週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】「母教会」って何? ~“教会籍”という謎のシステム~  

 「母教会」「教会籍」「転会式」っていう耳慣れない謎の言葉を、クリスチャンの世界ではよく耳にする。なんやそれ?

 

 

▼「母教会」という謎の言葉

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 世間はゴールデンウイーク真っ只中。地元に里帰りする人も多いだろう。クリスチャンの世界では、こういう時期に、よく「連休中は母教会に帰る」という表現を耳にする。母教会・・・? なんやそれ。クリスチャン世界のよくワカラナイ専門用語である。正直、意味不明。

 母教会とは、一体何なのか。また、他にも「教会籍」という謎のシステムや、「転会式」という謎の儀式もある。実は、これらに精神的に囚われてしまっているクリスチャンは多い。クリスチャンはイエスによって自由にされたはずなのに、不自由になっているのである。なんと悲しいことか。

 今回は、この「母教会」「教会籍」「転会式」といった言葉、文化の意味不明さを明確にしたい。

 

 

▼「母教会」「教会籍」とは何か

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 クリスチャン文化になじみがない人に、まず「母教会」の意味を解説する。「母教会」とは、「自分が生まれ育った教会」「自分が会員となっている教会」を指す。または、「自分が初めてつながった教会」や、「自分がイエスを信じるきっかけとなった教会」を指す場合もある。

 「母教会」という単語を使う人は、両親がクリスチャンの家庭で生まれ育った場合が多い(いわゆるクリスチャンホーム)。物心ついた時には、その教会に所属し、毎週日曜日にその教会に通うのが当たり前。地方出身の場合、彼らは都心の大学などに進学すると、必然的に違う教会に所属しなければならない。そうなると、彼らは、自分の生まれ育った「母教会」と「今通っている教会」を区別するようになる。

 その際、必ず「教会籍」の問題が発生する。クリスチャン文化に慣れない人には、違和感があるだろうが、日本の多くの教会には、「戸籍」のように、「教会籍」が存在する。いわゆる、「メンバーシップ」だ。教会の会員とも考えれば分かりやすいだろうか。教会の名簿に名前や住所を記載し、名実ともにその教会のメンバーとなる。それが「教会籍」だ。この「教会籍」が、これまたやっかいなシステムなのだ。

 

 

▼「教会籍」システムの弊害

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 「母教会」に「籍」をおいている人は、引っ越しとともに、違う教会に「転会・転籍」する必要がある。「母教会」に愛着がある人は、この「転会」をしたがらない人もいる。または、様々な事情によって「転会」できない人もいる。これが問題を引き起こす。それは何か。

 教会によっては「転会」しないと、教会の中の役割(奉仕)を担えないところもある。そのため、「転会」するまで何もさせてもらえないという悩みを抱えるクリスチャンは多い。また、「母教会」のルールによって、ほかのクリスチャンの集まりに自由に参加できないという人もいる。中には、教会の「奉仕」を優先しなければならず、家族や仕事をおろそかにしてしまう人たちもいる(※この「奉仕」の問題については、また別途記事を書く予定)。どこから突っ込めばいいのか。ちゃんちゃらおかしい話なのだが、これが多くの教会の現状である。

 もちろん、「母教会」と言わない人もいるし、「教会籍」システムを用いない教会も一定数ある。本来、私たちはどこの教会に行くかは自由だし、教会のメンバーシップに縛られることはない。しかし、多くのクリスチャンたちは、「教会を何よりも優先しなければならない」という間違った強迫観念にかられ、本来の自由で解放された生活、自由で解放されたミニストリー、自由で解放された信仰生活ではなく、束縛された教会員としての生活に甘んじている。自分の所属する教会や、牧師や、牧師の妻や、教会メンバー同士の悪口を言っているというのも、実はよく目にする。

 日本のクリスチャンたちは、なんと不自由な生活を送っていることか。このような束縛から解放されたら、どんなに自由で活発な活動ができるだろうか。

 

 

▼外側から見た「教会籍」の違和感

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 少し私の個人的な話をしたい。私が初めてプロテスタントの教会に行ったのは、10歳の時だ。ニューヨーク郊外の小さな日本人教会だった。その前は、1年間「エホバの証人」というカルトの集会に参加していたのだが、そこから一家命からがら逃げ出し、ようやくプロテスタントの普通の教会にたどりついたのであった。

 私が今まで参加した教会は、「教会籍」システムを採用していない教会ばかりだった。ニューヨークに始まり、長野の田舎の韓国教会、長野の小さな独立した教会、大学時代の教会、イスラエル留学中につながった教会、社会人になってからつながっている葛西の教会・・・etc。他にもカナダやアメリカ、韓国にも留学していたので、その間も様々な教会につながった。総合すれば10以上の教会に所属したことになるが、そのどれも正式な「メンバー」として「教会籍」を登録した記憶はない。

 私は、そんな感じで自由で自発的な信仰生活を送ってきた。だから、上京した際に、「教会籍」の問題で悩む同世代のクリスチャンたちを見て、ものすごく違和感を感じた。ある友人からは、「転会式がうまくいくように祈ってくれ」と言われた。私は1ミリたりともピンとこなかった。そんなの、自由にやればいいではないか。「教団が違うからこの集まりには参加できない」という人がいた。唖然とした。同じイエスを信じる仲間ではないのか。「“執事”に選ばれてしまったから、嫌だけど強制的に奉仕をしないといけない」という人がいた。理解ができなかった。嫌なら違う教会に行けばいいじゃないか、と思った。

 その教会が居心地が悪いのであれば、違う教会に行けばいい。とてもシンプルな解決方法があるのに、どうしてたくさんのクリスチャンたちがそうしないのか。私は本当に理解に苦しむ。たかだか人口の1%にも満たない信者たちの間で、そんな「囲い込み」をしているのである。このような弊害を生み出す「教会籍」システムは、百害あって一利なしだ。

 

 

▼そもそも「教会」とは?

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 「教会籍」を議論する前に、「教会」とは何か確認する必要がある。「教会」は、ギリシャ語の「エクレシア」の訳語だ。「エクレシア」を広辞苑でひくと、以下のように書いてある。

エケレジヤ【ecclesia】

キリシタン用語)教会堂。聖堂。エクレシア。<広辞苑六版>

 これは、日本人の誤解を示す、いい例である。正直、驚いた。広辞苑でさえ、「エクレシア」を「教会堂」と、場所の名前を指す語として記載していたからだ。「教会」でさえ誤訳なのに、「教会堂」とは……。これは明らかに誤った解説だ。

 「エクレシア」の本来の意味は、次の聖書の言葉からも分かるように、「人の集まり」を指す。太線の部分は、いずれもギリシャ語の「エクレシア」である。

 

人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。(中略)町の書記官が群衆を静めて言った。(中略)「もし、あなたがたがこれ以上何かを要求するのなら、正式な集会で解決してもらうことになります」。(中略)こう言って、その集まりを解散させた。

使徒の働き 19:33~40)

 太字の「集会」や「集まり」は、「教会」と全く同じ単語の「エクレシア」である。他の箇所は、ご丁寧に「教会」と訳してあるのに、この部分だけ意図的に「集会」や「集まり」と訳出されている。これは意図的な翻訳だ。

 「エクレシア」の元々の語源は、「呼ばれた人々」で、神に呼ばれて集まった人々の集合体を指す語であった。同時に、上記のように、「人の集まり」を意味する語として、当時、一般的に使われていたことがうかがえる。「正式な集会」という記述から分かるように、ローマの直接民主制の文化では、そのような町のさばきごとを人々の「エクレシア」で決めていたようだ。

 いずれにせよ、「エクレシア」は、「集会」とか、意訳しても「共同体」とするのが自然である。なぜ、「教える会=教会」になってしまったのか。それは、聖書用語を日本語に翻訳する過程で、多くの言葉が中国語の聖書から直接輸入されてしまったからだ。なまじ日本の知識人たちが漢文を読めてしまったばかりに、中国で採用された訳語がそのまま入ってしまったのだ。中国語と日本語の意味のズレを無視して入ってしまったのである。「神」「愛」「洗礼」「聖霊」などがいい例だ。「教会」もその誤訳の中のひとつで、今だに日本に福音が広まらない大きな障害のひとつなのだ。

 ちなみに、ヘブライ語では「ケヒラー」という言葉がこれにあたり、同じく「集会」という意味になる。イエスをメシアと信じるユダヤ人たち、メシアニック・ジューの人々は、決して「教会・チャーチ」という単語を使わず、「集会・ケヒラー」という単語で自分たちの集まりを表す。

 

 

▼聖書に「教会籍」の根拠はあるのか ~概念的な“教会”と地域的な“教会"~

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 さて、聖書の中に「人の集まり」たる「エクレシア」において、「教会籍」のシステムを採用することに、根拠はあるのだろうか。ハッキリ言う。全くない。あるなら示してほしい。もちろん、「教会籍」を禁止する記述も、聖書にはない。中には、「教会」は「キリストのからだ」なのだから、そのメンバーを登録するのは当然だ、といった理論を展開する人もいる。該当するのは、以下の聖書の部分だ。

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙 1:23)

 「教会はキリストのからだ」なのだから、自分もその一員になるべき、という主張は一定理解できる。しかし、私は、それを「ある教会の会員になる」ことだとは思わない。「教会はキリストのからだ」という時の「教会」は、概念的な信者の集合体を指すのであって、具体的な場所と名前がある「ひとつの教会」を指すのではない。

 聖書に出てくる「教会」は、この「概念としての教会」と、「具体的・地域的教会」の2種類がある。前者は、上記のようなエペソ人への手紙に代表される、「教会」とは一体何かを説明する際の「概念的」なもの。概念的には、私たちひとりひとりが「教会」であり、その私たちクリスチャンの集合体が「教会」である。

 後者の「具体的・地域的教会」は、「コリントの教会」「テサロニケの教会」といったように、ひとつの共同体のことを指す。聖書の時代には、「●●教団・●●教会」といったような教会は存在しなかった。ただ、「コリント」とか、「テサロニケ」といった町々に、それぞれ信者のふわっとした集まり、共同体が存在していただけだった。集まる場所も、「会堂管理者・会堂司」という表記(使徒18:8、使徒18:17など)から分かるように、ユダヤ人のように「会堂・シナゴーグ」で集まる場合もあれば、誰かの家に集まる場合もあった(使徒16:40など)。現代においては、「●●教団東京●●教会」みたいな感じで、ひとつの教会を指す。

 この2つの違いに注意しないと、間違いが起こる。まとめると……

 

【概念としての「教会」】

・イエスがペテロに「わたしはあなたの上にひとつのエクレシアを建てる」と言った「教会」

・イエスが臨在している状態、キリストのからだ。

・私たちひとりひとり、そして互いの関係性が「教会」である。

【具体的・地域的な「教会」】

・「コリントの教会」、「テサロニケ」の教会といったように、地域それぞれにある「教会」

・かつては、地域でのふわっとした集まり、共同体だった。

・現代においては、「●●教団・東京●●教会」のように、ひとつひとつの「教会」を指す。

 「キリストのからだ」は、私たちひとりひとりを指す概念的なものだ。だから、「キリストのからだ論」を地域教会の「教会籍」問題にそのまま当てはめるのはナンセンスだ。もし、「東京●●教会」が「キリストのからだ」であるのなら、「●●教団」とか、「●●派」みたいに分裂している現状こそ、キリストのからだをバラバラにしていることそのものではないか。

 私たちは、どこの教会に集っていても、イエスを信じるただその一点で、同じ「キリストのからだ」である。だから、本質的にはどの教会に集っていようが、関係はない。各々の教会が、名簿を作って、信者を登録して、数を数えて、その信者を囲うことは、どんなに愚かで無意味な行為だろうか。

 

 

▼現代においての地域教会のあり方

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 聖書時代は、「東京の教会」とか、「文京区の教会」といったように、ふわっとそのエリアに住んでいる信者たちの集まりがあった。どちらかと言えば、「労働組合」チックなものを考えればいいのだろう。「卒業生会」のようなものかもしれない。早稲田で言えば「東京・稲門会」みたいなものをイメージしていただければいい。いわば、「イエス同盟」みたいなものだ。

 しかし、それをそのまま現代に当てはめるのも、またナンセンスだろう。そもそもの人口が、当時とは比べ物にならない。クリスチャンも当時より比率として多くなっている。全員が一カ所に集まるのは不可能だ。その一方で、移動手段も格段に進歩した。今は、比較的遠い場所でも、その集会に集うのが可能になった。インターネットも発達し、極論を言えば、地球の裏側の教会の一員になるのも可能である。

 そうなってくると、確かに、「コリントの教会」のように地域に教会がひとつだけ、というのは現代の日本社会では難しい。田舎では、まだ可能かもしれないが、特に東京なんかの都心では難しいだろう。人と人とのつながりもどんどん薄くなっている。そんな時代だからこそ、一定のつながりを保つために、メンバーシップの制度を取る。これは目的としては一定の理解ができる。しかし、それは、メンバーを拘束していい理由にはならない。

 やはり、大切なのは「心の動機」だ。教会を「母教会」と呼ぶ時、あなたの心はどこに帰属意識を持っているか。あなたの「教会」か。それとも「イエス自身」か。あなたが「教会籍」を作るとき、あなたの心にあるのは、「教会で認められること」か。それとも、「イエスに根ざす」ことか。あなたが教会でメンバーシップを作るとき、あなたの心にあるのは、ダビデが失敗したような「自分の力を誇る気持ち」か。それとも、「仲間のために名前を挙げて祈るだめ」か。

 

 

▼クリスチャンは、もっと自由になったらいい

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 私のオススメは、以下である。オススメであって、聖書がこう言ってるからという命令ではない。オススメである。

 

【教会の運営者へのオススメ】

1:教会の運営者は、公式にはメンバーシップの制度をとらない。とるとしても、目的に合わせて、内々でやった方が良い

2:教会の運営者は、集まるメンバーを数えて、その数字に一喜一憂しない

3:教会の運営者は、来る者拒まず、去る者追わずの精神が望ましい。ただし、カルト・異端からのスパイ・潜入者は別である。カルト・異端のメンバーは、下着さえも忌み嫌って追い出せ

【ひとりひとりのクリスチャンへのオススメ】

1:今集っている共同体の居心地が悪いのであれば、悩む必要はない。違う共同体を探せば良い。あなたが帰属するのは「教会」ではなく「イエス」なのだから

2:できれば、共同体には一定の時間は留まった方が良い。そうしないと、永遠に「知り合い」で終わってしまう。「信仰の友」になるには、時にはぶつかる必要もある

3:何事も、祈って決断した方が良い。しかし、必ずあなたの「心の動機」を吟味せよ

 

 日本のクリスチャンたちは、あまりにも「教会」への帰属意識が高すぎる。ここで育ったから。ここでイエスを知ったから。ここで奉仕をしているから。だから違う教会に行くことは、その恩を裏切ることになる。義理堅い日本人は、そう考えてしまいがちだ。

 それは違う。その教会があなたにイエスを伝えたのではない。イエスご自身があなたを見つけ出してくれたのだ。その教会があなたを育てたのではない。イエスご自身が聖霊を通して、あなたを養ってくれたのだ。あなたはその教会に奉仕をしているのではない。イエスご自身に対して奉仕しているのである。だから、他の教会に行きたければ、好きにすれば良い。まさか、違う教会に行くと、イエスが違うイエスになるわけでもあるまい。

 

 重ねて、教会を選ぶ際に、参考にすると良い、4つのポイントを挙げよう。

 

1:地理的要因

2:ミニストリー的要因

3:スタイル的要因

4:神からの示し的要因

 

【1:地理的要因】

 スラムダンク流川楓「近いから」という理由で高校を選んだように、単純に近い教会を探す。簡単だ。一番大切な要因でもある。

 長距離の移動というのは、以外に骨が折れるものだ。教会の集会に通うだけで疲弊してしまっては、元も子もない。ムリして通っても、往々にして続かない。

 私の友人の中には、牧師が引っ越したので、県をまたいで引っ越した、という人がいる。さすがに驚いた。あなたが礼拝するのは牧師ではない。神ご自身だ。知っている牧師や教団が近くにないからといって、自分の生活まで捻じ曲げる必要はない。たいていの人は、週5とか6日働いて、週に1日教会に集う。7分の6より7分の1を優先して、あなたの人生が潰れてしまわないよう、地理的にムリをしないことは大切だ。

 地理的に、教会の建物や集会の場所がある町の人々に福音を伝えるためにも、地理的条件というのはとても大切である。

 

【2:ミニストリー的要因】

 あなたが神から与えられている能力、パッションはどこにあるだろうか。海外宣教をしたい人と、国内のホームレス伝道をしたい人では、まるで方向性が違う。教会によって、力を入れているミニストリーは違うだろう。イベントごとかもしれない。賛美かもしれない。祈りかもしれない。日本人伝道かもしれない。発展途上国への伝道かもしれない。聖書翻訳かもしれない。教会開拓かもしれない。クリスチャン教育かもしれない…。

 全ての教会が同じである必要はない。全てのクリスチャンが同じである必要はない。私たちは、互いに器官なのだから。

大勢いる私たちも、キリストにあって、一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。 (ローマ人への手紙 12:5)

 

【3:スタイル的要因】

 教会の礼拝会(※「礼拝」についての記事はこちら)のスタイルも重要な要素だ。あなたの好みの音楽、雰囲気、時間、メッセージのやり方、集会の規模、、、まちまちだろう。私の個人的意見では、自分の好みのスタイルのところに行けばいいと思う。正解はないのだから、そんなスタイルとかどうでもいいことで悩んだり、心から神を賛美できなくなるくらいなら、自分が腑に落ちるところを探せば良い。

 日本人は、よく、「この教会を内側から変える」と言うが、私には理解できない。一度あるものを作り変えるエネルギーは莫大だ。ゼロから作り上げる方が、よっぽど楽だ。「教会」を変えることにエネルギーを注ぐぐらいなら、福音を伝える方にエネルギーを使った方が良い。

だれも、真新しい布切れで古い頃もに継ぎ当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしません。そんなことをすれば革袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、革袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。

(マタイ 9:16~17)

 

【4:神からの示し的要因】

 一番大切なのは、神の導きに従うことだ。それには祈りが必要だ。祈って、神に示されたらそれが一番いい。たとえ人間の目には全く合理的でなくとも、それが神の道なら、それに従うのが一番いい。

 しかし、私の経験上、「あなたは●●教会に行きなさい」と神が示すことは、まぁかなりのレアケースだ。神は、あなたがどこの教会に行こうが、たぶんどうでもいい。大切なのは、あなたがどう生きるかだ。

 だから、あなたは集う教会を選ぶ時、自分の「心の動機」を探った方がいい。そこに答えはあるのだから。

 

 

 私たちが帰属するのは教会ではない。イエスご自身だ。私たちクリスチャンは、どの教会に集っていても、同じイエスを信じる、信仰の友であり、家族なのだ。家族同士でいがみあったり、そねみあったりするくらいなら、いっそのこと、その集いから離れてみるというのも、ひとつの手ではないだろうか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】日曜日の「礼拝」は本当に「礼拝」なのか?!

多くの教会が、日曜日の午前10時30分から「礼拝」という集会をやっていますが、それは本当の「礼拝」なのでしょうか?

 

 

▼日曜日の「礼拝」

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 クリスチャンならば、「日曜礼拝」という言葉は、耳馴染みがあるだろう。プロテスタント「礼拝」カトリックならば「ミサ」とでも言おうか。そう、多くの教会が、日曜日の午前10時30分くらいから「礼拝」と称する集会をやっている。

 たいてい、最初に賛美歌とかワーシップソングというクリスチャンの歌を何曲か歌って、その後、「主の祈り」とかを全員で祈って、司会者による聖書朗読があって、牧師の説教(メッセージ)があって、祈りがあって、また賛美歌を歌って、その間に献金袋が回って、最後に「祝祷」とかいう祈りを牧師がして、終わる。そういう「礼拝」だ。この「礼拝」たるものが、クリスチャンの教会では毎週日曜日に行われている。

 クリスチャンではない人からは、よく「クリスチャンになったら、日曜日に教会に行かなきゃいけないんでしょう?」と聞かれる。確かに、毎週行われているのだから、教会のメンバーならば参加しないといけない感じはある。しかし、それは明確な間違いだ。私は、そのような疑問に、「義務ではないですよ」と説明する。では、この「日曜礼拝」はなぜ存在するのか。この「礼拝」という集会は、果たして本物の「礼拝」なのだろうか。聖書にどう書いてあるのか、見ていこう。

 

 

▼「礼拝」とは?

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 そもそも、聖書は「礼拝」について、どういうものだと説明しているのだろうか。おそらく、「礼拝」についての箇所で一番有名なのは、次の聖書の言葉である。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(ローマ人への手紙 12:1)

 ローマ12章のとても有名なこの言葉は、「礼拝」を議論する際には欠かせない。この聖書の言葉によれば、「礼拝」とは、「自分自身のからだを、聖なる生きたささげ物として献げること」である。なんじゃそりゃ。パッと聞いただけではイメージがわかない。

 それもそのはず。この箇所は、旧約聖書の知識がある前提で説明している。だから、まず、旧約聖書での「礼拝」はどんなものだったか考える必要がある。

 この箇所の「礼拝」には、ギリシャ語で「ラトリア」という単語が使われている。新約聖書全体で5回しか登場しないレアな単語だ。「礼拝」と翻訳されているが、「礼拝」そのものの行為よりも、「礼拝の儀式」とか、「定められた礼拝の方法」といった意味があるようだ。この単語の意味を考えても、旧約の儀式の内容を前提に読んだほうが良さそうだ(※ちなみに、一般的な「礼拝」は、ギリシャ語では「プロスクネオ」で、新約聖書に60回登場する)。

 

 では、まず旧約聖書の「礼拝の儀式」はどんなものだったか見ていこう。

 

 

旧約聖書の「礼拝」はどんなものか?

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 旧約聖書で、一番最初に「礼拝」の単語が出て来るのは、次の箇所である。

 

それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻ってくる」

(創世記 22:5)

 この箇所で、「礼拝」、ヘブライ語「シャハー」という単語が初めて登場する。ほとんど「礼拝」と訳されるが、「地面に伏して崇拝する」という意味がある。「伏し拝む」とも翻訳される。現代においては、イスラム教の人が絨毯をひいて、ひれ伏して礼拝をしているのをイメージすれば、分かりやすいだろうか。

 これは、アブラハムがイサクを「いけにえ」として神に捧げようとするシーンである。彼らの目的は、「全焼のいけにえ」を神に捧げることであった。「礼拝」は一義的には、シンプルに「ひれ伏して拝む」ことだ。しかし、その行為には、必ずといっていいほど「いけにえを捧げる行為」が付随するのである。申命記には明確な命令がある。

 

「今ここに私は、主よ、あなたが私に与えてくださった大地の実りの初物を持って参りました」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前で礼拝しなければならない。

申命記 26:10)

 これは、「約束の地」にイスラエルの民が入る前の話。「こう言って収穫に感謝し、ささげ物をささげることで、礼拝しなさい」と、神がイスラエルの民に命じた箇所だ。「礼拝」=「いけにえを捧げる行為」までいくと言いすぎだが、「礼拝」と「いけにえ・ささげ物」はセットなのである。

 

 他にも、もういくつか、旧約聖書の「礼拝」を見てみよう。

 

この人(エルカナ・サムエルの父)は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた。

(サムエル記第一 1:3)

ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。

(サムエル記第二 12:20)

こうして、サマリアから捕らえ移された祭司の一人が来てベテルに住み、どのようにして主を礼拝するべきかを教えた。

(列王記第二 17:28)

また、あなたの神の宮での礼拝のために渡された用具は、エルサレムの神の前に供えよ。

エズラ記 7:19)

 

 他にもたくさんの「礼拝」の記述があるが、以下のような点にまとめられる。

 

1:「礼拝」は、「いけにえ」とセットだった

2:「礼拝」は、もともと、一義的には「地に伏して神を拝む」シンプルなものだった。

3:後代になり、「礼拝」のための場所(幕屋、シロ、主の家、神の宮など)が決まっていった。

4:後代になり、「礼拝」は、祭司やレビ人などの特別な人が、特別な役割を担う仕組みになっていった。

5:後代になり、「礼拝」は、手順などのルールができていった。それは、やり方を教えなければいけないほど複雑だった。

6:後代になり、「礼拝」には様々な用具も必要になっていた。

 まさに、ヘブル人への手紙に書いてある通りである。

 

さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。

(ヘブル人への手紙 9:1)

 ヘブル9:1の箇所のギリシャ語も、「ラトリア」(礼拝の儀式)である。礼拝は「いけにえ」などの「ささげ物」がセットの、複雑な儀式だったのだ。

 もっとも、ダビデはベッドの上でも「礼拝」したようである(列王記第一 1:47)。だから、後代になっても、「礼拝」は、一義的にはもっとシンプルな、「ひれ伏す」行為のことだったのかもしれない。しかし、それはひれ伏して、神に恐れと崇拝の心を示す行為だった。決して、毎週日曜日の午前10時半に集まる集会のことを指すのではなかったはずだ。

 

 

新約聖書の「礼拝」はどんなものか?

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 では、新約聖書において、「礼拝」とはどのようなものなのだろうか。ローマ12章の箇所は、既に触れた。ここでは、イエスがどう教えたか見よう。ヨハネ4章の有名な箇所がある。

 

彼女(サマリアの女)は言った。「主よ。あなた(イエス)は預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

ヨハネ福音書 4:19~24)

 ここの「礼拝」は、「ラトリア」ではなく、「プロスクネオ」である。意味合いは、ヘブライ語の「シャハー」とほぼおなじで、「ひれ伏す」という意味だ。しかし、文脈を考えれば、この「礼拝」も、いわゆる、宮に行って、所定のいけにえを捧げて、儀式を行う、あの「礼拝」と考えて差し支えない。

 サマリヤ人は、もともとイスラエルの民だったが、アッシリヤの侵略によって、周辺諸国と民族が混ざってしまうこととなり生まれた、混血の民だった。彼らは、エルサレムではなく、ゲリジム山を「礼拝」するべき場所だと定めていた。「モーセの律法」ではなく、「サマリヤ五書」という律法も持っていたようである。

 しかし、イエスはその女に、「本物の礼拝」とは何か教えた。それはどういうものか、イエスは主に2つのポイントを話している。

 

1:「本物の礼拝」は、どこでも「礼拝」できる。

2:「本物の礼拝」は、御霊と真理によって「礼拝」する。

 1つ目のポイントはわかりやすい。エルサレムでも、ゲリジム山でも、イスラエルでも、日本でも、どこでも「礼拝」できるという、文字通りの意味だ。

 2つ目は、ちょっとわかりにくい。しかし、先に論じた旧約聖書の常識と比較すれば、容易に理解できるはずだ。

 

旧約聖書モーセ律法の常識】

「礼拝」は、「決められた場所で」祭司を通して行うもの。所定のいけにえを捧げ、決められた儀式の手順を守ることで、やっと聖なる神に近づき、礼拝できる。

 

新約聖書、イエスの常識】

「礼拝」は、「いつでもどこでも」、ただ聖霊によって知り、受け入れることのできる大祭司イエスを通して行うもの。儀式は必要なく、ただ唯一の完全ないけにえであるエスの犠牲によって、聖なる神に近づき、礼拝できる。

 お分かりいただけただろうか。もう少し噛みくだくと、以下のようになる。

 

「御霊」

聖霊聖霊なくして、イエスを知り、受け入れることはできない。

 

「真理」

エス自身。イエスが唯一のいけにえであり、大祭司であるという真理。救い、贖い、なだめの真理。イエスによって救われ、神に近づけるという真理。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

 イエスが、旧約聖書の様々な規定のある「礼拝」の概念を、完全に変えたのである。「礼拝」のパラダイムシフトが起きたのだ。まさしくヘブル9章に書いてある通りである。

 

この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。(中略)しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

(ヘブル人への手紙 9:9~12)

 イエス以降の時代に生きている私達は、いつでも、どこでも「礼拝」できる。聖霊によって、イエスを知り、受け入られる。旧約のいけにえ、儀式をしなくても、ただイエスお一人を通して、聖なる完全な神に近づき、神との関係を楽しめる。なんという恵みだろうか。

 

 

▼「礼拝」はあなたの人生を「いけにえ」として捧げること

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 ここまで読めば、最初のローマの箇所の意味が、腑に落ちると思う。もう一度読もう。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(ローマ人への手紙 12:1)

 筆者のパウロは、当然、旧約の礼拝で使った「いけにえ・ささげ物」と対比してこの箇所を書いたに違いない。「完全なささげ物」は、イエスただ一人である。私達は、イエスを通して礼拝できる。

 しかし、パウロはそれにとどまるなと言っているのである。さらに上のレベルのことを、文字通り「オススメ」している。それは何か。それこそが、「自分自身をささげ物として献げなさい」という言葉だ。

 旧約の時代では、「ささげ物」を捧げることが「礼拝」だった。しかし、今の時代の私達にとっては、「自分自身」を捧げることが「ふさわしい礼拝」となったのだ。あなたの「生き方」そのものが、「礼拝」となるのだ。

 イエスを信じた瞬間から、自分の命は自分のものではない。あなたの命は、イエスによって買い取られたのだ。あなたの人生は、もはやあなたのものではない。「お前はもう死んでいる」のである。

 

 真の礼拝者は、もはや自分の力で生きない。聖霊の力で生きる。

 真の礼拝者は、もはや曜日や時間に縛られない。24時間365日、神と共に生きる。

 真の礼拝者は、もはや自己中心の道を歩まない。神の道を歩む。

 真の礼拝者は、もはや虚しいもので心が満たされない。ただ神との人生を喜ぶ。

 真の礼拝者は、もはや選択を迷った時に自分の判断で決断しない。神に寄り頼む。

 真の礼拝者は、もはや失敗してもくよくよしない。神に感謝して立ち上がる。

 真の礼拝者は、もはや人をねたまない。恵みに満ち溢れる。

 真の礼拝者は、もはや罪に縛られない。イエスによって解放されている。

 

 あなたの生き方そのものが、全て、「礼拝」になるのである。

 

 

▼日曜日の「礼拝」は「礼拝会」にすぎない

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 ともすると、日曜日、午前10時半の「礼拝」とは一体何なんだろう。もはや、それが「礼拝」ではないことは明らかだ。聖書の記述のどこに、賛美歌を歌って、司会者がみことばを朗読し、牧師がメッセージをして、また賛美をして、その間に献金袋を回して、最後に祝祷を祈ることが「礼拝」だと書いてあるのだろうか。全く書いていないのである。実は、それらはただの「文化」なのである。「礼拝」の本質は、「日曜礼拝」にはないとハッキリいいたい。もっといえば、「主日礼拝」なんてものはない。強いて言えば、毎日が「主日礼拝」なのだ。

 誤解してほしくないのだが、私は、日曜日の集会を否定しない。しかし、それを「礼拝」と呼ぶのは気が引ける。それは、「礼拝」ではなく、単なる「礼拝会」、または「礼拝式」だ。もちろん、「礼拝会」そのものは、とても重要で、参加した方が良い集会だ。ヘブル人への手紙には、こうも書いてある。

 

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。エスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることがわかっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 1019~25)

 パウロは、集まりをやめたりしないように注意している。自分の人生そのものが「礼拝」だという認識が強まりすぎると、自分だけで生きていけるような錯覚に陥る。それは間違いだ。私たちは、同じイエスの子どもとして、お互いに励まし合い、教え合い、お互いを大切にし合い、支え合い、一緒に笑い合い、時にぶつかり合い、時に助け合う必要がある。人間は弱く、すぐ自分の力で生きようとしてしまうからだ。しかし、それは間違いだ。それを忘れないための「礼拝会」だ。

 「礼拝」のために「礼拝会」があるのではない。「礼拝会」のためにあなたがいるのでもない。ただ、お互いが「礼拝」と呼べる人生を送れるよう、お互いに心を新たにするために集まるのである。そのための「礼拝会」だ。

 

 また、イエスが提起した「礼拝」のパラダイムシフトがもうひとつある。それは、次のイエスの言葉だ。

 

まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:19~20)

 これは、ユダヤ人にとって驚きの言葉だったに違いない。なぜか。ユダヤ教では伝統的に、10人集まらないと会堂で祈れなかったからだ。彼らは、10人集まらないと、「礼拝」を始められなかった。この伝統は、今も受け継がれている。この理由は、アブラハムが神と交渉した際、人の最小単位を10人とした故事に起因する(創世記18章参照)。

 ユダヤ人は10人が礼拝の最小単位だった。しかし、イエスは、2人か3人が集まるとき、その中に自分自身もいると宣言した。「礼拝」のパラダイムシフトが起こったのだ。この瞬間から、私たちは10人ではなくても、どこでも、イエスと共に礼拝できるようになったのだ。

 重要なのは、「1人」とは言っていない点だ。私たちは、2人でも3人でも、共に集まり、イエスの名前を宣言し、礼拝できる。お互いに希望を告白できる。自分たちの心をイエスにチューニングできる。しかし、それは1人ではできない。2人でも3人でも、信仰の友と集まるのは重要である。

 私たちが信仰の友とともに、告白するべき希望は、政治的信条ではない。私たちが告白する希望は、「イエスによって、大胆に神に近づける」という希望だ。私たちは、「完全ないけにえ」となったイエス師匠を目指して、自分自身も「完全ないけにえ」に近づけるよう、毎日毎日、一歩ずつ、イエスに近づいていくのである。その人生そのものが、「礼拝」なのである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンはタバコを吸っていいのだろうか?  

 クリスチャンは、タバコを吸ってもOKなの?

 

 

▼「酒」よりハードル高そうな「タバコ」

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 クリスチャンにとっての飲酒の是非は、既に記事を書いたので参考に読んでいただきたい(→飲酒の是非の記事はこちら)。さて、「酒」より「ハードル」が高そうなのは、「タバコ」である。喫煙はクリスチャンにとって、いいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。

 インドネシアに伝道旅行に行った際、とある聖公会のチャプレンに出会った。キリスト教系の高校生の引率だった。彼は、教え子たちがいる前で、タバコをプカプカしていた。衝撃だった。私は、以前、クリスチャンにとって、喫煙は当然のように罪だろうという考えを持っていた。クリスチャンであれば、タバコなんぞに手を出さないのは当たり前で、そこに疑問の余地はないと考えていたのだ。しかし、目の前で教職者がタバコをファーッとふかしている。驚きを禁じ得なかった。ある意味、「喫煙」は「飲酒」よりショッキングな出来事であろう。

 

 

イスラエルでのパラダイム・シフト

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 学生時代の留学先はイスラエルだった。イスラエルに行くと、私の狭い常識は、いっそう打ち砕かれた。ユダヤ人とドイツ人の信仰の友が、バイブルスタディーに誘ってくれた。喜んで行くと、皆の真ん中には、テーブルではなく、大きな水たばこがあった。彼らは、ヘブライ語「ナルギーラ」という水タバコの煙を、ブクブクと音をならして吸い込み、ファーッと煙を吐き出しながら、聖書の言葉を共に読みはじめた。はじめは戸惑ったが、留学中ということもあり、「ええい、ままよ」の精神で、僕もジョインしてみた。これが、結構ハマった。僕らの「ナルギーラ・バイブルスタディーは、定期的な習慣となった。これまた、いい霊的教訓の場になったのである。

 

 僕は一度、ユダヤ人の友人、ジェイク(仮名)に尋ねてみた。「タバコやナルギーラはOKなのかい?」。ジェイクは、ユダヤ人だがイエスをメシア(救い主)だと信じている、「メシアニック・ジュー」だ。彼は、いつもの「ナルギーラ・バイブルスタディー」のメンバーだった。彼は非常に熱心な信者だった。そんな彼がタバコも水たばこもやっているのが不思議だったのである。

 彼は当然のように言った。「え? 聖書に全く書いてないからいいに決まってるでしょ」。なるほど。ユダヤ人にとっては聖書の律法が全て。それがハッキリ分かった。

 そんなジェイクは、イエスを信じている。彼は、ユダヤの律法は、もはや意味がないと知っていた。それでもなお、彼は、習慣的に律法を守っていた。肉と乳製品は一緒に食べないし、食器やスポンジも別。電子レンジも、肉用の電子レンジと乳製品用の電子レンジで分けている。安息日(土曜日)は出歩かないし、頭にはいつもユダヤ人が身につける小さな帽子、「キッパ」を被っている。そんな彼は、イエス(イェシュア)を心から、本気で、めちゃめちゃ信頼していた。彼とは、たびたび夜通し、イエスや聖書について、熱く語ったものだ。そんな彼も、パーティーの時は思いっきり酒も飲むし、ナルギーラもブクブクとやっていた。

 僕の「信者像」は、ガラガラと音を立てて崩れていった。酒やタバコをやらないといった、僕が「クリスチャンらしさ」だと思っていた部分は、イスラエルでは全く通用しなかった。逆に彼らにとっては、「安息日に出歩かない」とか、「肉と乳製品を分ける」とか、「豚肉を食べない」ことが、「信者らしさ」であった。このとき、私は初めて、「信仰って何だろう」と考えるようになった。パラダイム・シフトが起きた。イスラエル留学は、自分で聖書を吟味しようと思ったきっかけになった。

 

 さて、聖書はタバコについて何と教えているのだろうか。

 

 

▼タバコの記述、実はなし?!

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 ジェイクの言うように、聖書には、タバコに関する記述が全くない。良いとも、悪いとも言われていないのである。どんなに探しても、ないのである。もっとも、中東経験のある人ならば、アブラハムとかイサクとかヤコブといった族長たちが、タバコをプカプカしながら、チャイを飲んでいた、といったような風景は、容易に想像できるだろう。しかし、明確な記述がない以上、それは想像の域を出ない。

 では、どう考えたらいいのか。まず、大前提として、飲酒の是非の記事でも述べたが、「それ事態でNGな行為は、もはやない」のである。私たちは、「これはやっていい」、「これはやってはダメ」といった、律法主義的な考えからは、既に解放されている。そのような律法の要求は、全てイエスが十字架の上で完結させたのだ。イエスによる「なだめの香り」によって、現在過去未来の全ての罪に対しての神の怒りは、既に鎮まっているのである。

 完全に自由であるといっても、何でもかんでもしていいわけではない。それはもう、「心の動機」に聞けば分かる。あなたは、あなたの行為の「結果」(consequences)を刈り取る。食べ過ぎれば太るし、寝不足になれば健康を害する。それと同じで、あなたと神様の関係を傷つける行為をすれば、当然、神様との距離は離れる。神が離れるのではない。あなたが自発的に離れていくのだ。あなたと信仰の友との関係を傷つける行為をすれば、当然、あなたと信仰の友との距離は離れる。では、「喫煙」という行為は、どういう影響を及ぼすのか。

 今回は、1:あなたと神の関係2:あなたと信仰の友の関係、の2つの視点から、喫煙について考えていきたいと思う。

 

 

▼あなたと神の関係(1) ~あなたは聖霊の宮である~

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 喫煙をするとしないとでは、あなたと神の関係は変わるのだろうか。正直いうと、私はほとんど変わらないと思う。ある意味、お酒より変わらないと思う。

 よく、クリスチャンの間で、喫煙を避けるべきという人が引用するのは、以下の聖書の言葉である。

 

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

(コリント人への手紙第一 6:19)

 あなたは、聖霊の宮」なのだから、その宮を喫煙によって汚してはいけないという理論である。これは、2つの点から間違っている。

1:性的な失敗の文脈であり、喫煙について書いてある箇所ではない。

2:喫煙だけが「汚す」ものではない。

 この箇所は、「性的な失敗」について書いてある箇所だ。喫煙についてではない。聖書は、婚前交渉や近親相姦、同性愛などを明確に禁じており、それについての箇所である。少し前の箇所を見てみよう。

 

それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」(※創世記2:24の引用)と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

(コリント人への手紙第一 6:16~18)

 「淫らな行い」というのは、「ポルネイア」(この部分は、ポルネオ)というギリシャ語で、「ポルノ」の語源となったと言われている。「ポルネイア」は、婚前交渉や近親相姦、同性愛や獣姦など、「正しくないセックス」を指す。異論はあるだろうが、今は議論は避ける。

 コリントの箇所は、「性的失敗」は、神との関係を阻害するものとして警告している。それらを避け、神と一つの存在となるべきと書いてあるのであって、喫煙や飲酒の是非と問うているわけではないのである。

 私たちは聖霊の宮である。だからこそ、毎日毎日、神を知り続け、神とのシンクロ率を高めていく必要がある。それが根本のメッセージであり、「神の宮だから禁煙!」というのは論点がズレている。

 

 

▼あなたと神の関係(2) ~喫煙はあなたを汚すのか~

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 しかし、神とひとつのからだとなったのだから、タバコを吸ったらからだが汚れるのではないか、という指摘もあるだろう。これに対しては、イエスは明確な方針を示している。

 

エスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」(中略)イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」

(マタイの福音書 15:10~20)

 当時、手を洗わないで食事をするのは、ユダヤの律法的にご法度だった。というか、現代でも手を洗わないで食事をするのは、ばっちいからヤメた方がいいが、ユダヤ的には清潔+清めの儀式としての意味合いもあったようである。パリサイ人たちは、手を洗わないで何かを食べれば、からだが汚れると心から信じていた。

 しかし、イエスは、「どうせ食ったものはウンコになるんだから、別にどうってことない。本当にヤバイのは、心の問題だ。食べるものより悪口を言わないように気をつけろバカヤロー!」と言ったのである。タバコも同じではないか。もちろん、健康には良くないだろう。しかし、霊的な目線では、飲酒よりも、喫煙よりも、悪口の方が100億倍悪いのだ。

 あなたがタバコを吸ったところで、せいぜい健康的影響は、微々たるものだろう。もちろん、両手を上げて健康に良いとは言わない。肺がんのリスクは高まるし、様々な身体への悪影響はあるだろう。妊婦は喫煙を避けるべきだし、ニコチンによる依存症もある。だから、お酒と同様、自分なりの「線引き」はした方がいいだろう。しかし、たばこを吸っても、吸わなくても、人はいつか死ぬのである。あなたはどんなに健康に気をつかっても、あなたの寿命を1秒たりとも長くすることはできないし、1秒たりとも短くすることもできない。それは、イエスがハッキリと言っている。

 「この世の健康」に気をつかい出すと、キリがない。無闇やたらなオーガニック主義、紫外線恐怖症、過度なダイエットなど、ある意味「偶像礼拝」に陥ってしまう危険性もある。気をつかい出すと、気楽に外食もできないし、外も安心して出歩けないし、食物を感謝して受け取ることもできなくなる。コリントの箇所に記述がある通り、「『食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある』が、神は、そのどちらも滅ぼされる」のである(コリント6:13)。

 

 むしろ、そのような健康に気をつかうより、「悪い考え」や「ののしり」に気をつけるべきと、イエスは教えている。さすがに、「殺人」はなくても、「不倫」や「婚前交渉」の罠には、意外と簡単に陥ってしまう。手癖が悪い人は「盗み」、ちょっと話に盛りグセがある人は「偽証」にも気をつけないといけない。教会の裏口でコッソリとタバコを吸っている人より、公然と牧師や教会スタッフ、他の教会メンバーの悪口を言う方が、100億倍危ないのである。あなたがもし、悪意のあるウワサ話をするなら、それはあなたの霊のからだを汚すことであり、あなたと神との関係を傷つけ、霊的成長を阻害することになる。タバコを吸っても、それは阻害されない。むしろ、上記のような心の問題に気をつけるべきである。

 

 

▼信仰の友との関係 ~喫煙は、あなたの信仰の友にとって「愛」となりうるか~

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 喫煙は、「あなたと神の関係」においては、さほど影響がないと分かった。もちろん、依存症による悪影響は避けられない。だから、気をつける必要がある。しかしながら、「禁止」するべきかというと、そうではないと思う。

 では、「あなたと信仰の友との関係」においてはどうだろうか。喫煙が、決定的に「飲酒」などと違う点は、副流煙の存在である。これは、現代社会において大きな問題となっている。政府・与党は、日本においても基本的に店舗での喫煙を規制しようと動いている。東京都では、既に路上喫煙や店舗での喫煙が、条例によって規制されている。

 あなたが吸いたいと思っても、他の人がどうかは分からない。人によっては、匂いだけで嫌な気持ちになるし、服についたニオイもなかなか取れない。「副流煙」は、タバコを吸う人が吸い込む「主流煙」と比べて、ニコチンが2.8倍、タールが3.4倍、一酸化炭素が4.7倍も含まれている(出展:すぐ禁煙.jp)。

 タバコは、吸っている本人より、周りにいる人の方が、害を受けてしまうのだ。自分の意思とは関係なしに、吸い込んでしまい、健康は害されるし、嫌な気分になるわで、いいところが一つもない。がんや、脳卒中、呼吸系の病気、妊婦の出産のリスクなどが高まり、百害あって一利なしである。

 もちろん、リラックスしたり、気分転換するという意味で、タバコにも利点はある。しかし、「副流煙」を考えると、配慮は必要不可欠だ。クリスチャンは、「愛」の観点から、喫煙のマナーには、一層気をつける必要がある。

 

ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

(マタイの福音書7:12)

 

 これは、イエス旧約聖書の教えを、ざっくり一言にまとめた箇所である。「律法」と「預言者」というのは、大まかに「旧約聖書」のことを指す。「人からしてもらいたいことは何でも、同じようにする」。言い換えれば、日本語でとても耳馴染みのある言葉、「他人の気持ちになって考えてみよう」ということである。

 もし、あなたがタバコを吸いたくなったら、他の人の気持ちになって考えてみよう。もしあなたがタバコが嫌いだったら? もしあなたの妻が妊婦だったら? もしあなたが喘息だったら? もしあなたの家族が肺がんで死んでいたら?

 

 そのような気持ちを考えたとき、「分煙」のマナーを守るのは、至極当然であろう。

 

 また、加えるならば、ニコチンはとても依存度が高い物質である。もしあなたの何気ない喫煙が、やっとこさ「禁煙」に成功した信仰の友の決意を、揺らがせることにならないだろうか。あなたの喫煙の習慣が、信仰の友との関係を阻害していないだろうか。喫煙事態は悪い行為ではないが、特段の配慮が必要なのは、言うまでもない。しかし、一人でカフェに行って、喫煙席に座り、一人でタバコを楽しむのは、全く問題ないと思う。むしろ、弱い人間にこのような嗜好品を与えた神に感謝して、これを受け取るべきだ。

 

 

▼リーダーはどうあるべきか

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 最後に、リーダーたちがどうあるべきか書く。「飲酒」については、明確な注意喚起や基準が定められている。しかし、「喫煙」については、明確な記述がない。

 であるならば、根本的には「自由」だ。しかし、愛の原則を忘れてはならない。これはもう解説するまでもなく、ひとりの人間として当たり前のことである。もちろん、喫煙は国や文化の背景によって、常識がかなり違うので、その文化背景も尊重する。では、マリファナはどうか? 覚せい剤はどうか? という議論になるとラチがあかないので、ここでは避ける。

 とにかく、日本の文化背景では、「分煙」のマナーを守る。「ポイ捨て」をしない。これが最低限のマナーではなかろうか。そう考えると、高校生の引率で来ていた例の聖公会のチャプレンが子どもたちの前でプカプカやっていたのは、ちょっといかがなものかとも思う。

 

 あなたの考えている「信仰」は、実はただの「文化」かもしれない。僕は、イスラエルで自分の「信仰観」を打ち崩された。僕は、そこからやっと、しっかりと自分の足で歩き出すクリスチャンになれたのである。あなたはどうだろうか。自分の足で歩いているだろうか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンはお酒・アルコールを飲んではいけないのか?!<後編>  

クリスチャンは、お酒、アルコール飲料とどのように付き合っていけばいいのでしょうか?

※前編の記事はこちら

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼アルコールとどう付き合うべきか

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 前編で述べたように、アルコールを飲むのは「悪」でも、「罪」でもない。大切なのは、酒とどう付き合うかだ。極論、たくさん飲んでも、コントロールできれば良いのだ。

 とはいえ、果たして、ぐでんぐでん、ベロンベロンの状態で、「御霊に満たされ続ける」のは可能なのか。私はとてもそうは言えないと思う。パウロは、アルコールをコントロールするために、たびたび厳しい指摘をしている。

 

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者(すなわち信者の中で)で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。

(コリント人への手紙第一 5:11)

 このように、新改訳聖書2017では「酒におぼれる者」となっている。第3版では「酒に酔う者」となっているが、「おぼれる者」の方がニュアンスが伝わりやすい。パウロは、信者の中で、「酒におぼれる者」、つまり、「アルコール依存症の人」、「酒にコントロールされてしまっている人」とは一緒に食事もするなとまで言って注意している(※信じていない人が飲んでも、その人と一緒に食事をしてもそれは全く問題ない)。

 「酒におぼれる者」という表現は、不倫をしている人や、偶像礼拝をする人と同列で書いてある。これは2つの意味で重要だ。

1:飲酒は、それほど注意しなければならない人の弱さである。

2:飲酒は、性的な失敗や、偶像礼拝など、他の失敗につながりやすい。

 「酒をコントロール」と一言で言っても、それはとても難しい。聖書で飲酒は「禁止」されてはいないが、ハッキリと注意喚起はされているのである。また、前編でも取り上げたように、お酒による失敗談も数多く記述がある。飲酒に気をつけろというメッセージが聖書にあるのは、明らかであろう。

 私はまだ診断が必要なほどの依存症の自覚はないが、周りの依存症の人を見ていると、特徴として、他のどんなことよりアルコールを優先させる傾向にある。ある人は、私にビールを買いに行くよう言って、私が買いに行く間、ものの15分も我慢ができず、自分でコンビニに行ってビールを買って飲んでいた。そこまでの状態になると、もうアウトだ。

 また、アルコール依存症になると、もう家族や兄弟姉妹との会話とか、聖書を読むとか、祈りとか、大切なことより酒を優先するようになる。しまいには、仕事も家族も自分自身の健康もおろそかにしてしまうのである。アルコールとの付き合いは、知恵と自制が必要なのである。そのため、ある程度の「線引き」はとても大切である。ただ、人によって、どこが適切な線引きかは、個人差があると思う。

 

<認めたくない現実まとめ>

1:飲酒は、他の失敗ともつながりやすい。

2:飲酒の程度を自分でコントロールするのは、とても難しい。

3:依存症になると、他の何よりも酒が優先順位が高くなる傾向にある。

4:過度な飲酒は、あなたの家族、友人、人間関係を壊し、あなたの健康、そして人生も壊す可能性が高い。

 

 

▼リーダーたちへの基準

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 また、パウロは、教会のリーダーたちには、さらに厳しい基準を示している。

 

ですから監督は、避難されることがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。

(テモテへの手紙第一 3:1~4)

同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。

(テモテへの手紙第一 3:8~9)

 この「監督」「執事たち」が教会でどのような役目なのかは、いろいろな意見があるが、今回はざっくりとリーダーと捉える。パウロは、「酒飲み」でない人をリーダーにすべき、逆に言えば「酒飲み」はリーダーにふさわしくないと指導している。酒をコントロールできない人には、自分をコントロールできない。そういう人がリーダーに相応しくないのは、当然だろう。

 面白いのは、「監督」と「執事」で基準の差があるところだ。「監督」は「酒飲みでなく」なのに対し、「執事」は「大酒飲みでなく」とある。「執事」はある程度の飲酒は許容されているようである。「監督」はより厳しい選考基準があり、より重い責任があったことが、この記述からも読み取れる。

 もっとも、「たしなむ」程度なら、普通、「酒飲み」とは言わないから、「監督」であっても酒は飲んでいたと考えるのが素直な受け取り方であろう。この部分のギリシャ語は、「NOT・パラオイノス」。「横に・ともに」という意味の「パラ」と、「ワイン・ぶどう酒」の「オイノス」を結合させた形容詞だ。「常に酒が横にある状態」とでも言おうか。

 これは、単純に「飲酒をする人」よりかは、「一升瓶を腰につけている、いつも酔っ払ってる人」と捉えた方が、私は素直だと思う。タンタンの冒険のハドック船長とか、ドカベンの徳川監督とか、そういった類の人だ。だから、「監督」(大方、『牧師』に適用する)は、一切酒を飲んではいけないというのは、私は間違いだと思う。

 聞いた話では、教会員がお酒を飲んでいたら、教会内での役目をクビにする教会もあるという。ちゃんちゃらおかしい。もちろん、アルコール依存症と診断されたら、病気なのだから、しばらく休んでもらってもいいかもしれない。しかし、1回や2回の飲酒で、何か犯罪を見つけたように、即解任となるのは筋違いではないか。

 私は、牧師であっても、執事であっても、長老であっても、酒を飲んでもいいし、それを見ても私は何とも思わない。それで「つまずき」だという人は、信仰をカンチガイしていると思う(※クリスチャンが大好きな「つまずき」についても記事を書く予定)。

 もちろん、コントロールできないという可能性を謙虚に受け止め、一切飲まないという「線引き」をしている人を、私は心から尊敬する。

 

 

▼「集い」の中での飲酒はどうか

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 いずれにせよ、いろいろな意見はあるが、「飲酒」そのものは悪いことではない。個人レベルでは飲酒は自由だ。では、「集い」の中での飲酒はどうだろうか。私は、一定の配慮が必要だと考える。この問題の答えは、ローマ人への手紙14章にあると考える。長いが、一部を抜粋する。

 

ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。(中略)ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日と尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(中略)こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(中略)食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙14章)

 

 複雑だが、ポイントをまとめると以下のようになるだろう。

 

<ローマ14章まとめ>

1:それ自体でNGな食べ物、飲み物はない。

2:何を食べるか、何を飲むか、どの日を大切と考えるかは、人によって違う。

3:あなたは、あなた自身の信仰によって行動すべきである。

4:正しいと思う行動は正しい。しかし、「自分の信仰」に基づかない行動は良くない。

5:あなたの行動は自由であるが、信仰を持つほかの兄弟姉妹が、それによって傷ついているなら、それは愛ではない。また、あなたの行動によって彼らを信仰から遠ざけていないか、吟味が必要である。

6:イエスは、あなただけでなく、兄弟姉妹全員のために死んでくれたのだ。あなたの自由な行動によって、イエスが死んでまで愛した人を傷つけたり、信仰から遠ざけるべきではない。

 繰り返すが、酒を飲もうが、タバコを吸おうが、何をしようと、あなたが疑問を抱かず、信仰に基づいて行っているのなら、それは正しい。それ自体でダメなものはない。しかし、あなたのその行為が、まわりの兄弟姉妹を傷つけていないか。彼らを信仰から遠ざけていないか。吟味が必要である。

 私は、別に教会の集いの中で酒を飲んでもいいと思っている。礼拝堂がある建物の中でアルコールを飲んでもいいとも思っている。しかし、その集会の中に、やっとアルコール依存症から解放されたばかりの信者の仲間がいたら、どうだろうか。美味しそうに酒を飲むあなたたちを見て、彼はもう一度アルコール依存症に戻ってしまわないだろうか。もし、そういう人がいるのが明らかなら、集いの中での飲酒はヤメたほうがいい。

 もしかしたら、あなたの集会の中に、酒乱の両親に暴力をふるわれた人がいるかもしれない。あなたがお酒を飲む行為が、その人に過去のトラウマをフラッシュバックしてしまうかもしれない。その結果、その人が、礼拝会の集会に来にくい環境を作ってしまうかもしれない。もし、そういう人がいるのなら明らかなら、集いの中での飲酒はヤメた方がいい。

 もし、あなたの「飲酒」があなたの信仰の友を傷つけ、信仰から遠ざけると分かっていながらやめられないのであれば、それは愛ではない。あなたの愛は、「飲酒」を「ギブアップ」できる愛だろうか。イエスは自らの命までも「ギブアップ」して、その友を救ったのだ。

 

 もちろん、そんな細かなことまで気にし出すと、教会の集まりで何もできなくなってしまう。上っ面だけの、偽善者の集まりになってしまう。イエスはそれを一番批判した。パリサイ人や律法学者たちは、うわべと中身が違っているから批判を受けた。飲酒の間違いから遠ざかるために、「予防線」を張るのは大切だが、それにこだわりすぎると、すぐに「律法主義」の罠にハマる。

 私は、信仰の友と酒を飲むときは、こういう「線引き」をしている。もし、一緒に食事をする信仰の友の飲酒に対するスタンスが定かでない場合は、飲酒が「offensive」(不快な思いをさせる行為)でないか、いつも尋ねるようにしている。正直、「居酒屋」とかで集まった時点で、大丈夫かもと思うのだが、半ば儀式的に尋ねるようにしている。「空気」を読むのが日本人の得意技なのだから。

 何よりのオススメは、「相談相手」(Acountability)を作ることである。これは、飲酒に限ったことではない。「相談相手」とは、信仰の友同士で、お互いの霊的状況を相談し合う、「相互カウンセラー」のようなものだ。「霊的五人組」とでも言おうか。お互いに問題があれば、お互いに注意し合い、お互いに刺激し合い、お互いに励まし合う。もし飲酒が過剰になっていたら、ストレートに「気をつけろ」と言える仲間が、あなたの教会にいるだろうか。あなたの集いの中で、あなたの抱えている問題を分かち合える信仰の友はいるだろうか。もしいるなら、もっと親密になろう。もしいないなら、少しでも自分から心を打ち明けてみよう。それが一番の「予防線」になる。

 

 ただ、注意しないといけないのは、「自分の信仰を保つ」というポイントだ。何度も繰り返すが、飲酒そのものは悪い行為ではない。クリスチャン界には、「つまずき」をいたずらに警戒する悪しき文化がある。その「つまずき」は、正しい「つまずき」なのかも吟味の必要がある。本来聖書が自由としているものを、勝手に「ダメだ」と禁止したり、タブー視するような空気が、教会や集いの中にあるのなら、それは健全とは言えない。お互いに意見を交わし、お互いを尊重し合う文化の情勢が必要である。そうしないと、「つまずいた」という側の言い分が、なんでも正しいということになってしまう。それは、単なるワガママである。

 もし、あなたの価値観が、誰かに言われたことだけで作られているとしたら、問題だ。他人の言葉を鵜呑みにしているだけなら、それは信仰とは言えない。自分で聖書を読み、神と対話し、自分の生き方を決めていく必要がある。自分で考えた結果、飲酒をするもよし、やめるもよし、人に勧めるもより、勧めないもよしだ。大切なのは、自分で聖書を調べ、果たして本当かどうか吟味することである。やはりここで大切になってくるのは、「心の動機」である。

 あなたが酒を飲む、「心の動機」は何だろうか。「美味しいから?」、「辛いことを忘れたいから?」、「付き合い?」、もしかして、「誰かを酔わせたいから・・・?」

 あなたが酒を飲まない「心の動機」は何だろうか。「お酒が好きじゃないから?」、「別に飲む必要もないから?」、「教会の決まりだから?」、「罪悪感があるから?」、もしかして、「罪だとカンチガイしているから・・・?」

 

 あなたの心の動機は何だろうか。

 

 

▼酒は神からの恵み

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 最後に、一番大切なポイントを指摘して終わりたい。

 

 私たちは行いによって救われるのではない。

 

 クリスチャンにとっては当たり前の話だが、この手の議論をするとき、多くの人が、この恵みによる救いを忘れがちだ。「飲酒」は罪ではない。私たちはもはや、全てのことに対して自由にされているのである。律法の要求は、イエスが完成させている。私たちは、神の恵みの中にあって自由にされている。だからこそ、「自分の信仰」が大切なのだ。なんでもかんでもしていいのとは違う。それは、あなたの「心の動機」に聞けば分かるだろう。だから、結局の所、本来はこんな「飲酒はいいのか悪いのか」みたいな議論には意味がない。エスを信じていれば、どうぞご自由に。以上。

 

 その上で、「酒は神の恵み」だと指摘しておきたい。いくつかの聖書の言葉を紹介する。

 

これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。

(テモテへの手紙第一 5:23)

 少量の酒は、良薬にもなる。実際、飲酒が程度によっては健康にいい効果をもたらすという研究データもあるそうだ。

 

ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えなさい。その人は飲んで自分の貧しさを忘れ、もう自分の労苦を思い出すことはない。

箴言31:6~7)

 飲酒は、時にこの世の労苦を忘れさせてくれる。ストレス発散のために酒を飲むのは、むしろ正しい行為だと思う。

 

あなたは、そこで(約束の地)その金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。

申命記14:26)

 ぶどう酒や強い酒は、主の前で食べ、家族とともに喜びを分かち合うためにある。神の、素晴らしい創造物である。家族の喜びの交わりの中に、お酒の存在はあるのだ。お酒は本来、神が作った恵みなのである。

 

 ほかにも、ネヘミヤが民が悲しんでいる時に上質なぶどう酒を飲めと勧めたり、ぶどう酒を捧げ物として用いたり、お酒のポジティブな面を表した箇所はたくさんある。

 私のオススメする生き方は、自分なりの節度とルールをもって、神が作ったアルコールという、素晴らしい創造物を、感謝して喜び楽しみ、それを分かち合うという生き方である。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンはお酒・アルコールを飲んではいけないのか?!<前編>  

 クリスチャンになったら、お酒、アルコール飲料を飲んではいけないのでしょうか?

 

 

▼お酒はダメよというクリスチャン

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 私はクリスチャンですと言うと、よく、「お酒を飲んじゃいけないの?」と聞かれる。クリスチャン=禁酒のメージがあるのだろう。確かに、クリスチャンの中には、「飲酒は罪」と考える人もいる。教会の中や、クリスチャンの集まりではお酒の話はタブーのような雰囲気がある。「お酒を飲んでいる」と教会の中で言うのは、少しはばかられるし、ましてや、「お酒が好き」なんて言える空気ではない。私も、かつては、「大人になってもお酒は絶対飲まない」と公言していた。それは、儚い夢となったのだが・・・。

 それはさておき、立ち止まって考えてみよう。なぜ、クリスチャンにとって、「お酒」はタブーなのか。その根拠はどこにあるのか。もしくはないのか。私は、「お酒を飲むことも、飲まないことも良いこと」だと考えるが、そもそも、聖書はお酒を飲むことに関して、どう教えているのか。順を追って見ていこう。

 

▼聖書の「お酒」エピソード

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 「酒」は、意外と聖書によく出てくる単語である。「ぶどう酒」は特によく出てきており、日本語で検索(新改訳3版)したところ、少なくとも旧約・新約合計で197回も登場する。

 日本語では「ぶどう酒」、「酒」となぜか分けて書いてあるが、旧約のヘブライ語では、ほとんどが「ヤイン」(ワイン・ぶどう酒)で、旧約では140回登場する。「酒・強い酒・酔う」の意味の「シャカル」は23回。新約では、ギリシャ語の「オイノス」(ワイン・ぶどう酒)が33回登場する。なるほど、「酒」の話は聖書になじみが深いものなのだ。

 なじみが深い割に、飲酒の是非を書いてある箇所は意外と少ない。実は、旧約聖書には、一般人に対して「禁酒」を定める律法は存在しない。新約聖書には、「飲酒」を勧めない記述はいくつかあるが、明確に「酒を飲んではいけない」という命令はない。

 聖書には飲酒を禁じる記述はない。その前提で、「お酒・ぶどう酒」のエピソードには、どんなものがあるのか。いくつか例をあげて紹介する。

 

 

▼ノアの場合

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 聖書で一番はじめに「酒」が登場するのは、ノアのエピソードである。

 

彼(ノア)はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。

(創世記 9:21)

 これは、いわゆる「ノアの箱舟」の後の話だ。新しくなった地でノアはぶどうを育て、ワインを作っていた。ノアは、そのワインを飲んで酔っぱらい、テントの中で裸になってしまう。3人の息子のうち、2人の息子は父親ノアの裸を見ないようにして助け出し、1人の息子は見ただけで、何もしなかった。その結果、助けなかった1人はノアに呪われることになる。酔っ払ったのはノアなのに、呪われるとは、とばっちりのように感じるが・・・。とにかく聖書で初めての「酔っぱらいエピソード」は、様々な解釈はあるが、「失敗を招いたエピソード」と捉えていいだろう。

(※ちなみに映画「ノア 約束の舟」では、ノアがヤケ酒したことになっているが、それはいくらなんでも・・・という気がする)

 

 

▼ロトの場合

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 次に挙げたいのは、ロトの娘たちの例である。とんでもねぇ話がここにある。

 

姉は妹に言った。「父は年をとっています。この地には、私たちのところに、世のしきたりにしたがって来てくれる男の人などいません。さあ、父にお酒を飲ませ、一緒に寝て、父によって子孫を残しましょう」。その夜、娘たちは父親に酒を飲ませ、姉が入って行き、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも起きたのも知らなかった。

(創世記19:31~33)

 ロトの娘たちは、実のオヤジに酒を飲ませて、記憶が飛んでる間にセックスして子作りをしたのである。とんでもねぇ話だ。次の日に、姉だけでなく、妹も同じことをして、2人とも子どもを産んだ。2人の娘は、ソドムとゴモラを離れ、山の上に住んでいた。彼女らは、周りに人間がいなかったので、このままでは子孫を残せないと焦ったのだろう。でも、それは神に喜ばれる方法ではなかった。

 その結果どうなったか。姉の子どもは、モアブ人の祖先となった。妹の子どもは、アンモン人(アモン人)の祖先となった。モアブ人もアンモン人も、イスラエルの敵となる人々である。アブラハムの子孫であるイスラエルは、本来ロトの親戚で、敵対する民族ではないはずだ。しかし、「正しくないヤリ方」で子孫を作ってしまった挙げ句、イスラエルを迫害する民族が生まれてしまったのである。

 ロトのケースも、ノア同様、お酒を飲んだ本人の直接的な失敗ではない。ただ、「お酒」によって理性が失われ、娘たちの間違った行動を止められなかったのは事実である。ロトの事例は、「お酒による失敗エピソード」と捉えていいだろう。

 

 

▼祭司たちの場合

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 旧約聖書には、一般人たちに酒を禁じる律法はない。しかし、祭司たちなど、特別な人々への禁酒の勧めは、記述がある。祭司を例にとって見てみよう。

 

主はアロンにこう告げられた。「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが世々守るべき永遠の掟である」

レビ記10:8~9) 

 これは、祭司たちへの特別な命令の中のひとつである。祭司たちは、天幕で仕え、様々ないけにえや清めの儀式を行っていた。触れていいもの、いけないもの、香油の精密な調合の割合、服装やお風呂の入り方、等々・・・それは細かく、気の遠くなるような繊細な作業だった。ひとつでも間違えれば、即、死亡。祭司ってヤバイ職業だったのである。

 実際、「異なった火」を捧げたアロンの息子、ナダブとアビフは、すぐに神の火によって焼かれて死んだ(レビ記10章参照)。彼らに悪意があったかなかったかは明確ではないが、それだけ繊細で、聖なる作業だったのである。そんな大切な仕事を、酒を飲んだ状態でできるだろうか。「あなたがたが死ぬことのないようにするため」と書いてるのは、それを考えれば納得だろう。

 他にも、「ナジル人の誓い」という特別な誓願を立てた人や、レカブ人やサムソンの母のように、神に直接酒を飲まないように命じられた者はいる(民数記6章、エレミヤ35章、士師記13章など参照)。バプテスマのヨハネも、一切酒を飲まなかったとされている(ルカ1:15、7:33など参照)。

 しかし、それはどれも神から何らかの目的があって、特別に命令された人への教えであって、我々個人への教えではない。従って、聖書の登場人物たちが、「酒で失敗した例」や「特別な人たちへの禁酒の命令」はあるものの、一概に「聖書は禁酒を定めている」とは言えない。

 

 

▼大酒飲みと言われたイエス

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 では、神であり、救い主であり、永遠の大祭司であり、完璧な模範であり、罪のない、神のひとり子、イエスはどうだったのか。よく分かる記述がある。

 

バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、人の子(イエス)が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。

(ルカの福音書7:33~34)

 イエスは、よく取材人や罪人と食事をともにした。その姿を、パリサイ人や律法の専門家たちは、「大食いの大酒飲み」(3版だと「食いしんぼうの大酒飲み」)となじったのである。これは、悪口だが、少なくともイエスはぶどう酒を飲んでいたと分かる。しかも、おそらく結構頻繁に飲み食いしていたと思われる。

 エスが最初に行った奇跡も、ぶどう酒にまつわる話である。「カナの婚礼」と呼ばれるエピソードだ(ヨハネ福音書2章参照)。イエスは、およそ700リットル(80~120リットル入りの瓶が6つ分)もの水を、ワインに変えた。一般的なワインボトルが750mlだから、およそ900本分以上! とんでもねぇ酒の量である。

 イエスが、酒を飲み、酒を作ったのであれば、それは「罪」ではない。イエスに罪はないのだから、飲酒そのものには何ら罪はない。

 さらに、イエスは、十字架で死ぬ前、過ぎ越しの食事をした後にこう言った。

 

神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実でできた物を飲むことは、もはや決してありません(マルコ14:25)

 裏を返せば、それまでは飲んでいたということだ。ワインを飲む「聖餐式」の伏線となった、「過ぎ越しの食事」は、ワインを4杯(ないしは5杯)飲む。グラスの縁まで波々注ぐのが、ユダヤ人の伝統だ。イエス時代にどうだったか分からないが、おそらく飲んでいただろう。弟子たちがその後、オリーブ山で起きていられなかったのは、酔っ払っていたからだというジョークもあるくらいだ。

 しかも、神の国で新しく飲むその日まで」とある。この記述によれば、神の国でもぶどう酒を飲む」のである。神の国で新しく、喜びのぶどう酒を、イエスと共に飲む。想像しただけで身震いするほど、待ち遠しい約束ではないか。

 

 

▼「禁酒」の最大の根拠<エペソ5章>

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 イエスは酒を作ったし、酒を飲んだ。そして、神の国で共に飲むと宣言した。ではなぜ、あるクリスチャンたちは「お酒を飲んではいけない」と言うのか。その最大の根拠は、次の聖書の言葉だろう。

 

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

(エペソ人への手紙5:18)

 確かに、「ぶどう酒に酔ってはいけない」と書いてある。この部分の解釈が、鍵だ。新改訳聖書第3版では、この部分は「酒に酔ってはいけない」と訳してあるが、これは誤訳だ。

 該当部分の「オイノス」というギリシャ語は、「ぶどう酒」を指す。英語の翻訳も「wine」。おそらく、翻訳者が無意識のうちに「禁酒」の価値観を翻訳に織り交ぜたのだろう。「酒に酔ってはいけない」と言われると、「アルコールを飲む行為」がダメだと捉えてしまう。しかし、「ぶどう酒」だと違ってくる。どういう意味か。

 当時、「ぶどう酒」は必需品だった。水を浄化する技術が発達しておらず、きれいな水を見つけるのは、特に都市部では困難だったと想像できる。実際、旧約聖書にも泉の水が悪く、病気や流産が起こっていたという記述がある(列王記第二2章など)。「ぶどう酒」は、発酵飲料として、安全な飲み物だったのだ。

 よく、この事実を盾に、

 

「当時はぶどう酒は普通の飲み物だったし、アルコール度数も低かった」

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「今のアルコールとは違うのだから、ワイン以外のアルコールは禁止」

 

という理論を展開する人がいるが、それはいくらなんでも無茶苦茶だ。いくら度数が低くても、アルコールはアルコールである。その理論が通じるなら、「ほろよい」や「のんある気分」はいいけど、「ウオッカ」や「テキーラ」はダメだということになる。そうなると、アルコール度数5%くらいのビールは? となり、答えのない線引論争が始まる。律法主義的な考えにどんどんハマってしまうのだ。

 また、「酔ってはならない」のだから、「酔わない程度で飲めばいい」、転じて、「酔わなければOK、酔ったら罪」という考えの人もいる。これも間違った律法主義だ。そうなってくると、「どこからが酔っているのか」という線引きの問題になってしまう。

 ぶっちゃけ、少しでも飲んでから運転したら、それは飲酒運転になる。それは誰もが知っている常識だ。飲んだのに「酔っていない」というのは詭弁である。だからこの議論はそもそも成り立たない。そういう細かな律法主義的論争は、既にイエスによって否定されている。

 

 

▼エペソ5章の解釈は?

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 では、「ぶどう酒に酔ってはならない」との箇所は、どう解釈したらいいのか。エペソ5章を読む際は、ギリシャ語の命令形の種類に注目する必要がある。ギリシャ語の命令形には2種類ある。「今やれ」という単発の命令形と、「やり続けよ」という命令形だ(前者が過去形<アオリスト>、後者が現在形)。エペソ5章にある命令形は、ほぼ全て「やり続けよ」の命令形なのである。とすると、「ぶどう酒に酔ってはいけません」は、本来は「ぶどう酒に酔い続けてはいけません」になる。こうなると、解釈が変わってくる。

 ここで、先に記した当時の情景を思い浮かべよう。当時は、水のようにぶどう酒を飲んでいた。中には、飲み過ぎて、朝っぱらから酔っ払っている人もいた。教会の中でも酔っ払っている人々がいたようである(コリント人への手紙11:21参照)。「酔い続けてはならない」というギリシャ語の意味や、このような状況で書かれたという背景などを鑑みれば、エペソ5章の箇所は、「酒を一滴も飲んではいけない」のではなく、「いつでもどこでも酒で酔っ払ってる状態は良くない」「お酒にコントロールされたらあきまへんで」と解釈するのが自然だろう。

 エペソの箇所の根幹は、「禁酒」ではない。むしろ、その後にある。この箇所は、「ぶどう酒に酔い続ける」のではなく「御霊に満たされ続けよ」と教えているのである。そこがキーポイントであり、メインメッセージなのだ。

 

 

▼まとめ

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 聖書には、「飲酒は罪だ」という記述はない。飲酒そのものは悪いことではない。もし、あなたがお酒が好きで、神に感謝して受け取るならば、決して罪悪感を覚える必要はない。

 

神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。(テモテへの手紙第一 4:3)

 イエスがそうされたように、私は神が作ったアルコールを喜んで受け取り、楽しみたいと思う。自分の信仰によって、お酒を飲まないという決断をするのも、これまた素晴らしい。しかし、酒にコントロールされるのは、良くない。私たちは、御霊によってコントロールされる生き方を選びたい。

 次回、後編は、どのようにアルコールと付き合っていくべきなのか。飲酒と御霊に満たされる生き方は両立可能なのか。そのような視点で見ていこうと思う。

 

↓↓↓↓後編はこちら↓↓↓↓

 

yeshua.hatenablog.com

 

(了)

 

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「みこころの相手」は存在するのか?  

クリスチャンたちのいう「みこころの相手」、いわゆる「定められた結婚相手」なるものは、存在しているのか?

 

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▼「みこころの相手」とは?

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 クリスチャン同士で話していると、よく「みこころの相手」というフレーズを聞く。いわゆる「みこころの相手」とは、「神が定めた結婚相手」を指す。クリスチャンの中では、「みこころの相手が与えられるよう神に祈っている」とか、「この人が好きなんだけど、『みこころの相手』でしょうか」とか、「好きという感情はあるけど、『みこころの相手』かどうか分からないから一歩踏み出せない」どなどという声をよく聞く。なるほど、自分の思いより、神の思いの方が大切というわけだ。

 ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。そもそも、「みこころの相手」なるものは、本当に存在するのだろうか。もし、いないとしたら、上記のようなクリスチャンたちは、存在しない相手を待ち続け、存在しない相手のために祈っているのである。聖書は、「みこころの相手」についてどう書いているのだろうか。見ていこう。

 

 

▼神が結婚相手を定めたケースは圧倒的少数

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 まず、聖書には「みこころの相手」というフレーズは存在しない。では、クリスチャンの間にどうしてそのような考えが生まれたのか。私は、聖書に登場する人物たちのモデルから、そのような価値観が生まれていると考える。

 そこで、聖書に登場する夫婦を全てまとめてみた。1人でざっと調べただけなので、抜けや間違いがあるとは思うが、おおよそこんなところである。めちゃ多いので飛ばしてもらっても構わない。 

【聖書のカップル一覧】
※男性が先、名前の表記は新改訳聖書3版による。また、列王記と歴代誌などで、別名が記載されている場合があるが、検証が面倒なのでそのへんは適当である。
※順序はできる限り旧約聖書の創世記から順序登場する順番にしているが、一部名前を揃えたほうが見やすいため、入れ替えている。
※結婚していることが明らかでも、妻の名前や存在が明記されていない者は省いた。系図に記されているだけのような人物は省いたが、入れているケースもある。また、一部、婚姻関係はないが肉体関係はあるというケースも入れている。
※神がその相手を結婚相手として直接示したケースには★マークをつけている。

  1. ★アダムとエバ(→そもそもエバしかいない)
  2. カインとその妻
  3. レメクとアダ
  4. レメクとツィラ
  5. 神の子らと人の娘たち
  6. ノアと妻
  7. セムと妻
  8. ハムと妻
  9. ヤペテと妻
  10. ナホルとミルカ
  11. アブラハム(アブラム)とサラ(サライ
  12. アブラハムとハガル
  13. アブラハムとケトラ
  14. ロトと妻
  15. ロトの娘たちとその婿
  16. ロトと2人の娘たち
  17. ★イサクとリベカ(→イサクが求めたのではなく、父のアブラハムがしもべに命じた)
  18. エサウとヘテ人エフディテ
  19. エサウとヘテ人バセマテ
  20. エサウとネバヨテの妹マハラテ(※エサウの妻たちは違う名前も出てくる)
  21. ヤコブとレア
  22. ヤコブラケル(→ヤコブが結婚しようとした)
  23. ヤコブとジルパ
  24. ヤコブとビルハ
  25. シェケムとディナ
  26. ハダルとメヘタブエル
  27. ユダの長子とタマル
  28. オナンとタマル
  29. ユダとシュアの娘
  30. ユダとタマル(→遊女だと思った。元々息子の嫁)
  31. ヨセフの主人のエジプト人とその妻
  32. ヨセフとアセナテ(→パロが与えた)
  33. ヤコブの息子たちとその妻たち
  34. アムラムとヨケベデ
  35. アロンとエリシェヴァ
  36. エルアザルとプティエルの娘
  37. モーセとチッポラ
  38. モーセとクシュ人の女
  39. モーセの息子の妻
  40. テニエルとアクサ
  41. ラピドテと女預言者デボラ
  42. ケニ人へべルとヤエル
  43. ギデオンと大ぜいの妻
  44. ギルアデとその妻
  45. イブツァンの30人の息子と30人の妻
  46. マノアとその妻
  47. サムソンとティムナの女(→神がペリシテ人と事を起こそうとされたとの記述がある。しかし、そもそもサムソンが一方的に惚れたのである)
  48. サムソンと遊女
  49. サムソンとデリラ
  50. レビ人とベツレヘムの女(→バラバラ死体にされる)
  51. ベニヤミン族の男たちとシロの娘たち
  52. エリメレクとナオミ
  53. マフロン・キルヨンとオルパ・ルツ(→どちらがどちらの夫、妻か分からない)
  54. ボアズとルツ(→ナオミが命じた)
  55. エルカナとハンナ、ペニンナ
  56. ピネハスと妻
  57. サウルとアヒノアム
  58. メホラ人アデリエルとメラブ
  59. ライシュの子パルティとミカル
  60. イシュ・ボシェテとミカル
  61. ウリヤとバテシェバ
  62. ナバルとアビガイル
  63. ダビデとミカル
  64. ダビデとアビガイル       
  65. ダビデとイズレエルの出のアヒノアム
  66. ダビデとバテシェバ
  67. ダビデとマアカ
  68. ダビデとハギテ
  69. ダビデとアビタル
  70. ダビデとエグラ
  71. ダビデとシュネム人アビシャグ
  72. アビナダブの子とタファテ
  73. ソロモンとパロの娘
  74. ソロモンと700人の妻と300人のそばめ
  75. アヒアマツとバセマテ
  76. カレブとエフラテ
  77. ヘツロンとマキルの娘
  78. メレデとビテヤの子
  79. キシュの子らとエルアザルの娘たち
  80. ハダデと王妃タフペネス
  81. ヤロブアムとその妻
  82. アハブとイゼベル
  83. 預言者のともがらとその妻
  84. ナアマンとその妻
  85. ヨラムとアハブの娘
  86. 装束係シャルムと女預言者フルダ
  87. ハダデとメヘタブエル
  88. カレブとアズバ、エリオテ
  89. ヘツロンとアビヤ
  90. アラフメエルとアタラ
  91. アビシュルとアビハイル
  92. ヤルハとシェシャンの娘
  93. アシュフルとヘルア
  94. アシュフルとナアラ
  95. メレデとビテヤ
  96. メレデとユダヤ人の妻
  97. ボディヤの妻
  98. フピムとその妻
  99. シュピムとその妻
  100. マキルとマアカ
  101. エフライムとその妻
  102. シャハライムとフシム
  103. シャハライムとバアラ
  104. シャハライムとホデシュ
  105. ギブオンとマアカ
  106. エイエルとマアカ
  107. エリモテとアビハイル
  108. レハブアムとマハラテ
  109. レハブアムとその妻たち
  110. レハブアムとそばめたち
  111. レハブアムとマアカ
  112. レハブアムの子らと多くの妻たち
  113. アビヤと14人の妻
  114. エホヤダとエホシェバ
  115. ヨアシュとふたりの妻
  116. バルジライとギルアデ人バルジライの娘
  117. エズラの時代の人々と外国人の女たち
  118. トビヤとシェカヌヤの娘
  119. ヨハナンとメシュラムの娘
  120. アハシュエロス王とワシュティ
  121. アハシュエロス王とエステル
  122. ハマンとゼレシュ
  123. ヨブとその妻
  124. レカブ人とその妻
  125. エゼキエルとその妻(→預言のために妻は死んだ)
  126. ベルシャツァル王とその妻、そばめたち
  127. ★ホセアと姦淫の女ゴメル(→明確に神がこういう女と結婚しろと命じた)
  128. ★ヨセフとマリヤ(→御使いのお告げがある前に婚約していたが、一応結婚しろと言ったので)
  129. ピリポとヘロデヤ
  130. ヘロデ王とヘロデヤ
  131. ザカリヤとエリサベツ
  132. ヘロデの執事クーザとヨハンナ
  133. クロパとマリヤ
  134. アナニヤとサッピラ
  135. アクラとプリスキラ
  136. ペリクスとドルシラ
  137. ケパ(ペテロ)と信者の妻
  138. 番外編:子羊とその妻である花嫁(→黙示録)

 聖書に登場する夫婦は、ざっとこんなところだ。番外編を除けば、137ケースある(※たぶん探せばもっとある。ご指摘募集!)。その中で、神が明確に「この人と結婚せよ」と命じたケースは、たったの5件しかない。しかも、その5件とも、単純に神が「みこころの人」として妻を示したというケースとは言い難い。以下の5ケースである。 

1:アダムとエバ

2:イサクとリベカ

3:サムソンとティムナの女(デリラではない)

4:ホセアとゴメル

5:ヨセフとマリヤ

 アダムの場合は、ほかの女性がエバしかいなかったのだから、ある意味で当然である。ただ、この5件の中では一番明確な「みこころの相手」であろう。

 ヨセフとマリヤは、聖書に登場した時点で婚約関係にあった。しかし、まだ処女のマリヤが妊娠したことが分かると、ヨセフは一旦はその婚約を破談にしようとした。ところが、神の御使いが表れ、聖霊によって妊娠したので、安心して結婚せよと命じたので、2人は結婚した。これも、神が結婚を示したケースだが、元々2人は婚約関係にあったので、いわゆる「みこころの相手」と言えるかどうかは微妙だ。

 このように、「神が定めた特定の結婚相手」、いわゆる「みこころの相手」の記述は、厳密に見れば聖書には存在しないと分かる。聖書にある5つのケースも、特別な条件付きであって、現代の人が待っている「運命の赤い糸の人」とは違うのは明らかだ。ではなぜ、そのような誤解がクリスチャンたちの間に生まれてしまったのか。

 私は、イサクのケースが、大きな影響を与えていると考える。サムソンとホセアのケースとあわせて、順番に見ていこう。

 

 

▼実例1:イサクのケース<単なる棚ぼた野郎>

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 イサクとリベカの出会いが、クリスチャンたちに間違った「赤い糸信仰」を生んでいる原因だ。2人のエピソードは創世記24章に記述がある。要約するが、知っている人は読み飛ばしてもらって構わない。

 

【創世記24章要約】

神「アブラハム、お前の子孫をめっちゃ増やすで! お前の子孫を通して世界中の人々が祝福されるんやで! 約束な!」

アブラハム「ありがたや、ありがたや。いや、しかし、神様、俺の息子はイサクだけや。このままイサクが独身だと、神様の命令が実現できない。どうしたもんか・・・せや! しもべのエリエゼルに息子の結婚相手を見つけてもらう。おい、エリエゼル」

エリエゼル「ははーっ」

アブラハム息子のイサクに嫁はん見つけてくれへんかな。外国人はダメや。ウチらの親戚のところに行ったらええ。そんでもってこの土地に連れて帰ってくるんや」

エリエゼル「ははーっ。でももし断られたらどないしましょ」

アブラハム「もし断られたら、おまえの責任やないから、その場合はあきらめて大丈夫やで。安心していきんさい」 

エリエゼル「ははーっ」(・・・でも不安やな。神様に祈っとこ)

エリエゼル「ああ神様。もしあなたがご主人様の息子のイサクはんにいい嫁はんを下さるなら、こういう人にしてください。井戸の水を私とラクダに飲ませてくれる人がいたら、その人があなたが定めておられる方だと信じます」

エリエゼル「あれ? なんかおなごが来とるやんけ。おーいそこのあなた、水を飲ませてくれまへんか」

リベカ「はいよろこんで!」

ラクダ「グビグビ」 

エリエゼル(さっき祈った通りの人やんけ! しかもめちゃめちゃかわええ! 神様サンキュー! あとは外人じゃなきゃOKや)「娘さん、娘さん、あんたどこの人?」

リベカ「ラバンの妹でございます」

エリエゼル「マジ? アブラハムご主人様の親戚やんけー! パーフェクト! 娘さん、実はかくかくしかじかで、イサクさんと結婚してくれまへんか?」

リベカ「はいよろこんで!」

エリエゼル「マジ?! やったー! 神様サンキュー!」

イサク「なんかようわからんけど、結婚できた! わーい!」

 ・・・と、まぁざっくりこんな感じである。ここに出てくるように、エリエゼルが祈った通りの女性が表れて、見事イサクの妻となった。確かに、「神が定めた結婚相手」に見える。しかし、イサクのケースは、単純にそうとは言えない。以下の点が理由である。 

1:神様はアブラハム特別な約束・契約を与えていた。私たちとは違う。

2:「みこころ」を祈ったのではイサクではなく、家来のエリエゼルである。イサクはなんもしていない、ただの棚ぼた野郎である。

3:エリエゼルは自分のためではなく、主人のアブラハムが神からもらった契約を守るために祈った。

4:つまり、神の約束・契約を守ろうとしたアブラハムのために、ふさわしい嫁が与えられた、という話なのであって、私たち個人のために「みこころの相手」が備えられているという話ではない。リベカは神の特別な計画の一部なのである。

 イサクの例から、「自分にも『みこころの相手』がいる」と考えるのは、少し短絡的だろう。

 

 

▼実例2:サムソンとティムナの女のケース<ドロドロ愛憎劇>

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 サムソンとティムナの女の例はどうか。聖書にこのような記述がある。

 

サムソンは、ティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘で、ティムナにいる一人の女を見た。彼は上って行って、父と母に告げた。「私はティムナで一人の女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、彼女を私の妻に迎えてください」。父と母は言った。「あなたの身内の娘たちの中に、また、私の民全体の中に、女が一人もいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人から妻を迎えるとは」。サムソンは父に言った。「彼女を私の妻に迎えてください。彼女が気に入ったのです」。彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである。そのこと、ペリシテ人イスラエルを支配していた。(士師記14:1~4)

 確かに、「それが主(神)によること」と書いてある。神がこの結婚を定めたと読めるかもしれない。しかし、そもそもは、「彼女が気に入った」との記述の通り、サムソン自身がティムナの女に一方的に惚れただけなのである。彼は、親の反対を押し切って結婚したのだ。しかし、彼女は違う男性の妻となってしまい、その後に殺されてしまうという悲惨な結果になった。

 悲惨な結果とはいえ、それが神様の計画だった。「気に入る」という感情も、神が与えるもので、ただ「好き」という感情も神からのものである。これについては後述する。ただ、忘れてはならないのは、サムソンは「士師」という特別な存在だったという事実だ。彼は神の計画のために、通常喜ばれない外国人の女との結婚を、「許容」されたのである。イサクのケース同様、私たち個人にそのまま当てはまるケースではない。

 

 

▼実例3:ホセアとゴメルの女のケース<かわいそうなホセア>

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 ホセアのケースを見てみよう。彼ほどの信仰を見習いたいものである。

 

主がホセアに語られたことのはじめ。主はホセアに言われた。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ」。彼は行って、ディブライムのの娘ゴメルを妻とした。彼女は身ごもって、彼に男の子を産んだ。(ホセア書1:2~3)

 神は、突然、ホセアに「姦淫の女を引き取れ」と命令する。ホセアは、その命令に従う。彼は、息子に「イズレエル」(悪い町の名前)、娘に「ロ・ルハマ」(愛されない、あわれまれない、の意)、「ロ・アンミ」(私の民ではない、の意)という最悪の名前をつける。それも神の命令だった。ひどい命令だが、ホセアは従う。また、ゴメルは何度もホセアを裏切り、不倫を繰り返す。しかし、ホセアは神の命令に従い、彼女を買い戻す。

 なぜ、こんな命令を神はするのか。それは、イスラエルを愛して、愛してやまなかった神様が、何度もイスラエルに裏切られたことを象徴するためだった。ホセアの辛い人生は、預言者としての使命だった。ホセアは、人間の知恵では理解できない命令にも尚、従ったのである。

 神様は、最後にこう約束する。

 

イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂のようになる。「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。言え。あなたがたの兄弟には「わたしの民」と。あなたがたの姉妹には、「あわれまれる者(愛される者)」と。(中略)その日、わたしは応えて言う。ー主のことばーわたしは天に応え、天は地に応え、地は穀物と新しいぶどう酒と油に応え、それらはイズレエルに応える。わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に『あなたは私の民』と言い、彼は『あなたは私の神』と応える。

(ホセア書1:10~2:1、2:23)

 

 「愛されない子」が「愛される子」になり、「わたしの民でない子」が「わたしの民」と呼ばれるようになる。神様の計画は、時に逆説的で美しい。

  話が少しそれたが、重要なのは、神様は「ゴメルと結婚せよ」とは命じなかったという点だ。あくまで、「姦淫の女を引き取れ」としか命じていない。ホセア自身がゴメルを妻としてめとったのである。どう選んだのかは明確な記述はないが、喜ばしい結婚ではなかったであろう。

 

 

▼「みこころの相手」は「赤い糸で結ばれた相手」ではない

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 聖書にある数少ない結婚の示しのケースは、以下のように全て特殊なものだ。

1:アダム→最初の人間

2:イサク→アブラハムの契約を受け継ぐため

3:サムソン→士師の役割として

4:ホセア→預言者の役割として

5:ヨセフ→メシアの父親として

 これらのケースを、私たちが直接自分たちに当てはめるのは、賢い解釈とは言えない。つまり、あなたがもし「みこころの相手」を「運命の赤い糸の相手」と考えているとしたら、その考えは根拠レスだ。それは、ただの迷信にすぎない。まとめると以下だ。

1:聖書に「みこころの相手」の明確な記述はない

2:神が結婚を示したケースはいずれもスーパー特例

3:「みこころの相手」は「運命の赤い糸の人」ではない

 しかし、だからといって、「みこころの相手」は存在しないのだろうか。私は、そうではないと考える。どういう意味か、次に書く。

 

 

▼感情も神から与えられるもの

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 私は、神の「みこころ」というのは好きではない。神の「計画」とか、神の「取り仕切り」と言ったほうがしっくりくる。なぜなら、神の「こころ」なんて、人間には簡単に分からないからだ。もし簡単に分かる人がいたら尊敬する。私は、神の「こころ」なんてドンピシャで分からない。分からないことだらけだ。

 私は、この世で起こっていること全てが、人間の目に良いことも、悪いことも「神の計画」であり、「神の取り仕切り」であると思う。人間の目に悪いことがあっても、それは何らかの理由で神が「許容」しているのだ。ヨブ記の冒頭のサタンと神のやりとりや、マタイ10章の記述を見れば、この世の全てのものの「運命」を取り仕切る権利は神のみにあると分かる。命も、たどる道も、運命は全て神の「取り仕切り」による。

 であるならば、今私が抱いているこの「感情」も、神が与えたものと考えられる。神は、サムソンがティムナの女を好きになったその感情さえも、自身の計画のために用いた。私は、純粋な感情で、好きになった人を(または感情で好きでなくとも)、どんなに辛いことがあっても、神の愛で愛すると選択した人と結婚し、(足りない愛であっても)愛し合うのは素晴らしいことだと思う。それは、「神の計画」であり、本当の「みこころの相手」であると思う。

 神がこの世の全てを支配し、知っているのであれば、「みこころの相手」は当然存在する。しかし、それは「運命の赤い糸の人」や「白馬の王子様」ではない。究極的には、あなたが選んだ相手が「みこころの相手」なのである。もっと言えば、「あなたが一生愛すると神の前で約束した相手」が「みこころの相手」なのである。神はあなたの選択を、全て先回りして知っているのである。では、それはどう分かるのか。簡単だ。あなたが好きになった人、一緒にいて落ち着く人、一緒にいるともっと神様を知りたくなる人、あなたが「ピン」と来た人が「みこころの相手」かもしれない。人それぞれ「ピン」とくる人は違うだろう。でも、その感情、その気付き、その「ピン」とくる直感は、神が与えたものだと、私は信じる。もしその「ピン」が「違うな」になったら、それはただの気のせいだったのだ。気にせず次にいけばいいのだ。

 ただ、気をつけなければいけないのは、「感情」だけに支配されることだ。ときに、「感情」には、裏の「心の動機」がある。あなたが「みこころ」だと思っている人は、実は「おこころ」ではないか。自分のコンプレックスを満たすのが本当の理由ではないか。自分が相手を支配しようとしていないか。誰かを見返すために、その人を求めていないか。寂しさを、神ご自身ではなく、人間で満たそうとしてはいないか。常に、「心の動機」のチェックが必要である。「この人はみこころだ」、「このビジョンは神のみこころだ」とあなたが言う時、本当の「心の動機」は何か、常にチェックするのをオススメする。

 私たちは、「神の取り仕切り」の中で生きている。しかし、現状この世界で人間は、「神の道」からそれる生き方も選択できる。神は、人間が「神の取り仕切り」に逆らう生き方をすることも、現段階では「許容」している。その代わり、その行動の「結果」(consequence)も、全てその人間が被るのである(※これは本来イエスが負ってくださったはずの罪の結果の「死」と似ているが、ビミョーに違う。この記事での言及は避ける)

 大切なのは、結婚相手とする人を、意思をもって、信仰を持って愛すると選択することだ。そうすれば、その人が結果的に「みこころの人」になるのである。「結婚」の契約を結んだ後は、「違うな」は許されない。一生かけて愛する契約を守る決意が必要だ。

 

 

▼結婚は聖書のはじめから終わりまで記されている神の奥義

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 終わりに、「結婚」は聖書のはじめから終わりまでの神の奥義だという点を指摘したい。聖書の一番はじめに、結婚がある。

 

神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから」。それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記2:22~24)

 また、聖書の一番最後にも、このような記述がある。

 

「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」。御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。(中略)

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

ヨハネの黙示録19:6,7,8~21:2)

 聖書のはじめ、アダムとエバを通して、人間の男女の結婚という神の奥義が示された。そして、聖書の最後に、イエスと信者の集いの結婚という奥義が示されるのである。「結婚」は、神が定めた、尊い契約のしるしなのである。

 

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」。この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。

(エペソ人への手紙5:31~32)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンになったら「お布施」をしなきゃいけないの? <「十分の一献金」はマストなのか?>  

クリスチャンになったら、「お布施」、いわゆる「十分の一献金」は義務なのだろうか?

 

  

▼「お布施」は義務? 「十分の一献金」とは?

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 「クリスチャンになったら、『お布施』をしないといけないの?」「教会にお金を払わないといけないんじゃないの?」クリスチャンではない人にされる質問ランキング上位だ。宗教はお金を搾り取る、というイメージがあるのだろうか。そのような質問に、私は「何の義務もありません」と答える。「十分の一献金は義務」との考えは間違いであると、私は考える。

 しかし、教会に行くと、しばしば、「十分の一献金という言葉を耳にする。「収入の十分の一を献金しましょう」というものだ。収入が20万円なら2万円を、30万円なら3万円を、といった具合だ。教会によっては、牧師から教会メンバーに電話がきて、「まだ今月の10分の1献金が振り込まれていません。至急、支払うように」という督促までするところもあるという。ヨーロッパでは、「教会税」として、一般の税金として徴収されるところもあるそうだ。何の義務もないはずなのに、どうして「十分の一」が義務化されているのだろうか?

 「十分の一献金」の根拠は何なのか。順を追って見ていこう。

 

▼「十分の一」の起源

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 「十分の一」という表現が聖書で初めて出てくるのは、創世記である。

アブラムはすべての物の十分の一を彼(メルキゼデク)に与えた。

(創世記14:20)

 

 アブラハムは、まだモーセの律法も何もない時代に、「すべての物の十分の一」をメルキゼデクに捧げた。メルキゼデクって誰やねんという人は、ヘブル人への手紙に詳細が書いてあるので、後述する。

 ここでのキーポイントは、アブラハムは、十分の一を自ら捧げたという点である。誰かに強いられてではなく、律法でもなく、ただ自らの意思で捧げたのである。

 

 「十分の一」という表現が2回目に出てくるのは、次の箇所だ。 

ヤコブ誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます」。

(創世記 28:22)

 

 これは、ヤコブが神に対して誓ったものである。ヤコブは、石を枕にして眠り、夢の中で幻を見て、神から祝福を約束される。その後で、記念として枕にした石で柱を立てて、この誓いをする。誓いの中に、「すべてあなたが私に下さる物の」とある。彼は、自分が持っているものは、全て神から与えられたと告白しているのだ。そして、その「十分の一」を神に献げると宣言している。これは、彼の自発的な感謝と誓いであり、誰かが決めた規定ではない。

 

▼「十分の一」の規定の成り立ち

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 では、「十分の一」が「決まり」になったのはいつだろう。言うまでもなく、モーセの律法」である。

地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。

レビ記27:30)

 

 モーセの律法は、まず「十分の一」が神の取り分であると宣言する。そして、次に「十分の一」の用途について書かれている。

さらに、レビ族には、わたしは今、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。

(中略)

それは、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは、彼らがイスラエルの子らの中で相続地を受け継いではならない、と彼らに言ったのである。

民数記 18:21)

 

 神に捧げられた「十分の一」は、天幕で奉仕をする「レビ族」の取り分、生活費として与えられた。「生活費」といっても、当時はお金ではなく、「家畜の肉」や「穀物」などの産物そのものが、いわゆる「年貢」として納められていたのである。

 そのかわり、レビ族には「相続地」が与えられなかった。「神ご自身がレビ族の相続地」だったのである。彼らには、放牧や耕作をするかわりに、天幕で奉仕をする役目があった。「レビ族」もとい、「レビ人」は民の「十分の一」の「年貢」によって生活していたのであった。

 

 さらに、モーセの律法は、「レビ人」が捧げる「十分の一」にも言及している。

あなたはレビ人に告げなければならない。わたしがあなたがたに相続のものとして与えた十分の一をイスラエルの子から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として捧げなさい。(中略)こうして、あなたがたもまた、イスラエルの子らから受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を献げなさい。その中から主への奉納物を祭司アロンに与えなさい。(民数記18:26)

 

 「レビ人」にも「十分の一」を納める義務があった。ちょうど、公務員が税金によって得る収入から税金を払っているのと同じである。さしずめ、「レビ人」は現代の「公務員」のようであったと言ってもいいだろう(違うけど)。

 

 まとめると、「十分の一」の成り立ちは以下である。

1:アブラハムヤコブは、自発的に神への誓い、感謝を表し、財産の十分の一を神に捧げた。

2:モーセの律法では、イスラエルの民に対して、「地の産物の十分の一」は全て主のものだと定義づけた。

3:イスラエルの民が捧げた「十分の一」は、レビ人のものとなった。

4:レビ人も、得たものの「十分の一」を神に捧げる義務があった。

 

 こう見ると、「十分の一」は確かに、旧約聖書の律法に明確に書いてある。「安息日」同様(※安息日の記事はこちら)、旧約聖書の律法や習慣を踏襲し、現代の教会にも「十分の一」という基準ができたのは、一定程度うなずける。しかし、ここには重大な論理の欠陥がある。

 

▼「十分の一」は「いけにえ」であって「お金」ではない

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 律法にも「十分の一」をささげる習慣があるから、私たちも「十分の一献金」をしようという理論には欠陥がある。なぜか。「十分の一」は「お金」ではないからだ。上記の聖書の言葉のように、「十分の一」は、「いけにえ」や「収穫」の「十分の一」を指すのである。「お金」ではない。

 申命記にも、十分の一についての記述が複数あるが、どれも「いけにえ」や「収穫」に関するものである。ひとつだけ引用しよう。

あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず献げなければならない。主が御名を住まわせるために選ばれる場所、あなたの神、主の前であなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつまでも、あなたの神、主を恐れることを学ぶためである。

申命記14:22~23)

 

 イスラエル人たちの「礼拝」は、「いけにえ」を捧げることであった(※「礼拝」に関しても後日別記事を書こうと思う)。「いけにえ」や「ささげ物」には、「罪の代償」の意味のほかに、収穫したものや所有する家畜の一部を、神に返し、感謝の気持ちを示すという意味合いもあった。

 重要なのは、「十分の一」を捧げるべきものは規定されていて、「財産の全ての十分の一」ではないという点だ。いけにえの羊や牛、収穫した穀物など、「十分の一」を取り分ける対象は決まっていたのである。

 余談だが、モーセの律法はよくできていて、「いけにえ」を雄牛や雄羊でまかなえない人は、鳩のいけにえでもゆるされ、鳩もまかなえない貧しい人は、その代わりに穀物の捧げ物でも赦された(レビ5章参照)。

 

 つまり、「十分の一」は以下のようにまとめられる。

1:「十分の一」は、イスラエルの民への律法の規定だった。

2:「十分の一」は、「お金」や「全財産」ではなく、「いけにえ」や「収穫物のささげ物」の一部であった。

3:レビ人、祭司たちは、その「十分の一」を得て生活していた。

 

 以上の点から、「収入の十分の一を教会に支払う義務」は間違っているといえる。その理由をまとめると・・・ 

1:「十分の一」は、イスラエルの民への律法の規定であって、私たちへの規定ではない。

2:モーセの律法の要求は、既にイエスが十字架の上で支払い、「完了」している。ゆえに、現代の私たち異邦人クリスチャンに、その義務はない。

3:そもそも、「十分の一」は「お金・全財産」を指すものではない。「十分の一」は「いけにえ」と「収穫物のささげ物」の一部である。

4:イエス以降の時代は、イエスただ一人が「大祭司」であり、他に祭司やレビ人はもはや存在しない。

 

 他にも、「十分の一」への言及はサムエル記第二8章(→王の徴税の権利として)、歴代誌第二31章(→ヒゼキヤの時代に民が十分の一のささげ物をした)、ネヘミヤ記10章(→レビ人に対しての「十分の一」の規定)などに登場する。まとめると、「十分の一」の規定には、 

1:イスラエルの民への徴税

2:イスラエルの民による感謝の表明

3:レビ人への給料

 という側面が読んで取れる。いずれも、現代のクリスチャンに「献金」として当てはめるには、根拠が薄弱だと言わざるを得ない。思いっきり律法で禁止されているブタやエビを食べている私たちが、「十分の一献金」だけ義務化されるのは、おかしい話である。

 

▼反論1:マラキ3章の記述

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 さて、もちろん「十分の一」は義務だと唱える人もいる。彼らが根拠とする聖書の言葉のひとつに、マラキ3章の記述がある。「十分の一献金」を義務化しようとする教会が、よくこの箇所を根拠に信者たちを脅すのだが、さて、どんな言葉なのか見てみよう。

人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」と。十分の一と奉納物においてだ。あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。―万軍の主は言われる- わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラキ書 3:8-10)

 

 「十分の一献金義務派」の教会では、「十分の一献金」をしない信徒に対して、この聖書の言葉で対抗する。「あなたが十分の一献金を教会に捧げなければ、あなたは神のものを盗んでいる」と脅すのである。同時に、「あなたが十分の一献金」を捧げたら、「あなたはもっと祝福される」と教えるのだ。えええ、それじゃあモチベーションは、「ご利益信仰」じゃないの? と思うのは私だけだろうか。

 「あなたが献金すればするほど、神はあなたを祝福される」というメッセージは、意外にも多くの教会で語られる。私がかつて通っていた韓国系の教会では、それが当たり前の常識として語られていた。しかし、私はそれは間違いだと断言する。神の恵みは、そんな因果報応的な、簡単なものではない。

 日本人にとっては、神社に行って、5円玉のお賽銭でお祈りするより、1万円のお賽銭の方が祈りが聞かれそうな感じはするだろう。しかし、イエスの恵みはあなたがいくら払ったかは関係ない。私たちが生まれるはるか前に、既にイエスは十字架の上であなたのために「いけにえ」となって死んでくださったのである。神が死んでまであなたを愛してくださったのに、その恵みを「お金」と等価交換しようとする心持ち自体が、既に冒涜だと、私は思う。

 そもそも、マラキ書の預言は、現代の私たちに直接語ったものではない。マラキ1章1説を読んでみよう。

宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。(マラキ書1:1)

 

 思いっきり分かりやすい形で、著者と対象者が書いてある。対象はイスラエルであって、異邦人である私たちではない。

 私たちが聖書を読むとき、それが「いつの時代」、「誰に」、「どういう目的」で書かれたものか、注意する必要がある。もちろん、神は時を超えるので、旧約のイスラエルへの預言がそのまま適用できる部分もなくはない。「殺してはならない」、「隣人を愛しなさい」という普遍的な教えもある。

 しかし、このマラキの記述は明らかに、「イスラエルヤコブ)」を対象に書かれたものだ。これは、まだ旧約の時代、モーセの律法が有効だった時代に書かれたものであって、その律法をないがしろにしていたイスラエルの民に向けて書かれたものだ。現代の私たちに宛てて書かれたものではない。残念ながらマラキ書の記述をもとに、「十分の一献金義務化」を唱えるのは、全く説得力に欠ける。

 

 

▼反論2:イエスは「十分の一もおろそかにするな」と教えた

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 もっと説得力がある反論がある。それは、エスが「十分の一もおろそかにしてはならない」と教えたというものだ。該当箇所を見てみよう。2つある。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。(マタイの福音書23:23)

だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。(ルカの福音書11:42)

 

 なるほど、確かにイエスは「十分の一もおろそかにしてはならない」と言っている。しかし、このメッセージの中心は、「これこそ(正義とあわれみと誠実・正義と神への愛)しなければならないことだ」という点なのだ。

 律法学者やパリサイ人は、本来、律法で規定されていない、「ミント・イノンド・クミン・うん香・あらゆる野菜」などの「十分の一」もささげていた。あらゆるハーブ類や、野菜などの、取るに足りない小さなものさえも、厳密に「十分の一」を納めていたのである。「俺たちは、こんなに厳密に、本来やらなくていい『十分の一』でさえもささげているんだぜ!」という感じだったのだろう。現代の私たちにあてはめれば、「手取り」ではなく「額面」の十分の一じゃなきゃダメだとか、「ボーナス」も「十分の一」ささげないとダメだとか、そんな感じだろうか。

 イエスは、そんな彼らの「心の動機」、いわばモチベーションが間違っていると指摘したのだ。外見だけしっかりやっているようでも、その実はただの見栄っ張りだった。彼らは、貧しい人やみなしごたちを、全く無視していた。イエスはそんなパリサイ人たちに向かって、「十分の一のいけにえも大切だが、もっと大切なのは正義とあわれみと誠実だ」と言ったのである。

 イエスの教え、指摘をまとめると以下である。

1:「十分の一」はおろそかにしてはならない。なぜなら、それは「モーセの律法」の規定だから。しかし、「モーセの律法」はイエスが十字架で完成したので、現代の私たちは行う必要はない。(→同じように、イエスは、ツァラアトからきよめられた人に、律法に従って祭司に報告するように教えた)

2:一番大切なのは、「心の動機」、モチベーションである。

3:正義とあわれみと誠実、神への愛こそが、しなければならないことである。

 

 実は、イエスの指摘は新約時代の新しいものではない。旧約聖書にも同じような記述はたくさんある。いくつか紹介しよう。

あなたは いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは お求めになりませんでした。(詩篇40:6)

まことに、私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊、打たれ、砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:16~17) 

サムエルは言った。「主は全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

(サムエル記第一15:22)

わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、彼らに全焼のささげ物や、いけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め』

(エレミヤ7:22~23)

 

 他にもいろいろ同様の箇所はある。旧約聖書にも、「いけにえ」は本質ではないと書かれているのだ。パリサイ人たちは、その真理を見抜けずに、形だけの「十分の一」を行っていたのである。

 もちろん、「自分が今持っているものは、全て神に与えられたもの」という認識は正しい。「神から与えられたのだから、それを神にお返ししたい」というモチベーションも、素晴らしいと思う。しかし、正義と公正こそしなければならないことだとしたら、「教会に収入の十分の一を献金する」は正しいのだろうか? 私は、それはもちろん素晴らしいことだとう思うが、「貧しい人へのサポート」、「支援が必要な人への支援」も同様に大切だと思う。

 その意味で、サラリーマンであれば、自分の給料から自動的にお金が差し引かれ(それも十分の一以上の結構な額が)、その税金で「ODA発展途上国援助」や「生活保護」、「被災地復興」がされている点から鑑みれば、実感はないかもしれないが、かなりの献金を既にしているのである(年収350万の人なら、原則、所得税20%+住民税10%で既に十分の三もささげているのである!! ワオ!)。

 

 

▼「完全ないけにえ」はイエスご自身

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 もうひとつ、忘れてはならない大切な事実がある。それは、エスご自身が完全ないけにえであるということである。ヘブル人の手紙に記述がある。

律法には来るべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。それができたのなら、礼拝する(※ここからも、「礼拝=いけにえを捧げる」という価値観が読み取れる)人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。ところがむしろ、これらのいけによって罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。

ですからキリストはこの世界に来てこう言われました。「あなたはいけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした」

(中略)このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

(ヘブル人への手紙10:1~10)

 

 この太字のカギカッコの部分は、先ほどの詩篇40編の引用である。詩篇は、完全ないけにえのイエスご自身を表す預言だったのである。なるほど、「いけにえ」も「ささげ物」も「十分の一」も、全ては「完全ないけにえ」である「イエスご自身」の「伏線」だったのである。

 ここで、記事の序盤で出てきた、「メルキゼデク」が意味をなしてくる。創世記に、何の前触れもなくアブラハムの前に登場した「メルキゼデク」とは一体誰なのか。ヘブル人への手紙に詳細な記述がある。一部をご紹介しよう。

エスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。

このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。

(中略)

さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、同じアブラハムの子孫であるのに、民から、すなわち自分の兄弟たちから、十分の一を徴収するように、律法で命じられています。

(中略)

言うならば、十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して十分の一を納めたのでした。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ父の腰の中にいたからです。

(中略)

エスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

(ヘブル人への手紙6:20~7:25)

 

 この「メルキゼデク」という人は、創世記に突如現れる。メルキゼデクは、「大祭司イエス」の「伏線」なのである(※「メルキゼデク≒イエス」という人もいる。私もその考えに賛同する)。つまり、アブラハムもレビも、その他の全ての「十分の一」をささげた人は、このメルキゼデク、すなわちイエスご自身に「十分の一」を捧げたのだ。

 私たちは、この「永遠の大祭司」であるイエスご自身が、「完全ないけにえ」になることによって、完全に救われている。「いけにえ」も「十分の一」も全てはその「伏線」なのである。何千年も前から、計画されていた、神の神秘なのだ。ああ、神の計画はなんと深いことか。

 

 

▼「十分の一」ではなく「十分の十」捧げる

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 勘違いしてほしくはないが、私は、「献金しなくていい」と言っているのではない。「十分の一献金」などという概念は聖書にない、それは義務ではない、たくさん献金したからご利益があるわけではない、と言っているのだ。しかし、献金」は大切である。聖書にもこのような記述がある。

彼らは喜んでそうする(金銭的援助をする)ことにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。

(ローマ人への手紙 15:27)

 

 パウロは、異邦人クリスチャンたちに、エルサレムにいるユダヤ人クリスチャンたちを支援するよう要請した。カンチガイしてほしくないのは、「霊的なものにあずかった」というのは、「聖書を教えてもらった」という意味ではない。よくこの箇所を引用し、「だから牧師を支援すべきだ」という人がいるが、それは間違いだ。この箇所は、あくまでも、イスラエル人のみ開かれていた救いが、異邦人にも開かれたのだという意味である。また、エルサレムにいるユダヤ人信者たちは、激しい迫害の中にあったことも覚えておく必要がある(→ただ、コリント人への手紙には同じ表現で働き手に対しての献金の要請が書かれている。後述)。

 

加えて、パウロは、ガラテヤの教会、コリントの教会に、献金を命じている。

さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。私がそちらに言ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。

(コリント人への手紙第一 16:1~2)

 

 ガラテヤやコリントは、比較的裕福な教会であった(特にコリント)。パウロは、彼らに、「聖徒たちのため」に献金を準備しておくよう伝えたのである。私たち日本人は、世界的に見ればメチャクチャ裕福なのであるから、他の国の兄弟姉妹を支援するのは大切である。しかし、「日本の教会」という意味ではメチャクチャ貧しいのは事実で、その意味では、裕福な西欧の教会や、規模の大きい韓国の教会に支援を要請するのは、理にかなっているとは思う。

 

 また、現実問題として、教会運営にお金は必要である。教会会堂の家賃や維持費、会堂建築費の返済、牧師やスタッフの給料、教会のイベント事の予算等々、「教会」の運営にはどうしても結構なお金がかかる。教会開拓にもお金は必要だ。

 パウロは、そのような働きに対して、働き手が信者から収入を得るのは当然だと論じている。

モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠<くつこ>をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。

(中略)

あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

(コリント人への手紙第一 9:9~14)

 

 パウロは、この「権利」を自分たちは用いなかった。すなわち、自分たちは教会からの献金を受けずに、「自活」していたと主張する。しかし、原則として、「福音を述べ伝える者」が「福音の働きから生活の支えを得る」のは当然の定めである。「十分の一」は義務ではないが、「牧師や教会スタッフの生活費・給料」は、何らかの形で支払えるようにするのが理想だ。そのために、信者たちの「自発的な献金」は望ましい。

 その意味で、「十分の一」は、するのは簡単ではないが、できなくはないギリギリのラインの指標として、非常に有効である。手取り20万円の人が、2万円の献金をするのは、結構大変だ。決して楽ではない。しかし、できなくはない。神様は現代の私たちの生活に当てはめてもなお、ドンピシャでギリギリの指標を与えてくださっているのだ。その意味で、「自発的に収入の十分の一を献金する」のは、とても良いことだと思う。

 大切なのは、「心の動機」、モチベーションだ。イエスは、こう言っている。 

それから、イエス献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(マルコ12:41~44)

 

 やもめが入れたレプタ銅貨2枚は、ほんの少しのお金だった。日給1万円で計算すれば、たったの156円分である。しかし、彼女にとってそれは全てだった。イエスは、彼女こそが一番の献金をしたと言う。

 この箇所から、「献金は額ではなく、割合が大切だ」という人もいるが、私は違うと思う。私は、大切なのは、「心の動機」、すなわちモチベーションであると思う。彼女は、なぜ「生きる手立てのすべて」を投げ入れられたのか。それは、彼女が神に信頼していたからである。彼女こそ、イエスの教えを実践した人であった。 

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

(マタイの福音書6:27~31)

 

 私たちは、神によって養われている。仕事も、経済も、健康も、肉体も、時間も、命も、持っているものは全て神から与えられたものである。その認識に至るとき、もはや私たちは「十分の一」などという概念に縛られない。

 まことの礼拝者は、自分自身を、「生きた供え物」としてささげる。「十分の一」ではない。「十分の十」捧げるのである。

 

 本当に神の霊に満たされ、神に自分自身を捧げるならば、もはや「自分のもの」は何ひとつない。最後に、聖霊に満たされた人々が、どうリアクションしたか、そして、神がどのように彼らを満たされたか見てみよう。

 さて、信じた大勢の人々はこころと思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。

使徒の働き 4:32~35)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。