週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【提起】意味わからんクリスチャン専門用語10選! もうやめません?  

クリスチャンは自分たちにしか分からない専門用語を使いすぎです。排除の論理なの?!

 

 

▼専門用語が大好きなクリスチャンたち

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 クリスチャンほど、「専門用語」が大好きな人たちはいないだろう。教会に初めて来る人たちにとっては、「は???」と思う用語が飛び交っているのだから、疎外感を覚えるに違いない。私が初めて「教会」に足を踏み入れたのは小学校4年生の時だが、あまりにも意味不明な言葉を乱用する教会の文化に、うんざりしたものである。物心ついた時から教会に通っている人を除けば、はじめは誰もがそのような違和感を覚えたはずだ。それなのに、いつのまにか「内輪の言語」に慣れてしまったクリスチャンたちは、そのような「専門用語」ばかりを使って生活している。

 専門用語に慣れてしまうと、その言葉の本来の意味や由来を考えずに生活してしまえる。それが専門用語の罠である。また、専門用語の知識がない人を無意識に排除してしまう要因にもなる。教会に来る人が減って当たり前だ。イエスは、一般の人々に分かりやすいように、全てを「たとえ話」で語った。弟子たちにのみ、その真理や奥義を明らかにしたのである。イエスは、その人の理解の度合いに合わせて語ったのである。しかし、今日のクリスチャンたちは、自分たちだけが理解できる「専門用語」に溺れ、クリスチャンでない人が教会に来てはいけないような空気を作ってしまっている。

 私が働くテレビ業界も、専門用語が横行する業界だ。

「ADさん、明日ミックスするから、ハコ、バミっといて」

「夕方は、昼の白を完パケしてマルサイね」

「このOA素材、イエロー許諾とったから、緑山から来たらカマタキしておいて」

 などなど・・・読者のみなさんのほとんどにとっては、チンプンカンプンだろうが、この業界ではいたって普通の会話である。しかし、業界外の人には通じない会話だ。それと同じように、クリスチャンの人々の「専門用語による会話」は、クリスチャンでない人から見たら、このように聞こえるのである。

 ただ分からないだけならまだしも、このように意味不明な用語を使って会話をしているの聞くと、まるで怪しい宗教のように思える。エスの素晴らしい教えが、このような「専門用語」に阻害されてしまっては、もったいないではないか。今回の記事では、この意味不明な「専門用語」の代表例を10挙げ、「こう言ったらどうだろう」という私なりの提案をしたいと思う。

 

 

▼専門用語1:「みことば」

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 「みことば」。おそらく、最も多く使用されるクリスチャンの専門用語かと思われる。漢字で書けば、「御言葉」で、神の言葉の意味である。つまり、神の言葉とされる、「聖書の言葉全体」を「みことば」と言う。聖書は神の言葉なのだから、ただの言葉では失礼だ、「御」をつけようという意味なのだろうが、今の時代の人々にとっては、何がなんだか分からない。

 こんな、ヘンテコな言葉を使わずに、普通に「聖書の言葉」とか、「聖書にはこう書いてある」と言えば良いのではないだろうか。このブログでは、一貫して「聖書の言葉」としている。

【使用例】

現状  :「みことばにより頼みましょう」

おすすめ:「聖書の言葉を読んで、学び、それをベースに生きましょう」

 

  

▼専門用語2:「みこころ」

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 「みこころ」。また「み」がつくシリーズである。漢字で書けば「御心」で、「神のこころ」という意味である。ただ、文字通りの「神のこころ」ではなく、意味としては「神の計画」という意味である。クリスチャンは、神の計画に従って生きたいと願っているため、この「みこころ」が何か、常に気にしている。その姿勢は良いが、この「みこころ」という言葉がどうにも引っかかる。「みこころ」とか言っているひとは大抵、自分の「おこころ」なのである。

 こんな、まどろっこしい言葉を使わずに、普通に、「神の計画」と言えばいいのではないだろうか。「運命」でもいい。神が全てを司っていると信じるならば、だ。クリスチャンでない人が神さまの言うとおりと言っている方が、よっぽど「みこころ」を求めていると思う。

 ところで、この「みこころ」という言葉は、「神が定めた結婚相手」のことを指す場合もある。それについては過去に記事を書いたので参考にしてほしい(記事はこちら)。

【使用例】

現状  :「この人はみこころの相手でしょうか。教えてください」

おすすめ:「全てにおいて、神の計画を求めます。従えるように助けてください」

 

 

▼専門用語3:「教会」

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 「教会」という言葉は、中国語からの造語である。元々の言葉は、ヘブライ語では「ケヒラー」ギリシャ語では「エクレシア」という。本来の意味は「集会・共同体」。つまり、「教会」とは「教会堂」の建物を指すのではなく、コミュニティそのもの、その人間関係そのものを指すのである。

 そもそも、互いに助け合うクリスチャンのコミュニティが「ケヒラー・エクレシア」だったのにも関わらず、それを「教える会」としてしまった翻訳者は罪深い。当時の聖書翻訳者たちは、中国語の聖書を過信しすぎていた。翻訳者がなまじ漢文に精通してしまったばかりに、中国語の用語をそのまま日本語に転用してしまったのである。その結果、本来の意味が失われてしまった用語は他にもたくさんある。教会、洗礼、悪魔、愛、神、などなど、実は聖書の根幹に関わる用語は、ほぼ全て中国語からの転用で、しかも意味合いとして間違ってしまっているのである・・・(※これについては別途記事を書く予定)。

 日本人が「教会」と聞くと、まっさきに「教会堂」を思い浮かべてしまう。広辞苑をひいても、「教会」は「教会堂」のこととされている。全く違う。本来は共同体を指すのだから、例えるなら、「教会」は「自治会」であり、「教会堂」が「公民館」である。自治会に行く」とは言わない。「自治会の集まりに行く」と言う。「教会に行く」というのは、本来、日本語として間違っているのだ。「教会の集まりに行く」と言えば良い。英語はそのへんの区別がしっかりできていて、「church」は「共同体」を指し、「the church」は「教会堂」を指す。

 そんなカンチガイをただすためにも、私は「集会」とか「教会の共同体」とか「チャーチ」とか呼ぶようにしている。「教会」という言葉が定着してしまっている以上、言葉を完全に変えるのは、なかなか困難だが、「コミュニティ」こそ教会の本質だと知っていただきたい。

【使用例】

現状  :「教会に行く」

おすすめ:「教会の集まりに行く」「教会の共同体の集まりに行く」「チャーチに行く」

 

 

▼専門用語4:「賛美」

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 「賛美」という言葉は、おそらくクリスチャンの会話以外では、ほとんど出てこないだろう。一般の日本人は「賛美歌」は知っていても、「賛美」は知らないからややこしい。クリスチャンではない人から、よく聞かれる質問として、「教会で何をするの?」というものがある。その際、私は「賛美歌をみんなで歌ったり、一緒に祈ったり、聖書の話を聞いたり、教会の仲間とグダグダしたりするよ」と説明する。「賛美歌」は、どうしてもクリスマスキャロルのようなイメージがあるため、「賛美歌といっても、最近はギターとかドラムを使ったバンドっぽい賛美歌もあるんですよ」と説明する。非常にややこしい!!!

 これは、百聞は一見にしかずなので、一度来てもらった方が分かりやすいだろう。私も、「賛美」に代わる単語は開発できていない。「賛美歌」なら日本人は分かるので、いわゆる「ワーシップソング」を説明したい場合は、「賛美歌だけど、ちょっと現代的バージョン」とか、「ゴスペルに近いけど、ちょっと違うパターンのやつ」とか、言葉で説明するしかあるまい。ただ、言えるのは、「賛美」という単語だけでは、クリスチャンではない人は、一言では分からないのだ。

【使用例】

現状  :「さぁ、みんなで賛美しましょう!」

おすすめ:「さぁ、みんなで神様スゲー、イエス半端ない! って言うために、賛美の歌を歌いましょう!」

 

 

▼専門用語5:「感謝だねぇ」「恵みだねぇ」

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 「感謝だねぇ」「恵みだねぇ」。クリスチャンの中には会話の中身をほとんどこの言葉で終わらせてしまう人も少なくない。

 クリスチャンではない会社の同期に、こう質問されたことがある。「なぁ、”クリスチャンあるある”言って」。困った私はとっさに、「何か良いことがあったら、『こんなことがありました。感謝です』って言って、その受けとして『感謝だねぇ』って言うんだよ」と伝えた。一同、大爆笑。「感謝だねぇ」という言葉が、同期内で一時期、流行した。

 クリスチャンでない人にとって、これは笑える話なのかもしれない。しかし、クリスチャンの間では、本当に頻繁に耳にするやりとりだ。神が私の人生に働いてくれた。だから、神に感謝したい。その気持を込めての「感謝です」である。 それを聞いた人も、「それは真に感謝なことだ」と同意を示す。結構なことだと思う。神の権威を認め、それに感謝を示す、とても良いやりとりだと思う。

 問題は、この本来良いもののはずのやりとりが、クリスチャンでない人から見ると、とっても気持ちが悪いという点である。どうも偽善者っぽい。使われ方を見れば、さしずめ、「感謝だねぇ」は「良かったねぇ」と同義なのある。クリスチャンでない人から見たら、それはただの偽善か無関心と映るだろう。大切なのは、「感謝」の一言で会話を終了せず、「なぜクリスチャンはこの状況で感謝したのか」と丁寧に説明する姿勢なのだと思う。

 「感謝だねぇ」より意味が分かりづらいキラーワードが、「恵みだねぇ」である。意味として、「神様が働いた結果、そうなったのだ。神様は恵み深いお方だ」と言えば間違いないだろう。

 この言葉を使うのは、「感謝だねぇ」同様に、神の主権を認めているという点で、とても良いことだと思う。しかしながら、なんでもかんでも「恵みだねぇ」「感謝だねぇ」と言い続けてしまうと、簡単に思考停止してしまう。なぜそれを恵みだと感じたのか、常に言葉にするのも大切なのではないだろうか。

 何より、一番の「恵み」は、イエスが十字架で私たちのために死んだことである。それより大きな恵みなどない。その本質からずれないためにも、何が「恵み」なのか、きちんと言語化し、把握することが必要であろう。

【使用例】

現状  :「こんなことがありました。感謝です」「感謝だねぇ」

おすすめ:「こんなことがありました。神様の助けがあってのことだと僕は思います。神様に感謝したいです」「本当に良かったですねぇ。神様に感謝しましょう」

 

 

▼専門用語6:「交わり」

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 「交わり」。クリスチャンではない人が聞いたら、ドキリとするのではないだろうか。中には、「性的な交わり」のニュアンスで捉える人もいるかもしれない。クリスチャンの世界で、「交わり」とは、簡単に言えば、「一緒に時間を過ごして、おしゃべりすること」である。まぁ、「お話すること」と言っちゃえば間違いない。

 この「交わり」という言葉がどこから着ているのか、甚だ疑問だが、とにかくそういう単語が定着している。英語ではfellowshipフェローシップ)とも言う。教会の共同体で、人々が集まる最大の目的は、この「交わり」である。この「交わり」を通して、お互いの知らない神の姿を知る。お互いの知らない聖書の知識を共有する。誰かが人生でつまずいた時に、手を取り合って支え合う。お互いに戒め合って、人生の照準を神に合わせていく。それが、この「交わり」の目的であり、クリスチャンが共同体を必要とする理由である。

 それほど大切なものなのだから、やはりその意図が言葉から伝わらないのはもったいない。かといって、これも別の言葉が見つからない。いや、あえて名付けなくて良いのではないか。「ぐだぐだしようぜ」「おしゃべりしようぜ」「お話しましょ」「ご飯いきましょ」「お茶飲みましょ」でいい。大切なのはその会話の中身であって、「交わり」という言葉ではない。

【使用例】

現状  :「礼拝の後に、交わりの時間を持ちましょう」

おすすめ:「礼拝会終わったら、昼飯いこーよ」 

 

 

▼専門用語7:「ノンクリスチャン」

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 「ノンクリスチャン」。これは文字面からだいたい分かるかもしれないが、「クリスチャンではない人」を指す。しかし、このラベリングはとても危険だと私は思う。「クリスチャン」と「ノンクリスチャン」の二元論に陥る危険性があるからだ。まだイエスを信じていない人を「ノンクリスチャン」と呼び分けることで、無意識の壁が両者の間に生まれてしまう。

 また、この呼び方は、非常に愛がない呼び方だと思う。「あなたは違う」と言われて、良い気がする人はいないだろう。また、「クリスチャンにしてやろう」と狙われている気もする。ここは、こんな英語を使わず、普通に「クリスチャンでない人」とか、「●●さん」とか呼べばいいのではないだろうか。

【使用例】

現状  :「ノンクリスチャンの友達が言ってたんだけどね・・・」

おすすめ:「友達の●●君が言ってたんだけどね・・・」

 

 

▼専門用語8:「兄弟姉妹」

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 教会に行くと、メンバーのことを「兄弟」とか「姉妹」と呼ぶ場合がある。教会によっては、「佐藤兄」とか、「鈴木姉」といったように呼ぶところもある。正直マジ気持ち悪くない? 初めて教会に足を踏み入れた人は、この教会は一体何人家族なんだろうと思うだろう。

 詳しくは別記事を各予定だが、これは、同胞(聖書の場合はユダヤ人)のことを「兄弟」と呼ぶ中東特有の文化を理解できない人たちが、誤って解釈してしまったヘンテコ文化だ。エスを信じたクリスチャンたちは、精神的、霊的にイエスとつながっているので、その意味では、精神的な「兄弟姉妹」ではある。イエス自身も、「わたしの思いを成し遂げる者が兄弟である」と述べている。

 しかし、教会の文化を知らない人が、教会の人々を「兄弟」とか言うのを聞いたら、少なくとも日本の文化背景においては、とても奇妙な感じがするだろう。教会によっては男性の信者を「兄弟」女性の信者を「姉妹」と呼ぶが、気持ち悪いので止めたほうがいい。一人ひとりに素敵な名前があるのだから、敬意を込めて「佐藤さん」「鈴木さん」で良いじゃあないか。牧師だろうが宣教師だろうが、「~さん」でいいだろう。その呼び名が日本の文化に最も適切に当てはまる呼び方だと、私は思う。

【使用例】

現状  :「それでは、礼拝の司会は兄弟に努めていただきましょう。佐藤兄がいいですね。」

おすすめ:「それでは、礼拝会の司会は、誰か男性に努めていただきましょう。佐藤さんがいいですね」

 

 

▼専門用語9:「アイスブレイク」

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 「アイスブレイク」。これはクリスチャン特有の用語ではないが、よく使われる言葉なのでピックアップした。クリスチャンの集会などに行くと、たいていのケースでは冒頭に先程の「賛美の歌」を何曲か歌って、その後で「はい、次はアイスブレイクで~す」というケースが多い。この「アイスブレイク」とは何だろう。Wikipediaにはこう書いてあった。

【アイスブレイク】

アイスブレイクとは、初対面の人同士が出会う時、その緊張をときほぐすための手法。

 そう。アイスブレイクとは集会の始めに、「みんなで仲良くなりましょうね~」というイベントなのである。文字通り、お互いの心にある「アイス」(氷)を「ブレイク」(壊す)のである。自己紹介ゲームなど、簡単なゲームなどを行う場合が多い。確かに、初めて会った人同士で、いきなり深い話をするのは難しいから、そういったゲーム等で緊張をほぐすのは良いアイディアだ。

 問題は、わざわざ「これからアイスブレイクやります」って言う必要があるのか? という点だ。これは、「みんなあんまり仲良くないので、仲良くなるためのゲームをします」と言っているようなものだ。そんな発言をわざわざする必要が、どこにあるのか。企画段階はともかくとして、本番で言う必要がどこにある。ここは素直に、「今から●●ゲームしま~す!」と言えばいいだけの話だろう。

【使用例】

現状  :「これからアイスブレイクします!」(すなわち、「今ボクたちは仲良くないので、少しでも仲良くなるためのゲームをします!」と、言っているのと同義)

おすすめ:「これから●●ゲームしま~す!

 

 

▼専門用語10:「伝道集会」

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 「伝道集会」。これも、アイスブレイクと似たものだ。しかし、もっと深刻なものである。「伝道集会」とは、まだイエスを信じていない人たちを招待して、少しでもイエスを知ってもらおうという催しである。大抵の場合、音楽の演奏や、ダンスや寸劇の披露、聖書の簡単な話があったりする。大好きなイエスを伝えようとして、このようなイベントを開催するのは、とても良いことだ。

 しかし、そのネーミングが問題である。「伝道集会」と銘打ったイベントに、誰が参加したいのだろうか。クリスチャンの文化に慣れていない人たちにとって、「あなたにイエスを伝えます!」という意思バリバリの人たちは怖いだけだ。このようなネーミングをつけたイベントに誘われた人は、「入信させられるの?」と不安になるだろう。このようなネーミングでは、来たいと思うのはクリスチャンだけである。なんて内向きな業界だろうか。

 集会のネーミングなど、キャッチーなものなら何でも良いが、この「伝道集会」だけはいただけない。イベントにふさわしい、キャッチコピーをつけたらどうだろうか。ちなみに、巷では誰も知らない牧師たちの顔をチラシに並べても逆効果だから、即刻止めたほうがいい。クリスチャンを集めたいのなら、話は別だが。

 

 

▼内向きはやめようね

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 いかがだろうか。今回は、簡単に10の言葉だけ紹介した。他にも、「アーメン」「ハレルヤ」「救われる」「長老」「執事」「説教」「信仰告白」「異邦人」等々・・・例を挙げれば枚挙にいとまがない。

 言葉の使い方なんでどうでもいいじゃないかと思う人もいるだろう。否。そんなのどうでもいいからこそ、その言葉の意味が分からない人に寄り添う必要があるのではないか。専門用語ばかり使っているのは、実はその実情が分からない人たちにとっては、冷たい行為なのである。クリスチャン界の人々は、そのような「内向きの姿勢」から、立ち直り、方向転換する必要があると、私は思う。共通の言語を使わなければ、お互いの間に壁ができてしまうのは必至である。

 

ですから、もしその言語の意味が分からないなら、話し手にとって私は外国人であり、私にとってその話し手も外国人ということになります。

(コリント人への手紙第一 14:11 聖書協会共同訳)