンだからこんなことができる!」という考え方になろうではないか。

ですから、だれでも人々の前でわたし(イエス)を認めるなら、わたしも天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

(マタイの福音書 10:32~33)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。