週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンは「元号」を使ってはいけないのか?

クリスチャンは「元号」を使うべからず・・・そんな議論があるそうです。果たして本当にそうなのでしょうか・・・?

 

 

▼クリスチャンは元号を使ってはいけない?

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 「平成」が終わり、「令和」が始まった。5月1日、新しい時代の幕開けだ。

 菅官房長官が新元号を発表した4月1日、私は、総理官邸のエントランスで取材をしていた。臨時閣議が終わり、大臣たちのコメントを取るべく、今か今かと発表の時を待っていたのである。菅長官が「令和」と発表し、その文字を掲げた時は、なんだかしっくりこないような気もした。

 しかし、4月1日の新元号発表から1ヶ月。はじめは違和感のあった新しい元号も、耳に馴染んできたような気がする。「R」のサウンド。初の日本文学からの引用、かつ原典は中国の文学である点。「令」という新しい文字と「和」の組み合わせ。「昭和」の「和」を再び使うのは予想外だったが、決まってみれば「令和」はいい2文字ではないかと、個人的に思う。後に、「広至」「万和」「英弘」など、他の5つの案がスクープされたが、「令和」がやはり良いと感じた。

 元号が「令和」に決まった日、クリスチャン界隈では、ある聖書の言葉が話題となった。イザヤ書の言葉である。

わたし<神>があなたに与える命令平和。あなたを支配するものは恵みの業。

イザヤ書60:17 新共同訳聖書)

 

 神が平和を命じるという聖書の言葉の中に、「令」の文字と、「和」の文字がある。「令和」の言葉が、聖書の中にも隠されていたのである。

 もちろん、新元号は聖書を出典にしたわけではないが、面白いなとは思う。この日、多くのクリスチャンたちがこの事実をSNSにアップし、ちょっとしたブームとなった。クリスチャンたちも、新元号の制定を祝し、聖書の言葉に共通点を見つけ、神の言葉を宣言していたのである。(もっとも、聖書協会共同訳や新改訳聖書2017などは、「私は平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする」と訳している)

 

 しかし、このお祝いムードに待ったをかける声が、同じクリスチャンの中から上がっているようだ。一言で言えば、「クリスチャンは元号を用いてはいけない」という主張である。なぜか。元号は、天皇が時空を支配する象徴だから、クリスチャンは用いてはいけない。それは偶像礼拝である」というのが理由らしい。

 私は、初めてこの主張を耳にした時、驚いた。クリスチャンと元号の関係性を、考えてもみなかったのである。

 確かに、調べてみると、確かにいくつかのキリスト教団体が、公式に天皇の退位・即位、元号の改定に関する声明を発表していた。

日本基督教団

天皇の退位および即位の諸行事に関する声明 - 日本基督教団公式サイト

 

<日本バプテスト連盟>

元号法成立に対する反対の声明(1979年6月6日 理事会声明) – 日本バプテスト連盟

20190424 新天皇即位と元号改元に際しての私たちの信仰的表明(2019年4月24日 理事会声明) – 日本バプテスト連盟

 

日本聖公会

天皇の退位と即位に関する声明

  

 いずれも、「政教分離」の原則から、天皇の退位・即位に関する儀式や、新元号の改定に異議を唱える内容となっている。この内容の是非については、記事の最後で述べる。果たして、「クリスチャンは元号を用いるべからず」は、正しい主張なのだろうか。まずは、この点に絞って見ていきたい。

 

 

天皇が時空を支配する?

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 まず、「クリスチャンは元号を用いるべからず派」の人々の主張を見ていこう。断っておくが、私はこの主張に賛同しているわけではない。だから、今から列挙するのは、私が「こういう主張がある」と聞いたり、またはネットで検索して「クリスチャン」と言っている人が主張していたものである。それゆえ、かなり精度が低い無理矢理な主張になっているが、ご容赦願いたい。なにしろ、私は元号廃止論者ではないので、自分で論理的にこのアイディアをサポートできないのである。 

<クリスチャンは元号用いるべからず論者の主張>

元号は古来、中国の皇帝が、時空を支配する思想に基づいて作られた。

元号は現在、天皇が時空を支配するという思想に基づいている。

・つまり、元号を使用すると、天皇が時空を支配していると認めることになる。

・クリスチャンが元号を使うのは、天皇の支配を認めることになるから、それは偶像礼拝である。

 

 いかがだろうか。確かにナルホド、一応、論理的ではある。「時空を支配??」という謎はあるが(笑)。

 聞くところによると、元号を使うのは良くない」と教えている牧師もいるようだ。あるクリスチャンの人は、「令和」に関する話をしていたら、牧師から「しないように」と指導を受けたという。あるクリスチャンの人は、役所の手続きで「平成」や「昭和」にマルをせず、二重線で元号を消して西暦を記入するようにしているという(運転免許証はどうするのだろうか・・・)。自分がそうするのは勝手だが、他の人にも同じようにするよう勧める人もいると聞く。

 そこまでする必要があるのだろうか。私の考えでは、全くないと思う。では、私がどう考えるのか、順番に述べたい。

 

 

▼時空を支配しているのはサタンである

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 天皇は時空を支配していない。聖書を見てみよう。

エスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます」

ヨハネ福音書 12:30~31)

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。

(コリント人への手紙第二 4:4)

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

(エペソ人への手紙 2:1~3) 

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

(エペソ人への手紙 6:11~12)

私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

ヨハネの手紙第一 5:19)

 

 これらの言葉から、悪魔、すなわちサタンがこの世を支配しているのだと、ハッキリ分かる。サタンは、「空中の権威を持つ支配者」なのである。しかし、これは神が負けてしまったという意味ではない。サタンは、神が許可した範囲でしか動けない。ヨブ記を読めば、それは明らかである。詳しくは、以前の記事を参照していただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 天皇は人間であるから(もはやこれに異論はないだろう)、時空の支配者などではない。今、この世を自己中心で、罪で満たしているのはサタンである。しかし、それは神の許可した範囲内でのことである。全てが神の権威の下に、神のコントロールの下で動いているのだ。つまり、時空の支配者は狭義ではサタンであり、広義では神ご自身である。天皇が時空の支配者となってしまうなどというのは、クリスチャンにとっては妄想であり、妄言である。

 

 

▼クリスチャンは神の支配の中にいる

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 エスを信じ、クリスチャンとなった人は、もはやこの世の支配、サタンの支配の下にはいない。神の支配の下にいる。聖書を見てみよう。

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(中略)私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

ヨハネの手紙第一 5:4~19)

御父は、私たちの暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

(コロサイ人への手紙 1:13~14)

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

(コロサイ人への手紙 1:16~17)

 

 実は、地上に存在する支配や権威は、全て神、イエスによって造られたものなのである。天皇が時空を支配しようが、サタンが支配しようが知ったこっちゃない。本当に支配しているのは、神ご自身なのだ。そして、イエスを信じたクリスチャンは、この世の支配から抜け出し、全く新しい存在として、神の支配の中へと移っているのである。

 

 イエスが、税金を納めるかどうかについて語ったエピソードをご存知だろうか。

彼ら(イエス一行)がカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生(イエス)は神殿税を納めないのですか」彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン(ペテロ)、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」

(マタイの福音書 17:24~27)

 

 イエスは、自分たちを「神の子」とした。これは、「神こそが王である」と宣言している部分でもある。この世界を本当に支配しているのは神なのだ。その子どもである私たちは、地上の王へ税金を納める義務は、本来はない。しかし、それだと信仰を勘違いされてしまう恐れもあるので、しっかりこの世の義務である税金は納めようではないか。これがイエスの教えである。

 本来、クリスチャンにとってこの世の支配者が誰だろうが、実はどうてもいいのである。本当に支配しているのは神なのだから。その神に信頼して、この世の義務も果たすのが、イエスが教えた「生き方」である。

 

 

▼聖書は人間の支配や暦を受け入れている

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 また、聖書はこの世の権威に対して、このように書いている。

 

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は、自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びていないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです。すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

(ローマ人への手紙 13:1~7) 

そこで、私(パウロ)は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。

(テモテへの手紙第一 2:1~4)

 

 聖書は、権威のために祈るよう勧めている。時の支配者は、ローマ帝国であった。また、イスラエルを支配していたのは、本来、外国人だったヘロデなどの王たちであった。支配者たちが、イエスを信じるクリスチャンを迫害していた、そんな時代である。

 そんな中であっても、聖書は「上に立つ権威に従うべき」「王たちと高い地位にある人のために祈りなさい」と教えているのである。非常に興味深い。聖書は、この世の支配を認めず逆らえとは教えていない。むしろ、彼らに従い、法を遵守し、彼らのために祈るよう教えているのである。

 であるならば、天皇であろうが、総理大臣であろうが、日本という国が様々な歴史を経て、象徴なり三権の長とした「人間」に対して、クリスチャンが敬意を払い、彼らのために祈るのは至極当然である。民主主義の国において、国民主権の価値観のもと、公正な選挙で選ばれたリーダーをリスペクトし、彼らのために祈るのは、クリスチャンにとって推奨されるべきことである。

 

 また、聖書はユダヤ暦以外の暦も使用している。例えば、以下のような箇所もある。

 

アルタクセルクセス王の第20年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき・・・

(ネヘミヤ記 2:1) 

こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシアの王ダレイオスの治世の第2年まで中止されたままになった。

エズラ記 4:24)

クセルクセスの時代、クセルクセスが、インドからクシュまで127州を治めていた時のことである。クセルクセス王がスサの城で、王座に着いていたころ、その治世の第3年に、彼はすべての主張と家臣たちのために宴会を催した。

エステル記 1:1~3)

ユダの王ゼデキヤの第10年、ベブカドネツァルの第18年に、主からエレミヤにあったことば。

エレミヤ書32:1) 

ペルシアの王キュロスの第3年に、ベルテシャツァルと名付けられていたダニエルに、あることばが示された。

(ダニエル書 10:1)

 

 聖書は、思いっきり他の国の王の治世の「年号」を用いている。エレミヤ書に至っては、ユダヤの王と他の国の王の治世の年号を併記までしている。もし、他の国の王の治世で年月を表すのが、「悪いこと」なのであったら、聖書記者たちはユダヤの暦で換算し直して表記しただろう。しかし、このようにありとあらゆる他の国の王の治世で年月が記されている。つまり、年号を使おうが使うまいが、結局のところどうでもいいのである。あなたが元号を使っても、使わなくても、神がこの世界を支配している事実は変わらないのだから。

 

 

▼結局、どっちでもよくね?

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 とどのつまり、元号を使ってもいいし、使わなくてもいいのである。それは、聖書からみれば、どっちでも良い。元号を使っても、使わなくても、サタンは神の許可する範囲内でこの世を支配している。神の権威は、そのはるか上にある。クリスチャンにとって大切なのは、元号を使わないことではなく、この世の支配者のために祈り、自分の義務を果たすことである。エネルギーを裂く方向を間違えてはいけない。

 結局のところ、今回の結論は、次の聖書の言葉に要約できる。

ある日を別の日より大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(中略)私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

(ローマ人への手紙 14:5~14)

 

 「元号」そのものには、何の効力もない。「それ自体で汚れているものは何一つない」のである。しかし、「元号」を使うのは偶像礼拝だと考える人にとっては、それは偶像礼拝になる。「それぞれ自分の心の中で確信を持つ」のが大切だ。

 私個人の意見では、「クリスチャンは元号は使うべからず」は、行き過ぎた主張だと思う。そして、信者たちに行政的な手続きのやり方まで指導し、他の人にそれを強制することは、たとえ牧師であっても「やりすぎ」だと思う。こと「元号」に関しては、個々人が自分で聖書を読み、神の前で正しいと思うようにすれば良いと、私は思う。

 

 

▼おまけ1:天皇制の是非という別の問題

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 「元号」については、述べた通りだ。この手の議論をすると、必ず天皇制の是非」について話題が及ぶが、これは全くの別問題である。この議論に深入りするのは避けるが、私個人の意見を簡単にまとめたい。

 まず、天皇は、「日本国の象徴」であり、「国民統合の象徴」である(憲法第1条)。皇位世襲であり、国会の決議した皇室典範により継承する(憲法第2条)。これらは全て、日本国憲法で規定されている。つまり、天皇憲法の規定に基づいた「象徴」なのである。

 天皇制には神道という宗教的なバックグラウンドがある。だから、クリスチャンは天皇を認めるべきでないという人もいる。私は、それには懐疑的な立場だ。そもそも「神道」自体が、極めて曖昧な、後の時代に「作り出された」宗教である。その儀式や伝統には、ユダヤ教ペルシャの宗教の影響が色濃く見える。おそらく、シルクロード、中国経緯で伝わったものだろう。西洋で破門された「ネストリウス派キリスト教」の影響もあると考えられる。天皇自体も、最初から文献があるわけではなく、後の時代にさかのぼって「こういう感じでした」という記述を、あえていえば「作り出した」のである。

 これは極めて日本的だ。「古事記日本書紀が作成されたのは8世紀。イスラム教の誕生が7世紀なので、それより後である。当時の日本は、文献がなかった。中国へ渡った大使たちが、中国の発展に追いつこうと、日本独自の「神話」を「作り出した」のである。同時に「天皇」という存在も、有り体に言えば「作り出した」のである。これは議論のあるところだろうが、私はそう考えている。極めて日本人らしい、「そういうことにした」という典型例である。

 以来、天皇は、ハッキリ言って「政治利用」され続けてきた。天皇は神と言いながら、歴史の中の権力者に利用されまくっていたのである。矛盾することをできてしまうのが、本当に日本人らしい。私は、取材する中で、「生物学的には、男系だけで子孫が保てるのは4代が限界」との声も聞いた。天皇はずっと同じ家系ではなく、養子や隠し子など、様々な、あの手この手を使って維持されてきたのである。これは、誰もが認める歴史的事実であろう。

 

 日本中が天皇を「神」だと考えていた時代でさえ、天皇は軍に利用されていた。GHQ天皇を尋問した際、昭和天皇が「私が止められる空気ではなかった」と供述したことに、西洋の人々は驚きを隠せなかった。「あなたは神ではないのか」。「決める権限はあなたにあるのではないか」。そう思ったことだろう。日本を支配しているのは、実は天皇でも政府でもなく、「空気」なのである(by山本七平)。

 そして、戦後、日本中の人々が、すぐに「天皇」を「人間」であり「象徴」だとして受け入れた。終戦が1945年8月で、憲法の交付が1946年11月である。この間、わずか1年3ヶ月。1年余りの間に、日本人は全く違う考え方を受け入れたのである。「そういうことにした」のである。これが日本人のサガであり、西洋の人々には決して理解できないだろう。

 

 まとめると、天皇日本国憲法で制定された立場である。これを否定するならば、憲法を変えないといけない。同時に、憲法には政教分離の規定もあり、天皇が形上、内閣総理大臣を任命したり、国会の開会を宣言したりするのは、憲法と矛盾する。実は、憲法には矛盾する内容が含まれていて、これを受容しているのも、また日本人的と言えよう。結局のところ、私は天皇制は無くならないと思っているし、無くならないなら騒いでも仕方ないと思っている。

 ただ、基本的人権」の観点から、天皇制を疑問視する声はあって当然だと思う。天皇は、生まれながらにして、職業選択の自由がない。信仰の自由もない。プライバシーもない。男子は一生皇族である。女性だって、結婚しようと思えば、週刊誌やワイドショーの標的になる。かわいそすぎないか。天皇だって、公務が詰め込まれ、ほぼブラック企業状態である。生まれた瞬間に自分の未来が決まっているというのは、基本的人権を主張する民主主義国家として、いかがなものか。そういう指摘はあって当然だとは思う。

 

 

▼おまけ2:キリスト教団体の主張について・憲法と聖書どちらが大切なのか

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 最後に、先に挙げたキリスト教団体の主張について、私なりのコメントをしたいと思う。上記の団体の声明は、いずれも憲法の「政教分離」の規定を根拠に、天皇皇位継承の儀式に税金を使うのはオカシイ、元号も使わないし、祝日も認めない、といった類のものである。

 別に、どんな要請をしたり、どんな声明を発表したりするのかは、個々の団体の自由である。ただ、私としては、これらの団体の主張を見て、憂慮する部分が2つある。

 ひとつ目の懸念は、これらの団体が、憲法をまるで聖書よりも大切かのように扱っている点だ。私たちクリスチャンが信じるのは、聖書の記述であって、憲法ではない。「憲法守れ!」と言う前に、聖書の記述に照らし合わせて、物事を捉えた方が良いのではないだろうか。これらの主張は、まるでクリスチャンが聖書を信じる人たちではなく、憲法を遵守する人たちに見えてしまうような気がしてならない。

 特に、聖光会の「かつて、天皇を 中心とした国家神道のもとで、植民地支配と侵略戦争をした反省の上に作られた憲法を守ることは、わたしたちの責任だといえます」という主張は、いささか行き過ぎだと思う。クリスチャンが守るべきは、神の言葉であって、人間が作った憲法ではない。しかも、憲法を守ることが責任ならば、その第1条、第2条で定められた「天皇」の存在を認めることになるが、それはいいのか。矛盾するのではないだろうか。憲法を守れと言いながら、主張そのものが憲法と矛盾しているのである。

 もう一つは、日本のキリスト教団体の中に、日本共産党の思想が入り込んでいるのではないか、という懸念である。例えば、「天皇が時空を支配する」などといった表現は、共産党特有の表現であり、これらが牧師たちの口から出てくること自体、私にとっては驚きである。

 参考までに、共産党・志位委員長の公式見解を掲載する。(参考URL)

慣習的使用に反対しないが、使用の強制に反対するーー新元号の発表にさいして

2019年4月1日 日本共産党委員長 志位和夫

 一、元号は、もともとは中国に由来するもので、「君主が空間だけでなく時間まで支配する」という思想に基づくものである。それは日本国憲法国民主権の原則になじまないものだと考えている。

一、わが党は、国民が元号を慣習的に使用することに反対するものではない。
 同時に、西暦か元号か、いかなる紀年法を用いるかは、自由な国民自身の選択にゆだねられるべきであって、国による使用の強制には反対する。

一、政府は、これまでも「一般国民にまで(元号の)使用を強制することにはならない」ことを「政府統一見解」として明らかにしている。
 この立場を厳格に守ることを、あらためて求める。

 いかがだろうか。元号反対派の牧師たちが口にする言葉と、驚くほど似ていないだろうか。 

 共産党の思想が、良いか悪いかを論じるつもりはない。彼らはれっきとした公の政党である。しかし、同時に公安調査庁が、破壊活動防止法に基づき、調査対象団体に指定している団体でもある事実は、バランスの面から述べなければならない。

 個々の政治的思想は自由なので、別にクリスチャンが共産党員になっても構わない。しかし、本来、クリスチャンの信仰と共産党の思想は、完全に別物である。全く別の考えが、キリスト教団体に入り込んではいないか。近年、共産党は「宗教団体との対話」と称して、キリスト教団体との交流を進めている。私は、この動きに対して、懸念を持っている。

 クリスチャンの信仰は聖書に基づくものである。クリスチャンの信仰は、憲法に基づくものでも、共産党の思想に基づくものでもない。エスを信じて生きることと、共産党の思想は、全く関係がない。教会や団体のリーダーたちには、自分の政治的思想と、聖書を教えることや、教会の共同体を牧会することを、きちんと区別していただくよう、願うばかりである。

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。