週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】なぜ神を「父」と呼ぶのか

キリスト教では、「父なる神」とよく表現しますが、神は男性なのでしょうか。なぜ神を「父」と呼ぶのでしょうか。

 

 

▼神は男性なのか?

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 キリスト教の世界では、よく神を「父なる神」と表現する。「父・子・聖霊」の「三位一体」<さんみいったい>という言葉も、なじみがあるだろう。祈りでも、「愛する天の父よ・・・」と始める場合も多い。

 ここでひとつの疑問が生まれる。神は男性なのだろうか。神は性別を超越した存在ではないのだろうか。なぜ神を「父」と呼ぶのだろうか。そこに意味はあるのか。遠藤周作は「母なる神」とも表現した。神を「母」と呼んではいけないのだろうか。

 今回は、神の「父」という呼び名について書く。

 

 

▼「父」という単語の使用例

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 旧約聖書で、神を直接父と呼ぶシーンは、ほとんどない。「父」という意味の「アブ」は、旧約聖書に1215回も登場するが、その中で神に対して用いられているのは、ほんの数回だ。旧約聖書で「父・アブ」は主に次のような意味で用いられる。

1:肉親の父親

2:自分たちの先祖(例:アブラハムヤコブなど)

3:王や民にとっての助言者・預言者(例:ヨセフ、預言者エリヤなど)

4:自分の主君(例:サウル王、ナアマン将軍など)

5:イスラエルの神

 

 1番は言わずもがな、日本語の「父親」と同じ意味だ。もちろん、この意味で用いられているケースがほとんどである。

 2番は日本語としては特殊だが、先祖を指す意味だ。英語でも「ピルグリム・ファーザーズ」というように、同様の表現がある。特に、イスラエルの民の先祖である、アブラハム・イサク・ヤコブを指して使われる場合が多い。これは新約聖書でも変わらない。

「私たちの父はアブラハム」(ヨハネ8:39)

「私たちの父イサク」(ローマ9:10)

「私たちの父はヤコブ」(ヨハネ4:12)

「私たちの父であるダビデ」(使徒4:25)

 

 3番の「助言者・預言者」に対してというのは、特殊な用法だ。実際の使用例を見てみよう。

ですから、私(ヨセフ)をここ(エジプト)に遣わしたのは、あなたがた(ヨセフの兄弟たち)ではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。

(創世記 45:8)

 

 これは、ヨセフがエジプトでファラオに次ぐ権力者になった時のセリフである。権力No.1はファラオだったが、実際の政治を行っていたのはヨセフだった。ヨセフはファラオにとっての「助言者」だったのだ。一番の権力を持っているのはファラオだったが、全ての政治はヨセフのさじ加減で動いていた。だから大胆にもヨセフは「神は私をファラオにとって父とした」と言えたのだ。これは3番の用法である。

 同じように、「助言者、預言者を父と呼んだ他の例としては、「ミカが若いレビ人に対して」士師記17:10)、預言者エリシャが預言者エリヤに対して」(2列王記2:12)、イスラエルの王が預言者エリシャに対して」(2列王記6:21)などがある。イスラエルの王が、自分より権力がないはずの預言者に対して、「わが父よ」と言ったのは非常に興味深い。

 

 これとほとんど同じだが、若干違う用法がある。4番の「自分の主君」に対して用いる場合である。ダビデは、サウル王を「わが父よ」と呼んだ。

わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着の裾をよくご覧ください・・・

(サムエル記第一 24:11)

 

 ダビデは、自分のいのちを狙っているサウル王に向かって、「わが父よ」と親密な形で呼びかけた。こうしてダビデは、サウルの心を、たとえ一時的であっても溶かすことに成功している。敵意がないことを示すために、怒っている相手に対して、あえて親密な表現を用いているのだ。

 以前、別の記事でも紹介したナアマン将軍の家来たちも、同じようにナアマンに対して「わが父よ」と呼びかけている。

そのとき、彼(ナアマン将軍)のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか」

(列王記第二 5:13)

 

 ナアマン将軍は「助言者」や「預言者」ではなかった。しかし、家来たちはナアマンを「わが父よ」と呼んだ。自分が仕えている人に向かって敬意を示す呼び方だったのだろう。この時も、ナアマンは自分の期待通りに物事が進まず、激怒していた。怒っている将軍をなだめるために、この家来たちも、あえて親密な表現を用いたのだろう。

 他にもヨブが、自分自身を「貧しい者の父」と呼んでいる(ヨブ29:16)。ヨブは大富豪であり、他の人々の生活を支えていたのかもしれない。

 旧約聖書において、「父・アバ」は、通常の「肉親の父」以外に、「助言者」や「預言者」、また「主君」を指す意味で用いられる。しかし、それは特殊な用法だ。ましてや、神自身を「父」と呼んでいる例は極端に少ない。それでは、その数少ない例。5番の「イスラエルの神」の考え方を見てみよう。 

 

 

▼神を「父」と呼ぶシーン

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 そもそも、旧約聖書で誰かに対して「わが父よ」と呼びかけた例は少ない。見てみよう。

<「わが父よ」と呼びかけた例>

1:ダビデがサウル王を「わが父よ」と呼んだ(1サム24:11)

2:ナアマン将軍のしもべがナアマンに「わが父よ」と呼びかけた(2列王5:13)

3:イスラエルの王(ヨラム)が預言者エリシャを「わが父よ」と呼んだ(2列王6:21)

 

 実は、旧約聖書の中では、王や預言者などに対して「わが父よ」と呼びかけることはあっても、神に対して「わが父よ」と呼びかけた例はない。

 

 「わが父よ」とは呼ばずとも、神を「私たちの父」と呼んだ例は主に3つある。

<神を「私たちの父」と呼んだ例>

1:ダビデイスラエルの神を「私たちの父」と呼んだ(1歴代29:10)

2:イザヤが神を「私たちの父」と呼んだ(イザヤ63:16) 

 

 この場合の「父」は、あくまでも、「民族の神」としての「父」である。同じような表現がエレミヤ3章にもあるが、これは神自身が「あなたがたがわたしを父と呼び」と言っている部分で、「私たちの父」と呼んだわけではない。

 神を「私たちの父」と呼ぶ。これは、旧約聖書の中の律法に根拠がある考え方だ。

主<しゅ>はあなた<イスラエル>を造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。

申命記 32:6)

 

 たしかに、旧約聖書の律法の中に、「神はイスラエルを造った父」との記述がある。しかし、これは個人的な「私の父」という呼びかけではない。あくまでも「民族の神としての父」だ。神に対して、「わが父」などとは、とても言えない時代だったのである。 ダビデやイザヤが神に対して「私たちの父」と言ったのは、超例外的な大胆な告白として、もうひとつは、後の時代を預言してのことであった。

 

 「神はイスラエル民族の父」、これはイエスの時代も常識だったようだ。ユダヤ人たちも、イエスに対してこう言っている。

すると、彼ら(ユダヤ人)は言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます

ヨハネ福音書 8:41)

 

 ユダヤ人たちは、あくまでも、「私たち、ユダヤ人の神はひとりだ」と言っているのであって、個人的な「父」と呼んでいるわけではない。彼らにとっては、あくまでもイスラエル民族として生まれることが、「神の子ども」なのであり、神はイスラエル民族の父」であったのだ。

(蛇足だが、「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではない」・・・この言葉は、結婚前のヨセフとマリアから生まれたイエスを皮肉っているのかもしれない・・・)

 

▼イエスによるパラダイムシフト

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 しかし、イエスは、これらとは全く違う概念を示した。エスは、神を「わたしの父」と呼んだ。何度も何度も、神を「わたしの父」と呼び、「自分は神の子である」と同時に、「自分は神と同一だ」と宣言したのである。

エスは彼らに答えられた。「わたしの父(神)は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」

ヨハネ福音書 5:18)

わたしと父とは一つです。

ヨハネ福音書 10:30)

 

 イエスがこのように、神を父と呼び、神を自分を同一かのように言ったために、ユダヤ人はイエスを殺そうとするほど迫害した。

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。エス安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

ヨハネ福音書 5:18)

 

 ユダヤ人にとって、「神を自分の父と呼ぶ」という行為は、殺そうとするほどまでのタブーだったのである。しかし、イエスは何度も何度も、神を「わたしの父」と呼んだ。エスは、それまでのタブーを打ち破る、パラダイムシフトを起こしたのであった。

 それだけではない。イエスは私たちを「兄弟」と呼んでくださるのだ。

それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです

(マタイの福音書 12:49~50)

 

 兄弟・・・つまり。私たちはイエスと共に、神を「わたしの父」と呼べる権利を頂いたというわけだ。パウロがこの衝撃の事実を、以下のように解き明かしている。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子供であるなら、相続人でもあります。私たちは、キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(中略)神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

(ローマ人への手紙 8:14~29)

 

 イエスが長子(長男)となり、私たちはイエスとともに、「神の子ども」とされたのである。これは、イスラエル人にとっては衝撃的な事実であった。それまでは、イスラエル民族に生まれることが、「神の民」となることだったのだから。

 しかし、イエス「神の霊を受ける者」「神のみこころ<思し召し>を行う者」は全て、「神の子ども」だ! というとんでもないパラダイムシフトを起こしたのだった。文脈を読み取ると、この際の「神のみこころ(思し召し)」とは、「互いに愛し合う」という意味である。愛を実行に移す者は誰でも・・・イスラエル人であっても、外国人であっても、等しく神の子どもになれる特権が、イエスによって与えられたのである。

 私たちは、このイエスを信じるだけで、神の子どもとされる特権が与えられている。信じられない、途方もない特権である。この事実によってのみ、私たちは神を「私の父」と呼ぶことができるのである。

 もちろん、イスラエルがなくなり、私たちが「霊的イスラエル」になったわけではない。イスラエルと外国人の「区別」はある。ローマ書11章を読めば明らかである。そこだけは誤解なきようお願いしたい。

 

  

▼おまけ:実は「神の母性」の言及が聖書にある?!

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  イエスを信じる者たちが、「神のこども」とされる特権を得たのは分かった。それでは、「神は男性」なのか? という疑問が残る。答えはシンプルにNOだ。神は霊的な存在なので、性別を超越している。

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

ヨハネ福音書 4:24)

 

 世の終わりの神の国では、人間もこのように、「男」や「女」という区分から超越するのかもしれない。このような記述がある。

復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

(マタイの福音書 22:30)

 

 また、聖書には神の母性を感じるような部分もある。

女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたし<神>は、あなたを忘れない

イザヤ書 49:15)

 わたし<イエス>は何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえ<エルサレム>の子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

(マタイの福音書 23:37)

 

 神やイエスが、自身の母性を感じるような発言をしているのは、驚きである。しかし、よく考えると当然だ。神は性別を超越している存在なのだから、父的な性質も、母的な性質も、様々なキャラクターを持ち合わせているのである。

 では、なぜイエスは神を「父」と表現しているのだろうか。これだけでまた別記事が書けてしまうが、理由はいくつかある。ひとつは、神の性質を表すのに男性の性質を用いた方がより適切だったのだ。文化的にも、言語的にも、習慣的にも。それは、多かれ少なかれ、現代でも同じだろう。これは、決して女性が軽んじられているという意味ではない。神が男性だという意味でもない。あくまでも、神の性質を父親に例えて示しているにすぎない。

 もうひとつは、当時の異邦の神々に「女神」が多かったので、それらと区別するという意味があった。女性は子どもを産むことからか、五穀豊穣の神々は、「女神」の場合が多かった。神の「父性」を強調した背景には、天地を創造した唯一の神を、それらの神々と明確に区別するという意味合いがあったのだろう。

 

 イエスは、神を「わたしの父」と呼んだ。神の存在は、常に、ヘブライ語でもギリシャ語でも男性系の文法で示された。私自身は、これに意味がないとは思えない。私はどうも遠藤周作のように「母なる神」と呼ぶのは違和感はある。しかし、大切なのは「神が男か女か」ではない。

 男も女も、「神のかたち」になぞらえて造られた存在なのだから。

 

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を想像し、男と女に彼らを創造された。

(創世記1:26〜27)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。