週刊イエス

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私的読書(1) ▼「生き方の問題なんだ。」[著]大嶋重徳・桑島みくに・佐藤勇・吉村直人

【読書感想文】

▼「生き方の問題なんだ。」[著]大嶋重徳・桑島みくに・佐藤勇・吉村直人、を読んだ。

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https://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A0%E3%80%82-%E5%A4%A7%E5%B6%8B-%E9%87%8D%E5%BE%B3/dp/4264036208

 

私はかつて様々な本の感想を書いていた。あんまり香ばしいつぶやきが多いと、Facebookおじさんになってダセェなと思って、最近は控えていた。

しかし、この本の著者である佐藤氏、吉村氏は大学時代のサークル・KGKの同期であり、友人だ。友人の著書は読んだ上でコメントせにゃあ失礼でしょ。早速Amazonで取り寄せて読んだので、ここに感想を載せる。

 

この本については、先に尊敬してやまない神戸くんが見事な書評を書いている。僕は彼のような文章力も知識もない。読書量も圧倒的に足りない。デリカシーもない。彼のようにバランスがとれて、的確な指摘ができたらと、心から思う。妬ましいくらいに。

 

でも、開き直って、僕は僕なりの表現で書いてみた。ぼかぁやっぱりテレビマンなので(一度テレビマンと言ってみたかっただけ)、分かりやすく伝えるのがモットーだ。分かりやすくするためには、オブラートを取らないといけない。厳しい指摘もする。けれども、知る人だからこそ、あえてそうしたい。佐藤氏と吉村氏は友人、大嶋氏とも何度か個人的に話したことがある。桑島みくに氏は、直接の会話こそないが、集会に同席したことはあるし、人となりは伝え聞いている。みくに氏の兄、大志氏は同じサークルの同期であり、友人である。著者全員とそんな関係だからこそ、あえて厳しい表現で感想を書きたい。

 

自分の名前で本を出したからには、当然どんな批判も受けると、覚悟の上だろうから。

 

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【はじめに】

▼率直な感想
本が届いて、1時間で読み終わった。

 

率直な感想は、「中身がない・・・」だった。この本に、1296円(税込)の価値があるかと言われたら、残念ながらないと思う。

 

なぜか。ハッキリ言って、タイトル詐欺だからだ。「生き方の問題なんだ。」というタイトルで期待して読むと、騙される。帯もウソだ。本の帯にこうある。

 

「この国でクリスチャン『らしく』歩むって、どういうこと? 教会、学校、職場、家庭、政治― 『生きる』ことと『信じる』ことに葛藤しつつも向き合ってきた、若者たちの等身大の声を綴る」

 

帯にある、「教会、学校、職場、家庭」の話は、ほとんどない。いや、全くない。あるのは「政治」のみ。タイトルと帯に騙されてこの本を読むと、神戸くんが言うように、「あまりに内容が政治的なので面食らってしまう」のである。

 

この本は、左翼・・・といったら怒られるので、「いわゆるリベラル」の目線から書いたエッセイ集だ。それを前提に読まないと、間違える。「生き方」を論じているのでもなければ、「クリスチャンらしさ」を語っているのでもない。「リベラル」な方々の、個人的な訴えだ。内容的には同人誌の域を出ない。自分の思いをツイートしただけの本であって、これが「クリスチャンらしさ」を語っている本とは、私はとても思えない。

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【構成の妙】

▼全体の構成について

本書の構成は、意図的な仕込みがある。

 

この本は、5部構成だ。

1:大嶋氏の序論

2:吉村氏のエッセイ

3:佐藤氏のエッセイ

4:桑島氏のスピーチに加筆したもの

5:大嶋氏の論文

 

詳しい内容は神戸くんの書評で見てもらうとして、僕なりの超簡単要約は以下である。

 

1:大嶋氏「クリスチャンの役目は、この世に『神の国』を実現することだよね!」

                                                          

2:吉村氏「クリスチャンは何をするにしても、信仰がないとダメだよね! クリスチャンは、日曜だけじゃなくて、全領域でクリスチャン! だから政治も語るよ。でも何が正しいかは、罪人である人間は判断できないからね! 批判だけ上手になったらダメだよね。そこんとこヨロシク」

 

3:佐藤氏「SNSとかで一方的な主張する、政治的思想の違う学生と分かり合えんかったわ~。キリストの体だから受け入れ合う議論をしないとね! でもじっくり話したら、学生は僕の意見を聞いてくれたよ! 良かった良かった!」

 

4:桑島氏「安保法制絶対反対! 憲法守れ!! クリスチャンたるもの、敵のために祈るべし!!! だからアベのためにも祈るよ!!!!」

 

5:大嶋氏「過去の日本の教会は、神社参拝に妥協した! 正しい歴史認識を! だから自民党改憲草案はヤバイ! なんとか食い止めないと! 道徳の教科化もヤバイ! 右翼的な教師だと左翼は成績下げられる! このままじゃ教会が運営する学校が税金貰えなくなったり、神社参拝や君が代斉唱を強制させられるよ! ヤバイよ!」

 

・・・おわかりいただけただろうか。

 

1,2,3章は、意図的に政治色が抑えられている。本音を言う前の、準備運動だ。この3章全てを使って、予防線を張っているのだ。「若者たちの等身大の声」という免罪符を盾に、「この後の主張に対して、批判しないでね!」と暗に訴えているのだ。批判されぬよう、いや、批判した側が悪者になるよう、1~3章で予防線を張りに張りまくった上で、4章、5章の主題へと続いていく。それが、この本の意図的に仕組まれた構成なのである。巧妙~!

 

 

【各章の感想まとめ】

▼全体として

この本の主張に、特別新しい内容はない。ちょっとがっかりした。

 

私は、政治記者だ。担当は野党全体だ。野党の取材中、この本と同じ主張をよく耳にする。正直、耳タコの話なのである。

 

本書が言いたいことは、とどのつまり「安保反対」であり、「憲法改正反対」なのである。その主張は、共産党の会見の内容と全く変わらない。

 

 

▼大嶋氏の序章

簡潔に言えば、「クリスチャンはこの世界に『神の国』を実現させるのが使命だ」。という内容。「神の国」の実現こそが、生きる目的であり、「クリスチャンらしく」生きることだ、というのである。

 

神の国は、イエスさまの十字架と復活により、すでに始まっています。しかしいまだ完成はしていない。私たちは『やがて』完成するあの希望の神の国の完成を待ちわびながら、憧れながら、指さしながら、『すでに』と『いまだ』の間<ルビ:はざま>で、葛藤しつつ、祈りつつ神の国建設をするのです」(21P)

 

まぁ、おおむね同意。

 

しかし、「神の国」を実現させるとは、どんな生き方か。具体的な言及はない。「平和とは関係性だ」(23P)というカッコイイ主張はある。その通り。では、それはどういう「生き方」なのか。記述が全くない。大大大前提である「神の国」が何なのかの定義づけもしていない。

 

そう。この1章は、ただふんわり、やんわり、「クリスチャンらしく、この世に神の国をもたらそう~!」といってるだけ。中身がまるでない。そりゃそうだ。曖昧な表現の理由は、この1章が本論ではなく、5章で本音を言いたいがための、予防線だからである。

 

実は、この1章には決定的な認識のズレが隠されているのだが、それは後述する。ここでボタンがかけちがった読者は、「あれ? 何かがおかしいぞ」と違和感を覚えながら読み進めることになる。

 

大嶋氏が、やんわりと「クリスチャンらしさ」を語った後に、吉村氏のエッセイが続く。

 

<※ちなみに、昨今の情勢の中、現実問題として安全保障どうするのよとの問いに、「本物の外交をすればいいんだ」(27P)とあったのは呆然とした。あじゃぱー。じゃあ、やってみろよ、と。どれだけ外交が難しいか、分かった上での発言なのか・・・。ここで知らない著者の本だったら流し読み決定だょ・・・>

 

 

▼吉村氏のエッセイ

吉村氏の記述を見てみよう。

この章の要約は一言「批判しないで!」。

 

「よく考えてみれば“正しい”とはだれが判断するのだろう。この意見が正しく、この意見は間違っている、と私たちはほんとうに判断できるのだろうか。罪人である私たちが振りかざす“正しさ”には限界がある。『だからこそ聖書根拠を!』というのはそのとおりであるし、聖書から正しさを語ることは大切であると思う。クリスチャンは何よりも聖書(みことば)によって生かされ、基準はそこにあるべきである。

 しかし、この類の話題で聖書根拠の話が持ち出される場合、信仰を抜きにし、自分の主張の論理づけのために用いられていることが多いように思う。『聖書にこう書かれているから私の主張は正しいのだ!』というのである。このアプローチは魅惑的である。聖書的根拠を持ち出せば『クリスチャンとして正しい』かのように思えるからである。正しいと自信がもてれば安心できるのだ」

「『私は全領域でクリスチャンである』というのは、政治の領域でも、自己理解においても、である。真の主権者であられる神さまを抜きにして、自分や自分の論理的正しさが神にならぬよう、慎重な吟味が必要であると思う

「クリスチャンにとって問題なのは信仰である。そこに信仰はあるのか。そこにキリストはおられるのだろうか。信仰を抜きにしてこの事柄を考えるとき、意見の合わない相手への不満は募り、怒りで心が支配される。そして相手を裁き、対話は消え、批判することだけ上手になっていく」

(50~52P)

 

 

吉村氏の主張は、正しい。それだけ見れば。まさに正論だ。彼の主張に反対する人はいないだろう。私だって反対しない。その通りだと思う。共感する。感銘も受ける。

 

しかし、この本全体の流れを見た場合、私はどうしてもウラの意図を感じてしまう。言葉のウラを読むのは、記者の悲しい性なのだ。

 

吉村氏の主張は、

→「罪人の正しさは限界があるよね」

→「聖書を根拠にする人はたいてい、自分の主張を理論武装したいだけ」

→「自分の主張、正しさが一番にならないように注意しなきゃね」

→「信仰抜きにすると、批判だけ上手になるよね」

となる。

そう、この章を読むと、まるで批判そのものが悪で、信仰がない行為のように感じるのだ。聖書を根拠に批判する行為は、まるで罪かのように書かれている。

 

いやいや、ちょっとまってよ。そうじゃないでしょ。

 

批判する行為は、一切許されないのだろうか。聖書はそう教えているだろうか。パウロはズレてしまった兄弟姉妹を戒めたのではないか。彼は、ユダヤ人を優遇したペテロを恐れず批判したではないか。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルはどうか。ヤコブの手紙は例外なのか。イエス自身も言ったではないか。「ああ、白く塗った壁」と。

 

ともすると、聖書の先人たちはみな痛烈な批判をしているのである。もちろん、愛を持って。聖書から、神の言葉からズレてしまった言動を兄弟姉妹がしていると判断するとき、信仰を持って、兄弟姉妹を戒めるのは、愛のある、当然の行為ではないか。

 

だから、私は信仰を持って、愛を持って、確信を持って、同意することは同意し、違うと思うことは違うと言う。見て見ぬふりは、私にはできない。

 

 

▼佐藤氏のエッセイ

次に、佐藤氏の主張を見てみよう。一言要約「待て、話せばワカル」。

 

「そういう学生(※右寄りの考えを持つ学生)は、『政治思想が違う』と言って、そのような集会(「キボコク」のような左寄りの集会)にはあまり来ようとしない。★その代わりにSNSなどで自らの意見を主張したりします。主事として、私がほんとうに悩んだことは、そういった学生たちとの関わり方です・・・(中略)・・・私が何よりもまず受け取ったこと。それは、その学生が傷ついている、ということでした。多くの学生たちが『安保法制反対!』と『盛り上がる』(あえてそういう言葉を使います)中、自分の政治思想とそれが相容れない、ということに気づき、葛藤してきた・・・(中略)・・・その結果、その学生は間違いなく傷ついていたのです。

 主事として、私は彼の政治思想云々の前に、まず、彼が交わりの中で傷ついているということを認める必要がありました。対話の橋を焼き落とされたかような<※誤植ママ※>感覚を味わっている、ということと向き合う必要がありました。SNSなどではとても強気で、一見乱暴にすら見えるコメントを交わす彼ら。老若男女問わず、そういう人はいます。けれども、その彼らをいかに説得するかと考えるよりもまず先に、そこには傷があるということを、私は主事としてその学生と関わる中で知りました」(67~68P)

 

 

友人だからあえて言う。この記述は偽善ではないか。

 

「来ようとしない」、「SNSで自分の意見を主張する」、「葛藤してきた」、「その学生は傷ついていた」、「SNSなどではとても強気で、一見乱暴にすら見える」、「そこには傷がある」、etc…

 

これらの表現から、読み取れるのは何か。

明らかにこの学生(「彼」となっているのでおそらく一人の男性でしょう)を蔑視する筆者の心理ではないか。「傷ついている」という見せかけの優しさを前面に出しているものの、本心はその逆。「彼の間違った行為は、傷ついていることが理由だ」という理論なのだ。少数派の意見を持ち、「葛藤する」のが当然というのは、哀しい日本人の思い込みだ。

 

また、ここでSNSのやり取りを例に出すことで、SNSで異なる政治信条を書き込むことが、悪い行為であるような印象を与えているのも、巧みな印象操作である。

 

そして、佐藤氏のエピソードは、こうも続く。

 

「その学生は、対話の中で『そりゃあ、人が一人も縦断で死なない世界のほうがいい。殺し合わない世界の方がいい。軍は、ないに越したことはないんだ、ほんとうは』というような趣旨のことまで言うようになりました。その意見で、私たちは心から同意することができました。『政治思想が違う』二人でも、神さまの御前に一緒に出るなら、ちゃんと対話できるということを噛みしめた経験でした」(71P)

 

この文章を見れば、学生の意見を聞こうという姿勢がまるでないのは明々白々である。佐藤氏は、学生を説得し、「心から同意することができた」と言う。「神さまの御前に一緒に出るなら、ちゃんと対話できる」と言う。

 

ちゃんちゃらおかしい。言い換えたら、「神様を認めたら、やっぱり自分の主張が正しかった。やっと相手が認めてくれた。良かったわ~」でしょ? そう思えるのは、私だけだろうか。考え過ぎだろうか。私には、相手の主張を聞こうとする姿勢が、まるで見えないのだが。「オレが粘り強く話したら、学生は成長したよ!」という議論なのだ。

 

張りに張りまくった「批判予防線」が1~3章で終わり、ついに本論へと突入していく。

4~5章では、この本の主な主張、「安保法制反対!」とか、「憲法改正反対!」とか、そんなものだ。当然、批判が出そうな内容だが、もう大丈夫。この1~3章でバッチリ批判対策は済んでいる。

 

批判したくなった読者は、罪悪感にかられる。それが、この本の構成の罠なのである。これが意図的になされているのである。

 

私は、本書を読んでいる途中、この構図に気がついた。身震いした。背筋が凍った。

この批判を許さない空気こそが、戦時中の教会組織ではなかったか。

まさにこの本は、今の日本の教会組織の縮図なのだ。KGKという団体の縮図だ。

親分が言うことに、一切の批判は許されない。批判する者は村八分にする。桑島氏が敵と表現する「安倍政権」のうつし鏡だ。

 

前言を撤回しなければいけない。1296円(税込)を出す価値はあった。今の教会組織の縮図を知るのに、安すぎる値段だった。

 

さて、4章の桑島氏のスピーチ原稿から、いよいよ本書の本格的主張が始まる。

順に見ていこう。

 

 

▼桑島氏のスピーチ原稿

一言要約「私は怒ってるぞ! 桑島・魂の叫び」。

 

桑島氏のスピーチ原稿からは、ものすごい情熱を感じる。本人の叫び、怒りが耳を通り過ぎて、心も刺し通す。

 

特に、この部分は本当に素敵だ。

 

「イエスさまは特に、敵のために祈ることを教えられました。

 クリスチャンの友人と共に祈るとき、世との違いを決定的に感じるのは、権力者、政治家のために祈ることができるということです。安保法案に反対しながら、安倍首相をはじめとする政治家のために祈る人、その背後にいる地上の権力者のために祈る人、脅威とされている周辺諸国やテロリストのために祈る人が、どれだけいるでしょうか」(93P)

 

 

私もさすがに、テロリストのために祈った経験は、ほとんどない。この熱い想いは、感動する。すごく素直で素敵な信仰だなぁと思う。率直に。

 

ただ残念がら、桑島氏の主張は、一定の価値観でしか語られていない。正直、視野が狭い。逆サイドの人間にとっては、「言いたいことはわかるんだけど、俺はそうは思わないなぁ」で終わってしまうのである。一端の「リベラル活動」をしている学生とほぼ変わらない。

 

もうここまで来ると、「きのこ派」と「たけのこ派」の争いレベルなのである。どっちも譲れないのである。そして、どっちも美味しいのである。

 

また、詳しくは述べないが、「世の権力者より、真の権力者の神様に従うべきだ」との、桑島氏のローマ13章の解釈についても、異論があるところだろう。そうした、価値観の違いを乗り越えられる余地が、残念ながら見当たらない。桑島氏には、違う立場の人間と、もっとコミュニケーションを取ってみることをおすすめしたい。感情だけでなく、論理的に語る訓練をしたらいいと思う。あくまで、コウマンチキな僕からのおすすめである。

 

 

▼「平和」の概念がそもそも違う。

私は桑島氏の主張には賛成できない。なぜか。

 

「平和」の概念が根本的に違うからだ。どう違うかというと・・・

 

・桑島氏の「平和」

→人が死なない。武器がなくなる。戦争がなくなる。自由が認められる。人の手で成就可能。

 

・私の「平和」

→2つの対立し、関係が断絶していたものが、関係性を回復、または創始する。死と罪の原理から開放され自由になる。人ではなく、イエスの犠牲、聖霊の働きにより成就可能。

 

私は、イエスを唯一の救い主、メシアと信じる。彼が私達の罪を背負い、死に、葬られ、そして3日目に蘇り、死を打ち破ったことを信じる。彼が天にのぼり、私達の場所を準備していることを信じる。そして、私達には助け手である聖霊が与えられていると信じる。聖霊によって、イエスを知り、信じ、日々、新しくされると信じる。もはや死の法則に縛られないと信じる。それでもなお自分は不完全だと認める。だからこそ日々新しくされたいと願う。聖霊によって、一日でも早くイエスが帰ってくることを信じ、願う。マラナタ・帰ってきて下さいと祈る。イエスが、オリーブ山に足をつけて帰ってくると信じる。新しいエルサレムの創造を信じる。王の王、主の主が君臨する新しい天と地こそが、真の平和の完成であると信じる。私達は、聖霊によって、その前の一部分を味わい、実践できると信じる。

 

それが私の信仰である。

 

私は、日本共産党が主張する「平和」を、「平和」とは思わない。残念ながら思わない。それが私の信仰である。

 

神はいる。でも、人は毎日ボンボン死ぬ。子どもが餓死する。交通事故である日突然、両親がいなくなる。妹が誘拐される。親友が病気で死ぬ。台風でおばあちゃんが死ぬ。真面目なサラリーマンが痴漢冤罪で捕まり、家族が崩壊する。女子高生がレイプされ、殺される。ラーメン屋が起こしたボヤで街が焼ける。教会が銃撃されて、礼拝していた人たちが全員死ぬ。世の中は、不条理だ。

 

現在、この空中を支配するのはサタンであるのは事実だ。死は罪の結果である。

 

しかし、神は圧倒的な権威をもって尚、なぜか不条理をゆるすのである。これは、人間が最後まで完全に理解できない、「創造主の不条理」である。ソロモンも言っているではないか。

 

「むなしいことが地上で行われている。悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい」(伝道者の書8:14)

 

しかし、エレミヤやローマに記述があるように、造られた側の陶器は、陶器師に文句は言えないのである。ソロモンは、上の言葉の次に、こう語っている。

 

「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない」(伝道者の書8:17)

 

すべては神のみわざであり、人にはそれを見きわめられないのだ。

 

誤解を恐れずに言おう。毎日、国会で取材している私からすれば、「議会制民主主義」も「立憲主義」も「資本主義」も、信じるに値しない。そんなの、所詮、不完全な人間が考えだした制度なのだ。「パクス・ロマーナ」をマジで信じてた時代もあった。「社会主義」が理想と思っていた時代もあった(まだ信じている人もいる)。そんなものは全部クソ食らえ、とさえ思っている。大体、「立憲主義」なんちゅーモノが流行っていたのはせいぜい明治、大正くらい。時代遅れだ。大体、そんなのは先進国の常識であって、まだまだ独裁が当たり前の国だって腐るほどあるのだ・・・。民主主義が至高と思っている人は、視野が狭い。

 

私は、再臨がもっと遅ければ、「資本主義」や「民主主義」だって終わりが来ると思う。「歴史の終わり」はウソだと思う。「アラブの春」が証明している。フランシス・フクヤマの信者がいたら謝る。私は、どちらかというと「ブラック・スワン」派なので(トランプの登場とかマジでそうでしょ)。

 

これはもはや、「たい焼き、頭と尻尾どっちから食べる?」論争なので、これでヤメる。ま、そういうわけでいろんな考えがあるけど、イエスの再臨を待ち望んで、聖霊によって新たにされ続け、ミニ・イエス化していけば、それでええんやないかい? 方法は何でも。

 

桑島さん、あなたの情熱は素晴らしい。主にあってがんばってください。私はあなたと考え方は違うけど、主にあって応援しますよ、というのが私の感想である。

 

 

▼大嶋氏の論文

さぁて、本番キマシタ。

5章の論文。これが書きたいがために、この本を書いたといっても過言じゃない。

 

前段は、日本の教会の歴史の振り返り。ぶっちゃけ、もうそろそろ書くの疲れてきたので、簡潔に書くと、

 

→かつて日本は全体主義で、国全体が神道になったよ!

→教会は認められるためにめっちゃ妥協したよ!

→そのせいで、多くの教会が文化とかいって神社参拝をしてしまったよ! 内村鑑三は頑張ってたけど、そのせいで教会から仲間外れにされちゃったよ!

→ニッキの冨田とかいう牧師は神社参拝を自分がしただけじゃなくて、わざわざ韓国まで行って神社参拝を強制したよ! マジキチだね! 

→でも当時はそれが普通になっちゃってたんだよ!

→もう二度とこういうことはしないようにしようね!(←ここまではワカル)

→だから安保法制絶対反対!(←は?)

自民党改憲草案反対!!(←へ?)

→道徳の教科化も反対!!!(←ほぇ?)

→正しい歴史認識を!!!!(←パククネかな?)

→ジジイになっても孫に「俺は戦った」と自慢しようね!(←ほぇ~~~ cv.丹下桜

 

と、こんな感じ。

 

いや、わかる。わかるよ。わかるんだけれども。

 

「もう二度とこういうことはしないようにしようね!」(←ワカル。2回目)

 

うんうん。その通り。

 

神社参拝はクソだし、妥協したやつらは情けないよね。完ペキ偶像礼拝やんけ。特に冨田とかいうニッキの牧師は何考えてたんやろ。ありえへんわ。韓国にまで行って神社参拝オススメしてまうなんてもう精神トチ狂っとるやろ。そら韓国人に恨まれるのも当然やわ。そら韓国に行けば、「日本の教会は悔い改めてないから信者が増えないんだ」とか言われるわ。そらあかんわニッキさん。反省して、もう二度とやらないようにするべきですわ・・・・・・。

 

でも! でもよ?

 

それが何で「安保法制反対!」になるの? それが何で「憲法改正反対!」になるの?

 

意味がわかりません。

 

「正しい歴史認識を!」「アジアの学生と話せ!」というのも意味分かんないっす。

 

いや、広い視野を持つことは大切よ? そらもちろん。人生勉強でっせ。ただ、昔日本の教会がしたことを謝罪しろ、っちゅうのは意味が分かりまへんねん。当時妥協した人が生きていて、「あの時は悪かった」ちゅううならワカル。それならワカル。

 

でもさ~~~俺マジで生まれてすらないし、ウチの家族は元々ノンクリスチャンだしなー。ウチの祖父は戦時中まだ10歳にもなってなくて戦争も行ってないし、唯一行った祖父の兄は派遣されたの朝鮮半島じゃなくて沖縄だし。むしろそこで戦死しとるんですが。なんで全然関係ない韓国の教会に謝らなきゃあかんねん。イミフやわ。

 

聖書に、「先祖の罪では裁かれない」と書いてないっけ? イエスさまも、「この人に罪があるから盲目なのか?」と聞かれて、「いや、神の栄光が現れるためだ」と言わなかったっけ?

 

なんで当時のニッキとかがやったことを俺が謝らなきゃいけないの?! 意味ワカラン。100歩譲って、俺がニッキのメンバーならまだギリ理解可能だけど、全く関係ないしな・・・。クリスチャンだから謝るの? クリスチャンだったら自分の関係ない人の戦争責任も負わなきゃいけないの? アメリカ人のクリスチャンから原爆ゴメ~ンって言われたことないんだけど? そのロジック成り立つなら、元寇謝れや~。エゲレス人もインド人と中国人に土下座しろや~。アメリカ人はベトナム人朝鮮半島の人、シリアの人、イラクの人、そもそもネイティブアメリカン、その他いろいろな民族に謝らなきゃいけないね! そう言うと、トンデモ主張っていうことが、よく分かるでしょ?

 

ま、勉強して、過去の過ちを繰り返さないのは大事です。人間として当たり前。

 

でも、でもよ? Again、なぜそれが「安保法制反対!」になるんだ? なぜそれが「憲法改正反対!」になるんだ? なぜそれが「道徳の教科化反対!」になるんだ? そこのロジックがぶっ飛びすぎててもう・・・。

 

コメントするに値しません!

 

ま、分かってもらえたと思うけど、最終章は、全く理解できないロジックなんですな。ただの一個人の叫び、みたいに受け取ったらええんかな。

 

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【大嶋ロジックの非現実さ】

 

▼妄想をベースにした妄想

大嶋氏の最後の論文のロジックはめちゃめちゃ。

極端な想像がベースとなった上での予想・妄想なのである。仮定の上に重ねられた仮定を前提に話が進んでいく。議論がどんどん現実離れしていく。

 

短い章なので、ひとつずつ簡潔に見ていく。

 

靖国と教科書問題

何が問題なのか提起していない。事実をつらつらと書いているのみ。「自虐史観」からの脱却を目指す教科書の変更がなぜ問題なのか論じていない。そもそも「自虐史観は間違っている」という「いわゆる右翼的思想」は、最初から受け入れる気がないのである。

 

▼国歌斉唱問題

なぜ「君が代」を歌うのがダメなのか。言及がない。ええやん。国家ぐらい堂々と歌ったら。別にそんなん個人の自由やろ。ま、たしかに教員が起立せえへんかったらクビになるっちゅうんは、やりすぎやと思うで。それはさすがにアカンわ。日本の学校の常識はほんと毎回ド肝抜かれるで。

でもなんで問題なんか、ここでも触れとらん。「君が代」は天皇へ捧げる歌であってクリスチャンたるもの歌うべきではない、という前提がここにもあるんやな。

僕はエホバから入り、プロテスタントの信仰を持ったケースやけど、エホバの頃は確かに、国家とか校歌とか歌ったらあかんかったわ。だから口パクしてたわ。同じ穴のムジナやね~。

 

▼信教の自由

はいでました。妄想その1。引用が2002年の官房長官会見て。笑えるわ。昔か! 

15年前の話をよく見つけて引っ張ってきたな~ちゅう感じ。じゃあ今の内閣も同じ認識か聞いたらええよ。長官会見は、金曜の午後ならフリージャーナリストでも誰でも申請すれば入れる。そこで聞いてみたら? ただ、具体的に「プロテスタント教会は該当しますか?」ってね。長官が「はい」って言ったら、トップニュースですね。言うわけないやろ。全く現実的じゃない妄想レベルの話。

 

憲法改正

妄想その2。ナチスて。共産党の会見でよく聞く論法ですね。別に共産が悪いんじゃないけど、そういうレベルの話、ということをご認識いただきたい。

 

そして、この小節の最も重大な欠点は、「勉強不足」ということ。

 

新聞読んでれば分かるレベルだが、この自民党改憲草案ができたのは、自民党が野党に転落した時の時代。この草案は、正直超絶右寄り。そりゃそうだよ。野党なんだから、「色」を出さないと、支持は回復しない。

 

当時の総裁は谷垣総裁。自身は「宏池会」という、自民党の中のリベラルと言われる派閥。谷垣総裁自身の意見だったら、こんな超右寄り改憲草案は出てこない。自分の意思にフタをしてまで、何とか自民党の支持を回復しようと、思いっきり右に振り切れたのが、この自民党改憲草案。野党・自民党の「苦肉の策」であり、実現しないことは分かった上でのアピールなのだ。だから安倍総裁は、絶対に「谷垣総裁時代の憲法草案」と言う。自分は違いますよと言いたいのだ。野党の政策は、実現するつもりで作っていないというのは、永田町の常識だ。

 

しかも、自民党は安倍総裁の指示で、党内の憲法調査会で、年内に新しい改憲草案を作るべく動いている。年内はさすがに厳しいと思うが、年明け、春ごろには新しい改憲草案が出来ているだろう。全く違うものができるかもしれない、というか、できる。それを見極めてから、「自民党改憲草案が~」と言ってほしい。実現するのは、与党の政策なのだから。

 

今年5月の安倍総理のメッセージビデオを見れば、安倍さんがやりたいのは「憲法9条」なのは明々白々。それなのに、「20条」とか「89条」とか、全く議論にもなっていない部分の、しかも草案を部分を取り出して、「このままじゃヤバイ!」とか叫んでいるのは、正直哀れにすら感じる。今、自民党改憲派の議員に「20条とかどうですか?」と言っても、絶対に「は? 何言ってんの?」というリアクションされるに決まっている。

 

この小節の議論は、「野党時代の草案」という実現しない妄想をベースに語っている上に、「議論にすらならない20条や89条」を取り上げて「信教の自由が脅かされる!」と騒いでいるにすぎない。妄想の上の妄想で、実現するとはとても思えない、夢物語なのだ。夢を語るなら、ポジティブな夢がいいと思うのは、私だけだろうか。

 

憲法改正には、まず衆参両院で3分の2以上という、とんでもなく高いハードルがある。衆院は自民が大勝したが、それでも衆参両院となると、公明党や維新の党などの協力は、絶対必要になる。両党とも9条改憲は積極的ではない。

その上で、国民投票過半数という、これまたむちゃくちゃ高いハードルが待っている。国民投票で否決されたら、安倍政権はおろか、自公政権がピンチになる。それだけリスクのある試みなのだ、憲法改正というのは。

 

というか、大前提として、「憲法改正」は悪ではない。改正派もいれば、非改正派もいる。護憲派もいれば、護憲的改憲派(今の憲法が現状に合わなくなってきているので、現行憲法の精神を保ちながらあなわい部分を変えるべき)もいる。それすら許さないという前提で本が書かれてるから、正直偏りすぎている。

 

私は、自分が生きている間は、憲法改正は難しいと思っている。戦争になったら別だけどね。

 

 

▼信教の自由と教育の問題

見逃せない表現がある。

 

「そして道徳の成績の結果で、通知表の評定平均値が上がるか下がるかが問われるようになったら、クリスチャンホームであっても『もう、しょうがないよ、形だけやっておけば』と親も、あるいは子ども自身も、教会もそう言う日が来るかもしれません。愛国心の強い、右翼的な教師が担任になれば、それはそんなに遠くない先のことになります」(134P)

 

ちょ、どこから突っ込んでいいのか・・・。大嶋氏の頭の中では、「文科省の認定する教科書の価値観」が、「右翼的」だと決めつけている。そして、クリスチャンであるなら右翼的価値観は間違っていると決めつけている。非常に大きな問題だ。愛国心を抱くクリスチャンは間違っているのか? そうではないだろう。ここまで自分の価値観でしかモノを語れないとなると、もうちょっと呆れて物が言えない。

 

 

▼5章まとめ

結局、第5章で示されている懸念は、以下のようにまとめられるだろう。

・大嶋氏の価値観が大前提としてある。

・ほぼすべてが実現可能性の低い、「想像」であり、「妄想」である。

・現実とかみ合わない記述が多く、勉強不足の点が多々見られる。特に、今の永田町の情勢を知らないようだ。

 

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神の国の概念】

▼大嶋氏の「神の国」と、私の「神の国」のイメージの違い

神の国」について、そもそも大嶋氏と私は、前提が違うようである。

 

大嶋氏の1章にある、「神の国の建設はすでに始まり」は、私のイメージとは少し異なる。ニュアンスレベルだが。

 

私は、「聖霊によってその前の香りの一部を味わっている」と信じる。私のできる「神の国建設」は、もっとミクロなものだ。しかし、聖霊が働きまくったら別。国も歴史も変わる。それを恐縮ながら、マジで望んでたりする。でも、マクロな変化は、ミクロな変化から起こっていく。イエスはそういうリーダーだった。

 

基本的に、私の思う「神の国建設」は、ヒカルの碁でいえば、北島さんが碁会所でヘボ碁を打つ程度のものである(伝わる人にだけ伝われば良し)。大嶋氏のいう「神の国建設」は、我々人間が頑張って「神の国」を建設し、それがやがてイエスの再臨で完成するという認識である。細かいけど伝わるかな~コレ。ニュアンス大分違うんだけどね~。語彙力なくてムズいわ。

 

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↑これが北島さん。「ヒカルの碁(21)」<ジャンプコミックス

 

私は、自分の力を信用していない。聖霊のとんでもない力は信じる。イエスを信じる信仰も聖霊。日々新しく自分を変えるのも聖霊。壊れた関係を回復するのも聖霊。社会・コミュニティが大変化するほどの奇跡も聖霊である。

 

私は、「神の国とその義を求めよ」とは、一部は「イエスの再臨を待ち望め、その準備をせよ」と読み替えも可能だと思っている。しかし、「神の国」については、様々な意見があり、それを聞くたびに、新しい発見がある。

 

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【終わりに】

▼方向性の違い

本書は、私の価値観と、大きく2つの点が異なる。

「前提」と「適用」だ。

 

 

▼前提の違い

大嶋氏はじめ、本書の前提は以下だ。

・クリスチャンの生きる目的は「神の国」の建設。

・「神の国」建設は既にクリスチャンの手により始まっていて、頑張ってそれを成就して、いつか終わりが来て完成する。

・だからクリスチャンは平和を作らなければならない。

愛国心、右翼的思想はすべて平和的ではなく、悪である。

 

私の価値観の前提は、以下だ。

・クリスチャンの生きる目的は「神の国」建設計画の一部となること。

・「神の国」はイエスを中心とする私たちのただなかにある。聖霊の力によってその香りを味わい、「神の国建設計画」の一部となれる。イエスが帰ってきて完成する。

・だからクリスチャンは「本当の平和」のエッセンスを知っている。

愛国心、右翼的思想は、そもそも意見の別れるところであるし、各々の自由である。その中で、クリスチャンは壊れた関係を修復できる力が与えられている。

 

 

▼適用(行動ベクトル)の違い

大嶋氏はじめ、本書の「適用」は以下だ。

全体主義が進めば、教会はまた妥協し、国家宗教のえじきになり、偶像礼拝の罪を繰り返す。

・社会的情勢がそうならないよう、全力で食い止める行動こそが「クリスチャンらしい生き方」であり、「信仰」だ。

 

私の「適用」は、以下だ。

全体主義が進んでも、教会は妥協しない選択肢がある。

・どんな迫害や不利益があっても、それに耐えるのが「クリスチャンらしい生き方」であり、「信仰」だ。

 

大嶋氏は、「もし、信仰が理由で私学助成が得られなくなったらどうするんだ」と心配する。「道徳の授業で、成績を下げられたらどうする?」と、心配する。

いいじゃないか。私学助成と信仰、どっちを取るのか。成績と信仰、どっちを取るのか。答えは明白ではないか。例え貧しくても、迫害されても、成績が下がっても、いいじゃないか。イエスの犠牲に比べたら、安すぎてお話にならない。一度与えられ、握った信仰を手放さない。それが本当の信仰ではないのか。そんな熱い、まっすぐな信仰を期待してはいけないのか。「この世」の成功が、成功なのだろうか。私は違うと思う。

 

 

▼まとめ

長々と書いてしまった。悪い癖だ。気を悪くしたら謝る。申し訳ない。

 

しかし、黙って見過ごせるほど、私は大人じゃなかった。

 

前提となる「神の国」の定義から、そもそも認識が違う著者たちの本だった。ボタンがかけちがって当然である。

しかし、たとえ信教の自由が脅かされても、負けずに、戦えばいいのだ。戦うベクトルとタイミング、方向を間違えてはいけない。

 

重大な懸念を持って指摘したいのは、「批判した者が悪者になる」という、本書の構成である。意図的な仕組みに気が付き、戦慄した。批判を許さない空気、これこそが、今の日本の教会組織、KGKという組織の縮図である。日本の信者たちが、自分と違う意見を受け入れられるようになる未来を願う。

 

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:35、38~39)

 

 

このような信仰を持ちたいものである。

 

(了)