週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【注意】有名な「牧師」であってもイエスに出会っていない可能性がある?!

ステージの上で聖書を語っている牧師は、本当はイエスと出会っていない可能性がある?! そんなバカな?!

 

 

▼「クリスチャンやめました」と語る牧師

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 先日、あるアメリカの著名な牧師が、声明を発表した。「私は、もはやクリスチャンではない」という、驚くべき「棄教宣言」だった。この知らせを聞いて私は驚いたが、同時に「やっぱりな」という気持ちがあった。なぜなら、私は以前から「彼の主張は聖書の記述に基づいていない」と感じていたからである。彼の著作は、多くのクリスチャンたちにもてはやされてきた。しかし、私は彼の著作が「聖書に基づいていないように思える」とずっと主張してきた。予想通り、今回の「クリスチャンやめる」宣言によって、著作の内容そのものが疑われる事態となってしまった。とても残念である。

 ここで、ひとつの疑問がわいてくる。「牧師は絶対にクリスチャンなのだろうか?」言い換えれば、「牧師なら全員、絶対イエスと出会っているのだろうか?」恐ろしいが、とても大切な疑問である。クリスチャンでない人や、クリスチャンになって間もない人が聞くと驚くだろうか、ある意味で「牧師」という人種は一番危ないのである。

 今回の記事では、牧師であってもイエスに出会っていない可能性を指摘する。エスはその問題についてどう教え、私たち人間はどう対処すべきか、何を基準とすべきか論じたい。

なお、「一度救われた人は信仰を“捨てる”ことはできない」「信仰は不可逆的である」といった主張もあり、それらを使えばこの記事により深みが増すだろう。しかし、議論が多いポイントなので、それらの主張について今回の記事で深入りは避ける。

 

 

▼本当の意味でイエスに出会っていない牧師は存在する

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 結論はハッキリしている。牧師であっても、本当の意味でイエスに出会っていない人は存在する。悲しい上に驚きだが、事実である。

 例えば、私はとある黒人系アメリカ人の友人がいた。熱心な牧師だった。彼は、新約聖書をほぼ暗記しているほど、聖書が大好きな「クリスチャン」だった。しかし、あるとき、突然「イエスはメシアではなかった」と結論づけ、ユダヤ教に入信してしまった。

 また、私の知る別の牧師は、人目にはとても「敬虔な」クリスチャンに見えた。礼拝会での説教(メッセージ)はとても分かりやすく、正直言えば、私が通っていた教会の牧師の何倍も上手かった。話し方も穏やかで、包容力があり、人を引きつける力があった。尊敬されていた牧師だったが、ある日突然、教会のお金をすべて持ち逃げしてしまった。夜逃げだった。彼を尊敬していた人々は、一同にショックを受けていた。これは詐欺事件である。

 このような例は、実はクリスチャンの世界では、耳にタコができるほど聞く話だ。人々を教え、導く立場であるはずの牧師が、信仰や仲間を捨ててしまうのである。それだけならまだマシで、中には女性問題を起こしたり、強姦で訴えられたり、問題を指摘されても知らんぷりする輩もいる。夜逃げした牧師は、横領罪・詐欺罪・窃盗罪である。エホバ・モルモン・統一教会といった「異端・カルト」の創始者でさえ、元はといえば「キリスト教の牧師」だったのである。

 なぜ、このように「信仰を捨ててしまう」牧師が多いのだろうか。私は、どうも「最初からクリスチャンではなかった」「そもそもイエスと出会っていなかった」と考える方がしっくり来る。彼らは、うわべでは「立派なクリスチャン」に見えたが、その実はただの「文化的なクリスチャン」だったのである。

 両親がクリスチャンの、いわゆる「クリスチャン・ホーム」の人なら分かると思うが、「クリスチャンぽいこと」なら誰でも、いくらでも言える。「感謝ですね」「恵みですね」「賛美します」「礼拝します」「お祈りします」などといった、クリスチャンっぽい言葉を呪文のように唱えれば、「クリスチャンらしさ」を演じられてしまう。なんと驚き、「敬虔なクリスチャン」を演じるのは簡単なのだ。こういう人たちは、イエスを本当の意味で理解していないが、外側だけはクリスチャンらしく振る舞えてしまう。ややこしいのが、「自覚なきクリスチャンもどき」が実はたくさんいるという事実である。

 この「自覚なきクリスチャンもどき」が、クリスチャンらしさを追求した先にあるのは「牧師」とか「伝道師」とか「宣教師」とかいった職業である。なまじ、牧師になりたい、伝道師になりたい、宣教師になりたいと言うと教会の人々にもてはやされるので、真面目なクリスチャンもどきほど、この職業を目指す傾向にある。しかし、本当の意味でイエスに出会っていないので、いざデビューすると息詰まる。牧師や伝道師ほど食えないのに大変な職業はないからだ。その成れの果てが、「クリスチャンやめる」牧師たちである。

 

 

▼牧師も間違える ~イエスはどう教えたか~

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 本当の意味でイエスに出会っていなくても、クリスチャンになっていなくても、牧師になるのは可能だ。実際にそう思われる牧師を、私はたくさん見てきた。厄介なのが、そういう牧師・教師たちが「間違った教え」を堂々と教えているという点である。彼らは、本当の意味でイエスに出会っていないので、聖書の言葉を正しく理解できていない。だから、聖書の言葉を勘違いし、間違いを教えてしまうのである。

 それならまだマシだが、聖書に書いてもいないことを、さも「信仰とはかくありなん」のように教えている、とんでもない牧師・教師たちもいる。そのような教師たちのもとで教わったクリスチャンたちは、とても可哀想だ。もちろん、そのような牧師たちであっても「部分的には正しい教え」を伝えるのは可能だ。この点についてはもう少し先に議論する。

 イエスの時代も、同じような問題が起こっていた。当時も、宗教的な指導者たちがいた。その中の「パリサイ人(派)」と呼ばれる人々は、イエスと激しく対立した。パリサイ人たちは、長年のユダヤ教の発展の中で、(旧約)聖書に記述のない「文化・伝統」を聖書の言葉より重んじるようになってしまっていた(まるで、現代の教会のようである)。イエスは、彼らを猛烈に批判した。一部を見てみよう。

さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」エスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:1〜13)

 

 イエスはハッキリと「伝統によって聖書の言葉をないがしろにしてはいけない」と、パリサイ人たちを戒めている。イエスが現代の教会を見たら、あまりに聖書がないがしろにされていて、怒りのあまり椅子をぶん投げたり、説教台を張り倒したりしてしまうのではないだろうか。「伝統と書いて『ゴミ』と読む」というセリフが某漫画があったが、まさにその通りで、守らなければならない伝統などない。時代の背景に合わせて、本質から外れない範囲内で、どんどん機能的、合理的にしていくべきだ。

 伝統に固執し、聖書をないがしろにしていたパリサイ人たちについて、イエスはこのように教えている。

そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座(※教える立場)に着いています。 ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。

(マタイの福音書 23:1〜3)

  

 パリサイ人たちの主張の中には、聖書の記述的に正しいものもあった。ただ、彼らは自分で教えておきながら、自分ではその教えを守っていなかった。

 この世の牧師たちも全く同じである。私は、男女の付き合いに気をつけろと言いながら、教会メンバーの女性とコソコソ付き合っていた牧師を知っている。他人を赦せと教えながら、自分に反対する者を絶対に赦さない牧師を知っている。金に貪欲であってはいけないと教えながら、献金をしない教会メンバーに電話で督促をした牧師を知っている。みな、イエスが批判したパリサイ人と同じである。

 イエスが教えはこうだ。大切なのは、誰が教えているかではなく、その中身だ、と。パリサイ人の教えには、正しいものもあった。たとえ「信仰を捨てた」と宣言した牧師であっても、その教えの中には「正しい要素」はあるかもしれない。私たち人間は、ついつい「あの人が言っているから間違いないだろう」と考えてしまいがちだ。しかし、完全に正しいのはイエスだけで、人はみな間違える。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ダビデも、ソロモンも、ペテロも、パウロも皆失敗した。しかし、彼らの信仰宣言や、歌、賛美、教え、生き方には、学ぶべき部分が多くある。結論としては「誰が言っているか」ではなく、「主張の中身」を吟味し、取り入れていくという姿勢が重要なのである。

 ちなみに、イエスが「弟子たち」と「群衆」に語ったとわざわざ明記しているのは面白い。広く一般的な教えとして、この内容を教えたことの証左だ。先に挙げたイエスの言葉に続くのは「あなたがたは先生と呼ばれてはいけない」という教えだ。その事実も、忘れてはならない。

 先生と呼ばれる人も、拾は「偽使徒」の場合がある。聖書にはこう書いてある。

こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。

(コリント人への手紙第二 11:13〜15) 

こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

(エペソ人への手紙 4:14〜15)

 

 だから、私たちは、教師たちの教えを自発的に判別する必要があるのだ。教えの風にもてあそばれないように、今から備えようではないか。

 

▼聖書によって物事を判別する

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 では、どうしたら「主張の中身」が正しいかどうか判別できるのだろうか。答えは簡単。聖書の言葉によってである。聖書にはこう書いてある。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル人への手紙 4:12) 

  

 クリスチャンが基準とすべきは、聖書しかない。聖書を読み込み、その記述を骨まで染み渡らせる必要がある。偽札を見分ける役目の人は、慧眼を鍛えるために、正しいお札をひたすら見るのだという。そうすることで、偽札を見ると「違和感」を覚えるという。クリスチャンも、ひたすら聖書を読み込むと、聖書の基準に基づいていない主張に出くわしたときに違和感を覚えるようになる。どこが間違いか分からなくとも、「何かヘンだな」と思うのである。

 自分を例に出すと恐縮だが、私は、導入で挙げた牧師の著作を読んだ際も「どこが間違っているか分からないけど、何かが違う」と感じた(もちろん今は何が間違っているか詳細に述べられるが)。当時、まだ高校生だったが、その目は正しかった。その目は、聖書の言葉によって養われたのである。聖書の言葉は、人の思いや心を判別できるのだ。

 読者の方々は何度も目にした聖書の言葉だろうが、あえてもう一度引用しよう。

兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをべレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き 17:10〜11)

  

 このベレアという街の人々は、パウロやシラスといった神に選ばれた人たちの教えでさえ「果たして本当かどうか」と「疑った」のである。そして、それは「良い」と表現された。パウロは、神の霊(聖霊)に満たされ、神から直接啓示を受けた人物だ。ベレアの人々は、そのパウロの教えさえも疑い、聖書を調べたのである。であるなら、現代の私たちが牧師の教えを「果たして本当かどうか」と疑い、聖書を調べるという姿勢は、なおさら必要ではないか。

 どんなに尊敬されていたり、有名な牧師の教えであっても「果たして本当か」という視点は絶対に必要である。あえて言うが、このブログの内容だって、絶対に間違いが含まれている。読者のみなさんには、ぜひ「本当にそうか?」というクリティカルな視点を持ってほしい。そして、自分で聖書を調べる自発的な姿勢を持ってほしいものである。

また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためにです。

(テモテへの手紙第二 3:15〜17) 

 

 (以下追記)

 もちろん、聖書の言葉の他に、真理を見極めるために大切なものはある。そのひとつは、聖霊である。聖書には、「誰でも聖霊によるのでなければイエスを主と告白できない」(1コリント12:3)とある。真にイエスを主と信じている者の働きは、聖霊によるものではない。つまり、聖霊によって真理を見極めることができるのだ。聖書には、聖霊の働きとして「霊を見分ける力」というものもある。聖霊にゆだね、語られている教えがホンモノかどうか、目の前の教師が「偽教師」か否か、見極められる。

 もうひとつは、エスを主と告白する者の集まりだ。互いに指摘しあい、何が正しく、何が間違っているか、お互いに教え合うことができる。これが共同体である「教会」の役割である。

 

▼隠れた「文化的クリスチャン」に注意

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 先に述べたように「自覚なきクリスチャンもどき」は大勢いる。ただの「文化的クリスチャン」は、なまじ真面目に教会に通ったりするので、教会の共同体の中では重要なポジションにいる場合も多い。そういう場合は厄介で、聖書に教えてもいないことを押し付けてくる人も多い。そして、本当にイエスに感動している人々の心をくじくのである。私は、そのような輩を絶対に見逃さない。

 そのような困ったさんたちには、どう対処すれば良いのだろうか。聖書は、聖書の言葉こそが戦う武器であると教えている。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。腰には心理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

(エペソ人への手紙 6:13〜17)

  

 聖書の言葉を心に蓄える。そうすれば、おのずと「クリスチャンもどき」たちを判別し、彼らに反論できるだろう。読者のみなさんは、身の回りにそういう「牧師もどき」「教師もどき」「クリスチャンもどき」がいたら、決して屈してはならない。大丈夫。神があなたと共にいる。

 とはいえ「どうやって“もどき”を見つければ良いのか」と途方に暮れる人もいるだろう。最後に、少しだけ私なりの「見分け方」を簡単にまとめるので参考にして欲しい。(追記:これは、決して「この中でいくつ当てはまったら偽教師である」といったようなチェックリストではない。読者は誤解せぬように。あくまでも、自分で判断できない人のための、私なりのオススメの着眼点である)

<クリスチャンもどきの特徴>

1:聖書よりも文化の方を大事にする

・日曜日に教会に行かないとダメだ、クリスチャンは禁煙禁酒すべきだ、信仰より教会を大事にすべきだ、恋愛禁止などなど、聖書に書いてもいないことを信仰だといって押し付ける傾向にある

・聖書より「なんちゃら宣言」とか「なんちゃら信仰告白」とかいう、ただ人間が作った文化や文言の方を重視する傾向にある

・人によっては、自分の政治的信条を主張するために、聖書やクリスチャンの集まりを利用するガチの不届き者もいる

・特に、イエスを信じて生きる生き方より、「教会に仕える」などというまやかしを教える「教会教」の信者が大勢いるので要注意。「教会教」については今度別記事を書く予定

 

2:聖書を読んでいない/理解していない

・本当の意味で聖書を読んでいないので、理解ができていない

・聖書について話してみると、基本的な部分がわかっていない

聖書の言葉の字面だけ引用して教えている場合は要注意。文脈や十字架の救いの本質から逸れている教えには注意

旧約聖書新約聖書の違いと繋がり(旧約の多くは新約の「型」)を無視して教える教師もいるので要注意

反論を受け付けない教師は要注意。「牧師の言葉は神のお告げ」なんてまともに信じたら頭がおかしいことを平気で言う人たちにも注意。

 

3:福音/救いの定義が曖昧である

・本当の意味でイエスに出会っていないため、「救いとは何か」「福音とは何か」といった信仰の根本的な理解が弱い

・いつ信じたのか、なぜ信じたのか、イエスのどこに感動したのかをきちんと説明できない

 

<クリスチャンもどきの見分け方>

1:矛盾すると思う点を質問してみる

・矛盾する点を、聖書の言葉を持ち出して反論・再質問してみる

・それに対し、反応に困っていたら、「クリスチャンもどき」の可能性アリ。主張の根拠が聖書でない場合も、注意

 

2:どうやってクリスチャンになったか聞いてみる

・あえて「どうやってクリスチャンになったか」と聞いて、「イエスに出会った」エピソードがない場合は要注意

・ありがちなのは「クリスチャンホームで」とか「お腹の中からクリスチャンで」といった答えを平気でする人がいる。要注意。

・中には、神ではなく「この教会に出会った」なんて大真面目に言う人もリアルガチでいる(しかもこの人は牧師だった・・・)。この場合も「もどき」の可能性アリ

 

3:このブログの「疑問」タイトルの記事を読んで「おかしいな」と思う教会や牧師や教師、クリスチャンの人々に注意してみる

・牧師を「先生」と呼ばなかったら怒る人には注意

・日曜日に絶対に教会に来るよう言われたら注意

・お酒を飲んで咎められたら注意

・タバコを吸って咎められたら注意

・「みこころの相手」とかいう人には注意

・牧師や神学校の大学院生でなければ聖書が語れないというような人には注意

・教会で「奉仕」をしなければいけないと言うような人には注意

・その他、このブログの「疑問」(ここがヘンだよキリスト教)シリーズを参照

 

4:「霊を見分ける力」を祈る

・聖書によると、その人がホンモノかどうか「霊を見分ける力」で見分けられる

・「霊を見分ける力」は誰にでもあるわけではなく、その能力が与えられる人がいる

・まず、神に「本質を見極められるよう」祈ってみよう

 

 

▼おまけ:リーダーこそ「支えるべき」対象である

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 ここまで書くと、私がただの「牧師嫌い」だと決めつける人もいるだろう。とんでもない。私は、牧者、長老、執事、教育者、伝道者、宣教者、預言者などの共同体のリーダーたちこそ支えられるべき存在だと思う。リーダーたちほど、負担、ストレス、誘惑、挑戦、敵が多い(とされている)からだ。彼らが間違った道にそれてしまわないよう、まわりの人々が寄り添い、支えるべきである。

 だから、まわりのリーダーたちのために祈ろうではないか。彼らが間違わないように、信仰を捨ててしまわないように、イエスに従う最高の人生を諦めてしまわないように。まわりにいる人々だけが、彼らに寄り添えるのだ。互いに愛し合い、支え合う。これこそ、聖書で命じられている本質ではないか。

 

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

ヨハネ福音書 15:12〜14)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。