週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【提起】おすすめの聖書の読み方4選!

聖書を読んでみようと思っているけど、どこから始めていいか分からないアナタ! 私なりのオススメの聖書の読み方を4つご紹介します。

 

 

▼聖書を読もう!

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 聖書は、最高の本である。読んでも読んでも飽きない。聖書は、底の知れない真理で溢れている。私は、仕事中も暇さえあれば聖書を読んでいる。社会人としては失格だが・・・(笑)

 よく、「聖書を全部読んだんですか」と聞かれるが、もちろん答えはイエス。「聖書って1回以上読むものなんですか」とも聞かれるが、答えはイエス。「同じ本を何度も読んで面白いんですか」とも聞かれるが、答えはイエス読むたびに、まるで玉ねぎの皮をむいているように、その度に新しい発見がある。それが聖書である。聖書を読む体験は素晴らしい。超ウルトラスーパーオススメ。なぜオススメかは、先週の記事を参考にしていただきたい。

 でも、そんなこと言っても、聖書は分厚い本である。手にするだけで、読む気が失せるのも分かる。文体も、古代のヘブライ語アラム語ギリシャ語で書かれたものなので、日本語ではどうも読みづらい。大体、どこからどう読んでいいかも分からない。

 そんなアナタに、私なりのオススメの「読み方」を4つ紹介したいと思う。もちろん、これらは「正解」ではない。いろんな読み方がある。この4つを複合的に組み合わせて読むのもアリだ。あくまでも、「私のオススメ」として、参考にしていただきたい。

 

 

▼読み方1:通読型

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 第一のオススメは「聖書通読」である。文字通り、聖書の最初から最後まで、通して読む方法である。聖書には、「章」や「節」がある。これは、聖書の原典には当然ないのだが、聖書があまりにも長いため、便宜上割り振られた「住所」のようなものである。この「章」を基準に、1日に読む目安を決めて、毎日、または継続的に読むようにすると、続けやすい。

 具体的には、1日に4章読むと、毎日読めば1年で聖書を読破できる。4章というと、膨大に聞こえるかもしれないが、ページ数にすると、意外と少ない。例えば、創世記1章~4章までは5ページちょっと。マタイの福音書1章~4章までも、5ページちょっとである。聖書の中で一番長いのは、詩篇119編であるが、それでも10ページ弱である。4章分を読む分数を換算しても、数分~10分というところだろう。意外と、続けられそうではないか。

 世の中には、便利なことに「聖書通読表」というものがある。読んだ場所を塗りつぶしていくカードのようなものだ。私は、日本聖書協会が10部で200円という破格で提供している、聖書通読表をオススメしたい。ここから聖書通読表を購入できる。

www.bible.or.jp

 

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↑私が使っている「聖書通読表」

 小学校の頃の「なわとびカード」のように、読んだ場所が埋まっていくというのは、意外と楽しい。「聖書通読表」はシンプルで、自分のペースに合わせて使えるので、オススメだ。「新改訳聖書」に対応していないのが玉にキズだが、正直聖書の区分は変わらないので、「新改訳」ユーザーは、「口語訳」のバージョンを使えば問題ない(「新共同訳」は、「外典」がついていたり、章の区分が多少異なる)。

 同じページにある「一年聖書通読日課表」は、1年で1周できるよう、あらかじめ読む場所が割り振られているカードである。自分で読む場所が決められないという人は、こちらもオススメである。カードに書いてある場所を読むだけ。カンタンである。だけれども、人間忙しいので、読めなかった日があったりすると、このやり方は挫折しやすい。自分に合ったカードを使ってみよう。

 他にもこんなカードもある。これは、「日課表」と同じで、読む場所が決められている方式だ。こちらはすぐにダウンロードできるが、ちょっとクオリティに難があるのが惜しい。

biblestyle.com

 1日数分~10分、4章、約5ページ読むだけで、1年で聖書を読み切れる。8章読めば、半年で。16章読めば、3ヶ月で読み切れる。意外とカンタンじゃないだろうか。このやり方のメリットは、続ければ誰でも聖書を1周読めるという点にある。

 でも、頭から読んでいくと、どうしても苦手な文体や場所にぶち当たった時に、挫折しがちだ。そんな人にオススメしたいのが、次の読み方である。

 

 

▼読み方2:バランス型

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 次にオススメしたいのが、「バランス型」の読み方である。どういうことか。聖書は、実は様々な「本」の集合体である。旧約39巻、新約27巻の、全部で66巻ある。様々な区分があり、ざっと挙げると、以下のようになる。(ちなみに、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)では、トーラー、ナビイーム、クトビームの3つの区分がされているが、今回はわかりやすくするためキリスト教の区分に限る)

 

旧約聖書

モーセ五書・トーラー>

創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記

 

<歴史書

ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記

 

<知恵文学・諸書>

ヨブ記詩篇箴言、伝道者の書(コヘレトの言葉)、雅歌

 

<預言書>

イザヤ書エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、オバデヤ書、ナホム書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書

新約聖書

福音書

マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書ヨハネ福音書

 

<書簡・手紙>

使徒の働き(使徒行伝)、ローマ人への手紙、コリント人への手紙(第一、第二)、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロニケ人への手紙(第一、第二)、テモテへの手紙(第一、第二)、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙(第一、第二)、ヨハネの手紙(第一、第二、第三)、ユダの手紙、ヨハネの黙示録

 

 このように大きく分けると、聖書は、旧約4種類、新約2種類の合計6種類に区分できる。第二のオススメの読み方は、この区分ごとに少しずつ聖書を読んでいくやり方である。例えば、以下のように読む。

<1日に読むスケジュール例>

モーセ五書から1章

・歴史書から1章

・知恵文学から1章

・預言書から1章

福音書から1章

・書簡・手紙から1章

合計:6章

 この読み方のメリットは、バランスよく聖書を読める点である。しかも、聖書は横断的に「伏線」が隠されているため、このように分割して読むと、モーセ五書で読んだ伏線が、その日読む福音書で回収される、なんていう発見もできたりする(しかも、けっこう頻繁に体験する)。これは、私もいまだに実践しているオススメの読み方だ。

 1章ずつだと覚えきれない、頭がついていかないという人は、こんな読み方もアリだ。

<1日によむスケジュール例>

モーセ五書、歴史書、預言書から3章

詩篇を1編

福音書や手紙から2章

合計:6章

 

 もっともっと読みたいという人は、こんな読み方もアリだろう。

 <1日に読むスケジュール例>

モーセ五書から3章

・歴史書から3章

詩篇から1編

・預言書から3章

福音書から2章

・書簡・手紙から2章

合計:14章

 このように、バランスよく読めば、「レビ記でつまずいた」とか、「歴代誌で飽きた」とか、「エゼキエル書で挫折した」とか、「新約聖書ばっかり読んでる」みたいな、ありがち挫折パターンから逃れられる。

 「旧約聖書がなかなか読み進められない」という声は、クリスチャン界隈ではよく聞く。しかし、実は、旧約聖書が分かるようになると、新約聖書がもっと面白くなるのだが・・・。旧約聖書が苦手な人は、この「三角食べ」のようなバランス型の読み方を試してみてはどうだろう。

 

 

▼読み方3:3色ボールペンで聖書汚し型

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 3つ目のオススメの読み方は、「3色ボールペンを使う」というものである。どういうことか。別に4色でも5色でも、蛍光ペンでもいいが、とにかく色ペンで聖書に書き込みまくる! というものである。

 色分けの基準は、自分で決めれば良いが、参考までに私が小中学生頃からやっていた「色分け」のやり方をお示しする。

<3色ボールペンの使い方の例1>

赤:印象に残った箇所

青:新しい発見をした箇所

緑:意味が分からなかった箇所、疑問に思った箇所

<3色ボールペンの使い方の例2>

赤:「愛」など、神様のポジティブな印象を受けた箇所

青:「戒め」など、神様の恐ろしい印象を受けた箇所

緑:自分が読んで教訓を得た箇所とその教訓

<3色ボールペンの使い方の例3>

赤:特に気になった箇所に線をひく。

青:その時、自分のテーマになっている語彙にマルをする。

緑:繰り返し使われている語彙、キーワードにマルをする。

 

 色分けをすると、聖書が視覚的に見えてくるのでオモシロイ。そう、このやり方のメリットは、聖書を立体的に読めるようになるという点である。再びそのページをめくった時に、そのページに自分がどのような印象を受けたのか、読み込まなくても分かるようになる。また、色塗りは基本的に楽しい行為なので、自然と読むのも楽しくなる。

 また、以前自分が使っていた聖書をひらくと、当時の自分がどのような印象をもってその言葉を読んでいたかが明らかになる。私は、小学校6年生から聖書を読みはじめ、16歳でイエスを本当に信じた。その間に読んでいた聖書をひらくと、神が人間を罰したり、戒めたりする箇所ばかりに線が引いてあった。イエスを本当に信じるまでは、「良い行い」が人を「救う」と考えていたので、その反発で、罪を犯したり、「失敗」するのを、必要以上に恐れていたのである。心の状態が、聖書に線を引く行為で、後に明らかになったのである。

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↑私の書き込み例。「霊」と「肉」が対比されているのがわかる。「しかし」を三角で囲うの、懐かしい感じがしませんか?

 線を引くだけでなく、様々な書き込みを余白にするのも、とても大切だ。聖書はどんどん汚したほうが良いというのが、私の持論だ。たまにカッコつけて「線を引かない」という主義者もいるが、私は格好悪くても線を引きまくって、神様についてもっと知れた方が良いと思う。人に見せるためにではなく、自分のためにやっているのだから。

 人間は、忘れやすい生き物だ。聖書を読んだ時の感動を、今すぐ聖書に書き込もう。ノートより、聖書そのものに書き込む方が、私はオススメだ。ノートはほとんどの人が見返さないが、聖書は見返すからだ。もし古くなったら、買い換えればいい。聖書はただの紙とインクである。たまにボロボロになっても同じ聖書を自慢げに使い続ける主義者もいるが、私は「読みにくくないのかなぁ」と思ってしまう。聖書はどんどん使い古したほうが良いと、私は思う。

 

 

▼読み方4:じっくり研究型1<SOAP

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 最後のオススメは、「じっくり研究する」という読み方である。この読み方は、「通読」「バランス」「ボールペン」のような、サラッと読むようなものではない。じっくり腰を落ち着け、コーヒーの一杯でも入れて、「さぁ、かかってこい」という感じで、聖書の言葉を研究するのである。この場合、ほとんどが1章や、それ以下の短い箇所を、とことん研究するといったやり方である。

 

SOAPという読み方>

 例えば、巷でSOAP」(ソープ)と呼ばれる読み方がある。SOAPというのは、要素の頭文字を表したものだ。

SOAPの要素>

S=Scripture(聖書の言葉)

O=Observation(観察)

A=Application(適用)

P=Pray(祈り) 

 この4つの順番で聖書を読むというものである。まず「聖書の言葉」をじっくりと読む。その上で、読んだ言葉を、じっくり「観察」する。この「観察」のプロセスが最も大切である。聖書の言葉を読むだけでなく、観察しまくる。キーワードは何か。この章にタイトルをつけるとしたら何か。代名詞は何を指すか。特定の用語は何回用いられているか。同じ表現は聖書の他の部分に出てくるだろうか。動詞は自動詞か他動詞か、受け身か、etc・・・高等教育を受けた人なら、「現代文」のやり方と言えばピンとくるだろうか。

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↑私の書き込み例。「心」と「思い」が並列表現になっている。

 「聖書の言葉」を「観察」した上で、その言葉は自分にとってどんな意味があるのか考える。これが「適用」だ。聖書は読むだけでは意味がなく、その言葉をどう捉え、どう自分の「生き方」を変えるのか考え、実行するのが大切である。

 その上で、最後に「祈る」。自分の力だけでは、真に聖書は理解できないし、それに応じた「適用」もできない。神の力、聖霊の力が必要である。それゆえ、祈るのである。これが、SOAPという聖書の研究の仕方である。

 

 ちなみに、「観察」の過程のひとつとして、「ローマ人への手紙」とか「ヨブ記」といったような聖書の「本」まるまる1巻をチャート分けするという研究のやり方をする人もいる。章や節といった概念を取っ払い、自分で新たに区分けやタイトル付けをし、キーワードは何か、メインテーマは何か、チャートを作るというものだ。私も、何冊かでやったことがあるが、知っているようで知らなかった聖書の体系が分かるので、時間がある人にはオススメだ。

 

 

▼読み方4:じっくり研究型2<IBS

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 もう一つが、IBS(Inductive Bible Study)というやり方である。日本語では「帰納的聖書の学び」と言われるが、何のこっちゃ分からない。カンタンに言えば、「聖書から聖書を学ぶ」という意味である。つまり、何かテキストとか、他のものを使わず、聖書の言葉そのものから、その内容を理解しようとするやり方である。先に挙げた「SOAP」と似ているが、IBSの基本的なやり方を紹介する。

IBSの3つの段階>

1:Observation(観察)

2:Interpretation(解釈)

3:Application(適用)

 

<Observation・観察のやり方>

 まず、徹底的に聖書の本文を「観察」する。例えば、基本的な「5W1H」を書き出してみる。「何が、いつ、どこで、誰が、なぜ、どうやって」を書いてみる。これが、意外と難しい。テキストを見て、何が起こったのか、いつおこったのか、誰が登場するのか、なぜこうなったのか、どうやって起こったのかを書いてみよう。

 その上で、今度は以下のような点に注目してみよう。

<観察する際の注目点>

1:繰り返し使われている表現、キーワード

2:独特な表現や言い回し

3:比較(A>B)、並列表記(A≒B≒C)

4:比喩的な表現(直喩、隠喩)

5:疑問に思う点(多くの場合、解釈のカギとなる)

 このような点に注目すれば、自ずと、テキスト自体が伝えたいメッセージが見えてくる。その上で、次のステップに移る。

 

<Interpretation・解釈のやり方>

 さて、観察した結果、得た情報をもとに、聖書が伝えるメッセージを解釈する。この際、とても大切なポイントが5つある。

<解釈する際の注意点>

1:文脈に注意する

2:時代背景に注意する

3:用語の意味に注意する

4:文法に注意する

5:聖書全体の解釈とのバランスに注意する 

 まず大切なのが、文脈だ。誰が、誰に対して、どんな目的で語っている場面なのか知る必要がある。それは命令なのか、オススメなのか、戒めなのかを捉える必要がある。文脈抜きに聖書の言葉を「抜き出す」と、とんでもない解釈が可能となってしまう。

 また、時代背景も大切だ。旧約なのか新約なのか。当時の文化背景は。社会状況はどうか。聖書の言葉が書かれた時代状況を加味しないと、これまたどんでもない解釈が生まれてしまう。

 用語の意味に注意も必要だ。この際、ヘブライ語ギリシャ語の意味合いに注意する必要がある。以前このブログでも述べたが、例えばヨハネ福音書21章15節~19節の「愛する」という単語は、「アガパオー」と「フィレオー」という2種類のギリシャ語が使われている。この意味の違いを捉えないと、適切な解釈はできないのである。また、同じ意味で、ヘブライ語ギリシャ語の文法にも注目する必要がある。

 最後に、これが最も大切だが、自分の解釈が「聖書の他の場所のメッセージと整合性が取れているか」という視点が必要だ。例えば、「神は喜んで与える人を愛してくださる」(コリント人への手紙第二9:7)と書いてあるからといって、「たくさん献金する人ほど愛される」という解釈にはならない。聖書の他の箇所と整合性が取れないからだ。例えばレプタ銅貨を投げ入れた未亡人が、イエスに一番評価された箇所と、どう整合性をつけるのかという問題になる。聖書全体のメッセージと、いかにバランスをとるかが、解釈する上で一番重要である。

 

<Application・適用のやり方>

 さて、最後に「観察」して「解釈」したものを、自分の人生に「適用」する。ここが正直一番難しい。全ての言葉が、現代の私たちに当てはまるとは限らないからだ。以下は、単純に「適用」のコツだけを並べて書いておく。

<適用する際のコツ>

1:自分にとって、どういう意味があるのか考えてみる

2:自分の生活態度で、変えるべき点はどこか考えてみる

3:どう祈ってみたらいいか、考えてみる

4:できたら、一部、暗記してみる

 適用は、なかなか良し悪しで判断できるものではない。それぞれのやり方で得た考えを、人生に当てはめてみてはどうだろうか。「千里の道も一歩から」。小さなことから始めてみよう。1日に100章読んで何もしない人より、1章読んで実行する人の方が、意味があると思う。

 また、多くの人がすぐにネット上の記事や、牧師や教師の意見に頼りがちである。まずは聖書そのものを自分で読み込み、聖霊の知恵を求めつつ学ぶのが大切だ。こんなブログを読むより、聖書の1章でも読んだ方が、実はあなたのためになる!

 

 いかがだっただろうか。以上、私がオススメする、4つの聖書の読み方である。今日から、少しずつでいい。1章でも、1節でも聖書を読み始めてみてはどうだろうか。その一助になれば、私も幸いである。

 

 

▼おまけ1:聖書を読む習慣をつけるコツ

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 おまけに、「どうしても聖書が読み進められない」という人のために、私なりのオススメを短くまとめてみる。

 

<1:読む時間・シチュエーションを決める>

 一番のオススメは、「読む時間を決める」というものである。これが、一番の習慣づけになる。ダイエットと同じで、聖書はひとたび習慣になれば、スイスイ読めてしまう。正解はない。「朝起きて読む」「寝る前に読む」「お昼休みに読む」。なんでもいい。

 シチュエーションを決めるのも大切である。「ベッドの上で」「自宅の机で」「リビングで」。正解はない。自分に合ったものを見つけよう。私は、通勤の地下鉄の中で読んでいる。意外と集中できるので、通勤電車、オススメである。時間的にちょうどいいし、通勤時間は、どんなに忙しくても必ず発生する時間なので、毎日続けやすいのである。読むのが苦手という人や、車通勤の人は、「オーディオバイブル」(聞く聖書)なんていうものもある。

www.gospelshop.jp

 

 

<2:誰かとバディを組んで読む>

 ダイエットも同じだが、誰かとバディを組んでやると続けやすい。私が集う教会のコミュニティのメンバーでは、有志の何人かでLINEグループを作り、その日読んだ聖書箇所を報告するというやり方を自主的に行っている。自慢するためでなく、単純にお互いに続けるために行っている。「誰かに報告する」というモチベーションがあるだけで、1人で読み続けるより、圧倒的に続けやすくなる。

 

<3:聖書通読表をつける>

 くだらないと思うが、表をぬりつぶすだけで、モチベーションになるものだ。私もいまだに塗りつぶしている。ダイエットも、自分の体重を毎日測って記録するだけで、効果があるという。聖書も、自分が今どこを読んでいて、どこを読んでいないか、「視覚化」するのが大切である。これだけで、何もしないより、グンと続けやすくなる。

 

 

▼おまけ2:さらに研究するために

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 さらに聖書を研究したい! という人にオススメの3つのポイントを挙げる。

 

<1:違う翻訳で読んでみる>

 当たり前だが、聖書は「翻訳された書物」である。それゆえ、翻訳のパターンによっては、全く違う表現も見受けられる。例えば、以下をご覧あれ。全部同じ聖書の部分の翻訳である。

私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。

(ピリピ人への手紙 4:17 新改訳聖書2017)

贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。

(フィリピの信徒への手紙 4:17 聖書協会共同訳)

私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。 

(ピリピ人への手紙 4:17 新改訳聖書3版)

贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。

(フィリピの信徒への手紙 4:17 新共同訳聖書)

わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。

(ピリピ人への手紙 4:17 口語訳聖書)

贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。 

(ピリピ人への手紙 4:17 リビングバイブル)

 

 同じ部分でも、これだけの違いが出るのである。面白い。中には、ほとんど意味が違うのではないかという部分もある。ぜひ、ひとつの翻訳だけでなく、様々な翻訳を比べて読んでみることをオススメする。

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↑違う翻訳を読むと、以前の翻訳との違いが目につく。

 

<2:違う言語で読んでみる>

 さらに発展して、違う言語ができる人は、違う言語で読むのをオススメしたい。英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語、インドネシア語、韓国語、中国語、ラテン語、などなど・・・聖書は様々な言語で翻訳されている。

 私の知人の家族は、南太平洋の国、パプア・ニューギニアで聖書を翻訳していたそうだ。パプア・ニューギニアには、100を超える言語があると言われているが、担当したのはメラメラ語という言語だったらしい。聖書には「罪が雪よりも白くなる」という表現がある。しかし、パプア・ニューギニアには「雪」が降らないので、現地の人には理解できないし、「雪」にあたる言葉がなかったそうだ。翻訳者は、苦悩した上で、「雪」の部分を「ケアケア」という真っ白な鳥に置き換えたそうだ。これだけでも、面白いと私は思う。

 特に英語は、本当にたくさんの翻訳がある。主要なものだけでも、KJV、NIV、NLT、NASB、ESV、BSB、CSB、CEB、NETなどなど、数え切れない。英語が少しでもできる人は、ぜひ様々な翻訳を見比べてみるようオススメする。

 

 私は普段、このウェブサイト・アプリで英語の翻訳を見比べている。(無料!)

<ウェブサイト>

biblehub.com

<アプリ>(iphone/Android対応)

biblehub.com

  翻訳を一覧で見るだけでなく、原語や用例までチェックできるので、オススメだ。

 

<3:ヘブライ語ギリシャ語をチェックする>

 最後に、これが最も重要だが、ヘブライ語ギリシャ語などの原語をチェックするのが大切だ。学者レベルの人からは、それでも不十分と言われそうだが・・・。なぜなら、「原典」といってもどこからが原典なのかハッキリしないため。聖書は基本的に写本しか残っていないのである。が、しかし、とにかく翻訳する際に「底本」となっているものをチェックするのは大事だ。

 幸いなことに、現代ではヘブライ語ギリシャ語を「神学校」でわざわざ学ばなくても、英語ができれば丁寧な解説をウェブサイトやアプリで調べることが可能だ。以下、私が普段使っているアプリを2つオススメしたい。どちらもスマホに導入可能!

 

1:Blue Letter Bible(無料!)

iPhone用>

Blue Letter Bible

Blue Letter Bible

  • Blue Letter Bible
  • 辞書/辞典/その他
  • 無料

 <Android用>

play.google.com

<パソコン用>

www.blueletterbible.org

 

2:e-sword(安い!)
iPhone用>

e-Sword LT: Bible Study to Go

e-Sword LT: Bible Study to Go

  • Rick Meyers
  • 辞書/辞典/その他
  • ¥360

 <パソコン用>

www.e-sword.net

 

 これらのアプリを使えば、

ヘブライ語ギリシャ語の意味

・同じ単語が使われている他の聖書箇所

・何回その単語が使われているか

・その単語が他にどう訳されているか

 などをカンタンに調べられる。一網打尽! インターネットが普及する前は、このようなヘブライ語ギリシャ語の解説は、神学校の図書館に行かなければ分からなかった。しかし、今や誰でも簡単にチェックすることができる。しかも(ほぼ)無料で。サンキューテクノロジー! もはや学校に行かなくとも、誰でもこのような情報にアクセスできる時代になったのだ。

 だから、まずは自分で学んでみよう。聖書は、アナタの人生を変える。そして、読んでも、読んでも、読みまくっても、飽きない。面白い。何千年も人間が研究しても底が尽きないほど、面白いものなのだ。さぁ、あなたも、レッツバイブルスタディー

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】聖書を読むのが大切な4つの理由

クリスチャンでも、クリスチャンでなくとも、聖書を読むのはめちゃんこオススメです! なぜオススメなのか、4つの理由で紹介します。

 

 

▼聖書を読むのは大事か?

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 聖書は、あなたの人生を変える。私は、強烈な確信をもって断言する。聖書を読むのは、めちゃめちゃ、めちゃのめちゃんこオススメである。クリスチャンの人にとっては、聖書を読むのは毎日の食事のよう。クリスチャンでない人にとっては、聖書はいのちを得させる人生のカギだ。

 私は、小学校6年生の頃から聖書を読み始めて以来、ほぼ一日も欠かさず聖書の言葉に親しんできた。今まで、およそ15~20回ほど読んでいると思うが(全然足りない!)、読むたびに新しい発見があり、飽きることはない。聖書の言葉に親しみ、そのたびに神の新しい姿を教えられてきたと思う。

 東京に出てくるまでは、このように毎日聖書を読むのが、クリスチャンにとって「当たり前」だと思って育ってきた。しかし、上京し、様々なクリスチャンたちと接する中で、どうやらそれが「当たり前」でないと気がついた。こんなに楽しいのに、なぜだろう。なぜ聖書を読まないのだろう。不思議でならなかった。実は、今でも不思議に思っている。

 思うに、聖書を読むことの魅力が、十分に伝わっていないのだと思う。聖書の言葉に親しむより、日曜日に教会に行く方が優先されてしまっているのではないか。キリスト教」っぽい「品行方正」でいる方が、聖書の言葉に従うライフスタイルより優先されているのではないか。教会が、聖書の魅力を十分に伝えきれていないのではないか。そう思えてならない。

 今回、聖書を読むのが、なぜ大切なのか。なぜ欠かせないのか。私なりに4つの点に絞って書いてみた。読者のみなさんには、これを機にぜひ聖書に親しんでいただけたら、私としては嬉しく思う。

 

 

▼理由1:聖書から「義」について学べる

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 聖書は、あなたに「義」を教える。何が神の基準で、何が人間の本来のデザインで、どう生きたらいいのか、神は人間にどのような生き方を望んでいるか、聖書の言葉を通して知ることができる。聖書にはこうある。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感(息吹)によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

(テモテへの手紙第二 3:15~17)

 

 ここでいう「聖書」とは、一義的には旧約聖書を指す。旧約聖書が書いているのは、大胆に要約すれば、イエスについてである。新約聖書は、旧約聖書が指し示すイエスその人について書いてある書物だ。旧約聖書が語るものは一体何だったのかを、新約聖書が明らかにしているのだ。新約聖書は、旧約聖書の解説書だ」と言う人もいる。あえて言えば、旧約聖書は問題集であり、新約聖書は回答集のようなものだ。だから、広い意味では、旧約聖書新約聖書も同じように「教え」「戒め」「矯正」「義の訓練」のために有益である。

 ここでいう「義について学ぶ」とは、「神の思いを知る」という意味と等しいといって良いと思う。神がどのようにこの世界を作ったのか。いかに、アブラハムという人が選ばれ、約束が交わされたのか。その子孫であるイスラエルの民が、どのように歩んだのか。どのように神の約束が受け継がれていったのか。神がイスラエルの民を通じて、どのような「生きる基準」を示したのか。イスラエルの人々が、どのように神に反抗したのか。神を信じる人が、どのように神を礼拝し、神に従い生きたのか。預言者が、どのようにメシアの出現を預言し、世の終わりについて語ったのか。これら全ては、旧約聖書から学べる。そして、その時代の人々が待ちに待ったイエスという人について、新約聖書を通して知ることができる。それら全てを通して「神の思い」の断片が、だんだんと理解できるのだ。

 聖書を読んでいくと、だんだんと「神がデザインした生き方」が分かるようになってくる。もちろん、クリスチャンが信じているのは、「行いではなく、信仰による救い」である(※詳しくは以前の記事を参照)。しかし、イエスを信じ、神と和解したクリスチャンは、神との関係を深めながら生きる人生を歩みたいと願うようになる。その基準、神の思いが記されているのが聖書だ。だから、クリスチャンにとって、聖書を読み、その言葉に従って生きる「生き方」は、当然である。

 これはちょうど、好きな人ができたら、徹底的にリサーチするのと似ている。好きな人に、既にパートナーはいるのかどうか。その人は、どんな人か。好みの食べ物、好みの服装、趣味は何か。性格はどうか。好きな人がいたら、その人のことをいつも考え、その人がどのような考え方をするのか、徹底的にリサーチするだろう。

 クリスチャンの歩みは、それと似ている。エスを信じ、イエス大好き! 神様大好き!! そうなったらならば、聖書を徹底的に調べ、神はどんなお方なのか。イエスはどんな人なのか。徹底的に知りたいと思わないだろうか。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。

(ローマ人への手紙 15:4)

 

 クリスチャンを「教え」「戒め」「矯正し」「訓練」するのは、聖書そのものである。牧師でもなければ、日曜学校の先生でもなければ、信仰書でもなければ、日曜礼拝でもない。聖書そのものが、読む人に「神の思い」を教え、知恵を与えるのである。

 もちろん、牧師の説教もためになる。日曜学校もためになる。信仰書もためになるし、日曜礼拝も大切だ。インターネットで有名な牧師の説教を聞くのも良いだろう。神学を学ぶのも良い。ためになる。

 しかし、それら全ての何よりも大切なのは、「聖書そのものを学ぶ」という姿勢である。聖書は聖書から学べる。聖書そのものより、「参考書」を優先してしまう人が多いように思う。参考書は、オマケだ。まずは聖書を穴があくほど読むよう、私としてはオススメしたい。難しい? 心配ない。イエスが約束した「聖霊」が、聖書の言葉が理解できるように、あなたを助けてくれるだろう。

 

 

▼理由2:聖書から「イエス」について学べる

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 「義」を教えるのみならず、聖書はあなたに「知恵」を与える。何の知恵か。それは、キリスト・イエスに対する信仰を与える知恵である。聖書を通し、私たちは、イエスが何を言ったか、何をしたか、何を教えたかを学べる。イエス自身がこう言っている。

あなたがた(ユダヤ人)は、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたし(イエス)について証ししているものです。

ヨハネ福音書 5:39)

 

 この「聖書」とは、言わずもがな、「旧約聖書」を指す。しかし、「新約聖書」はイエスその人について書いたものである。「旧約聖書」はイエスについて証言し、「新約聖書」でイエスその人の言動がありありと語られているのである。旧約聖書は、イエスについて書いているのである。

 例えば、新約聖書ヨハネ福音書は、福音書の目的についてハッキリと書いている。

エスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリスト(メシア)であることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(中略)これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子(ヨハネ)である。私たちは彼の証しが真実であることを知っている。イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

ヨハネ福音書 20:30~21:25)

 

 ヨハネは、ハッキリと福音書の目的について、「イエスを信じるため、また信じていのちを得るため」と書いている。聖書は、読んだ人がイエスを信じるために書かれていると言っても過言ではない。最後のシメの言葉は、ヨハネらしい、なんとも詩的でロマンチックな表現である。

 実際に、イエスが復活した際、弟子たちは最初、復活を信じられなかった。そんな彼らに対して、復活したイエス自身が、聖書を用いて自身の復活を語ったのである。

そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリスト(メシア)は必ずそのような苦しみを受けて、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」それからイエスは、モーセやすべての預言者たち(≒旧約聖書)から始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

(ルカの福音書 24: 25~27)

 

 旧約聖書も、新約聖書も、イエスについての秘密でいっぱいだ。旧約聖書には、イエスについての「伏線」が数限りなく隠されている。新約聖書では、その「伏線回収」が多くなされている。伏線回収系のマンガや映画が大好きな私は、聖書にイエスの伏線と回収を見つけるたびに大興奮。

 聖書の言葉を通して、イエスの新しい姿を、毎日知り続けることができる。これこそが「いのち」である。

 

 究極的には、聖書の言葉そのものが、イエス自身である。

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(中略)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハネ福音書 1:1~14)

 

 これは、「神のことば」がそのまま「イエス自身」であるという、大胆な表現である。聖書の言葉そのものが、イエス自身を現しているどころか、そのことば自体がイエスなのである。

 もっとも、この「ことば」はギリシャ語の「ロゴス」だけで考えると間違える。筆者がヘブライ語アラム語話者であり、そのマインドで書いたものであるという事実を忘れてはならない。今回、詳しく語るのは避けるが、ヘブライ語「メムラ」の意味もふまえて理解するのが大切だとだけ述べておく。

 聖書の言葉は、あなたに「イエスについて」教える。聖書を通して、イエスをもっと深く知ることができる。聖書はあなたにイエスを教えるのみならず、聖書のことば自体が、イエスそのものなのである。

 

 

▼理由3:聖書から「自分の心の思い」を吟味できる

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 聖書は、あなたの心を明らかにする。自分が何を考えているのか。その「心の動機」は何なのか。それが、聖書の言葉を通して明らかになる。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでにも刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

(ヘブル人への手紙 4:12~13)

 

 聖書の言葉は、あなたの「心の思い」を見分ける。どういうことか。聖書を読んでいると、自分の心の動機は何なのか、判別できるのである。これは、不思議なのだが、事実である。

 聖書を読むと、自分の中の隠れていた悪い思いや、心が明らかにされる。聖書を読むと、自分の中の気が付かなかった「心の動機」に気がつく。聖書を読むと、人生が方向転換されるのである。

 私自身も、その体験をした。私は16歳でイエスを信じて以来、ずっと「牧師」になりたかった。イエスに出会えた喜びで、このイエスを他の人にも伝えたいと思ったのである。はじめの思いは純粋でも、それはいつしか、「牧師になって人から評価されたい」という思いに変わっていった。動機が「イエスを伝えたい」ではなく、「俺が尊敬されたい」という自己承認欲求に変わっていったのである。

 しかし、21歳のある日、聖書を読んでいると、聖書の様々な箇所(ホセア1章、箴言3章、ピリピ3章など)を通して、自分の間違った自己承認欲求に気が付かされたのだ。たった1日の間に、これら全ての聖書の言葉が語られ、ガツンと心を打ったのである。反省した。人生の目的が「イエス中心」でなかったと気がついた。神に「私の人生を本当に神に捧げます」と祈った。そして、人生が方向転換したのであった。牧師を目指した少年は、今、神の不思議な導きで、記者の仕事をしている。それは、全て聖書の言葉を通しての気づきであった。

 神のことばは生きている。聖書の言葉は生きている。読むと、あなたの心の思いが明らかになる。「心の動機」があらわになる。自分の心のモヤモヤが晴れない時、答えは聖書の中にあるのかもしれない。モヤモヤしている人、聖書読むのオススメ。

 

 

▼理由4:聖書から「他人の発言」を吟味できる

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 最後に、聖書は「自分の思い」のみならず、「他人の発言」を吟味できる。おごがましく聞こえるかもしれないが、これは「他人を非難する」という意味ではなく、「サポートし合える」という意味だ。まずは聖書が何と書いてあるのか見てみよう。

パウロは、いつものように人々のところに入って行き、3回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリス(メシア)です」と説明、また論証した。(中略)兄弟たちはすぐ、よるのうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、2人はユダヤ人の会堂に入って行った。この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き17:2~11)

 

 使徒パウロは、いつもユダヤ人や外国人たちと議論し、イエスはメシアであると立証していた。それは、いつも「聖書に基づく議論」であった。聖書がイエス・メシアについて何を書いていて、いかにイエスがそれに当てはまるか、論じあっていたのであった。これは、聖書を知らないとできない議論である。

 そして、ベレヤという町にいた人々は、「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のである。彼らは、パウロの言葉をうのみにしなかった。自分たちで「毎日聖書を調べて」、パウロが言っていることが本当か調べたのである。

 現代のクリスチャンたちは、この姿勢が多少欠けているように思う。牧師やリーダーたちの教えを、うのみにしてはいないだろうか。権威ある(と言われている)牧師だって、間違いは犯す。彼らの教えにも、矛盾は存在しえる。どんな人の教えであれ、「本当にそうかな?」というクリティカル・シンキングで聞くという姿勢は大切である。必ず聖書を調べ、間違っていたら、指摘する。そんな姿勢がクリスチャンには必要である。

 

 また、聖書は互いに教え合うように勧めている。

キリストのことばが、あなたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(1テサロニケ 5:10)

 

 同じように、聖書の別の箇所では、「互いに預言ができること」「互いの預言を吟味すること」を教えている。

預言する者たちも、2人か3人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人はだまりなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも1人ずつ預言することができるのです。

(コリント人への手紙第一 14:29~31)

 

 コミュニティの中で、互いに聖書の言葉を用いて教え、またその内容を吟味し合うように、聖書は教えている(「預言」の定義については、この記事で触れるのは避ける)。この「吟味」が、日本の教会には圧倒的に欠けていると感じる。

 1人ひとりのクリスチャンが、しっかりと聖書を読み込む必要がある。そして、互いに教え合うコミュニティへと発展する必要がある。「神学校」に行く必要はない(※以前の記事を参照)。誰もが、聖書の言葉に親しみ、互いに吟味し合い、指摘し合い、愛し合うことができる。

 

 「教え合うコミュニティ」については、詳しくは以前の記事を参照していただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼まとめ

 聖書は、あなたの人生を豊かにする。聖書は、あなたにいのちを与える。聖書は、あなたに希望を与える。聖書を、ぜひ読んでみようではないか。

<聖書を読むのを勧める4つの理由>

1:聖書から「義」について学べる

2:聖書から「イエス」について学べる

3:聖書から「自分の心の思い」を吟味できる

4:聖書から「他人の発言」を吟味できる

 

 ぶっちゃけ、この4つ以外にも、たくさんの理由がある。書いたら書ききれない。それほど、聖書は魅力に満ちた本だ。私は聖書の虜になってしまった。ぜひ、あなたも一度読んでみてはどうだろうか。実際に、どう読めば良いのか。私なりのオススメを、次週書こうと思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは誰かを「救う」ことができるのか?

「友達を救いたい!」クリスチャンがそう言うのをよく耳にします。クリスチャンは誰かを「救う」ことができるのでしょうか?

 

 

▼友達を「救いたい」?

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 大学の時、あるクリスチャンの友人が、こう言っていた。「卒業までに1人でもいいから救いたいんだよね」「救い」とは、クリスチャンの専門用語で、誰かがイエスを信じるようになる状態を指す。簡単に言えば、「誰かを救いたい」というのは、「誰かをクリスチャンにしたい」という意味だ。つまり、友人は、「自分が卒業するまでに1人でもいいから、誰かをクリスチャンにしたい」と言っているのである。

 私はその時、「オカシイなぁ」と思いつつも、否定はしなかった。違和感の正体が、あまり掴めていなかったのである。今となっては、それはおかしいとハッキリ断言できるが、当時はまだ目がひらけていなかったのである。

 果たして、クリスチャンは誰かをクリスチャンにできるのか。エスを信じるようにさせられるのか。誰かを救えるのか。今回は、このポイントについて見ていこう。

 

 

▼「救い」とは?

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 まずは、前提となる「救い」について、もう少し詳しく解説する。聖書の言葉を順に見ていこう。これは、聖書の言葉で最も有名なものの一つである。

 

<イエスを信じれば、永遠のいのちを持つ>

神は、実に、そのひとり子(イエス)をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ福音書 3:16)

 

 エスを信じる者は、一人として滅びず、永遠のいのちを持つ。これが、一番シンプルな良い知らせ、いわゆる「福音」である。クリスチャンの信仰は、この一言に要約できると言ってもいい。

 

 

<救いは「行い」ではなく「信仰」による

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

(エペソ人への手紙 2:8~9)

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書(≒旧約聖書)によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、エスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。

(ローマ人への手紙 3:20~26)

 

 旧約時代は、神から与えられた律法を守ることが求められた。それゆえ、律法を守るユダヤ人が神の約束を受け継ぐと信じられていた。それは無駄だったわけではなく、イエスによる救いの「伏線」だったのだ。

 すべての人は、「罪を犯して」神との「関わり」が持てなくなっている。罪とは、神と共に歩まない状態であり、「すべての人」がその状態に、生まれながらにして陥っている。その状態を解決するのは、律法を守る「行い」ではなく、イエスを信じる「信仰」なのだ。イエスが十字架で、私たち人間の罪の報いを代わりに受けた。それを信じることだけで、私たちは「価なしに義と認められる」のである。

 

 

<救いとは、神との和解である>

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

(ローマ人への手紙 5:1~2)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(中略)しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

(ローマ人への手紙 5:5~11)

 

 これは、私がイエスを信じるキッカケとなった聖書の言葉である。私たち人間が「まだ」罪人だった時に、イエスが私たちのために死んでくださった。私たちが良い行いをしたからではなく、まだ生まれるはるか前から、イエスは「前払い」で、十字架で命を捨ててくださったのである。

 イエスの死と復活によって、何があったのか。それは、神の怒りからの救いである。神との和解である。神は完全な方なので、私たちが罪の状態を放置したまま、神と関係は持てない。しかし、イエスを信じさえすれば、「神との平和」があり、「神と和解」できるのである。これが、イエスに対する信仰であり、「救い」である。

 

 

<イエスによってのみ救われる>

皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。(中略)この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

使徒の働き 4:12)

 

 イエスを信じる以外の救いは、決してありえない。イエスだけが、唯一の救いの道なのである。

 

 

<「救い」とは、まとめ>

 まとめると、「救い」は、神の怒りからの救いである。私たち人間は、生まれながらにして、神のデザイン通りの生き方から逸れてしまう。それが罪である。例外はない。死んだ後、すべての人が「神のさばき」を受ける。例外はない。聖書にこう書いてある。

しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

(ヘブル人への手紙 9:26~28)

 

 しかし、エスを信じれば、神の怒りから救われ、義と認められる。神と和解できる。良い行いをするかどうかは関係ない。ただ、シンプルにイエスを信じるかどうかが、「救い」である。イエスを信じれば救われる。イエス以外の救いはない。クリスチャンの信仰は、いたってシンプルである。

 だから、私は「救い」と言わずに、単純に「イエスを信じる」と言う方がしっくりくる。「私が救われた時」と言わずに、「イエスを信じた時」と言った方が腑に落ちる。「誰かを救いたい」ではなく、「誰かにイエスを信じてほしい」の方が心にストンと来る。信仰は、シンプルなものだから。

 では、クリスチャンは誰かを「救う」ことはできるのか? 本題に入っていこう。

 

 

▼クリスチャンは誰かを救えるのか?

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 私の友人が言ったように、「誰かを救う」ことはできるのだろうか。答えは簡単。NOである。3つのポイントで見ていこう。

 

▼1:救いは「恵み」である

 クリスチャンはなぜ「救われている」のか。それは、シンプルに、イエスを信じているからだ。では、なぜイエスを信じられるのか。それは「神の恵みによる」と書いてある。聖書を見てみよう。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。

(ローマ人への手紙 4:16)

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

(エペソ人への手紙 1:7)

 

 クリスチャンが救われるのは、決して信心深いからではない。それは、神の一方的な恵みによる。「救い」は、神の恵みによるプレゼントなのだ。よく、クリスチャンでない人から、「敬虔なクリスチャンなのか」と聞かれるが、私はいつも答えに詰まる。私が信心深いのではなく、神の一方的な憐れみ、お恵み、懐の深さによって、私の罪は赦されているのだ。

 救いは、決して誰か人間によるものではない。神が一方的な恵みで、先に死んでくださったからこそ、実現するのだ。あとはそれを信じるだけ。めちゃくちゃシンプル。そこに、人間が介在する余地などない。

 

 

▼2:救いは「選び」である

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 なぜイエスを信じられるのか。聖書にはこう書いてある。

神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。(中略)キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。

(エペソ人への手紙 1:3~11 聖書協会共同訳)

 

 聖書によれば、イエスを信じた者たちはみな、神に「選ばれた」存在である。エスを信じられるようになったのは、全て「神の計画」であり、人間の行いによるものではない。だから、「誰かを救いたい」などというのは、人間の傲慢以外の何物でもない。

 カルヴァンは、この言葉などを根拠に、「神は救われる人と滅びる人を、予め決めている」という、「予定説」(二重予定説)を唱えた。私はこれは言い過ぎだと思う。この言葉の文脈、強調している点をよく考えた方が良い。「エペソ人への手紙」で強調されているのは、「神の恵み」と「神の計画」である。「あなたがイエスを信じられているのは、全て神の恵みによるのだ、救いは行いではなく、信仰なのだ」というのがポイントだ。「神は救う人を予め選んでいる」というのはズレた解釈だ。

 究極的には、全ての人が救いに選ばれている。私はそう信じる。聖書の別の場所にはこう書いてある。

主は、ある人たちが(世の終わりが)遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

(ペテロの手紙第二 3:9)

 

 神はすべての人が、悔い改めて、イエスを信じるよう望んでいる。しかし、それは神が強制することではない。信じるのは、私たちの責任である。もし神が人間に信仰を強制したら、私たちは単なるロボットに過ぎない。

 また、カルヴァンが言うように、既に「救われる人」が決められているのだとしたら、イエスのことを伝える必要はどこにもなくなる。しかし、イエスはそうは命じなかった。イエスの最後の命令はこうである。

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがとともにいます」

(マタイの福音書 28:18~20)

 

 イエスは、弟子をつくり、イエスのことを教えよと命じた。ペテロやパウロ、ピリポにステパノ、テモテにアポロ、ヤコブヨハネ・・・イエスに直接会った弟子たちも、会っていない弟子たちも、皆、イエスを宣べ伝えたのである。元々、滅びる人も救われる人も決まっていたら、彼らはそうしなかっただろう。

 エペソ人への手紙で語っているのは、「すべては神の手による」という、神の偉大さの強調であって、救いが既に全部決まっているという意味ではない。時を超える神の目では、既に全てが決まっているが、時を超えられない人間にとってできるのは、この素晴らしいイエスを伝えることである。

 聖書のほかの部分では、「いつでも信じるチャンスはある」というメッセージが書いてある。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取り除けられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

(コリント人への手紙第二 3:12~17)

 

 これは、旧約聖書時代に、モーセの律法の巻物に垂れ幕をかけて覆っていた伝統を用いた比喩である。モーセは、神と面会した時に、神のあまりの栄光のために顔が光った。モーセは顔に布をかけて覆った。それをふまえて、律法の巻物も布で覆われていたのだ。ユダヤ教では、現代でも律法の書に、象徴的に覆いをかけている。旧約聖書の律法が「伏線」として示している真理、すなわちイエスについては、その時が来るまでは「覆われて」いたのである。

 しかし、真理が明らかになった今、覆いは取り除かれた。人がイエスを信じるなら、いつでも誰でも心の覆いは取り除かれ、「救い」を受け取れる。それは全ての人に公平に差し出されている救いである。そして、それは元々神の計画である。大仏の手のひらで踊る孫悟空よろしく、人の行動は、全て神の意思による。神は時を超えるので、信じられたのは、常に神の「選び」によるのである。

 

 

▼3:救いは「聖霊」による

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 最後に、救いは「聖霊」の力によるという、最大のポイントを説明したい。聖霊とは、イエスが送ると約束した「助け主」であり、神ご自身の力の現れである。聖霊は、神ご自身である。聖書にはこう書いてある。

肉のうちにある者は神を喜ばせることはできません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなた方の死ぬべきからだも生かしてくださいます。

(ローマ人への手紙 8:9~11)

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。

(エペソ人への手紙 1:13~14)

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12:3) 

神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。エスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。

ヨハネの手紙第一 4:2~3)

 

 どんな人も、聖霊の力なしには、イエスを主と告白できない。聖霊によって、私たちは新しい「いのち」を得ている。聖霊は、救いを受け取っていることの証拠である。人がイエスを信じられるのは、信心深いからとか、大きな信仰を持っているからではない。それは全て、聖霊の働きによるのである。(聖霊の働きには、段階があるのだが、それはまた別の記事で書こうと思う)

 

 もし、クリスチャンが自分で誰かを救えると思っているとしたら、それは勘違いだ。神の恵み、選び、そして聖霊の力を軽んじている。私たちができるのは、ただただイエスを伝えるだけだ。信じるかどうかは、アナタ次第。信じたとしたら、それは神の恵みであり、計画であり、神が与えた聖霊の働きによるのである。

 

 

▼ただ神を自慢しよう

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 結局のところ、クリスチャンにできるのは、「イエスって最高だぜ!」と自慢しまくる生き方である。聖書にはこう書いてある。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。

(コリント人への手紙第二 4:1~5)

 

 クリスチャンができるのは、イエスを伝えるところまで。それを信じるか信じないかは、聞いた人が決めるのだ。クリスチャンの目的は、キリスト教信者を増やすことでも、教会のメンバーを増やすことでも、キリスト教国家を増やすことでもない。ただただ、イエスを信じて神と一緒に生きるのを、楽しむのがクリスチャンの生き方である。ぶっちゃけ言うと、イエスと一緒に生きるの最高! 

 そんなクレイジーで楽しい人生を、あなたも体験してみてはどうだろうか。やり方はカンタン。イエスを信じるだけ。シンプル。何の義務もない。イエスを信じる人生、超最高。私に言えるのは、残念ながらここまで。信じるか信じないかは、アナタ次第。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス11】「意地でも神様に従う」浅井元規@経営者・コーチング

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第11弾は、浅井元規さん!

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【Profile】

名前:浅井元規(Motoki Asai)

生まれ:1990年

出身:愛知県名古屋市→神奈川県茅ヶ崎市

学歴:米テキサス州立大学卒業→CFNI(Christ For The Nations Institute)卒業

職業:経営者( pro.de.sign <プロデザイン>)、コーチ等

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今日はよろしくおねがいします。

f:id:jios100:20190424014849j:plain よろしく。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今は、どんな仕事をしているの? 

f:id:jios100:20190424014849j:plain 去年から、pro.de.sign」(プロデザイン)という事業を立ち上げてやっています。形としては自営業かな。プロデザインは、「あなたらしくあるために、いつも隣にいる仲間」という”タグライン”(企業理念的なもの)でやってます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 自分で事業をやっているんだね。具体的にはどういう内容なの?
f:id:jios100:20190424014849j:plain プロデザインでは、「個人コーチング」「オンラインサロン」をメインに活動してるよ。
f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。カッチョイイ。もう少し具体的に何をやっているか教えてもらえますか?

 f:id:jios100:20190424014849j:plain 「個人コーチング」では、その人が抱えている課題や目標に一緒に向き合って、前進していけるようなサポートをやっているよ。

「オンラインサロン」では、インターネット上のコミュニティを作ってコーチングや自分らしく生きることに関心がある人たちがつながって、日常的に居場所として帰ってこられる場所を目指しているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その2つを通して、「あなたらしさ」を追求するサポートをしているということ?

f:id:jios100:20190424014849j:plain そういうことだね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どこかの団体に所属したりしているの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain いや、全部自分でやっているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ほええええ。今日はそのへんもゆっくり聞かせてください。

 

 

▼春のジャケットにつられて・・・ 

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↑高校時代。右下が元規さん。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 出身はどこ?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 生まれたのは名古屋市なんだけど、物心ついたときから神奈川の茅ヶ崎市に住んでいたから、地元は茅ヶ崎かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうやってイエスを信じようと思ったの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain ウチは元々、クリスチャンの家族ではなかったんだよね。だけど、2008年の9月、家に帰ったら、母親が突然「今日、クリスチャンになった」とか言い出して(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain いきなり(笑)

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう(笑)母親は、元々、ずっと真理を求めていて、それまでもスピリチュアル系とかにハマってたりもしてたんだけどね。心理学とかも勉強したり。そこで行き着いたのが、アーサー・ホーランド牧師のメッセージで。これは真理だと思って、アーサーさんに「洗礼してください」とお願いしたら、アーサーがバケツで水を汲んできて、はい、洗礼、みたいな(笑) 

f:id:jios100:20180905032057j:plain むちゃくちゃやな(笑)母親がいきなりクリスチャンになって抵抗なかった?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 俺と兄は、「あ、そう・・・」みたいな感じで、全然興味なかったんだよね(笑)別に教会も行かなかったし。でも、次の年、2009年の3月、高校卒業した直後に、母親が「教会行ってみない?」って誘ってきて。「一緒に来たら、横浜で服を買ってあげるよ」と言われて、春先だし、ジャケット欲しいなって(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 春ジャケットにつられたんだ(笑)

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう。それで、「New Hope 横浜」っていう教会に行ったんだけどね。そこに一歩足を踏み入れたときに、自分が感じたことのない暖かさに包まれて、神様の存在を強く感じたんだよね。それで、賛美の歌が始まったら、心の内側から喜びが溢れて、めっちゃ涙があふれそうになって、なんだこれ? ってなった。集会の最後に、「今日、イエスさまを信じたい人、受け入れたい人」というアナウンスがあって、気がついたら手を挙げていたな。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain わお。教会にいった初日に。

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↑すぐにバプテスマを受けた。

f:id:jios100:20190424014849j:plain  その1ヶ月後にバプテスマを受けたよ。自分は、昔から頭で納得できないと進めないタイプなんだけど。イエスさまについては、心の中で絶対に自分に必要なものだと分かっていた。頭で全部は理解できなかったけど、世界の造り主がいて、その造り主である神様が喜ぶ選択をしていきたいと思ったんだよね。それまでの自分は、八方美人的なところがあって優柔不断だった。信じてからは、自分の人生ではなくて、神様に選択肢を委ねることを決めたって感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい人生の方向転換だね。家族はどう思っていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 実は、母親が信じてから1年以内に、家族全員が信じたんだよね。母の後、俺、兄、父親。そして、そこから3年以内に、両方の祖父母も信じたんだよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えええ、すごいね。おじいちゃんもおばあちゃんも信じたんだ。

f:id:jios100:20190424014849j:plain まさに、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」使徒の働き16:31)っていう聖書の言葉通りになったね。

 

 

▼スポーツの世界で活躍を夢見て

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アメリカ留学時代
f:id:jios100:20180905032057j:plain 信じた後は、どういう進路にいったの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 元々、2009年の5月からアメリカへの留学が決まってたんだ。信じたちょうど40日後にアメリカに飛び立ったよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へええ! どこの大学?

f:id:jios100:20190424014849j:plain テキサス州立大学。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうして留学を考えていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 小さい頃から、国際交流の団体のプログラムに参加していて。小学校のときはロシア、中学校のときはニューヨークにホームステイしたり、高校1年のときはモンタナ州に1年間留学してたりもしたんだ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain モンタナ! またニッチなところに・・・

f:id:jios100:20190424014849j:plain 小さな村で、幼稚園から高校まで100人ぐらいしかいない学校に行っていたよ。もちろんアジア人は村で1人。ジャッキー・チェンが来た!」とか言われたね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうやって、海外に興味を持っていたんだ。

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。アメリカでは、みんな自分の価値観を持っていることに驚いたんだよね。それと比べて、自分は八方美人的だなぁと。しっかり自分の価値観を持ちたいと思って、はじめからアメリカの大学に行こうと思ってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain テキサス州立大学では何を勉強したの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 幼稚園の頃から、サッカーをやってて。ボランチのポジション。ずっとスポーツに関わっていたのと、人をサポートするのが昔から好きだったから、両方を活かせるスポーツ医療の世界で働きたいと思って、アスレティックトレーナー(AT)の勉強をしたよ。テキサス州立大学は、その分野では結構有名な大学なんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain アスレティックトレーナーとは?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 怪我をした選手のリハビリや、体のサポートをする資格かな。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 専門職って感じだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain ATの資格を取得するのには5年かかったよ。その頃の僕のビジョンは、クリスチャンがあまり入れないスポーツ業界やアスリートたちに福音を伝えるということだった。スポーツ選手が怪我をするっていうのは、それまでのアイデンティティを失うってこと。その選手たちに、リハビリで関わることによって、その人の価値をスポーツ以外のところに見出してもらえるようにって思ってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大切な働きだね。なかなか素人は入れない世界だもんね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう。僕は将来の計画を立てるのが好きなんだけど、その頃は、アメリカでカイロプラクティックの医院で働きながら、勉強をしたいと思っていた。ATっていうのは、単体じゃなくて、他に別の資格があると強い資格なんだよね。だから、働きながら勉強して、カイロプラクティックの資格も取って、日本のサッカーチームのトレーナーになれたらなと思ってた。そのチームで認められて日本代表のチームに入って、誰かに気に入れられて専属トレーナーになる・・・っていうような未来を想像してたなぁ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、そうならなかった?

f:id:jios100:20190424014849j:plain そうなんだよね。進路を祈り始めたら、神様が全く違うことを示して・・・

 

 

▼スポーツの世界から、聖書の世界へ

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↑神学校のミッショントリップ

f:id:jios100:20180905032057j:plain 全く違うこととは?

f:id:jios100:20190424014849j:plain スポーツの世界に行くように、5年もかけて勉強したのに、アメリカで就活を始めたら、どう祈っても、神様が「神学校(聖書学校)に行きなさい」と言っているように感じたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どういうことを通してそれを感じたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 就活をしていても、心の中に安心感がなかったり。あとは、いつも「神学校」っていうフレーズが頭にあったんだよね。両親からも、「神学校に行くことも選択肢に入れて、祈ってみてもいいんじゃないか」って言われて、それで祈っていた。極めつけは、当時、キャリー・ジョブっていう人の「フォーエバー」っていう賛美歌がヒットしていて、その曲を聞いたときに、神様に「私に人生を捧げなさい」と言われた気がしたんだよね。そこで、神学校に行こうと決めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 資格まで取ったのに、違う道に! それでも神様に従ったんだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain 最初は、「神様、国家資格を取って、最初っからそれをやらないって何?!」って思ったよ。さすがに。手に職の世界なのに、学んだ直後にやらなかったら忘れちゃうよね。最初は迷ったけど、祈っても、祈っても、気持ちは変わらなかった。教会の牧師が神学校を紹介してくれて、進学先も決まった。そしたら、その学校がさっきのキャリー・ジョブの卒業校だったんだよ。そこでも神の導きみたいなものを感じたな。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。祈っても気持ちが変わらなかったんだね。神様がそこに導いたのかもしれないね。神学校に入ってからはどう過ごしていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 神学校はめちゃめちゃ良かったなぁ。1年間のコースで、聖書の言葉と祈りを通して、日常の中で神様と共に歩むことを教えてくれる学校だったよ。授業は午前中だけだったから、午後はいつも、「神様、午後はどう過ごしたらいいですか」と祈ってから始めることにしていた。日によって、「カフェテリアに行って、あの人に話しかけてみよう」とか、「クラスメイトのあの人に会いに行ってみよう」とか、そういう気持ちになって。それは、全部神様の導きだと今でも思ってるよ。そうやって、聖霊を通して、”神の声を聞く”っていう訓練ができたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ・・・! 生活の中で全ての行動を神様に聞きながらやっていたんだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。聖書を読む時も、神様にどこを読めばいいか祈ってからいつも決めていたよ。神様に従うということを教えられた1年間だったな。

 

 

▼神の導きに従い続け・・・

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カリブ海の国、キュラソーにて

f:id:jios100:20180905032057j:plain その後の進路も、もちろん神様に祈って決めたんだよね?

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。神学校時代の夏休みに、神学校で知り合ったブラジル人の友達の故郷に2ヶ月間行ったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ、めちゃめちゃ面白い。

f:id:jios100:20190424014849j:plain その教会で勉強したいなぁと思っていた矢先に、「ここでインターンをしないか?」とお呼びがかかったんだよね。これこそ神様の導きだと思って、準備を始めた。ビザもその教会が準備してくれることになったんだけど、予定より時間がかかって、ひとまず日本に帰らないといけなくなったんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 日本に帰ったら、状況が変わった?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 2ヶ月、ビザの発行を待っていた間に、神様にもう一度聞いてみようと思って。今ある選択肢を全部放り投げて、神様に、「どれが残りますか?」と聞いてみることにした。そしたら、ブラジルへの思いはなくなっちゃって。別のミニストリーの思いだけが残ったんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。ブラジルの人もびっくりだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain 申し訳なかったんだけど、ブラジルの教会には断りの連絡を入れたよ。その後で、働き始めたのが、7MEDIA」(セブン・メディア)という会社。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain セブンメディアは何をやっている会社なの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain ソーシャルメディアを中心とした、様々なメディアを通して、次世代の宣教をしていくっていう会社かな。2016年から2017年の10月まで、2年弱働いていたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain セブンメディアというくらいだから、7つのメディアがあるんだよね?

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。A〜Gの頭文字をとって、7つの領域に力を入れていたかな。

ART(芸術)

BUSINESS(ビジネス)

COMMUNICATIONS(コミュニケーション)

DISADVANTAGED(障害者の人々)

EDUCATION(教育)

FAMILY(家族)

GOVERNMENT(政府・政治)

f:id:jios100:20190424014849j:plain この7つの領域だよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そこで何をやっていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 「シャイン(輝く)・コーディネーター」という肩書きで、いろいろな人間関係の構築を担当していたよ。日本の牧師やリーダーたちと話して、人や教会をつなげたりとか。一番やっていたのは、「シャイン・ジャパン」という働きで、いろいろなイベントを企画・実行したり。最後にやったのは、10カ国から100人ぐらいのチームが集まって、日本の教会と協力して、伝道の集会をやったりしていたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。その2年間で大変だったのは、どんなこと?

 f:id:jios100:20190424014849j:plain 人手が足りなかったことかな。会社といっても、フルタイムのスタッフは、僕と社長の2人しかいなくて、仕事量はかなり多かった。インターンが1人か2人いるときはあったんだけど、基本的にフルタイムは2人だけ。でも、逆に言えば、その経験を通して、自分の力ではできない仕事を、神様に頼って、神様が成し遂げてくださるということを学ばせてもらったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 番神様の働きかけを感じたのはいつ?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 「シャイン・ジャパン」の働きを、マレーシアでやったときかな。「シャイン・マレーシア」として、大きな集会をやったんだよね。現地のユース世代や、牧師たちが集まった。そこで、自分がそのコンセプトを説明したり、聖書の話を大勢の前でさせてもらう機会もあった。全然そんな経験もなかったし、絶対無理だって思っていたことも、神様の助けで乗り越えさせてもらって、実践の中で学ばせてもらったことはすごく大きかったよ。

 

 

▼さらに導きのままに・・・ 

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↑マレーシアの大会では、スピーカーも努めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、そこも2年で辞めたんだよね。どうして?

f:id:jios100:20190424014849j:plain セブンメディアで働いている時に、ヨハネ福音書の言葉が心に迫ってきたんだよね。

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

ヨハネ福音書 1:5)

f:id:jios100:20190424014849j:plain この聖書の言葉を読んだときに、自分はもっと世の中に出ていくように導かれている気がしたんだよね。セブンメディアの仕事では、クリスチャンじゃない人との日常的な関わりが少なくて。俺は、もっとクリスチャンじゃない人と、日常的に関わって、聖書のこととか、イエスさまのことを話したいと思ったんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで、セブンメディアを辞めたと。

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。2017年の10月いっぱいで辞めて、その後も神様にどうしたらいいか祈った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今度は何が示されたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain そこで、頭の中に浮かんだのが、元々勉強していたアスレチック・トレーナーの世界のこと。正直いうと、神様に対して「今さらですか?」という思いだった。3年前に手放したものだから、完全に忘れているし、資格も失効してると思ってた。だけど、よくよく調べてみたら、60時間の講習を受けて、テストをクリアすれば、資格が復活することが分かって。でも、資格の失効期限まで、残り2ヶ月しかなかった。だから、あわてて取得し直したよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ギリギリの資格復活! その後は?

f:id:jios100:20190424014849j:plain  その後は、FiNCという会社で、パーソナルトレーニングのジムで働いていたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain FiNC! LINEマンガのCMでめっちゃ出てくる(笑)巡り巡って、神様が元々学んでいた経験を活かしてくれたんだね。

 

 

▼行き着いた先は・・・

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↑マレーシアにて

f:id:jios100:20180905032057j:plain そのジムの仕事も、辞めた。

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう。半年ぐらいした頃に、また「違う」という気持ちになった。そこで、仕事はひとまず辞めると会社に伝えたよ。でも、神様に祈っても、なかなか具体的に示されずに、迷っている時期が続いたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 転機となったことはあったの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 今年の8月に、また聖書の言葉がから思うことがあったんだよね。

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に善い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復習の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。

イザヤ書 61:1〜3)

エスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』これらよりも重要な命令はありません」

(マルコの福音書 12:29〜30)

f:id:jios100:20190424014849j:plain この2つの聖書の言葉を読んで、この世の価値観に囚われている人に、真理を伝えたいと思ったんだよね。真理を知って、縛られているものから解放されていって欲しいなと思った。知力も、感情も、意思も。神様の愛が土台となっているプラットフォームの上で、心の開放やいやしが行われていくといいなと思って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その答えが、コーチングやオンラインサロンだったんだ。

f:id:jios100:20190424014849j:plain はじめは、神様に具体的にどうしていいか祈っても、なかなか答えがなかった。徐々に、そういう道が開かれていった感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain コーチングはどうやって学んだの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain それも、たまたま、ジムトレーナーの時のお客さんが、コーチング界の有名な人で。その人が俺にすごくよくしてくれて、いろんなセミナーとか、コーチングの知識をつけるのに必要なものを紹介してくれたりしたんだよね。そういうのも、全部神様の導きだと思ってる。

f:id:jios100:20180905032057j:plain スゴイ。今までの経験も、全部次につながっている感じがするな。

f:id:jios100:20190424014849j:plain そうだね。今まで、「神様に従う」っていう選択をして、いろいろな経験をさせてもらってきているんだけどね。全部、次につながっていて。今まで歩んできた道があったから、今があるんだと強く感じるな。無駄なことは、何ひとつなかったと思う。

その導きの先に、今のpro.de.sign」(プロデザイン)の形が出来上がってきたっていう感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど・・・どこまでも神様に従う! っていう精神、尊敬します。

 

 

▼社会の中にプラットフォームを作りたい

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 気になるのは、今の仕事はどうやってお金にしているの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 正直いうと、お金をどう生み出そうかは、何も考えていないんだよね。お金が目的になると、進まなくなるから。そこも神様に委ねているよ。今は実家に住んでいるというのもあるけど、コーチングの仕事の収入や、オンラインサロンの会費などが主かな。あとは、前勤めていたFiNCから、業務提携の話ももらって、自分の好きなタイミングでその仕事もできる。それも、大学時代の知識とかも役立っているから、神様の導きに無駄はないと感じるよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、収入は一本じゃなくて、複合的にやっているんだね。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今後のビジョンはどんなこと?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 今やっているオンラインサロンが、「自分らしさって何だろう」という目線の会話が生まれるコミュニティになってほしいなと思っているよ。聖書の言葉が土台となった脳科学や心理学の言葉を伝えることで、クリスチャンだけではなく、クリスチャンでない人も自然に会話に入れるコミュニティを目指しているかな。聖書の勉強会もやりたいけどね。俺の目標としては、社会の中にプラットフォームを作っちゃって、その中で福音を語りたい。教会とかに「来てもらう」だけじゃなくて、こちらから社会の中にプラットフォームを作っちゃう。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かる! 自分から出ていく、これすごく大事だよね!

f:id:jios100:20190424014849j:plain 当面のビジョンは、オンラインサロンのコミュニティが、現実のコミュニティになることかな。そこで紅茶を飲んだりしながら、いつでも自分らしくいられる場所を作りたい。「家に帰ってきたような隠れ家」っていうのが目標かな。今は、コミュニティの仲間たちと、「コーヒー淹れ方ワークショップやりたい」とか、「レザークラフト体験」とか、趣味やビジネスでも、いろいろなことをやりたいと話しているよ。最終的には、そこが日曜日は教会になって、福音が語られて、祈りがあって・・・というようなコミュニティになったらなと思っているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 元規くんのコミュニティが、神様の計画通りに用いられるように、願っています。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、いつも、元規くんが覚えている聖書の言葉を教えてください!

f:id:jios100:20190424014849j:plain 黙示録の言葉です。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

(黙示録 2:10)

f:id:jios100:20190424014849j:plain 最初は、頑張って、神様に忠実でないといけないと思っていた。でも、だんだんと、この言葉は、「元規が私(神様)につながっていれば、この言葉があなた自身だ。あなたは死ぬまで忠実であるよ」と約束してくださっている感じがしたんだよね。「あなたは、私に忠実であるように造られている」と神様が語ってくださっているような感じがして。この命を、神様のために捧げる人生。それが俺のモットーです。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 人生の行動全てを神様にゆだねている、元規くん。これからの、ますますの活躍に期待します!!! 

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは「元号」を使ってはいけないのか?

クリスチャンは「元号」を使うべからず・・・そんな議論があるそうです。果たして本当にそうなのでしょうか・・・?

 

 

▼クリスチャンは元号を使ってはいけない?

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 「平成」が終わり、「令和」が始まった。5月1日、新しい時代の幕開けだ。

 菅官房長官が新元号を発表した4月1日、私は、総理官邸のエントランスで取材をしていた。臨時閣議が終わり、大臣たちのコメントを取るべく、今か今かと発表の時を待っていたのである。菅長官が「令和」と発表し、その文字を掲げた時は、なんだかしっくりこないような気もした。

 しかし、4月1日の新元号発表から1ヶ月。はじめは違和感のあった新しい元号も、耳に馴染んできたような気がする。「R」のサウンド。初の日本文学からの引用、かつ原典は中国の文学である点。「令」という新しい文字と「和」の組み合わせ。「昭和」の「和」を再び使うのは予想外だったが、決まってみれば「令和」はいい2文字ではないかと、個人的に思う。後に、「広至」「万和」「英弘」など、他の5つの案がスクープされたが、「令和」がやはり良いと感じた。

 元号が「令和」に決まった日、クリスチャン界隈では、ある聖書の言葉が話題となった。イザヤ書の言葉である。

わたし<神>があなたに与える命令平和。あなたを支配するものは恵みの業。

イザヤ書60:17 新共同訳聖書)

 

 神が平和を命じるという聖書の言葉の中に、「令」の文字と、「和」の文字がある。「令和」の言葉が、聖書の中にも隠されていたのである。

 もちろん、新元号は聖書を出典にしたわけではないが、面白いなとは思う。この日、多くのクリスチャンたちがこの事実をSNSにアップし、ちょっとしたブームとなった。クリスチャンたちも、新元号の制定を祝し、聖書の言葉に共通点を見つけ、神の言葉を宣言していたのである。(もっとも、聖書協会共同訳や新改訳聖書2017などは、「私は平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする」と訳している)

 

 しかし、このお祝いムードに待ったをかける声が、同じクリスチャンの中から上がっているようだ。一言で言えば、「クリスチャンは元号を用いてはいけない」という主張である。なぜか。元号は、天皇が時空を支配する象徴だから、クリスチャンは用いてはいけない。それは偶像礼拝である」というのが理由らしい。

 私は、初めてこの主張を耳にした時、驚いた。クリスチャンと元号の関係性を、考えてもみなかったのである。

 確かに、調べてみると、確かにいくつかのキリスト教団体が、公式に天皇の退位・即位、元号の改定に関する声明を発表していた。

日本基督教団

天皇の退位および即位の諸行事に関する声明 - 日本基督教団公式サイト

 

<日本バプテスト連盟>

元号法成立に対する反対の声明(1979年6月6日 理事会声明) – 日本バプテスト連盟

20190424 新天皇即位と元号改元に際しての私たちの信仰的表明(2019年4月24日 理事会声明) – 日本バプテスト連盟

 

日本聖公会

天皇の退位と即位に関する声明

  

 いずれも、「政教分離」の原則から、天皇の退位・即位に関する儀式や、新元号の改定に異議を唱える内容となっている。この内容の是非については、記事の最後で述べる。果たして、「クリスチャンは元号を用いるべからず」は、正しい主張なのだろうか。まずは、この点に絞って見ていきたい。

 

 

天皇が時空を支配する?

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 まず、「クリスチャンは元号を用いるべからず派」の人々の主張を見ていこう。断っておくが、私はこの主張に賛同しているわけではない。だから、今から列挙するのは、私が「こういう主張がある」と聞いたり、またはネットで検索して「クリスチャン」と言っている人が主張していたものである。それゆえ、かなり精度が低い無理矢理な主張になっているが、ご容赦願いたい。なにしろ、私は元号廃止論者ではないので、自分で論理的にこのアイディアをサポートできないのである。 

<クリスチャンは元号用いるべからず論者の主張>

元号は古来、中国の皇帝が、時空を支配する思想に基づいて作られた。

元号は現在、天皇が時空を支配するという思想に基づいている。

・つまり、元号を使用すると、天皇が時空を支配していると認めることになる。

・クリスチャンが元号を使うのは、天皇の支配を認めることになるから、それは偶像礼拝である。

 

 いかがだろうか。確かにナルホド、一応、論理的ではある。「時空を支配??」という謎はあるが(笑)。

 聞くところによると、元号を使うのは良くない」と教えている牧師もいるようだ。あるクリスチャンの人は、「令和」に関する話をしていたら、牧師から「しないように」と指導を受けたという。あるクリスチャンの人は、役所の手続きで「平成」や「昭和」にマルをせず、二重線で元号を消して西暦を記入するようにしているという(運転免許証はどうするのだろうか・・・)。自分がそうするのは勝手だが、他の人にも同じようにするよう勧める人もいると聞く。

 そこまでする必要があるのだろうか。私の考えでは、全くないと思う。では、私がどう考えるのか、順番に述べたい。

 

 

▼時空を支配しているのはサタンである

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 天皇は時空を支配していない。聖書を見てみよう。

エスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます」

ヨハネ福音書 12:30~31)

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。

(コリント人への手紙第二 4:4)

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

(エペソ人への手紙 2:1~3) 

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

(エペソ人への手紙 6:11~12)

私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

ヨハネの手紙第一 5:19)

 

 これらの言葉から、悪魔、すなわちサタンがこの世を支配しているのだと、ハッキリ分かる。サタンは、「空中の権威を持つ支配者」なのである。しかし、これは神が負けてしまったという意味ではない。サタンは、神が許可した範囲でしか動けない。ヨブ記を読めば、それは明らかである。詳しくは、以前の記事を参照していただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 天皇は人間であるから(もはやこれに異論はないだろう)、時空の支配者などではない。今、この世を自己中心で、罪で満たしているのはサタンである。しかし、それは神の許可した範囲内でのことである。全てが神の権威の下に、神のコントロールの下で動いているのだ。つまり、時空の支配者は狭義ではサタンであり、広義では神ご自身である。天皇が時空の支配者となってしまうなどというのは、クリスチャンにとっては妄想であり、妄言である。

 

 

▼クリスチャンは神の支配の中にいる

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 エスを信じ、クリスチャンとなった人は、もはやこの世の支配、サタンの支配の下にはいない。神の支配の下にいる。聖書を見てみよう。

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(中略)私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

ヨハネの手紙第一 5:4~19)

御父は、私たちの暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

(コロサイ人への手紙 1:13~14)

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

(コロサイ人への手紙 1:16~17)

 

 実は、地上に存在する支配や権威は、全て神、イエスによって造られたものなのである。天皇が時空を支配しようが、サタンが支配しようが知ったこっちゃない。本当に支配しているのは、神ご自身なのだ。そして、イエスを信じたクリスチャンは、この世の支配から抜け出し、全く新しい存在として、神の支配の中へと移っているのである。

 

 イエスが、税金を納めるかどうかについて語ったエピソードをご存知だろうか。

彼ら(イエス一行)がカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生(イエス)は神殿税を納めないのですか」彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン(ペテロ)、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」

(マタイの福音書 17:24~27)

 

 イエスは、自分たちを「神の子」とした。これは、「神こそが王である」と宣言している部分でもある。この世界を本当に支配しているのは神なのだ。その子どもである私たちは、地上の王へ税金を納める義務は、本来はない。しかし、それだと信仰を勘違いされてしまう恐れもあるので、しっかりこの世の義務である税金は納めようではないか。これがイエスの教えである。

 本来、クリスチャンにとってこの世の支配者が誰だろうが、実はどうてもいいのである。本当に支配しているのは神なのだから。その神に信頼して、この世の義務も果たすのが、イエスが教えた「生き方」である。

 

 

▼聖書は人間の支配や暦を受け入れている

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 また、聖書はこの世の権威に対して、このように書いている。

 

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は、自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びていないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです。すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

(ローマ人への手紙 13:1~7) 

そこで、私(パウロ)は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。

(テモテへの手紙第一 2:1~4)

 

 聖書は、権威のために祈るよう勧めている。時の支配者は、ローマ帝国であった。また、イスラエルを支配していたのは、本来、外国人だったヘロデなどの王たちであった。支配者たちが、イエスを信じるクリスチャンを迫害していた、そんな時代である。

 そんな中であっても、聖書は「上に立つ権威に従うべき」「王たちと高い地位にある人のために祈りなさい」と教えているのである。非常に興味深い。聖書は、この世の支配を認めず逆らえとは教えていない。むしろ、彼らに従い、法を遵守し、彼らのために祈るよう教えているのである。

 であるならば、天皇であろうが、総理大臣であろうが、日本という国が様々な歴史を経て、象徴なり三権の長とした「人間」に対して、クリスチャンが敬意を払い、彼らのために祈るのは至極当然である。民主主義の国において、国民主権の価値観のもと、公正な選挙で選ばれたリーダーをリスペクトし、彼らのために祈るのは、クリスチャンにとって推奨されるべきことである。

 

 また、聖書はユダヤ暦以外の暦も使用している。例えば、以下のような箇所もある。

 

アルタクセルクセス王の第20年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき・・・

(ネヘミヤ記 2:1) 

こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシアの王ダレイオスの治世の第2年まで中止されたままになった。

エズラ記 4:24)

クセルクセスの時代、クセルクセスが、インドからクシュまで127州を治めていた時のことである。クセルクセス王がスサの城で、王座に着いていたころ、その治世の第3年に、彼はすべての主張と家臣たちのために宴会を催した。

エステル記 1:1~3)

ユダの王ゼデキヤの第10年、ベブカドネツァルの第18年に、主からエレミヤにあったことば。

エレミヤ書32:1) 

ペルシアの王キュロスの第3年に、ベルテシャツァルと名付けられていたダニエルに、あることばが示された。

(ダニエル書 10:1)

 

 聖書は、思いっきり他の国の王の治世の「年号」を用いている。エレミヤ書に至っては、ユダヤの王と他の国の王の治世の年号を併記までしている。もし、他の国の王の治世で年月を表すのが、「悪いこと」なのであったら、聖書記者たちはユダヤの暦で換算し直して表記しただろう。しかし、このようにありとあらゆる他の国の王の治世で年月が記されている。つまり、年号を使おうが使うまいが、結局のところどうでもいいのである。あなたが元号を使っても、使わなくても、神がこの世界を支配している事実は変わらないのだから。

 

 

▼結局、どっちでもよくね?

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 とどのつまり、元号を使ってもいいし、使わなくてもいいのである。それは、聖書からみれば、どっちでも良い。元号を使っても、使わなくても、サタンは神の許可する範囲内でこの世を支配している。神の権威は、そのはるか上にある。クリスチャンにとって大切なのは、元号を使わないことではなく、この世の支配者のために祈り、自分の義務を果たすことである。エネルギーを裂く方向を間違えてはいけない。

 結局のところ、今回の結論は、次の聖書の言葉に要約できる。

ある日を別の日より大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(中略)私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

(ローマ人への手紙 14:5~14)

 

 「元号」そのものには、何の効力もない。「それ自体で汚れているものは何一つない」のである。しかし、「元号」を使うのは偶像礼拝だと考える人にとっては、それは偶像礼拝になる。「それぞれ自分の心の中で確信を持つ」のが大切だ。

 私個人の意見では、「クリスチャンは元号は使うべからず」は、行き過ぎた主張だと思う。そして、信者たちに行政的な手続きのやり方まで指導し、他の人にそれを強制することは、たとえ牧師であっても「やりすぎ」だと思う。こと「元号」に関しては、個々人が自分で聖書を読み、神の前で正しいと思うようにすれば良いと、私は思う。

 

 

▼おまけ1:天皇制の是非という別の問題

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 「元号」については、述べた通りだ。この手の議論をすると、必ず天皇制の是非」について話題が及ぶが、これは全くの別問題である。この議論に深入りするのは避けるが、私個人の意見を簡単にまとめたい。

 まず、天皇は、「日本国の象徴」であり、「国民統合の象徴」である(憲法第1条)。皇位世襲であり、国会の決議した皇室典範により継承する(憲法第2条)。これらは全て、日本国憲法で規定されている。つまり、天皇憲法の規定に基づいた「象徴」なのである。

 天皇制には神道という宗教的なバックグラウンドがある。だから、クリスチャンは天皇を認めるべきでないという人もいる。私は、それには懐疑的な立場だ。そもそも「神道」自体が、極めて曖昧な、後の時代に「作り出された」宗教である。その儀式や伝統には、ユダヤ教ペルシャの宗教の影響が色濃く見える。おそらく、シルクロード、中国経緯で伝わったものだろう。西洋で破門された「ネストリウス派キリスト教」の影響もあると考えられる。天皇自体も、最初から文献があるわけではなく、後の時代にさかのぼって「こういう感じでした」という記述を、あえていえば「作り出した」のである。

 これは極めて日本的だ。「古事記日本書紀が作成されたのは8世紀。イスラム教の誕生が7世紀なので、それより後である。当時の日本は、文献がなかった。中国へ渡った大使たちが、中国の発展に追いつこうと、日本独自の「神話」を「作り出した」のである。同時に「天皇」という存在も、有り体に言えば「作り出した」のである。これは議論のあるところだろうが、私はそう考えている。極めて日本人らしい、「そういうことにした」という典型例である。

 以来、天皇は、ハッキリ言って「政治利用」され続けてきた。天皇は神と言いながら、歴史の中の権力者に利用されまくっていたのである。矛盾することをできてしまうのが、本当に日本人らしい。私は、取材する中で、「生物学的には、男系だけで子孫が保てるのは4代が限界」との声も聞いた。天皇はずっと同じ家系ではなく、養子や隠し子など、様々な、あの手この手を使って維持されてきたのである。これは、誰もが認める歴史的事実であろう。

 

 日本中が天皇を「神」だと考えていた時代でさえ、天皇は軍に利用されていた。GHQ天皇を尋問した際、昭和天皇が「私が止められる空気ではなかった」と供述したことに、西洋の人々は驚きを隠せなかった。「あなたは神ではないのか」。「決める権限はあなたにあるのではないか」。そう思ったことだろう。日本を支配しているのは、実は天皇でも政府でもなく、「空気」なのである(by山本七平)。

 そして、戦後、日本中の人々が、すぐに「天皇」を「人間」であり「象徴」だとして受け入れた。終戦が1945年8月で、憲法の交付が1946年11月である。この間、わずか1年3ヶ月。1年余りの間に、日本人は全く違う考え方を受け入れたのである。「そういうことにした」のである。これが日本人のサガであり、西洋の人々には決して理解できないだろう。

 

 まとめると、天皇日本国憲法で制定された立場である。これを否定するならば、憲法を変えないといけない。同時に、憲法には政教分離の規定もあり、天皇が形上、内閣総理大臣を任命したり、国会の開会を宣言したりするのは、憲法と矛盾する。実は、憲法には矛盾する内容が含まれていて、これを受容しているのも、また日本人的と言えよう。結局のところ、私は天皇制は無くならないと思っているし、無くならないなら騒いでも仕方ないと思っている。

 ただ、基本的人権」の観点から、天皇制を疑問視する声はあって当然だと思う。天皇は、生まれながらにして、職業選択の自由がない。信仰の自由もない。プライバシーもない。男子は一生皇族である。女性だって、結婚しようと思えば、週刊誌やワイドショーの標的になる。かわいそすぎないか。天皇だって、公務が詰め込まれ、ほぼブラック企業状態である。生まれた瞬間に自分の未来が決まっているというのは、基本的人権を主張する民主主義国家として、いかがなものか。そういう指摘はあって当然だとは思う。

 

 

▼おまけ2:キリスト教団体の主張について・憲法と聖書どちらが大切なのか

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 最後に、先に挙げたキリスト教団体の主張について、私なりのコメントをしたいと思う。上記の団体の声明は、いずれも憲法の「政教分離」の規定を根拠に、天皇皇位継承の儀式に税金を使うのはオカシイ、元号も使わないし、祝日も認めない、といった類のものである。

 別に、どんな要請をしたり、どんな声明を発表したりするのかは、個々の団体の自由である。ただ、私としては、これらの団体の主張を見て、憂慮する部分が2つある。

 ひとつ目の懸念は、これらの団体が、憲法をまるで聖書よりも大切かのように扱っている点だ。私たちクリスチャンが信じるのは、聖書の記述であって、憲法ではない。「憲法守れ!」と言う前に、聖書の記述に照らし合わせて、物事を捉えた方が良いのではないだろうか。これらの主張は、まるでクリスチャンが聖書を信じる人たちではなく、憲法を遵守する人たちに見えてしまうような気がしてならない。

 特に、聖光会の「かつて、天皇を 中心とした国家神道のもとで、植民地支配と侵略戦争をした反省の上に作られた憲法を守ることは、わたしたちの責任だといえます」という主張は、いささか行き過ぎだと思う。クリスチャンが守るべきは、神の言葉であって、人間が作った憲法ではない。しかも、憲法を守ることが責任ならば、その第1条、第2条で定められた「天皇」の存在を認めることになるが、それはいいのか。矛盾するのではないだろうか。憲法を守れと言いながら、主張そのものが憲法と矛盾しているのである。

 もう一つは、日本のキリスト教団体の中に、日本共産党の思想が入り込んでいるのではないか、という懸念である。例えば、「天皇が時空を支配する」などといった表現は、共産党特有の表現であり、これらが牧師たちの口から出てくること自体、私にとっては驚きである。

 参考までに、共産党・志位委員長の公式見解を掲載する。(参考URL)

慣習的使用に反対しないが、使用の強制に反対するーー新元号の発表にさいして

2019年4月1日 日本共産党委員長 志位和夫

 一、元号は、もともとは中国に由来するもので、「君主が空間だけでなく時間まで支配する」という思想に基づくものである。それは日本国憲法国民主権の原則になじまないものだと考えている。

一、わが党は、国民が元号を慣習的に使用することに反対するものではない。
 同時に、西暦か元号か、いかなる紀年法を用いるかは、自由な国民自身の選択にゆだねられるべきであって、国による使用の強制には反対する。

一、政府は、これまでも「一般国民にまで(元号の)使用を強制することにはならない」ことを「政府統一見解」として明らかにしている。
 この立場を厳格に守ることを、あらためて求める。

 いかがだろうか。元号反対派の牧師たちが口にする言葉と、驚くほど似ていないだろうか。 

 共産党の思想が、良いか悪いかを論じるつもりはない。彼らはれっきとした公の政党である。しかし、同時に公安調査庁が、破壊活動防止法に基づき、調査対象団体に指定している団体でもある事実は、バランスの面から述べなければならない。

 個々の政治的思想は自由なので、別にクリスチャンが共産党員になっても構わない。しかし、本来、クリスチャンの信仰と共産党の思想は、完全に別物である。全く別の考えが、キリスト教団体に入り込んではいないか。近年、共産党は「宗教団体との対話」と称して、キリスト教団体との交流を進めている。私は、この動きに対して、懸念を持っている。

 クリスチャンの信仰は聖書に基づくものである。クリスチャンの信仰は、憲法に基づくものでも、共産党の思想に基づくものでもない。エスを信じて生きることと、共産党の思想は、全く関係がない。教会や団体のリーダーたちには、自分の政治的思想と、聖書を教えることや、教会の共同体を牧会することを、きちんと区別していただくよう、願うばかりである。

 

(了)

 

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「明日、晴れますように」と祈るのは正しいのか?

クリスチャンの中で、たまに「明日は絶対晴れます!」と言う人がいますが、それは正しい姿勢なのでしょうか?

 

 

▼「なんで雨なんだよ!」と神にキレる先輩

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 大学時代、クリスチャンのサークルの新入生歓迎イベントに参加した。典型的な新歓バーベキューだった。駅で先輩たちと待ち合わせたのだが、当日はあいにくの雨。しかも、結構ザーザー降っていた。しかし、バーベキューは中止にはならず、決行された。

 バーベキュー場につくと、先輩たちが寒そうに傘をさして待っていた。すると、実行委員のとある先輩が、空に向かって何やら叫び出した。「神様! あんなに晴れるように祈ったのに、なんで雨なんだよ!! なんでだよ!!! ふざけんなよ!!!!」全身全霊で神に向かって怒りを表現している先輩に、私は唖然とした。まわりの新入生もドン引きだった。ご利益的な信仰と、その祈り通りにならならず神に対して怒っている姿に全力でツッコミたかった。結局、それがキッカケで、そのサークルに対して悪い印象しかなくなった。

 このように、「神様明日晴れにしてください」とか「神様に祈ったら絶対晴れるよ」といった言葉は、クリスチャン同士の会話でよく耳にする。一般的には、天気予報などを加味して、雨天時の予定を組んだりするのだが、クリスチャンの中には、「晴れるように祈ったから、絶対晴れるよ!」と楽観的な意見を述べる人がいる。そこまで強行的でなくとも、「晴れるように祈ろう」という人は多い。

 果たして、これは「信仰」と呼べるものなのだろうか。今回はその点を議論したい。

 

 

▼神には天気を左右する力がある

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 聖書は、「晴れるように」など、天気を左右する祈りについて、どう書いているのだろうか。実は、晴れや雨など天気について祈る行為の是非について、聖書には全く記述がない。禁止も推奨もされていないのである。

 当然、神が天気をつかさどっているという記述はある。神がこの世界のすべてを造ったのだから、当たり前なのだが、いくつかその例を挙げてみよう。

 

<エジプトでの雹>

「私(神)は明日の今頃、エジプト始まって以来、今までになかったような恐ろしく激しい雹を降らせる。それゆえ、人を遣わして、あなたの家畜と、野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいて家に連れ戻さないものは、人も家畜もすべて、雹に打たれて死ぬであろう」ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕や家畜を家に避難させた。しかし、主の言葉に心を止めなかった者は、その僕や家畜を野に放置した。(中略)そこで、モーセは杖を天に向って差し伸ばした。こうして主は、エジプトの地の上に雹を降らせた。雹が降り、雹の間を炎が駆け巡った。その激しさは、エジプト全土で国が始まって以来ないほどのものであった。雹は、エジプト全土で野にあるすべてのものを、人から家畜に至るまで打った。雹はまた、野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた。ただし、イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった。

出エジプト記 9:18~26 聖書協会共同訳)

  これは、有名な「エジプトでの10の奇跡(災い)」の一部である。神がエジプトに猛烈な雹を降らせたという記述だ。ただし、イスラエル人が居住するエリアには雹が降らなかった。神が天気をコントロールしているのが分かる。

 

イスラエルの戦いでの雹>

主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので、イスラエルはギブオンで彼らに大打撃を与え、さらにベト・ホロンの坂道を追い上げて、アゼカとマケダまで彼らを追撃した。彼らがイスラエルの前から逃れ、ベト・ホロンの下り坂にさしかかったとき、主<しゅ>は天から大きな石(雹)を降らせた。それはアゼカに至るまで降り続いたので、多くの者が死んだ。石のような雹に打たれて死んだ者は、イスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった。

ヨシュア記 10:10~11 聖書協会共同訳)

 イスラエルの民が、アモリ人と戦争した時、神が雹を降らせた。イスラエル人が戦争で殺した人より、神による雹に打たれて死んだ人の方が多かった。戦争に勝利するのは、人の力ではなく、神の力によるものだとハッキリ分かる出来事である。

 

<太陽が一日の間留まる>

こうして、主がアモリ人をイスラエルの人々の前に渡された日、ヨシュアイスラエルの見ている前で主に語った。「『太陽よ、ギブオンの上にとどまれ。月よ、アヤロンの谷にとどまれ』すると、太陽はとどまり、月は動きをやめた。民がその敵に報復するまで」これは『ヤシャルの書』に記されているとおりである。太陽は丸一日、中天にとどまり、急いで沈もうとはしなかった。この日のように、主が人の声を聞き入れられたことは、後にも先にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。

ヨシュア記 10:12~14 聖書協会共同訳) 

 何とビックリ。太陽が一日中とどまり、沈まなかったとの記述である。神は、太陽の動きをコントロールする力を持っている。もっとも、近年の研究では、この記述は日食ではないかとの指摘もあるようだ。

 

<太陽が十度戻る>

 ヒゼキヤ(王)がイザヤ(預言者)に、「主が私を癒やされ、私が三日目に主の神殿に上ることができるというしるしは何でしょうか」と問うと、イザヤは、「これが主からのあなたへのしるしです。主は約束されたことを必ず実行されます。日影が十度進むか、十度戻るかです」と答えた。するとヒゼキヤは、「日影が十度伸びるのはたやすいことです。むしろ日影を十度後戻りさせてください」と頼んだ。そこで預言者イザヤが主に叫ぶと、主は、日時計、すなわちアハズの日時計に落ちた日影を十度後戻りさせられた。

(列王記下 20:8~11 聖書協会共同訳)

 ヒゼキヤ王は病気になった。ヒゼキヤは、神に熱心に祈って、癒やされることになった。ヒゼキヤは、預言者イザヤにその証拠を求めると、イザヤは「太陽が十度進むか、戻るか、どちらかを選べ」と提案する。ヒゼキヤは、太陽を十度戻すよう願うと、神は実際に太陽を十度戻したのであった。神は、太陽を止めるだけでなく、戻すこともできるのである。

 

<預言の中に見られる神の力>

春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は雷雲をもたらし、人々に豊かな雨を与え、すべての人に野の草を与えられる。

(ゼカリヤ書 10:1 聖書協会共同訳)

 預言書の中には、神が自然をコントロールしている様が、よく描かれる。神は、雨も風も雷も支配している。季節も天気も、神が差配しているのが分かる。特にここは、雨が非常に貴重な中東ならではの、神が雨を与えるという約束である。

 

預言者エリヤの時の大雨>

ギルアドの住民であるティシュベ人エリヤ(預言者)はアハブ(王)に言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年間の間、露も降りず、雨も降らないであろう」(中略)それから多くの日を重ねて三年目のことである。主の言葉がエリヤに臨んだ。「さあ行って、アハブの前に姿を現しなさい。私はこの地に雨を降らせる

(列王記上 17:1~18:1 聖書協会共同訳)

 イスラエル王国のアハブ王の時代、長い期間の干ばつがあった。実は、信仰を捨てていたイスラエル王国を戒めるために、神が干ばつを起こしたのであったそして、3年語には大雨を降らせた。雨を降らせるのも、降らせないのも、神のさじ加減なのである。よくこの箇所を引用して、「預言者エリヤのように天気を祈るべきだ」という人がいるが、それは間違いである。天気を支配するのは、私たちの祈りではなく、神ご自身の主権と力である。

 

 このような例を見ると、神がいかに偉大な力を持っているか分かるだろう。神は天気を司っている。この点には、聖書の神を信じる人にとっては、全く異論のないところであろう。問題は、どんな理由で天気を祈るかという、そのモチベーションである。

 

 

▼「明日晴れますように」という自己中心

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 なぜ、天気について祈るのか。例えば、「明日、屋外で教会のイベントがあるから、天気になるように祈りましょう」というケースで考えてみたい。当然、その理由は、イベントが問題なく開催される為である。ということは、「自分たちが企画したものがうまくいくように、神様どうか天気を晴れにしてください」と祈っていることになる。

 この動機は、ハッキリ言って自己中心以外の何物でもない。例えば、「晴れになってほしい」と祈る際に、同じ地域で「雨が降るように」と祈っている人がいたら、どうなるのか。例えば、あなたが企画したイベントの裏で、「どうしてもマラソン大会に出たくない、神様どうか雨を降らせてください」と願っている、いたいけな少女がいるかもしれない。命をかけて練習してきた陸上選手が、たまたまその日体調が万全でなく、雨天順延を願っているかもしれない。

 クリスチャンだけが特別なのだろうか。「明日は絶対晴れます」とか断言してしまうクリスチャンは、他の人を慮る想像力がまるでない。ハッキリ言って、自己中心である。

 ましてや、同時に同じエリアで、2のクリスチャンのうち1人が「晴れにしてください」と祈り、もう1人が「雨にしてください」と祈っていたらどうなるのか。神はどちらの祈りを聞かれるのだろうか。より神に信頼している人の祈りを聞くのだろうか。そうではないだろう。

 結局、神が晴れにすれば晴れるし、雨にすれば雨が降るだけなのである。大事なのは、晴れになっても雨になっても神に感謝して生きる態度である。

 よく、雨天時の対応を考えると「不信仰だ」などと、わけのわからない指摘をしてくるクリスチャンがいるが、意味不明だ。屋外でイベントをやるなら、晴天時と雨天時の対応を考えるのは、当たり前である。不信仰などではない。

 

 

預言者エリヤの祈りはどうなるのか

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 こう言うと、聖書にこう書いてあるではないかと言う人もいるだろう。

預言者)エリヤは、私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ると、3年6ヶ月にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ると、天は雨を降らせ、大地は実りをもたらしました。 

ヤコブの手紙 5:17〜18 聖書協会共同訳)

 

 これは、先に挙げた、神がイスラエル王国を戒めるために、預言者エリヤを通じて3年間の干ばつを起こした出来事の引用である。エリヤは、雨が降らないように祈ったではないか。だから我々も天気のために祈っていいのではないか。そう指摘する人は、前後の文脈を読んだ方が良い。

あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主(神)の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります。エリヤは、私たちと同じ人間でしたが・・・

ヤコブの手紙 5:13~16 聖書協会共同訳)

 

 この部分で書いているのは、「イエスを信じるコミュニティの中で、お互いに祈り合いなさい」という勧めである。弱っている人を、祈りをもって互いに助け合いなさいという記述である。決して、雨が降るよう祈れとか、晴れになるよう祈れという意味ではない。天気が自分の思い通りになるという「信仰」は、果たして「信仰」なのか、アヤシイと私は思う。

 そもそも、エリヤが雨が降らないように祈ったのは、当時のイスラエルという国家への預言のためである。神が雹を降らせたり、大雨を降らせたり、太陽を戻したりしたのは、いずれも王や預言者など、イスラエルの民の国家的リーダーたちに対して示した「しるし」であった。決して、教会なイベントとか、新歓バーベーキューのような、チンケなものではない。スケールが全く違う。

 また、旧約聖書の時代の人々にとって、天気は暮らし、いのちをも左右する重要なものであった。しかし、現代の日本に生きる私たちは、たとえ天気がどうあろうと衣食住には困らないのだから、いちいち天気について心配したりする必要はない。ただ、例えば大地震とか、台風とか洪水のような、人のいのちにかかわるような災害が起こらないように祈るのは、私は全く問題ないと思う。むしろ、神を知る前に、そのような災害で多くの命が失われないよう、祈った方が良い。

 これは決して、神の主権を認めない話などではない。当然、神は天気をコントロールする力も主権も持っている。それを、自分の都合のために願うというのは、越権行為であり、自己中心ではないかという指摘だ。イエスもこう祈っているではないか。

(イエスは)少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この盃(十字架)を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに

(マタイによる福音書 26:39 聖書協会共同訳)

 

 イエスは、十字架という使命についてさえも、「どうか去らせてください」と祈った。興味深い。しかし、最後には「私の望むようにではなく、御心(神の計画)の通りになるように」と祈ったのである。

 私たちは、このイエスの姿勢に学ぶべきではないか。ましてや、私たちが祈る天気のことなど、十字架に比べたら100億倍も小さなこと。「天気がよくなるように」と祈ってもいいかもしれない。だけれども、結果はどうあろうと、神に感謝して生きることが大切なのだ。決して、「神様、なんで雨なんだよ!」とキレてはいけない。そもそも、バーベキューをやる前に天気予報が出ていたのだから、新入生の気持ちを考えたら、屋内に切り替えたほうが賢かった。例の先輩は、自分のプランに拘るあまり、皆をドン引きさせる結果となってしまったのだ。

 

 

▼結局はモチベーションが一番大事

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 結局のところ、「心の動機」が全てである。あなたが天気について祈るのは、どのようなモチベーションなのだろうか。「自分の信仰を宣言したまで」と言う人もいるが、本当にそう思っているのだとしたら、ちょっとその信仰は自己中心的かもしれない。聖書がいっているのは、私たちがどのような状況でも、神に従い、愛し合い、赦し合い、支え合い、神を自慢し、喜び、感謝する「生き方」なのである。晴れなら感謝しよう。雨でも感謝しよう。聖書にこう書いてある。

 

きょうだいたち(※イエスを信じる仲間たち※)、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主<しゅ>にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。あらゆる悪から遠ざかりなさい。

(テサロニケの信徒への手紙 5:12~22 聖書協会共同訳)

  

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【まとめ】クリスチャンの離婚・再婚についての考え方

離婚、再婚。社会においては、もはや「普通」のことになりましたが、クリスチャンはこのテーマについてどのような考え方をすれば良いのでしょうか。

 

 

▼デリケートなテーマにつき

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 「クリスチャンは、離婚や再婚についてどう考えているの?」ある友人からそう聞かれた。私は答えにつまった。自分の中で、ある程度の考えはあった。しかし、正直いって真剣に考えてこなかったテーマでもあった。離婚や再婚は、もはや現代社会においては珍しくない。それゆえ、実際に離婚した人、再婚した人、ご両親が再婚した人など、当事者の方が大勢いる。それはクリスチャンであってもそう変わりない。

 このような内容の記事を書くのを、私はためらっていた。当事者の方たちの人間関係やアイデンティティに関わる話であるし、何といっても私は結婚経験のない独身者だからである。私に離婚や再婚について書く権利はない。そう思っていた(筆者は2020年に結婚した)。

 けれど、友人からそのように聞かれ、少なからずこのテーマについて悩んでいる人がいると気がついた。そして、結婚、離婚、再婚は、人間の人生において非常に重要なテーマであると再認識した。その結果、ある程度このブログでもまとめておく必要があるだろうとの結論に至った。このような経過から、今一度聖書を調べ直し、私なりの考えをまとめてみた。読者の方々は、これはあくまでも、私の個人的意見であるという点をご理解いただいた上で、参考程度に読み進めていただければ幸いである。また、この記事で扱うのは「クリスチャンの離婚・再婚」であることを念頭に置いてほしい。

 

 

▼聖書の基準をどのように適応するか

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 聖書は、現代に生きる私たちにとって、どのようなものなのか。ある人は、「聖書は一言一句誤りのない神の言葉だ」と言い、ある人は、「聖書はそのまま現代に適応できない」と言う。ある人は「聖書は人生のマニュアルだ」と言い、ある人は「聖書は人生の指南書ではない」と言う。

 私は、どちらかと言えば、「聖書は神の言葉」として捉える立場だ。当然、聖書の言葉は、生き方の基準になると、私は考える。だから、こんなブログを書いている。しかし、時代背景、言語や文化の違いを、よく踏まえた上で聖書を読む必要があると思う。特に、聖書は、一義的には昔のユダヤ人に対して語り継がれ、後に文字で記された書物であるという点を忘れてはならない。外国人である現代の私たちは、よくよくその点を理解し、聖書の文章を解釈する必要がある。当然、翻訳によって起こりうる弊害も考慮すべきだろう。

 そう考えれば、旧約聖書にある「律法」の規定のほとんどは、私たち外国人を直接的に縛るものではない。それは自明の理だろう。新約聖書はどうか。新約聖書には、イエスが示した基準、「使徒」たちが示した基準、現代の私たちにも当てはまる部分、当時の文化背景のみに適用すべき部分などが混在していて、どこで「ライン」を引くかは議論がある。もしかすると、聖書をソックリそのまま、「現代の人生マニュアル」のように読む読み方は、危険かもしれない。

 しかし、旧約・新約に関わらず、聖書の記述を通して、私たちが「いかに生きるか」をうかがい知ることはできる。聖書には、神がデザインした「生き方のヒント」がある。聖書は、私たちの心の動機を明らかにする。聖書は、人の過ちを浮き彫りにする。

 聖書がどんなものか、聖書自体が宣言している。

聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。

(テモテへの手紙第二 3:16~17 聖書協会共同訳)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル人への手紙 4:12)

 

 私の意見では、聖書はマニュアルではないが、「生きる基準」にはなりうる。では、今回のテーマ、「離婚・再婚」について、聖書は何と言っているのか、私なりにまとめたい。

 

 

▼聖書の「結婚観」について

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 「離婚・再婚」を語る前に、まず聖書の「結婚観」を語らないといけない。「結婚」は、旧約・新約にまたがる、聖書の一大テーマだ。その中でも、一番重要なのは、以下の言葉だろう。

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記2:24)

 

 これは、神がアダムとエバの2人を創造したときの記述である。男は、女と結ばれ、その2人は「一体」となる。2つの別々の存在が、「結婚」という概念によって、「ひとつの存在」となるのである。これは、聖書の後々のメッセージの伏線でもある。

<2つのものが1つとなる例>

ユダヤ人 と 外国人(異邦人)が ひとつになる。(ローマ11章、エペソ2章)

・キリスト と 信者の集まり(教会)が ひとつになる。(エペソ5章・黙示録21章)

・聖書の神 と 人間が ひとつになる。(コリント人への手紙第一6章)

 

 新約聖書のエペソ人への手紙は、特にこの「結婚」の概念について解説している部分である。エペソ人への手紙の筆者であるパウロは、上に挙げた創世記の一部を引用し、結婚の概念について説明している。

私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

(エペソ人への手紙 5:30~33)

 

 また、「結婚」は聖書の最初の書物「創世記」で登場し、最後の書物「黙示録」でも描かれる。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(中略)また、最後の7つの災害で満ちた、あの7つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降ってくるのを見せた。

ヨハネの黙示録21:2~10)

 

 ここでは、キリストを「花婿」として、キリストを信じる者たち(≒新しいエルサレム)を「花嫁」として描いている。イエスは、福音書の中で何度も自分を「花婿」に例えて話していた(例:マタイ9章、25章など)。黙示録で描かれる「花婿」はキリストを指し、「花嫁」はイエスに信頼する者たちを指す。聖書の最初と最後に「結婚」が描かれているのである。

 

 まとめると「結婚」は、聖書が描く最も大切なもののひとつである。結婚は、「2つのものが、ひとつとなる」という概念であり、聖書の最初から最後まで示されている基準である。聖書の基準から言えば、「結婚」は、「両性による不可逆的な契約」である。

 異論はあるだろう。しかし、この部分は譲れない。創世記は、ハッキリと「男と女」の関係として「結婚」を表している。また、先に挙げ「違う性質の2つのものが、ひとつになる」という「結婚」の特性を鑑みれば、やはり「両性による」と考えた方が、私はしっくりくる。それが「神のデザイン」だと思う。「不可逆的な」と「契約」の部分は、次の議論と重なってくるので後で議論する。

 ひとまず結婚は定義できた。さて、今回のメインテーマである、「離婚・再婚」について見ていこう。

 

 

旧約聖書の「離婚」の基準

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 聖書は「離婚」について何と言っているのか。旧約聖書の「モーセの律法」にその記述がある。

人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出ていって、ほかの人の妻となり、さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻として、あとの夫が死んだ場合には、彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

申命記 24:1~4)

 

 これは、直接的に離婚を許可した規定ではない。しかし、離婚が前提となっている規定である。

 旧約聖書の価値観では、この箇所を根拠に「離婚」は許容されていた。しかし、男性のみに許された限定的な権利であった。それは、当時の価値観で、女性は男性の所有物のように見なされていたからだと考えられる。例えば、聖書で人口を数える時、特に断りのない場合は、基本的に男性の人数のみの記述になる。現代人が聞くと「なんて不条理な」と思うかもしれないが、それが当時の価値観だったのだ。

 離婚は、基本的には限定的な規定であった。上記の聖書の言葉のように、離婚できたとしても、一定の成約があったと考えられる。離婚した相手が別の人と再婚した場合には、同じ相手との再婚は禁じられていた。旧約聖書の世界で「離婚」は許容されていたが、元々は、例外的な規定だったと考えた方が良い。   

 しかし、それが次第に、「男性の権利」と捉えられ、簡単に離婚できるようになってしまったのだろう。新約聖書の人々の反応を見ると、男性側が妻を気に入らなくなった場合、すぐに離婚してしまうような社会だったのだと想像される(※現代にソックリ)。例えば、子どもができないとか、家事をサボるとか、料理がマズいとか、態度が悪いとか、そんなささいな理由もあったのかもしれない。この状況に対して、イエスは物申すのであった。

 

 

▼イエスが示した「離婚」の新基準

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 さて、そんな社会に対して、エスは全く違う基準を示した。エスは、聖書本来の基準を示したのである。聖書の言葉を見てみよう。

また、「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」と言われていました。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

(マタイの福音書 5:31~33)

だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。

(ルカの福音書 16:18)

 

 以上が、イエスが言った言葉である。エスはハッキリと、「妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになる」と言っている。「姦淫」とは、ギリシャ語で「モイケイア」。不倫の意味である。このように「離婚」は、神によるデザイン通りの人間の生き方ではないと、イエスはハッキリ示している。

 

 少し長いが、他のイエスの言葉も見てみよう。

パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、初めの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです」弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受けいられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい

(マタイの福音書 19:3~12)

すると、パリサイ人たちがやって来てイエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか」彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました」イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません」家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです

(マルコの福音書 10:2~12)

 

 いかがだろうか。イエスが引用したのは、先に挙げた「創世記」や「申命記」の旧約聖書の基準である。エスは、旧約聖書を用いて、「離婚は姦淫である」という明確な基準を示した。「淫らな行い以外の理由で」とあり、不倫が理由なら離婚できるようにも読めるが、これについては諸説あるので後述する。

 ポイントは「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」という部分である。エスの言ったことをベースに、コンセプトをまとめてみよう。

・神は人を男と女とに造った。

男と女は結婚によって、一体となる。

・結婚した瞬間に、2人がひとつの存在となる。

・肉体の接触においてひとつとなる(性交・婚姻関係・肉体的な段階)

・そして、霊的な概念においてもひとつとなる(霊的な段階)

結婚は、「神が結び合わせるもの」である。

神が結び合わせたものを人が引き離してはならない。

・霊的段階において、人は、神が結び合わせたものを引き離せない。

・妻を離縁することは姦淫(≒不倫)である。

・別の女と結婚することは姦淫(≒不倫)である。

 

 イエスの示した基準に対して、弟子たちは「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」と反応した。これは驚くべき反応である。この部分は、当時「離婚」が男性だけの権利だった社会状況を如実に示している。当時の男性にとって、女性は「パートナー」というより「財産」に近かったのだ。子どもを産み、子孫繁栄するというのが、もっぱら当時の女性の役割だった。

 イエスの言葉は、そんな当時の社会常識に対して一石を投じたもので、離婚を禁じたものではないという解釈もある。一定程度、その解釈も理解はできる。確かに、私もイエスの力点は「離婚を禁じる」方ではなく、「簡単に離婚するなよ」という方に置かれていると思う。

 しかし、「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」という言葉が、私にはどうも引っかかる。この言葉は、「神が結び合わせた2人を、人間によって引き離すことは、”本質的にはできない”」とも理解できる。詳しくは後述する。

 私個人は、「結婚は、霊的にひとつとなる契約である」と考える。神の前に、霊的にひとつとなった2人は、もはや人によっては引き離せないと、私は考える。それは、「不可逆的な契約」だからである。

 ちなみに「淫らな行い以外の理由」でなら離婚はOKなのか、という疑問が残っている。これについては諸説ある。ある人たちは、この基準をもって、「相手が不倫をした場合は離婚してもOK」と捉える。

 しかし、イエスの言った「淫らな行い」のギリシャ「ポルネイア」は、本来「不倫」を示す言葉ではない点に注目したい。「不倫」を表すギリシャ語は先に挙げたように「モイケイア」である。「ポルネイア」は、むしろ「婚前交渉」などの「正しくない性行為」を指す言葉である。イエスが「ポルネイア」という単語を、ここであえて使っているのには、意味があるのではないか。このことから、ある人たちは、イエスが言ったのは婚約時代の裏切り行為」を指すのだと解釈する。確かに、聖書協会共同訳の注釈では、「不法な結婚」との記載もある。

 私は、どちらかと言えば後者に近い立場である。なぜなら、先に挙げたように人の力で神が引き合わせた2人を引き離すことは、不可能だからだ。たとえ「不倫」という過ちを犯しても、夫婦関係の修復は可能である。霊的概念では、一度結婚という契を結んだ2人は引き裂けない。一度「ひとつ」となった2人を引き裂けるとすれば、それは「死別」のみである。そしてそれは、神ご自身だけの権威である。使徒パウロは、その点を明確に示した。では、見ていこう。

 

 

パウロが示した「離婚・再婚」の基準

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 使徒パウロは、イエスの発言をベースとした基準を示した。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。

(コリント人への手紙第一 7:10~16)

 

 パウロの手紙の中には「これは神ではなく、私の勧めだ」と断っている部分もある。しかし、この部分は「命じるのは私ではなく主(神)です」と明言している。ここは、注目すべきポイントだ。だから、この部分を指して「この箇所は、この時代におけるパウロ個人の意見である」という指摘はしにくい。

 興味深いのは、パウロがこの箇所で、夫と妻の双方に命じている点である。イエスが新基準を示すまでは、「女性は男性の財産」として扱われた。しかし、イエスはその常識に物申した。パウロは、ユダヤ教の常識ではなく、イエスの言葉をベースに、「男も女も、離婚してはならない」という基準を示したのである。いわゆる「男女平等の権利と義務」を示したのである。

 

 パウロは、この箇所で「再婚」についても基準を示している。パウロの示したオプションは2つである。

<既に離婚している場合の基準>

1:再婚せずに、独身のままでいる。

2:離婚した相手と和解し、その相手と再婚する。

 

 パウロが示した「再婚」の基準はこの2つである。つまり、「再婚」したい場合は、あくまでも、離婚した相手との和解を目指すべきであって、他の相手は想定されていないのである。さもなければ、独身のままでいるべきだと書いてある。

 これは、正直いって、とても難しく、厳しい基準である。一度離婚に至った相手との再婚は、並大抵の覚悟ではできない。しかし、そのありえない和解が実現するのが、神の人知を超えた働きである。

 し再婚を考えているクリスチャンの方がいるなら、まずは別れた相手との和解を第一に考えて、祈り、行動するのをオススメする。茨の道だが、その先には大きな神の計画の道があると、私は思う。「人にはできないことも、神ならできる」のである。

 また、「信者でない方が離れて行くなら、離れて行かせなさい」というのは、イエスの言葉にはなかった新しい基準だ。信者である人と、信者でない人が結婚している場合、信者である方から離婚は切り出せないが、信者でない側からは離婚ができるとも読める。私はある程度、その考えを支持する。しかし、これは決して「再婚の容認」ではない。パウロが示したのは、あくまでも例外的な規定である。

 

▼再婚できるもうひとつのケース

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 再婚についての規定は、明らかである。聖書は、最初に結婚した相手以外との再婚について、基本的にネガティブだ。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。

(コリント人への手紙第一 7:10~11)

 

 しかし、例外の規定もある。以下の聖書の言葉を見てみよう。

結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男の物となっても姦淫の女とはなりません。

(ローマ人への手紙 7:2~3)

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。

(コリント人への手紙第一 7:39~40)

ですから、私が願うのは、若いやもめ(60歳以下)は結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。

(テモテへの手紙第一 5:14)

 

 この部分を読むと分かるのは以下である。

・初婚の相手とは、どちらかが死ぬまで結ばれている。

どちらかが死んだら、結婚する自由がある。

・ただし、「主にある結婚」(相手が信者と解釈するのが素直であろう)に限る。

・しかし、どちらかが死んだ後でも、結婚せずにそのままでいられるなら、その方が良い。

  

 パウロは、自身の考えを明確に示した。初婚の相手とは、相手が死ぬまで結ばれているのだ。私が、先ほど「霊的にひとつである」「不可逆的な契約」と書いたのは、そのためである。それを解除できるのは、どちらかが死んだときのみ。すなわち、生死を司る天の神だけが、その権限を持っているのである。

 パウロは、独身のままでいるよう勧めている。これについては議論があるが、パウロが再婚の規定を話している部分で「私のように独身でいられるなら・・・」という趣旨の話をしているのは興味深い。この再婚規定の部分をもって、パウロは配偶者との死別経験者だという人もいる。既婚者男性だけが「サンヘドリン」(最高法院・地方法院)のメンバーになれたというのが、ひとつの根拠となっている。

 パウロは、もしかすると配偶者との死別を経験し、覚悟を持って独身のままでいる生き方を選んだのかもしれない。

 

 

▼聖書で「再婚」した例

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 聖書で「再婚」した人たちを挙げてみよう。全てではないが、主な人物は以下である。

【タマル】

 再婚というより、死んだ兄の跡継ぎを産むために、再婚させられた。長兄である配偶者が死んだため、当時の習慣によって、夫の弟オナンと再婚した。しかし、オナンは、いわゆる「外出し」をしたため、神の怒りを買って死んでしまった(※「オナニー」の語源とも言われる)。タマルは、売春婦のフリをして、元夫の父ユダを騙し、肉体関係を持って子どもを産んだ。このときの子どもが、イエスの祖先となる。 

【サムソン・サムソンの最初の妻】

 結婚式の後に、サムソンの妻は、別の男に妻として与えられた。結局、ペリシテ人によってその女は殺されてしまった。サムソン自身は、その後デリラと結婚するが、彼女はサムソンが命を落とす原因となった。一応、サムソンは、妻の死後に再婚したケース。双方がネガティブな結果を迎えている。

【ルツ】

 ナオミの息子に嫁いだが、夫に先立たれてしまった。ナオミの勧めで、ボアズと再婚する。ダビデの祖先となる。夫との死別後に再婚したケース。

 【ミカル】

 ダビデの妻となったが、サウル王が取り上げて別の男に与えていた。サウルの死後、ダビデはサウルの側近だった将軍アブネルと交渉して、ミカルを妻として取り返した。しかし、ミカルはダビデをバカにしたので、子どもができなかった。政略結婚させられ、破棄され、また戻るという、非常に特殊な再婚のケース。また、王の妻である。

【バテシェバ】

 元々、ヘテ人ウリヤの妻だったが、ダビデと不倫をして、妊娠してしまう。夫のウリヤはダビデの策略により戦死。その後、ダビデの妻となる。ソロモンの母。イエスの祖先となる。一応、夫の死後に再婚したケース。また、王の妻である。ちなみにバテシェバは、息子ソロモンに対抗してクーデーターを起こし、失敗したアドニヤの肩を持つなど、人格的にも問題があったと考えられる。

 【アビガエル】

 ナバルという悪者の妻だった。しかし、ナバルがその悪さのために死んだ後、ダビデの妻となった。夫の死後に再婚したケース。また、王の妻である。こう見ると、ダビデの妻はほとんど再婚である。

【ホセア】

 神から、預言者の特別な使命として、預言のために売春婦の女と結婚する。その女が自分を捨てて、去ってしまっても、預言のために神に命じられて、再びその女を愛するようになる。神の使命による超例外的な再婚のケース。

 

 以上、聖書に記述のある代表的な再婚のケースを挙げた。いずれも、例外的なケースである。しかも、預言者や士師(民族のリーダー)、国家の王、王の妻といった特殊な立場の人間ばかりであった。それでもなお、ほとんどのケースは、「配偶者の死後」というのがひとつの基準となっている。

 長くなったが、以上のイエスパウロの示した基準から、私は、以下の2つのケース以外の離婚・再婚は、決して望ましくないと思う。

<離婚が考えられる2つのケース>

1:配偶者が信者ではなく、かつ信者でない方が離婚を望む場合。

2:配偶者が不倫した場合。ただし関係修復に努力するようオススメする。

 <再婚が考えられる2つのケース>

1:配偶者と死別した場合。

2:配偶者と離婚し、後にその相手と和解して再婚する場合。

 

 結婚は、2人がひとつになるという、両性による不可逆的な契約である。それは神の計画である。私はそれを信じる。それが神のデザインだと思う。

 それゆえ、クリスチャンの離婚はありえないと考える。ありえないというのは、離婚してしまったらダメという意味ではない。実務的に離婚はできても、霊的には切り離すことはできないのではないか、という意味である。

 信者でない人との結婚は、新約聖書では基本的に想定されていない。信じたときに、配偶者が既にいて、その人が信者でなかった場合のみ、信者でない方が離婚したいと言うなら、例外的に離婚はできる。しかし、それは例外規定」であるのを忘れてはいけない。それ以外の再婚は好ましくないし、もし再婚しても、昔の「結びつき」が消えることはない。

 相手と死別した場合は、自由に再婚できる。しかし、独身のままでいられるなら、もっと良い。これが、聖書の言葉がから読み取れる(と私が思う)基準である。

 しかし、既に再婚しておられる方もいるだろう。その場合は、離婚する必要はどこにもないと、私は思う。パウロも「今ある状態に留まれ」と勧めている。今ある「不可逆的な契約」を、ぜひ大切にしてほしい。今目の前にいる人を、どうか幸せにしてほしい。それに、力と思いを注いでほしいと思う。

 

<私の考えまとめ>

・結婚は、2人がひとつになるという、両性による不可逆的な契約である。

・それゆえ、クリスチャンの離婚はありえない。これはイエスが明言している。

・イエスを信じた時点で既に未信者と結婚している状態で、かつ相手から離婚を望む場合に限って離婚できる。

・不倫も離婚の理由になり得るという解釈もあるが、私はその立場ではない。まずは関係修復に努力するようオススメしたい。

・もし離婚してしまって、相手が存命中に再婚したいのであれば、初婚の相手との関係改善、和解につとめ、その人との再婚を目指すことをオススメしたい。大変つらい茨の道だが、その先の喜びは大きいと思う。人には不可能なことも、神ならできる。

・それ以外の再婚は好ましくないし、新たな相手とは霊的に結ばれることはできない。なぜなら、霊的には、既に初婚の相手と結び合わされており、それが解かれるのは死別した場合のみだからである。

神が結び合わせた結婚を、人が引き離すことは良くないし、そもそもできない。それができるのは、神のみであって、その方法は「死」だけである。

相手と死別した場合は、自由に再婚することが可能。しかし、独身のままでいられるなら、その方が好ましい。

既に再婚している人は、ぜひ今の相手を愛してほしい。大切にしてほしい。再び離婚しないように努めてほしい。

・既に肉親が離婚・再婚している方は、「間違いだ」と言うのではなく、家族をぜひ大切にしてほしいと思う。もし、この記事で誰かを傷つけてしまったら申し訳ない。

 

 

▼当然ありうる反論

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 以上、聖書から読み取れる基準を羅列した。しかし、実際問題、この原則を突きつけるだけでは解決しないケースがたくさんある。

 現実として、やむを得ない離婚も数多く発生しうる。暴力・DV(ドメスティック・バイオレンス)、度重なる不倫、犯罪、多額の借金、ドラッグ依存、アルコール依存、脳の病気、相手の気が狂う、結婚詐欺、子どもへの暴力やネグレクト、相手がイエスを否定するようになる、相手がクリスチャンだと思っていたら実は違った、相手が勝手に不倫をした挙げく別の人と結婚する、等々・・・。この世の結婚観は既に、めちゃめちゃに崩壊していて、修復不可能だ。人間は罪深いので、そのような間違いは、どんなに気をつけていても、誰にでも起こりうる。

 特に、家庭内暴力(DV)やドラッグ依存などは、離婚しないと命が危ないケースもある。特にDVに関しては、結婚前に見抜けない場合も多い。また、結婚後に相手がイエスを信じるのを「やめてしまう」場合、「実はイエスを信じていなかった」という場合も結構ある。これは、クリスチャンにとっては想像を絶するほど辛いことだ。

 そういう人たちに対して、あくまでも「原則」を突きつけ、「離婚は罪だ」とは、私はとても言えない。今までの記述を否定するようだが、上記はあくまでも「聖書が示す生き方の基準」である。例外は当然ある、と私は思う。イエスがもし現代社会にいたら、あまりにも簡単に離婚や不倫をする世の中に対して一石を投じるだろう。しかし、それと同時に、離婚して傷ついている人に寄り添い、慰めるというのもまた、イエスの姿ではなかろうか。

 教会の共同体・コミュニティにとって大切なのは、現実的にそういう問題が起こったときにどう仲間を勇気づけ、慰め、支えるかだと思う。「聖書の原則はこうだ」と突きつけ、相手を傷つけてしまうのは、同時に「互いに愛し合え」「さばいてはいけない」というイエスの言葉を無下にしてしまうことになる。離婚が「当たり前」になってはいけないと、私は思う。しかし、もし離婚せざるを得ないケースがあったら、その後どうしていくか、皆で支え、サポートし、寄り添うというのが、イエスを信じるコミュニティのあり方ではないだろうか。

 

 

▼結局は、神に従って生きるのが基本

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  以上、私の考えをまとめてきた。私は、クリスチャンの離婚に対してネガティブだ。その理由は、これ以上述べるつもりはないが、ここまで読んでいただけた方には理解してもらえると思う。もし離婚の危機にいるカップルがいらっしゃるなら、まず相手との関係改善のために、何ができるか考えてほしいと思う。

 しかし、現実的に離婚は起こりうるし、そうしないと命が危ないケースもある。もし離婚がコミュニティ内で起こった場合は、皆でその人を支え、励まし、慰め、勇気づけ、寄り添うというのが大切である。 「離婚歴」があるからといって、特定の立場になるのを制限したり、特定のコミュニティ内の役割を制限するのは、もってのほかだと思う。

 また、既に離婚してしまった方はいるだろうか。私は、大変言いにくいのだが、再婚するなら、元の相手を前提に考え、関係修復に全力を挙げることをオススメしたい。しかし、もし私自身が離婚してしまったと考えると、関係修復に努力したり、そのまま独身で居続ける自信は、正直言って無い。もしあなたが、再婚できないことで傷つきすぎて、イエスに信頼できなくなってしまうのであれば、元も子もない。その場合は「再婚」も一考していいと、私は思う。しかし、それが本来の神のデザインではないと知っておく必要はあると思う。

 結局のところ、神に従うというのが一番の基本である。そのためには「心の動機」を調べるのが重要である。自分はなぜ離婚したいのか。なぜ再婚したいのか。今一度、胸に手を当てて考えてみてはどうだろうか。究極的には、神に従う選択が一番なのだ。自信を持って、神に従っていると言えれば、それで良し。もし言えないのであれば、自分の「心の動機」がどこにあるのか、考えてみよう。おのずと、答えは見えてくるのではないだろうか。

 

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。

(伝道者の書12:13〜14)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。