週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【聖書】イエスが受けた3つの誘惑とは?

エスが荒野で悪魔から受けた3つの誘惑があります。そこから得られる教訓とは?

 

 

▼荒野の3つの誘惑とは

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 イエスは、ヨハネからバプテスマを受けた。その後、メシアとしての公の活動を始める前に、荒野で悪魔の試みを受けたというエピソードがある。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書にそれぞれ記述がある。

それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

(マタイの福音書 4:1)

それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは40日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。エスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。

(マルコの福音書 1:13)

さて、イエス聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、40日間、悪魔の試みを受けられた。

(ルカの福音書 4:1~2)

 

 これらの誘惑を、イエスはなぜ受ける必要があったのか。面白いことに、マタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書に共通しているのは、「御霊に導かれて」という表現である。神の霊、聖霊がイエスを導き、この荒野での悪魔の誘惑を体験させたのだ。つまり、イエスにとって、通らなければいけなかった道だということである。

 マルコの福音書にはこの記述しかないが、マタイの福音書とルカの福音書には、さらに詳細な記述がある。エスは、悪魔から3つの誘惑を受ける。マタイとルカでは、誘惑の順番が違うが、内容はほぼ同じ。マタイをベースに簡単にまとめると以下である。

【イエスが受けた誘惑】

1:石をパンに変えてみよ。

2:神殿の屋根から飛び降りてみよ。

3:私を拝んでみよ。そうすれば、この世の王国と栄華をあげよう。

 

 この3つの誘惑は、果たしてどんな意味があったのか。そして、そこから得られる教訓は何か。今回は、このイエスと悪魔のやり取りについて考えてみよう。

 

 

▼1:奇跡を乱用する誘惑

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 最初の悪魔の誘惑を見てみよう。今回はマタイの福音書をベースにする。

そして40日40夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。すると、試みる者(悪魔)が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」。イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」

(マタイの福音書 4:2~4)

 

 荒野で40日間断食をしたイエスは、超絶空腹の中、悪魔から「そこの石ころを、パンに変えてみよ」と誘惑を受ける。この誘惑はどのようなものだったのか。イエスの返答を見ると、その本質がわかる。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる

 

 イエスは、ユダヤ人にとっての律法の大元である、申命記の記述を引用して悪魔に答えた。聖書の言葉を使って、悪魔に対抗したという姿勢は、我々も学ぶべきところだ。エスが引用した聖書の元の記述はこうである。

それで主(神)はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなた(イスラエル)も知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

申命記 7:3)

 

 主のことばで生きる。これが神がイスラエルに命じたことであり、イエスの生きる姿勢だった。実際、イエスは何度もこう言い、自分の意志ではなく、神の計画に従って生きる姿勢を強調している。

子(イエス)は、父(神)がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

ヨハネ福音書 5:19)

わたし(イエス)は、自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方(神)のみこころを求めるからです。

ヨハネ福音書 5:30) 

わたし(イエス)があなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父(神)が、ご自分のわざを行っておられるのです。

ヨハネ福音書 14:10)

 

 エスの生き方は、「神が思う通りに思い」「神が行う通りに行い」「神が話す通りに話す」というものであった。その心に、悪魔はこうささやいたのだ。「自分のために奇跡の力を使ってみろよ」と。神の計画通りに全てのことを行う。これがイエスの目的だった。自分のためではなく、神が定めた通りに、現在、過去、未来全ての人のために死ぬ。これが、イエスの目的だった。そのイエスの力を、「自分のため」に使ってみよという、自己中心的な行動へのいざない。これが、1つ目の誘惑の本質である。

 

 それだけではない。実は、もうひとつ、この誘惑のポイントがあるのだ。カギは誘惑のタイミングである。この時はどんな時だったか。40日間断食をした後、空腹状態で・・・というのも、もちろん重要なのだが、実はさらに大切な点がある。それは、この誘惑が、エスが宣教を開始する直前だったという事実である。

 イエスは、神と同一の存在で、神の心も知っていたので、この後、メシア(救い主)として様々な奇跡を行い、宣教をし、さらには十字架で死ぬという、自分の人生の目的も知っていただろう。さあ、いよいよ人生のクライマックスを始めるぞ! というタイミングになって、悪魔がささやいてきたのである。「さあ、奇跡の力を試してみないか・・・?」と。

 イエスが、この前に奇跡をバンバン、魔法のように使っていたとは考えにくい。となると、宣教を始める直前のタイミングに「お試し」をしたくなるのもうなずける。悪魔は、人間誰もが覚えるであろう、「心の不安」に漬け込んできたのである。

 メシアとしての公の活動を始める直前に、「これはほんのお試しだから」と、神への信頼を試した上で、「自分のために力を使ってみよ」という、自己中心的な思い、行動への誘い。これが最初の誘惑の本質である。

 

 

▼2:聖書の言葉を乱用する誘惑

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 2つ目の誘惑は何だろう。その部分を見てみよう。

すると悪魔はイエスを聖なる都(エルサレム)に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある

(マタイの福音書 4:5~7)

 

 ここで、悪魔は攻め方を変えてきている。1つ目の誘惑の際、イエスが聖書の言葉で対抗してきたため、なんと悪魔も同じように聖書の言葉を使って誘惑してきたのである。悪魔の引用した聖書の文章は、以下である。

わざわいは、あなたに降りかからず、疫病も、あなたの天幕に近づかない。主が、あなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道で、あなたを守られるからだ。彼ら(御使いたち)はその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする。

詩篇 91:10~12)

 

 悪魔が聖書の言葉を使うのを、意外だと思う人もいるのではないか。実は、悪魔は神の存在を認め、その恐ろしさのゆえに身震いしているし、神の言葉である聖書の中身も知っているのである。この詩篇の言葉は、「神に信頼する者は守られる」という文脈で語られている。決して、屋上から飛び降りても、天使が飛んできてスーパーマンのように助けてくれるという意味ではない。明らかな曲解である。

 ここで学ぶべきは、聖書の言葉でさえも悪用できてしまうという事実である。悪魔は、巧みに聖書の言葉を曲解させ、人に間違った判断をさせようとする。実は、アダムとエバも、この方法で騙され、失敗してしまったのであった。悪魔はエバに、神が命じた言葉の詳細を捻じ曲げてささやき、食べてはならない木の実を食べさせることに成功した(創世記3章参照)。

 同じように、私たち現代の人間も、聖書を曲解してしまう危険性がある。だから、常に「心の動機」に注意し、文脈や背景などを踏まえた上で聖書を読むべきだ。また、背景を知りながら、聖書の言葉の一部だけを抜き出し、曲解させようとする牧師や教師が後を断たない。神の言葉を軽んじるのは止めたほうがいいと、いつ分かるのだろうか。

 そのような人にだまされないように、普段から聖書の言葉を読み、親しみ、文脈を理解しておくことが大切だ。10分の1献金の強制や、安息日を日曜日に当てはめる教えなどは、その最たるものである。それらの教えを奉じている人々は、完全にこの「聖書の言葉を乱用する誘惑」に負けてしまっている。

10分の1献金や、安息日については過去の記事を参考)

 

 イエスはどう答えたか。またも、聖書の言葉によってである。

あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。あなたがたの神である主の命令、主が命じられたさとしと掟を必ず守らなければならない。

申命記 6:16~17)

 

 聖書を曲解する者に対しては、同じく聖書の言葉を突きつけるしかない。神の言葉を曲げて、神を試み、冒涜する者に対しては、適切な聖書の言葉を差し入れしてあげよう。

 知人に、旧約聖書に感化されて、「安息日に出歩くな」という記述から、「日曜日」に一切家から出ない、という極端な信仰を持っている人がいた。その人には、「安息日は土曜日ですよ」と伝えてあげたかったのだが・・・。

 

 

▼3:十字架を通らせない誘惑

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 さて、最後の誘惑である。これが最大の誘惑だったのではないかと考える。該当部分を読んでみよう。

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主のみ仕えなさい』と書いてある

(マタイの福音書 4:8~10)

 

 聖書の言葉曲解攻撃も効かなかったので、悪魔は最終手段に出る。「私を拝め」と言うのである。一見、これは、「そんなの拝むわけねぇじゃん」と思うような誘惑である。しかし、イエスにとっては違ったのだ。

 上にも書いた通り、イエスには自分がメシアという自覚があった。「人間イエス」が、自分はメシアという認識を完全に持っていたのか、部分的になのかは、議論がある所ではある。しかし、彼がメシアという使命を帯びていたのは事実である。

 メシアは、「救い主」と翻訳されるが、「王」でもあった。ユダヤ人の王」と書かれて十字架で死んだのは有名である。メシアたるイエスは、ユダヤ人だけでなく全人類の王、王の王である。いつかイエスはこの地上に帰ってきて、完全に王として君臨するとクリスチャンは信じている。私もそう信じている。

 つまり、悪魔が見せた「この世のすべての王国とその栄華」というのは、メシアたるイエスが、「いずれ手にするはずのもの」だったのである。しかし、それは、イエスが再び地上に帰ってくる時に得るものであり、まだその時は来ていなかった。

 実は、この誘惑は、ただの「悪魔崇拝」の誘惑ではない。なんとこれは、十字架を省略してしまえという誘惑だったのである。メシアたるイエスに、いずれ手にするはずの栄華を見せて、悪魔はこうささやく「ほら、キツイ十字架なんかやらなくたって、たった一度俺にひれ伏せば、この栄光と誉れを全部おまえにやるよ。俺のものだから、どうしようと俺の自由だ。なあに、簡単さ・・・十字架なんてめんどくさいもの、やらなくてもいいじゃないの」。こうして悪魔は、十字架での死、そして復活という、イエスの最大の目的を奪おうとしたのである。

 ルカの福音書の記述を見ると、悪魔は、「それら(この世の栄華)は、私に任されている」と語っている。面白い。本来、栄光は神のものであり、イエスのものである。それを、「私に任されている」と話している。私たち人間も、心のどこかで、「自分が賢いから」「才能があったから」「努力したから」と、自分自身に栄光を帰していないだろうか。常に、主権は神にあるということを忘れないことが大切だ。

 

 もちろん、我らがイエスはこんな誘惑に負けたりはしなかった。イエスは、またも聖書の言葉で対抗した。

あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。

申命記 6:13)

 

 イエスは、こうして完全に悪魔の誘惑に打ち勝ったのである。この3つの誘惑に対して、イエスが全て「申命記」の記述をもとに対抗したのは、とても興味深い。申命記」は、いわゆる「トーラー」(律法)と呼ばれる5つの書物の最後にあたる。イスラエルの民に対して、神が様々な規範や決まりごとなどの「律法」をまとめている書物である。

 悪魔の誘惑に対し、イエスは完全に「律法」を用いて対抗した。この律法は、後にイエスが示す「愛し合う」という律法の伏線となっているのであった。

 

 イエスの揺れ動かない姿勢に、悪魔は離れ去った。

 

すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。

(マタイの福音書 4:11)

 

 聖書の言葉を堅く握って話さない人は、誘惑に打ち勝つことができるのである。

 

 

▼なぜイエスは誘惑を受けたのか

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 最後に、なぜイエスが誘惑を受けなければいけなかったのかを述べる。イエスはメシアなのだから、こんなめんどくさい誘惑など受けずに、さっさと宣教を始めればよかったのではないか。否。明確な目的があったのだ。聖書にこう書いてある。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

(ヘブル人への手紙 4:14~15)

 

 なんと、イエスは、私たちの気持ちを体験するために、誘惑を受けたのである。しかも、この3つだけではない。「すべての点において」である。エスは、そこまでして、私たちと同じ目線にまで、身をかがめてくれたのである。

 

 それなら、私たちは、ここまでしてくれたイエスに目を留めようではないか。聖書の言葉をしっかり握って、心の中にある自己中心的な思いと戦おうではないか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】なぜクリスチャンはすぐ「サタン」のせいにするのか

クリスチャンの人に悩みを相談すると、「それ、サタンだね」とドヤ顔で言ってくるのですが、本当にそうなのでしょうか。

 

 

▼「それ、サタンだね」って何?

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 クリスチャンの人に悩みを相談すると、よく返ってくる答えがある。

 「それ、サタンだね」

 耳なじみのない人はビックリするだろう。どういう意味なのだろうか。

 「サタン」とは、言わずと知れた"悪魔"の通称である。旧約聖書には「サタン」と翻訳される言葉は、19回登場する。そのうちの16回「ヨブ記」で登場する。つまり、「サタン」は、ヨブ記独特の特殊な固有名詞である。他にも「サタン」という発音のヘブライ語旧約聖書に9回ほど登場するが、いずれも文脈などの理由から「敵対する者」と訳されている。新約聖書ではそれよりも多く、36回登場する。

 イエスが荒野でサタンの誘惑を受けたのは有名な話である(マタイ4章参照)。イエスは最後にこう言った。

そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主のみ仕えなさい』と書いてある」

(マタイの福音書 4:10)

 

 イエスでさえも、サタン(悪魔・敵意)の誘惑を受けたのだから、私たち人間はなおさらである。だから、クリスチャンが言う、「それ、サタンだね」というのは、その人が直面している困難は、「サタンのせいだ」「サタンの影響だ」という意味なのだ。

 言い換えれば、「あなたが難しい状況にいるのは、サタンがあなたを邪魔しようとしているからだ」という意味になる。言われた人は、ドキッとするだろう。でも、この指摘、的を得ているのだろうか。本当に、サタンという悪魔みたいな存在がウヨウヨ飛び回って、人間の邪魔をしているのだろうか。今回は、この「サタンだね」発言の是非について問うていきたい。

 

 

▼サタンじゃねぇよ、お前だよ

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 結論から言ってしまえば、「サタンじゃねぇよ、お前だよ」というのが私の意見である。なんでもかんでもサタンのせいにするクリスチャンは、責任転嫁をしていると、私は思う。そういう人たちは、いつまでたっても自分の言動に責任を持たない、フワフワした無責任な人間になってしまう。クリスチャンでない方の中には、「だからクリスチャンは信用できない」と思っている人もいるのではないだろうか。

 日曜日になると体調が悪くなって、教会に行けない? じゃあ行かなきゃいいじゃない! そんなのサタンでもなんでもない、ただの疲れである。だったらきちんと睡眠をとって休もう。教会の人間関係が嫌だから、精神的につらくて行きたくないのかもしれない。じゃあ、その人間関係をなんとかするために、自分から歩み来れることは何か考えて行動すればいい。

 聖書読みたくない気分? 甘えんな。サタンのせいにするな。忙しくてもメシは食うだろう。じゃあ霊のメシを食わなくてどうする。意地でも読みやがれ。読めないのは習慣がついていないからであって、サタンが邪魔しているからじゃない(大体、読まないから私はダメだという思考も間違っているのだが・・・)。

 結局、「それ、サタンだね」というのは、「思考停止」なのである。サタンのせいにして思考停止している暇があったら、現状を真正面から見つめて、具体的な解決策を練って、行動すればいい。そうすれば、たいていの問題は解決する。ウジウジしている暇があったら行動しよう。

 

 私は別に、サタンの存在を否定しているわけではない。前述した通り、「サタン」という表現は聖書に55回登場する。これは、「天の御国」(35回)や、「復活」(41回)よりも多い。何より、イエスが「下がれ、サタン」という表現をしているのだから、サタンというものがどういう形状であれ、その存在は否定できない。

 しかし、疑問なのは、「その困難は、本当にサタンの仕業なのか?」という点である。実は、聖書の中で、サタンが、直接的に人間の人生に介入したと明記してあるケースは、ほとんどない。かなり稀である。後述するが、サタンが誘惑したのは、どれもイスラエルの王レベルの指導者に対してである。しかもそれは、国の行く末を決める決断など、大きな岐路にたった時の話であって、細かい一人ひとりの人間の困難の原因がサタンだという記述は、実は全くと言っていいほど無い。

 私は大胆にこう言おう。あなたが教会の人との人間関係に難しさを抱えているのは、実はサタンが原因ではないかもしれない。普段のコミュニケーション不足が原因ではないか。自己中心的な、あなたの心が原因かもしれない。今一度、自分の胸に手をおいて考えてほしい。

 あなたが神からのビジョンだと思って突き進んだプロジェクトが上手くいかないのは、実はサタンのせいではない。そのビジョンは、実は神からの召しではなく、承認欲求を満たすための自己実現になっているのではないか。ただの準備不足から起こるエラーではないのか。チームワークを乱しているのは、サタンではなく、マネジメントができていない、あなた自身ではないのか。 

 そもそも、「全てうまくいく」のが神の計画とは限らない。使徒パウロは神に従ってから、命を狙われ続け、囚人にまでなった。イエスの弟子たちは、ほとんどが処刑された。信仰心にあついステパノは石打ちで死んだ。これは、サタンの仕業なのだろうか。否、聖書にはこう書いてある。

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

 

 なぜ苦しまなければならないのだろうか。詳細は過去記事を参考にしてほしい。

yeshua.hatenablog.com

 

 ひとつだけ、別の聖書の部分を紹介したい。

苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。

詩篇 119:71)

 

 神をもっと知るためには、ある程度の苦しみは必要なのである。

 

 

▼聖書で「サタン」が人に影響を及ぼしたケース

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 さて、サタンが実際に人間の人生に影響を及ぼしたことが明記されているケースは、聖書の中で意外と少ない。「サタン」と明記されていないものを含めても、アダムとエバダビデ、ヨブ、イエス、ペテロ、イスカリオテのユダ、アナニヤぐらいだろう(他にあればご指摘願う)。

1:アダムとエバ

「蛇」にそそのかされて、神に食べてはいけないと言われていた実を食べてしまった(創世記3章)。

2:サウル王

「主の霊が彼を離れ、『わざわいの霊』が彼をおびえさせた」との記述がある。(しかし、注意して読むと、この部分は「主<しゅ・神の意>からのわざわいの霊」とある。つまり、サウルを惑わしたのは、サタンではなく、神が送った霊によるのである。<サムエル記第一16章>)

3:ダビデ

「サタン」にそそのかされて、イスラエルの人口調査をしてしまったとの記述がある(歴代誌第一21章)。しかし、サムエル記第二の同じ部分の記述(24章)によると、「主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして・・・」とあり、ダビデをそそのかしたのは「サタン」ではなく、「主(神)の怒り」となっている。いずれにせよ、神の権威の範疇で行われたことである(※また、「人口調査」が悪いことなのか否かは議論があり、それについては、この記事に詳しく記載がある。ツイッターでご指摘いただいたアシェラさん、感謝)。

 4:ヨブ

「サタン」が神にヨブを貶める許可を求め、神が許可したという、有名なストーリーである。はじめに、神はヨブの財産をサタンが自由にするよう許可した。サタンにより、ヨブは10人の子どもを含む、全財産を失った。それでもヨブが信仰を捨てなかったので、ヨブの体をサタンが自由にするよう許可した。しかし、ヨブのいのちを取ることは許さなかった。結局、すべては神の権威の範疇で行われていたヨブ記1~2章)。

5:イエス

荒野で「悪魔」の試みを受けた。「石をパンに変えてみろ」「神殿の屋根から飛び降りてみよ」「私をひれ伏して拝め」という3つの誘惑をしたが、イエスは負けなかった。「下がれ、サタン」という有名な文言がある。このイエスと悪魔のやり取りについては、非常に興味深いので、これについては別途記事を書く予定(マタイの福音書4章)。

6:ペテロ

エスが、自分が殺され、3日目によみがえることを明示し始めると、弟子のペテロはイエスをわきに連れて、「そんなことが起こるはずがない」といさめた。師匠がヤバイことを言い出したので、静止しようとしたのである。すると、イエス「下がれ、サタン」と言い放った。ペテロびっくり。ペテロはイエスから唯一、「サタン呼ばわり」された人間である(マタイの福音書16章)。

7:イスカリオテのユダ

言わずと知れた、イエスを売った「裏切り者のユダ」である。彼に「サタンが入った」という明確な記述がある。しかし、これも、イエスの十字架での死と復活という、神の計画を実現させる一助となってしまった。サタンの働きが、かえって神の働きを実現してしまったのである(ルカの福音書22:3、ヨハネ福音書13:27など)。

8:アナニヤ

彼は、初期の教会のメンバーであった。その頃の教会では、各々が自分の財産を売って、分配し、コミュニティを形成していた。しかし、彼は売上金の一部をちょろまかして、金額をごまかして報告していた。ペテロが「アナニヤ、どうしてあなたはサタンに心を奪われ・・・」と言っているので、このリストに追加する(使徒の働き5章)

 

 人間が「サタン」と思われる存在にそそのかされた記述は、この8つしかない(と、思われる、追加あればご指摘願う)。

 これらを見て分かる教訓はいくつかあるが、まとめると以下である。

 

●サタンは神の許可がないと何もできない。

●全ては神の権威の範疇で行われている。

●サタンが働いても、結局神の計画が実現してしまう。

 

 つまり、サタンがどうそそのかそうが、全ては神の権威の範疇で行われているのである。仏の手のひらで踊る孫悟空よろしく、サタンも神の手のひらで踊らされているのである。

 であれば、神を信じたクリスチャンたちが、「サタン」といった小さな存在は恐るに足りず。気にする方が無粋である。それよりも、汚い自分自身の心に気をつけたほうが100倍いい。

 おそらく、エスがペテロに対して言い放った「下がれ、サタン」という言葉が強烈すぎて、多少聖書を読んだことのあるクリスチャンは、悪いことがあると全て、自分の中に悪魔がヒッヒッヒと高笑いしながら入り込んで悪さをするイメージが脳裏にこびりついてしまっているのだろう。そこから来る、「それ、サタンだね」である。

 しかし、これは全くの大間違い。サタンはあなたなんか見向きもしてない。勝手に自滅するような人間を、サタンは狙わない。サタンが狙うのは、イエスダビデやヨブやペテロといった「強敵」である(失敗してるけど)。私たちは、まず、自分の胸に手を当てて、自分自身の言動に気をつけようではないか。

 

 

▼サタンには注意、でも自己中心にはもっと注意!

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 もちろん、サタンには注意しなければならない。その「サタン」が、自己中心的な心を指すのか、はたまたフワフワと空中に浮いている黒くて尖ったしっぽを持っている悪魔を指すのかは、一旦置いておきたい。ただ明確なのは、聖書が明確に「サタン」に対して注意喚起をしていることだ。聖書を見てみよう。

(夫婦関係において)互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのあらかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。

(コリント人への手紙第一 7:5)

あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。それは、私たちがサタンに乗じられないようにするためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

(コリント人への手紙第二 2:10~11)

ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。すでに道を踏み外し、サタンの後について行ったやもめたちがいるからです。

(テモテへの手紙第一 5:14~15) 

 

 このように、特に新約聖書では、「サタン」に気をつけるように明確に指示をしている。「悪」にまで範囲を広げると、もっとわかりやすい。

主を愛する者たちよ。悪を悪め。

詩篇 97:10)

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。

(ローマ人への手紙 12:9) 

あらゆる形の悪から離れなさい。

(テサロニケ人への手紙 5:22)

 

 聖書は、私たちに「サタンの策略に注意せよ」、「悪から離れよ」と教えている。確かに、人間はすぐ道を外してしまう、弱い存在だ。注意するにこしたことはない。

 しかし、聖書は同時にこうも言っている。

しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。

(コリント人への手紙第二 11:14~15)

 

 サタンは、巧妙に変装して「クリスチャンのふりをして」近づいてくる。牧師とかが案外一番危ないので注意! (以前の記事を参照)

yeshua.hatenablog.com

 しかし、そうであっても、ぶっちゃけ「大したことではない」のである。サタンは、神に許可をもらわないと動けないような、小さな存在である。自分が神から離れさえしなければ、サタンは私たちに何もできない。サタンを恐れる前に、神を恐れよ!!!

 

 

▼サタンに注目するのか、神に注目するのか

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 イエスはペテロに対した何と言ったか、もう一度見てみよう。

下がれ、サタン。あなたはわたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。

(マタイの福音書 16:23)

 

 エスが問題にしたのは、ペテロが「神の計画より、人からどう思われるか」を優先したからである。言い換えれば、神に目を向けず、人に目を向けていたからである。

 私たちが一番注意しなければいけないのは、実はサタンの攻撃ではなく、「自分の心のズレ」である。自分の目線が、神から逸れていないか。これが一番重要なのである。

 実は、「それ、サタンだね」とか、「神様、サタンからお守りください」とギャーギャー騒いでいる人たちほど、神ではなくて、サタンに注目してしまっているのである。ビジネスの世界でも、目的を達成することがフォーカス(焦点)で、リスクヘッジ(トラブル回避)はその目的を達成するためにするものである。目的がボヤボヤで曖昧なくせに、ありもしないリスクを心配して、騒いでどうするの? といった感じだ。そういうのを、「杞憂」という。

 サタン、サタンと騒ぐ人に限って、サタンに焦点が言ってしまっている。こうなると、もうサタンの策略にハマっている。クリスチャンが語るべきは、「サタン」というリスクではなく、どうやったら神をもっと知れるのかだ。どうやったら神の愛で人を愛せるか。それを実行できるか。どうやったらこの素晴らしいイエスをより明確に伝えられるのか・・・etc。

 クリスチャンが語るべきは、イエスマジすごくね?! ということであって、サタンについてではない。サタンなぞ気にせず、ゴールであり、目的であり、全てであるイエスについてもっと語り合おうではないか。心にあることが、口から出てくるのだから。

 

 私たちに必要なのは、「サタンに攻撃される」と怯えることではない。自分の「心の動機」が、「神」に向いているのか、それとも「自分」に向いてしまっているのか、いつも吟味することこそ、本当に必要なことなのである。

 あなたがミニストリーをする、本当の「心の動機」は何だろうか。たまに、ミニストリーが「居場所」となっている人を見かけるが、それは危うい。ミニストリーは、あなたの自己実現をする場所ではない。神の福音を伝える場所だ。勘違いしないでほしい。そんなの、「サタンの攻撃」以前の問題である。有名な牧師や宣教団体のリーダーほど、この「自己承認欲求」が目的となってしまっているケースを、本当によく見かける。あぁ・・・。

 あなたが教会に集う理由は何だろうか。あなたが聖書を読む理由は何だろうか。あなたが長々と祈る理由は。あなたが献金をする理由は。あなたが福音を伝える理由は。あなたが賛美を歌う理由は。あなたが作曲をする理由は。あなたが宣教旅行に行く理由は。あなたがキリスト教団体の職員になる理由は。あなたが牧師になる理由は。あなたが教会役員になる理由は・・・etc。

 

 問うていけばキリがない。

 

 実は、ほとんどが「サタンの攻撃」以前の問題だったりするのだ。

 

(了) 

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】なぜ神を「父」と呼ぶのか

キリスト教では、「父なる神」とよく表現しますが、神は男性なのでしょうか。なぜ神を「父」と呼ぶのでしょうか。

 

 

▼神は男性なのか?

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 キリスト教の世界では、よく神を「父なる神」と表現する。「父・子・聖霊」の「三位一体」<さんみいったい>という言葉も、なじみがあるだろう。祈りでも、「愛する天の父よ・・・」と始める場合も多い。

 ここでひとつの疑問が生まれる。神は男性なのだろうか。神は性別を超越した存在ではないのだろうか。なぜ神を「父」と呼ぶのだろうか。そこに意味はあるのか。遠藤周作は「母なる神」とも表現した。神を「母」と呼んではいけないのだろうか。

 今回は、神の「父」という呼び名について書く。

 

 

▼「父」という単語の使用例

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 旧約聖書で、神を直接父と呼ぶシーンは、ほとんどない。「父」という意味の「アブ」は、旧約聖書に1215回も登場するが、その中で神に対して用いられているのは、ほんの数回だ。旧約聖書で「父・アブ」は主に次のような意味で用いられる。

1:肉親の父親

2:自分たちの先祖(例:アブラハムヤコブなど)

3:王や民にとっての助言者・預言者(例:ヨセフ、預言者エリヤなど)

4:自分の主君(例:サウル王、ナアマン将軍など)

5:イスラエルの神

 

 1番は言わずもがな、日本語の「父親」と同じ意味だ。もちろん、この意味で用いられているケースがほとんどである。

 2番は日本語としては特殊だが、先祖を指す意味だ。英語でも「ピルグリム・ファーザーズ」というように、同様の表現がある。特に、イスラエルの民の先祖である、アブラハム・イサク・ヤコブを指して使われる場合が多い。これは新約聖書でも変わらない。

「私たちの父はアブラハム」(ヨハネ8:39)

「私たちの父イサク」(ローマ9:10)

「私たちの父はヤコブ」(ヨハネ4:12)

「私たちの父であるダビデ」(使徒4:25)

 

 3番の「助言者・預言者」に対してというのは、特殊な用法だ。実際の使用例を見てみよう。

ですから、私(ヨセフ)をここ(エジプト)に遣わしたのは、あなたがた(ヨセフの兄弟たち)ではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。

(創世記 45:8)

 

 これは、ヨセフがエジプトでファラオに次ぐ権力者になった時のセリフである。権力No.1はファラオだったが、実際の政治を行っていたのはヨセフだった。ヨセフはファラオにとっての「助言者」だったのだ。一番の権力を持っているのはファラオだったが、全ての政治はヨセフのさじ加減で動いていた。だから大胆にもヨセフは「神は私をファラオにとって父とした」と言えたのだ。これは3番の用法である。

 同じように、「助言者、預言者を父と呼んだ他の例としては、「ミカが若いレビ人に対して」士師記17:10)、預言者エリシャが預言者エリヤに対して」(2列王記2:12)、イスラエルの王が預言者エリシャに対して」(2列王記6:21)などがある。イスラエルの王が、自分より権力がないはずの預言者に対して、「わが父よ」と言ったのは非常に興味深い。

 

 これとほとんど同じだが、若干違う用法がある。4番の「自分の主君」に対して用いる場合である。ダビデは、サウル王を「わが父よ」と呼んだ。

わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着の裾をよくご覧ください・・・

(サムエル記第一 24:11)

 

 ダビデは、自分のいのちを狙っているサウル王に向かって、「わが父よ」と親密な形で呼びかけた。こうしてダビデは、サウルの心を、たとえ一時的であっても溶かすことに成功している。敵意がないことを示すために、怒っている相手に対して、あえて親密な表現を用いているのだ。

 以前、別の記事でも紹介したナアマン将軍の家来たちも、同じようにナアマンに対して「わが父よ」と呼びかけている。

そのとき、彼(ナアマン将軍)のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか」

(列王記第二 5:13)

 

 ナアマン将軍は「助言者」や「預言者」ではなかった。しかし、家来たちはナアマンを「わが父よ」と呼んだ。自分が仕えている人に向かって敬意を示す呼び方だったのだろう。この時も、ナアマンは自分の期待通りに物事が進まず、激怒していた。怒っている将軍をなだめるために、この家来たちも、あえて親密な表現を用いたのだろう。

 他にもヨブが、自分自身を「貧しい者の父」と呼んでいる(ヨブ29:16)。ヨブは大富豪であり、他の人々の生活を支えていたのかもしれない。

 旧約聖書において、「父・アバ」は、通常の「肉親の父」以外に、「助言者」や「預言者」、また「主君」を指す意味で用いられる。しかし、それは特殊な用法だ。ましてや、神自身を「父」と呼んでいる例は極端に少ない。それでは、その数少ない例。5番の「イスラエルの神」の考え方を見てみよう。 

 

 

▼神を「父」と呼ぶシーン

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 そもそも、旧約聖書で誰かに対して「わが父よ」と呼びかけた例は少ない。見てみよう。

<「わが父よ」と呼びかけた例>

1:ダビデがサウル王を「わが父よ」と呼んだ(1サム24:11)

2:ナアマン将軍のしもべがナアマンに「わが父よ」と呼びかけた(2列王5:13)

3:イスラエルの王(ヨラム)が預言者エリシャを「わが父よ」と呼んだ(2列王6:21)

 

 実は、旧約聖書の中では、王や預言者などに対して「わが父よ」と呼びかけることはあっても、神に対して「わが父よ」と呼びかけた例はない。

 

 「わが父よ」とは呼ばずとも、神を「私たちの父」と呼んだ例は主に3つある。

<神を「私たちの父」と呼んだ例>

1:ダビデイスラエルの神を「私たちの父」と呼んだ(1歴代29:10)

2:イザヤが神を「私たちの父」と呼んだ(イザヤ63:16) 

 

 この場合の「父」は、あくまでも、「民族の神」としての「父」である。同じような表現がエレミヤ3章にもあるが、これは神自身が「あなたがたがわたしを父と呼び」と言っている部分で、「私たちの父」と呼んだわけではない。

 神を「私たちの父」と呼ぶ。これは、旧約聖書の中の律法に根拠がある考え方だ。

主<しゅ>はあなた<イスラエル>を造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。

申命記 32:6)

 

 たしかに、旧約聖書の律法の中に、「神はイスラエルを造った父」との記述がある。しかし、これは個人的な「私の父」という呼びかけではない。あくまでも「民族の神としての父」だ。神に対して、「わが父」などとは、とても言えない時代だったのである。 ダビデやイザヤが神に対して「私たちの父」と言ったのは、超例外的な大胆な告白として、もうひとつは、後の時代を預言してのことであった。

 

 「神はイスラエル民族の父」、これはイエスの時代も常識だったようだ。ユダヤ人たちも、イエスに対してこう言っている。

すると、彼ら(ユダヤ人)は言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます

ヨハネ福音書 8:41)

 

 ユダヤ人たちは、あくまでも、「私たち、ユダヤ人の神はひとりだ」と言っているのであって、個人的な「父」と呼んでいるわけではない。彼らにとっては、あくまでもイスラエル民族として生まれることが、「神の子ども」なのであり、神はイスラエル民族の父」であったのだ。

(蛇足だが、「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではない」・・・この言葉は、結婚前のヨセフとマリアから生まれたイエスを皮肉っているのかもしれない・・・)

 

▼イエスによるパラダイムシフト

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 しかし、イエスは、これらとは全く違う概念を示した。エスは、神を「わたしの父」と呼んだ。何度も何度も、神を「わたしの父」と呼び、「自分は神の子である」と同時に、「自分は神と同一だ」と宣言したのである。

エスは彼らに答えられた。「わたしの父(神)は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」

ヨハネ福音書 5:18)

わたしと父とは一つです。

ヨハネ福音書 10:30)

 

 イエスがこのように、神を父と呼び、神を自分を同一かのように言ったために、ユダヤ人はイエスを殺そうとするほど迫害した。

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。エス安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

ヨハネ福音書 5:18)

 

 ユダヤ人にとって、「神を自分の父と呼ぶ」という行為は、殺そうとするほどまでのタブーだったのである。しかし、イエスは何度も何度も、神を「わたしの父」と呼んだ。エスは、それまでのタブーを打ち破る、パラダイムシフトを起こしたのであった。

 それだけではない。イエスは私たちを「兄弟」と呼んでくださるのだ。

それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです

(マタイの福音書 12:49~50)

 

 兄弟・・・つまり。私たちはイエスと共に、神を「わたしの父」と呼べる権利を頂いたというわけだ。パウロがこの衝撃の事実を、以下のように解き明かしている。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子供であるなら、相続人でもあります。私たちは、キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(中略)神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

(ローマ人への手紙 8:14~29)

 

 イエスが長子(長男)となり、私たちはイエスとともに、「神の子ども」とされたのである。これは、イスラエル人にとっては衝撃的な事実であった。それまでは、イスラエル民族に生まれることが、「神の民」となることだったのだから。

 しかし、イエス「神の霊を受ける者」「神のみこころ<思し召し>を行う者」は全て、「神の子ども」だ! というとんでもないパラダイムシフトを起こしたのだった。文脈を読み取ると、この際の「神のみこころ(思し召し)」とは、「互いに愛し合う」という意味である。愛を実行に移す者は誰でも・・・イスラエル人であっても、外国人であっても、等しく神の子どもになれる特権が、イエスによって与えられたのである。

 私たちは、このイエスを信じるだけで、神の子どもとされる特権が与えられている。信じられない、途方もない特権である。この事実によってのみ、私たちは神を「私の父」と呼ぶことができるのである。

 もちろん、イスラエルがなくなり、私たちが「霊的イスラエル」になったわけではない。イスラエルと外国人の「区別」はある。ローマ書11章を読めば明らかである。そこだけは誤解なきようお願いしたい。

 

  

▼おまけ:実は「神の母性」の言及が聖書にある?!

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  イエスを信じる者たちが、「神のこども」とされる特権を得たのは分かった。それでは、「神は男性」なのか? という疑問が残る。答えはシンプルにNOだ。神は霊的な存在なので、性別を超越している。

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

ヨハネ福音書 4:24)

 

 世の終わりの神の国では、人間もこのように、「男」や「女」という区分から超越するのかもしれない。このような記述がある。

復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

(マタイの福音書 22:30)

 

 また、聖書には神の母性を感じるような部分もある。

女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたし<神>は、あなたを忘れない

イザヤ書 49:15)

 わたし<イエス>は何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえ<エルサレム>の子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

(マタイの福音書 23:37)

 

 神やイエスが、自身の母性を感じるような発言をしているのは、驚きである。しかし、よく考えると当然だ。神は性別を超越している存在なのだから、父的な性質も、母的な性質も、様々なキャラクターを持ち合わせているのである。

 では、なぜイエスは神を「父」と表現しているのだろうか。これだけでまた別記事が書けてしまうが、理由はいくつかある。ひとつは、神の性質を表すのに男性の性質を用いた方がより適切だったのだ。文化的にも、言語的にも、習慣的にも。それは、多かれ少なかれ、現代でも同じだろう。これは、決して女性が軽んじられているという意味ではない。神が男性だという意味でもない。あくまでも、神の性質を父親に例えて示しているにすぎない。

 もうひとつは、当時の異邦の神々に「女神」が多かったので、それらと区別するという意味があった。女性は子どもを産むことからか、五穀豊穣の神々は、「女神」の場合が多かった。神の「父性」を強調した背景には、天地を創造した唯一の神を、それらの神々と明確に区別するという意味合いがあったのだろう。

 

 イエスは、神を「わたしの父」と呼んだ。神の存在は、常に、ヘブライ語でもギリシャ語でも男性系の文法で示された。私自身は、これに意味がないとは思えない。私はどうも遠藤周作のように「母なる神」と呼ぶのは違和感はある。しかし、大切なのは「神が男か女か」ではない。

 男も女も、「神のかたち」になぞらえて造られた存在なのだから。

 

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を想像し、男と女に彼らを創造された。

(創世記1:26〜27)

 

(了)

 

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】どこからが「伝道」なのか?

クリスチャンはよく「伝道」と言いますが、何をしたら伝道なのでしょうか?

 

 

▼「伝道」という言葉の違和感

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 クリスチャンたちはよく、「伝道」と言う。「でんどう」と読む。電動モーターとか、熱伝導とかの「でんどう」ではなく、「道を伝える」という意味の「でんどう」である。一般的には、ほぼほぼ聞かない単語ではないだろうか。「伝道者<でんどうしゃ>」という言葉は、たまに耳にするのかもしれない。

 一般的に「伝道」は、神やイエスの救いについて伝えることを指す。日本人には「布教」といった方がなじみがあるだろうか。私個人としては、「伝道」と「布教」は違うニュアンスがあると感じる。「伝道」はイエスの救いを伝えること、「布教」は「キリスト教」という宗教の信者を増やすといったイメージがある。これは似て非なるものだ。

 「伝道」とはイエスの救いを伝えること。私はそう思っていたが、クリスチャンの世界では、どうも少し違うニュアンスでこの言葉を用いる人がいるらしい。根幹は同じなのだが、教会や団体によって、微妙に違うのだ。ある人たちは、「教会に誰かを連れて行く」のを「伝道」だと言う。ある人たちは、「道端にいる人に突然声をかけ、イエスの救いを、決められた手順で解説すること」を「伝道」だと言う。ある人たちは、「『神を信じなければ地獄へ行く』という黄色い看板を持って立つこと」が「伝道」だという。

 これでは、混乱してしまう。何が伝道で、何がそうではないのか、そもそも伝道とは何なのか。今一度考えてみようではないか。

 

 

▼「伝道」ってそもそも何?

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 まず、「伝道」とは何かハッキリさせる必要がある。実はなんとビックリ。「伝道」という言葉は、一度も聖書に登場しない。一度もだ。ただし、「伝道者」なら旧約聖書で7回、新約聖書で3回の、計10回登場する。では、それぞれの意味を見ていこう。

 

 旧約聖書の「伝道者」は、ヘブライ語「コヘレト」である。「コヘレト」は、旧約聖書に7回登場する。実は、この単語、7回全てが同じ本(※旧約聖書は39種類の本で成り立っている)で使われている。つまり、それ以外の聖書では全く出てこない、極めて特殊な単語なのである。その本の名前が、文字通り「伝道者の書」。翻訳によっては、「コヘレトの言葉」と呼ばれる、ソロモン王が書いたとされる本である。

 この「コヘレト」という単語が曲者だ。何しろ、この本でしか出てこない特殊な固有名詞で、確実な意味が分からない。日本語では「伝道者」となっているが、「コヘレトの言葉」という発音をそのままカタカナ表記した翻訳からも分かるように、本当のところは、なかなか分からないのである。英語だと、多くの翻訳が「Preacher」(説教者)と表記している。一部の翻訳(NIV)では「Teacher」(教師)と訳している。ヘブライ語辞書を見ると、「言葉を集める者」「教える者」「語る者」などの意味があるようだ。

 

 新約聖書はどうか。こちらはもっと少なく、「伝道者」は3回しか登場しない使徒21:8、エペソ4:11、テモテ第二4:5)。ギリシャ語の「伝道者」はユアンゲリテステイス」という単語で、日本人なら耳なじみのある「エヴァンゲリオン」の語源となっている単語だ。英語では、このギリシャ語から来て、evangelistsエヴァンジェリスト)と言う。

 この単語の意味は、辞書を見ると、「良い知らせを伝える人」となっている。この「良い知らせ」というのは、単純に言えば、イエスが何をしてくれたのかを指す。辞書の最後の項目には、「新約聖書使徒以外でイエスの救いを伝えた人たち」とも記されている。

 「伝道」という単語は、とても特殊で、意味を特定するのが難しい。しかし、シンプルに考えれば、「イエスのことを伝えること」が「伝道」であると定義して良い。

 

 ここまで出てきた内容をまとめると、以下のようになる。

・聖書に「伝道」という言葉は出てこないが、「伝道者」は出て来る。

・「伝道者」は10回しか登場しない特殊な単語である。

旧約聖書の「伝道者」は「語り、教える者」というニュアンスがあると考えられる。

新約聖書の「伝道者」は「良い知らせ=イエスの救いを伝える者」という意味。

・総合的に考えて、「伝道」=「イエスを伝えること」である。

 

 

▼「伝道」と「布教」は違う? ~「伝道」の目的は教会のメンバーを増やすことではない~

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 では、「伝道」と「布教」は違うのだろうか。まず日本語の辞書を見てみよう。

【伝道】

宗教的真理、または教義を伝達し広めること。特にキリスト教で、その教義を未信仰者に伝えて信仰に入ることをすすめること。ミッション。(デジタル大辞泉

教えを伝え、広めること。宗教、特にキリスト教において、その教えを未知・未信の人々にのべ伝えて、信仰を促すこと。布教。宣教。(大辞林第三版)

【布教】

・ある宗教を一般に広めること。「各地を回って布教する」「布教活動」(デジタル大辞泉

宗教を広めること。「~活動」「キリスト教を~する」(大辞林第三版)

 

 同じようだが、若干の違いが見受けられる。「伝道」は「教義」や「教え」に力点が置かれている。対して「布教」は「宗教」に力点が置かれている。ここに、日本人の無意識のうちの区別があるのだと思う。

 以下は私の意見だが、「伝道」と「布教」の違いを列挙すると以下だ。

【伝道】

・イエスがどういう存在で、イエスが何をしたか、そしてそれが個々にとってどのような意味があるか伝えること。

エスを知ってもらうことが目的。

・伝えた相手が、信じた後に、どの教会に行こうが、あまり関係がない。 

【布教】

・「キリスト教」を伝えて、「キリスト教」に入信させること。

キリスト教の信者を増やすのが目的。さらに言えば、所属教会の会員数を増やすのが目的。

・伝えた相手が、信じた後に、自分の教会や団体に所属してくれないと困る。

 

 おおざっぱだが、以下のような違いがあるだろう。「伝道」はあくまでも、イエスという素晴しい存在を知ってほしくて行う。その人がその後、どうしようと神のみぞ知る。対して「布教」は、所属団体や所属教会カトリックの場合は世界共通だが)の勢力拡大が目的だ。その人が会員になってくれないと、目的達成とは言えない。似ているようだが、目的は全く逆方向のベクトルだ。

 多くの日本人が、この「伝道」と「布教」を混同しているため、イエスの話は敬遠されることも多い。無意識に「入信しないといけないんでしょ」というプレッシャーを感じているからなのだろう。多くのクリスチャンは、そのようなモチベーションでイエスの話をしているのではないと、声を大にして言いたい。多くのクリスチャンは、イエスが大好きだから、この大好きなイエスについて少しでも知ってほしいのだ!!!

 あなたにも、好きな映画や漫画、ドラマ、芸能人、趣味がひとつやふたつ、あるだろう。それについて、語りたいと思ったことはないだろうか。自分が好きなモノや、ハマっているモノや、美味しいお店なんかを、「これめっちゃオススメ!」と言いたい気持ちになったことはないだろうか。それそれ。クリスチャンは決して「キリスト教」の信者を増やしたいわけじゃない。大好きなイエスを、大好きなあなたに知ってほしいだけなのだ!!

 「伝道」の目的は教会のメンバーを増やすことではない。そんなことはどうでもいい。大切なのは、イエスが誰で、あなたのために何をしたのか、あなたに知ってほしいということだ。

 

 

▼どこからが「伝道」?

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 では、どこからが「伝道」=「イエスを伝えること」になるのだろう。教会に友達を誘ったら? 聖書の話をしたら? マニュアルに沿った聖書の解説をしたら? 神を信じないと地獄行きという看板を持ったら? 聖書を配ったら? ・・・etc。

 私なりの答えは、「全てが伝道」である。こんなこと言ったら身も蓋もないが、本当にそうなのである。「私はクリスチャンだ」と言うことすら伝道だと思う。電車の中で聖書を読むことだって、伝道になりうる。ほんの少しでもイエスの存在を示す行為ならば、それは伝道になりうる。

 ある人たちは、「伝道」に対して、若干違う印象を持っているだろう。代表的なものは、「教会に誰かを連れて行く」ことだけを「伝道」だと思っている勘違いだ。もちろん、誰かを教会に連れて行くのは、とても良いと思う。教会に行くというのは、実際にイエスを信じている人たちと出会うキッカケになるし、多くの人は論理的に聖書を理解するのではなく、人間関係のあたたかさからイエスの愛を感じるからだ。これはイエスも言っている。

わたし<イエス>はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:34~35)

 

 しかし、ある教会は「教会に誰かを連れて来る」ことだけを「伝道」と表現している。これは間違っている。そのような教会は、往々にして「このイベントには何人連れてきましょう」というノルマがある。そうなると、危ない。エスの愛を伝えたいという、「伝道」のモチベーションが、いつの間にか「何人集めなきゃ!」という「布教」のモチベーションになってしまう。こうなると、もう「愛」はなくなってしまう。こういう教会は、黄信号。このような傾向が出てきたらもう危ない教会なので、一歩退くことをオススメする。

 ある人たちは、「道端で知らない人に突然声をかけ、イエスについて話す」ことだけを「伝道」だと言う。確かに、この世の中にイエスを必要としている人は大勢いる。道端にいる誰も彼もが、イエスを知ってほしい対象だ。それ自体は素晴しい。しかし、このような手法は往々にして、一回限りの出会いになりがちだ。中には、その場では「めんどくさい」から「はいはい、信じます」と言う人もいるかもしれない。しかし、その後が続かない。イエスを伝えた相手が、その後どこで何をしているかも分からない。道端で声をかける場合、その後の人間関係の構築が重要になってくる。

 また、ある人たちは「システマチックにイエスの救いを伝える」ことだけが「伝道」だと考える。このような人たちは、小さい冊子に、完結に聖書の話をまとめて、それを使って解説する。それ自体は素晴しい。とても有益だ。長い長い聖書の要点をまとめるには、ある程度そのようなシステムによって整理する必要がある。しかし、そのシステムに頼りすぎると、ロボットのようになってしまう。慣れてくると、「要点を伝える」ことだけが目的となり、相手の目が見えなくなってしまう。まずは目の前の相手に寄り添うという、大切な視点が抜け落ちてしまう。

 

 「伝道」のカギは、「人間関係の構築」である。エスは12人の弟子をはじめ、大勢の弟子をつくり、彼らと一緒に旅をし、食事を共にし、一緒に生活し、彼らを教えた。人は人間関係を通して成長する。神は、人間を、互いに関わり、つながる存在として造った。「人間」という単語が、「人のあいだ」と書くのは、「人はつながる存在」だという真理を意味しているようで、とても興味深い。

 様々な形で「伝道」はできる。イエスを信じていると大胆に言うこと。誰かと一緒に聖書を読むこと。イエスについて語ること。日常のシンプルな疑問に答えること。必要があればイエスについて教えること。一緒に祈ってみること。一緒に教会に行くこと。バプテスマをオススメすること。車にクリスチャンぽいシールを貼ること。イベントを企画すること。聖書を要約した冊子を配ること。神を賛美する歌をyoutubeに流すこと。クリスマスキャロルを歌うこと。全てが伝道になりうる。しかし、そこに人間関係がなければ、成功しないだろう。伝道とは、一筋縄ではいかないものである。人の人生は、その瞬間だけは終わらない。地続きなのである。誰かがキッカケを与え、誰かが教え、誰かが励ます。こうやってバトンを渡していく。一回で終わらない。それが伝道なのだ。

 

 

▼「伝道」はしなきゃいけないのか?

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 「伝道」の目的は、教会のメンバーを増やすことではなく、大切なあなたにイエスを知ってもらうことだと、先に述べた。では、この「伝道」はクリスチャンになったら必ずしなければいけないのだろうか。聖書を見てみよう。

私<パウロ>が福音<=良い知らせ、イエスの救い>を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

(コリント人への手紙第一 9:16)

 

 そうせずにはいられない。ここにパウロの思いが込められている。エスを知ったら、その素晴らしさのゆえに、黙っていられない!!! これこそが、「伝道」の本当のモチベーションである。

 イエスはこの思いについて、面白い表現をしている。ユダヤ人の宗教指導者たちが、「人々があなたを神だと崇めている。神への冒涜だ。だから、あなたを称賛するのをやめさせよ」とイエスに命じたことがあった。その時、イエスはこう言った。

「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます

(ルカ19:40)

 

 イエスは、「俺スゴすぎて、もし人間が俺を称賛するのをやめたら、石ころが代わりに俺のスゴさを叫んじゃうぜ?!」とまで言ったのである。自信満々。イエス半端ない!!!

 しかし、これは真理で、エスを知ると本当に黙っていられないのである。それだけイエスは、人の人生を変える力を持っている。これが伝道の一番のモチベーションになっている。この「イエス素晴らしすぎ!! 黙ってられない!! 何とかして伝えたい!!」というモチベーションは、枯れることがない。逆に言えば、それ以外の、「信者を増やしたい」とか、「教会をでかくしたい」とか、「俺が目立ちたい」とか、”不純な”動機の人々は、いつか燃え尽きてしまう。

 

 最後に、聖書にはイエスの素晴らしさを伝えるモチベーションとなる言葉が、いくつかあるのでご紹介しよう。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことなのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。

(ローマ人への手紙10:13~14)

 信じたくても、情報提供者がいなければ、イエスを知ることができない。クリスチャンには、「イエスを伝える責任」がある。しかし、「信じさせる責任」はない。あくまでも、信じる、信じないは個人の選択であり、神の力なしにはできないからだ。

 

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

(テモテへの手紙第二 4:2)

 いつもイエスを伝えられるわけではない。自分のコンディションが整わない場合もあるだろう。しかし、状況が良くても悪くても、伝える責任や喜び、自分の心の内側を突き動かす衝動はあるはずだ。この聖書の言葉を思い出し、シチュエーションは言い訳にならないことを覚えておこう。

 

むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としてなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

(ペテロの手紙第一 3:15)

 この言葉は、「伝道」の少し意外な側面が見え隠れする。消極的伝道とも言おうか。「心の中でキリストを主とし」「説明を求める人には・・・弁明できる用意をしていなさい」とある。裏返せば、「説明を求めない人に、あえてする必要もない」とも読める。これは、消極的な日本人にとって救いでもあるのではないだろうか。

 しかし、これは同時に「だれにでも」「いつでも」説明できる用意をする必要があるという意味にもなる。クリスチャンは、常にイエスを伝える良いタイミングとチャンスに備え、心の準備をしておく必要がある。いつでも分かりやすく、イエスが誰なのか、何をしたのか、どんな存在なのか伝えられる知識的準備をしていく必要もある。何より、イエスが大好き! と胸を張って言える「生き方」をしている必要がある。

 

 あなたの「生き方」こそが、最大の伝道なのだから。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス7】「一度も営業したことがない」サムエル・リー@フォトグラファー・ビデオグラファー

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第7弾は、サムエル・リーさん!

f:id:jios100:20181207143708j:plain

【Profile】

名前:サムエル・リー(Samuel Lee)

生まれ:1993年

出身:ハワイ→サイパン→米カルフォルニア州→北海道十勝地方

最終学歴:ホームスクール

職業:フォトグラファー / ビデオグラファー

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今日はよろしく。 

f:id:jios100:20181212020714j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180905032057j:plain やっと会えたね!(笑)

f:id:jios100:20181212020714j:plain ネット上で知り合ってから10年越しぐらいになりますね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 長い!(笑)サムエルはいろいろやりすぎているイメージがあるけど、今は何の仕事をしているの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 去年から、EL-Productions(エル・プロダクション)という会社を立ち上げて、フリーのカメラマンとして、写真と映像の仕事をしています。あとは音楽関係のこともいくつか。でも基本は映像と写真がメインです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain この間、北海道のコンテストで優勝してたよね?

f:id:jios100:20181212020714j:plain あれは、「北海道150年映像コンテスト」。全国から選びぬかれた5人のファイナリストの中で、グランプリをいただきました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain いやぁ、もうとにかく映像の力がすごくて見とれちゃったよ。

 

【サムエルの作品がこちら】

f:id:jios100:20180905032057j:plain ・・・クオリティえげつねぇ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain この作品は、締め切りの前日から編集を始めたんですよ(笑)。

f:id:jios100:20180905032057j:plain マジかよ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain ほとんどの映像は北海道に来る外国の方を案内する仕事をしていたときに集めたものだったから、素材はあったんですよね。だから「間に合わなかったら仕方ない」くらいの気持でやってました。完成したのは締切の4時間前でしたよ(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain BGMも印象的だよね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そう。メロディがない音楽というのにこだわって作ったんですよね。メロディもいいんですけど、音楽って感動を誘導できちゃうので。それはしたくなくて、映像で見せるためにビートだけの音楽にしました。テンポよく映像を見せたかったんですよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain めちゃめちゃハイクオリティすぎて何から聞けばいいかわからんけど、ゆっくり話を聞かせてください。

 

 

▼引っ越し続きの人生 〜ハワイから十勝へ〜

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f:id:jios100:20180905032057j:plain サムエルはどこで生まれたの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 生まれはハワイです

f:id:jios100:20180905032057j:plain 失礼だけど、ご両親は何人なの?? サムエルだし、リーだし(笑)

f:id:jios100:20181212020714j:plain ですよね(笑)。父親は韓国出身なんですけど、20歳の時に家族ごとアメリカに移住したから、もうアイデンティティアメリカ人。母親は日本人。父親は、ハワイでYAWAM(ワイワム)という団体で宣教師をしていて、母とそこで出会って、僕が生まれたって感じです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ハワイで育ったの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain いや、生まれてしばらくハワイで過ごした後は、サイパンに引っ越して、その後にカルフォルニア、そして4歳の時に札幌。その後も北海道内を転々として、今は帯広のあたりに住んでます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain クレイジーライフだねぇ。サムエル自身は「地元」はどこだと思ってる?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 帯広ですかね。国籍のアイデンティティは日本人。故郷は十勝・帯広地方だと思ってます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 家族は何語で話すの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 日本語ですね。これは父の方針で、現地の言葉を使うって決まりがあって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。尊敬できる宣教師マインドだね。サムエル自身はイエスを信じたのはいつ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain エスの救いが分かったのは多分3歳くらいのとき。ドラマチックなことはなかったんですけど、カルフォルニアに住んでいた時に、マクドナルドで友達をたたいちゃったらしくて・・・

f:id:jios100:20180905032057j:plain ケンカだ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そう。いつもなら、そういうことをしたら、親にスパンク(お尻ペンペン)されてたんですけど。その時は家に帰ったら親が「今日はスパンクはしません」って。「イエスさまはサムエルの罪を取ってくれたんだよ~」と、親がその時教えてくれたんですよね。その時に素直にやった! と思ったのは覚えてます。その後も、いつも神様が近くにいると感じる環境で育ちました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 素敵なご両親のもとで、小さい時から神様の話を聞けたのは最高だね!

 

 

▼ホームスクールって?!

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f:id:jios100:20180905032057j:plain サムエルは学校に行かずに、ずっとホームスクールをしていたの?

(ホームスクール:学校に通わず、家で勉強すること)

f:id:jios100:20181212020714j:plain いや、小学校5年までは学校に通ってました。それ以降はホームスクール。学校にはそれ以来通ってないですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。ホームスクールにしたのは親の方針だったの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain いや、決めたのは僕自身です。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ! どうして? どんなキッカケがあったの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain いろいろあるけど、一番は価値観が違うっていうことですかね。友達と遊んでもゲームとかが中心で、僕はそういうものを買ってもらえなかったので。学校もワンパターンで、みんな同じような言動を求められてつまらないなと思っていました。あとは、自分が二重人格になっていたのが嫌だったからかなぁ・・・。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 二重人格?

f:id:jios100:20181212020714j:plain  学校にいるときは友達と話を合わせるんですけど、家に帰ってきたら親の喜ぶ態度に変える。そうこうしているうちに、本当の自分って何なんだろうと考えるようになったんですよね。そこにちょっと嫌気がさしていたのもあって、ホームスクールっていう選択肢もあるなって思ったんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ああなるほど。分かるなァ。「みんな違ってみんないい」と教えるくせに、本質は全く逆だよね。ホームスクールをやってどうだった? 寂しくなかった?

f:id:jios100:20181212020714j:plain ホームスクールは本当に自分に合っていたと思います。逆にホームスクールじゃなければ、今の自分はなかったとも思います。毎年のように宣教師チームが来たり、人の出入りは多かったので、その時は寂しいとは感じなかったですね。ただ、父が新しい教会を始めていたというのもあって、日曜日に会えるクリスチャンの友達が全くいなかったので、それは今振り返ってみると寂しかったなと思います。

 

f:id:jios100:20181207142816j:plain

↑ ホームスクール中のサムエル

f:id:jios100:20180905032057j:plain 教材はどういうものを使っていたの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain ACE(エース)という英語の教材を使ってました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain じゃあ英語ペラペラ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 今は英語できるけど、結構頑張って勉強したんですよね。ハワイ生まれだけど英語は全く覚えてないし、でもハワイ生まれなのに英語できないとダサいじゃん? と思って・・・(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど・・・。ホームスクールしてる人たちって、謎にみんな英語できるんだよなぁ。いかに日本の学校の英語教育がダメかっていうことの表れでもあるけどね・・・(笑)

 

 

▼刷り込まれた「自営業精神」

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↑ 普段の作業場

f:id:jios100:20180905032057j:plain じゃあ大学には行ってないの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 行ってないですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その期間は何をしていたの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 勉強もしつつ、自分でできる仕事を始めてました。カメラマンをやる前は、インターネットで輸入転売のビジネスをやってましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 輸入転売??

f:id:jios100:20181212020714j:plain 例えば、海外のインターネット市場で、腕時計とかの雑貨を仕入れて、それを日本でヤフオクとかで売るんです。親の方針で、いわゆる普通の「アルバイト」はさせてもらえなかったので、自分でお金を稼ぐ方法を考えてやってました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain お~。自分で考えてビジネスにしたんだ。どのくらい稼いでたの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain そこそこ(笑)。でも、普通のアルバイトとあまり変わらないぐらいだと思います。良かった時は1件の取引で利益が5000円くらいですかね。その時は、住所を入れるだけで自動的に入金されるシステムを作って、効率よくやってました。ただ、そういうふうに簡単に儲かる仕事っていうのはすぐに競合が増えちゃうから、今は同じことをやっても、そんなに儲からないかもしれません。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その頃はまだ10代だったよね? よく自分でそういうシステムを思いつくね!

f:id:jios100:20181212020714j:plain 父親は宣教師だったんですけど、ビジネスと宣教を両立することを目指していたので、塾を経営したり、基本的に自営業だったんですよね。だから「カネは自分で作るものだ」っていう自営業精神を刷り込まれたんです。よく、「若いのに起業してすごいね」とか言われるんですが、僕にとっては自分で何かを始めることは当たり前な環境でした。ホント、フリーランスの仕事が自分にはピッタリだと思いますね。

 

 

▼カメラの技術は全て独学

f:id:jios100:20181207143031j:plainf:id:jios100:20180905032057j:plain 転売ビジネスから、フォトグラファーに転身しようと思ったのはなぜ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 元々、写真や映像に興味はあったんですよね。最初の頃は転売も平行してやっていたんですけど、インターネットのビジネスは、相手の顔が見えなくて、やりがいを感じなかったんですよね。ただの作業でしかなかった。だから収入は減るけど、自分が本当に好きな写真をがんばってやろうと思って、去年から個人事業として、本格的にやり始めたんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 好きなことを仕事にできるっていいね。カメラに興味を持ったキッカケは?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 父が良いカメラを持っていたっていうのが最初ですかね。当時、業務用レベルのカメラをなぜか持っていて(笑)。父はそのカメラで僕の成長を取り続けていたんです。で、17歳くらいの時に僕がそのカメラを独占して、写真を撮り始めました(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain ははは(笑)じゃあ7年、8年やってるんだ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain そうなりますね。この写真を撮ってから、こんな写真が撮れるんだと思って、どんどん深入りするようになりました。これは自宅から徒歩3分くらいの場所ですね。

 

f:id:jios100:20181207144212j:plain

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain うわぁ・・・オレもこんな写真撮れたら夢中になっちゃうかも・・・じゃあお父さんが写真に興味を持つ最大の要因だったんだ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain いや、父は、あくまで入り口でした。僕に影響を与えた人は3人います。1人は友達の堀井伊左久くん。

    f:id:jios100:20181212025622j:plain 

f:id:jios100:20180905032057j:plain おお。共通の友達。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 彼が僕の家に半年間ホームステイしていたことがあって。彼がその間、毎日カメラを持ち歩いて、楽しそうに写真を撮っている姿を見て、僕もやってみたいなと思うようになりました。今でもたまに見返しますが、うまいな~って思います。それが1人目。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 2人目は?

f:id:jios100:20181212020714j:plain  2人目は山岳写真家の市根井孝悦さん。

    f:id:jios100:20181212025653j:plain

f:id:jios100:20181212020714j:plain ずっと山を撮り続けている人で。1回お会いした時に、てっきり山の素晴らしさを熱弁されると思いきや、「結局美しいのは人なんですよね」と言われて、僕がポートレート(肖像写真)を撮ろうと思ったキッカケになりました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 3人目は?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 3人目は僕のいとこの奥さんのウェンディ。彼女が撮るポートレートを見た時に、めっちゃ感動して・・・僕もこういう写真撮りたいな~って思ったのがキッカケですね。

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  ↑ サムエルのいとこの家族写真

f:id:jios100:20180905032057j:plain たくさんの人の影響があるんだね。カメラの技術はどこで学んだの? 学校とかは行ってないんだよね?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 特に習ったりはしていないですね。きちんと勉強したことはない。今はネットですごい人の写真がいくらでも見られるので、どうやったらこんな綺麗な写真が撮れるんだろうというのを見て、やって、やり直して、の繰り返し。これはホームスクールの延長線上ですね。自分でやりながら探りつつ学ぶというか。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ・・・学校に行っていたら身につかない発想かも。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 自分もこういう綺麗な写真撮ってみたい! っていうのが一番のモチベーションですね。すごい写真を見ると、好奇心は尽きません。

 

 

▼1回も営業したことがない?!

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 去年からカメラマンの仕事を始めたんだよね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 去年の1月から始めました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 仕事はどうやって取ってくるの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 口コミか紹介がほとんど。僕、1回も営業したことないんですよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えええええっ?! じゃあどうやって仕事取るの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain ありがたいことに、勝手に仕事が来るんですよ。これ、本当に不思議なことで、よくありえない! と言われるけど事実。最初は3年ぐらい仕事はないのかなと思ってたんですけどね。だって実績もコネもお金もないんだから。

f:id:jios100:20180905032057j:plain だよね。ないないづくし。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 写真の値段の相場観すら分からなかったくらいです。でもやりはじめて分かったんですけど、意外と需要が多くて。写真や映像を専門でやっている人がそもそも少ないから、カメラマン自体が不足してるんですよね。特に僕が住んでる北海道の田舎では。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どういう仕事が多いの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 元々は写真メインだったので、ブライダル系や、成人式の振り袖写真とかですね。でも、最近は、映像制作の依頼がとても多いです。最近はインスタ映えとかを意識する人も多いので、SNSに適した写真を撮れる若い20代のカメラマンの需要が高まっている感じがします。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごいなぁ。この仕事がキッカケで仕事が増えたっていうことはあった?

f:id:jios100:20181212020714j:plain やはり、映像コンテストでグランプリをいただいた後は、連絡が結構来ました。でも、結局は人と人とのつながりで仕事が増えていっている感じです。フリーランスの仕事を始めて、仕事は人と人のつながりだって強く実感するようになりました。単純な名刺交換会というよりは、もっと濃いつながり。仕事だけじゃなくて、普段からの付き合いというか。特に田舎に住んでいるから、そういう普段からのつながりっていうのは大事なのかもしれないです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 地元の企業とか商店街のおっちゃんとか。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そうそう。そんな感じ。本当に頑張って勝ち取った人脈というよりは、普段の関わりからの広がりですね。カメラマンって、カメラを首からぶら下げてるだけで「写真やってます」って自己紹介しているような感じになるんですよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 1件の仕事が次につながる。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そうそう。僕がカメラぶら下げて歩いていたら、「写真撮ってよ」とか言われたりして。例えば、全然知らない人だけど、道の駅で偶然会ったカップルの写真を撮ったら、それがキッカケで貸衣装屋さんと知り合ったりしたってこともあります。それでブライダル関係の仕事が入るようになったりしました。

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 ↑ 道の駅で偶然出会ったカップ

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごいなぁ。まだ1年でどんどんつながりが広がっていっているね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 本当に自分でもビックリしてます。営業もしていないし。自分1人じゃさばききれないぐらいの仕事が来てますね。先輩のカメラマンからは、「普通そこまでいくのに10年かかるよ!」ってよく言われます(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 本当に最高のスタートダッシュだね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 北海道っていう場所も良かったんだと思います。東京じゃ埋もれちゃって、こうは上手くいってないと思います。あのグランプリも、北海道の新聞で2回も取り上げてもらって。これは札幌出身じゃなくて、十勝の田舎出身だからっていうのが大きかったんですよね。東京だったらニュースにすらなっていない(笑)

 

 

▼クリスチャンのフォトグラファーとして

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f:id:jios100:20180905032057j:plain クリスチャンのフォトグラファーとして、何か他のカメラマンと違うことができているなぁと感じる部分はある?

f:id:jios100:20181212020714j:plain それはすごく感じますね。やっぱり、クリスチャンのカメラマンとしては、「神様があなたを高価で尊い存在として造ったんだよ。あなたは神様に愛されているよ」という目線で撮影できるんですよね。だから、その人のいい表情を撮れたら喜びだし、お互いにとって幸せを感じられている瞬間ですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。クリスチャンだからこそ、「目の前の人は神様に愛されている存在だ」という認識が持てるよね。他のカメラマンを見ていて違うと思う?

f:id:jios100:20181212020714j:plain これは僕の感覚ですけど、他のカメラマンの人はめちゃめちゃ疲れてるっていう印象。仕事だから仕方なくやっているって感じがする時もありますね。特に結婚式場のカメラマンは「あ~、早く帰りてぇ。早く帰ってビール飲みてぇなぁ」っていう人が多い気がする(笑)。僕としては、「楽しくてカメラをやってるんじゃないのかなぁ」って思う時はありますね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結婚式のカメラマンもやるんだ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 当日作成のムービーとかをやってます。結婚式は決まった角度から撮らなきゃいけないから大変。食事中の参列者の方に声をかけるのは、最初はめちゃくちゃ緊張ししました。知らない人に声をかけるのは慣れていなかったし、「お前も飲むか?」とか誘われたりするのも最初は戸惑いましたね。結婚式は一回限り。うまく撮れなかったとか、データがクラッシュしたりしても、「もう1回結婚式お願いします」とは言えないので、そこは本当に緊張するし、大変。

f:id:jios100:20180905032057j:plain サムエルの喜びながら仕事をしている姿を見て、他の人にも喜びが伝わるといいね!

f:id:jios100:20181212020714j:plain うん。仕事をやるのって本当に楽しい! っていうのを僕が仕事をしている姿を通して伝えたいと思ってます。

 

 

▼最近の葛藤

f:id:jios100:20181207143832j:plain f:id:jios100:20180905032057j:plain イエスを信じたくない! って思ったことはないの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 個人的に信仰を捨てようって考えたことはないんですけど、実はここ数ヶ月は信仰のチャレンジがあって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おおっ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 僕はクリスチャンの家庭で、温室育ちなんです。中学生時代から、親元にいることや、親がやっている教会開拓の働きを手伝うのが、僕の人生の目的だと思っていました。親からの期待も強かったし、子どもとして親に従って、親を喜ばせたいという思いも強かったですね。親の声=神の声とすら思っていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かるなぁ。特にホームスクールの人たちは、親との結びつきが強いよね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 実は、最近まで、僕は地元を離れちゃいけないとさえ思っていたんです。うちの父親が足が不自由だということもあって。(サムエルのお父さんは、20歳の時に、脊髄からの出血が原因で、ある日突然、歩けなくなってしまった)僕は一人っ子だし、父を助ける責任があると思っていて、親元を離れちゃいけないっていう思い込みがあったのかもしれません。もちろん、親からは、遠くへ行っちゃダメなんて言われてないんですが・・・親の近くにいて、親が僕に期待することをやるのが当然だと思ってました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その考えが変わってきた。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 最近は色々とあって、迷いもありますが、今目指している方向性としては、自分のスキルや情熱を仕事にするお手伝いができたらいいなと思っています。自分のスキルを活かして、ビジネス的にも、宣教的にも、最高にやりがいのある仕事ができるように、他の人を支援したいと思っています。あとは疲れている人に休みの場を提供したいですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それはなぜ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain やっぱり、神様を深く知るには、「時間」と「静けさ」が必要だと思うんです。北海道のどこまでも続く景色を見ながら、神様とゆっくりと時間を持つことのできる場を提供したいと思っています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。僕も「時間」と「静けさ」が欲しい!

f:id:jios100:20181212020714j:plain 実は一人で北海道を離れて旅に出るのは、人生初めてなんですよ!

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ! どう?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 東京は刺激が多い! ドヤ顔でPASMOをかざして改札通ってきました(笑)

 

 

▼ミッションとしてのビジネス

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f:id:jios100:20180905032057j:plain これからのビジョンは?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 僕はビジネスは神のミッションだと思ってやってます。仕事自体がもう宣教活動だと。これは神様が僕に示している道だと思います。働いている人のほとんどは、仕事が最優先。だからそこに出ていかないと、神様を信じる喜びも伝えにくいですよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かる。教会においで~じゃなくて、自分から出ていかないとダメだよなぁ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そうそう。ほとんどのクリスチャンは、「聖職者」と言われる職業が最終的なゴールになっちゃうことが多いと思います。牧師とか宣教師とか。逆に、メディア関係の仕事には、クリスチャンが全然いない。でも、僕はこういう仕事でも神様は伝えられると思うし、信じるキッカケにはできると思います。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かる。超ワカル。

f:id:jios100:20181212020714j:plain だから、僕のビジョンは、「自分のやりたいことを仕事にするやり方」をレクチャーすることなんです。フリーランスでやっていきたいっていう人にレクチャーして、こうすればあなたの興味があることを仕事にできますよっていうノウハウを広げていきたいと思ってます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おおお。それすごくニーズあると思うよ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain まだまだ経験も実績も足りないけど、だからこその気付きもあるから、そういうノウハウを伝えていけたらいいなと思います。思いがある人が一歩踏み出すキッカケを作れたらいいなと。自分だけ儲かってイェーイ! じゃなくてね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 僕もサムエルにいろいろ教えてほしい~~

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後にいつも心に覚えている聖書の言葉を

 

f:id:jios100:20181212020714j:plain サムエル記第一の、3章11節です。

 

お話しください。しもべは聞いております。

(サムエル記第一 3:11)

 f:id:jios100:20181212020714j:plain 僕の名前の「サムエル」は、ヘブライ語で「神様の声を聞く者」という意味なんです。だから、どんな時も神様の声を聞く姿勢を忘れず、聖書のサムエルという登場人物のように、神の声を聞いて、他の人のために祈って、他の人を励ます人になりたいなと思っています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。神様に信頼してクリエイティブな人生を突き進んでいるサムエル、これからの活躍が楽しみ!

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンに禁止事項はあるの?

クリスチャンになったら、「これはしちゃダメ」という禁止事項はあるのでしょうか?

 

 

▼「しちゃいけないコトあるの?」という質問

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 「私はクリスチャンです」と言うと、決まって聞かれる質問がある。「クリスチャンになったら、しちゃいけないことあるの?」という質問だ。日本では、信仰は人を縛るものというイメージがあるからか、多くの人が、「クリスチャンに禁止事項はないのか?」と聞いてくる。

 当然、聖書には、様々な生きる指針が書いてある。有名な「十戒」には、「神は唯一だ」「他の神を作ってはいけない」などの礼拝に関する教えのほか、「両親を敬え」「人を殺すな」「偽りの証言をするな」などの、人間関係に関わる教えもある。旧約聖書には613の律法があるという。しかし、旧約聖書の規定を全て守るのであれば、今でも動物のいけにえを捧げないといけないことになる。豚肉も食べられない。それらを守る必要はないと日本人なら思うだろう。では、どう考えれば良いのか。

 新約聖書にも様々な生きる基準が書いてある。イエスも、「互いに愛し合いなさい」という命令から、離婚にまつわることまで、様々なことを教えている。では、信じた人が、それらの教えを一度でも破ったら信仰者失格なのだろうか。クリスチャンは、どのように生きているのだろうか。今回は、リアルな生活の中の疑問に迫っていく。

 

 

▼信仰は人を縛るものではなく、自由にするもの

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 まず、大前提として、日本人の信仰に対するイメージは、完全に間違っている。信仰は、人を縛るものではなく、自由にするものだ。人を縛るものは「宗教」である。なぜなら、宗教は人をコントロールするという別の目的のために、信仰を悪用するものだからだ。だから、私は「キリスト教」という宗教に与しているつもりはない。一人の人間として、イエスを信頼しているクリスチャンである。しかし、「キリスト教」の信者ではない。詭弁のようだが、これはとても大切な違いだ。

 イエス自身が、信仰は規制ではなく、解放だと教えている。

エスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします

ヨハネ福音書 8:31~32)

 

 イエス自身が、真理であり、いのちである(ヨハネ14:6)。「あなたがたは真理を知り」というのは、「イエスを知り」と同義である。エスはあなたを自由にするのである。だからイエスは、「わたしのことばにとどまれ」と教えたのだ。このイエスのうちにこそ、本当の自由があり、解放がある。まずはその前提を知っていただきたい。

 

 

▼神のデザイン通りに生きられない人間

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 クリスチャンの信仰は、「神が自分たちを造った」という大前提がある。聖書にはこう書いてある。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

(創世記1:27)

 

 神は、人間をご自身に似せて造られた。人間は、神によってデザインされた存在である。そして、それはとても良いものだったと聖書に書いてある。

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。

(創世記1:31)

 

 「非常に良かった」というヘブライ語は、極上のものを表す表現だった。神は、人を造るときに「さぁ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と、他にはない表現をしている。「さぁ!」という部分を見て、神様がめっちゃテンション上がっている!! と感じる人もいるだろう。人は、神の目には特別なデザインとして造られた存在なのである。

 

 しかし、人は神のデザイン通りに生きることはできなかった。聖書にこうある。

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない」

(ローマ人への手紙 3:9~12)

 

 人は、誰もが罪の下にある。この罪とは、犯罪のことではない。「神のデザイン通りに生きない」という意味だ。これは、全ての人がそうなのであって、逃れられる方法はない。残ながら、人は「神を求める者」には、自分の力だけではなれないのである。

 一方、神は完全に義なる存在である。神のデザイン通りに生きないままの人間は、この義という性質を持った神と関わることができない。こうして神と人は断絶してしまうのである。

 そんな。なぜ神と断絶しなきゃいけないのか。なぜ神は人を「言うことをきく」存在に造らなかったのだろうか。テキトーにしていても、神のデザイン通りに生きることができたら、どんなに楽だっただろうか。しかし、聖書には基本的な原則が書いてある。

すると、あなたは私(パウロ)にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか」人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に造る権利を持っていないのでしょうか。

(ローマ人への手紙 9:19~22)

 

 神は、私たちが自分の意志で、行動を選択できるように造った。神は、私たち人間が、「こう生きてほしい」という想いがありながらも、私たちが自発的に「生き方」を選択できるようにしてくださったのである。逆にいえば、神に従わない道を選んでいるのは、自分自身なのである。

 もし、神が私たち人間を、強制的に「神の生きる道」に従わせたとしたら、それは人間ではなくて、ただのロボットである。私たちには、本能に逆らう「意志」がある。本能に逆らう選択ができるからこそ、人間たりえるのである。

 

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 リチャード・ドーキンスという有名な学者がいる。彼は完全な無神論者で、進化論者だった。彼は有名な著作、利己的な遺伝子で、生物はすべて遺伝子が種を保存するための本能で生きていると解説している。しかし、人間だけが、この本能に逆らって生きる意志を持っていると、彼は語っている。人間だけが、意図的に誰か他の人のために命を捨てることができると彼は説明する。彼は、「ミーム」という分かりづらい言葉でそれを表現しているが、つきつめれば、人間は本能に逆らう選択ができる唯一の生物だと言っているのである。完全な無神論者である彼が、神がデザインした人間の特殊性に気がついているのは、とても興味深い。

 では、この「意志による選択」の結果、神と断絶してしまうこととなった人間は、一体どうすれば良いのだろうか。旧約聖書の人々にとっては、それは律法を守ることであった。

 

 

▼どんな罪でも同じ?!

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 旧約聖書の時代、神はモーセを通じてイスラエルの民に律法を与えた。ユダヤの律法は613あると言われているが、そこには様々な生き方の基準が書いてある。細かくここで解説することはしないが、いけにえや、生理を迎えた女性を隔離するなど、中には現代的にはちょっと・・・というものから、「殺人」「窃盗」「偽証」など、現代においても犯罪にあたるものまで様々である。「過失致死」を犯してしまった人は、一定期間、遺族の怒りから逃れるために、「のがれの町」に逃げられるという面白い規定もある。

 旧約聖書の人々にとっては、この律法を細かく守り、いけにえを捧げて、諸々の規定を守って行うものが礼拝であり、神とつながる方法だった。これにより神を知り、神の力を受け、神に守られ、生きていたのである。

 しかし、旧約聖書の律法は、後の時代の「伏線」だったのである。伏線なので、もちろん完全ではない。聖書にはこう書いてある。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

(ローマ人への手紙 3:20)

 

 旧約聖書の律法を完全に行える人は誰もいないし、それによっては神の義には近づけない。聖書はそう明言している。そういうと、真面目な日本人は、「そんな! 自分は真面目にきちんと生きている!」と思うかもしれない。

 しかし、聖書はより厳しい基準を突きつけている。なんと、「どんな罪でも同じ罪」だと書いてあるのである。

律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。

ヤコブの手紙 2:10)

 

 神の目には、「殺人」も「盗み」も「えこひいき」も「ウソ」も全て同じ罪なのである。きれいな水に、たった一滴でも毒を垂らしたら飲めなくなるように、私たち人間も、一つの点で過ちを犯したら、すべての責任を負うのである。

 

 では、どうすれば良いのだろうか。ここで、考えが止まってしまうと、「清く、正しく、美しく生きなければ!」という宗教になってしまう。聖書はそうは教えていない。何のために律法があったのかにヒントがある。聖書にはこうある。

しかし(旧約)聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

(ガラテヤ人への手紙 3:22~25)

 

 律法は、人をキリストに導く養育係である。律法があるから、キリストが理解できるのである。律法がなければ、罪の意識が生まれることはない(ローマ3:20)。律法によって、神の示す生き方が分かる。しかし、人は完璧にその生き方ができない。その解決方法が、キリストなのである。律法は、イエスを知るために示された、イエスの伏線だったのである。エスにこそ答えがある。では、イエスは何をしたのか見ていこう。

 

 

▼イエスの「先払い」の十字架の犠牲

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 私たち人間は、神のデザイン通りに生きられない。そのままの生き方だと、神と一緒に生きられない。ではどうすれば良いのか。イエスがその解決のカギだ。唯一の道だ。

 エスは、私たち不完全な人間の身代わりとなって、十字架で死んだ。そして葬られ、3日後に死を打ち破ってよみがえった。これによって、「罪」が清算され、私たちは神の前に正しい者とされるのである。これが救いであり、良い知らせ、「福音」である。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと・・・

(コリント人への手紙 第一 14:3~4)

 

 イエスは、十字架で死に、私たちの「身代わり」となった。イエスの「伏線」である律法の中にこんな言葉がある。

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。<中略>すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。

レビ記 17:11~14)

 

 エスが十字架の上で、血を流したので、私たちの罪は赦された。これにより、神との関係が回復し、神と一緒に生きていくことができるのである。

 真面目な日本人は、「そんなの、こんな私が受け入れていいものなのだろうか」と思うかもしれない。「何もしていないのに、どうして赦されたといえるのだろう」と思うかもしれない。しかし、イエスの十字架の救いは、信じるだけで与えられるのである。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

(ローマ人への手紙 3:21~24)

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあながたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

(エペソ人への手紙 2:8~9)

 

 イエスの救いを信じるのに、条件はいらない。ただ、それを信じればいいのだ。誰であっても、そこに差別はない。イエスを信頼すれば、誰でも価なしに義と認められるのである。この救いは、条件付きの救いではない。イエスの十字架の犠牲は、「先払い」なのである。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙 5:8)

 

 

▼「しなきゃいけない」じゃなくて「そうしたい」

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 私たちは、この「先払い」のイエスの救いを、ただ信じるだけで救われる。全ての罪はゆるされ、神の前に義とされ、神と一緒に生きられるようになる。

 日本人にこの説明をすると、よく言われるのが、「じゃあ何でもしていいんだ?」という言葉だ。確かに、イエスによって罪から自由にされた私たちは、もはや律法が示すような生き方の規定に縛られない。酒を飲んでも、タバコを吸っても、それは自由である。

 しかし、何でもかんでもしていいというのは間違いだ。自己中心的な生き方、神のデザイン通りではない生き方は、神とあなたの関係を傷つける。神と一緒に生きられるようになったのに、神のデザイン通りに生きないというのは矛盾している。それは同時にはできないことである。聖書にもこう書いてある。

信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。<中略>あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。<中略>からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。

ヤコブの手紙 2:17~26)

 

 これは、行いがなければ救われないという意味ではない。

 たとえ話にしたらわかりやすい。友人Aさんが、車がビュンビュン走っている道路の真ん中に突っ立っているとしよう。あなたは「危ない!」と必死で声をかける。Aさんは、あわてて歩道に戻る。Aさんのいのちは助かる。この場合、Aさんが、あなたの「危ない」という声を聞き入れ、「歩道に戻る」という「行動」をとったから、いのちが助かったのである。

 もし、Aさんが「危ない」という声を聞いて、「知ってるよ」と答えても、そのまま道路に突っ立っていたら、車にひき殺されてしまう。「危ない」というのを知っているのに、その道から戻らないのは、自殺するのと同じである。同じように、イエスという救いを頭で知っていても、神のデザイン通りの生き方をしていなかったら、それは信じていないのと同じだ。

 

 信じた人の生き方は、「こう生きなければならない」という枠から解放されて、「こう生きたい」というモチベーションに変わるのである。ただ概念的にイエスを信じていても、生き方が変わらなければ、それはただの宗教である。虚しい。本当にイエスを信じ、神と一緒に生きられるようになった人は、もはや神のデザイン通りではない生き方に魅力を感じなくなる。それは自分の力ではなく、神が与える聖霊によって変えられていくのである。

 しかし、弱い人間である私たちは、信じた後も、たびたび間違いを犯す。したくないことをしてしまう。間違っていると分かっているのに、ウソをついてしまう。知ったかぶりをしてしまう。他の人の悪口を言ってしまう。キレてしまう。暴力をふるってしまう。お金をちょろまかしてしまう。エロ動画を見てしまう。不倫をしてしまう。プライドを捨てきれない。栄誉や称賛を捨てきれない。すぐ調子にのってしまう。頭では分かっていても、間違えてしまう。それが人間だ。

 神に人生を180度変えられたパウロでさえ、このように告白している。

 

私には、自分のしていることがわかりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているのです。<中略>私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

(ローマ人への手紙 7:15~24)

 

 パウロは、このように大胆に自分の弱さを告白している。頭では神のデザイン通りの生き方をしたいと願っているのに、からだがそれについていかない。自分のしたくない選択をいつもしてしまう。自分のしたくないリアクションをいつもしてしまう。「私は本当にみじめな人間です」という、パウロの大胆かつストレートな告白は、罪と葛藤してもだえている多くの人を励ますだろう。

 イエスを信じ、クリスチャンになった人は、常にこの葛藤と戦いながら、生きていくのである。一見、辛いように見えるかもしれない。しかし、心の中でキリストが生きている。聖霊が働く。たとえ、完全に神のデザイン通りに生きられなくとも、エスを知り、解放された後の喜びは、半端じゃない。こればっかりは、体験しないと分からない。イエスを信じれば、解放されて、たとえ間違ってしまっても、また立ち上がって生きていけるのだ。

 エスは、たった一度、十字架の死を通して、私たちの現在、過去、未来の全ての罪を赦してくださっている。

しかしキリストは、<中略>ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。<中略>キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。<中略>しかし今、キリストはただ一度だけ世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

(ヘブル人への手紙 9:11~26)

 

 イエスはたった一度、十字架で死んだことによって、私たちの、現在、過去、未来の全ての罪を赦してくださったのだ。一度信じただけで、全ての罪が赦されている。もう心配することはない。もちろん、間違ってしまった時は、素直に神に謝る必要がある。でも、それでクヨクヨする必要がない。エスがずっと一緒にいるからだ。

 

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

(ガラテヤ人への手紙 5:1)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】こんな牧師・リーダーには気をつけろ!

牧師だからといって、安易に信用してはいけません。いや、リーダーたちの言うことこそ、一番気をつけなければいけないのかも?!

 

 

▼牧師の言うことこそ、吟味しなければならない?

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 教会に行くと、たいてい牧師という人がいる。礼拝会の「説教」もこの牧師が行っている場合が多い。教会に通ううちに、何やらこの牧師という人が、教会の中で教える立場であり、リーダーなのだと、徐々に感じていく。

 しかし、忘れてはならない。牧師はただの人間であり、神ではない。神と人をとりつぐ祭司でもない。牧師は聖書の全てを知っているわけではない。牧師の言うことは、神のことづてではない。お隣の国の教会の多くは、牧師の言うことは神の言葉だという、明らかに間違った教えをしている。聖書を読み直したほうがいい。牧師が言うことが、全て正しいとは限らないのだ。

 いや、むしろ牧師の言うことだからこそ、注意深く吟味しなければならない。人間は弱い。人は権力や立場を手にした瞬間に、間違ったベクトルへと走り出す傾向がある。牧師になれば、ある程度の信頼と尊敬を人から集める。自分でも気が付かないうちに、高慢になり、自分が正しいと思い込み始める。この罠にハマっている牧師・リーダーたちが何と多いことか。クリスチャンは、牧師や諸々のリーダーたちの発言こそ、気をつけてチェックし、吟味する必要がある。

 今回は、こんな牧師・リーダーは危ないぞ! という例をいくつか挙げる。心当たりの人が周りにいたら、要注意だ。自分の霊、たましいを守るためにも、程よい距離感が必要である。同時に、ぜひ、その人たちのために祈っていこう。

 

 

▼悪い牧者の特徴

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 エスが一番批判したのは、当時の宗教的リーダーたちだった。彼らはパリサイ派とか、パリサイ人とか呼ばれていた。長年の宗教儀式から、彼らは聖書の基準からそれてしまっていた。イエスは、高慢ちきになった彼らを、徹底的に批判した。イエスは、彼らと話す中で、こんなたとえ話をして、悪いリーダーたちの特徴を挙げている。

そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。わたしの前<以前に>に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり、散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。

ヨハネ福音書 10:7~13)

 

 イエスは、自分を「羊の門」「良い牧者」になぞらえて、他の宗教的リーダーたちとの違いを鮮明にした。わかりやすくまとめてみよう。

<イエスの特徴>

・イエスは羊の門である。(比喩として)

・イエスを通してでなければ救われない。

・イエスは私たちにいのちを与える。

・イエスは良い牧者である。(比喩として)

・イエスは私たちのためにいのちを捨てた。

<悪いリーダーたちの特徴>

・盗人であり強盗。

・盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするのが目的。

・困難が来ると、他の人を見捨てて逃げる。

・羊のころを心にかけず、一番大切なのは自分自身。

 

 このイエスのたとえ話を聞くと、上のような点にまとめられる。悪いリーダーが求めているのは自分の利益であり、他の人々の利益ではない。

 逆に、良いリーダーの特徴は、本当の「羊の門」であり、「良い牧者」であるイエスの下に他の人々を導くという性質である。エスのことがより分かるようになる。イエスの姿をクリアにする。それが良いリーダーの役割であり、しなければならないことである。これができていない人は、どんなに深い知識を持っていようが、有名な学校で神学の教育を受けていようが、全く意味がない。むしろ、悪影響である。

 では、どうやって良いリーダーと悪いリーダーを見分けていけばいいのだろう。今回は、思い当たる「悪いリーダー」の特徴を挙げていく。

 

 

▼人の上に立とうするリーダー

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 牧師の中には、他の人より自分は偉いのだと、マウンティングしてくる人たちがいる。残念ながら、これは明らかにイエスの教えと違うベクトルに走ってしまっている、一番ダメなパターンだ。イエス自身が、何度もこう教えている。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人(外国人)の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうではあってはなりません。あなたがたの間でえらくなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子(イエス)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」

(マタイの福音書 19:25~27)

一行(イエスの弟子たち)はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか」彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい

(マルコの福音書 9:33~35)

さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもをわたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです

(ルカの福音書 9:46~48)

 

 お分かりだろうか。人間は、自分が他の人よりも偉くなろうと競争してしまう性質を持っている。エスの弟子たちもそうだった。家族でも、会社でも、サークルでも、時には教会の共同体の中でも、人は他の人の上に立とうとして、躍起になって競争するのである。

 しかし、イエスは、全く違う法則を示した。「皆のしもべになれ」「皆に仕える者になれ」「一番小さい者が一番偉い」という、この世の中と真逆のベクトルを示したのである。これが神の法則である。

 クリスチャンは、王の王であり、神であり、唯一の救い主であるイエス自身が、自分のいのちを捨ててまで愛してくれた事実を知るべきである。神である方が、見を低くして、人間になってまで地上に来てくださったのだ。それなのに、なぜ人間の間で誰が上だとか下だとか、くだらない争いをするのだろうか。牧師になってまで、こんな基本的なことも分かっていない人は、クリスチャンの風上にも置けない。猛省せよ。

 

 人の上に立とうとするリーダーの特徴として、自分が期待したような尊敬を得られないと、かんしゃくを起こすというのがある(※怒る人の性質については、別記事を参照)。

 彼らは、自分の自尊心が満たされず、怒るのだ。そのため、教会の共同体の人たちに対して、怒りをぶつける。「なぜあなたたちはもっと聖書を読まないのか」「なぜ自分の説教を理解しないのか」「なぜ神に対して真剣にならないのか」と、共同体のメンバーを責めだす。自分が上手に導けていないのを、他人のせいにするのである。

 この手のリーダーについては、かつて、「牧師はなぜ先生と呼ばれるのか?」の記事で詳細に書いたので、ぜひ参考にしていただきたい。「先生」と呼ばれないと怒るなんていうリーダーは即失格だ。私たちの教師はイエスただ一人であり、私たちクリスチャンはお互いに、皆兄弟なのである。そこに上とか下はない。

yeshua.hatenablog.com

 もし、あなたの周りの牧師が、偉そうにふるまっていたら、その人は良いリーダーとは言えないだろう。彼、または彼女のために祈って差し上げよう。その人は、人からの承認欲求が満たされていない、可愛そうな人なのだ。世の中に認めてもらえず、せめて教会の共同体の中では尊敬されたくてされたくて仕方のない、小さな人なのだ。かわいそうな仲間だと思って、神によってその人の自尊心が満たされるように、祈ってあげよう。

 

 

▼人をコントロールしようとするリーダー

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 人の上に立つリーダーとちょっと違う種類に、「人をコントロールしようとするリーダー」がいる。どういうことか。人の人生の選択や行動を、自分の思い通りに操作しようというリーダーだ。特に教会の牧師や、宣教団体のリーダーにありがちなパターンである。

 いくつか例を挙げよう。知人のY氏は、とある大学に進学しようとしていた。そのために猛勉強していた。しかし、ある日、突然進学をやめたという話を聞いた。不思議に思って色々聞いてみると、某クリスチャン団体のリーダーが、「あなたは世の中に出ていく準備ができていない」と、Y氏の進学に反対したという。結局、Y氏はそのリーダーの主張を聞き入れ、進学を断念してしまった。

 知人M氏は、クリスチャンになってから、とあるリーダーに出会った。そのリーダーは、M氏の進学先、就職先まで指定してきた。M氏は、それに従った。そこに選択の余地はあったのだろうか。私は、「牧師のメンツを立てなければ」という動機のように思えてならなかった。断れるような空気感が、共同体の中になかったのかもしれない。

 知人Y氏は、付き合っている相手がいた。結婚まで考えた真剣な付き合いだったが、牧師がその相手を気に入らなかった。「相手と別れなければ、教会から出ていってもらう」と言われ、泣く泣く、相手とお別れすることになった。

 

 このような例は、残念ながら枚挙にいとまがない。クリスチャンではない方がこの話を聞くと、「宗教って怖い」と思うことだろう。恐ろしいし、残念だが、これは本当に事実なのである。このような人のコントロールが、教会の中にまかり通っている。これでは、「キリスト教」はカルト宗教と全く変わらなくなってしまう。残念ながら、牧師たちの中には、このように人の人生や選択を、自分の思い通りにコントロールしようとする人が、本当に多い。

 実は、使徒パウロでさえも、この誘惑に負けてしまったことがあった。それは、マルコという人物をめぐって仲間のバルナバと争った時だった。

バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒につれて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。

使徒の働き 15:37~39)

 

 マルコは、以前の旅を途中で脱落してしまった。パウロは「そんなやつは今度の旅も連れて行けない」と主張した。しかし、マルコのいとこであり、「慰めの子」とも呼ばれたバルナバは、マルコを連れて行こうとしたのだった。そこで激しい議論になり、今までずっと一緒に働いていたバルナバパウロは分裂してしまうのであった。

 パウロは、この後、バルナバとマルコと和解したと見られている。パウロの手紙の中にこのような記述がある。

私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに言ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています。

(コロサイ人への手紙 3:10)

ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は輪足の努めのために役に立つからです。

(テモテへの手紙第二 4:11)

 

 このような記述から、パウロがマルコを排除しようとした、排除の論理をとったのは、正しいモチベーションでなかったことが想像される。パウロは後々反省し、このような告白ができた。しかし、果たして現実の牧師たちはどうだろうか。

 他人の人生をコントロールしようとするなどということは、神の支配を自分のものにしようとする、もってのほかの愚行である。聖書のメッセージを理解できていない。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れ(教会の共同体)を牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

(ペテロの手紙第一 5:2~3)

 

 私たちが求められているのは、支配することではなく、模範となることである。

 

 

▼神・イエス以外に目を向けさせるリーダー

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 最後に紹介したいリーダーの特徴は、「神やイエス以外に目を向けさせる」というものである。これが一番やっかいで、極悪なパターンである。

 先に挙げた2つの例のように、偉ぶったり、人を自分のコントロール下に置こうとするリーダーは、まだ可愛げがある。しかし、人の目線をイエスから逸らさせようとすることほど、悪いことはない。あろうことか、これを牧師や宣教団体のリーダーたちが行ってしまっているのである。

 例えば、社会活動に熱心な人たちがいる。立派なことだ。宗教的儀式を熱心に行うより、実際に困っている人たちを助けることが大切だというのが、イエスの教えだ。親がいない子どもへの援助、介護、自殺防止の支援など、社会的にとても大切な働きはいくつもある。このように、イエスの教えを実際に実行している人たちには、頭が下がるばかりだ。

 しかし、その中心にイエスはいるだろうか。ある団体は、社会福祉活動に熱心になるあまり、スタッフをボロ雑巾のようにこき使っていると聞く。いわゆるブラック企業だ。今日び、ブラック教会や、ブラック宣教団体が多くはびこっている。働きそものは大切だが、その中心にイエスの愛がなかったら、何の意味もない。働いている人たちが、働きに影響されている人たちが、イエスを知るきっかけがなければ、何の意味もない。

 

 また、先日とあるキリスト教団体の職員さんにお話を聞いた。その団体は、イスラム教国での学習支援を行っているという。イスラム圏での働きは、難しさを極める。頭が下がった。「それで、どうやって働きを通してイエスのことを伝えるんですか?」私は聞いた。働きの説明を聞いて、どうも腑に落ちなかったのだ。「伝えません」。職員さんは断言した。イスラム圏でイエスの話をすると危険だからだという。下手に伝えると、その地域での活動が制限されるからだという。

 私はあいた口が塞がらなかった。目的と手段を取り違えていないか。イエスを伝えるために、イスラム圏に入ったというのが元々の目的だ。しかし、いつの間にか、「この地域で活動を続けるために、イエスを伝えない」となってしまっているのだ。目的と手段が逆転してしまってるのだ。

 

 他にも、ある牧師やリーダーたちは、自分たちの「平和活動」や「政治活動」に大変熱心である。結構なことだ。しかし、私の目には、それが彼らの「目的」になってしまってるように思えてならない。彼らは、自分たちが熱心なだけならまだしも、他の人にまで自分の政治的思想を「伝道」し、多大な影響を与えている。その中心にイエスはいるのか。聖書の言葉が根拠になっているのか。甚だ疑問である。

 彼らの活動は、本当に人々をイエスの方へと導いているのだろうか。彼らが聖書を読み、神のことを知り続けることを励ましているのだろうか。聖書の勉強をよそに、憲法の勉強をさせていないだろうか。イエスのことを知らせる前に、政党の政策を知らせようとしていないだろうか。

 私自身、政治の記者として働いている。働きながら思うのは、政治に正解はないということだ。ただ一つ正解があるとすれば、それは「イエスが道であり、真理であり、いのちである」という事実である。エスを知らなければ、どんなに良い政治をしても、平和活動をしても、無意味なのである。牧師やリーダーに求められるのは、政治的立場を叫ぶことではなく、イエスの福音を叫ぶことである。

 

 この手の、「神・イエス以外に目を向けさせるリーダー」にありがちなのは、自分の目的のために、他者を利用するという特徴だ。この手のリーダーたちは、自分に都合のいい人々だけを周りに置く傾向がある。考えが合う人ばかりと付き合い、洗脳し、自分の目的のために人々を利用する。考えが合わなくなったら、バッサリ切り捨てる。経営者的な目線で見れば、考えが合わない人と一緒にやるより、目指す方向が同じ人と組んだ方が効率的ではある。しかし、そこに神の愛はあるのか。その進む道の先には、イエスがいるのだろうか。それとも、別の目的があるのだろうか・・・。

 

 

▼イエスを知らない牧師もいる?!

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 最後に、大胆に宣言したい。あなたの知っている牧師は、イエスを知らないかもしれない。宣教団体のリーダーは、イエスの福音を理解していないかもしれない。えっ、嘘! と思うかもしれないが、実は、その可能性は大いに有り得る。

 そんな、ウチの牧師は、●●神学校を卒業して、聖書の知識をたくさん持っている。まるで歩く聖書辞典だ。説教も面白いし、毎回学ばされる。そんな●●牧師が、イエスを知らないわけがない。イエスの救いを受け取っていないはずがない! ・・・そう思う方もいるかもしれない。そこに落とし穴がある。

 聖書に何と書いてあるか見てみよう。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12:3)

 

 そう。イエスに出会うというのは、知識的に知るという意味ではない。神が与える「聖霊」の力がなければ、「イエスは主だ」と知ることはできないのである。聖霊の力なしには、イエスを見ることはできないのである。

 どんなに聖書の知識を持っていようが、関係ない。実際に、パウロは知識的には右に出る者がいないほどの律法学者だった。パウロは、知識だけでなく、行いにおいても完璧な人間だった。パウロはこう言ってる。

ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれて八日目の割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

(ピリピ人への手紙 3:4~6)

 

 パウロは、きっすいのイスラエル人だった。律法に精通していて、右に出る者はいないほどだった。しかし、彼はイエスを受け入れられなかった。パウロはイエスを知らなかった。イエスを知った後のパウロは、こう述べている。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのもの(律法など)を、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。

(ピリピ人への手紙 3:7~9)

 

 どんなに聖書の知識を持っていても、有名な学校で教育を受けていても、それはイエスを知っている判断基準にはならない。むしろパウロは、「すべてを損と思っている」と告白しているのだ。同じように、ユダヤ律法学校の校長だったニコデモ(ヨハネ3章参照)も、知識ではトップ中のトップだったが、はじめはイエスを信じることができなかった。かえって、何の知識もない罪人、外国人たちがイエスを信じることができたのであった。

 

 私も同じだった。私がイエスに出会ったのは、16歳の時だった。その時に、ローマ書5章8節の「しかし、私たちが ”まだ” 罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた・・・」という部分を読んで、初めてイエスが何をしてくれたか頭と心で理解した。腹の奥底から喜びがわきあがった。聖霊が働いた瞬間だった。

 実はそれまで、私は自分がクリスチャンだと思っていた。10歳の頃に教会に通い始め、それなりの聖書の知識は持っていた。優等生的な気質だったので、何をすれば、何を言えば大人が自分を「立派なクリスチャン」と認めてくれるか、なんとなく分かっていた。無意識に「立派なクリスチャン」を演じていたのである。

 しかし、イエスの十字架が何を意味するのか、イエスが何をしてくれたのか、その福音の全貌を全く理解していなかった。恥ずかしながら、そんな状態でも「立派なクリスチャン」を演じきって、カナダ留学中には、「最もイエスの性質に近い生徒」(The Most Christlike Award)の賞まで受賞してしまったのである。本当の意味でイエスと出会っていない人でも、「立派なクリスチャン」を演じるのは、実はたやすいのである。それだけでなく、エスに本当に出会っていなくても、「それっぽい説教」「それっぽいメッセージ」はできてしまうのである。それが怖いところなのだ。

 

 もしかすると、あなたの知っているあの牧師や、あのリーダーは、本当の意味でイエスに出会っていないかもしれない。その可能性は、実は思ったより高い。実は私は、そのような人々にたくさん出会ってきた。実は、大きい団体のリーダーをしている牧師や、有名な人ほど、その傾向がある。人に認められ、人を引きつけるカリスマ性がある人ほど、イエスの力ではなく、自分の力で生きてきてしまいがちなのだ。もし心当たりがあれば、その人たちのために、ぜひ祈ってほしい。本当の意味で神に、イエスに出会えるように。

 聖書は、「弱さを誇れ」「誇る者は主を誇れ」と書いてある。自分の弱さを大胆に告白し、皆でイエスの方へ向いていこうというベクトルを作れる人こそが、実は良いリーダーなのである。良いリーダーは、実は目立たない、小さな群れを率いているのかもしれない。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知ってると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

(コリント人への手紙第一 8:1~3)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。