教会に行くと、牧師の妻は、「牧師夫人」と呼ばれる場合が多いのですが、その呼び方はどこから来ているのでしょうか。
▼「牧師夫人」って何?
教会の中で、牧師の妻を「牧師夫人」と呼ぶところがある。その名の通り、「牧師の夫人」を指す用語だ。教会によっては、この「牧師夫人」が特別な役職になってしまっているところがある。
こんな話を聞いたことがある。いくつかあるので、引用のようにまとめた。
とある牧師のタマゴがいた。友人が、彼に「どういう女性を結婚相手として望むか」と尋ねると、彼はこう答えた。「牧師になりたいから、『牧師夫人』になるのにふさわしい女性かな」。
とある牧師のタマゴがいた。彼には、結婚を前提にお付き合いしていた女性がいたが、ある日、その女性に「私は『牧師夫人』になれません。別れてください」と言われた。自分は「牧師夫人」にふさわしくないと、彼女自身が判断したのである。
とあるキリスト教団体があった。その団体に、新しいリーダーがやってきた。新リーダー自身の資質には、何の問題もなかった。しかし、ひとたび問題が起こると、そのリーダーではなく、「夫人」の資質を疑問視する声があがり、結局そのリーダーは、団体を去ることとなった。
どれも、クリスチャンではない人が聞くと、とんでもないような話だが、全て実話である。果たして、この「牧師夫人」たる役職は、聖書に書いてあるのだろうか。もう答えはほぼ見えているのだが、今回はこの謎の「牧師夫人」問題に迫っていく。
ちなみに書くが、「牧師夫人にふさわしい女性と結婚したい」と言った男性の将来の妻は、本当に苦労するだろう。可愛そうに・・・。世の女性に、そんな男とは絶対に結婚しないようアドバイスしたい。
▼もちろん聖書に記述などない
さて、この「牧師夫人」という用語は、もちろん聖書に記述は一切ない。私の記憶違いだと困るので、実際に「牧師夫人」というキーワードで検索してみたが、ヒットはなかった。また、丁寧に「牧師」と「夫人」という2つのキーワードでも検索してみたが、こちらもヒットはなかった。聖書には、「牧師夫人」などという役職はおろか、記載さえ一切ないのである。
では、「牧師夫人」という用語は使っていなくとも、リーダーの資質として、夫人の資質は問われているのだろうか。こちらも調べてみたが、強いて、強いて、強いて言うなら、ひとつだけ記述がある。それは以下である。
ですから、監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。
(テモテへの手紙第一 3:1~6)
これは、監督者、すなわち牧師をはじめとした教会のリーダーたちに対しての資質である。つまり、夫人の資質ではない。しかし、太字にした「家族を治める」という点に関しては、夫のみの責任ではないから、妻にもその資質の一旦は問われる、と考えられなくもない。相当無理があるが。
この聖書の言葉を適用するのであれば、「牧師夫人」に問われる資質はただひとつ。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人」ということになる。
しかし、現状、「牧師夫人」に求められている資質は多い。以下、私が考える、「世の中の教会・クリスチャンたちが『牧師夫人』に求めている資質」である(※太字は筆者が特に重要だとされていると思うポイント)。断っておくが、これは私が考えている資質ではなく、「世の中の教会・クリスチャンたちが求めている資質」である。お間違えのないよう。
【『牧師夫人』に求められている資質】
・クリスチャンである。
・聖書に精通している。
・ピアノが弾けることが望ましい。
・人の愚痴や相談を黙って聞いてくれる。たまに問題の仲裁に入ることができる。
・人あたりが良く、教会に来る人をもてなすのが上手。
・全ての生活において模範的である。
・黙って教会堂の掃除をしてくれる。
・料理上手。
・夫と運命的な出会いをしていて、その馴れ初めを模範的なストーリーとして語れる。
・何事においても適切なアドバイスができる。
・どこに住んでもやっていける精神力がある。フットワークが軽い。
・「教会に仕える」というマインドを持っている(わけがわからない)。
・24時間365日、教会メンバーの問題に対処可能。
・家庭、特に子育てに問題を抱えていない。
・いつも笑顔。
・精神的にも、肉体的にも健康である。
・・・いかがだろうか。こんなことを求められたのでは、確かに、例の女性が「私はふさわしくない」と辞退するのもうなずける。こんな人いねぇよ。
「ピアノが弾ける」という項目に笑った人もいるかもしれないが、これはガチでよく言われるポイントである。教会の礼拝会で、オルガンやピアノ伴奏が必要だからである。ピアノができる人を条件に挙げる牧師のタマゴたちも少なくない。本当に笑ってしまう条件である・・・。
安心してほしい。「牧師夫人」というものは、聖書に全く記述のない、人々が勝手に考え出した幻想なのである。男性も女性も、教会メンバーのクリスチャンたちも、「牧師夫人」に何か資質があるとか考える方がおかしい。むしろ、そう呼ぶことすら、ただの文化なのである。上に挙げた例は、全く「いわれのない」条件なのだ。
▼「牧師夫人」におんぶにだっこのクリスチャンたち
ここまで書くと、まるで「牧師夫人」が悪いように聞こえるかもしれないが、実際は違う。実は、勘違いしているのは、いわゆる「教会メンバー」の方なのである。
教会メンバーのクリスチャンたちは、何かと問題があると、「牧師」や「牧師夫人」に頼りがちだ。悩みを聞いてほしい。教会メンバー同士のいざこざを解決してほしい。どうしたらいいか、教えてほしい。そういった人間の弱さが、いつしか「牧師夫人はこうあるべき」という虚像を作り出しているのである。
映画「パウロ」には、こんなシーンがある。舞台は、イエスの時代の少し後、イエスを信じるクリスチャンたちが大勢殺されていたローマである。当時のクリスチャンたちは、街から出るか、それとも留まるのか迷っていた。答えが出ない彼らは、牢屋に閉じ込められていたパウロに助言を求めた。スパイを牢屋に送り込み、パウロに次の行動を示してほしいと頼んだのである。しかし、パウロはこう言った。「神に祈れ。どうすればいいかは神が示す」と。
おいおい、パウロさん、そりゃないよ。そうツッコミを入れたくなる場面だが、実はとても重要な教えがここに示されている。「人より、神に頼れ」という教えだ。パウロは一貫して姿勢を変えなかった。「答えは私が与えるものではなく、神が与えるものだ」。パウロは筋を通したのであった。
クリスチャンたるもの、人ではなく神に答えを求めるべきだ。「牧師」や「牧師夫人」に頼りきりの人々の中には、果たして神に祈っているのだろうか。というか、いい大人なんだから、なんでもかんでも人に頼るのはいかがなものか。クリスチャンは神という、絶対に変わらず、ずっとそばにいてくださる、いや、心の中に住んでくださる絶対的な存在を知っているはずだ。であるならば、その神に祈り、答えを求め、たとえ明確な示しがなくとも、神に信頼して自分で決断して歩むことはできないものなのだろうか。何も分からない子どもじゃないんだから、神に頼りつつ、自分の足で歩め! と、私は言いたくなる。
結局のところ、このクリスチャンの弱さ自体が、「牧師」や「牧師夫人」、ひいては教会や団体のリーダーたちに、いらないプレッシャーや責任感を与え、がんじがらめにしてしまっているのである。頼るだけならまだしも、「こいつは牧師にふさわしくない」とか「牧師夫人にふさわしくない」とか言い始めたら、ただの小姑である。「だったらお前がやれよ」と言いたくなる。
聖書の教えはこうではないか。「互いに愛し合いなさい」。そこに、「牧師」だとか、「牧師夫人」だとかいう役職は、全く何も関係ない。
▼聖書は共同体に何を求めているのか
では、共同体の中では、みながどのように行動したら良いのか。聖書の記述から、私のオススメをいくつか紹介する。
1:自分で聖書を読む
このブログで何度か紹介しているが、聖書に「ベレア」という町が紹介されている。以下のように書かれている。
この町(ベレア)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことば(聖書の言葉)を受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。
(使徒の働き 17:10~11)
この人々は、使徒パウロの言葉でさえも、ある意味で「疑い」、「非常に熱心に」、「毎日聖書を調べた」のである。権威のあるリーダーの言葉を、そのまま丸呑みするのではなく、聖書の言葉にその真理を見出そうとしたのだ。
クリスチャンは、ベレアの人々に倣うべきである。自分で聖書の言葉を読み、自分で考えるべきだ。幸い、宗教改革以降、たくさんの言語に聖書は翻訳され、ほとんどの人が自分の母語で聖書を読むことが可能になった。もはや聖書学校に行かなければ聖書を学べないというのは、幻想である。私はよく「聖書学校(神学校)に通っていたの?」と聞かれるが、全く行ったことはない。このブログの記事程度のことは、自分で聖書を読めば分かることだ。
21世紀を生きる私たちは、自分の言語で聖書を読み、自ら学ぶことができる。自分の言語で聖書が読める。いくつもの翻訳が出ている。索引がついている聖書もある。疑問があれば、インターネットで無限に調べられる。無料のアプリで、聖書の注解が読むことができるし、単語が何回使われているかも調べることができる。
クリスチャンは、自分自身で聖書を読み、そこから学ぶべきである。
2:互いに教え合う
自分で学ぶだけでなく、互いに教え合うのも重要である。「教会」という名の共同体があるのは、そのためだと言っても過言ではない。聖書にはこうオススメされている。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
(コロサイ人への手紙 3:16)
ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。
(テサロニケ人への手紙第一 5:11)
牧師から一方的に教えを受けるのではない。あなた自身が学び、そして、互いに「知恵を尽くして教え、忠告し合う」必要がある。互いに教え合い、励まし合うのが、共同体の目的である。これは、「牧師」や「牧師夫人」だけに命じられたことではない。イエスに信頼する全員に語られた言葉である。
3:互いに愛し合う
教え合うだけでは物足りない。イエスの教えは何だったか。今一度振り返ってみよう。
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
互いに愛し合う。これがイエスの教えである。繰り返す。これは決して、「牧師」や「牧師夫人」だけに語られた言葉ではない。イエスに信頼する者、全員に語られた言葉である。
誰が、「牧師」だけに教える役目を命じたのだろうか。誰が「牧師夫人」が悩み相談を受けることを命じたのだろうか。誰が、「牧師夫人」を調停人に定めたのだろうか。誰が「牧師夫人」をお掃除メイドに定めたのだろうか。誰が「牧師夫人」を完璧超人ロボットに定めたのだろうか。それはあなたが勝手にイメージしたことであって、神が定めたものではない。
教会という名の共同体は、「キリストのからだ」という比喩で語られている。からだで要らない部分はない。あなたという存在は、共同体になくてはならないものである。さあ今、共同体の中で、愛を実践しようではないか。
・・・いかがだろうか。他にも挙げればキリがないが、まずはこの3つを心に留めて、行動してみたらどうだろうか。それに加えて、「牧師」や「牧師夫人」などという、くだらないラベリングはもうやめたらどうだろうか。
私の妻は、「テレビ局政治記者夫人」と呼ばれるのだろうか。この世で「●●夫人」と呼ばれるのは「首相夫人」くらいのものであって、他の職業や役割に「夫人」をつけたらこっけいだ。「公務員夫人」「システムエンジニア夫人」「弁護士夫人」「大学教授夫人」「消防士夫人」「警察官夫人」「ケーキ屋夫人」「本屋の店主夫人」「野球選手夫人」「医者夫人」「作業療法士夫人」「トラック運転手夫人」などとは呼ばないだろう。まさか「フリーター夫人」と呼ぶ人はいまい。職業に貴賤がないのなら、なぜ呼び名を変えるのか。
結局、これはくだらない人間のラベリングなのだ。そんなものは無視して、一人のイエスに信頼する者として歩もうではないか。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。