週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】牧師しか「メッセージ・説教」しちゃいけないってホント?!

教会で、「メッセージ・説教」を「牧師だけしかしてはいけない」と言われることがありますが、果たしてそれは本当なのでしょうか。

 

 

 

▼牧師しか語っちゃいけない?!

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 私が高校生の時、教会でとあるイベントを企画した。何も特別なことはない、簡単なゲームがあり、プレゼント交換があり、ちょこっと聖書の話があり、映画を見て、お泊りして、次の朝バイバイ。そんな企画だった。この「ちょこっと聖書の話」がいけなかった。教会の牧師は、お世辞にも話が上手ではなかったので、牧師ではない人にこの「ちょこっと聖書の話」を依頼していたのだ。若者を対象にしたイベントゆえの作戦だった。しかし、これが誤算だった。それを知った牧師は大激怒。「牧師以外の人が、聖書の話をするのは、けしからん!!!」とまくし立てたのであった。

 当時の私は、「こいつは頭がおかしいんじゃないか」と本気で疑ったが、どうやら教会には、「牧師以外が聖書の話をしてはいけない」という暗黙のルールがあるらしいということを悟った。後々聞いてみると、教会や教団、教派によっては、「牧師しか教えてはいけない」と明文化されているところもあるという。

 この、「ちょこっと聖書の話」を、クリスチャン専門用語で「メッセージ」とか、「説教」とか言ったりする。果たしてこの「メッセージ・説教」は牧師しかすることが許されていないのだろうか。聖書はどう書いているのだろうか。今回は、この「聖書について語る権利」について書こうと思う。

 

 

▼メッセージ・説教とは何か

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 そもそも、「メッセージ・説教」とは何なのだろうか。クリスチャンの世界で、この「メッセージ」「説教」というのは聖書の言葉についての講話を指す(※まぎらわしいので、この記事では一律に「メッセージ」と表記する)。

 聖書の文は何を意味するのか、それが自分の人生にどういった意味があるのかを話すというのが、一般的な「メッセージ」である。時間は、10分程度のものから、1時間ほどのセミナー形式のものまで様々だ。日曜日の礼拝会では、ほとんどの場合、この「メッセージ」がある(たいてい30分~45分ほどの場合が多い)。

 メッセージは、多くの場合、礼拝会や集会のメインディッシュ的な扱いをされている。なるほど、確かに聖書の言葉は、人間にとって人生の糧となる、非常に大切な言葉である。聖書は、はるか昔に、ヘブライ語ギリシャ語などで書かれた書物なので、時代的、文化的、言語的障壁を乗り越えなければ、正しく理解ができない。そのために、メッセージという形で、時代的、文化的、言語的障壁を取り除きながら、聖書の言葉を、現代の私たちに分かりやすい形で解説する。これがメッセージというものである。

 メッセージは、教会や話す人によって、スタイルはまちまちだ。聖書の文、1文(1節)だけについて深く話す場合もあれば、聖書の中の章や書物全体について語る場合もある。聖書をバランス良く読むために、「講解説教」(こうかいせっきょう)という形で、聖書を頭から順番に語るスタイルもある。「信仰について」「人間関係について」「家庭について」など、包括的なテーマに沿って語る「テーマ説教」というスタイルもある。毎回、分かりやすくポイントを整理する「ポイントメッセージ」のスタイルもあれば、教会によっては、一貫して「イエスの十字架と復活」という、いわゆる「福音」しか語らないところもある(個人的に、それもどうかと思うが)。

 様々なスタイルがあるが、今回の問題は、「メッセージは、牧師にしか許されていないのか」という問題である。では、毎度よろしく、聖書がどう語っているか見てみよう。

 

 

▼聖書に「メッセージ」などない?!

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 聖書は、「メッセージ」についてどう書いているのだろうか。何とビックリ。書いていないのである。聖書に、「メッセージ」の「メ」の字も、「説教」の「せ」の字もないのである。こりゃあビックリ仰天。今の教会の牧師たちは、「メッセージに命を賭けている」タイプの人も多い。なんと、その人たちは、聖書に書いていないことを、一生懸命、命を賭けてやっているのである。めっちゃドンマイ。聖書はそうは書いていない。

 なぜか。聖書の時代は、必ずしも「牧師が教会でメッセージを語る」というスタイルではなかったのである。いくつか、聖書のケースを見てみよう。

 

【イエスの場合】

 イエスの場合はどうだったか。イエスは、「会堂」シナゴーグ)と呼ばれる、当時のユダヤ教の教会のようなものに行っていた。シナゴーグは、現代の教会とは違って、どちらかと言えば、「公民館・コミュニティーセンター」のような存在だった。地域行政、宗教行事、警察、裁判、自治、配給、などなど・・・生活の全てが、このシナゴーグ、会堂で行われていたのである。これは、その「会堂・シナゴーグ」にイエスが行った時のエピドードである。

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。(イエス、巻物を朗読する。割愛)エスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。エスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。(ルカの福音書 4:16~22)

 

 エスは、この「会堂」に行き、旧約聖書の「イザヤ書」の巻物を朗読した。その箇所は、メシアについての預言の箇所である。イエスは、その部分を読み、「この言葉が実現した」と宣言したのである。すなわち、「私がメシアとして来た」と宣言したに等しかった。

 イエスの行動は、「会堂」という場で、「聖書のことば」を解説したという意味で、ある種の「メッセージ」である。当然、イエスは、この「会堂」の牧師ではなかった。係りに手渡されて、イザヤ書の巻物を読んだだけである。そこに一言加えただけである。その言葉に、人々は驚いたのである。 

 ここから分かるのは、当時は「会堂」で「牧師」が語るというスタイルではなかったということである。これは、次に書くペテロやパウロの話にも共通してくる。

 

 

【ペテロの場合】

 ペテロは、イエスの昇天後、人々に大胆にイエスを宣べ伝えた。使徒の働きには、以下のような記述がある。

翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、誰の名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちが今日・・・(割愛)」彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスと共にいたのだということも分かってきた。

使徒の働き 4:5~13)

 

 ペテロは、おそらくこの時、「サンヘドリン」と呼ばれる「最高法院」(※エルサレムにあるという記述なので最高法院。地方にある場合は「地方法院」)で、「なぜイエスを宣べ伝えているのか」と尋問されたのであった。この時の特徴は、以下である。

・会堂ではなく法院での証言だった。

聖霊に満たされたペテロは、イエスについて証言した。

・人々は、ペテロとヨハネ「無学な普通の人」であると知って驚いた。

・その結果、2人がイエスと一緒にいたことが分かった。

 

  「聖書協会共同訳」では、この部分にご丁寧に「ペテロの説教」というタイトルまでついている。ここから分かるのは、メッセージ・説教は、場所に縛られず、教育や資格に縛られないということである。ペテロは、ただ聖霊に満たされて、イエスについて大胆に証言したのであった。

 ペテロは、神学校に行って、牧師になったわけではなかった。「ただの漁師」「無学な普通の人」であったペテロが、ただただ聖霊によって、知恵と言葉が与えられて、大胆にイエスについて語ったのである。それによって、ペテロが、イエスと深い関係にあることが分かったのだ。現代においても、メッセージを語る人が、どれだけ神と深い関係を築いているかがカギとなる。

 

 

パウロの場合】

 では、数々のメッセージを残したパウロはどうだろうか。いくつかの事例を見てみよう。

するとただちに、サウロ(パウロ)の目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。これを聞いた人々はみな驚いて言った。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いていくためではなかったか」

使徒の働き 9:18~21)

 

 パウロ(サウロ)は、イエスを信じた直後に、諸会堂でイエスを宣べ伝え始めた。それまで、パウロはイエスの信者たちを捕まえて牢屋に入れていたのだから、面白い。彼は、イエスの素晴らしさのゆえに、黙っていられなかったのだ。それまで敵だった人々の中で、それまでと真逆のことを宣言するのは、勇気が必要だっただろう。でも、彼は大胆にイエスを宣言するために、メッセージをしたのであった。

 他の事例も見てみよう。

律法と預言者たちの書(すなわち、旧約聖書)の朗読があった後、会堂司たちは彼らのところに人を行かせて、こう言った。「兄弟たち。あなたがたに、この人たちのために何か奨励のことばがあれば、お話ください」そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。「イスラエル人の皆さん、ならびに神を恐れる方々、聞いてください・・・」

使徒の働き 13:15~16)

 

 以上の事例から分かるのは、当時の会堂のスタイルは、「奨励のことば」を示された人が語る、「オープンマイク型」だったということである。なるほど、これならかつて、イエスが会堂でいきなり語り出したのも頷ける。定められた「牧師」や「教師」だけでなく、神に感動し、イエスに人生を変えられた人々が、聖霊に突き動かされて、神の素晴らしさを語る。これが本来のメッセージであった。 

 このような実際の事例だけではなく、聖書には、具体的に「互いに教え合え」とも書いている。次は、それを見ていこう。

 

 

▼聖書は互いに教え合うように教えている

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 聖書は、「教える」ことについてどう書いているだろうか。順次見ていこう。

 

私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

(ローマ人への手紙 15:14)

 聖書は、「互いに訓戒し合う」ように教えている。

 

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。(中略)詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

(エペソ人への手紙 5:15~19)

 聖書は、「知恵のある者として、機械を十分に活かせ」と命じている。また、「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合う」ようにも勧めている。メッセージは、言葉だけでなく、歌を通しても語れるのである。

 

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人の手紙 3:16) 

  互いに教えること、忠告し合うことを聖書は命じている。これは、牧師や教師だけに限った話ではない。

 

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、誰でも一人ずつ預言することができるのです。

(コリント人への手紙第一 14:29~31)

 

 この部分は、新改訳3版では「すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができる」と表記している。「預言」の定義については諸説あるのだが、ここではひとまず広義に「神の啓示を語る」としよう。そうすると、「メッセージ」も広義の「預言」の一部である。まとめると、以下のようなことが分かる。

・メッセージは誰でも代わる代わるできる。

・メッセージは、皆で吟味すべきである。

・別の人に、別の啓示が与えられる可能性もある。

誰でも語ることを学べる

誰でも一人ずつ語れる

 

 「牧師」や「教師」だけがメッセージを語る資格があるというのは、聖書の教えと反している。聖書が語っているのは、むしろ、互いに教え合い、戒め合い、語り合うことである。聖書は、互いのメッセージを吟味するよう教えている。聖書は、誰でも語る術を学べると教えている。聖書は、メッセージを語る際、聖霊の働きが重要だと教えている。

 これらの聖書の言葉を読んだだけでも、「神学校に行って学んで、『正教師』にならなければ教えてはいけない」などという人間の作ったルールが、いかにくだらないか分かるだろう。くだらないどころか、聖書の教えと真っ向から反することをしているのであるから、改めた方が良いと私は思う。

 

 

▼人間のシステムを守るためだけの、くだらない内規

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 現代の教会のほとんどは、「牧師」や「教師」といった役職がある人だけが教会で語れる仕組みになっている。ちゃんちゃらおかしい。そのようなシステムは、いたずらに聖書や神について語るハードルを高めるだけで、百害あって一理なしの、人間が勝手に作り出したシステムだ。聖書から、何も学んでいない。そのような勝手な人間の偶像礼拝は、いい加減やめたらどうか。

 おおかた、そのような決まりは、「間違った教え」を予防するために組織の中で人間が作ったのだろう。笑止。くだらない人間の知恵だ。そのようにハードルを作ってしまったせいで、現代のクリスチャンは、自ら学ぶことをやめてしまった。勝手に「聖書学校」を作り、そこを卒業しなければ語れないという「内規」を作ってしまったがために、人々が自分で聖書から学び、語り、戒め合い、メッセージを吟味する術を失ってしまったのである。必要なのは、誰でも語り、誰でも教え合い、誰でも吟味できるシステムである。

 現代の教会は、「教会を守るため」の、必要ない決まりが多すぎる。しかも、クリスチャンたちが、それを「絶対的な権威」として守りすぎている。そんなくだらないハードルを設けるから、日本中の教会で、「教師不足」が頻発しているのだ。大切なのは、「教会を守る」ではなく、「イエスを宣べ伝える」ことではないか。自分たちで語れるようになれば、「教師不足問題」は一気に解決する。「牧師しかメッセージしてはいけない」という決まりは、人間が勝手に作り出してしまった文化、伝統、内規に過ぎない。クリスチャンならば、そのような人間が作った内規ではなく、聖書を基準に生きるべきではないか。

 クリスチャンは、誰もが聖霊によって、聖書を通して学ぶことができる。誰もが語ることができる。現代の教会に必要なのは、いたずらなハードルではなく、誰もが自分で学び、吟味し合うためのシステムづくり、空気づくりだろう。もっと教会に互いに教え合い、互いに戒め合うことをバシバシやっていったらいいではないか。聖書を自分の言語で学び、教えられるのがプロテスタントの特徴である。司祭しか教えてはいけないというなら、どうぞ、カトリックに入会し直せば良い。

 

 そんな、教師でない人が聖書を語ったら、間違った教えが横行する・・・と心配する人には、プリスキラとアキラ(アクラ)が、アポロを戒めたエピソードをぜひ読んでほしい。

さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり、教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに読んで、神の道をもっと正確に説明した。アポロはアカイアに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるようにと、弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、大いに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。

使徒の働き 18:24〜28)

 

 これは、プリスキラとアキラという教会コミュニティのスタッフが、アポロというメッセージを語りまくる男に、もっと正確に聖書を説明した、というエピソードである。アポロは、その後、さらに活躍し「信者たちを大いに助けた」とある。

 どのような立場であれ、互いに教え、指摘し合うことで、メッセージが磨かれていくのが、このエピソードから分かるだろう。必要なのは、互いに吟味することであって、制限をかけることではない。

 私が参加している教会コミュニティでは、牧師だけではなく、教会に集う人々もメッセージを語っている。名簿に名前を書き込み、語りたい人が語る、「サインアップ・スタイル」だ。奇しくも、次の日曜日は私が語る予定となっている。さて、何を話そうか。神が与えた聖霊に聞きながら、準備したいと思う。

 

 

▼おまけ1:良いメッセージと、そうでないメッセージの見分け方

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 良いメッセージと、そうでないメッセージは、どう見分ければいいのだろうか。簡単に、あくまで私の主観で特徴を挙げたいと思う。

【良いメッセージ】

・内容が聖書に基づいている。

自分が語りたいことではなく、聖書が教えていることを教えている。

・聖書の一部分を、文脈を無視して抜き出すのではなく、聖書全体の文脈を捉えている。

エスの十字架の、恵みによる救いのエッセンスがある。(cross centered、十字架中心)

聞く人の心を、神・イエスに向けさせる。

・聞いている人たちに向かって話している。

長すぎない(超重要)

 

【良くないメッセージ】

・内容が聖書に基づいていない。特に、メインテーマが聖書全体の教えとズレている。

・自分が語りたいことを、聖書を利用して話している。

・自分の語りたいことを補足するために、聖書の一部分を、文脈を無視して抜き出している。

・イエスの十字架の、恵みによる救いのエッセンスが全くない。

・聖書のストーリーを、比喩的に捉えすぎて、聖書全体の文脈と関係ない解釈をしている。

・聞く人の心を、神ではなく、話者自身に向けさせる。

・原稿丸読み。萎える。

長い、長すぎる(ほとんどのメッセージがこれ)

 

 世の中には、意外と「聖書を使って、自分の言いたいことを言っている」タイプのメッセージが多い。聞く人は、よくよく吟味し、神が語ることをしっかり捉えられるようにしよう。

 

 

▼おまけ2:メッセージを作るコツ

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 語弊を恐れず言えば、「メッセージ・説教」など誰でもできる。超簡単だ。聖書を読んで、聖霊を通じて受け取ったことを話すだけ。イエスは、弟子たちに「何を語るか案じるな。何を話せばいいかは、聖霊がその時教える」(ルカ12:12)と教えている。これについては、また別記事を書く予定だが、以下、簡単に私が考えるメッセージづくりのコツを挙げる。以下、あくまでも私のオススメである。

【メッセージ作りのコツ】

祈る。

とにかく毎日聖書を読み、神との時間を過ごす。たいていメッセージの内容のほとんどはそこがベースとなる。

・そこから語られた言葉をメモする。

・それを噛み砕いて、シンプル化して、テーマを作る。

関連の聖書の言葉の索引をひきまくる。別の翻訳や言語でも読んでみる。

正解を言おうと思わない。失敗を恐れないで、神に頼る。

・慣れないうちは、プレゼンの小手先に頼らず、完全原稿を作ってみる。

祈る。とにかく祈る。聖霊の導きを求める。前日になって原稿全部差し替えっていうこともよくあるんだな、これが。 

 

 安心していい。何を語ればいいかは、聖霊が教える。心配せずに、大胆に語っていこう。

 

しかし、助け主、すなわち、父がわたし(イエス)の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネ福音書 14:26)

 

 恐れずに言えば、メッセージで人の人生など、そうそう変わらない。あなたは、先週、教会で聞いたメッセージを覚えているか? ・・・メッセージなど、そんなものなのだ。

 人が本当に変わるのは、神の愛と恵みを体験して感動し、聖書の言葉から学び、聖霊によって神のキャラクターに変えられていく時だけなのである。