週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】洗礼を受けないと「聖餐式」<せいさんしき>に参加できないのか?!

 

教会では、パンを裂き、ぶどう酒を飲む「聖餐式」<せいさんしき>を行います。これを受ける権利、司式する権利は誰にあるのでしょうか?

 

 

▼「聖餐式」を行えるのは牧師だけ?

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 クリスチャンたちが行う儀式の一つに、聖餐式<せいさんしき>と呼ぶものがある。詳しくは後述するが、パンを食べ、ぶどう酒を飲み、イエスの犠牲を覚えるための儀式である。これは、イエスが直々に弟子たちに「わたしを覚えて行え」(ルカ22:19)と言ったもので、有名な「最後の晩餐」はそれを命じたシーンである。

 ある時、私はあるクリスチャンの友人に、パンとワインを買ってきて、「聖餐式」をやろうと提案した。友人は、パンとワインを差し出した私を見て、バツが悪そうに言った。「それを食べるわけにはいきません。うちの教団では、『聖餐式』は牧師が司式をしなければ、やってはいけない決まりなんです」。驚いた。イエスの命令を、牧師だけの特権として、制限しているのである。もったいぶるのも馬鹿らしいので言うが、そんな記述は聖書のどこにもない。私は唖然として言った。「それじゃあ、ただの宗教じゃないか」。

 聖餐式」を行うのは、牧師だけの特権ではない。「聖餐式」は、イエスが信じる人たちに「わたしを覚えて行え」と命じた、大切なものである。クリスチャンの中には、「バプテスマ(洗礼)を受けていないと聖餐式に参加してはいけない」と主張する人たちもいる。聖書のどこにそう書いてあるのだろうか。

 「聖餐式」を行う資格、参加する資格は、一体誰にあるのだろうか。そもそも、「聖餐式」にはどんな意味があるのだろうか。今回は、このクリスチャンの摩訶不思議な儀式について書こうと思う。

 

 

▼そもそも「聖餐式」って何?

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 聖餐式」とは何なのか。まずは、現代の教会で、聖餐式をどのように行うのか解説する。たいていの場合は、小さく小分けにしたパンとぶどうジュースを、信者たちの間に配る。そして、「これがイエスのからだと血の象徴です」と言いながら、一斉に食べる。この儀式は、定期的に行う。教会によっても違うが、年に3回イースターなどに合わせてだったり、毎月1回だったり、多いところは毎週行ったりする教会もある。

 これは、イエスが直接命じたもので、全ての福音書に記述がある。例えば、ルカの福音書にある記述は以下のようなものだ。

それから(イエスは)パンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」

(ルカの福音書 22:19~22)

 

 この儀式で、パンを食べ、ワインを飲むから、罪が赦される・・・とかそういうわけではない。この儀式は、あくまでも、「イエスの十字架の犠牲」を思い出すためのものである。「わたしを覚えて、これを行いなさい」と命じている通り、「イエスを思い出す」というのがこの儀式の一番の目的であり、テーマである。

 しかし、現代の教会では、この「聖餐式」が異常なほど、「聖なる儀式」として扱われている感じがある。例えば、司式は牧師しかしてはいけないとか。バプテスマを受けていなければパンを食べてはいけないとか。教会のメンバーにならなければ参加してはいけないとか・・・多岐にわたる決まりがあるのだ。

 中には、バプテスマ聖餐式の2つを「聖礼典」(せいれいてん)という仰々しい名前までつけて、特別視している教会もある。果たして、この決まりや認識は、聖書の記述から来るものなのだろうか。それとも、ただの文化なのだろうか。聖書を調べてみよう。

 

 

▼元々は「過ぎ越しの食事」だった!

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↑「最後の晩餐」は「過ぎ越しの食事」のシーンである。ただ、当時はこのようなテーブルではなく、床に寝そべって食べていたと言われている。そもそも、こんなテーブルで全員が同じ方向を向いて食べるはずがない。「あたしンち」じゃあるまい。

 まずは根本を見ていきたいと思う。聖餐式」の元々のルーツは、ユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」というお祭りである。「過ぎ越しの祭り」とは、紀元前、めっちゃ昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷だった頃の話に遡る。

 神は10の災い(奇跡)を用いて、イスラエルの民をエジプトから脱出させた。「エジプトの10の災い(奇跡)」と言えば、ご存知の方もいるかもしれない。ナイル川が血に変わったり、疫病で家畜が死にまくったり、いなごが大量発生して作物が全滅したり・・・そりゃもうひどい災害がエジプトを襲った。かなり省くが、特に最後の「長子が全員死ぬ」という災いが決め手となり、イスラエルの民はエジプトを脱出することができた。それを記念するのが「過ぎ越しの祭り」である。

 脱出の後、神はイスラエルの民に、この事実を忘れないよう、お祭りとして覚えよと命じた。最後の災いには、殺されない方法があって、それが「子羊の血を家の門柱に塗る」というものだった。血が塗ってあった家を、天使が「通り過ぎた・過ぎ越した」ので、この祭りは「過ぎ越しの祭り」と呼ばれる。ヘブライ語では「ペサハ」という。

 この「過ぎ越しの祭り・ペサハ」は、紆余曲折がありながら、後の時代も堅く守られ、現代においても続いている。子羊を料理し、イースト菌を入れないパンを焼き、苦い葉などを食べて、ワインを複数杯飲み、この故事を思い出すのである。

 実は、有名な「最後の晩餐」の絵は、この「過ぎ越しの祭り」の食事のシーンを描いたものである。ご丁寧に、きちんと新約聖書福音書には、それが書いてある。先ほどの、ルカの福音書の、少し前の部分を見てみよう。

その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒のこの過越しの食事をすることを、切に願っていました。

(ルカの福音書 22:14~15)

 

 そう、エスは、「聖餐式」を命じたのではない。「過ぎ越しの食事」の一部を「わたしを覚えて行え」と命じたのである。新改訳聖書第三版では、イエスの言葉を、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と表現している。「どんなに望んでいたことか」と言うほど、この過ぎ越しの食事は大切だったのである。

 旧約聖書には、様々なイエスの「伏線」がある。「過ぎ越しの祭り」もその「伏線」のひとつである。門柱に塗られた血は、イエスが十字架で流した血を。血のために刺殺された子羊は、イエスの犠牲を。過ぎ越しの食事で食べるイースト菌を入れないパンは、イエスのからだを、それぞれ表している。何と不思議なことに、過ぎ越しの祭りで子羊をいけにえに捧げるその日に、イエスは十字架にかかって死んだのである。そして、その血によって、罪が赦されるのだ。「過ぎ越しの祭り」はイエスの十字架の伏線なのだ。

 まとめると、エスが「わたしを覚えて行え」と言った「聖餐式」の儀式は、元々は「過ぎ越しの食事」なのである。それゆえ、現代の聖餐式は、「過ぎ越しの食事」を簡略化した儀式なのである。聖餐式」についてまとめると以下である。

 

1:「聖餐式」は「過ぎ越しの食事」である。

2:「聖餐式」の目的は「イエスを思い出すため」である。

3:「過ぎ越しの食事」はエスの犠牲の伏線である。

 

 

 

▼本来の「聖餐式」は食事である

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 さらに聖書を読みたいと思う。イエス以後の信者たちは、どのように「聖餐式」を行っていたのだろうか。この食事のシーンは、主に「パンを裂く」という言葉で表す。

彼ら(新たに信者となった人々)はいつも、使徒たちの教えを守り、交わり(交流)を持ち、パンを裂き、祈りをしていた。(中略)そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。

使徒の働き 2:41~47)

私たち(パウロ一行)は、種なしパンの祭り(≒過ぎ越しの祭り)の後にピリピ(町の名前)から船出した。5日のうちに、トロアスにいる彼らのところに行き、そこで7日間滞在した。週の初めの日(日曜日)に、私たちはパンを裂くために集まった。(中略)そして、また上がっていって、パンを裂いて食べ、明け方まで長く語り合って、それから出発した。

使徒の働き 20:6~11) 

 

 これらの記述から分かるように、イエスの後の時代の人々は、旧約聖書にある祭りを、その伏線の意味をふまえながら、忠実に行っていた。しかし、こと「聖餐式」においては、年に1回の「過ぎ越しの祭り」の時だけでなく、「毎日」「週の初めの日」など、集まるたびに食事をしていたことが分かる。

 また、次のような聖書の言葉もある。

しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐(過ぎ越しの食事・聖餐式)を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。(中略)ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

(コリント人への手紙第一 11:20~26)

 

 ここを見ればわかるように、この「聖餐式」は、「式」と呼ぶような儀式ではなく、どちらかと言えば「食事会」のようなものだったと考えられる。当時は、「教会」の建物などなく、各々の「家」に集まり、一緒に食事をして、交流していた。その食事会の際に、裕福な人たちが我先にと食べて、飲んで、酔っ払っていて、障害者や未亡人など、貧しく、弱い立場の人々がないがしろにされていた姿を、筆者パウロは指摘し、批判したのであった。

 つまり、「信者たちの交流や、支え合い」や、「イエスを思い出す」という本来の目的ではなく、「食べ物」や「儀式」などに焦点がズレてしまっていたと、パウロは戒めたのである。

 ここから分かるのは、現代の「聖餐式」は決して聖書に基づいた聖なる儀式などではなく、元々の「食事会」が簡略化され、残ってきたただの文化だという事実だ。ゆえに、食事会の司式の権利を限定する根拠など、あるはずもない。牧師しか聖餐式を行ってはいけないなどというのは、根拠のない、全くのデタラメだというのが分かるだろう。むしろ、いたずらに制限をかける行為は、「イエスを思い出す」という本来の目的を、阻害しているのではないだろうか。

 

 ちなみに、多少マニアックな話だが、「食事会・聖餐式」と、概念的なイエスの犠牲を通した赦しによる、「神との関係の構築」は明確に区別されている。前者は「主の晩餐」(キリヤコン・デイブノン)、後者は「主の食卓」(トラペゼース・キリオウ)と表現する。これらは、新約聖書で、明確に区別されて書かれている。

「主の晩餐」:実務的。過ぎ越しの食事。パンとワイン。

「主の食卓」:概念的。イエスの十字架による赦し。イエスそのもの。

 

 「主の晩餐」は、パンとワインをもって「イエスの犠牲を思い出す」という部分に主眼が置かれている。「主の死を告げ知らせる」と書いてある通りである。

 「主の食卓」は、コリント人の手紙第一10章を見れば分かるが、もっと大きなスケールの概念的なものに主眼が置かれている。「イエスの犠牲によって、神と人が関係を持てるようになった」というのが、そのメインポイントである。

私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから(≒皆がともに同じイエスを信じるという意味)。(中略)あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

(コリント人への手紙第一 10:16~21)

 

 

バプテスマを受けていないと「聖餐式」をやっちゃダメ?

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 さて、聖餐式でたびたび問題になるのが、バプテスマ(洗礼)を受けていないと、参加してはいけないのだろうか?」という疑問だ。聖書には何と書いてあるのだろう。その議論で、「いけない派」の人々が根拠とする聖書の言葉は、以下である。少し前に挙げた、コリント人への手紙第一の11章の続きの部分である。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

(コリント人への手紙第一 11:27~29)

 

 なるほど。どうやら、「バプテスマを受けていなければ、聖餐式に参加してはいけない」と主張する人々は、「からだをわきまえる」という部分をとって、「自分の罪をそのままにした状態で、聖餐式のパンを食べたら呪われる」というように考えているようだ。

 これは、この後の部分を読んでいないから起きる、とてもくだらない解釈である。かわいそうに、そのような人々は日本語が読めないために、正しく聖書のメッセージを受け取れないのである。また、たとえその解釈が正しいとしても、罪を取り除くのは「バプテスマ」ではなくて、「イエスの犠牲、イエスの血、そしてそれを信じる心」なのであるから、そもそもの聖書理解が間違っている。哀しいことだ。聖書全体の文脈が理解できない人たちが、間違ったルールを作ってしまったのである。

 続きの部分は、以下である。

あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。空腹な人は(自分の)家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。

(コリント人への手紙第一 11:30~34)

 

 お分かりだろうか・・・。ひとつひとつ解説しよう。

 

 まず、最初の部分で言及しているのは、「ふさわしくない『仕方』」についてである。「ふさわしくない『状態』」のことではない。まずこの時点で、「自分の罪をそのままにした状態で」という解釈は間違っていると分かる。

 「ふさわしい『仕方』」とは何か。それは全体を読めば推し量れる。ひとつは、「過ぎ越しの食事」の「やり方」であろう。ユダヤ教の文化では、この「過ぎ越しの食事」について、かなりの細かいルールがあった。食べ物の順番、ワインを飲むタイミングや杯数(伝統的には、4杯~5杯)、食前の祈りの文言や、唱える「詩篇」の言葉などである(伝道的には、詩篇113~114編を朗読する)。

 福音書にある「感謝の祈りをしてから」「賛美の歌を歌ってから」などの記述や、ワインを複数杯飲んだという記述から、イエスたちも、この「仕方」を細かく守っていたことがうかがえる。

 しかし、コリントの共同体の人々は、どうだったか思い出してほしい。

それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。

(コリント人への手紙 11:21~22)

 

 こう書いてあるとおり、「我先にと自分の食事をする」始末だったのである。「ふさわしい仕方」どころの話ではない。貧しい人たちは後回しにされ、食べ物は平等に配られず、酔っぱらいもいたという、まさにカオスな状況だったのである。

 こういう状況で、紀元1世紀の衛生状況で食事をしたらどうなるか。当然、病気が流行するはずである。それによって、「弱い者や病人や、死んだ者がかなりいる」という状況になっていたのである。当たり前だ。アホちゃうか、という状況だったのだ。「千と千尋の神隠し」で、主人公の千尋の両親が、ガツガツ食べ物を食べて、みるみる豚になってしまった姿を想像していただければいいかもしれない。読めば分かるがここには「バプテスマ」の「バ」の字も、「洗礼」の「せ」の字もない。

 それどころか、これは「自分自身を吟味しなさい」という命令である。自分を吟味するのは、自分自身である。教会の組織や、制度や、ルールによって吟味するものではない。ここをどう読んだら「バプテスマを受けていなければ、聖餐式に参加できない」という解釈になるのだろうか。本当によく分からない。たぶん、聖書を読んでいないのだろう。

 

 コリント人への手紙で命じられている内容をまとめると、以下の4点である。

1:自分自身を吟味しなさい。すなわち、自分で自分の心の状態を見極めなさい。

2:ふさわしい「仕方」で食べなさい。すなわち、食事の衛生や秩序を保ちなさい。ユダヤ人なら文化的なやり方を守りなさい。

3:食事をする際は、互いに待ち合わせなさい。すなわち、他者を思いやる心を持ちなさい。

4:待てないほど空腹なら、自宅で食事をしなさい。共同体で「食事・聖餐式」をする目的は、「交流」と「イエスの犠牲を思い出すため」である。「食事」が目的ではない。

 

 もう一度言おう。バプテスマは関係ない。むしろ、教会の共同体として、「イエスは、十字架にかかって、私たち一人ひとりの罪を代わりに背負って、死んだんだ」と思い出すために、バンバン食事を一緒にしたらいいのではないだろうか。その際、大切なのは、思いやりであり、秩序である。バプテスマを受けているかどうかではない。

 

 

▼イエスを信じていない人は「聖餐式」に参加できる?

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 さて、最後に、少しデリケートな話題に入ろうと思う。エスを信じていない人も、「聖餐式」に参加していいのか? という問題だ。

 読者の皆様は、どう感じるだろうか。私の結論は、「別にいいんじゃね?」というものである。理由は以下のイエスの教えである。

聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。(中略)口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。

(マタイの福音書 15:10~20)

 

 「聖餐式」のパンとワインは、別に何も特別なものではない。ただのパンと、ワインかぶどうジュースである。普通にスーパーで売っている、パスコの「超熟」と、ウェルチの100%ぶどうジュースだ。食べても、飲んでも、何の害もない。うんこになるだけだ。そこになにか聖なる力が働いているわけでもあるまい。「罪をきよめる」のは、そのパンでもぶどうジュースでもない。「イエスの犠牲」を信じることによってのみ、罪が赦されるのである。

 そもそも、聖餐式を本気で信じるなら、イースト菌を入れない「マッツァ」と呼ばれるパンを使うべきだ。それなのに、イースト菌入りまくりの食パンを使うなど、言語道断。ワインだって、「ぶどうジュース」に逃げず、本物のワインを使うべきだ。それを、「酒を飲んではいけない」というこれまた聖書に記述のないクソ勝手な決まりを作ったプロテスタント教会が整合性を保つために勝手に「ぶどうジュース」を使ってしまっているのである。「ふさわしい仕方」はどこに行ってしまったのか。

 つまり、「聖餐式」を行っている人たちは、「パン」や「ワイン・ぶどうジュース」に効力はなく、それが象徴する「イエス自身」が大事だと本心では分かっているのである。それならば、未信者であっても、そのどこでも売ってるパンとぶどうジュースを受け取って、イエスを知る機会になった方が、100億倍いいのではないか。制限されたら、嫌な気持ちになると、想像できないのだろうか。それが「愛」なのだろうか。

 まだイエスを信じていない読者は、堂々とパンとぶどうジュースを食べてほしい。しかし、その100倍ぐらい、それならイエスを信じてみようぜ! とオススメしたい。

 

しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

(コリント人への手紙 8:8)

 

 

▼おまけ:大きな意味での「からだ」という解釈

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 さて、これはおまけだ。読まなくても良い。

 先程の、「からだをわきまえる」という表現について一言。「からだ」とは、新約聖書では、「教会の共同体」を指す比喩である。「教会の共同体」はよく、「キリストのからだ」と表現される。

 従って、コリント人への手紙の一部を、「教会の共同体」と解釈して読んでみよう。同じ聖書の箇所を同じ翻訳で読んでもツマラナイので、普段と違う翻訳で、先程の聖書の言葉を再掲する。

従って、ふさわしくないしかたで、主のパンを食べ、主の杯を飲む者は、主<しゅ>の体(≒教会の共同体)と血に対して罪を犯すことになります。人は自分を吟味したうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主<しゅ>の体(≒教会の共同体)をわきまえないで食べて飲む者は、自分に対する裁きを食べて飲むことになるのです。

(コリントの信徒への手紙一 11:27~29 聖書協会共同訳)

 

 こう読むと、いかに「過ぎ越しの食事」「食事会」「聖餐式」の秩序が大切かというのがよく分かる。しかし、私は、信じていない人が参加するのを「秩序がおかしくなる」とは思わない。むしろ、聖書に記載のない「バプテスマ受けてなきゃダメ」「牧師いなきゃダメ」といったルールで縛りまくることこそ、最悪ではないか。なぜなら、「イエスを思い出す」という最大の目的を、儀式的なものに矮小化することによって、阻害しているからだ。むしろ、どんどんその意味を宣伝し、イエスの名前を広げることこそ、聖餐式の目的ではないのだろうか。

 また、「バプテスマを受けてなきゃ聖餐式に参加できない」などと言って、参加したい人の気持ちをくじくのも良くない。それは、共同体の中で、果たして本当に愛を示していることになるのだろうか。それこそ、「教会の共同体をわきまえない」ことにならないだろうか。コミュニティの一人ひとりを軽んじていることにならないだろうか。

 

 最後に、自戒も込めて、「聖餐式・食事会」の実話に基づくお話をお伝えして終わりたい。

 

 私が昔集っていた、韓国系の教会には、目の見えないお兄さんがいた。ある時、韓国から韓国人のおばちゃん集団がやって来た。よくある、「短期宣教チーム」である。なんだかよく分からないが、「宣教チーム」として、教会で自分のストーリーを話したり、温泉に入ったりして帰っていくチームだ。「宣教チーム」での経験が、韓国教会ではステータスになるそうで、毎年大勢のおばちゃんやおじちゃんたちがやって来ていた。

 さて、とある日曜日、この「宣教チーム」が突然大勢来たものだから、「聖餐式」のパンとぶどうジュースが足りなくなった。順番が最後になり、受け取れなかったのが例の目の見えないお兄さんだった。「僕の分はないんですか?」。悲しそうに言った彼の声が忘れられない。彼に聖餐式のパンとぶどうジュースを分けてあげた人はいなかった。

 その日はたまたま、教会の誰かの誕生日で、1階のキッチンには大きなケーキが準備してあった。礼拝堂は、2階にあったので、「宣教チーム」のおばちゃんたちは、我先にとキッチンに降りていき、ビビンバとわかめスープを頬張り、最後にケーキをむしゃむしゃと食べていた。例の目の見えないお兄さんはというと、目が見えないため、2階から1階の屋外にある階段を降りて、キッチンに入ってくるまでに、かなりの時間がかかった。

 目が見えない人は、耳や鼻がいい。彼はキッチンに入ってくるなり、こう言った。「あれ、ケーキの匂いがしますね」。しかし、ケーキはおばちゃんたちによって食べ尽くされていた。彼にケーキを分けてあげた人は、いなかった。 

 

 教会の共同体でくらい、互いに愛を示したいものである。

 

(了)