週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンは誰かを「救う」ことができるのか?

「友達を救いたい!」クリスチャンがそう言うのをよく耳にします。クリスチャンは誰かを「救う」ことができるのでしょうか?

 

 

▼友達を「救いたい」?

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 大学の時、あるクリスチャンの友人が、こう言っていた。「卒業までに1人でもいいから救いたいんだよね」「救い」とは、クリスチャンの専門用語で、誰かがイエスを信じるようになる状態を指す。簡単に言えば、「誰かを救いたい」というのは、「誰かをクリスチャンにしたい」という意味だ。つまり、友人は、「自分が卒業するまでに1人でもいいから、誰かをクリスチャンにしたい」と言っているのである。

 私はその時、「オカシイなぁ」と思いつつも、否定はしなかった。違和感の正体が、あまり掴めていなかったのである。今となっては、それはおかしいとハッキリ断言できるが、当時はまだ目がひらけていなかったのである。

 果たして、クリスチャンは誰かをクリスチャンにできるのか。エスを信じるようにさせられるのか。誰かを救えるのか。今回は、このポイントについて見ていこう。

 

 

▼「救い」とは?

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 まずは、前提となる「救い」について、もう少し詳しく解説する。聖書の言葉を順に見ていこう。これは、聖書の言葉で最も有名なものの一つである。

 

<イエスを信じれば、永遠のいのちを持つ>

神は、実に、そのひとり子(イエス)をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ福音書 3:16)

 

 エスを信じる者は、一人として滅びず、永遠のいのちを持つ。これが、一番シンプルな良い知らせ、いわゆる「福音」である。クリスチャンの信仰は、この一言に要約できると言ってもいい。

 

 

<救いは「行い」ではなく「信仰」による

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

(エペソ人への手紙 2:8~9)

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書(≒旧約聖書)によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、エスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。

(ローマ人への手紙 3:20~26)

 

 旧約時代は、神から与えられた律法を守ることが求められた。それゆえ、律法を守るユダヤ人が神の約束を受け継ぐと信じられていた。それは無駄だったわけではなく、イエスによる救いの「伏線」だったのだ。

 すべての人は、「罪を犯して」神との「関わり」が持てなくなっている。罪とは、神と共に歩まない状態であり、「すべての人」がその状態に、生まれながらにして陥っている。その状態を解決するのは、律法を守る「行い」ではなく、イエスを信じる「信仰」なのだ。イエスが十字架で、私たち人間の罪の報いを代わりに受けた。それを信じることだけで、私たちは「価なしに義と認められる」のである。

 

 

<救いとは、神との和解である>

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

(ローマ人への手紙 5:1~2)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(中略)しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

(ローマ人への手紙 5:5~11)

 

 これは、私がイエスを信じるキッカケとなった聖書の言葉である。私たち人間が「まだ」罪人だった時に、イエスが私たちのために死んでくださった。私たちが良い行いをしたからではなく、まだ生まれるはるか前から、イエスは「前払い」で、十字架で命を捨ててくださったのである。

 イエスの死と復活によって、何があったのか。それは、神の怒りからの救いである。神との和解である。神は完全な方なので、私たちが罪の状態を放置したまま、神と関係は持てない。しかし、イエスを信じさえすれば、「神との平和」があり、「神と和解」できるのである。これが、イエスに対する信仰であり、「救い」である。

 

 

<イエスによってのみ救われる>

皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。(中略)この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

使徒の働き 4:12)

 

 イエスを信じる以外の救いは、決してありえない。イエスだけが、唯一の救いの道なのである。

 

 

<「救い」とは、まとめ>

 まとめると、「救い」は、神の怒りからの救いである。私たち人間は、生まれながらにして、神のデザイン通りの生き方から逸れてしまう。それが罪である。例外はない。死んだ後、すべての人が「神のさばき」を受ける。例外はない。聖書にこう書いてある。

しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

(ヘブル人への手紙 9:26~28)

 

 しかし、エスを信じれば、神の怒りから救われ、義と認められる。神と和解できる。良い行いをするかどうかは関係ない。ただ、シンプルにイエスを信じるかどうかが、「救い」である。イエスを信じれば救われる。イエス以外の救いはない。クリスチャンの信仰は、いたってシンプルである。

 だから、私は「救い」と言わずに、単純に「イエスを信じる」と言う方がしっくりくる。「私が救われた時」と言わずに、「イエスを信じた時」と言った方が腑に落ちる。「誰かを救いたい」ではなく、「誰かにイエスを信じてほしい」の方が心にストンと来る。信仰は、シンプルなものだから。

 では、クリスチャンは誰かを「救う」ことはできるのか? 本題に入っていこう。

 

 

▼クリスチャンは誰かを救えるのか?

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 私の友人が言ったように、「誰かを救う」ことはできるのだろうか。答えは簡単。NOである。3つのポイントで見ていこう。

 

▼1:救いは「恵み」である

 クリスチャンはなぜ「救われている」のか。それは、シンプルに、イエスを信じているからだ。では、なぜイエスを信じられるのか。それは「神の恵みによる」と書いてある。聖書を見てみよう。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。

(ローマ人への手紙 4:16)

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

(エペソ人への手紙 1:7)

 

 クリスチャンが救われるのは、決して信心深いからではない。それは、神の一方的な恵みによる。「救い」は、神の恵みによるプレゼントなのだ。よく、クリスチャンでない人から、「敬虔なクリスチャンなのか」と聞かれるが、私はいつも答えに詰まる。私が信心深いのではなく、神の一方的な憐れみ、お恵み、懐の深さによって、私の罪は赦されているのだ。

 救いは、決して誰か人間によるものではない。神が一方的な恵みで、先に死んでくださったからこそ、実現するのだ。あとはそれを信じるだけ。めちゃくちゃシンプル。そこに、人間が介在する余地などない。

 

 

▼2:救いは「選び」である

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 なぜイエスを信じられるのか。聖書にはこう書いてある。

神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。(中略)キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。

(エペソ人への手紙 1:3~11 聖書協会共同訳)

 

 聖書によれば、イエスを信じた者たちはみな、神に「選ばれた」存在である。エスを信じられるようになったのは、全て「神の計画」であり、人間の行いによるものではない。だから、「誰かを救いたい」などというのは、人間の傲慢以外の何物でもない。

 カルヴァンは、この言葉などを根拠に、「神は救われる人と滅びる人を、予め決めている」という、「予定説」(二重予定説)を唱えた。私はこれは言い過ぎだと思う。この言葉の文脈、強調している点をよく考えた方が良い。「エペソ人への手紙」で強調されているのは、「神の恵み」と「神の計画」である。「あなたがイエスを信じられているのは、全て神の恵みによるのだ、救いは行いではなく、信仰なのだ」というのがポイントだ。「神は救う人を予め選んでいる」というのはズレた解釈だ。

 究極的には、全ての人が救いに選ばれている。私はそう信じる。聖書の別の場所にはこう書いてある。

主は、ある人たちが(世の終わりが)遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

(ペテロの手紙第二 3:9)

 

 神はすべての人が、悔い改めて、イエスを信じるよう望んでいる。しかし、それは神が強制することではない。信じるのは、私たちの責任である。もし神が人間に信仰を強制したら、私たちは単なるロボットに過ぎない。

 また、カルヴァンが言うように、既に「救われる人」が決められているのだとしたら、イエスのことを伝える必要はどこにもなくなる。しかし、イエスはそうは命じなかった。イエスの最後の命令はこうである。

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがとともにいます」

(マタイの福音書 28:18~20)

 

 イエスは、弟子をつくり、イエスのことを教えよと命じた。ペテロやパウロ、ピリポにステパノ、テモテにアポロ、ヤコブヨハネ・・・イエスに直接会った弟子たちも、会っていない弟子たちも、皆、イエスを宣べ伝えたのである。元々、滅びる人も救われる人も決まっていたら、彼らはそうしなかっただろう。

 エペソ人への手紙で語っているのは、「すべては神の手による」という、神の偉大さの強調であって、救いが既に全部決まっているという意味ではない。時を超える神の目では、既に全てが決まっているが、時を超えられない人間にとってできるのは、この素晴らしいイエスを伝えることである。

 聖書のほかの部分では、「いつでも信じるチャンスはある」というメッセージが書いてある。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取り除けられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

(コリント人への手紙第二 3:12~17)

 

 これは、旧約聖書時代に、モーセの律法の巻物に垂れ幕をかけて覆っていた伝統を用いた比喩である。モーセは、神と面会した時に、神のあまりの栄光のために顔が光った。モーセは顔に布をかけて覆った。それをふまえて、律法の巻物も布で覆われていたのだ。ユダヤ教では、現代でも律法の書に、象徴的に覆いをかけている。旧約聖書の律法が「伏線」として示している真理、すなわちイエスについては、その時が来るまでは「覆われて」いたのである。

 しかし、真理が明らかになった今、覆いは取り除かれた。人がイエスを信じるなら、いつでも誰でも心の覆いは取り除かれ、「救い」を受け取れる。それは全ての人に公平に差し出されている救いである。そして、それは元々神の計画である。大仏の手のひらで踊る孫悟空よろしく、人の行動は、全て神の意思による。神は時を超えるので、信じられたのは、常に神の「選び」によるのである。

 

 

▼3:救いは「聖霊」による

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 最後に、救いは「聖霊」の力によるという、最大のポイントを説明したい。聖霊とは、イエスが送ると約束した「助け主」であり、神ご自身の力の現れである。聖霊は、神ご自身である。聖書にはこう書いてある。

肉のうちにある者は神を喜ばせることはできません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなた方の死ぬべきからだも生かしてくださいます。

(ローマ人への手紙 8:9~11)

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。

(エペソ人への手紙 1:13~14)

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12:3) 

神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。エスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。

ヨハネの手紙第一 4:2~3)

 

 どんな人も、聖霊の力なしには、イエスを主と告白できない。聖霊によって、私たちは新しい「いのち」を得ている。聖霊は、救いを受け取っていることの証拠である。人がイエスを信じられるのは、信心深いからとか、大きな信仰を持っているからではない。それは全て、聖霊の働きによるのである。(聖霊の働きには、段階があるのだが、それはまた別の記事で書こうと思う)

 

 もし、クリスチャンが自分で誰かを救えると思っているとしたら、それは勘違いだ。神の恵み、選び、そして聖霊の力を軽んじている。私たちができるのは、ただただイエスを伝えるだけだ。信じるかどうかは、アナタ次第。信じたとしたら、それは神の恵みであり、計画であり、神が与えた聖霊の働きによるのである。

 

 

▼ただ神を自慢しよう

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 結局のところ、クリスチャンにできるのは、「イエスって最高だぜ!」と自慢しまくる生き方である。聖書にはこう書いてある。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。

(コリント人への手紙第二 4:1~5)

 

 クリスチャンができるのは、イエスを伝えるところまで。それを信じるか信じないかは、聞いた人が決めるのだ。クリスチャンの目的は、キリスト教信者を増やすことでも、教会のメンバーを増やすことでも、キリスト教国家を増やすことでもない。ただただ、イエスを信じて神と一緒に生きるのを、楽しむのがクリスチャンの生き方である。ぶっちゃけ言うと、イエスと一緒に生きるの最高! 

 そんなクレイジーで楽しい人生を、あなたも体験してみてはどうだろうか。やり方はカンタン。イエスを信じるだけ。シンプル。何の義務もない。イエスを信じる人生、超最高。私に言えるのは、残念ながらここまで。信じるか信じないかは、アナタ次第。

 

(了)