週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【就活イエス13】「イエスの弟子づくりをしたい」黒木亮太@建設作業員

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第13弾は、黒木亮太(ボブ)さん!

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【Profile】

名前:黒木亮太(Ryota Kuroki)またの名をボブ(Bob)

生まれ:1991年

出身:大阪府岸和田市

最終学歴:岸和田市立岸城中学校卒業

職業:建設作業員

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain ボブこと黒木亮太さん、今日はよろしく。

f:id:jios100:20190726103607j:plain よろしく。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ボブっていうニックネームはどこから来てるの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain ボブ・マーリーが好きやから(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 単純な理由(笑)ボブは今、どんな仕事をしているの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 今は、建築関係。建物を建てる時に空調とかの配管があるでしょ。あれを通す「スリーブ工事」っていうのがあって、それを作る仕事。建築スリーブ工事作業員って言えばいいかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ、たとえば天井に通ってる配管とか?

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうそう。配管は全部やってる。梁と梁の間に穴を作って、その間に配管を通したり。鉄筋の幅を決めて、寸法をはかって、型にコンクリート流してって・・・

f:id:jios100:20180905032057j:plain 説明聞くだけだと難しいね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain うん、むっちゃムズいな(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain ずっと同じ仕事?

f:id:jios100:20190726103607j:plain いや、前は鉄筋関係の仕事をしてたよ。基本的にはずっと建築関係の仕事をやってたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain いつ頃から仕事をしてたの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 10代の前半ぐらいかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えっ、10代は分かるけど、10代の前半?!

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。中学の頃からバイトでやってた。最初は知り合いとか親父の仕事を手伝ったりとか。それも建築。鳶職人とか、足場を作る関係の仕事。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ、中学の頃からガッツリ仕事してたんだ・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。それで金貯めてバイク買ったりとかね(笑) 

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんか掘り下げたらいろいろ出てきそうですが、順番に話を聞かせてください・・・。

 

 

▼泥沼の人生から抜け出したくて

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↑大阪の友人と

f:id:jios100:20180905032057j:plain どういうキッカケでイエスを信じたの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain イエスを信じたのは、元々は名古屋に行った時に路上ライブをやっていて。それがクリスチャンの人たちやったんよね。何してるんかなと思って話しかけたら、クリスチャンの人やって。それがキッカケで教会に行くようになった。ただ、それでイエスに出会ったというより、ノリというか、なんちゃってで信じてた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんちゃってとは?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 「イエス信じる?」って聞かれて、「うん、信じるー」って(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 軽っ!(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain ははは(笑)一応、「イエスは俺たちの罪のために死んだ」とか言われたけど、当時は全然意味が分からんかった(笑)でも、「洗礼あるけど受ける?」みたいに言われて「受ける受ける!」って。それで「キャンプあるけど行く?」みたに言われて「行く行く!」みたいな、そんな流れ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんでも受け入れるんかい! 「宗教怖いな」とか思わなかった?

f:id:jios100:20190726103607j:plain それはなかったかな。インターナショナルで、すごく明るい教会やって。逆にキリスト教とか教会のイメージが変わったかな。なんか教会の子たちがすごく明るくて、なんでそんなにキラキラしてるんかなっていうのが気になってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 元々、出身は大阪だよね?

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう、岸和田ってとこ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なぜ名古屋に行ったの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 元々、俺はめっちゃ悪さをしてて。悪さを繰り返して、少年院とか刑務所に入ったりしてたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えっ、マジで。大阪の刑務所?

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。最初は少年院やったんけど、俺のやってたことが結構ヤバくて刑務所に入ってた。悪さして、入って、出て、それでまた同じ悪さを繰り返してってやってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 悪さって例えば・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain ●●(ピー)とか、▲▲(ピー)とか・・・

f:id:jios100:20180905032057j:plain ひぇ~~~(驚)言えないやつ!! 

f:id:jios100:20190726103607j:plain 周りのツレとかも同じワルばっかりで、もう泥沼。抜け出せなかった。ある時、「このまま人生同じことばっかり繰り返していくんかな」と不安になった。それで、全ての悪いツレとか、悪いことから縁を切りたいと思って、それで新しい場所に行って人生やり直したいと思ったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで名古屋に出たと。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そういうこと。人間関係をとにかく変えたかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それは何歳のとき?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 19歳かな。あとちょっとでハタチになる頃。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そこでストリートライブをやっているクリスチャンの人たちと出会ったんだ。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうそう。彼らと出会って、なんでクリスチャンの人はこんなに笑顔なんだろうって不思議だった。「なんでお前らそんなに笑顔なん?って聞いたら、『俺たちクリスチャンだからだよ』って」それで教会に行ってみようかなと思ったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 人生を変えるために別の場所に飛び込んで、本当に人生が変わっちゃったんだね。

 

 

▼神様からは逃げられない

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↑名古屋時代(真ん中がボブ)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 名古屋から、いつ東京に来たの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 東京に来たのは3年前やけど、その前に一度大阪に帰ろうとしたことがあって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え、それはまたなんで。

f:id:jios100:20190726103607j:plain 複雑な事情でいろいろあってんけど、罪を繰り返してしまう自分に葛藤してたんよね。怒りがコントロールできなかったり。当時は聖書をよく読んでなくて、いわゆる「善い行い」をしなきゃいけないと思っていた。酒やタバコとかやっちゃダメだと思って、でもやめられなくて・・・葛藤し続けて、ある時「もうクリスチャンやめよう」って思った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ええ、そうなの?!

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。もうやめようと。神様に「神様、俺大阪帰るわ」って。そんで、また悪いツレと再会して、夜の街で遊ぼうと思って大阪に帰ったんよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 神様信じないことにしたのに神様に喋ってるのオモロイ(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain ははは(笑)そんで、大阪に戻って、「もうクリスチャンなんて関係ない」と思ってて。大阪のミナミに遊びに行こうとしたんだよね。そしたら、駅を出て歩いているとすぐに、でっかい十字架が立ちはだかってて。大阪弟子教会ってとこやってんけど。「あ、教会あるんかなぁ」って一瞬思ったけど、「いや、もうクリスチャンは俺に関係ない、関係ない」と振り切った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで昔の仲間と遊ぼうと。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう、昔つるんでた仲間とちょっと遊んでやろうと思ったんだけどね。そしたら、まるっきり店が閉まっていたり、電話しても誰も出なかったり、とにかくやろうとしていたことが全部できなかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい、全部道が閉ざされたんだ。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう、もう何もできなかった。不思議。行く場所もないし、親ともずいぶん連絡とってなくて、家には帰れないし。居場所もないし、かといって漫画喫茶とかネットカフェ行く金もないし、どうしようかなと思ってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 困ったね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そのとき、ふと知り合いを思い出して。同じ名前のリョウタ君っていうんやけど、フェイスブックでつながってて。彼はクリスチャンやったけど、この際もういういやと思って、ワラをも掴む思いで連絡してみた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そしたら・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain そしたら、「今から会える?」みたいになって。大阪のひょうたん山ってところにある「アドラム・キリスト教会」ってところで会おうってなった。「もしかしたら教会に泊まれるよ」って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結局、行き着いた先は教会。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうだね(笑)居場所なかったし、もう関係ないやと思ってた。それで、リョウタ君に身の上話をしたら、「ウチの牧師も有名な元暴走族だよ」って。「人刺し●●(名前)」っていうんやけどって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「人刺し●●(名前)」・・・パワーワードすぎるだろ(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain 有名らしいんだけど、世代も違ったし俺は知らんかった。そういう牧師もおるんやなぁと思って。そんな話をした後で、リョウタ君が「賛美しようよ」って言い始めて。すげー嫌やった。でも嫌とは言えずに、なんとなく歌う流れになった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain クリスチャンやめようと思ったのに、賛美するハメに・・・(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう(笑)そんで、歌ってたりしたら、いきなりでっかい男がドアをガッシャーンって開けて勢いよく入ってきて。「おう! やってるか!!」みたいな。それが「人刺し」の牧師さんやった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain マジか。迫力ありそう。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そしたら、俺を見るなり、「お! お前、ナニワ少年院におった黒木やないか!」ってなったんよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 少年院にいたボブを知ってた?!

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。その牧師さんは、元暴走族ってことで、少年院に通って福音を伝える働きをしていたんだよね。そこでイエスの話をしているときに、俺を見かけて、覚えててくれたんよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ボブは覚えてなかった?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 俺は全く覚えてなかった。向こうは覚えていてくれたみたいで、その後もいろいろ話をしてた。その日は土曜日だったんやけど、牧師さんが「明日礼拝出ていきな~」って言ってくれて、「わかりましたー」ってなって。それで、次の日、日曜礼拝に後ろの席に座って参加した。

f:id:jios100:20180905032057j:plain クリスチャンやめるために大阪に行ったのに、礼拝に参加することになっちゃったね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain しかも、その時の牧師さんのメッセージが「不信仰な私をゆるしてください」っていうタイトルで。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ドンピシャ(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain 何なに?! って思いながら聞いてたら、まさに自分の状況について語られてるみたいで、気がついたら涙ボロボロになってた。神様に降参した。そのとき、神様からは逃げられへんなと思ったんよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 逃げた先で神様に捉えられてしまったんだね。

 

 

▼何もあてなく東京に

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f:id:jios100:20180905032057j:plain そういえば、なんで名古屋から東京に来たの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 名古屋で働いていたとき、もうクリスチャンになってたんやけど、まだまだいろんな葛藤があって。ある時、給料日に給料全部使い果たしてしまって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え?! は?!

f:id:jios100:20190726103607j:plain もう最後の方とか何にお金使ったかわからないぐらい(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain それはめちゃくちゃだ・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain それで、ムシャクシャしているときに、仕事でトラブルがまたあって。もうその会社にはいられなくなってしまった。その時持ってたのは原付バイクだけ。仕方がないから原付で名古屋から東京まで何も考えずに運転してきたんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain すげぇ、何のあてもなく・・・?

f:id:jios100:20190726103607j:plain あてなく(笑)そこで最初、行こうと思っていた、東京のとある教会に行こうとしたんだけどね、入り口の前の階段のところで「なんか違う」っていう感覚に陥ったんだよね。よくわからないけど。だからその教会は行くのをやめた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで今通っている教会に。

f:id:jios100:20190726103607j:plain その前もいろんなとこ行ってみたりはしたんだけど、なかなかピンとこなくて。それで、たまたま今通ってる教会が検索で出てきたから行ってみたんだよね。そこで「誰か声かけてくれないかな・・・」って密かに期待してた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そしたら・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain そしたら、とある男の子が話しかけてくれた。身の上話をしたら、「じゃあ俺んち泊まる?」って言ってくれて。それが土曜日。次の日の日曜日も同じ教会に行った。そしたら、今やってるディサイプルシップ(※教会の社会人メンバー同士で、テキストを使って聖書やクリスチャンの生き方について学ぶグループ)のリーダーのフィリピンの人に会ったんだよね。そこでも身の上話をして、そしたらフィリピン人のリーダーが中国人のおばさんを紹介してくれて、そのおばさんが今住んでる家を紹介してくれたんよ。それで、東京きて3日後ぐらいに住む場所が見つかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain スゴイ。最初に行こうと思った教会に行ってたら無かった出会いだよね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。仕事も池袋のそばですぐに見つかって、その時は神様が東京に居場所を用意してくれてるんだなと思ったんだよね。それで東京に住む決心をした。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 神様って、時に試練を与えるけど、時に驚くようなつながりも与えてくれるんだよね。不思議。

 

 

▼学びの中で成長して

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↑東京の教会のディサイプルシップ

f:id:jios100:20180905032057j:plain 教会に行き始めて、どのぐらいで神様を本気で信じるようになったの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 最初はインターナショナルの教会で、英語が分からなかったから、雰囲気しかわからなかった。途中で、いろいろあってインターナショナルの教会から日本人の教会に行くようになったんやけど、賛美歌・ワーシップが完全に日本語の歌だった。それまでは英語でわけわからんかったけど、その日本語の歌詞を見た時に、その賛美の歌を通して、神様の存在が理解できた。賛美の歌詞で、神様ほんまにおるんやって分かった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、歌詞を初めて自分の言語で理解できたんだね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain だけど、その教会もいわゆる「学び」がなかったから、聖書のことはほとんど分からないままやったな。聖書を学んで、神様のこともっと知ってきたのは本当に最近。東京の教会に来て、学びとかスモールグループとか、ディサイプルシップを通して、だんだんと神様について知っていったって感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。確かに教えてくれる人がいないと分からないよね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain 一番大きかったのは、本当にイエスが自分の罪のために死んでくれたっていうことが理解できたことかな。最初は「罪」っていうのがピンとこなくて。だけど、最近「自分の罪」が明確に示されて、その時にようやく福音が理解できた気がするんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「自分の罪」とは具体的にはどういうもの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 一番は神様を見て生きていなかったこと。それを認識して、初めて「罪」というものが理解できた。そしたら、今まで教会とかで学んできた知識が勝ってにポポポンとつながって、理解の幅が広がったんよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その感覚、すごくよく分かる。何か一つ理解すると、それまで積み重ねてきたものが一気につながる感覚あるよね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain 職場でイエスを伝えるときも、何か特別な準備をしてるとか、自分の頭で考えてるわけじゃないんだけど、神様に祈ると勝ってに言葉がスラスラ出てくるんよね。聖霊が俺の代わりに語っているというか。自分で話しながら自分自身で「あっ、これってそうなんや」って後で気づくときもある(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 教会のスモールグループやディサイプルシップという、個人的な関係があったからこそ、深い学びができたんだね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうやな。今までの経験も全部神様がつなげてくれたって感じかな。

 

 

▼職場の人にイエスを伝えたい

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↑職場の後輩と

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今の職場は気に入ってる?

f:id:jios100:20190726103607j:plain めちゃめちゃ気に入ってる。俺はずっと建築の仕事をしてきたんやけど、今の職場は建築っぽくないというか。アルバイトもいろんな子が来る。IT関連やってますって人とか、イベント関係のバイトみたいなノリで来てる子が多い。日払いで1日だけって人もいるし。だから自分が今まで付き合ってきていないタイプの人と関わって、その人たちから話を聞けるっていうのはすごく刺激的だった。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今、職場の人にイエスを伝えていると聞いたけど、その思いはどこから来たの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 元々イエスのことを伝えたいという思いはあったから、最初は自分で「イエスを伝える4つのポイント」っていうのを勝手に決めてそれでやってたな(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain マジ? 4つのポイントっていうのは?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 「クリスチャンになるとは?」「福音とは?」「聖書って何?」「神様って何?」みたいな4ポイント。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごく基本的でわかりやすいかも。いきなり「罪」とか言うよりいいかもね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain でも最初はやっぱり恥ずかしくてできなかった。けど、ふとしたキッカケで職場の人にイエスのことを話したことがあって。意外とみんな聞いてくれたんよね。「へー、そうなんだ」とか「クリスチャンのイメージ変わった」みたいな反応をされて。結構みんな楽しそうに聞いてくれることが分かった。それで、「ああ、もっと伝えてみようかな」って思ったって感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 伝えたいという思いは最初からあったんだね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうやな。工夫して伝えたら反応が良かった。それでもっと職場の人にイエスを伝えようと思った。普通に最初からクリスチャンっていうのは隠さんでもええかなって思ってたかから「クリスチャンなんすよ」とは言ってた。大体みんな「敬虔なクリスチャンなんだ?!」とかいう反応するけど、自分としては「敬虔ってなんやねん!」って思ってる。「敬虔」じゃなくて最早「イエス信じてる=ライフスタイル」やから。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ライフスタイルがイエス! 素晴らしいねその考え! 伝える上でのポイントは?

f:id:jios100:20190726103607j:plain なんか、最初はいきなり福音を伝えてたんやけど、そうすると向こうも「え?!」みたいな感じになる。やっぱり人間関係を作った上で、「俺クリスチャンなんだけど」っていって話すのが一番自然かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 実際伝えてみて反応はどう?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 最初はすごいビックリされるよね。イメージとのギャップがあるみたい。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え、ボブ、クリスチャンなの? みたいな(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうそう(笑)だけど話してると、すごく聞いてくれることが分かった。その中で、この間1人イエスを信じたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おーすごい。

f:id:jios100:20190726103607j:plain 今日(※インタビュー当日)も一緒に賛美してた。教会にも来て、一緒にディサイプルシップの会も出てきたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうやってイエスを信じる仲間ができていくのは、素晴らしいね。

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、ボブのこれからのビジョンを教えてください。

f:id:jios100:20190726103607j:plain やっぱり、職場でもっとイエスを伝えていくってことかな。ただ、いろんな人がいるので、自分の考えを押し付けるというよりも、その人たちの仕事や、やりたいことを応援して、一緒に寄り添うっていうことをやっていきたい。仕事の中でも、イエスって素晴らしいんでよってことをもっと行動で示したいとも思う。一言で言えば「イエスの弟子づくり」かな。

 f:id:jios100:20180905032057j:plain 「イエスの弟子づくり」最高だね! シメにいつも握っている聖書の言葉を教えて下さい。

f:id:jios100:20190726103607j:plain やっぱこれかな。

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

(エペソ人への手紙 2:8 口語訳)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 恵みによって救われたことを体感したボブらしい言葉、ありがとう。これからも応援してます!

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】「スモールグループ」が大切だと分かる5つのポイント

クリスチャン界では「スモールグループ」なるものが存在します。一体どんな意味があるのでしょうか?

 

 

▼「スモールグループ」とは?

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 教会に行くと「スモールグループ」なるものを紹介される場合がある。文字通り「小さな集まり」を意味し、教会に通っているメンバーのうち、数人~10人ほどのグループで集まる関係を指す。スモールグループでは、一緒に聖書を呼んだり、祈り合ったり、近況を話し合ったりする。スモールグループは、神と共に歩む人生において非常に大切なものである。私自身、東京都内で毎週1回集まるスモールグループを開催している。様々な年齢、教会、バックグラウンドの人々が平日の夜に集まり、共に聖書を読み、互いに祈り、近況を分かち合う・・・そんな時間を持っている。私の地元の教会では、スモールグループからさらに踏み込んで「1対1」の関係を意図的に作っている。

 私は「スモールグループ」は「教会」の目的そのものであると思っている。教会の目的を果たすためにスモールグループがあると言っても過言ではない。教会の規模にもよるが、特に大きい教会ではスモールグループは必須である。人数が100人を超えるような大きい教会(※メンバーが100人以上いる教会は日本では大きい部類に入る)でスモールグループがなかったとしたら、もはや教会の体をなしていないとさえ思う。それほどスモールグループは大切なものだと認識している。

 なぜ、スモールグループはそれほど大切なのか。今回は、5つのポイントに絞り、スモールグループの重要性を説明したいと思う。また、近日中にスモールグループの簡単な運営方法についてもまとめて記事を書きたいと思う。スモールグループの定義は様々あるが、今回は簡単に以下のようにしたい。

<スモールグループの定義>

唯一の聖書の神とイエスを信じる者たちが集まるグループ

人数は2人~15人ほどを想定する(それより大きいグループになると運営が難しいし、目的が果たせない)

・まだ神を信じていない人たちの参加も想定する。

マジョリティはイエスを信じる者たちを想定する。

・1人以上の運営者がいる

・同じ教会のメンバーからなるスモールグループと、様々な教会のメンバーからなるスモールグループの両方が存在しうる

・同性のみのスモールグループと、そうでないスモールグループの両方が存在しうる

定期的に集まるグループである

一定の人間関係と信頼関係が築ける場である

・イエスの名によって集まり、イエスを中心とした人間関係が構築される場である

・活動内容は、聖書を読む、聖書を学ぶ、祈る、メンバー同士で様々なトピックについて話す、一緒に食事をするなど、様々なことが想定される

・基本的にプライバシーが守られる場である

・具体的な目的によって細かな定義、ルール、運営方法は異なる

 

 

▼1:「スモールグループ」は人間関係をつくる

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 ひとつ目のポイントは、「スモールグループは人間関係をつくる」というものである。実は、これが一番重要な点であり、スモールグループの目的そのものである。まさに、「教会」の目的を果たすために「スモールグループ」があると言っても過言ではない。聖書は、教会についてこう書いている。(※先週の記事で掲載したものと同じ。くどいようだが、大切なので再掲する)

約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23~25)

 

 信者が集まる理由は「互いに励まし合うため」である。では、何を励ますのか。それは、前後の記述から明らかなように「イエスに対する信仰を励ます」のである。クリスチャンが告白する希望は、以下の聖書の言葉に現れている。

私(パウロ)があなたがた(コリントの信者たち)に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。

(コリント人への手紙第一 15:3~5)

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

ヨハネ福音書 14:1~3)

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 4:16~18)

 

 これらがクリスチャンの抱く希望である。この希望を告白し、クリスチャンはこの世で生きるのである。この希望を告白するために、クリスチャンは集まるのである。その「集まり」が「教会」である。「教会」などという言葉はもとから無く、本来は「集まり」という意味である。くどいようだが、イエス自身もこう言っている。

まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:19~20)

 

 つまり、エスは「イエスを神と告白する者の集い」そのものが「教会」だと言っているのである。詳細は、先週の記事を参照していただきたい。教会は本来、「イエスを神と告白する者同士の人間関係が生まれるところ」であるはずなのだ。日曜日の「礼拝会」に出席し、誰とも話さず、「あ~~牧師先生様のお説教ためになったな~」で帰るだけだったら何の意味もない。牧師の説教が目的だったら、youtubeでも見ていればいい。教会として集う目的は、そこに生まれる人間関係である。スモールグループは、この「人間関係」をより深く築くための方法である。

 人は人間関係を通して成長する。人間関係を通して、人の心は研がれる。聖書にこう書いてある。

鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。

箴言 27:17)

 

 大きな教会では、得てして集会に「参加するだけ」になりがちだ。スモールグループのようなものがないと、教会に集った人々との間の人間関係は、どうしても希薄になる。同じ教会で、「顔は知っているけど名前は知らない」「よく話すけど、どんな人かよく分からない」なんていう人はいないだろうか。もし教会の人間関係が希薄だと感じたら、スモールグループを始めてみるといいかもしれない。「人間」という単語は、「人のあいだ」と書く。神は、人間を「人間関係の中に生きる存在」に造ったのだ。

 

 

▼2:「スモールグループ」は聖書を中心に互いに教え合う場となる

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 聖書は、教会の目的のひとつとして、こんなことを書いている。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

私(パウロ)の兄弟たち(信仰の仲間)よ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

(ローマ人への手紙15:14)

 

 「互いに教え、訓戒し合う」。これは教会の大切な目的のひとつである。スモールグループは、互いに教え合う絶好の場となる。誰かが誰かを教えるという上下関係ではなく、互いに知恵を出し合い、互いに教え合い、支え合う。それがスモールグループの理想的な形である。

 何をもって教え合うのか。様々な方法があるが、一番シンプルかつ重要なのはやはり単純に一緒に聖書を読むというものだ。使徒パウロは、自分の弟子であるテモテに手紙を書いた。テモテは若き教会のリーダーだった。パウロは、そんなテモテに対してこんなアドバイスをしている。

あなた(テモテ)は年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12~13)

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

(テモテへの手紙第二 3:16)

 

 この場合の「聖書」は一義的には「旧約聖書」を指す。しかし、現代の私たちにとっては旧約聖書新約聖書の両方が「聖書」として残されているので、両方読んで、そこから学べる。聖書はあなたを教える、とても有益な書物だ。

 しかし、中には一人だけで読んでもピンと来ない部分もある。何人かで一緒に聖書を読めば、一人ひとりの感性、知恵、ひらめきを共有できる。一人では気が付けない、新しい発見や発想、読み方、捉え方をシェアすれば、聖書理解は何倍にも膨らむ。使徒パウロの時代は、信者たちは家に集まり、遅くまで聖書を読み、聖書について、神について語り合っていた。聖書に登場するベレヤの町の人々は、パウロの教えが果たして本当かどうか、毎日聖書を調べた。

 同じように、スモールグループの中心となるのは、やはり聖書だと私は考える。一緒に集まり、一緒に聖書を読み、一緒に聖書について語り合う。これだけで既に立派なスモールグループになりえると、私は考える。聖書の読み方、語り合い方は様々あって、「こうしなければならない」というものはないので、目的にあったやり方を選べばよいだろう。

 クリスチャンではない人がスモールグループの中にいたら、その人にとっては聖書を学ぶ絶好の機会になる。教会では、なかなかかしこまって聞けない根本的な質問も、スモールグループでなら聞きやすい。「神はいるのか」「世界を造ったとどうして言えるのか」「イエスは何をしたのか」・・・そんな単純な質問も、スモールグループの中でなら話しやすい。クリスチャンになったばかりの人も、スモールグループは聖書や神について学ぶ、最高の機会である。

 

 

▼3:「スモールグループ」は自分をオープンにできる場となる

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 スモールグループは、ときに個人的かつデリケートな会話ができる場となる。大勢の前では話しにくい話題、話せない話題を、スモールグループではオープンに話すことができる。例えば、何か失敗してしまったり、問題を抱えている場合、人は誰かにそれを話す必要がある。スモールグループは、それを話し合い、支え合う絶好の機会となる。聖書にはこう書いてある。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

ヨハネの手紙第一 1:9)

 

 この聖書の言葉は、必ずしも「全ての罪を人に言わなければいけない」という意味ではない。一義的には、罪は神の前に告白するものであり、人に言う義務はない。しかし、人間はときに誰かに自分の弱さ、至らなさを分かち合う必要がある。共に苦しみや痛みを分かち合い、共有することで、心が癒やされ、解放される。グループとしての人間関係の結びつきも強くなる。また、失敗だけでなく、今抱えている悩みを打ち明ければ、心が楽になり、解決のために知恵を出し合える。

 聖書は、共同体の役割について、以下のように書いている。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

(エペソ人への手紙 4:25)

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

(エペソ人への手紙 4:32)

 

 スモールグループでは、ともに思いを分かち合い、同じからだとして痛みを共有し、喜びを共有することができる。また、互いに赦し、赦される経験ができる場でもある。グループ内で信頼関係が築ければ、より自分をオープンにすることができる。そのため、スモールグループ内のプライバシー保護は非常に大切な要素だ。それらが担保されれば、スモールグループは、もしかすると教会、家庭、職場では見せられない自分の姿をさらけ出せる場になるかもしれない。癒やしと解放、赦しと励ましがある場。それがスモールグループである。

 

 

▼4:「スモールグループ」はお互いのために祈る機会となる

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 スモールグループでは、より個人的にお互いのために祈ることができる。祈り合うことの大切さを、聖書はこのように書いている。

あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

ヤコブの手紙 5:13~16)

 まことに、もう一度あなたがた(イエスの弟子たち)に言います。あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたし(イエス)の父(神)はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:19~20)

 

 聖書は、イエスを信じる者たちが集まり、互いのために祈るよう勧めている。そして、祈りは様々な形で答えられる。時に病気の癒やしという形で、時に問題の解決という形で、時に人が想像しない形で神は祈りに答える。ともに心をひとつにし、互いのために祈る。これはイエスを信じる者たちの特権である。

 スモールグループで集まる大きな理由のひとつに、祈りがある。教会の会堂で「お祈り」はできるが、それは「互いのために祈る」という個人的なものではない。やはり、少人数で集まり、互いの個人的な祈り課題(祈ってほしいこと)を集中的に祈るというのは、クリスチャン生活にとって欠かせないものである。また、イエスを信じていない人であっても、より個人的な話ができたりするキッカケになる。スモールグループ内にもしクリスチャンではない人がいたら、他のメンバーはその人のために祈ることもできる。

 

 

▼5:「スモールグループ」は互いの間違いを指摘できる関係となる

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 最後のポイントは、少しチャレンジングだ。それは、互いに間違いを指摘できるというものである。日本人は、他人に注意するのがとても苦手だが、実は聖書は互いに注意し合うように教えている。

約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23~24) 

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:10~11)

 

 もし、スモールグループの中で、明らかにおかしな方向に進んでいる人がいたら、愛をもって指摘するのはとても大切な行為だ。教会という大きな塊では、それはときに噂話、ゴシップとなって現れる。「あの人、実は●●したんだって」「あの牧師、昔こんなことしてたらしいよ」なんていうのは、悲しいが、よく教会で聞こえてくる会話だ。それは噂話、ゴシップであり、人を建て上げるものではない。

 しかし、スモールグループでなら話は別だ。個人的な関係の中で、面と向かって「あなたの言動は、間違っているのではないか」「ちょっと冷静になった方がいいよ」「今おかしな方向に進んでいない?」などと、愛をもって指摘することができる。互いに注意しあい、互いに教え合い、互いに高め合える。それはクリスチャンにとってとても大切だ。そのような個人的信頼関係をゼロから作るのは、とても難しい。しかし、スモールグループという「場」があれば、自然とそのような指摘ができる関係性が生まれる。スモールグループを触媒として、お互いに行動、生活、信仰基準をチェックし合える関係を醸成できるのだ。

 

 いかがだろうか。他にもスモールグループの利点は、たくさんある。百聞は一見にしかず。一度、教会のスモールグループに参加してみよう。教会になければ、教会を超えたスモールグループがないか探してみよう。もしくは、スモールグループを自分で始めてみよう。きっと、素晴らしい結果が待っているに違いない。

二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

(伝道者の書 4:9〜12)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】集う教会を変えるのは、そんなに悪いことなのか?

クリスチャンの間では、集う教会を変えることを、とても重い決断だと捉える人も多いと聞きます。どうしてなのでしょうか?

 

 

▼行く教会を変えるのは悪いこと?

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 クリスチャンの人と話していると、「集っている教会」に関する悩みをよく耳にする。教会でこんな問題がある。教会のスタイルが気に入らない。教会の人の主張に賛同できない。教会で「奉仕」という名のタダ働きをさせられる・・・等々。悩みがあるから教会に行っているのに、逆に悩みが増えているのである。かわいそうに・・・。

 そんな教会にまつわる悩みの一つに、「行く教会を変えたい」というものがある。本当によく耳にする。集っている教会を変えたいと思う理由は様々だ。転勤で場所が遠くなったという物理的なもの。教会のリーダーたちの主張が自分の考え方と合わないなどの、信条的なもの。教会で用いる音楽の種類が好みではないといった礼拝会のスタイルに関わるもの。結婚したので相手の教会に行くなどの人生のステージの変化によるもの。教会の人たちとトラブルになったなどの、人間関係によるもの。中には「好きな子がその教会にいるから」といった理由もあるだろう(大いに結構だと私は思う)。クリスチャンたちは、様々な理由で集う教会を変えようとする。

 しかし、その際に多くのクリスチャンたちが葛藤する。「簡単に集う教会を変えていいのだろうか」と悩む人も多い。中には、集う教会を変えることそのものが「悪いこと・罪」だと教会の人から言われ、なかなか抜け出せないという、かわいそうな人もいると聞く。「教会を変える」だけで犯罪者のように扱われるのである。「ああ、分かってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか・・・」という気分だ。

 かくいう私も、同じ葛藤を経験した。私は16歳でイエスと出会った。そして、目が開かれ、当時通っていた教会の主義主張が、完全に間違っていると分かるようになった。しかし、その教会では「教会を移る」のは良しとされなかった。半年以上悩み、また牧師と話し合った結果、違う教会に行く決断をした。振り返ると、自分がイエスを信じる人生において、大きな意味のある一歩だったと思う。

 一体、なぜ多くのクリスチャンたちが「集う教会を変える」のをためらうのだろうか。聖書は何と教えているのだろうか。教会とはそもそも何なのか。今回は、集う教会の変更の是非について書く。

 

 

▼そもそも「教会」とは?

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 「集う教会の変更の是非」を議論する前に、簡単に「教会」とは何かをまとめたい。聖書で教会についての記述は様々あるが、私が一番最初に思い浮かべたのはこの言葉だ。

エスは彼ら(弟子たち)に言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉(人間)ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(石)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」

(マタイの福音書 16:15~19)

 

 イエスは、弟子のペテロに「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と宣言した。もちろんこれは、物理的にペテロの上に教会堂を建築するという意味ではない。ペテロが死んでしまう。これは、「あなたは神の子キリスト(メシア)です」というペテロの宣言を土台とした、「イエスの信者たちの集い」が形成されるという意味だと、私は捉える。

 「教会」という訳語がそもそもどんでもない誤訳だと、私はこのブログで度々述べてきた。多くは語らないが、ここで使われている単語はギリシャ語で「エクレシア」ヘブライ語でいえば「ケヒラー」であり、日本語に素直に翻訳すれば「集い」とか「集会」とか「会衆」という意味である。

 しかし、同様の単語は素直に「集まり」とか「集会」と訳されているのに、なぜか特定の箇所だけ「教会」となってしまっている。聖書の言葉を人間が意図的に捻じ曲げているのである。これはいただけない(※これについて、詳しくは記事の最後に過去記事リンクを掲載したので、参考にしていただきたい)。

 

 イエスは、ペテロに「あなたの(信仰告白)上にわたしの教会を建てる」と宣言した。その後で、「天の御国の鍵」について語るが、いまいち意味が不明瞭だ。これについて、実は後でイエスは別の言葉を語っている。そこも見てみよう。

まことに、あなたがた(弟子たち)に言います。何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:18~20)

 

 私は、この18章の言葉は、16章の言葉に対応していると考える。まとめてみよう。

<16章>

エスをメシアだと告白した宣言を基礎として、信者たちの「集い」が形成される。

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。

<18章>

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。(16章との対応を示す)

2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる。

 

 この際、「天の御国の鍵」については、別記事を書くのでスルーしたいと思う。大切なのは、それを結合の根拠として見た際の、前後のつながりだ。「イエスをメシアと告白する者(ペテロ)を基礎として、信者たちの『集い』が形成される」と宣言した。そして、「何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」という言葉を「つなぎ」として語った。何をつなぐのか。「まことに(アメン)もう一度言う」と強調した上で述べた言葉がポイントである。それは、「2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる」というメッセージである。

 これは、ユダヤ人にとってはパラダイムシフトだった。ユダヤ教は、元来「10人」を一単位として「集会」を形成していた。シナゴーグでの儀式は、10人集まらないと開始できなかった。これは、アブラハムが神と交渉した際、10人を最小単位とした故事に由来する(創世記18章参照)。

 しかし、イエスは「2人か3人の”人間関係”が集いを形成する」と述べたのであった。これは革命である。結論を述べれば、「イエスを信じる者が2人以上集まれば、それは”教会”であり、イエス自身もその中にいる」とイエス自身が宣言しているのである。他にも根拠は様々あるが、簡単にまとめると、私が定義する「教会」とは以下のようになる。

<”教会”の定義>

エスをメシアと告白する者が集まる「集い」が「教会」である。

・最少人数は2~3人。人が複数集まり、信者同士の人間関係が「教会」である。

その中にイエスの存在がある。

・「教会」は誤訳であり、漢字の意味合いから誤解を招きやすいので「集い」とか「集会」とか「集まり」とかがふさわしい。現代の日本文化に照らし合わせれば、「チャーチ」もギリギリ許容範囲かもしれない。

・もっとも、今から日本語を変えるのは相当難しいので「教会」という表現は仕方ないとは思う。このブログでも便宜上「教会」という単語は使用している。

 

 では、この価値観をもとに、「集う教会の変更の是非」について考えてみよう。

 

 

▼集う場所・環境を変えるのは悪いことではない

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 結論から言えば、集う場所や環境を変えるのは、全く悪いことではない。聖書にはどう書いてあるのか。実は、「集う教会の変更の是非」については、全く記述がない(と私は思うが、間違っていたらご指摘願いたい)。強いて言えば、以下のような記述がある。

約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23~25)

 

 この聖書の言葉からは、エスを信じる者たちが集まる理由について書かれている。もちろん、集まる理由は他にもたくさんあるが、ひとまずこの部分に書いてある点をまとめよう。

<信者同士が集う理由>

希望を告白するため(当たり前だが、イエスによって赦されている、イエスがいつの日か地上に王として帰ってくるという希望であり、この国の政治が変わるなどという小さな希望ではない)

愛と善行を促すため互いに注意を払うため

互いに間違いを指摘するため(マタイ18章のイエスの言葉を参照)

励まし合うため。特に、イエスが王として帰ってくる日を待ち望み、互いに励まし合うため。

 

 これらの理由のために、「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」と書いてある。「特定の教会に通い続けなさい」などとは書いていない。「集まるのをやめずに励まし合おう」と書いている。ここが大切だ。

 つまり、「励まし合う」という目的のためなら、集う場所や環境を変えるのは全く悪いことではないのである。大切なのは集まり続けることであって、特定の場所やグループにこだわることではない。2人か3人が集えば、それはもう立派な「イエスを中心とした集い」すなわち「教会」なのである。人と人の「つながり」の間に、イエスがいるのであり、「神の国」が実現するのである。

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです

(ルカの福音書 17:20~21 新改訳聖書3版)

 

 正直、教会のリーダーたちが「簡単に集う教会を変えないように」とプレッシャーをかけてくるのは、自分たちのためだ。教会の人数を維持したい。献金額を維持したい。他の信者たちに顔向けできない。1人抜けると、芋づる式に出ていってしまうのは困るなどといった、至極、自己中心的な理由である。そんなプレッシャーに困っているクリスチャンの方がいたら、ぜひ勇気を持って一歩を踏み出してほしいと思う。

 

 

▼教会を「出ていく」のは「分裂」なのか?!

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 こういう議論をすると、すぐに「教会はキリストのからだである」「キリストのからだを分裂させるな!」「分裂を招くな!」とか言う人がいる。ため息しか出ないが、一応、反論しておこう。

 「キリストのからだ」という言葉は、以下の聖書の言葉から来ている。

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会(信者の集い)に与えられました。教会(信者の集い)はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙 1:22~23)

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:16)

 

 まず「キリストのからだ」という言葉の意図は、主に2つだと思う。

1:信者の人間関係の中心にいるのはイエスである。教会の中心、かしらはイエスである。

2:信者の集いの中には、それぞれに違う役割がある。信者の集いは、イエスによってひとつとなり、成長していく。

 

 「からだ」という比喩には、「それぞれ違う機能や役割がある」という意味が込められている。「みんなちがって、みんないい」というやつだ。そして、イエスこそが集いの中心であり、目的であり、共通点なのである。

 こう考えれば、「イエスを信じる集まり」はどんな場所や環境であっても、本来は「ひとつ」のハズである。ただ集まっている場所が違うだけで、イエスという共通項は同じである。違う教会であっても、イエスを信じているという点では広義の「同じキリストのからだ」なのである。だから、「集う教会を変えること」は「キリストのからだを分裂させること」にはならない。

 新約聖書では「分裂に注意せよ」と何度も忠告されているではないか、という反論もあろう。しかし、それは少し認識がズレている。新約聖書で批判されているのは、「イエスから引き離す分裂」であり、「違う教会に行くこと」ではない。エスから引き離したりすれば、それは当然「分裂を招いている」といえるだろう。イエスを信じる者の集まりが「教会」なのだから、イエスを信じなかったら教会でなくなってしまう。当たり前の話だ。異端やカルト、間違った教えには注意が必要だが、「違う教会に行く」という行為そのものは、聖書のいう分裂には当たらない。

 そもそも、聖書の時代の「教会」は現代のような組織的なものではなく、もっとゆるやかな、いわゆる「家の教会」であった。エスを信じる者たちは、それぞれの家に集まり、食事をともにし、聖書や神について語り合い、イエスが戻ってくる日を待ち望みながら励ましあっていたのである。現代は現代にふさわしいスタイルがあると思うが、もっとゆるやかな「信者同士のつながり」を教会としてもいいのではないか。聖書時代の教会は、各エリアごとにゆるやかなまとまりがあり、それぞれの地域の人々が、ゆるやかな連帯でつながっていたのだと想像する。そう考えれば、現代においてどの教会に行こうが、一向に構わないのではないか。イエスを信じているという点で、共通しているのだから。

 ただ、別の教会に集うと決断した際は、いわゆる「ケンカ別れ」ではなく、ポジティブに移った方が、様々な意味で良いだろう。「同じキリストのからだ」なのであるから、本来は喜びをもって送り出し、迎え入れるのが理想である。丁寧に理由を説明し、集う場所や環境を変えれば、以前の人間関係も維持できるので、オススメだ。ネガティブな理由であっても、ポジティブな形にすることは可能である。表面上もネガティブにしてしまうと、往々にして次の場所でも上手く行かなかったりする。集う教会を変える際は、多少めんどくさくても、丁寧かつ円満な対応をするようオススメしたい。

 

 

▼同じ人間関係に留まるメリットとデメリット

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 違う教会に行く行為、集う教会を変更する行為は間違っていない。しかし、聖書にはこうも書いてある。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。

(コリント人への手紙第一 10:23)

 

 集っている教会を変える行為は、果たして「益」となるのだろうか。メリットとデメリットについて、簡単にまとめてみた。

<集う教会を変更するメリット>

・自分になじみのあるスタイルの礼拝会を行う教会を選べる(スタイル)

・地理的に近い教会を選べば、時間の節約になり、負担が減る(地理的要因)

・めんどくさい人間関係からオサラバできる(人間関係)

・新しい人間関係に飛び込める、つながりが広がる、成長につながる(人間関係・成長)

・自分が慣れ親しんだスタイルや教えから脱却し、新しい視点や価値観を養える(新しい価値観)

・もし間違った教えをする教会にいたのであれば、そこから脱却できる(信条的要因)

 

 人間は、自分が関わる人たちから多かれ少なかれ影響を受ける。人は人間関係の中で成長する。集う教会を変えるという行為は、すなわち人間関係を変えるという行為である。新しい人間関係に飛び込めば、新しい刺激がある。自分が知らなかったスタイルに出会う。違う考えの人間と出会う。聞いたことのない聖書の解釈や教えと出会う。新しい視点や価値観を養える。実は集う教会を変える行為は、メリットがおおいにある。

 私は、両親の引っ越しや自分の上京、留学などの地理的理由から、様々な教会に通ってきた。正式に所属した教会だけでも、10以上になるだろうか。中には、先に書いた韓国系の教会のように、教えに賛同できず行くのをやめたところもある。しかし、行った全ての教会での経験、学びは無駄ではなかった。独立した教会にも集ったときもあるし、団体に属してる教会にも行った。いわゆる「福音派」の教会にも行ったし、いわゆる「聖霊派」の教会にも集った。様々な教会に行くことで、多様な視点と価値観、スタイルを学んできた。まだひとつの教会しか通ったことのない人は、ぜひ機会があれば別の教会も覗いてみると、面白いと思う。 

 人がみな違うように、教会もみな違う。特に日本は、同じグループに属していても、教会によって特色が大きく違う。今まで通ったことのないスタイル・カラーの教会に言ってみれば、思いもよらぬ出会いやつながり、成長があるかもしれない。

 

  しかし、教会を移り変わるのは「諸刃の剣」で、デメリットもある。見てみよう。

<集う教会を変更するデメリット>

・自分になじみのあるスタイルの教会ばかりを選ぶと、なじみのないスタイルの教会の人たちとの関わりを、避けるようになってしまう危険性がある

・負担を避けるあまり、集うこと自体をやめてしまう危険性がある

・めんどくさい人間関係を避けてばかりいると、人として成長しない恐れがある

・人間関係を継続できればいいが、断絶を繰り返し続けると、いつの間にか人間関係を維持できなくなってしまう危険性がある

自分が慣れ親しんだスタイルしか受け付けなくなる可能性がある

・「間違った教え」ばかりに気を取られると、いつの間にか判断基準が「聖書」ではなく「自分」になってしまう危険性がある

 

 あえて、メリットと対応したデメリットを挙げてみた。どれも気をつけなければいけない「危険性」ではある。確かに聖書にも「苦難を通して人は成長する」(ヘブル12章など参照)と書いてあるし、人間関係の大変さから逃げ続けたら、成長はないかもしれない。ときに、トラブルや争いは、人を成長させ、人と人の結びつきを強くする。

 しかし、いずれも「~の恐れがある」という、可能性の話である。「集う教会を変える」ことを禁止する理由にはならないと、私は思う。このようなデメリットには気をつけつつ、個々が神に祈った上で、行動を決めていけば良いと思う。また、ひとつの教会に留まらず、様々な教会を転々とする、いわゆる「チャーチ・ホッパー」の是非については、別記事を書こうと思う。

 

 

▼教会選びの6つのポイント

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 では、「どんな教会に行けば良いのか」という疑問があるだろう。画一的な答えなどないが、以下、私が参考にしたら良いと思う点を簡単に挙げる。

 

1:地理的要因

 集う場所が家から近いかどうか。これは意外と、めちゃくちゃ大事である。よく無理をして遠い教会に集っている人がいるが、私は「よくやるなぁ」と関心する。集う場所が近い方が、圧倒的に精神的、肉体的、時間的に楽だ。遠い教会に通い続けるのは、案外大変だ。漫画「スラムダンク」の登場人物「流川」(ルカワ)は、「近いから」という理由でバスケが強くもない高校へ進学したが、教会の選び方も、案外そんな理由で良いのかもしれない。

 

2:礼拝会などのスタイル的要因

 教会の礼拝会のスタイルも重要だ。自分が本当に神に心の照準をあわせられるか。スタイルが合わないと、どうしても気が散る。先に挙げたように、互いに愛と善行を行い、励まし合うという目的が達成できなければ、自分に合う場所を見つけた方が良いだろう。特に礼拝会の進め方や音楽のスタイルなどは、教会を選ぶ際に大切な要因の一つとなってくる。

 

3:教義的要因

 教会がどのように聖書を教えているかは、とても大切なポイントのひとつだ。牧師などの教会のリーダーが、聖書について語る(説教・メッセージ)場合が多いが、何度か聞いてみて、学ぶ点があるかないか見極めたら良いだろう。もし、何度か参加してみて「この教えは違うな」と感じたら、その教会に通うかどうか再考してみた方が良いかもしれない。

 

4:人間関係的な要因

 教会の主体はイエスだが、イエスがいるのは人間関係の中である。教会の主眼は、そこにおける人間関係と言っても過言ではない。どんな人がいるのか。自分はその人たちと上手くやっていけるのか。年齢層はどうか。自分はその教会のターゲット層なのか否か(年齢、ライフステージ、性別、考え方、社会的立場、パッション、ビジョン、などなど・・・)。自分は、同じ年代を求めているのか、それとも違う年代を求めているのか。よく考えて決める必要がある。人間関係が悪い集まりに関わり続けることほど、辛いものはない。

 

5:組織の運営的要因

 教会がどのように組織を運営しているかを見る必要もある。例えば、教会ではどのようにメンバーを育成しているか、吟味したら良いだろう。教会のビジョンは何か。教会が大切にしているものは何か。献金のシステムはどうか。支援している団体はどこか。様々な点から、教会の運営面を見る必要がある。

 「スモールグループ」(小グループ班に分かれて個人的な話しや相談ができるシステム)やそれに準ずるものがあるかどうかは、非常に大切である。教会とは、やはり個人的な人間関係を築く場だからだ。特に人数が多い教会ほど、スモールグループの有無は重要だ。ただ日曜日に行って、礼拝堂の席に座って誰とも話さず帰るだけでは、私はもったいないと思う。

 

6:神に祈って決める(一番大事!)

 最後だが、最も大切なのは、自分自身が神に祈ってから決めるというものだ。もちろん、どこの教会に行くかは究極的には自由だと思う。しかし、全ての決断を神に祈って委ねるという姿勢は大切だと、私は思う。基本的には「ここの教会に行きなさい」というような声が聞こえるわけではないが、決断に祈りが伴うか伴わないかは、大きな違いである。

 

 他にも教会選びのポイントはあるが、基本的にはこの6つに集約できると思う。読者の方がそれぞれ、神と真剣に向き合い、イエスに対する希望を告白するために、一人ひとりが最善の集まりに導かれるよう、願っている。

 クリスチャンではない方は、ぜひ一度、近くの教会に足を運んでみることをオススメしたい。教会って、行ってみると意外と面白い。教会に乗り込んで、聖書について、イエスについて、神についてあれこれ質問して、議論してみよう。めちゃめちゃ不思議で、楽しい集まり。それが「教会」である。

 

<参考リンク>

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンはダンスをしてはいけないのか?

クリスチャンの中には「ダンス禁止!」をうたう人たちがいるそうです。どうしてなのでしょうか?

 

 

▼ダンス禁止令?!

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 先日、あるクリスチャンの友人と話していたところ、こんな話を聞いた。「あのクリスチャン学校は、ダンス禁止なんだって」。驚いた。何を根拠にそんなルールを決めているのだろう。理由を聞くと、「体を使ってアピールすることは、性的興奮を掻き立てるから」だそうだ。ちょっと頭を抱えたくなってしまうが、現実にそういうルールを定めるクリスチャンの学校や教会は存在する。

 当然、聖書には「ダンスは罪」なんて書かれていない。QED、証明終わり。答えは既に出てしまって、この記事を書くのをやめても良いのだが、もう少し深掘りしたいと思う。実は、聖書にはダンスをした人々がたくさん登場するのだ。今回は、聖書でダンスを用いて神を崇めた人々とその心に注目したい。

 

 

▼ダンス禁止のわけは? 正当性は?

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 まず、なぜダンスを禁止するクリスチャンの学校や教会があるのか考えてみよう。私が聞いた話では、「性的興奮を掻き立てるから」とか、「体を性のアピールに使ってはいけないから」などの理由が挙げられた。確かに、ダンスの種類にもよるが、そのような指摘も一理あると思わせるような激しいダンスもある。しかし、クリスチャンたるもの、まずは聖書の価値観を見ておかないといけない。そうしないとズレてしまうからだ。

 果たして、聖書は何と言っているのだろうか。序論で挙げたように、聖書に「ダンス禁止」を命じる記述は全くない。強いて、強いて、強いて言えば、こんな記述なら聖書にある。

ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい

(テモテへの手紙第一 2:8~10 新改訳聖書3版)

 

 ダンスや「性的アピール」に直接の言及はないが、確かに身だしなみとして「慎み深く身を飾り」とのオススメの記述はある(※この際、男女の記述はひとまず置いておこう)。しかし、これらを「ダンス禁止」と結びつけてしまうのは、いかがなものか。ほかに、ダンスを禁じる根拠となる聖書の言葉があれば教えていただきたい。

 「ある種のダンスはシャーマニズム悪魔崇拝と深く結びついている」という理由を挙げる人もいる。確かにダンスを用いて悪魔を礼拝していたら、それは当然ダメだ。しかし、それは「悪魔礼拝」がダメなのであって、「ダンス」がダメなわけではない。

 悪魔礼拝がダンスの由来だからダメ、と言う人もいるだろう。しかし、ハッキリ言ってその指摘は全くの筋違いだ。現代の「礼拝会」のスタイルの中には、聖書由来ではない部分も多く含まれている。昔は「音楽」そのものが教会ではタブーだった(それがそもそも聖書の記述からかけ離れているが・・・)。オルガンやピアノでさえ、「礼拝にはふさわしくない」と言われていた時代もあったぐらいだ。しかし、時代の変化にあわせて様々な方法が「礼拝会のスタイル」として用いられてきたのだ。そう考えれば、大切なのは「スタイルや行為」ではなく「礼拝の対象は誰か」や、「動機や心のあり方」だと分かるだろう。

 由来や見てくれではなく、大切なのは心の動機なのだ。音楽も踊りも、全ては神の創造である。神が創造した人間が、神が創造した聴覚や身体を使って、何かを表現する。神から与えられた身体を使って、力の限り神を褒め称える。これを私は罪だとは思わないし、禁止するのもどうかと思う。

 では、聖書の登場人物たちはどうしたのか、簡単に見ていこう。

 

 

▼聖書でダンスをした人たち

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 聖書には、ダンス・踊りを用いて神を賛美し、讃えた人々が数多く登場する。今回はその中で代表的な例を3人挙げよう。

 

<ミリアムの例>

 ミリアムは、預言者モーセとアロンの姉である。彼女は、イスラエルの民の賛美の歌をリードする、いわば賛美リーダーだった。聖書初の「女性賛美リーダー」かもしれない。聖書にもこう書いてある。

アロンの姉である女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちも皆タンバリンを持ち、踊りながら彼女に続いて出て来た。ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。なんと偉大で、高くあられる方。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた」

出エジプト記 15:20~21 聖書協会共同訳)

 

 これは、イスラエルの民がエジプトから脱出した後、神を褒め称えて歌った歌である。神は民を導き、海の間を通らせて、エジプトから救い出した。その後、ミリアムは民の歌をリードしたのであった。彼女たちは、タンバリンの演奏と踊りを用いて神を賛美した。イスラエルの民も、喜び歌いながら彼女の導きで踊っていたことは、想像に難くない。イスラエルの民は、歌と踊りで神を賛美し、褒め称えたのであった。

 

ダビデの例>

 王であるダビデはどうだろう。聖書にはこんなエピソードがある。

主の前でダビデは力の限り踊った。(中略)だが、主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろし、ダビデ王が主の前に跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の内で蔑んだ。(中略)ダビデが家の者を祝福しようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエルの王(ダビデ)はなんとご立派であったことでしょう。一人の愚か者が恥ずかし気もなく裸になるように、仕え女や家臣の前で裸になられたのですから

(サムエル記第二 6:14~20 聖書協会共同訳)

 

 これは、「神の箱」がエルサレムに戻ってきた時の有名なシーンである。神の存在と力が強く示された「神の箱」(神輿のようなもの)は、敵であるペリシテ人に奪われていた。しかし、神がペリシテ人神罰を下したため、神の箱は最終的にエルサレムに返ってくることとなった。ダビデは、神の箱の帰還を喜んだ。彼は、喜びのあまり服を脱ぎ捨てて裸(または裸同然)になり、踊り狂った。全身全霊で、神の箱の帰還を喜び、神を賛美したのである。

 しかし、このダビデの姿を快く思わない人がいた。他でもない、ダビデの妻ミカルである。ミカルは裸(または裸同然)になったダビデを見て、彼を蔑んだ。その結果、ミカルは死ぬまで子供を産めなくなる罰を受けた。なんと、裸になってダンスをしているダビデを蔑んだミカルの方が戒めを受けたのだ。

 一方のダビデはこう答えている。

ダビデはミカルに言った。「あなたの父やその家の誰でもなく、この私を選んで、主の民イスラエルの指導者と定めてくださった主の前なのだ。その主の前で私が踊ろうというのだ。私は今にもましてもっと卑しくなろう。自分の目にさえ卑しい者となろう。だが、あなたの言う仕え女たちーー彼女たちからは、誉を受けるであろう」サウルの娘ミカルには、死ぬまで子どもがなかった。

(サムエル記第二 6:20~23 聖書協会共同訳) 

 

 このエピソードを見ると、裸(同然)で踊り狂って神を褒め称える行為そのものは、むしろ歓迎されるべきだと分かる。神への思いを爆発させて踊る行為自体は、推奨されるべきであろう。もちろん、現代において男女がいる場所で全裸になって踊ったら、ただの変態集団だが・・・そのぐらいの節度は冷静に考えて分けてほしい。大切なのは「行為」ではなく、その根底にある「心」なのだ。

 

<イエスの命令>

 最後に、イエスは何と命令したか見てみよう。聖書にこう書いてある。

喜びなさい。喜びおどりなさい天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

(マタイの福音書 5:12 新改訳聖書3版)

 

 エスその人が、「喜びおどれ」と命じているのだ。エスの教えをどうして人間的な基準で禁止するのか。この一点だけでも、「ダンス禁止令」は間違った教えだと分かるだろう。

 クリスチャンは、イエスによって罪が赦され、新しいいのちを受けている。その喜びは、他の何にも代えがたい。最高の喜びを爆発させて、全身全霊で踊り狂って神を褒め称えるのは、とても良いことだ。禁止される理由はどこにもない。

 

 

▼ダンスを間違った方向で用いた例

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 聖書には「ダンス」を間違った方向で用いてしまった例も記載されている。いくつか見ていこう。

 

<金の子牛の例>

 預言者モーセが有名な「十戒」を神から授かった際、イスラエルの民は堕落してしまった。この時、モーセシナイ山に上っていたのであるが、いくら待ってもモーセが帰ってこないので、民は不安になった。そして、祭司アロンをけしかけて「金の子牛」を作って神として崇めてしまったのであった。その際、聖書にこう書いてある。

アロンは彼らの手からそれ(金の耳輪など)を受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日は主の祭りである」と宣言した。彼らは翌朝早く起き、焼き尽くすいけにえを献げ、会食のいけにえを献げた。民は座っては食べて飲み、立っては戯れた。 

出エジプト記 32:4~6 聖書協会共同訳)

 

 イスラエルの民は、この「金の子牛」を神として崇め、食べて飲んで騒いで戯れていた。いわば、パーティー的なお祭りをしていたのである。この時「戯れた」の中に「踊り」が内包されたと想像しても良いのではと、私は思う(※もっと性的な「戯れ」だとする意見もある。しかし、それはダンス以上の問題である)

 神はこの罪に対して怒り、イスラエルの民を滅ぼそうとした。モーセが仲立ちして全滅は免れたが、3000人が死ぬ事件となった。この時、問題になったのは、「食べて飲んで戯れた」という「行為」ではない点に注目したい。民が「金の子牛」を神とした「偶像礼拝」が問題だったのである。このことから、「行為」ではなく「礼拝の対象」と「心のあり方」が問題だと分かる。

 

<バアルの信者たちの例>

 異邦の神である「バアル」の信者たちはどうだったか。預言者エリヤとバアルの信者たちが対決したシーンを見てみよう。

彼ら(バアルの預言者たち)は与えられた雄牛を引いて来て整え、朝から昼まで、「バアルよ、私たちに答えてください」と言ってバアルの名を呼んだ。しかし、何の声もなく、答える者はいなかった。彼らは自分たちの造った祭壇の周りを跳び回った。昼になり、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で叫ぶがいい。バアルは神なのだから、瞑想しているか、それとも用を足しているか、旅にも出ているのか。ひょっとすると、彼は眠っているので、目を覚まさないといけないだろう」彼らは大声を張り上げ、自分たちの習わしに従って、剣や槍で身を傷つけ、血を流すまでに至った。このようにして、真昼が過ぎて、供え物を献げる頃になるまで彼らはわめき叫んだが、何の声もなく、答える者もなく、何の反応もなかった。

(列王記第一 18:26~29)

 

 これは、預言者エリヤが神の力を示すために、バアルの信者たちと勝負したシーンである。エリヤは、いけにえの祭壇を2つ用意し、どちらのいけにえに火が着くか勝負しようと持ちかけた。バアルの信者たちは、上記のように叫んだり、身体に傷をつけたり、踊り狂ったりしてバアルの神に火を下すよう求めたが、何も起こらなかった。一方のエリヤは、いけにえを水浸しにした上で神に祈った。すると、一瞬のうちに火が降って、いけにえを焼き尽くしたのであった。

 この「身体を傷つける」という行為は、現代においてもイスラム教の一部で行われている儀式である。イスラム教の授業で映像を見たことがあるが、そこらじゅうに血しぶきが飛び散り、まるで虐殺のようであった。しかし、彼らはこれをアッラーの神への礼拝行為として行っているのである。

 この場合も、問題なのは「行為」ではなくその「対象」と「心」だということは、異論のない点であろう。

 

<エフタの娘の例>

 最後に、ちょっと哀しいエピソードを紹介する。ダンスを間違った方法で用いた例ではないが、結果的に哀しい物語になってしまった例だ。

エフタは主に誓願を立てて言った。「もし、あなたがアンモン人を私の手に渡されるなら、アンモン人のもとから無事に帰ったときに、私の家の戸口から迎えに出て来る者を主のものとし、その者を焼き尽くすいけにえとして献げます」(中略)エフタがミツパにある自分の家に戻ったとき、娘がタンバリンを持って踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、ほかに息子も娘もいなかった。エフタは娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わが娘よ。あなたは私を打ちのめし、私を苦しめる者となった。私は主に対して口を開いてしまった。取り返しがつかない」娘は父に言った。お父様、あなたが主に対して口を開かれたのなら、どうか、その口から出たとおりのことを私に行ってください

士師記 11:30~36 聖書協会共同訳)

 

 イスラエルの将軍エフタは、戦いの前に神に誓いをたてた。それは「戦いに勝たせてくれたら、凱旋した時に一番最初に踊りで迎えてくれた人を、神にいけにえとしてささげる」という残酷なものだった。運命とは残酷なもので、なんと一番最初に出迎えたのはエフタの一人娘だった。エフタは愕然とするが、神への誓いを果たす。娘も自ら誓いを果たすように父を説得し、自らの命を絶つ決断をするのであった。

 これは、何とも哀しいエピソードだ。エフタにもそんな哀しい誓願をたてるなと言いたくなるし、そんなフラグを立てたら哀しい結果は見え見え・・・と現代の私たちは思うが、聖書に記載されている事実である。

 これは、決して踊りが間違った方法で用いられた例ではないが、哀しい結果を招いた一例として、覚えておいてもらいたい。エフタが無茶な誓願をした「心」が問われる事案であるし、その決断に従ったエフタの娘の強い心に、焦点が当たっているエピソードであると思う。エフタの娘は死んだが、その心は神に喜ばれていると私は思う。

 

 

▼「してはいけない主義」の危険性

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 さて、様々な例を挙げたが、結論はシンプルだ。

1:聖書は「ダンス・踊り」そのものは禁じていない

2:問われるのは「行為」ではなく「崇拝の対象」「心の動機」である

 

 結論は以上だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 「フラダンスはOKだけどヒップホップはNG」のように、ダンスの種類によって区分けしようとする人もいるだろう。しかし、私はその意見には反対だ。どんなダンスでも、神を礼拝するのに用いることはできると、私は思う。今では「ワーシップ・フラ」といって教会で用いられることの多くなったフラダンスでさえ、元はといえば土着の精霊信仰の礼拝で用いられたものだ。しかし、その目的さえ整えば、用いることができる。もちろん、反対論じゃたちのいう「過激な性的アピール」だって、目的が違えば、おのずと目的に沿った形になっていくのだと、私は思う。

 

 私は、クリスチャンの中に横行する「これはして良い」「これはダメ」といった、短絡的な「してはいけない主義」は危険だと思う。特に聖書に書いていなかったり、直接の言及はなくとも明らかに否定されているもの以外の、いわゆる「グレーゾーン」(ダンスについてはグレーとすら思わないが)については、柔軟な対応が求められていると思う。なぜなら、安直に「これはして良い」「これはダメ」と教えると、クリスチャンの信仰がまるで「行い」によるかのような誤解を与えるからだ。クリスチャンは、ただイエスが一方的な十字架の犠牲をなしてくださったことを信じるだけで、救われる。そう信じている。生き方の基準は、その後についてくるものだ。

 もちろん、このブログでも「これはダメだろう」という指摘をしている記事もある。しかし、それは明らかに聖書に記載があったり、直接言及がなくとも明らかに否定されたものに限って書いている。当然、いくつかの記事に対しては反論等、ご指摘もあるかと思うが、その点はまさに「グレーゾーン」なので多様な意見があって当たり前だとは思っている。

 教会や学校にとっては、そのような「ルール」を作れば、メンバーや生徒たちを簡単に管理できるので、マネジメントの面で効率が良いだろう。その「ルール」は一定、グループごとにあって良いとは思う。しかし、ルールが「聖書の基準」と間違って捉えられないよう、一定の配慮と注意が必要である。ことさらな「禁止主義」や「禁欲主義」は誰も幸せにしないからだ。クリスチャンは「自由にされた者」として歩んでいけるのではないだろうか。

 

エスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、わなたがたは本当に私のでしである。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする

ヨハネ福音書 8:31~32 聖書協会共同訳)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】「チャーチ&ホームスクール」のメリット・デメリット

クリスチャンの間でにわかな流行をみせる、子どもを学校に通わせず教会や家庭で教育する「チャーチ&ホームスクール」ですが、その是非についてどう考えたら良いのでしょうか?

 

 

▼「チャーチ&ホームスクール」とは?

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 一部のクリスチャンの間では、「チャーチ&ホームスクール」なるものが流行している。子どもを学校に通わせず、教会や自宅で教育する方法だ。教会が運営する「学校」に子どもを通わせるのがチャーチスクールである。教会が運営しているだけで、いわゆるフリースクールと形の上では同じだ。一方、自宅で完全に家族で完結する「ホームスクール」を選択する人もいる。中には家庭学習をしつつ、週に何回か教会にホームスクールの家庭が集まるなど、「チャーチ」と「ホーム」の中間のようなパターンもある。

 私もホームスクールを体験した。中学校3年生から学校をドロップアウトし、高校は受験しなかった。その間は、カナダやアメリカを放浪したり、バイト生活に明け暮れたり、自宅や教会で自主学習をしたりした。結果的に、そこそこ良い都内の私立大学に進学し、無事卒業、就職もできたので良かったとは思う。

 一般の人は、高校はともかく、義務教育である小中学校に通わないと聞くと驚くだろう。これが、意外と日本では何とかなってしまうものである。もちろん「レール」に乗らない道は、苦労も多い。なぜ、そんな茨の道を選択するのだろうか。今回は当事者の1人として感じる、チャーチ&ホームスクールの利点と難点、課題について語りたい。また、今お子さんがいて、どうしようか迷っている方に対しても、私なりの意見を述べたいと思う。

 当然だが、国によって教育の状況や価値観、社会が求めるスキルや経験などは全く違う。また、時代によっても教育の様相は全く違う。そのため、今回の記事はあくまでも21世紀の日本においてのチャーチ&ホームスクールについてだという点をご理解いただきたい。

 

 

▼チャーチ&ホームスクールの目的

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 なぜ「チャーチ&ホームスクール」をするのか。まずは、その理由について見ていこう。理由はただ一点。「神を知り、聖書を学んでほしいから」である。もちろん、各家庭によって様々な理由が他にもあるだろう。「まず家族との関係を大切にしてほしい」「学校は信頼できない」など、親の思いは様々だ。ちなみに私は「学校が嫌いだから」だったが・・・(笑)

 しかし、クリスチャンがチャーチ&ホームスクールを選択する際の根本的な理由は、ひとつしかない。唯一の神を知り、聖書を学ぶことを第一にする。聖書に基づいた価値観を養う。これが最大かつ唯一の目的であり、理由である。聖書にはこう書いてある。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

(伝道者の書 12:1)

父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。

(エペソ人への手紙 6:4)

 

 若いうちに、創造者である神を知る。クリスチャンにとっては、とても大切な言葉である。自分の子どもを愛しているからこそ、神だけは知ってほしい。エスだけは信じてほしい。クリスチャンの親ならば、そう思うのではないだろうか。

 そう思った親は、子どもを教会に連れて行ったりする。しかし、それでは十分ではないと感じる親もいる。そんな親たちが目をつけるのがチャーチ&ホームスクールなのだ。子どもが学校に行く時間を、聖書を学ぶ時間に充てたい。まずは聖書から神について学んでほしい。これが最大の目的である。もちろん、国語算数理科社会のような、一般的な勉強もする。当然だ。

 学校に行かせないなんて可愛そうだ、虐待だ、という意見もあるだろう。実際、ドイツなどではホームスクールは犯罪と捉えられ、有罪となったケースもあると聞く。しかし、日本では「不登校」や「フリースクールに通っている」などと同等の扱いを受けている。私の妹は大学に入るまで全く学校に行かなかったが、義務教育の間は「学校に来ない不思議な不登校の生徒」の1人だったようだ。日本では、割となんとかなってしまうのである。しかし、そうは言いながらも、子どもが友達を作ったりする機会は必要である。それについては後述する。

 学校に通わせないメリットなどあるのか。そう思う方もいるだろう。私は大いにあると思う。しかし、気をつけないと大きなデメリットになる場合もある。順番に見ていこう。

 

 

▼チャーチ&ホームスクールの利点

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1:聖書を深く学べる

 チャーチ&ホームスクールの利点は、何といっても聖書を学べる点である。それが一番の目的なので当たり前だが、ホームスクールでは、何よりもまず聖書の学びを優先する。大概のチャーチ&ホームスクーラーは、聖書を読む訓練を受ける。毎日聖書を読む習慣はもちろん、聖書の言葉を暗記したり、言葉の意味を考え議論したりする機会が、多くなる。その結果、圧倒的に聖書に詳しくなる。ただ日曜日だけなんとなく教会に通っている「クリスチャンホーム」の子どもと比べると、特にホームスクールの子どもたちの聖書知識は段違いに深い。チャーチスクールの場合は、その学校の方針や本気度にもよるが、やはり聖書の言葉に触れる機会は多くなる。ホームスクールの子は、格段に聖書に対する洞察力が高まる。これは圧倒的だ。

 私は、大学に進学してクリスチャンのサークル活動に行ってみたのだが、ほとんどの人が聖書をあまり知らない事実に驚いた。がっかりした。日曜だけ教会行って適当に聖書をパラパラやっている人と、毎日読み込む訓練を受けたホームスクールの子どもたちとの差を、肌で感じた。ホームスクールの圧倒的利点は、子どもに聖書を教えられる点だろう。

 

 

2:社会性と自発性が身につく

 学校に行かないと、社会性が身につかないのでは? という不安をよく聞く。ハッキリ言うが、それは幻想だ。実は、チャーチ&ホームスクールで育った子どもたちの方が、社会性がある。私はそう思う。なぜか。それは、自然と自分と違う年齢層、バックグラウンドの人々と関わらざるを得ないからだ。教会に行くと、自分とは違う年齢層の人と関わることになる。外国からの宣教師もいる。教科ごとに家庭教師をつける場合もあり、大人と関わる機会が増える。時間があるので、様々なイベントや習い事に行く機会も多く、自ら人と接することができるようになる。学校という「ハコ」に同年代の子どもだけ集めて教育されるよりも、実は社会性が身につくチャンスが多いのである。

 また、日本の学校に通うよりも、圧倒的に「自発性」が身につく。日本の学校は、過度な同調圧力の教育で、はんこを押したような子どもを作ってしまう。その結果、他者の様子を見て自分の意見を決める消極的な子どもになりがちだ。また、学校では与えられたものを忠実にこなすよう教えられるので、いざ自由になると、自分が何をしたいのか分からなくなってしまう人も多い。一方で、ホームスクールの子どもたちは、何をするにも自分でやらないといけないので、自発的になる。自分の頭で考え、行動し、意見を述べなければいけない。ホームスクールの子どもたちは、一般の学校に通った子どもたちより、傾向として圧倒的に自発性・積極性が身についている。チャーチスクールの場合は、規模にもよるが、ほとんどの場合はとても小さな規模なので、ほとんどホームスクールと同じである。

 

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3:やりたいことに集中できる

 ホームスクールの子どもたちの中には、自分のやりたいことが明確で、そのための特殊な勉強や訓練に没頭するケースも多い。例えば、英語を集中的に勉強するとか、webデザインを専門的に勉強するとか、カメラの腕を磨きまくるとかだ。以前このブログで紹介した中山さんは、弁護士になるのが夢だったので、法学部に入るための勉強を必死でした。その結果、見事、法科大学院在学中に司法試験に合格。ホームスクールから、弁護士になるという夢を叶えた。また、以前紹介したサムエルさんは、動画編集やカメラの技術を磨き、今は自分の事業を始めている。ホームスクールでなかったら、もしかするとその技術は磨けなかったかもしれない。

 このように、ホームスクールの子どもたちは、クリエイティビティが磨かれる傾向にある。時間がたくさんあるので、やりたいことに集中できるからだ。もちろん、その時間を有効に使う必要があり、親はその手助けをする責任がある。これについては後述する。

 

 

▼チャーチ&ホームスクールの難点

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 もちろん、メリットばかりではない。デメリットも多い。では、どんなデメリットがあるのか見ていこう。

 

1:どうしても「お勉強」にハンディキャップが生まれる

 やはり一番のデメリットは、いわゆる「お勉強」にハンディキャップが生まれることだ。この場合の「お勉強」とは、テストでどれだけ点数を取れるかの「お勉強」である。もちろん、勉強は個人の努力次第なので個人差はあるが、学校に通うよりは、さらなる努力が必要になるだろう。少なくとも、ハードルが上がるのは間違いない。

 授業ではなく、自主学習が基本になるので、分からないことにぶつかると、それを乗り越えるのは大変である。特に理数系の科目は、専門的に教える先生が必須だ。この「お勉強」はとても重要で、親は子どもの勉強環境を整える必要がある。これについては後述する。

 私は学校に通った中学時代までは、勉強に全く苦労した経験がなかった。授業を聞いていれば理解できた。しかし、高校に行かなかった3年間は大きかった。高校3年の年になり、大学の受験勉強をしようと参考書を買ったが、中身が全く理解できなかった。特に数学で苦労した。センター試験の数学模試で5点を取ったのは衝撃だった。個人の素質に関わらず、必要なカリキュラムが備えられていない中で自ら学ぶのは、やはりハードルが高い。「お勉強」の面では、学校に通うのと比べてハンディキャップが生まれるのである。

 

 

2:環境によっては孤独と戦う必要がある

 学校に行かないと、同世代の友人を作るのが大変だ。教会の規模が大きければ、教会に同世代の友人がいるかもしれない。しかし、それは都市部に限られる。地方に行くと、ほとんどの教会の規模は小さい上に、同世代など皆無だ。課外活動や、習い事で仲間がいればまだマシだが、それすらないと友達を作る機会がない。ホームスクールの子どもたちは、友人がいない孤独と戦わなければいけなくなる。学校の目的は、勉強意外に「友達が作れる」という面もあるのだ。

 私も高校時代は、同世代の仲間が少ないのが悩みだった。学校に行かないと、人と出会う機会も少なくなる。出会うのは中学の友人と、バイト先の仲間の数人だけ。私にとってそれは辛いことだった。以前インタビュー記事で紹介したサムエルさんも、北海道の田舎に住んでいたので、同じ悩みを抱えていたそうだ。友人を作る機会を備えるのも、ホームスクールをする親の役割だろう。

 

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3:環境によっては必要な一般常識が抜け落ちる可能性がある

 これは親の責任によるところが大きいが、あまり親が子どもの情報を遮断してしまうと、子どもが必要な一般常識を知らずに大人になってしまう可能性がある。学校に行けばそれなりに、一般的な常識は先生から、友人たちを通して身につく。それが良いか悪いかはさておき、社会で生きていくために必要な情報は、子どもに提供する必要があるだろう。

 逆に、最近では子どもがパソコンやスマートフォンを使って、自ら情報を集めるようになっている。ホームスクールで子どもを放置すると、情報源がインターネットからのみになってしまう。最近は、粗悪なまとめ記事が横行していて、情報を正しく処理する力も必要になってきている。いわゆる「ネットリテラシー」を教える必要も出てきている。私のオススメは、近所の図書館を有効的に活用して、ネット意外の情報収集を身に着けさせるやり方だ。

 

4:ホームスクールが苦い思い出になると信仰から離れる危険性がある

 最大のリスクは、「学校に行かせてもらえなかった」と子どもが思い、心の傷になるというものだ。ホームスクールが苦い思い出になると、多くの場合その人は信仰から離れてしまう。「神を知ってほしい」というのが一番の目的だったのに、逆に神から遠ざける結果となってしまうのである。残念ながら、私はそのようなケースをたくさん見てきた。

 私の経験から、その原因のひとつとして、親の準備不足や、環境の整備不足が挙げられると思う。十分な環境が整えられず、子どもが不満を覚えてしまうのだ。勉強をさせてもらえなかった、可能性をつぶされた、孤独を強いられた・・・・・・そんな苦い思いが、いつしか神に対する苦い思いへと変換されてしまうのである。これではいけない。チャーチ&ホームスクールを始めるにあたっては、様々な環境を整える必要がある。では、具体的にどのような準備や環境の整備が必要なのか、私なりにまとめてみた。

 

 

▼チャーチ&ホームスクールを始める条件

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<ホームスクールについて>

1:両親ともに積極的な意思があるのは絶対条件

 大大大前提として、両親がともに積極的に「ホームスクールをやりたい」という意思があるのが絶対的な条件だ。夫婦が子どもの子育て方針で一致できていないと、そもそも上手くいかない。よくあるパターンは、女性の方が先に「やりたい」という意思を持ち、夫を巻き込むというケースだ。夫は心の中では反対していても、言い出せない。結局、夫婦の間で温度差を抱えながら、ズルズルとホームスクールが始まっていく・・・というのは最悪のケースである。

 子どもから見て、そんな「夫婦不一致」のホームスクールなぞ、笑止千万。聖書の教えを体現できていない親を見て、どうして聖書に従おうと思えるだろうか。

キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。(中略)「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」(中略)あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

(エペソ人への手紙 5:21~33)

 

 まずは夫婦の双方に、積極的にホームスクールをする意思があること。これが、ホームスクールを始める大前提である。

 

2:十分な勉学の環境を整えること

 ホームスクールを始めるためには、子どもが本来学校で受ける程度の、またそれ以上の勉学の環境を整えなければならない。勉強しやすい机や文房具、静かな環境、必要な教科書、参考書、ドリルなど物理的なものから始まり、各教科を教えられる「先生」が必要である。親が先生役をできればいいが、子どもが成長し、中学校レベル、高校レベルになってくると、だんだんとハードルが高くなってくる。場合によっては「家庭教師・テューター」をプロに依頼する必要がある。参考書を渡して、「勉強しなさい」は、とてもじゃないがホームスクールとはいえない。それは子どもの放置だ。本来子どもが受けるべき教育環境を整える。これは最低条件である。

 忘れてはならないのは、国語算数理科社会英語といった基礎教科に加え、体育、家庭科、音楽、美術(図工)、技術、情報処理、プログラミング、統計などといったその他の教科もカバーしなければならない点だ。音楽、美術、技術などは専門的な知識も必要であり、これまた親が無理ならば専門の教師を雇う必要がある。そのためには、かなりの投資をしなければならない。ホームスクールは、意外とハードルが高いのである。

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3:子どもの「可能性」を潰さない・保証すること

 なぜ、このような「お勉強」が大事なのか。疑問に思う人もいるだろう。ホームスクールは、そのような世の中の「お勉強」は頑張らなくて良いんだ。そういう主張の人もいるかもしれない。私はそうは思わない。聖書にはこう書いてある。

人はうわべを見るが、主は心を見る。

(サムエル記第一 15:7)

 

 この言葉は、「主は心を見る」の部分に力点が置かれがちだし、実際それは正しい着眼点だ。しかし、「人はうわべを見る」という前半も大切である。そう、人はうわべを見るのである。実際、この世の中は、うわべで人を評価する。就職活動をする際には「どの大学を卒業したか」で人の価値が判断される。少なくとも日本の一般的な就職活動の基準はそうだ。高卒と大卒では、平均年収に開きがある。

 学歴は人の優劣を定めない。しかし、この社会においては一定の「資格」のようになっている。実際問題、大卒でなければ教員にはなれない。医者になりたければ医学部を出なければならない。法曹になりたければ法学部に行って国家試験をパスしなければならない。看護師になりたければ国家試験を受けて、資格を取らなければならない。大卒でなければ採用されない会社はごまんとある。現実的な問題として、就職において学歴による「足切り」は存在する。

 もっとぶっちゃけて言えば、「お勉強」は人生の道を切り開く「道具」になる。例えば外交官になりたいと思ったとしよう。そのためには、いわゆる「キャリア」の国家公務員となって「外務省」に入省しないといけない。そのためには、まず東京大学(できれば法学部)に入学しないと、話にならない。その他、旧帝大早慶上智であっても戦えなくはないが、狭き狭き狭き門になるのは間違いない。行った大学によって、合否に大きな差が出るのである。これは現実だ。小さい頃に「お勉強」をしてテストで点が取れないと、戦いの土俵にも登れないのである。賛否や良し悪しはともかく、今の日本の社会はそういう仕組になっている。

 「お勉強」をしてテストで点を取って、より「良い大学」に入るのは、「目的」ではない。「学歴」は、人の価値を定めるものではない。しかし、やりたいことを実現するための「チケット」になる。道を切り開く「道具」になるのだ。

 この社会は「人をうわべで見る」社会だ。「どこどこ大学卒業」「何学部卒業」「持っている資格は何か」「TOEIC何点か」「外国語は話せるか」「部活で活躍したか」「親は何をしているか」「お金持ちかどうか」などなど・・・いわゆる「タコつぼ」でこの世の中は支配されている。だったら、その「タコつぼ」を「武器」として使って、自分のやりたい人生を歩めば良いではないか。

 だから私は、「お勉強」してテストの点を取る技術を身につけることは「人生の選択肢を広げること」だと思っている。なぜか。例えば、大学に入った後に「外交官になりたい」と思ったとしても、一定のレベル以下の大学だったなら、外交官にはなれないからである。「やりたいこと」が見つかった後で、そのための資格すら取れなかったら、時すでに遅し。戦いの土俵にも立てないのである。

 大学に入るまで「やりたいこと」が見つからない人にとっては、「お勉強」をして、テストの点が取れるように「準備」をしておく。それが「選択肢」を広げるための備えとなる。東大を卒業すれば、キャリア官僚にもなれるし、会社員にもなれるし、アルバイトもできる。しかし、そうでなかったら、なれない職業やできないことだってあるのである。

 もちろん、やりたいことが小さい頃から既に明確な人は、その道に突き進めば良いと思う。私の妹は、助産師になるために県立の看護大学に進み、今では看護師・助産師として働いている。友人のホームスクール出身者は、医学宣教師になるために、必死で勉強をして医学部に入った。そもそも大学など行かず、自分の事業を立ち上げたり、芸能方面で活躍する人もいる。やりたいことがある人は、それでいい。しかし、やりたいことが明確でない場合、必要なのは「選択肢を広げておくこと」である。

 この考え方でいくと、ホームスクールの親には、子どもの「可能性」を担保する責任がある。子どもの進学に、ホームスクールの親は大きな責任を持つ必要がある。子どもが将来、「やりたい」と思ったことを、本気でサポートできるのか、考える必要がある。学校に行かせられなかったために、大学に行く学力を与えられなかった、では話にならない。子どもの未来を、ホームスクールという方法でつぶさないでほしいと思う。きちんと専門の教師を備え、必要な教育を備える必要がある。

 また、経済的理由で子どもの進学先を限定するホームスクールの親もいる。私は違和感がある。例えば、高校に行っていれば、指定校推薦の奨学金制度を使えたかもしれない。ホームスクールをやるのであれば、少なくとも子どもが「医学部に行きたい」とか「この私立大学に行きたい」とか言ったときに、経済的にOKを出せるぐらいの準備は必要だと思う。

 「浪人」についても、ホームスクールをやるのであれば、覚悟する必要があると思う。ただでさえ勉学の面でハンディキャップを子どもに与えるのだから、1年や2年浪人しても良いという経済力と度量と余裕が、ホームスクールをやる際には必要だと思う。それが子どもの「可能性を潰さず、保証する」ということである。

 

4:十分な課外活動の機会を与えるべき

 小学校、中学校の子どもにとって、「お勉強」は人生の半分にも満たない。休み時間のドッジボール、バスケットボール。放課後のサッカー。中学や高校に入ったら部活動がある。運動会もあれば、文化祭もあるし、遠足や移動教室、修学旅行などもある。それらの「課外活動」が学校の意義の半分以上を占めていると言ってもいい。そして、そこから学ぶことも多い。失敗や友達とのぶつかり合いを経験し、挫折も学ぶ。ホームスクールの子どもたちも、そのような経験が必ず必要である。

 そのため、ホームスクールをする親は、地域のクラブ活動や、スポーツクラブなど、課外活動の場を精力的に備える必要がある。教会に限らず、地域社会と密接に関わる活動もたくさんできればベストだ。私の妹たちは、地域のスイミングスクールに通ったり、ピアノを習ったりしていた。私はというと、完全に放置されていたので、バイトをして、海外ふらついたり、中学の友達とバスケをしたり、地域のバレーボール教室に顔を出したりと自由にやっていた。しかし、自分でできる人とそうでない人がいるので、親には子どものために場を備える責任がある。

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5:時間を無駄にしない工夫をすべし

 ホームスクールをする場合、親は子どもを「放置」してはならない。よくあるのが、課題を与えて、自主学習させるパターンである。これはあまりいい方法とは言えない。時間をいかに無駄にせず、効率的に勉強を進めるか、親には工夫が必要である。

 また、子どもにパソコンやスマートフォンを与える際は、要注意だ。子どもはすぐにパソコンやスマホの虜になる(大人だってそうだ)。貴重な時間を、youtubeをダラダラ見て過ごしてほしくはないだろう。親が見ていないところで、子どもはコソコソとズルをするものだ。私の妹は、私がパソコンの履歴を調べたところ、センター試験の1週間前でも毎日夜中の2時までyoutubeを徘徊していたことが明らかになった。それでも余裕のよっちゃんで志望校に受かったのだから大したものだが・・・。ずっと家にいるからこそ、親がきちんと子どもを管理・ケアする必要がある。

 

6:徹底的に聖書を教えよ

 何よりも、ホームスクールをやるなら、徹底的に聖書を教える必要がある。これはもう徹底的に、だ。生半可ではいけない。意味がない。聖書を骨の髄まで染み込ませるような教育が求められる。私が出会ったホームスクールの子どもたちは、ほとんどが聖書を教え込まれてきたように思えた。しかし、中にはただ「放置」されていた可愛そうな子どもたちもいた。聖書の内容もろくに知らず、教育を受けないまま育ってしまったようだった。これではホームスクールの目的もクソもない。この点だけは、絶対にブレてはいけない。

 ホームスクールの親は、聖書を読み込ませる覚悟が必要だ。また、自分も教えるだけの聖書の素養を身につける必要もある。良いテキストが探せればなお良い。良い解説書、良い説教・メッセージの録音、良い信仰書なども見定め、子どもにオススメする必要がある。間違っても、ジョシュア・ハリスの「聖書が教える恋愛講座」などという悪書を子どもに渡してはいけない。

 

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チャーチスクールについて>

1:学校の体制をチェックすべし

 チャーチスクールで最も大切なのは、学校の体制だ。教師は何人いるのか、カリキュラムはどうなっているのかをチェックする必要がある。十分な教師の数は揃っているか。誰がどの教科を教えるのか。教師に適切な教える資格はあるのか、等々、親は入念に確認する必要がある。

 日本にある多くのチャーチスクールの体制は、残念ながら万全とは言えない。それが日本の現状だ。教える資格のない教会のメンバーが、ボランティアで教えているといったケースも多い。それでは「スクール」の体をなしていない。教師の人数がきちんと揃っていない学校は、やめておいた方が懸命だ。

 また、カリキュラムもきちんと調べる必要がある。学校によっては、指導要領すらないところもある。どの教科をどこまで、どう教えるのか。聖書はどう教えるのか。使うテキストは何か。きちんと親が把握する必要がある。きちんと体制が整っていない学校は、あまりオススメできない。

 

2:学校の「教え」をチェックすべし

 学校、またその学校を運営する教会が聖書をどう解釈し、教えているかに着目する必要がある。何度かその教会を訪問することを、強くオススメする。特に、牧師などのリーダーたちがどのように聖書を解釈し、語り、教えているのか知る必要がある。違和感があれば、絶対にやめた方がいい。私の妹が行ったチャーチスクールは、「信仰があれば老眼にならない」などというトンデモナイ教えを奉じていたそうだ。

 また、一部のカリスマ的なリーダーが強権的に権力をふるっているところもある。そのようなチャーチスクールは、子どもを奴隷のように扱う。教会の「ビジョン」のために子どもたちを振り回す。道具として子どもたちを使う。このようなスクールには、絶対に子どもを通わせてはいけない。チャーチ&ホームスクールの一番の目的は「神を知り、聖書を学ぶ」ことなのだから、それにふさわしくない学校はやめておいた方がいいだろう。やはり、入学前に親が入念にチェックする必要がある。

 

3:卒業生の姿をチェックすべし

 卒業生がどう過ごしているかも、チャーチスクールを吟味する上で大切な着眼点だ。卒業生は、卒業後も神を恐れ、聖霊に従い、キリストを宣べ伝えているだろうか。卒業生は、今どんな仕事をしているのか。卒業生は、いきいきとした人生を送っているのか。きちんと把握する必要がある。卒業生の姿が尊敬できないならば、その学校はやめておいた方が賢い。

 

 

▼私なりの結論 ~学校に行っても聖書は読める~

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 ここまで書くと、ほとんどの人は「チャーチ&ホームスクール」って難しそうだなァと思うだろう。そのとおり!! 実は、チャーチ&ホームスクールはめちゃくちゃハードルが高いのである。ホームスクールは、夫婦双方の積極的な意思が必要である。そして、確かな計画とカリキュラム、教師の確保、子どもの課外活動の確保、未来の道の確保が必要である。これらの備えを考えたときに、どうしても、ある程度の経済的豊かさが前提となってくる。税金で運営している学校に通わせず、自前でやろうというのだから、お金がかかって当たり前だ。ホームスクールを日本の現代社会でやろうとするなら、ある程度の経済力は持っておかないと厳しいだろう。

 チャーチスクールに至っては、正直、日本ではまだ環境が整っていなさすぎると感じる。不十分な教員の数、テキトーなカリキュラム、子どもを利用している実態、などなど・・・問題を挙げればキリがない。聖書の教えも偏っていたり、不十分なところが多すぎる。私としては、あらゆる意味で日本のチャーチスクールはオススメできない。

 

 最後に、「神を知り、聖書を学ぶ」という基本的な目的に戻ってもらいたい。冷静に考えていみたい。

 

 ホームスクールでなければ、神を知ることはできないのだろうか。

 

 ホームスクールでなければ、聖書を学ぶことはできないのだろうか。

 

 答えは、否、である。そう。ホームスクールをやらなくても、子どもに聖書を教えられるのだ。毎日聖書を読む習慣を、教えることはできるのだ。聖書の基準で生きていくことを、教えられるのだ。やり方は、様々あるだろう。

 学校に行くことは、聖書を教えないことではない。学校に行かせることは、子どもを神から引き離している行為ではない。学校に行っていても、聖書は読めるし、祈れるし、神と共に歩む人生を選び取ることはできる。むしろ、友達にイエスを伝える素晴らしいチャンスが生まれる。不十分な環境でホームスクールやチャーチスクールをすることこそ、子どもが神から遠ざける愚行である。

 ホームスクールを考えておられる方は、今一度、目的は何だったのか考え、祈った上で冷静な判断をしてほしい。ホームスクールは目的ではない。「お勉強」は目的ではない。ただひとつ、イエスのみが人生の目的なのだから。

 

エスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

(ヘブル人への手紙 2:9~10)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは何でもかんでも両親に従わなければならないのか?

聖書には「父と母を敬え」という大原則が書かれています。しかし、それはどこまでの範囲なのでしょうか?

 

 

▼「父と母を敬え」の大原則

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 聖書は、両親を敬うという大原則を教えている。かの有名な十戒の中のひとつの教えに、このような命令が書かれている。

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

出エジプト記 20:12)

 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。

申命記 5:16)

 

 十戒では、最初の4つの教えが「神と人との関係」についての教えで、後半の6つが「人と人との関係」についての教えとなっている。そして、この「父と母を敬え」という教えは、6つ目、つまり「人と人との関係」においての第一の戒めとして書かれているのだ。

 父と母を敬う。この大原則は、旧約聖書のみに留まらず、新約聖書でも同じである。

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。「あなたの父と母を敬え」これは約束を伴う第一の戒めです。

(エペソ人への手紙 6:1~2)

子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。

(コロサイ人への手紙 3:20)

 

 父と母を敬う。両親に従う。これは聖書が全体を通して教えている、人生の大原則である。

 しかし、現代においてはこの教えに様々な疑問が出てくるだろう。どこまでの範囲が親の権利なのか。何でもかんでも親に従わないといけないのか。悪い親、いわゆる「毒親」に対してはどう対処すべきか。肉体的・精神的虐待をしている親に対しても従わなければいけないのか。この病んだ現代の社会においては、親と子の関係がとても難しくなっている。

 そんな現代に生きる私たちにとって、今一度「親と子」の関係について見つめ直す必要がある。今回は、そんなデリケートかつ重要なテーマを見ていこうと思う。

 

 

▼親を敬い、親に従うという基本

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 まず、もう少し聖書の原則を深掘りしていきたい。聖書は上記以外の箇所で、どのように教えているのか。さらっと見ていこう。

 

1:両親を敬うのは聖書の基本

 先に挙げた「十戒」の教え以外にも、聖書はあらゆる場面で両親を敬い、両親に従うことの大切さを説いている。知恵に満ちたソロモン王が書き記したとされる箴言の言葉を見てみよう。

わが子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭に戴く麗しい花の冠、首にかける飾りだから。

箴言 1:8~9)

子たちよ、父の訓戒に聞き従え。耳を傾け、悟りを得よ。

箴言 4:1)

愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は賢くなる。

箴言 15:5)

 

 叡智を極めたソロモンは、父と母の訓戒に聞き従うことの大切さを教えている。

 実際、聖書は両親に従わなかった人たちの悲惨な末路をたくさん描いている。エサウ、サムソン、祭司エリの息子たちなどなど、両親の教えを守らなかった者は、祝福を逃したり、命を落としたりしたのであった。

 何のために両親に従うのか。聖書によれば、「あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるため」とある。両親の教えに従うことは、結果としてあなたに幸せをもたらすのである。

 

2:両親をののしる者は罰せられる

 旧約聖書には、両親をののしった場合は死刑に処せられるという恐ろしい規定がある。もちろんのこと、これは現代にそのまま適用できるものではないが、それほど大切な教えだったと心に留める必要があるだろう。

自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。<中略>自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。

出エジプト記 21:15~17)

だれでも自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければなならない。その人は自分の父あるいは母をののしったのだから、その血の責任は彼にある。

レビ記 20:9)

 

 現代において、両親との関係は難しい課題のひとつだろう。このような厳しい規定が適用されないからこそ、難しいチャレンジなのかもしれない。いかに両親への尊敬と従順がファンダメンタルな教えなのか、覚えておく必要がある。

 

3:両親を敬うことは、イエス自身が実践し、イエス自身の教えでもある

 さて、エスの場合はどうしたのか。当然だが、イエス自身も子どもの時代があった。その時のイエスはどうしたのか。こう書いてある。

それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背丈も伸びていった。

(ルカの福音書 2:51~52)

 

 イエス「両親に仕えた」。その後に「神と人とにいつくしまれ」(新改訳聖書3版では「神と人とに愛され」)と記述があることから、エスは両親への敬愛と従順の模範も示したと考えられる。もちろん、イエスの本当の父は神ご自身であるゆえに、不思議な言動を多々している面はある。それについては後述する。

 また、エスは「父と母を敬え」という教えを強調し、何度も教えている。「永遠のいのち」を求めた人に対して、イエスはこう教えている。

すると見よ、1人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい」彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」

(マタイの福音書 19:16~19)

 

 イエスが引用したのは「十戒」の後半6つの教えだ。もちろん、これはイエスの「とんち問答」の前半部分なので、これをもってイエス十戒の遵守を教えたと断言するのは、いささか説明不足ではある。しかし、イエスが生活の基礎として「十戒」の一部を挙げたのは注目すべきだ。

 さらに、イエスは別の場面でもこのように教えている。

そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人はその物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神にことばを無にしてしまいました。

(マタイの福音書 15:3~6)

 

 これは、当時のパリサイ派たちが聖書の教えよりも「言い伝え」を重視した結果、聖書本来の教えがないがしろにされているではないか、という指摘である。ここでもイエスは「父と母を敬え」という部分を引用して話している。いかに基礎的かつ重要な教えだったかが分かる。

 

4:両親に従わないことは、悪者の特徴である

 最後に、聖書は「神を知らない悪者」の特徴として、以下のようなものを挙げている。その中に「親に逆らう」「両親に従わない」というものが含まれている。

また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。

(ローマ人への手紙 1:28~32)

終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者となり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。

(テモテへの手紙第二 3:1~3) 

 

 人殺しや悪事、情け知らずに恩知らず。これらと「並列表記」で、「親に逆らう」「両親に従わない」という要素が記載されているのは、とても興味深い。

 

<まとめ>

1:両親を敬うのは聖書の基本である

2:両親をののしる者は、かつては死刑になったほどであった

3:イエス自身も両親を大切にし、親を敬うように教えた

4:「悪者」の象徴として「親に逆らう者」との記述がある 

 

 

▼「毒親」に対しては?

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 さて、ここまで聖書の言葉を並べ連ねると、「どんな親でも無条件で従わなければならないのか」という疑問がわいてくる。確かに、これほどまで聖書が語っていると、否定しがたい事実のように思えてくる。

 しかし、立派でない親が多数いるのも現代社会の現実である。これは悲しいが、事実である。いわゆる毒親の問題は、現代において大きな問題だ。

 ただ立派でないだけならマシだが、中には肉体的・精神的な虐待をする親もいる。暴力をふるう。言葉でののしる。性的な暴力をふるう。無視・ネグレクトをする。子供をコントロールしようとする。親と子の関係の問題は、今や社会問題に発展している。これは、現代社会の病といってもいいだろう。

 この問題に対して、どう考えたらいいのか。私はとても悩んだ。聖書の中から、「親に逆らった結果功を奏した人物」を探そうともした。しかし、考える限り、明らかにそのような記載がある人物はいなかった(いたらご指摘願う)。この記事を書くのは、実は時期尚早なのではとも思った。

 しかし、「親と子の関係」は、無視できない重要なトピックである。今回は、今の時点で私の中でまとまっている3つの点だけ述べたい。腑に落ちない点がもしかしたらあるかもしれないが、コメント等でご指摘願う。実は私もまだ腑に落ちきっていないのだ。

 

1:神への従順 > 親への従順

 神に従うことと、親に従うことが対立したら、どうしたら良いだろうか。例えば、親が「イエスを信じてはいけない」「聖書を読んではいけない」「祈ってはいけない」「教会に行ってはいけない」「クリスチャンと関わってはいけない」と言ってきたらどうすれば良いのか。これは、子の年齢や立場によっても言える内容が違ってくる、難しい問題だ。結論から言えば、ケースバイケースである。

 しかし、私なりの「原則」を申し上げたいと思う。それは、「人間である親に従うよりも、神である主<しゅ>に従う方が優先」というものだ。もちろん、その言動が「本当に神に従っているのか」、慎重な吟味は必要にはなってくるが、親への従順より神への従順が優先されるのは大原則である。

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 例えば、旧約聖書には様々な王が登場する。北イスラエル・南ユダの王たちの変遷は、とても面白い(列王記、歴代誌など参照)。王によって、その良し悪しは様々である。神に従う「善い王」と、神に従わず他の神々や偶像礼拝にふける「悪い王」が様々登場する。例えば「善い王」の代表格としてはアサ王、ヒゼキヤ王、ヨシヤ王などが挙げられる。「悪い王」は挙げればキリがないが、代表格は何といっても北イスラエルのアハブ王だろう。他にも北イスラエルの初代王であるヤロブアム王、南ユダのマナセ王、アモン王などは悪い王の代表格だ。

 「善い王」「悪い王」といっても、その判断基準は、「神に従うかどうか」のただ一点である。「悪い王」とされているのは、いずれも唯一の神ではなく、他の神々を信奉し、偶像礼拝を行ったためだ。実は、治世の長さや勢力などを考えると、人間的・政治的な尺度では「悪い王」の中でも活躍した王はいると考えられる。しかし、神の評価基準はただ一点、「神に従うかどうか」である。神に従った王はいずれも「ダビデのように歩んだ」との記載がある。

 面白いのは、「善い王」と「悪い王」が入れ違いになっている点だ。「善い王」であってもその息子は「悪い王」になったり、逆に「悪い王」の息子が「善い王」になったりしているのだ。例えば、ヒゼキヤ王は神に従う「善い王」であったが、その息子のマナセ王は超絶に悪い王だった。その息子アモン王も最悪の王とされているが、孫のヨシヤ王は、宗教改革を行い、律法を回復させたとまで言われる「善い王」として描かれている。また、ヒゼキヤ王の父親であるアハズ王も「悪い王」だったが、息子のヒゼキヤは神に従う「善い王」だった。神に従わない父親のもとで、神に従う息子が育っているのである。

 仮に、ヒゼキヤやヨシヤが、親に従った結果、偶像礼拝を行っていたら、どうなっていただろうか。信仰は継承されなかっただろう。しかし、彼らは親の信仰に倣わず、神に従う道を選んだのであった。そして、その生き方は神に評価されている。このことから、神に従う方が、親に従うよりも優先だと考えられるだろう。

 

 信仰や習慣の悪循環があれば、その道を断ち切るというのも、大切な選択である。ヒゼキヤ王やヨシヤ王は、親の悪い習慣を断ち切った。現代においても、親に悪い習慣があれば、それを断ち切る必要がある。暴力、暴言、怠慢、コミュニケーション不足、不貞、男女関係の乱れ、信頼関係の欠如、噂話をする癖、浪費癖、過度な清貧思考、無計画性、無知、人を支配する傾向、思考パターン、信仰スタイル、アルコール依存、ギャンブル依存、生活習慣、などなど・・・子が親の悪癖を断ち切らなければならない要素はたくさんある。これらを断ち切ることは、決して親を尊敬しないことにはならない。親は尊敬しつつ、良くないものは断ち切っていく必要はある。

 だからといって、神に従うためなら親の言葉に全く従わなくていいわけではない。神に信頼する道を選びつつ、親を尊敬する道を模索するのが大切である。尊敬はすれど、間違っているものは指摘し、話し合い、解決していくというプロセスが大切である。

 

2:現代は「大人」になるのが遅い

 現代人は「大人」になるのが遅すぎる。いい大人がいつまで立っても子どものように振る舞い、成長しない。ある親たちは、親になってもなお子供のように振る舞っている。アダルトチルドレンはいたる所に存在する。人は、ある一定の年齢になったら、責任感ある、自立した大人になる必要がある。

 聖書では、いつ「大人」になるかは書かれていないが、親の権威の下からいつ離れるか、その基準は書いてある。

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記 2:24)

 

 聖書によれば、人が父と母を離れるのは、結婚したときである。究極的には、結婚が親の権威の下から離れるタイミングなのである。この「結婚」が、現代社会においてはどんどん遅くなっている。

 旧約聖書をベースとするユダヤ教では、男子は13歳で「バル・ミヅヴァー」という儀式を行う。日本でいう「成人式」である。宗教的な意味合いでの「成人」ではあるが、13歳になったら、律法に対して大人としての責任が生まれるのである。個人差はあるが、原理主義的なユダヤ教徒たちは、その後、10代~20代前半の若い内に結婚し、子供を大勢もうけるというのが一般的である。

 しかし、日本の現代社会では「大人」になるのが遅すぎる。高等教育・大学教育があまりにも一般化してしまったのが原因だと、私は個人的に思っている。かつては16歳にもなれば、ほぼ大人で、10代~20代前半で結婚し、家庭をもうけ、大人として歩んでいくのが当たり前だった。しかし、現代においては高校を出れば18歳、大学を出ればストレートでも22歳、社会人として落ち着くまで・・とやっていたら、あっという間に30歳になってしまう。「大人」になりきれないまま、子供の精神のまま大人になってしまうのである。今の社会は「アダルトチルドレン」を大量生産する仕組みになってしまっているのだ。

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 イエスの時代の面白いエピソードが聖書に残されている。これは、生まれつき目の見えない人が、イエスに目を見えるようにしてもらったときの話である。イエスが彼の目を見えるようにしたのは「安息日」だったので、パリサイ派の人たちは彼を呼び出して、どのように見えるようになったのか追及した。パリサイ派の人たちは、イエスの奇跡を信じず、ついには盲人だった人たちの両親を呼び出して追及する。元々、盲目ではなかったのではないかと疑ったのである。その追及に対する両親の返答が、傑作だ。

ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、訪ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか」そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。でれが息子の目を開けてくれたのかも知れません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう

ヨハネ福音書 9:18~20)

 

 新改訳聖書3版では「あれはもうおとなです」と書いてある。とてもユニークな表現である。盲目の人の両親は、イエスを認めると会堂から追放されると知っていたので、こう言って責任を逃れたのだった。

 この盲目の人が、具体的に何歳だったか、ヨハネ福音書の記述からは明らかではない。しかし、会堂で証言するに十分な年齢であったことは分かる。40歳ぐらいなのではないかとの話を聞いたことがあるが、確証はない。

 

 話をもとに戻すが、大切なのは「ある一定の年齢になったら、親との適切な距離感を持つ」ことである。現代は、社会が人を「大人」にさせるのが遅すぎる。私は、10代後半になれば、もう立派な「大人」だとは思う。

 しかし、大人になるというのは同時に責任も伴う。高校や大学に進学すれば、経済的に親に頼っている面もあるのだから、完全な「大人」とはいかないだろう。しかし、何でもかんでも親の言いなりというのは違うのではないか。ある一定の年齢になったら、1人の自立した大人として、親との適切な距離感を保つ必要があるのではないか。自分の人生の選択は自分でする。その代わり、その責任は自分で負う。親は敬いつつ、適切な距離は保つ。それが「大人」に求められている責任ではないだろうか。

 近年、いい年になっても親におんぶにだっこの人がいる。決断力がなく、自分の人生の選択をすべて親まかせにしている人がいる。周囲の忠告に耳を貸さず、親の言うことしか聞き入れない人がいる。これは完全な肌感覚だが、クリスチャンの人ほど、この傾向が強くあるように思う。「あれは大人ですから」と親が距離を置くのも大事だが(子離れできていないクリスチャンの親も多い・・・)、子どもの方も、早く「大人」になっていただけたらと、私は思う。

 

 

3:神があなたの父となる

 3つ目は、この記事で一番重要なポイントだ。それは、「神があなたの父となってくださる」という事実だ。聖書にはこう書いてある。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子供であるなら、相続人でもあります。私たちは、キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(中略)神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

(ローマ人への手紙 8:14~29)

 

 クリスチャンは、イエスと共に、神に対して「わたしの父」と呼べる権利をもらっている。神は、私たちの「霊の父」となってくださったのである。イエスを信じ、クリスチャンになった瞬間に、本質的にはもう親の権威の下にはいない。親の権威の下から、神の権威の下へと移っているのである。神ご自身が、あなたの父となってくださっているのである。

 それゆえ、もし読者の中に「毒親」に悩まされている人たちがいたら、天の神ご自身が父となってくださったことを、どうか思い出してほしい。天の神を「アバ、父」と呼ぶことによって、私たちの霊は癒やされる。親との関係に悩み、苦しんでいる人は、どうかこの素晴らしい神の約束を覚えてほしい。神があなたの父となってくださるのである。

 先に挙げた、ルカの福音書2章において、イエスエルサレムでの対応が両親に対して不遜なのではないかと、疑問を持つ人もいるだろう。イエスの本来の父は、ヨセフではなく神ご自身であったので、イエスはその原理を述べたのであった。しかし、ヨセフとマリアには、それが分からなかったのである。詳しくは、ルカの福音書2章をご参照願いたい。

 他にも、イエスが「父や母を捨てて、わたしに従わなければ、わたしの弟子になることができない」(ルカ14章など)と言ったりしているのも、究極的には神がクリスチャンたちの父であり、クリスチャンは神の子どもだからである。これがイエスの約束である。

私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。

ヨハネ福音書 14:18 聖書協会共同訳)

 

 イエスが今や神の長子として、右の座に君臨している。クリスチャンも、神の子どもとして大胆に神に近づくと同時に、神に従う人生を歩む必要がある。

さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

(ヘブル人への手紙 12:9)

 

 私たちには、霊の父、唯一の神がいる。その神が父となり、いつまでも一緒にいてくださるのである。詳しくは以前、別記事を書いたので参照願いたい。

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼カルト化に注意する必要性

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 最後に、「親に従う」という原則を強調しすぎると、カルト化する危険性があるという点について付言したいと思う。

 例えば、聖書には「むち」について、このような言及がある。

 むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。

箴言 13:24)

愚かさは子どもの心に絡み付いている。懲らしめのむちがこれを子どもから遠ざける。

箴言 22:15)

子どもを懲らしめることを差し控えてはならない。むちで打っても、死ぬことはない。あなたがむちでその子を打つなら、その子のいのちをよみから救い出すことができる。

箴言 23:13~14)

 

 この「むち」を実際の縄のムチと考えると、少し間違える。「むち」のヘブライ語である「シェベット」は、羊飼いの「杖」とも訳される。「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(詩篇23:4)とあるように、「シェベット」は羊飼いが羊を害獣から守るために使う「守りのむち」であった。これがムチ打ちのムチであったら、単なるドMである。これらは、羊を害獣から守るための「守りのむち」と、羊を杖で正しい道へと導く「導きの杖」であったと考えられる。「シェベット」は、「むち、杖、棒、さお」などと訳され、主には羊飼いが羊を導く際の、優しく穏やかな「杖」を想起させるものである。

 箴言の「むち」は文脈から縄の「ムチ」の意味合いが強いが、そもそも子どもを訓戒する比喩として「むち」と言っているだけであって、何も本当に子どもをムチで打てなどとは言っていない。新約聖書において、「教えと、戒めと、矯正と、義の訓練のために有益」とされているのは「ムチ」ではなく「聖書」である(テモテへの手紙第二 3:16)。

 

 この「親の権威」を「権利」と履き違え、強調しすぎると、途端に危ないカルト宗教に陥ってしまう。

 私は一度、16歳のときに、極端な教えにハマっていた親から、「40に一度足りないムチ打ち」(※申命記25:1~3に記述があるが、現代で文字通り同じことをやるのは全くの間違い)を実際に受けたことがある。私自身も、親に暴力をふるってしまったのだが、その罰として「39回のお尻叩き」を受けた。コテージに見張り付きで監禁され、木の棒でお尻を39回、本気で叩かれたのである。まさか旧約聖書の規定を実際に現代でやる人間がいるとは思わなかったが、事実である。

 幸いにも、今私の親はそのような極端で間違った考えから解放されている。しかし、私の記憶はなくならない。私のお尻は、未来少年コナンのように紫色に腫れ上がり、1ヶ月近く、座ることすらままならなかった。完全な虐待行為である。警察や児相に訴えたら、どうなるのか。忌々しい記憶である。絶対にゆるさない! とは言わないが、あの痛みと嫌な経験は、未だに忘れることができない。親が極端な権威を振りかざしたことを、子供はいつまでも覚えている。もちろん、暴力は反省しているが、今でもその苦い記憶は残っている。

 親の「権威」を「権利」と履き違え、極端な教えに走ることがないよう、クリスチャンはいつも気をつけなければならない。「親を尊敬する」ことと「親が子供を支配する」ことは全く違う別次元のものだ。

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 もう一つ、クリスチャンの中には、親が子どもを必要以上に管理しようとする傾向がある。「これはダメ」「あれはダメ」から始まり、極端な人になると「あなたはここの学校に行きなさい」「あなたにこの職業は向いてない」「あなたは世の人とは違う」などと言って、自分の子どもをコントロールしようとする癖が、クリスチャンの親にはある。自分は何様だと思っているのか。その結果、いつまでたっても自分の頭で判断ができない、世間知らずで、自分から情報を得て行動しようとしない、子どものような大人のクリスチャンが出来上がってしまう。これではいけない。

 あなたがするべきは、聖書の言葉を教えることであって、あなたの子どもの人生を支配することではない。子どもを世の中から隔離するのは、いい加減にやめた方がいい。

 巷で流行っている、子どもを学校機関に通わせず教会や自宅で教育する「チャーチ・ホームスクール」の是非については、私も当事者の1人としていつか記事を書こうと思う。簡潔に言えば、やるのは大いに結構だが、子どもの夢と可能性をつぶすことだけはやめてほしい。両親共に意思があり、勉学の環境が整っていることが大前提である。この現代社会において、高等・大学教育を受けていないことが、どれだけのハンディキャップなのか知ってからやるべきだと、私は思う。十分なサポートや計画、進学の保証がないにも関わらず、見切り発車で子どもを不幸にする親が多いように私は感じている。親の「やりたいこと」に付き合わされた結果、苦しむのは子どもであり、結局のところ一番大事な信仰まで失うケースがたくさんある。 

 聖書の言葉を知っていれば、何が良いもので、何が良くないものか判別くらいできる。アナタの子どもの可能性をつぶさないでほしい。親の権威は、神に与えられたものである。それを自分のものと勘違いし、子どもをコントロールするのだけは、やめていただきたいと、心から思う次第である。

父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。

(エペソ 6:4)

子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。

(コロサイ人への手紙 3:20~21)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは何を基準に投票すれば良いのか?

参議院選挙、もしかすると衆参ダブル選挙が早ければ来月に迫っています。クリスチャンは何を基準に、どういう目線で投票先を決めれば良いのでしょうか?

 

 

▼どう政治に関わるべき?

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 夏の参議院選挙まで、あと約1ヶ月。巷では、衆議院を解散してのダブル選挙も囁かれている。衆議院を解散するのは総理大臣なので、解散するかどうかは、神と安倍さんしか知らない、まさに「神のみぞ知るセカイ」だが、テレビや新聞は、やれ「解散風」だの「やっぱり解散見送り」だの好き勝手に騒いでいる。

 そんな中、「クリスチャンは何を基準に投票先を考えれば良いのか?」といった疑問が寄せられた。確かに、投票というのは民主主義国家において、国民が行使できる重要な権利のひとつである。クリスチャンは、どのような基準で候補者を吟味し、投票先を選んだらいいのか。この時期だからこそ考えてみたいと思う。クリスチャンと政治については、以前、記事を書いたのでそちらも参考にしていただきたいと思う。

 

yeshua.hatenablog.com

 ちなみにいうと、私は現役の政治記者である自民党幹事長、総理大臣、野党各党の担当を歴任し、今も国会の最前線で取材をしている。おそらく現役では唯一のクリスチャン政治記者として、現場の肌感覚もふまえて、聖書の記載をもとに私の意見をまとめてみる。

(※本記事は私個人の意見であり、私の所属する会社の主張とは全く関係がありません※)

 今回の記事は、基本的にはクリスチャン向けだ。しかし、クリスチャンでない人にも、クリスチャンはこう考えているんだ、へー、ぐらいの感覚で参考にしていただけたらと思う。もちろん、私の意見がクリスチャン界の全てではないので、あくまでも一意見としてお読みいただきたい。

 

 

▼権力に対するクリスチャンの基本姿勢

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 まず、権力との向き合い方について聖書は何と言っているか。基本を抑えておきたい。権力に関する聖書の記述といえば、一番有名なのは次の言葉である。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。(中略)同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その努めに専念しているのです。すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

(ローマ人への手紙 13:1~7)

 

 この聖書の部分の念頭にある「権威」はローマ帝国である。ローマ帝国はイエスの信仰者たちを迫害していたが、それでも使徒パウロはあえて「権威に従え」と言ったのであった。この部分は、一義的には「納税」と「法の遵守」を説いた部分である。エスも、同じように納税については「義務はない」としつつも、他の人々を「怒らせないために」納税の義務は果たす姿勢を示した。イエスは、ユダヤの神殿税の正当性は否定したが、それでも一国民としての義務は果たしたのである(※マタイ17章、22章など参照)。

 このように、クリスチャンの政治に対する基本姿勢は「権力への基本的な従順」「納税の義務」「法の遵守」にまとめられる。議会制民主主義であり、法治国家である日本において、これらの点はもはや当たり前と言えよう(※しかし、この聖書の言葉をもって、権力に無条件で従うべきであると教えるのは、危険である。行き過ぎると、教会や牧師の一方的な権力の正当化につながってしまう)。

 

 2つ目に、クリスチャンは権力者のために祈る必要がある。それは、権力者がどのような人であるかに関わらず、だ。聖書にはこう書いてある。

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。

(テモテへの手紙第一 2:1~4)

 

 聖書は、高い地位にある人々のために祈るように勧めている。その目的について、聖書は、「私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るため」また「神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる」と書いている。つまり、現代において、為政者がイエスを信じ、救われて、国民のために良い政治を行うように祈るのは、クリスチャンとしてとても大切な行為である。「そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前で良いことであり、喜ばれること」とまで書いてあるのは、聖書でもなかなか珍しい。

 クリスチャンとして、まず行うべきは、政治家に対して「辞任しろ!」と叫ぶことではないと私は言いたい。クリスチャンにしかできないのは何か。政治家や世の中のリーダーたちのために祈ることではないか。デモをやるなと言っているわけではない。ただ、為政者のために祈ることは、クリスチャンとって特権であり、義務なのではないか、という点を指摘したい。

 

 3つ目に、クリスチャンは神の主権を認めなければならない。どういうことか。聖書にはこう書いてある。

ファラオは心を頑なにし、イスラエルの子らを去らせなかった。主がモーセを通して言われたとおりであった。主はモーセに言われた。「ファラオのところにいけ。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る」

出エジプト記 9:35~10:1~2)

ああ、あなたがたは物を逆さまに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。

イザヤ書 29:16)

聖書はファラオに、「私があなたを立てたのは、あなたによって私の力を示し、私の名を全地に告げ知らせるためである」と言っています。このように、神はご自身があわれもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにされるのです。そこで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか」ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが作った者に、「どうして私をこのように作ったのか」と言えるでしょうか。陶工(陶器師)は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に造る権限があるのではないか。

(ローマ人への手紙 9:17~21 聖書協会共同訳)

 

 少しこの聖書の言葉を説明する。旧約聖書の時代、エジプトで奴隷だったイスラエルの民は、神によって救い出される。預言者モーセが民を導き、エジプトから脱出した、あの話である。モーセはエジプトの王ファラオと交渉し、穏便に出ていこうとしたが、ファラオの心は「かたくな」になり、イスラエルが出ていくのを許さなかった。神は、「ファラオの心をかたくなにしたのは私だ」と語る。実は、全ては神の計画だったのだ。出エジプトはその記述であり、イザヤ書やローマ人への手紙は、その点の解説である。

 この点について、「心をかたくなにさせられるなんて、ファラオがかわいそうだ」と思う人もいるだろう。そのとおり。しかし、その後の、イザヤ書やローマ人の手紙が解説するように、そもそも人を造った創造主は神ご自身である。その人をどんな人に造ろうと、その人をどう用いようと、それは神の主権の範囲である。私たち人間にとやかく言う資格はない。主権は全て神にあるのだ(ただ、ファラオに関しては、元々かたくなだった彼の性質を神が利用した、という解釈もできる)。

 まとめると、どんな善い人も、悪い人も神によって造られた事実は変わりない。そして、その人をどう用いるかも神の主権の範囲である。究極的には、善い人も、悪者も、神の計画のために造られたのである。たとえ自分が良いリーダー、良い政治家だと思わなくとも、何らかの理由で神はその権威を立てたのである。異議は唱えつつも、究極的には神の主権があるという点を覚えておかなければならない。

 

 クリスチャンの政治に対する基本姿勢をまとめると以下である。

1:クリスチャンは、為政者を尊敬し、権力に基本的には従い、納税の義務を果たし、法を遵守する必要がある(人として当たり前)

2:クリスチャンは、為政者のために祈る特権と義務がある

3:たとえ悪者であっても、神の創造物である。神はどんな人も、その計画のために用いる力と権威がある

 

 では、政治に対するクリスチャンの基本姿勢を踏まえた上で、投票先を選ぶ際の基準を見ていこう。

 

 

▼投票先を選ぶ際の基準1 <政策・理念>

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 クリスチャンであるかどうかに関わらず、投票先を選ぶ際に基本となるのは、政策と理念である。政策・理念と呼ばれるものの種類は多々あるが、大きく分ければ2つ種類がある。

<政策・理念>

1:選挙公約・選挙政策

2:所属政党の基本理念や基本姿勢

 1の「選挙公約・選挙政策」とは、文字通り、それぞれの政党や候補者が掲げている公約や政策を指す。もし選挙で当選したら、こういうことをやります。こういうことを実現したいです、と約束するのが選挙公約だ。大きな選挙の前には、それぞれの政党は必ず「選挙政策」を打ち出す。各々、ホームページに掲載されるので、主要な政党の政策はチェックすれば、それぞれの方向性は分かるだろう。候補者に関しては、それぞれの候補者のホームページやツイッターなどに個々の政策や公約について記載がある場合が多い。それぞれの政策を読み、単純に自分が魅力的だと思った政党や候補者に投票する。これがまず選挙においての原則だ。

 2の「基本理念や基本姿勢」というのは、選挙公約には記載されていないが、その党や候補者の基本的な方向性を指す。例えば、それぞれの政党は、大きく分ければ「保守・中道・革新」などの方向性に分けられる。その上で、自分が重要と思うテーマに沿って、それぞれの政党がどういう考え方なのかを調べる。

 例えば、安全保障についての考え方はどうか。日本が戦力を強化した方が良いのか。それともアメリカに頼る方向なのか。それとも武力は一切持たない選択をするのか。それぞれの政党がどう考えているのかを知る必要がある。社会保障・年金についてはどうか。経済政策はどうか。子育て政策はどうだろう。税金に対する考え方は? 農業政策は? 外交政策は? 憲法に対する考え方は? などなど・・・見るべき項目は多岐にわたる。

 また、外交・安保、経済などといった大きなテーマ以外に、個別の小さなテーマで各党の考え方を調べるのも大切だ。例えば、その政党はジェンダーの問題をどう扱っているか、調べる必要がある。中絶に関してはどうか。結婚観はどうか。捕鯨についてはどうか。女性活躍は? 自分に関係のある補助金は? 候補者の宗教的信念は? そういった、個人的な、かつデリケートなテーマについて、各政党や候補がどのような考え方をしているか、知る必要がある。特にクリスチャンにとっては、ジェンダーや中絶に関する問題は、信仰そのものと深く関わってくる。候補者の信仰や信条がもしあれば、それも大切になってくる。自分と正反対の考えの人には、なかなか投票するのも難しいと思う。

 幸いなことに、このインターネット社会では、容易に政党や候補者の情報を集められる。大切なのは、まず「オリジナルのホームページ」をチェックすることだ。報道やツイッター、匿名掲示板などにあふれる情報は、本当のものもあるが、ただのウワサもある。また、本当だが一部だけが切り出されている場合も多い。まずは、公式ホームページをチェックしてみよう。

 また、最近は政党や国会議員がツイッターyoutubeなど、様々なツールを用いて、自ら発信しているケースが多い。特にツイッターに個人的な主張を書き込む議員や候補者は多く、彼らの考え方を知るために、非常に有益である。ぜひ自分の選挙区の候補者のツイッターは確認しておこう。

 一点だけ、野党の政策を見る際に全て実現すると思わないように注意したい。もちろん、与党の政策も全て実現するとは限らない。しかし、野党時代に言える内容と、実際に政権運営をする上で実行できる内容は大きく異なる。それは、民主党政権交代した際にも十分わかっただろう。野党の言う政策は、基本的には政権を取らないと実現しない。同時に、与党が打ち出しているものも本当に実現するか怪しいものもある。選挙の際は往々にして耳ざわりが良い公約を打ち出しがちだ。

 それでは、政策によって投票先を選ぶのは無意味なのではないか。決してそうではない。なぜか。良い政策を打ち出した方が多く得票すれば、結果的に国民に利益となるからだ。それを考える上で、次のポイントが重要になってくる。

 

 

▼投票先を選ぶ際の基準2 <全体の政局>

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 さて、投票する候補者を選ぶ際に、政策の他にもう一つ重要な点がある。それは、全体の政局を考える、ということである。今は与党が強いのか、野党が強いのか。与党が勝てばどんな影響があるのか。野党がどれだけ議席を伸ばせば、政治にどんな影響があるのか等、全体の政治の流れを考える、ということである。

 参議院選挙においては、「選挙区」比例代表の2種類があるので、それぞれについて、私なりの考え方を述べる。

 

1:選挙区の考え方

 参議院選挙の選挙区においては、都道府県ごとに議席が割り振られる形になっている。今回、2019年の参院選では、東京で6人、大阪で4人が当選する。参院選は3年ごとに半数が改選するので、東京では12、大阪では8つの議席数があるということになる。人口が少ない地域だと、1人、合計2人しか当選しない選挙区もあり、これらは「1人区」と呼ばれる。

 残念ながら、特に参議院選挙の選挙区においては、投票が行われる前から、おおよその当選者は見えている。なぜなら、参院選は仕組み上、現職が圧倒的に有利な上に、選挙でモノを言うのは、候補者を支援するバックの企業や団体、後援会などによる「組織票」だからだ。投票率がべらぼうに高くなって「浮動票」が片方の候補に流れたり、2009年の民主党が大勝した時のような圧倒的な空気感がなければ、まず選挙情勢は覆らない。よっぽど候補者同士が競っている選挙区なら別だが、そういうところは少ない。それゆえ、「どこに投票したらいいか分からない」という人の票は「浮動票」となり、落選してしまうのが目に見えてしまう候補に投票しても、それはいわゆる死票となってしまうのである。

 ではどうしたらいいのか。私がオススメしたいのは、まず自分の選挙区の候補者の情勢を調べてみることだ。大抵の場合、前回の選挙結果を見れば、おおよその結果は予測できる。また報道を見れば、どの候補が優勢だとか、誰と誰の争いなのかが、ぼんやりと見えてくるだろう。「死票」はもったいないので、競っている候補の中から(たいてい1人の圧倒的勝ちか、2人で競る形が多い)、自分が賛同したい政党や候補に投票すれば良い。もちろん、負けると分かっていても、自分の応援したい政党の候補、自分が賛同したい政策を訴える候補がいれば、その候補に票を入れるのは当然である。

 しかし、よく分からないという人には、オススメの方法がある。それは、「与党か野党か」と考える方法だ。特に、今回の参議院選挙の「1人区」(当選するのが1人だけの選挙区)においては、野党は候補を「一本化」した。

 一本化というのは、主な野党(立憲民主党、国民民主党共産党社民党など)が野党同士で候補者のバッティングしないように調整することを意味する。例えば、A地区では立憲民主党の候補を出す代わりに、B地区では共産党の候補を出す、といった具合に調整している。こうすることによって、政権与党への「批判票」を一本化することができ、地域によっては与党と対等な勝負ができるのだ。野党系の候補の中には、様々な事情で「無所属」として出馬する人もいるが、多くは元々共産・革新系の候補だったりする。検索すればすぐに出てくるので、調べてみよう。

 

 まとめると、議席が1つか2つしかない選挙区の考え方はシンプルだ。「自公の政権与党にこのまま続けてもらう」のか、「今の政権与党には不満なので、ちょっとお灸をすえたい」のか、どちらかである。前者であれば与党系の候補者、後者であれば野党系の候補者に投票すれば良い。後者の場合、たとえ与党側が勝利しても、票差が肉薄すれば与党側は理不尽な行為はしにくくなる。あなたの一票は、十分けん制になりうるのだ。逆に与党側への投票は、今の政権・与党に対する十分な後押しになる。自分の考えによって、「与党側」「野党側」への投票を考えたらいいと思う。

 議席数が多い都市部では、少し様相が違う。例えば今回の参院選で、東京では6人が当選する。それだけ枠があると、各党がそれぞれ候補者を擁立する。自民党立憲民主党は、ひとつの政党から2人も擁立する。大阪でも日本維新の会が2人擁立する。議席数が多い選挙区では、自然と最後の1~2議席をめぐって接戦となる場合が多い。例えば、前回の参議院選挙の結果を見てみよう。

<2013年参院選東京選挙区の結果>

(敬称略)(※当時は5議席当選※)

1位:丸川珠代自民党)106万4660票

2位:山口那津男公明党)79万7811票

3位:吉良佳子共産党)70万3901票

4位:山本太郎(無所属)66万6684票

5位:武見敬三自民党)61万2388票

===(落選)===
6位:鈴木寛民主党<当時>)55万2714票

7位:小倉淳(維新<当時>)41万3637票

(以下略)

 

 ご覧いただければ分かるが、これだけ議席数が多いと、自然と「自民」「公明」「共産」「無所属or民主など野党系」+アルファという結果になることが分かる。今回の選挙は、ほとんど同じ人たちが改選なので、正直、現職の「自民(丸川)」「公明」「共産」の当選は堅い。当時なかった立憲民主党もおそらく1議席は確実に獲得する。山本太郎氏は「れいわ新選組」を立ち上げ、自身が東京選挙区から出馬するかまだ不透明だ。

 となると、残る1~2つの議席を「自民2人目」「立憲民主2人目」「その他(国民民主、維新など)」で争うという構図になる。つまり、支援する政党や候補者が明確でない、誰に投票するか迷っている人にとって、上位4人に投票してもあまり意味はない。先に述べたように、上位層はほぼ当選が確実だからだ。それらの人にとって、実は選択肢は「与党第一党の2人目候補」または「野党第一党の2人目候補」しかない。

 先に述べたように、投票先を迷う人にとっては、「今の政府・与党を後押ししたい」のか「今の政府・与党にお灸をすえたい」のかの2択で考えるのをオススメする。そう考えた時に、実はこの2つの選択肢しかないのだ。もちろん、明確に後押ししたい政党や候補者がいれば、その人に投票すれば良い。しかし、政治全体を見た時に、当選するかしないかの瀬戸際の人に投票すれば、その他の泡沫候補に入れるよりも、1票の影響力は格段に増す。

 

2:比例代表の考え方

 参議院選挙は「選択区」のほかに、比例代表がある。つまり、1人2票入れる仕組みになっている。「選挙区」は「候補者」に対して票を入れるが、「比例代表」は「候補者名または政党名」を記載して投票する。つまり、より政党色の強い戦いになるのだ。衆議院は選挙区で落ちた候補が「比例復活」するが、参議院選挙に「比例復活」は存在しない。選挙区の候補は選挙区のみ。全国比例の候補は比例のみの立候補になる。

 つまり、比例代表は主に「政党」に投票するものだといって過言ではない。参議院選挙の比例代表は、候補者名や政党の名前を書けば、その得票数に応じて、各党の当選者数が決まる。その後で、候補者名を多く書いてもらった人順に当選が決まる。

 例えば同じ政党内で5人が比例で立候補したとしよう。各自の「候補者名」での得票は以下であったとしよう。

・ペテロ候補:3500票

ヨハネ候補:5000票

・アンデレ候補:1200票

・ユダ候補:800票

ヤコブ候補:2800票

 この党の中から、比例の計算によって3人が当選することになった。その場合、得票が多かった順番に、「ヨハネ候補」「ペテロ候補」「ヤコブ候補」の当選が決まる。「アンデレ候補」と「ユダ候補」は落選となる。

 つまり、比例代表であっても、候補者名をいかにたくさん書いてもらうかが勝負になる。つまり、ただ政党名を書くよりも、候補者名を書いた方がより1票の影響力があるということになる。この場合のオススメは、

1:まず応援したい政党を決める

2:その次にその中で応援したい候補を決める

3:その候補の名前に投票する。

 というやり方だろう。

 クリスチャンにとっては、投票先は特に明確である。詳しくは後述するが、特別な事情がない限り、クリスチャンにとって「公明党」と「共産党」には投票はしにくいだろう。しかも、「公明党」と「共産党」は組織の力で当選者の数がほぼほぼ読めている。そこから大きく増えたり減ったりしないのが目に見えている。それゆえ、投票する意味は、あまりないかもしれない。

 この場合も、私なりのオススメは、特段自分が応援したい政党が強烈にない場合は、「政権与党を応援する」のか、「野党第一党を応援し、政権にお灸をすえる」のか、という目線で候補者を選ぶということだ。もちろん、それ以外に応援したい政党が個別である場合は、その限りではないが・・・。

 ただ、「2大政党制」を目指す「小選挙区制度」の選挙においては、前提として「与党第一党」か「野党第一党」以外への投票は、大局的にあまり意味がないと言えてしまうかもしれない。

<まとめ>

・まず自分の選挙区の候補者を調べる。肉薄しているのか、圧倒的な差があるのか考える。

・応援したい政党や候補者がいない場合は、「政権与党を後押しする」のか「政権与党にお灸をすえる」のかという目線で投票先を考えてみる。

前者の場合は与党第一党に、後者の場合は野党第一党野党統一候補)への投票を考えてみる。当選議席数が多い地域は、接戦となる最後の数人は誰か情報を集めてみる。

・もちろん、政策や理念を第一優先で考えることを忘れずに。なぜなら、投票結果によって、政党は政策の路線変更を余儀なくされるからである。国民がしっかり投票すれば、結果として国民の利益になる。

 

 

▼政治と関わる際にクリスチャンが気をつけるべきこと

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 さて、ここまでは投票の基本を述べたが、クリスチャンがそれ以上に気をつけるべき点がある。それは何か。日本の主要政党の中には、宗教的なものがバックグラウンドにあるものが多い。それらの政党との関わりについて、クリスチャンは細心の注意を払うべきである。以下、2つだけ具体的に述べる。

 

1:共産党マルクス主義

 まず最初に挙げるべきは共産党の存在だろう。共産党の根幹にある考えは、キリスト教の考えとは真っ向から対立するものである。詳細を述べるのはこの記事では避けるが、共産党の根幹的な考えとクリスチャンの考えは、本来は相容れないものである。

 そのような根本的な価値観の不一致があるからこそ、クリスチャンは共産党共産党系の団体との付き合いに細心の注意を払うべきである。なぜか。以前、記事に書いたが、クリスチャン・教会の共同体・団体が、政治、特に共産党に深く関わると、政治団体に利用される危険性が高いからである。いや、既に利用されている教団・団体がある。残念ながら事実だ。既に共産党は、某キリスト教団体との「対話」を複数回にわたって行っている。共産党からすれば、いい票田なのだろう。特定の政治思想にキリスト教団体が利用されてしまっているのは、私は悲しく思う。

 確かに、共産党が掲げる「弱い人に寄り添う形の政策」や、「平等の精神が見える政策」などは、もしかすると聖書に通じるものも「一部」あるかもしれない。しかし、それは表に見えている一部の要素に過ぎない。根幹が聖書・キリスト教の思想と全く相容れないのに、どうして共産党とクリスチャンが仲良くできるだろうか。私は疑問に思う。また、有り体に言えば、共産党の政策は絶対に実現しない。共産党は永遠に野党だからだ。「確かな野党が必要です」というフレーズもあっただろう。仮に実現するとすれば、それは「革命」が起きた時だけだ。だから、正直、共産党の政策に共感して投票する意味はほとんどないといえるだろう。

 

2:創価学会立正佼成会神道幸福の科学など

 さて、今度はもっと反論が少ないであろう明らかな指摘をしたい。それは、創価学会」「立正佼成会」「日本神道」「幸福の科学」などの他の宗教がバックグラウンドにある政党や候補者に注意しようという指摘である。クリスチャンである以上、他の宗教を信奉する政党や候補者を応援しにくいのは、論じるまでもないだろう。

 公明党創価学会とイコールであるのは、誰でも知っている常識だ。ゆえに、クリスチャンは公明党公明党の候補も応援できない。それに、公明党創価学会信者たちが票を集めるので、一般人が投票する意味は、正直あまりない。

 また、候補者の中には仏教系の立正佼成会がバックグラウンドにある候補が複数いる。ウィキペディアなどに載っているので、気になった人は検索してみると良い。この場合も、クリスチャンである以上、なかなかそのような候補は応援できない。

 与野党問わず、議員の中には、神道を本気で信奉する人もいる。この場合は、候補者のホームページやツイッターなどを見れば、分かるかもしれない。あまり宗教性が強い場合は、クリスチャンとして投票するのはどうかとも思う。ただ、神道にどこまで宗教性があるかというと、私は微妙だと思うので、細かい点は個々が祈りつつ判断すれば良いとは思っている。

 幸福の科学は言うまでもないが、新興宗教であるし、そもそも泡沫候補の限りを尽くしたみたいな存在なので、応援する人は信者以外にいないだろう。

 その他、政治の世界には、宗教がかなりの度合いで関わっている場合が多い。クリスチャンである一有権者であるあなたは、自分の選挙区の候補者を真剣に吟味する必要があると覚えてほしい。投票先に宗教的なバックグラウンドがあるかないか、問題であるかないかを吟味した上で、祈って判断する。これがクリスチャンにとって必要な姿勢だと思う。

 

 

▼投票しないという選択肢の是非

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 最後に、「投票しない」という選択肢の是非について軽く述べたい。有権者の中には、「そもそも投票に行かない」とか、「白票で投票する」という人もいるだろう。政治には期待できない。誰がなっても一緒。どの政党も信じられない。・・・確かにその気持は分かる。特に、民主党政権が「失敗」した今、野党に対する期待が相対的に薄いのも現状だ。支持率がそれを如実にあらわしている。

 しかし、私は「投票しない」という行為は、政権与党や大きな支持母体を持つ政党を利するだけだと指摘したい。実際、投票率が下がれば下がるほど、必ず投票に行く組織・団体の組織票が全体の割合として増える。その結果、組織票を持つ候補だけが当選するようになる。それならば、政党や政治家は、自分を応援してくれる企業・団体だけにこびへつらえばいいことになる。その結果が、今の政治の状況だ。

 イスラエルのように、投票率がべらぼうに高くなれば、(※例えば、2015年の選挙は投票率は72%だった)国民的議論が巻き起こり、政府・与党もいいかげんな政権運営ができなくなる。しかし、国民が政治に関心がなくなると、やりたい放題だ。現実的に、今の政府の姿勢はどうだろう。財務省は文書を改ざんし、防衛省は日報を隠蔽し、厚労省はデータ正しく計算していない。国会は空洞化し、まともな議論がされていない。しかし、政権・与党の支持率は高いままというのも、データが示す現状である。

 これでいいのだろうか。もし良いと思わなければ、少なくとも投票に行き、今の政府に対して、賛成でも反対でも、何かしらの意思を示すべきではないだろうか。若い人ほど、投票率は低い。18歳に選挙権が引き下げられてもなお、若者は投票に行かない。するとどうなるか。各政党は、投票に行くシニア世代の方ばかりを向いた政策を主張するようになる。当たり前だ。投票に行く層にアピールした方が、票になるからだ。私は、投票という「権利」を行使しないのは良くないと思う。先人たちが大変な努力をして、ときには血を流してやっと国民が獲得した権利が「投票」である。主権者たる国民として、投票に行くのはとても大切である。

 

 

▼この世に寄留するクリスチャンとして

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 ここまで様々述べたが、クリスチャンとして覚えて置かなければならない点がいくつかある。まず、本当の主権者は国民でも政府でも議員でもなく、この世界を造った神ご自身である。神の右の座に座っているイエスは、いつの日かこの地上に戻ってくる。そして、イエスは王として君臨する。イエスは、新しい天と地を創造する。私たちは新しいエルサレム、都の住人となる。これがクリスチャンが持つ希望である。

 つまり、クリスチャンはこの世にあっては寄留者なのだ。この世にいる間は、仮住まいなのだ。エスという完全な主権者、王が来るまで、この世の政治は結局、不完全なままである。当たり前だ。民主主義そのものが、不完全な人間が不完全な人間をリーダーに選ぶという、欠陥だらけの制度なのである。民主主義が人間の最高傑作などといった人間至上主義を唱えたフランシス・フクヤマなんていう人は、人間の愚かさが分かっていない。しょせん、不完全な人間が、不完全な代表を選ぶ選挙である。政治に過度な期待をするのも、クリスチャンとしてはおかしな話なのである。

 しかし、この仮住まいの間は、その権威の下で様々なルールが決められるのも、また確かである。無関心ではいけない。私たちクリスチャンは、この世の権力者のために祈りつつ、彼らが1人でも主イエスに出会うことを願うべきである。そして、よく調べ、考え、祈った上で、自分に与えられた「投票」という権利を用いるべきだ。そう私は考える。

これらの人たち(旧約の先人たち)はみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出てき来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

(ヘブル人への手紙 11:13~16)

その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、はずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

(ピリピ人への手紙 3:20)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。