週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【聖書】イエスが受けた3つの誘惑とは?

エスが荒野で悪魔から受けた3つの誘惑があります。そこから得られる教訓とは?

 

 

▼荒野の3つの誘惑とは

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 イエスは、ヨハネからバプテスマを受けた。その後、メシアとしての公の活動を始める前に、荒野で悪魔の試みを受けたというエピソードがある。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書にそれぞれ記述がある。

それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

(マタイの福音書 4:1)

それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは40日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。エスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。

(マルコの福音書 1:13)

さて、イエス聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、40日間、悪魔の試みを受けられた。

(ルカの福音書 4:1~2)

 

 これらの誘惑を、イエスはなぜ受ける必要があったのか。面白いことに、マタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書に共通しているのは、「御霊に導かれて」という表現である。神の霊、聖霊がイエスを導き、この荒野での悪魔の誘惑を体験させたのだ。つまり、イエスにとって、通らなければいけなかった道だということである。

 マルコの福音書にはこの記述しかないが、マタイの福音書とルカの福音書には、さらに詳細な記述がある。エスは、悪魔から3つの誘惑を受ける。マタイとルカでは、誘惑の順番が違うが、内容はほぼ同じ。マタイをベースに簡単にまとめると以下である。

【イエスが受けた誘惑】

1:石をパンに変えてみよ。

2:神殿の屋根から飛び降りてみよ。

3:私を拝んでみよ。そうすれば、この世の王国と栄華をあげよう。

 

 この3つの誘惑は、果たしてどんな意味があったのか。そして、そこから得られる教訓は何か。今回は、このイエスと悪魔のやり取りについて考えてみよう。

 

 

▼1:奇跡を乱用する誘惑

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 最初の悪魔の誘惑を見てみよう。今回はマタイの福音書をベースにする。

そして40日40夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。すると、試みる者(悪魔)が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」。イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」

(マタイの福音書 4:2~4)

 

 荒野で40日間断食をしたイエスは、超絶空腹の中、悪魔から「そこの石ころを、パンに変えてみよ」と誘惑を受ける。この誘惑はどのようなものだったのか。イエスの返答を見ると、その本質がわかる。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる

 

 イエスは、ユダヤ人にとっての律法の大元である、申命記の記述を引用して悪魔に答えた。聖書の言葉を使って、悪魔に対抗したという姿勢は、我々も学ぶべきところだ。エスが引用した聖書の元の記述はこうである。

それで主(神)はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなた(イスラエル)も知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

申命記 7:3)

 

 主のことばで生きる。これが神がイスラエルに命じたことであり、イエスの生きる姿勢だった。実際、イエスは何度もこう言い、自分の意志ではなく、神の計画に従って生きる姿勢を強調している。

子(イエス)は、父(神)がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

ヨハネ福音書 5:19)

わたし(イエス)は、自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方(神)のみこころを求めるからです。

ヨハネ福音書 5:30) 

わたし(イエス)があなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父(神)が、ご自分のわざを行っておられるのです。

ヨハネ福音書 14:10)

 

 エスの生き方は、「神が思う通りに思い」「神が行う通りに行い」「神が話す通りに話す」というものであった。その心に、悪魔はこうささやいたのだ。「自分のために奇跡の力を使ってみろよ」と。神の計画通りに全てのことを行う。これがイエスの目的だった。自分のためではなく、神が定めた通りに、現在、過去、未来全ての人のために死ぬ。これが、イエスの目的だった。そのイエスの力を、「自分のため」に使ってみよという、自己中心的な行動へのいざない。これが、1つ目の誘惑の本質である。

 

 それだけではない。実は、もうひとつ、この誘惑のポイントがあるのだ。カギは誘惑のタイミングである。この時はどんな時だったか。40日間断食をした後、空腹状態で・・・というのも、もちろん重要なのだが、実はさらに大切な点がある。それは、この誘惑が、エスが宣教を開始する直前だったという事実である。

 イエスは、神と同一の存在で、神の心も知っていたので、この後、メシア(救い主)として様々な奇跡を行い、宣教をし、さらには十字架で死ぬという、自分の人生の目的も知っていただろう。さあ、いよいよ人生のクライマックスを始めるぞ! というタイミングになって、悪魔がささやいてきたのである。「さあ、奇跡の力を試してみないか・・・?」と。

 イエスが、この前に奇跡をバンバン、魔法のように使っていたとは考えにくい。となると、宣教を始める直前のタイミングに「お試し」をしたくなるのもうなずける。悪魔は、人間誰もが覚えるであろう、「心の不安」に漬け込んできたのである。

 メシアとしての公の活動を始める直前に、「これはほんのお試しだから」と、神への信頼を試した上で、「自分のために力を使ってみよ」という、自己中心的な思い、行動への誘い。これが最初の誘惑の本質である。

 

 

▼2:聖書の言葉を乱用する誘惑

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 2つ目の誘惑は何だろう。その部分を見てみよう。

すると悪魔はイエスを聖なる都(エルサレム)に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある

(マタイの福音書 4:5~7)

 

 ここで、悪魔は攻め方を変えてきている。1つ目の誘惑の際、イエスが聖書の言葉で対抗してきたため、なんと悪魔も同じように聖書の言葉を使って誘惑してきたのである。悪魔の引用した聖書の文章は、以下である。

わざわいは、あなたに降りかからず、疫病も、あなたの天幕に近づかない。主が、あなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道で、あなたを守られるからだ。彼ら(御使いたち)はその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする。

詩篇 91:10~12)

 

 悪魔が聖書の言葉を使うのを、意外だと思う人もいるのではないか。実は、悪魔は神の存在を認め、その恐ろしさのゆえに身震いしているし、神の言葉である聖書の中身も知っているのである。この詩篇の言葉は、「神に信頼する者は守られる」という文脈で語られている。決して、屋上から飛び降りても、天使が飛んできてスーパーマンのように助けてくれるという意味ではない。明らかな曲解である。

 ここで学ぶべきは、聖書の言葉でさえも悪用できてしまうという事実である。悪魔は、巧みに聖書の言葉を曲解させ、人に間違った判断をさせようとする。実は、アダムとエバも、この方法で騙され、失敗してしまったのであった。悪魔はエバに、神が命じた言葉の詳細を捻じ曲げてささやき、食べてはならない木の実を食べさせることに成功した(創世記3章参照)。

 同じように、私たち現代の人間も、聖書を曲解してしまう危険性がある。だから、常に「心の動機」に注意し、文脈や背景などを踏まえた上で聖書を読むべきだ。また、背景を知りながら、聖書の言葉の一部だけを抜き出し、曲解させようとする牧師や教師が後を断たない。神の言葉を軽んじるのは止めたほうがいいと、いつ分かるのだろうか。

 そのような人にだまされないように、普段から聖書の言葉を読み、親しみ、文脈を理解しておくことが大切だ。10分の1献金の強制や、安息日を日曜日に当てはめる教えなどは、その最たるものである。それらの教えを奉じている人々は、完全にこの「聖書の言葉を乱用する誘惑」に負けてしまっている。

10分の1献金や、安息日については過去の記事を参考)

 

 イエスはどう答えたか。またも、聖書の言葉によってである。

あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。あなたがたの神である主の命令、主が命じられたさとしと掟を必ず守らなければならない。

申命記 6:16~17)

 

 聖書を曲解する者に対しては、同じく聖書の言葉を突きつけるしかない。神の言葉を曲げて、神を試み、冒涜する者に対しては、適切な聖書の言葉を差し入れしてあげよう。

 知人に、旧約聖書に感化されて、「安息日に出歩くな」という記述から、「日曜日」に一切家から出ない、という極端な信仰を持っている人がいた。その人には、「安息日は土曜日ですよ」と伝えてあげたかったのだが・・・。

 

 

▼3:十字架を通らせない誘惑

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 さて、最後の誘惑である。これが最大の誘惑だったのではないかと考える。該当部分を読んでみよう。

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主のみ仕えなさい』と書いてある

(マタイの福音書 4:8~10)

 

 聖書の言葉曲解攻撃も効かなかったので、悪魔は最終手段に出る。「私を拝め」と言うのである。一見、これは、「そんなの拝むわけねぇじゃん」と思うような誘惑である。しかし、イエスにとっては違ったのだ。

 上にも書いた通り、イエスには自分がメシアという自覚があった。「人間イエス」が、自分はメシアという認識を完全に持っていたのか、部分的になのかは、議論がある所ではある。しかし、彼がメシアという使命を帯びていたのは事実である。

 メシアは、「救い主」と翻訳されるが、「王」でもあった。ユダヤ人の王」と書かれて十字架で死んだのは有名である。メシアたるイエスは、ユダヤ人だけでなく全人類の王、王の王である。いつかイエスはこの地上に帰ってきて、完全に王として君臨するとクリスチャンは信じている。私もそう信じている。

 つまり、悪魔が見せた「この世のすべての王国とその栄華」というのは、メシアたるイエスが、「いずれ手にするはずのもの」だったのである。しかし、それは、イエスが再び地上に帰ってくる時に得るものであり、まだその時は来ていなかった。

 実は、この誘惑は、ただの「悪魔崇拝」の誘惑ではない。なんとこれは、十字架を省略してしまえという誘惑だったのである。メシアたるイエスに、いずれ手にするはずの栄華を見せて、悪魔はこうささやく「ほら、キツイ十字架なんかやらなくたって、たった一度俺にひれ伏せば、この栄光と誉れを全部おまえにやるよ。俺のものだから、どうしようと俺の自由だ。なあに、簡単さ・・・十字架なんてめんどくさいもの、やらなくてもいいじゃないの」。こうして悪魔は、十字架での死、そして復活という、イエスの最大の目的を奪おうとしたのである。

 ルカの福音書の記述を見ると、悪魔は、「それら(この世の栄華)は、私に任されている」と語っている。面白い。本来、栄光は神のものであり、イエスのものである。それを、「私に任されている」と話している。私たち人間も、心のどこかで、「自分が賢いから」「才能があったから」「努力したから」と、自分自身に栄光を帰していないだろうか。常に、主権は神にあるということを忘れないことが大切だ。

 

 もちろん、我らがイエスはこんな誘惑に負けたりはしなかった。イエスは、またも聖書の言葉で対抗した。

あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。

申命記 6:13)

 

 イエスは、こうして完全に悪魔の誘惑に打ち勝ったのである。この3つの誘惑に対して、イエスが全て「申命記」の記述をもとに対抗したのは、とても興味深い。申命記」は、いわゆる「トーラー」(律法)と呼ばれる5つの書物の最後にあたる。イスラエルの民に対して、神が様々な規範や決まりごとなどの「律法」をまとめている書物である。

 悪魔の誘惑に対し、イエスは完全に「律法」を用いて対抗した。この律法は、後にイエスが示す「愛し合う」という律法の伏線となっているのであった。

 

 イエスの揺れ動かない姿勢に、悪魔は離れ去った。

 

すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。

(マタイの福音書 4:11)

 

 聖書の言葉を堅く握って話さない人は、誘惑に打ち勝つことができるのである。

 

 

▼なぜイエスは誘惑を受けたのか

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 最後に、なぜイエスが誘惑を受けなければいけなかったのかを述べる。イエスはメシアなのだから、こんなめんどくさい誘惑など受けずに、さっさと宣教を始めればよかったのではないか。否。明確な目的があったのだ。聖書にこう書いてある。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

(ヘブル人への手紙 4:14~15)

 

 なんと、イエスは、私たちの気持ちを体験するために、誘惑を受けたのである。しかも、この3つだけではない。「すべての点において」である。エスは、そこまでして、私たちと同じ目線にまで、身をかがめてくれたのである。

 

 それなら、私たちは、ここまでしてくれたイエスに目を留めようではないか。聖書の言葉をしっかり握って、心の中にある自己中心的な思いと戦おうではないか。

 

(了)