週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【まとめ】「週刊イエス」で筆者が伝えたかった5つのこと

週刊イエスも、これが公式には100記事目。何を伝えたかったのか、まとめました。

 

 

▼何を伝えたかったのか

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 基本的に毎週水曜日に記事を更新してきた「週刊イエス」も、これが100記事目である。ひょんな思いつきで始めたブログも、2年以上続いた。今では、毎週50ほどの国と地域から、4500PVほどのアクセスをいただくようになった。記事を読んでいただいている方々には、感謝したいと思う。

 読んでくださっている方々には申し訳ないが、この100記事を節目として、一旦「毎週」の更新に区切りをつけたいと思う。理由は、正直さすがにネタ切れになってきたのに加え、今年1月に結婚し、自分の中での優先順位が変化したからだ。聖書には、こんなユニークな規定がある。

人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。

申命記 24章5節)


 このように、聖書時代のイスラエルでは、新婚の男性は兵役が免除されたのである。その理由は「妻を喜ばせる」ため。私も、結婚したからには、妻との時間を大切にしたい。フルタイムの仕事もしながら毎週記事を書くのは、結構、時間も体力も知力も投資しなければならない。毎週続けるのは難しいと判断したところである。

 しかし、このブログはほそぼそと続けていきたい。これからは不定期の更新としていく。HUNTER×HUNTERぐらいの更新頻度にしたいと思う。まだ記事にしていない「温めている」インタビュー記事も3つほどある。リクエストはあるが、私なりの結論が出ていないがゆえに書ききれていないテーマ記事もある。それらの記事を、今後も楽しみにしていただけたらと思う。

 

 さて、私はこのブログを通して何を伝えたかったのか。もちろん、様々なテーマはあるが、振り返ってみて、大まかなポイントをまとめてみた。

 

 

▼1:クリスチャンの信仰は、あなたの人生を縛るものではない

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 このブログを始めたのは、「クリスチャンになったら毎週日曜日に教会に行かなきゃいけないの?」と、友人に聞かれたのがキッカケである。そこで、「クリスチャンになったら『毎週日曜日』に教会に行かなければならないのか?」の記事を皮切りとして、それまで個人的なメモに過ぎなかったブログを2018年3月1日に「週刊化」した。

yeshua.hatenablog.com

 クリスチャンではない友人と信仰について対話していると、どうやら「クリスチャンになると生活が制限される・一定の義務が生じる」という認識が一般的だというのが分かった。そのような「息苦しい」認識は、本来のクリスチャンとしての人生ではない。私が体験してきたようなイエスを信じる人生と、大きくかけ離れている。そう思った。そこで、今一度、聖書をひらき、イエスを信じる人生はどのようなものか考えてみた。

 毎週日曜日に教会に行く。「十分の一献金」をする。アルコールを飲まない。タバコを吸わない。教会で「奉仕」をする。クリスマスを祝う。そんな「クリスチャンのイメージ」は、全く聖書と関係ないと明らかにする。それがこのブログのひとつの目的だった。

 イエスに対する信仰は、日本人の多くがイメージするような、「あれはダメ、これはダメ、これこれをしなければならない」というような、人生を制限するものではない。むしろ、聖書にはこう書いてある。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

ヨハネ福音書 8章32節)

 

 イエスを信じる信仰は、あなたを解放し、自由にするものなのである。

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▼2:信仰だと思っているものは、ただの文化かもしれない

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 2つ目の大きなテーマは、クリスチャンが信仰として当たり前に考えているものが、実はただの「文化」ではないか、という問いかけだ。日曜日の礼拝会。クリスマスにイースター。「教会籍」に「牧師夫人」。大切だと思っているものが、実は聖書の記述とは関係なく、ただの「文化」だという可能性がある。もしかすると、聖書そのものよりも、この「文化」の方が大事になってしまっていないか。そうした問いかけである。

 さらには、教会での奉仕の強制、牧師への過度の依存、とりあえず「神学校」に行き、「とりあえず伝道師」になる・・・。こういった聖書にはない教会の「きまり」を、過度に重要視してはいないだろうか。もはや、イエスを救い主と信じる「キリスト教」ではなく、教会の文化を守るための「教会教」となってはいないだろうか。そういう問いかけである。

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 思えば、たいてい日曜日に行う「礼拝」も、「礼拝」とはいっているが、その儀式は全て文化によってできたものだ。賛美の歌を歌い、聖書を朗読し、牧師の説教を聞いて、賛美をして、献金をして、終わる。この「礼拝」の流れも、全部「文化」なのではないか。

 また、多くの人にとって人生に大きな影響を与える「恋愛・結婚」についてのテーマも、このブログでは大きく扱ってきた。「みこころの相手」や「過度な恋愛禁止」など、まるで聖書を無視したようなキリスト教文化によって苦しめられ、青春を歪められた人も多いのではないだろうか。このブログを読んで、少しでも解放される人がいたらいいなと思う。

 また、我々の知る「キリスト教」は、本来の聖書の文脈の大元である「イスラエルユダヤ」の背景から、大幅に逸れてしまっている。コンスタンティヌスやヘレナを始めとして、歴史上の人物たちは、聖書・信仰を「西洋化」し、政治的に利用してしまった。その結果、大切な伏線であるユダヤ的な背景が、聖書から切り取られてしまった。このブログでは、たびたび聖書の中のユダヤ的な背景に言及し、「キリスト教」という「文化」に警鐘を鳴らしてきたつもりである。読者の皆様に少しでも参考になれば幸いだ。

(参考記事)

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▼3:何に希望をおいているのか

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 クリスチャンは何に希望をおいているのか。無論、イエスにである。クリスチャンの基本的な信仰はこうだ。唯一の創造主なる神がこの世界を創造した。しかし、人は神と共に歩む生き方ではなく、自分の力で生きる方法を望んだ。それが「罪」であり、その結果、死が世界に入った。神はノアと契約を結び、アブラハムと契約を結び、モーセと契約を結んだ。それは全て、救い主(メシア)であるイエスによる契約の伏線だった。

 神であるイエスは、人間となってこの世に来た。そして、神と共に生きるよう、人生を方向転換を呼びかけた。様々な奇跡を行い、自分が神の子であると示した。そして、この世での最期に十字架で、私たち人間の罪を背負って、死んだ。3日後に、死を打ち破り、よみがえって多くの弟子たちの前に現れた。その後、イエスは天に上った。私たち人間は、このイエスを信じることのみによって、救われ、神と共に生きるようになれるのである。このイエスへの信頼が、クリスチャンの信仰である。自分の力で生きていた絶望から、神の愛が注がれる希望へと変わるのである。

 しかし、これで終わりではない。イエスは、天で私たちのために場所を備え、神が定めたそのときに、またこの地上に帰ってくるのである。そして、新しい天と地が創造され、私たちは一瞬のうちに新しい存在に造り変えられる。そして、いつまでも神と共にいるようになる。これこそが、クリスチャンの希望である。

わたし(イエス)の父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

ヨハネ福音書 14章3節)

私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。

(テサロニケ人への手紙第一 2章19節)

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。

(コリント人への手紙第二 5章1節)

 

 昨今のキリスト教の教会では、この「イエスが再び帰ってくる」という希望を、あまり語っていないのではないか。「信じた人は天国に行く」というシンプルなメッセージに終始するあまり、この希望が、なおざりにされているのではないか。この世でどう生きるかを強調するあまり、天地と、そして私たち自身が全く新しくなるという希望が、置き去りになっているのではないか。信じた者が救われるという真理も、この世でどう生きるかという視点も、大切である。しかし、もっと先の希望も、同じく大切ではないか。

 エスが帰ってくるのを待ち望むことこそが、今の時代のクリスチャンたちに必要な姿勢だと、私は思う。その希望があれば、もはやこの地上の人生で思い悩むことは少なくなる。やれサタンの攻撃だとか、疫病がどうだとか、人生に絶望しなくても良くなる。むしろ、パウロのように早くこの世を去りたいとさえ願う。聖書には、こう書いてあるではないか。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

ヨハネの手紙第一 4章18節)

 

 私は、イエスが帰ってくるのだという希望を、このブログでも強調したかったのだ。

(参考記事)

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▼4:自分で聖書を読んで実践することの大切さ

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 このブログを通して、最も伝えたかったのは、「自分で聖書を読む重要性」である。私は、10歳のときに始めて聖書を手にした。それ以来、何度も何度も聖書を読み返した。分からないこともたくさんあった。しかし、いろんなクリスチャンの友達と議論したり、教えてもらったりして、自分なりの聖書の理解を形作っていった。いつも、神ご自身の力の現れである、「聖霊」に助けを求めつつ、読み込み、日々聖書メッセージを心に蓄えていったのであった。

 聖書は誰かに教えてもらわなければ読めないものではない。それは、宗教改革以前の常識である。現代においては、ほとんどの場合自分の母語で聖書を読むことができる。それは、先人たちの多大なる努力によってのことである。今現在も、聖書を各地の言語に翻訳している人々もいる。また、インターネット上にも様々なツールがある。かつては大学の図書館にしかなかった原語の解説に、今や誰もがアクセスできるようになっているのだ。

 聖書は、神学校に行かなければ読めないものでも、教えられないものでもない。もちろん研究は進める必要はあるし、そういった専門家も必要だ。しかし、一般的にクリスチャンとして生きる上で必要なのは、何よりも聖書そのものを読むことである。

 聖書に出てくる、エチオピアの宦官が「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるのか」(使徒の働き8章31節)と言った話は有名だ。しかし、彼に教えたピリポは、学校に行った「神学博士」だったのだろうか。もちろん、パウロのようにユダヤ聖書学校(イェシバ)に通った可能性はあるが、そうではない可能性もある。アキラとプリスキラがアポロを教えたエピソードに代表されるように、イエス以降の時代の信じた者たちは、互いに教えあっていた使徒の働き18章24~26節)。また、私がこのブログに何度も引用した聖書の言葉には、こうある。

この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き 17章11節)

 

 大切なのは、神学校に行くことでも、神学書を読み漁ることでも、海外の牧師のメッセージを外国語で頑張って聞くことでもない。自分で、日々、聖書を読み、それを実践していくことこそが大切である。誰もが聖書を読み、誰もが教えることができる。誰もが聖書の言葉で励ますことができる。1人ひとりが、積極的に聖書を読み、自分で考え、行動するよう、励ます。これがこのブログの最大の目的である。

(関連記事)

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▼5:イエスに信頼する人生はめっちゃ楽しい!

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 最後に申し上げたいのは、「エスに信頼する人生は、とてつもなく楽しい」という真実である。これは、心を込めて断言できる。私は、16歳でイエスを信じたが、それまでの人生と、それからの人生は、まるで人間が変わってしまったかのようであった。それまでの、人の目を気にしていた抑圧された人生から解放され、ただイエスの愛を感じ、心満たされる人生に変わった。読者の皆様にも、ぜひこのイエスに信頼する人生の素晴らしさを体験してもらいたいと、切に願っている。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

(ペテロの手紙第一 1章8節)

 

 このブログでは、「就活イエス」というタイトルで、「働くクリスチャン」たちへのインタビュー記事を掲載してきた。十人十色の人生だが、それぞれがイエスとの出会いに人生を変えられ、新しい歩みを始めている。彼らの人生が、読者の皆様の励まし、参考になれば幸いである。このインタビュー記事は、まだいくつかインタビューは行ったものの、記事にできていないものもあるので、今後、適宜、記事を更新していくつもりだ。

<就活イエス記事一覧>

yeshua.hatenablog.com

 

 以上、節目の100記事目に、このブログを通して皆様にお伝えしたいことをまとめた。ここで一旦、毎週の更新は終わりにしたいと思う。少しずつ記事を更新するので、また覗きに来てくだされば幸いである。

あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。

ヨハネの手紙第二 1章12節 新改訳聖書3版)

 

 

2年間、このブログをお読みくださり、本当にありがとうございました。

 

(了)