週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンが食べてはいけないものは存在するのか?

クリスチャンですと自己紹介すると、「食べちゃいけないものはあるのか?」とよく聞かれます。聖書には何と書いてあるのでしょうか?

 

 

▼食べてはいけないものがある?

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 クリスチャンではない人に、「私はクリスチャンです」と自己紹介すると、必ずいくつかの質問をされる。「酒は飲んでいいのか」「婚前交渉はいいのか」「日曜に教会に行くのか」「カトリックプロテスタントか」「洗礼名はあるのか」などなど・・・。その中で、たまに聞かれるのが「食べちゃいけないものはあるの?」という質問だ。

 正直いって、私はクリスチャンとして生きている上で「食べてはいけないものが存在する」と考えてこなかったので、この手の質問にはいつも驚く。日本人にとって信仰は「行動を制限するもの」なのだ。確かに、仏教でも坊主が肉や魚を食べるのはご法度。ユダヤ教やイスララム教徒も豚を食べない。そう聞くと、クリスチャンも食べてはいけないものがあるのではないか、と考えるのも無理はない。

 クリスチャンにとって食べてはいけないものは存在するのか。今回は、そんな素朴な疑問に答えたい。おそらく素朴すぎて、きちんと検証されて来なかったであろうトピックかもしれない。旧約聖書ユダヤ教)においてはどうだったか。イエスは何といったか。「外国人」である現代の日本人にとってはどうか。聖書の記述を元に考えてみたい。

 

 

ユダヤ教の食べ物の決まり

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 ユダヤ教徒は豚を食べない。これは常識だが、実は豚に限らず、ユダヤ教には、他にもたくさんの規定がある。この食物の規定を「コーシェル」(英語では「コーシャー」)と言う。現代のユダヤ教徒は、人によって程度はあるが、この「コーシェル」を基本的には固く守っている。宗教的なユダヤ人は、豚肉もエビもイカもウナギも食べない。それどころか、使う食器やスポンジまで区別する人もいる。

 その決まりの根本は、聖書の記述である。旧約聖書には、様々な食べ物の規定が書いてある。まずは、それを見てみよう。レビ記11章に細かな記述がある。「ポケモン」ではないが、地上の動物、水の中の動物、鳥、昆虫、爬虫類などに分けて細かく規定されている。あまりに長いので、今回は代表的なものだけ記述する。興味がある方はレビ記11章または申命記14章を読んでみると、オモシロイのでおすすめだ。

 

<地上の動物の規定>

主はモーセとアロンに告げて、こう彼らに言われた。「イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。ただし、反芻するもの、あるいは、ひづめが分かれているものの中でも、次のものは食べてはならない。らくだ。これは反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。岩だぬき。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。野うさぎ。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。これはひづめが分かれていて、完全に割れてはいるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。

レビ記 11章1~8節)

 

レビ記の記述に基づけば、以下のような規定になる。

<食べて良い動物まとめ>

・反芻する動物 かつ ひづめが完全に分かれている動物

 これによれば、牛や鳥、羊やヤギは食べて良い。一方で、ラクダは食べてはいけないことになる。反芻はするが、ひづめが分かれていないからだ。逆に、豚はひづめが分かれているが反芻しない。ユダヤ教は「豚がNG」という印象が強いが、これを読めば別に「豚」が特別なのではなく、あくまで「反芻し、ひづめが完全に分かれている動物は食べてOK」という規定に豚が当てはまらないだけである。

 また、動物に限らず、魚や鳥、昆虫、爬虫類などについての規定もある。

 

<魚についての規定>

水の中にいるすべてのもののうちで次のものを、あなたがたは食べてもよい。海でも川でも水の中にいるもので、ひれと鱗のあるものはすべて食べてもよい。しかし海でも川でも、すべて水に群がるもの、またはすべて水の中にいる生き物のうち、ひれや鱗のないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。これらは、あなたがたには忌むべきものである。それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸を忌むべきものとしなければならない。水の中にいるもので、ひれや鱗のないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

レビ記11章9~12節)

 

<鳥についての規定>

また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べることはできない。すなわち、禿鷲、禿鷹、黒禿鷹、鳶、隼の類、烏の類すべて、だちょう、夜鷹、かもめ、鷹の類、ふくろう、鵜、みみずく、白ふくろう、森ふくろう、野雁、こうのとり、鷺の類、やつがしら、こうもりである。

レビ記11章13~20節)

 

<昆虫についての規定>

羽があって群がり、四本の足で歩き回るものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。ただし、羽があって群がり、四本の足で歩き回るもののうちで、それらの足より高い二本の跳ね足を持ち、それで地上を飛び跳ねるものは食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、コオロギの類、バッタの類。しかし羽があって群がり、足が四本あるものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

レビ記11章21~23節)

 

<爬虫類等についての規定>(もぐらやねずみは哺乳類)

地に群がるもののうち次のものは、あなたがたにとって汚れたものである。すなわち、もぐら、跳びねずみ、大トカゲの類、ヤモリ、ワニ、トカゲ、砂トカゲ、カメレオンである。

レビ記11章29~30節)

 

 魚や鳥、昆虫、爬虫類などについての規定は、まとめると以下になる。 

<食べても良い魚まとめ>

・ひれがあり かつ ウロコがある魚(シンプル)

 

<食べても良い鳥まとめ>

・ハゲワシ、ハゲタカ、クロハゲタカ、トビ、ハヤブサ、カラス、だちょう、よだか、カモメ、タカ、ふくろう、う、ミミズク、白ふくろう、森ふくろう、のがん、こうのとり、サギ、ヤツガシラ、コウモリ以外の鳥(なんだそりゃ)

 

<食べても良い昆虫まとめ>

・羽があって、4本足の昆虫はNG

・ただし、イナゴ、毛がないイナゴ、コオロギ、バッタはOK(まあわかる)

 

<食べても良い爬虫類などまとめ>

モグラ、跳びねずみ、大トカゲ、ヤモリ、ワニ、トカゲ、砂トカゲ、カメレオン以外(なんだそりゃ)

 

 ・・・いかがだろうか。正直、ほとんどが現代であっても「ゲテモノ」とされるもので、正直「そんな事言われなくても食べないよ」と思う動物もいるのではないか。誰もねずみやカメレオン、コウモリなど食べようとも思わないだろう。長野県出身の私は、イナゴは食べるが・・・。

 しかし、それは食べ物が豊富にある現代の話。おそらく日々食べるものにも困っていたと想像される何千年も前の中東は、動き回る動物、昆虫、魚、すべてが「食べ物」に見えていた時代だったかもしれない。上に挙げたような生き物の中には、当然、食べるに適していないものも存在した。病原菌を媒介したり、保存に適していなかったり、健康に悪影響を与える生き物も多かったのではないか。それらを区別するための一定の基準が、レビ記申命記の食物の規定ではないだろうか。

 私は個人的に、このようなユダヤ教の「食物の規定」は、古代の社会において社会的に病気の蔓延や食中毒を防ぐための知恵だったのではないかと思っている。しかし、それは神の存在を否定するものではない。神がこのような知恵を預言者を通して、イスラエルの民に与えたのだと、私は信じている。しかし、この時代にとって必要だったものが、必ずしも現代も必要だとは限らない。

 レビ記は神がモーセを通じて、イスラエルの民に与えた「律法」のひとつである。モーセは、今からさかのぼって、約3500年ほど前の時代の人物だと言われている。では、約2000年前のイエスは何と言ったのか、聖書を見てみよう。

 

 

▼イエスは何と言ったのか?

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 今から約2000年前、イエスは「食べ物」について何を語ったのか。以前もブログで紹介したが、改めて見てほしい。

エスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」(中略)イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません

(マタイの福音書 5章1~20節)

 

 何を食べるか、何を飲むか、当時のユダヤ人たちが人生をかけて守っていた「言い伝え」を、イエスはバッサリ切った。「食べた物はどうせウンコになるのだから、気にするな」。それがイエスの言葉であった。「それよりも、心の中から出てくるものが大事だ」・・・それがイエスの教えであった。

 当時の人々は食事の前に必ず手を洗うのが、宗教的な決まりだった。しかし、イエスの弟子たちは手を洗わずに食事をしていたようである。先のイエスの言葉の前段には、実はこんなやり取りがあった。

そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません

(マタイの福音書 5章1~2節)

 

 もちろん、現代においても食事の前には手を洗った方が清潔だ。しかし、当時は、清潔というよりも、宗教的な意味合いにおいて食事の前に手を洗うのが決まりであった。しかし、イエスは「手なんか洗わなくてもオッケー。むしろ大切なのは、心の中から出てくるものだ」と教えていたのである。

 弟子たちが手を洗っていなかった点からも、イエスは普段からそのように教えていたのではないかと推測できる。または、イエスの弟子たちがただ野蛮で粗暴だっただけかもしれないが・・・(笑)。普段から、野宿の生活をしていたイエス一行にとっては、手を洗う「水」すらも贅沢だったのかもしれない。

 

 

▼イエスの弟子たちは何と教えたか

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 イエスの弟子たちは食べ物についてどう考えていたのか。弟子のペテロは、イエスが死んで復活した後も、食べ物に気をつかっていたようである。しかし、神はこの「食物」を用いてペテロに啓示をした。このようなエピソードが「使徒の働き」にある。

彼(ペテロ)は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥(※ユダヤ人にとっては汚れた動物)がいた。そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」

使徒の働き 10章10~15節)

 

 これは、神がペテロに幻を見せたシーンである。ユダヤ人にとって「汚れた物」を神が「食べなさい」という、この一連のシーンは、「異邦人」(外国人)も神・イエスを信じれば「神の民」に入れられるということを象徴している。象徴なので、直接「食べ物」を論じたシーンではないが、「神がきよめた物」がきよい、という真理が伝わってくるエピソードだ。

 この経験のあと、ペテロは「外国人であっても神を信じた者は信仰の仲間だ」と考えるようになった。「ユダヤ人かどうか」ではなく、「神を信じるかどうか」で考えるようになったのである。食べ物においても、「きよい・きよくない」ではなく「神がきよいと言っているかどうか」という基準で考えたらよいというヒントが、ここにあるのではないか。

 

 「神がきよめたもの」という視点で見ると、以下の言葉も思い浮かんでくる。使徒パウロが書いたとされる手紙の一部である。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。

(テモテへの手紙第一 4章1~5節)

 

 「食物は感謝して受けるように、神が造ったもの」「感謝して受けるとき、捨てるべきものは何ひとつない」それがパウロの教えだった。何を食べて良いか、何を食べてはいけないかを気にするのではなく、どんな心で食べて、飲んでいるのかが大切だ・・・エスパウロも、そう言いたいのではないか。とすると、クリスチャンはこれこれを食べてはいけないという議論そのものがナンセンスになる。

 人間は、すぐに「これをしてはいけない」「あれをしてはいけない」という「縛り」を儲けようとする。その決まりを守って、安心しようとするからだ。決まりを守っているから安心だという安心感のために、人間は自分勝手なルールを設ける。しかし、イエスは人の心の内側こそが大切であると説いたのであった。とどのつまり、クリスチャンにとって「食べてはいけないもの」は存在しないのである。

 

 

▼“外国人”である私たちはどうすべきか

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 最後に、ユダヤ人ではない“外国人”である日本人、とりわけ現代の日本人は、現実問題どう食べ物と向き合っていけばいいのか、簡単に考えてみたい。

 まず、我々“外国人”が、ユダヤ人のように「コーシェル」を守る必要があるかというと、その必要は全くない。たまに、日本人の中にも「ユダヤ人のように律法を守ろう」という人たちがいるが、私の意見では全くのナンセンスである。ユダヤ人の方々にも失礼だし、彼らからしても「何してんの?」と失笑を買うだろう。そもそも、“外国人”である日本人は、ユダヤ教徒になる資格すらないので、ユダヤ人のための律法を守る意味はないのである(※ただし、リベラルな派閥のユダヤ教には日本人であっても改宗できるため、そのような人たちにとっては意味があるかもしれない)。

 イエスをメシアと信じるユダヤ人たちもいる。彼らの中には、人によって厳しく「コーシェル」を守る人たちもいれば、あまり気にしない人もいる。あるイエスを信じるユダヤ人に話を聞いたところ、こんなことを話していた。

「別に宗教的意味でブタを食べないのではなくて、単純に気持ち悪いから食べていないだけです。日本人もゴキブリを食べたくないでしょう? それと同じで、私たちにとってブタは気持ち悪い存在なんですよ。食べたくないから食べないだけ。別に食べていても問題はないと思います」

(あるイエスを信じるユダヤ人の言葉)

 

 なるほど、ゴキブリはさすがに食べたくない。彼らの文化では、豚は食べてもいいと言われても、食べたくない生き物なのである。

 クリスチャンの中には、酒を飲まない人もいる。また、中にはベジタリアンだったり、食べ物について特定の主義・主張を持っている人もいるだろう(例えばクジラを食べない等)。そういう人々に対して、1世紀のパウロは、こう書いている。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

(中略)

私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

(中略)

食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙 14章1~23節)

 

 パウロの主張は明確である。 

・何を食べようと、食べまいと自由

それ自体で汚れているものは何ひとつない

・すべての食物はきよい

・しかし、それが汚れていると思う人にとっては汚れている。疑いを持って食べるなら、それは罪である

・自分の信仰は自分で保ち、他の人が何を飲むか、食べるかについて口出しすべきではない

 

 パウロの教えは単純明快。私は、21世紀の今も、この基準は適応できると思う。誰が酒を飲もうが、飲まないと決断しようが、それはその人と神との間での取り決めである。自分と神との関係において、自分を律するために、酒を飲まない、特定の食べ物を食べないと決めるのは大いに結構である。しかし、それは各々が神との関係の中で決めることであって、何か一律に「これを食べてはダメ」「これは食べてOK」と基準を定め、それを守るように強いるのはズレてしまっているのではないか。

 基本的にクリスチャンは何を食べても、何を飲んでも自由である。しかし、もし「本当にいいのだろうか」という疑いがあるのであれば、それは良くない行為である。もし、疑問があるならやめればいいし、疑問がないなら、堂々と神に感謝して食べたり、飲んだりすればよい。しかし、他の人がどうこうしようと、それはあなたが口出しする問題ではない。 

 クリスチャンになるというのは、「神のしもべ」になるという意味である。他のクリスチャンの人は、あなたの支配下でも、教会の支配下でも、牧師の支配下でもなく、神の支配下にある神のしもべである。その人が何を食べるか、何を飲むかは、神とその人の問題である。だから、もし暴飲暴食が問題だと思っても、私としては、その人のためにそっと陰で祈るようオススメする(※ただし、過食症、拒食症、中毒、アルコールなどの依存症などは、専門機関の治療が当然必要である)。

 結局のところ、イエスの教えによれば、大切なのは「何を体内に入れるか」ではなく、「心から何が出てくるか」である。あなたの心からは、何が出ているだろうか。あなたの口からは、何が出ているだろうか。今一度、吟味してみてはどうだろうか。

 

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

(コリント人への手紙第一 10章31節)

  

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。