週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【聖書】『新改訳2017』で、何がどう変わったのか?

新改訳聖書」は2017年に新しい翻訳が出ました。何が、どう変わったのでしょうか?

 

 

▼47年ぶりの「大改訂」をした「新改訳」

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 日本語の聖書には、いくつかの種類がある。最も古い本格的な翻訳は「明治元訳」と呼ばれ、のちに「大正訳」となり、現代の「文語訳聖書」となった。文語訳聖書を現代風に改定したものが「口語訳」である。日本で最もメジャーな翻訳は「共同訳」であろう。「新共同訳聖書」にさらに手を加えた「聖書協会共同訳」が2018年に出版されている。

 もうひとつ有名な聖書の翻訳がある。「新改訳聖書」である。1970年に初版が発行。2008年には第3版が出された。そして、2017年には47年ぶりの「大改訂」を行い、「新改訳聖書2017」が刊行となった。

 「大改訂」というのだから、大幅な変更があるはずだ。しかし、分厚い聖書を手にとっても、イマイチどこが変わったのか分からない。一体、何が変わったのだろうか。細部の変更に気がついても、「なぜそう変えたのか」という理由までは分からない。かくいう私も「新改訳聖書2017」を手に取り読んでみたところ、様々な変化には気がついたものの、その理由までは分からずにモヤモヤしていた。

 しかし、2019年1月に、このような本が出版された。

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「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]

 

 この本は新改訳聖書2017」をどういう意図をもって翻訳したのか、文字通り「何を、どう変えたのか」を検証し、明らかにする本である。

 今回は、この「聖書翻訳を語る」の本を読んだ上で、私が「オモシロイ」と思った3つのポイントを紹介する。

 

 

▼1:いけにえの名称

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 「新改訳聖書2017」を読んで、まず気になった変化が「いけにえ」の名称である。聖書には、主ないけにえの種類が5つある。まとめてみよう(レビ記1~5章参照)

 

【いけにえの名称】

新改訳聖書第3版>ヘブライ語

1:全焼のいけにえ(オーラー)

2:穀物のささげ物(ミンハー)

3:和解のいけにえ(ゼバハ・シュラミーム

4:罪のためのいけにえ(ハッタート)

5:罪過のためのいけにえ(アーシャーム)

新改訳聖書2017>ヘブライ語

1:全焼のささげ物(オーラー)

2:穀物のささげ物(ミンハー)

3:交わりのいけにえ(ゼバハ・シュラミーム

4:罪のきよめのささげ物(ハッタート)

5:代償のささげ物(アーシャーム)

 

 どうだろうか。2番目の「穀物のささげ物」以外の名称は、大胆に変更となっている。どうして、このような変更が行われたのか。「聖書翻訳を語る」によると、概ね以下が変更の理由である。

ヘブライ語「ゼバハ」をどう訳すか>

・「いけにえ」を表すヘブライ語「ゼバハ」は、3番の「和解のいけにえ」を指し、他の4つとは明確に違う

・それゆえ、3番の「和解のいけにえ」と他の4つを区別する必要がある

・「ゼバハ」は単体でも「いけにえ」という意味である。またほとんどの場合が「ゼバハ」だけでも、実質的には「ゼバハ・シュラミーム」=「和解のいけにえ」と同じ意味であるから、3番から「いけにえ」という単語を外すわけにはいかない

・また「和解のいけにえ」は、神にささげた動物を、後に調理して、仲間同士で食事を一緒にするという意味も含まれていた

・このような点から、より仲間内の人間関係を強調するために「和解のいけにえ」から「交わりのいけにえ」(fellowship=交わり)と訳を変更した

<日本語の「いけにえ」の意義>

・一方、日本語の「いけにえ」は「動物」をささげる場合に限って用いる

・しかし、「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」には、動物以外の小麦粉などをささげる記述もある

・また、「全焼のいけにえ」のヘブライ語オーラー」は「いけにえ」と訳す「ゼバハ」とは完全に違う概念であるので、別の日本語を充てる方が望ましい。

・よって、3番以外の「いけにえ」については、「ささげ物」と統一されることになった

<まとめると・・・>

よりヘブライ語のニュアンスに近い名称となった(「ゼバハ」とそれ以外を区別)

「オーラー」と「ゼバハ」を区別した名称となった

一緒に食事をする「交わり」が強調された名称となった

・日本語の「いけにえ」の意味を狭める名称となった(「ゼバハ」のみが「いけにえ」となった)

 

 いかがだろうか。多少難しいかもしれないが、個人的には納得のいく解説だった。特に、聖書を読むと、「いけにえ」は神の前で動物を燃やすだけではなく、その後の食事が重要でもあったので、神と仲間同士の人間関係を強調する「交わり」という言葉が入ったのは、評価に値すると思う。

 

 ちなみに、「聖書協会共同訳」では以下のようになっている。

<聖書協会共同訳の”いけにえ”>

1:焼き尽くすいけにえ(オーラー)

2:穀物の供え物(ミンハー)

3:会食のいけにえ(ゼバハ・シュラミーム

4:清めのいけにえ(ハッタート)

5:償いのいけにえ(アーシャーム)

 

 

▼2:「偽りの証言」について

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 ヘブライ語については、新改訳聖書の翻訳チームのリーダーである津村俊夫氏が、詳細な解説を書いている。中には「マニアックすぎやろ・・・」というマイナーチェンジや解説もある。「SO WHAT感」が否めないものも正直ある。しかし、その中には、根本的なクリスチャンの価値観を変える変更もある。今回は、私が特に重要・オモシロイと思った2つを紹介する。

 

 有名な「十戒」のひとつ、「偽りの証言をしてはならない」について、「新改訳聖書2017」では大きな変更が加えられた。見てみよう。

新改訳聖書第3版>

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

出エジプト記 20章16節)

新改訳聖書2017>

あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。

出エジプト記 20章16節)

 

 いかがだろうか。「隣人に対し」という部分が、「隣人について」に変わっている。これについて、「聖書翻訳を語る」の本はこのように語っている。

出エジプト記20章16節は、第3版までは「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と訳されてきた。これでは「隣人を目の前にして」嘘を言うということに理解されてしまう。しかし、ここで禁止されていることは、第一義的には、法廷において「隣人のことで」偽りの証言をしてはならないということである。原文を直訳すれば、「あなたの隣人のことで、偽りの証言で(副詞的大正)答えてはならない」となる。英訳はほとんどすべて、”You shall not bear false witness against your neighbor”(「あなたはあなたの隣人に対する偽りの証言をしてはならない」)であるが、英語の”against”に影響されて「~に対し、偽りの証言をする」と訳されたではないかと思われる。しかし、ヘブル語の前置詞 b(ב)は「について、において」という意味もあるから、新改訳2017では「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と改訳している。

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]106-107頁)

 

 いかがだろうか。この部分を用いて、クリスチャンは「嘘はNG」のような思い込みがあるが、実は違う。これは、コミュニティ内の「裁判」で「隣人についての偽証」を禁じた部分である。実は、聖書は「嘘」が全て悪いとは言っていないのだ。

 余談だが、私は、入社面接の際に、当時の社長に「聖書には嘘をついてはいかんと書いてあるだろう」と前置きされた上で、「競合とウチどっちに来るんだ」と問いただされたことがあった。聖書をダシに使うとは、社長もヤリ手である。「もちろん御社です」という言葉が真になってしまった結果、今の会社で働いている。

 

 

▼3:ヘブライ語独特の文法

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 聖書ヘブライ語の文法は、ややこしいものが多く、現代の日本人にとって理解するのは困難な部分もある。この本では、特に「談話文法」についての解説が詳しく書いてある。見てみよう。

ロングエーカー等による最近のヘブル語「談話文法」(文を越えた文章の文法)の理論によれば、(A)「接続詞+未完了動詞」(過去)が「何」(WHAT)が起こったかという出来事(EVENT)そのものについて述べるのに対して、(B)「接続詞+完了動詞」は、従来のように①「現在・未来」(非過去)のテンスを意味するだけではなく、文脈によっては、②「出来事の手順ないし手続き」、すなわち「どのようにして」(HOW)それが起こったのかを述べる。

それゆえ、(サムエル記第二7章)9節後半で(B]「接続詞+完了動詞」が用いられているのは、①テンスが過去から現在・未来に変化したのではなく、②直前までの出来事が「どのようにして」起こったのかを説明しているだけである。

(中略)

ヘブル語の動詞は、英語のようなインド・ヨーロッパ語とは違って、「テンス」(時制)というよりは、どちらかというと、「アスペクト」(相)で考えたほうが良いということになる。

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]126-127頁)

 

 ・・・書いた人(津村氏)の頭が良すぎて、何のこっちゃ分からないが、具体例を見ると良く分かる。サムエル記第一17章38節を見てみよう。まずは、新改訳2017以前の主な翻訳を比べてみる。少年ダビデが、かの有名なゴリアテを倒す直前に、サウル王に接見し、よろいやかぶとを着せられるシーンである。

<口語訳>

そしてサウルは自分のいくさ衣ダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。

<新共同訳>

サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。

<新改訳第3版>

サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。

フランシスコ会訳>

ダビデに自分の衣服を着せ、頭に青銅の兜をかぶらせ、鎧を着せた。

<岩波訳>

サウルは、ダビデに自分のを着せた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、[身には]よろいを着けさせた。(注:後半部分は七十人訳に欠ける)

 

 最後の岩波訳が「(ギリシャ語翻訳の)七十人訳には欠ける」と書いてあることから分かるように、後半部分をどう翻訳するかは、古くから難題であったようだ。

 この文章には2つの部分がある。

(A):サウルはダビデに自分の武具(装束)を着せた

(B):青銅のかぶとを彼(ダビデ)の頭にのせ、よろいを彼(ダビデ)に着せた

 

 まず、新改訳以外の翻訳は(A)の部分を「装束」などと訳している。よろいの前に着る、下着のような物だ。一方、新改訳は「よろいかぶと」と武具を指す用語を使っている。これは、ヘブライ語では「マド」という単語で、辞書をひくと「よろい」または「上着」のようなものを指すようだ。英語は「tunic」(ギリシャ兵の上着)や「armor」(よろい)が多数派である。下着のような「装束」は少しニュアンスが違うかもしれない。

 しかし、ここで問題が発生する。(A)を行っていたら、すでに「よろいかぶと」は装着しているはずなのだ。しかし、(B)で「かぶと」と「よろい」をもう一度装着してしまっている。同じ行為を、二度も描写するだろうか。それゆえ、日本語のほとんどの翻訳は、矛盾しないように(A)の方の「マド」を「装束」と訳しているのだと想像される。

 だが、「聖書翻訳を語る」はこう解説する。見てみよう。

この箇所も、(A)「接続詞+未完了動詞」(過去)が「何」(WHAT)が起こったかという出来事(EVENT)そのものについて述べるのに対して、(B)「接続詞+完了動詞」は「出来事の手順ないし手続き」、すなわち「どのようにして」(HOW))それが起こったのかを述べるという、上の原則を当てはめて考えるとよいのではないか。

 

(WHAT)サウルはダビデに自分の武具を着けさせた

(HOW)頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである

 

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]128頁)

 

 いかがだろうか・・・。つまり、この(A)も(B)も、同じ出来事を描写しているのである。(A)で何が起こったのかを説明し、(B)で、「どうやってその出来事が起きたか」の詳細を説明しているのである。日本風に例えれば、こんなところだ。

(A):太郎くんはおつかいに出かけて大根を買った。

(B):玄関のドアを出て、八百屋に行き、150円を払って大根を買ったのである。

 

 つまり、上記のサムエル記第一の場面では、(A)サウル王が少年ダビデに自分のよろいを着せた、という事実を、(B)先にかぶとをかぶらせて、その後によろいを着せた、という説明で補足しているのである。(A)と(B)の間に「どうやってやったかと言うと・・・」という文が省略されているのである。省略というか、この文法の組み合わせがあると、自然とそういう意味になる言語なのである。

 ふつう、よろいを着る際は、かぶとより先によろいを着るものである。かぶとを先にかぶってしまったら、それからよろいは着られない。よろいを着るためには、かぶとを脱がなければならない。二度手間である。そんなサウル王の様子を、「聖書翻訳を語る」の本はこう書いている。

この後半の、まず「かぶと」をかぶらせ、次に「よろい」を着けさせるという、通常の順序とは反対のことを行ったサウルの慌て振りを、さりげなく揶揄しているのであろう。

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]129頁)

 

 その研究の結果、「新改訳聖書2017」では以下のような翻訳になっている。

サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。

(サムエル記第一 17章38節 新改訳聖書2017)

 

 聖書は、ヘブライ語ギリシャ語で書かれている(+一部アラム語)。より細かく、正しく理解できるよう、日々研究は進んでいる。その研究の成果が、新しい翻訳に反映されている。このような細かい違いだが、全くニュアンスが変わってしまうような表現が、新しい翻訳にはたくさん隠れている。ぜひ、読者の皆様も、「新改訳聖書2017」を読む機会があれば、読んでいただきたい。そして、「あれ?」と違和感を覚えたら、ぜひ今まで使っていた翻訳と比べてみてほしい。

 

 

▼おまけ:「新改訳」の権利問題と「聴くドラマ聖書」の登場

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 最後に、「新改訳聖書2017」の誕生には、多くのドラマがあったと述べておきたい。実は、「新改訳聖書」は、近年まで権利をアメリカの財団が保有していた。しかも、日本人の翻訳者たちには詳細が知らされない形で、勝手に権利がアメリカの財団のものになっていたようである。

 あろうことか、さすがは訴訟大国アメリカ。なんと聖書の翻訳をめぐって、「著作権侵害」だとの訴訟が起こってしまったのである。新改訳聖書著作権は、日本人の手を離れる危険さえもあったのだ。それゆえ、「新改訳聖書」は権利の問題がややこしく、アプリ開発などが自由にできなかったと耳にする。確かに、アプリなどで出てくるのは口語訳や共同訳ばかりで、新改訳のものは圧倒的に少ない。

 紆余曲折を経て、多額の(本来払う義務がない)賠償金を払い、2008年にようやく著作権が日本側に戻ってきた。そして、その10年後の2017年に、初版から47年ぶりの「大改訂」が行われたのであった。詳細は下記のリンクに書いてあるが、察するに想像を絶する戦いと、裁判の実務と、超多額の賠償金と、祈りが積まれた結果、現在の「新改訳聖書2017」が存在するのだと知った。私は裁判の当事者ではないし、つぶさに詳細を知っているわけではない。多くを語るのは避けよう。しかし、多くの方々の努力の上に聖書の翻訳が成り立っている事実は、明記しておきたい。

▼参考リンク

 https://www.seisho.or.jp/archives/about-ssk/#

 

 また、これは著作権と関連があるかは分からないが、つい先日「聴くドラマ聖書」というアプリがローンチされた。

graceandmercy.or.jp

 これは、日本の俳優陣が聖書を朗読したものを聞ける、いわゆる「オーディオバイブル」である。なんと、無料。朗読のクオリティや、BGM、インターフェースなど、これまでのモノに比べて、かなりクオリティが高いので、筆者もそこそこ満足している。まだβ版なので、使用感はイマイチな部分もあるが、これから改善されるだろう。

 この「聴くドラマ聖書」は、「新改訳聖書2017」を使用している。つまり、今まで「新改訳聖書」のアプリは、これまで3000円ほどかかっていたところ、このアプリをダウンロードすれば、なんと「無料」で聖書が読めてしまうのである!

 「聴くドラマ聖書」を「聴かない」という裏技ではあるが、縦書きモードもあるので、縦書き派の方々も満足できる仕様になっている。もし聖書に興味がある方がいれば、ぜひこのアプリをダウンロードして、今日から聖書を読んでみてはいかがだろうか。このような自由のアプリ開発も、翻訳の著作権が戻ってきたことによる影響が大きいのではないだろうか。

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。