週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

「日本YLG2024」に参加して丨率直レビュー

 7年ぶりに、キリスト教のシャバ」に出た。

 「旅の友となる」をテーマに「日本YLG2024」が、埼玉県の国立女性教育会館で開催された。「YLG」とは「Younger Leaders Gathering」の略で、日本語にすれば「若手リーダーの集まり」という意味になろう。3月11日(月)から14日(木)までの4日間にわたる大会に、約340名が参加した。普段私はこういった大会に興味を示さないが、こんなアウトサイダーの私に、とある方が親切にも「興味ない?」と声をかけてくださったので、珍しく参加することにした。こうしたクリスチャンの大会に参加するのは、私にとっては実に7年ぶりで、期待と不安が入り混じっていた。

 

 4日間の日程を終えて「むちゃくちゃ楽しかった」と素直に思った。シャバの空気はうまい。やはりイエス・キリストを信じる仲間と出会い、語り合い、励まし合い、また議論することは心から興奮した。一方で、久々にキリスト教の世界の「当たり前」に接し、その文化の根強さにモヤモヤすることも多々あった。

 そこで久々に「週刊イエス」を更新し、この「日本YLG2024」の感想を記したい。記憶があせないうちに。気持ちがアツいうちに。良かったことも、悪かったこともシンプルに書き留めたい。

 

 実は、これは私のオリジナルの発想ではない。イエスを信じる先輩である山崎ランサム和彦先輩のブログにインスパイアされている。山崎氏は、2023年9月の第7回日本伝道会議に参加した感想を、自身のブログに記しており、私はそれを拝読した。山崎氏は率直に「良くなかったこと」を痛烈に書いていて、感動した。私もこうありたいと思った。未読の方はぜひご一読いただきたい。

 今回、図らずしも山崎先輩と同じように、私はイチ参加者として日本YLG2024に参加した。イチ参加者としての感想を先輩の姿にならい、素直にまとめたいと思う。

 

【良かった点】

1:子連れの参加者に優しい大会だった(ファミリーフレンドリー)

 日本YLG2024の大きな特徴は、何といっても幼い子どもの参加数だった。約340名の参加者のうち、小学生以下の子どもが約75名だった。私と妻も、2歳の娘と、0歳の息子を連れて参加した。
 通常、こういった大会は子どもは参加できないか、できても満足なプログラムがないか、夫婦の片方が世話を余儀なくされ満足にプログラムに参加できないことがほとんどだ。礼拝集会でも子どもが泣いたりすると、退室し母子室での参加になり、肩身の狭い思いをすることが多い。

 しかし、日本YLG2024は、はじめから「子ども大歓迎」という姿勢で大会を準備していた。メインの集会時(1日に3度、各2-3時間程度)にはチャイルドケアが用意されていた。ただ預かるだけでなく、小学生にはAWANAジャパン全面協力のもと、聖書の内容を教えるプログラムがあったり、幼児も楽しめるようにアクティビティが用意されていたりした。

 子どものケアはすべてボランティアで、保育の経験がある方々が従事してくださり、プロの手によるケアが受けられた。私の2歳の娘は、通常初めての場所では緊張し、親から離れたがらない。しかし、日本YLG2024の子どもプログラムのスタッフの雰囲気がとても良かったのだろう、初日から「楽しかったー!!」と満面の笑みで帰ってきた。夫婦ともにホッとし、大人のプログラムに集中することができた。子育て経験者ならそのスゴさが伝わると思うが、なんとお昼寝までさせてくれたことには感激した。

 子ども関連のことについては、運営側とスタッフのコミュニケーションも非常に綿密で、親切だった。大会前から何度も「家族で来てくださりありがとうございます」「大歓迎です」といったメールで参加を励ましてくれ、子連れで参加することに罪悪感を抱かずに済んだ。大きな課題である子どもの入浴時間も、最大限要望を聞いて調整してくれた。幼児のケアのために集会場で参加できない参加者のために、集会の様子はネットでライブ配信もしてくれた。最後に子どもがステージに上がり、参加者全員で次世代のために祈る機会があったこともとても良かった。

 

 子どもに関してはすべて至れり尽くせりの対応で、最初から最後まで、家族連れに優しい、ファミリーフレンドリーな大会だった。この点は非常に画期的で、最高の環境だった。子どものプログラムやケアを準備するためには、スタッフの数や労力も倍増するだろうし、そこまでして家族連れでの参加を勧めてくださった実行委員会とスタッフの労には心からの敬意を表したい。ありがとうございました。

 

 

2:「旅の友となる」というテーマにふさわしい内容だった

 日本YLG2024のテーマは「旅の友となる」だった。公式ホームページには、以下のように大会の目的が書かれている(強調筆者)。

YLGは、世界最大の宣教ネットワークであるローザンヌ運動の若手リーダーによる集会です。

Younger Leaders Gathering(若手リーダー大会)の略で、牧師や宣教師だけでなく、多様な分野で仕える若手クリスチャンリーダーたちが出会い、つながるための大会です。

初回となる日本YLG2024の目的は、日本宣教に仕える多様な若手リーダーがつながり、キリストにある謙遜さを求めながら、宣教協力の土台となる真の友情を築くことです。

 

 つまり、今回の大会の目的は「真の友達になろう!」というものであった。素晴らしいと思った。このような大会は、往々にしてメインの集会や、メイン講師、そこで語られる「説教」に重きが置かれがちだ。しかし、私は常々「礼拝集会の内容よりも、フリータイムや食事、お風呂の時間、ちょっとしたスキマ時間、そして夜ふかしして語り合って友達になるのが、クリスチャン大会の醍醐味だよなぁ~」と思っていた。どこまでも天邪鬼なので、プログラムよりも、そこで出会う人に期待していたのである。今回、それがメインテーマとなっていて嬉しかった。

 

 言っているだけでなく、この大会は「友」となれる機会がたくさんあった。5人程度の「スモールグループ」が割り当てられ、基本的にそのグループで4日間を共に過ごした。全体集会ではグループで一緒に座り、その後でガッツリ話す時間が昼と夜それぞれに設けられた。

 通常、こういったスモールグループに割り当てられる時間はせいぜい15分程度のもので、あまり深い話ができない場合が多い。しかし今回、1時間もの時間が割り当てられたことで、グループ内での会話が深まり、結果的にフリータイムや夜の時間にこのグループのメンバーと話す機会も増えた。自然と「友」となれるように、大会全体が「仕組まれていた」のである。

 

 一方で、ワークショップやフリータイム、食事は自分の好きなように行動できた。こうしたメリハリも効いていて、グループ以外の人とも深く関わることができ、互いに知り合うことができた。特に食事の席が指定されていなかったのは個人的に良い影響が大きく、合計9回あった食事の機会で、すべて違う方々と知り合い、話すことができて非常に良かった。中には、私のような「若者」と夜の時間を喜んで過ごしてくださった一回り以上先輩の方々もいらっしゃった。世代を超えて喜びをもって交流ができたことは、非常に良かった。

 クリスチャン業界は狭い世界で、Facebookで「共通の友達」が300人以上いることもザラにある。そんな世界だからこそ、集会に行けば同じようなメンツと会う。しかし、SNSの発展によって「知っているようで知らない」「SNSではよく知っているけど、実は会ったことがない」「10年以上会っていない」という関係も多い。今回は、そんな人々と真に「出会い」「友人となる」ことができる貴重な機会だった。私も多くの「はじめまして」や「久しぶり」、そして「えっ、あの人の旦那さんなの!?」を体験した。

 

 また、細かい点だが、参加者の名札のクオリティが非常に高かった。秀逸できれいなデザイン、読みやすく大きなフォントの印字、首や肩の負担にならない細めの紐。すべてが整っていた。また、裏面にはプログラムが印刷されており、「次のプログラム何だっけ?」となった時にすぐに手元で確認ができることも大きなメリットだった。

 

 こうした大会の名札は、初日は全員がつけるが、2日目以降は忘れられていることが多い。デザインや形状が良くなく「負担」になるからだ。しかし今回は、最終日までほぼ全員が着用しており、自然とお互いの名前を知ることが出来た。これは互いに「友」となる為には非常に大きなポイントだったと思う。名札をデザインした方々に拍手を送りたい。

 

 

3:「1on1メンタリング」という新しい大会のカタチ

 今回の大会での特徴的なプログラムのひとつに「1on1メンタリング」というものがあった。約50名の40代-70代の先輩を「メンター」として選び、1時間程度の個人面談ができるという制度だった。大会中の朝食、昼食、フリータイム、夜の時間などを活用し、希望するメンターとの面談が実施された。メンターは上限3名まで選ぶことができ、選択肢も多く、充実していた。メンターの役職も、牧師や宣教師にやや偏っていたものの、中には医師や公認会計士など、様々な分野で活躍する人材が用意されていて、比較的自分が興味のある分野の専門家に話を聞けるシステムになっていた。

 

 このような大会においては、往々にして自分と同世代か、同じような興味関心がある人との関わりだけで留まってしまいがちだ。しかし、このような先輩とのメンター制度があることによって、自由時間にはちょっと話しかけづらい年齢やタイプの人と話せる機会が生まれていた。結果として幅広い人々のつながりが生まれるよい機会だったと思う。

 今回、私は自分の中に、ある個人的なテーマがあり、そのテーマに沿った方々に面談を申し込んだ。1名は、あえて普段は絶対にしない女性の先輩を選び、話を聞いてみた。結果として非常に良かった。このように、「どんな相手と」「何を話すか」の選択権が参加者にあることで、各々の必要や要望を満たすことが可能なシステムとなっていて、非常に好感が持てた。

 

 フリータイムに話しかけるには、ちょっと気まずい相手でも、制度を利用すれば堂々と話が聞け、また「友」となることができたと思う。とても良い制度であり、次回も続けて欲しい。この発想を生んだスタッフの方々に感謝したい。

 

 ひとつ付言するならば、今回は「年上が年下のメンターになる」という構図だけだったのが残念だった。「多世代協働」を謳うならば、「年下が年上のメンターになる」という構図があってもいいはずだ。次回からは、そのような構図でも1on1メンター制度を導入してみてはいかがだろうか。これは私からの提言である。

 

4:ボランティアの方々の奉仕が美しかった

 この大会には、約50名のボランティアが参加していた。大会に参加する条件が「25歳以上」だった為、25歳未満の青年がボランティアスタッフとして参加していたのだ。学生もいれば、なんと仕事を休んで来ていた社会人の方もいた。

 彼らは、受付、清掃、昼食の弁当やお茶配布、軽食やコーヒーの準備、参加者の誘導、アナウンスなど、多岐にわたる仕事を精力的にこなしていた。日程的にも、人数的にもかなり忙しそうに動いていたが、印象的だったのは彼らが楽しそうに働いていた姿だった。喜びに溢れながら他者に仕える姿は、輝いて見えた。

 

 とても恥ずかしいが告白すると、「得体の知れないオッサン参加者の為に自分の時間と労力を犠牲にする」という発想が私にはまったくなかったので、これほど多くのボランティアが働いている事実に心底驚いた。「え? なんで? なんでわざわざ大変なことをしに時間を使っているの?」と、ビックリした。喜びを持った奉仕を無償でする若者の姿を目の当たりにし、自分の自己中心さに気付かされ、反省した。彼らの献身的な姿を見て、心から感動した。

 日本YLG2024にボランティアとして仕えてくださった皆さん、本当にありがとう。心から尊敬します。

 

 

5:歓迎的(ウェルカミング)な雰囲気だった

 この大会の印象は、終始大会が「歓迎的な雰囲気」(ウェルカミング)だったことだ。参加者にタンブラーが配られ、1日中コーヒーを飲むことができた。中には「Little Light Coffee」プレゼンツの本格的なコーヒーの提供もあり、コーヒー好きの私にとっては、これ以上ありがたいことはなかった(その結果、カフェインを摂りすぎて、今、頭痛をロキソニンで抑えながらこのブログを書いている。人間とは愚かな存在である)。昼にはおやつ、夜には交流のための軽食なども用意されていた。

 大会実行委員の方々は、常にメールやfacebookでの問い合わせに答えてくれた。私はこのブログを見れば分かるように、小うるさい小姑のような性格なので、何度も分からないことを問い合わせたが、その度に丁寧に対応していただいた。大会の最中、終始「あなたを歓迎します」というメッセージが伝わってきて、心がほぐされた。

 

 

 

 以上、ざっと「良かった点」を5つ挙げた。これらの素晴らしい要素は、すべて実行委員会、スタッフの皆さま、メンターの皆さま、そしてボランティアスタッフの皆さまの苦労のおかげで生み出されたものだと思う。改めて本当に心から感謝したい。そしてこの機会を与えてくださった、唯一の神に最上級の感謝と栄光をささげたい。

 

 

【悪かった点】

 さて、良い点は数多くあったが、それと同時に悪い点もあった。あくまで私個人の観点から、「ここを改善したらもっと良くなる」と思う点を5つ挙げたい。

 

1:「先生」文化を変えようとしたが、徹底できていなかった

 日本YLG2024では、初日の集会で「牧師を『先生』と呼ばずに『さん』で統一しましょう」という提案がなされた。奇しくもこれは前年の第7回日本伝道会議での提案と同じであった。先に挙げた山﨑ランサム和彦さんのブログにもある通り、これは大変画期的かつ野心的な素晴らしい試みであったと評価したい。

 ご存知ない方への補足だが、日本のキリスト教業界には長年にわたり「牧師、宣教師に『先生』という敬称をつける」という文化が定着している。これは聖書には一文字も書かれていない単なる「文化」である。それどころか、逆に聖書は「先生と呼ばれるな」(マタイ23章参照)と教えている。

 個人的にはこの「先生呼び文化」が、日本のキリスト教業界のピラミッド型構造を生み出し、牧師への依存、牧師権力の腐敗と膠着化、有名牧師の意見に付和雷同する等々の様々な悪影響を及ぼしていると考えている。聖書に根拠もなく、悪影響しかないこの文化は、今すぐにでもやめた方がいい。先日つくった動画でも言及しているので、詳しくはぜひ動画を見て欲しい。

youtu.be

 

 今回の日本YLG2024のテーマは「旅の友」であり、またサブテーマとして「謙遜さ」が挙げられていた。もう一度、公式ホームページの文章を見てみよう(強調は著者による)。

YLGは、世界最大の宣教ネットワークであるローザンヌ運動の若手リーダーによる集会です。

Younger Leaders Gathering(若手リーダー大会)の略で、牧師や宣教師だけでなく、多様な分野で仕える若手クリスチャンリーダーたちが出会い、つながるための大会です。

初回となる日本YLG2024の目的は、日本宣教に仕える多様な若手リーダーがつながり、キリストにある謙遜さを求めながら、宣教協力の土台となる真の友情を築くことです。

 

 このように、「謙遜さ」もテーマのひとつだった。謙遜さを求め、そして真の友情を築くために、この大会中は「先生」はやめましょう。そういう趣旨での提案だった。

 また、YLGが大切なテーマとして掲げる「多世代」が協働するという意味でも、講師を「先生」と呼ぶのはふさわしくない。そういう意図での提案だったはずだ。この提案は非常に素晴らしいもので、思わず私は会場で拍手喝采した。

 

 しかし、残念だったのは、この「『先生』はやめましょう」という呼びかけが、まったく徹底されていなかった点だ。ステージに上った運営委員のうち、ほとんど全員が初日から最終日まで、ずっと「先生」という敬称を用いていた。「それでは先生を拍手で歓迎しましょう」「◯◯先生は、普段から熱心に仕えておられる先生です」などの言葉もあり、「あれ、提案はどこにいったの? 謙遜さはどこにいったの?」とズッコケてしまった。講師も、もれなく他の牧師を「先生」と呼んでおり、ポリシーがまったく徹底されていなかったことが浮き彫りになった。

 

 この「先生呼び」をやめられない現象は、結局4日間ずっと続いた。その度に私は会場で声をあげたり、拍手をしてリアクションをとったが無視され、改善されることはなかった。

 

 大会3日目には、大会運営委員長である武田孝平氏に直接1on1ミーティングを申し込み、直接「先生呼びをやめるよう徹底してはどうか」という提案をした。しかし、武田氏はポカンとした表情で、意味がその重要性がよく理解できていない様子だった。武田氏は「あの提案は真の友情を育むためのもので、ルールではない」と、私の提案をやんわりと拒否した。残念だった。

 

 武田氏は、「先生呼びをやめましょう」と提案した張本人だ。しかし、彼はステージ上でその提案をした直後に「それでは講師の◯◯さんをお招きしましょう……こんな呼び方をしていいのか、今私は戦々恐々としているのですが……」と発言した。「本来は『先生』と呼ぶべき相手だが、そうしない無礼をお許しください」という姿勢だ。

 運営委員長がステージ上でそういう姿勢を見せたら、提案は有名無実になってしまう。運営委員のその姿勢を見た参加者は「あっ、ポーズだけで実際はやっぱり『先生』と呼ばなきゃダメなんだ」と思ってしまう。現に、大会中さまざまな交流の中で、ほとんどの人が牧師を「先生」と呼んでいて、まったくその提案は反映されていなかった。この「先生呼び」の文化が日本のキリスト教業界にはかなり強く根付いてしまっているのだなと残念に思った。

 

 せっかくそういった野心的な提案をするのであれば、せめて運営委員や講師はその意思を徹底し、貫くべきではないのか。そうでもしないと、根付いた悪しき文化を変えることなど出来ない。キリスト教の文化を変えて、本当の福音を伝えていくというのもYLGのコンセプトだったはずだ。

 先に挙げた山崎先輩のブログにもあるように、この「先生文化」については、日本伝道会議でも同様に「なあなあ」になっていた様子がうかがえる。それだけ根強い悪しき文化を変えるには、徹底した姿勢が必要なのだ。指摘を直接受けたにも関わらず、改善しようとしない委員長の姿勢や、運営委員がほぼ全員その旨を徹底できておらず、ただのパフォーマンスに留まってしまっていた点は、厳しく批判したい。

 

2:なぜ通訳が必要な外国人の講師ばかりなのか?

 ステージ上で語る講師の多くが、外国語話者であり、日本語通訳を必要としていた点は良くなかった。今回、全体での集会は7度あり、最後の集会は全体での祈りがメインだったので、いわゆる「説教」「メッセージ」「証」「スピーチ」がある集会は6回あった。そのうち、前座的なものと、本チャンのものがあり、いずれの集会も2人がスピーカーとして登壇するシステムとなっていた。数えた所、6×2+αで=全13回、登壇する機会があった。

 

 全部で12回あるスピーチの機会で、外国語話者が逐次通訳を通してスピーチした機会は7回。日本語だけのスピーチは6回だった。これは「日本」YLG2024だったはずだ。日本の若手リーダーのための大会だったはずだ。なぜ日本語より外国語で話す機会の方が多いのか。めちゃくちゃ疑問である。

 メインの講師は3人いて、そのうち1人は日本人、1人はアメリカ人、1人は韓国人だった。それぞれ、日本語、英語、韓国語で、外国語話者は通訳を介して話した。日本人による日本での日本のリーダーの為の大会なのに、なぜ外国語の方が多いのか。

 

 言わずもがな、通訳を介すと解像度は下がる。同じ時間内で言えることの密度も著しく下がる。内容の理解度は、母国語で語る半分以下になる。なぜあえて外国語話者を多く登壇させたのか、理解に苦しむ。日本のキリスト教業界が、通訳を介しての外国語のスピーチに慣れすぎているのではないか。

 通訳を介して話すのはデメリットが大きいのに、そのデメリットを許容してまでも通訳を立たせる理由は、その話者でないと話せない特殊なことがテーマである場合や、その人物が代替不可能な場合のみである。例えば講師がビル・ゲイツであるとか、松下幸之助であるとか、ダライ・ラマである場合などである。その場合は通訳を立てても、その人物が話す意義がある。

 

 しかし、今回の大会のスピーチは、有り体に言えばいずれも「大したことのない内容」だった。ローザンヌ運動の歴史や、世界宣教の状況説明や、体験談が主な内容で、別に日本語話者でも話せる内容だったと思う。聖書のメッセージ、いわゆる「説教」も別に内容的に特段新しいものはなく、使い古された当たり前のメッセージで、別にわざわざ通訳を立てて話すような内容でもなかった。むしろ日本語話者が語った方が、より深い内容のものを、同じ時間内に話せたと思う。
 また、個人的にはどうしても国や言語、文化の違い、情報不足ゆえの内容の違和感が拭えなかった。例えば、韓国系の男性が「こんなに若者の集会が大きくなっている!!」という例で挙げた教会は、日本ではカルト性の強い教会だと認知されており(ちなみに小林は当該教会に実際に1ヶ月関わったことがあるが、明確にカルト教会だと断言する)、会場では微妙な空気が流れた。教会堂に大勢の人を集め、大きなスタジアムで豪華なパフォーマンスをする映像も流れたが、日本ではリアリティもなく、また目指したい姿でもないため、目指す方向性のズレも感じた。外国講師が力を込めて語る内容は、日本では既知のものであり、目新しさや感動は個人的にはまったくなかった。また、アジア系の女性が力強く語った証は、昨今のフェミニズム的な内容のもので、個人的には聖書の価値観とのズレを感じた。彼女が暮らす国の文化や社会では、もしかすると聖書の内容との関連があるのかもしれないが、少なくとも日本の文脈では受け入れがたい内容だった。

 さらに、通訳者のクオリティにもバラつきがあり、中には難があるレベルの人がいたのが気になった。私は英語が分かるので、英語話者のスピーチの内容は分かる。中には通訳者が意味の取り違えをしていることもあり、その点が気になってしまった。英語母語話者にも聞いてみたが、その方々も間違いが気になって集中できなかったと語っていた。韓国語の通訳も、日本語の母語話者ではなく、日本語に訳した際に解像度が下がっていたと聞いた。

 特に2日目のアメリカ人講師、ダグ・バーゼル氏のスピーチは、通訳者とテンポが合っていなかった。通訳者がまだ日本語を話しているのに、終わらないうちにバーゼル氏が話し始めてしまう。通訳に「被せて」話す時間が続いた。日本語は語尾で意味が180度変わる語順の言語なので、それをされてしまうと、スピーチの内容が分からなくなってしまう。

 実際に、英語が分からない参加者に聞いたところ「集中できなかった」「半分ぐらいしか理解できなかった」「気になって話が入ってこなかった」という感想が多かった。通訳者も困っていたし、かわいそうでもあったが、通訳しきれないならばその場でバーゼル氏に「すみません、もう少し話し始めるのを待ってください」とお願いすることもできたはずだ。それをせずに、最後まで続け、日本語話者を置いてきぼりにしてしまっていた。

 

 これは流石に問題だと思ったので、私は通訳者の武田氏(運営委員長と同一人物)と、スピーカーのバーゼル氏両名に直接声をかけ、スピーカーと通訳の連携に問題があったことを伝えた。両氏ともに、その点は過失があったとして指摘を受け入れてくださった。バーゼル氏は「以前、バングラディシュで話した際には通訳者が止めてくれたので気づけたが、今回は止められなかったので気づかなかった。再来週のソウルでのスピーチの際は気をつける」と答えてくださり、指摘を受け入れてもらった。感謝したい。

 

 内村鑑三新渡戸稲造が「日本人の信者をナメるな!」と声をあげ100年以上。尾山令仁氏が「外国人ではなく日本人の日本人によるキリスト者学生運動をつくる」としてキリスト者学生会(KGK)を立ち上げて77年。未だに日本のクリスチャンイベントでは、外国人が外国語でスピーチしている。この現状を、そろそろ変えなければいけない。

 

 

3:メイン講師のメッセージの内容や論法に賛同できなかった

 メイン講師は3名いた。安藤理恵子氏、ダグ・バーゼル氏、ユ・ギソン氏の3名で、いずれも肩書きは立派な方である(公式ホームページ参照)。しかし、そのスピーチの内容は厳しい言葉遣いになるが、いずれも陳腐だったと言わざるを得ない。

 いずれの講師も、話術や体験談で聴衆を引き込み、伝えたい内容を伝えるという論法であった。ある参加者からは「聖書の言葉はどこ?」「聖書の言葉の解説が足りない」「例え話を前提とする演繹的な話し方で、聖書の言葉からの帰納的な話ではない」という感想が聞こえてきた。一言で言えば、「中身が薄かった」ということだ。

 どの講師も耳馴染みの良い導入やジョーク、体験談を織り交ぜていて、一見すると「良いメッセージ」のように聞こえるし、テンションが上がる構成だったのは事実だ。しかし、実のところ聖書のどこにその意見の根拠があるのか、不明瞭な話も多かった。全体として「良さそうなメッセージ」に見えるが、聖書の言葉という土台がなかった。ただ事前に朗読がなされるのみで、聖書の解説がなく、神学の深みもなかった。ちなみに、この点の話の薄さ、土台の弱さについては、山崎氏も日本伝道会議について同様に語っている。

 

 3夜にわたってスピーチをした、事実上のメイン・メイン講師である安藤理恵子氏は、話し方がストレートで、ノリが良く、「イケているメッセージ」のように聞こえた。まるでかつての大嶋重徳KGK元総主事を彷彿とさせるような論法で、実際に参加者からは「大嶋さんと似たタイプだね」という感想が聞こえた。それもそのはず、安藤氏は大嶋氏よりもかなり先輩のKGK元総主事なのだ。経歴を見た時、思わず「なるほどね~」とつぶやいた。実は大嶋氏のイケてる感じの雰囲気スピーチの源流は、彼女にあるのかもしれないなと思った。

 ちなみに安藤氏は初日の夜に「ウソをついて、カッコいい自分を演出しても、正直でないと若い人にはすぐにバレる」という主旨の話をしていたのだが、その点は「あ〜、確かに大嶋氏が常にカッコつけて話しているのはバレバレだったな〜」などと同意できる部分もあった。

 

 それはさておき、安藤氏の話の内容に戻ろう。彼女の論法には型があり、「私たちクリスチャンはこう思っているけど、でも実はそれ間違っているよね。本当はこうしなきゃダメだよね」というものだ。Aという前提を立て、それを否定し、実はBが真理なのだ、という論法。極めてシンプルだが、現場で聞いていると「ナルホドな」と思う、効率の良い話し方である。

 この「Aという前提」に違和感があった。なぜなら、それが極めて一般的な「クリスチャンの当たり前」をベースに設定していたからだ。それはKGKの優等生クリスチャンには響くかもしれないが、元々そういう考え方を持たない私にとっては、「牧師は間違ったことを言ってはいけないと思っていませんか?」と問われても、「いや、思ってないんですけど…」で終わってしまうのである。

 だから、彼女の話す「前提」に僕は同意ができなかった。「この人は何を言っているんだ?」と逆に疑問を抱いてしまった。

 

 安藤氏は聖書をたびたび引用した。そこで彼女がよく言ったのが「ここで書いてあることは、Yではなく、Xという意味なんですよね、明らかに」というセリフだ。3日間で何度も聞いた。彼女の決め台詞なのだろう。その意見には、同意できるものもあれば、できないものもあった。彼女は「明らかに」と言う割りに、その根拠を示していなかった、明らかに。また、彼女の意見なのか、それとも神学会で多くの同意を得ている意見なのか、誰か特定の学者の意見なのかも明瞭ではなかった。そういった解釈が分かれる聖書の言葉を、「明らかにこういう意味だ」と定義して話すならば、それなりの根拠を示さなければいけないのに、それがなかった。ただ「ノリ」でスピーチが進んでいき、なんとなく「イケている」雰囲気で終わる。終始そのような形だった

 聖書の文脈にもそぐわない話も多かった。例えば、安藤氏は旧約の律法(文字)は殺すという部分を引用し、「聖書の価値観で人を裁いてはならない」という主旨のことを言っていたのだが、パウロは該当箇所であくまでも旧約の律法を遵守することで救いを得ることはできない旨を説明していたのであって、信じて聖霊を受けた後に聖化のプロセスを歩むことや、互いに戒め合うことを禁じたわけではないことを無視している。このように、旧約と新約の関係性や、聖書全体の文脈から見ると、無理やりな解釈や引用も目立った。まず「裁く」の定義もせずに話していたのもおかしい。クリスチャンは「裁く」という言葉を誤用しているからだ。詳細は以下の動画で見て欲しい。

youtu.be

 

 特に私が彼女に同意できなかったのは、3日目の夜のスピーチだ。この日のスピーチは最悪だった。彼女の結論は、「今所属している組織的地域教会を離れないように努力しなさい」「組織的地域教会を離れて超教派の働きに精を出すのはダメだ」「組織的教会の宣教を信じなければならない」「組織的地域教会を出ていく時は、教会に祈られて送り出されないといけない」というものだった。「教会を離れる人は傷ついている」という決めつけもひどかった。そうでないケースもある。呆れてものが言えなかった。

 結局、3日間スピーチして、言いたいことはそれなんかい! 結局「教会教」やんけ! と叫びたくなった。「教会の宣教を信じる」って一体何なのだろうか。宣教をするのは聖霊であり、組織的地域教会ではない。根本的に聖書の言葉を誤解している。

 クリスチャン業界に深く根付いている「教会に集わない人へのむき出しの差別意識如実に出た結果だと思う。ハウスチャーチは教会ではないとか、組織的地域教会に所属しないとしっかりとしたクリスチャンではないとか、聖書に書いていないことばかりを主張している。それが安藤氏のメッセージだった。1日目も2日目も、結局このための伏線だったのかと、ガッカリした。

 現代の組織的地域教会には、不義が多く横行している。聖書にある「エクレシア」とは異なる形に、残念ながらなってしまっている。聖書に書いていない文化を優先し、教会への服従を誓わせる。献金を強制し、牧師の言うことに無条件で服従し反論しないことを強制される。そういった教会で「間違っている」と指摘をしても、逆に悪魔呼ばわりされ、教会権力者に叱責罵倒され、追い出されることもしばしばだ。クラウドチャーチに集う方々は、そのような経験を多くなさっている。そういった方々は、悩み、苦しみ、涙を流し、神の導きを祈り求めて、悔しく寂しい思いをしながらその地域教会を離れる決断をする。安藤氏は、そういった方々がまるで二流の信仰者だと決めつけているような話しぶりだった。

 

 なぜ所属している組織的地域教会を変えてはいけないのか。理解に苦しむ。聖書の根拠はどこにあるのか。別にいいじゃないか。何が問題なのだろうか。そもそもKGKだって超教派の働きであって、組織的地域教会ではない。その働きに20年間関わった人が言うメッセージがこれか? とても残念だった。

 KGKは超教派の働きであり、実は組織的地域教会の一部からは疎まれている。学生がそっちばかりに精を出して組織的地域教会の「仕事」を疎かにするからである。都合が悪いのだ。だから組織的地域教会はKGKに圧力をかける。KGKも組織的地域教会に気を使い、学生に「組織的地域教会に所属することはとても大切ですよ」と教える。それが実態だ。

 安藤氏の今回の結論は、その「KGKの悪いクセ」が露呈した残念なものだった。この点については、私は真っ向から反論し、批判したい。とても残念だ。日本YLG2024は多様なフィールドで活躍するリーダーが集まり〜と歌っておきながら、結局は「教会中心主義」に着地していたのである。これは批判せずにはいられない。
 安藤氏や「教会教」の信者の方々は、ぜひイスラエルに留学するといい。メシアニック・ジューの信仰を見てみるといい。迫害にある国の、素朴な信者が自ら熱心に集っている地下教会に参加してみるといい。きっと違う景色が広がっていることに気がつけるだろう。このような日本の組織的地域教会信奉者は、圧倒的に自分たちの文化以外の経験が足りないのである。井の中の蛙なのである。

 

 もちろん、擁護しておくと、1日目と2日目の彼女のメッセージには良い点もあった。「教えられたことではなく、自分が神から直接教わった言葉で宣教をしなければならない」とか、「完璧な人ではなく、弱さを抱えた人だからこそ宣教ができる」とか、「できるようになってから宣教するのではなく、今できることをやるのが宣教だ」など、賛同できる点は多々あった。特に「Amazonプライム」という隠語でポルノを見ることについての罪を女性のスピーカーが堂々と語っていたことは高く評価したい(追記:安藤氏はスマホで時間を浪費するという主旨でそれを話していたのだが、私の目線からは明らかにポルノについて想起するように話が構成されていたように感じた。察してくださいね、と言わんばかりに。もちろんこれは、安藤氏がポルノを見ているという意味ではない。誤解なきよう)。そういった良い面があったからこそ、着地点が「組織的地域教会を大切にしましょう」だったのは正直ズッコケてしまった。

 

 日本YLG2024には、教会の牧師や宣教師以外にも、様々なフィールドで活躍する若手リーダーが集まっていた。そのような多面的な働きを推し進めるための大会だったはずだ。それなのに、その結論が結局は「組織的地域教会は大切ですよ」だったことに私は落胆を隠せない。教会以外にも、宣教のフィールドはある。そのことを知ってほしい。人生が宣教である。教会以外の働きは二次的なものだという、差別意識に気づき、そして反省してほしい。

 (残りの2人のメッセージの内容は、あまり記憶にも残らなかったので割愛)

 

 

4:「多世代協働」「謙遜さ」をテーマにしながら、講師陣は権威を持ったロートルばかり

 日本YLG2024の最大のテーマは「旅の友となる」だったが、それに付随する大切なサブテーマとして「多世代協働」や「謙遜さ」が挙げられていた。それにも関わらず、講師陣は結局のところ大層な肩書きを持った年配の方だけだった。その点は残念だった。

 

 講師陣をざっと見ただけでも、「玉川聖学院校長」「ローザンヌ運動前国際総裁」「ローザンヌ世界宣教会議韓国準備委員長」といったゴツい肩書きが並んでいた。年齢もざっと検索した感じは不明だったが、おそらくいずれの方も60歳代-70歳代だろう。あれ、若手の大会じゃなかったの? と心の中で突っ込んでしまった。メイン講師だけでなく、いわゆる「サブ講師」も、ほとんどが50代-70代だったように見受けられる。

 

 結局のところ、キリスト教業界では「経歴」や「肩書き」がすべてであり、年寄りが教えるという従来の形が変わらないという残念な事実が浮き彫りになった。山崎氏が感想を書いた日本伝道会議では、登壇者を50歳以下のみとする(それでも私からすれば年寄りすぎるが)という制限を設けて「若手」(一般的には管理職の年齢だが……)を全面に押し出す工夫があったと言う。その点から見れば、日本YLG2024はまだまだロートルが支配しているという現状で、日本伝道会議と比べて後退してしまっているように感じた。

 

 老人をステージに立たせるなと言うつもりはないが、「多世代協働」をテーマに掲げている以上、登壇者の年齢はもう少しバラつきがあった方が良かったように思う。ワークショップも、講師陣は若くて40代、ほとんどが50-60代で、もう少し若手にも講師の役割を振った方が良かったのではないかと思う。20代の講師がいてもおもしろいのではないか。

 

 最後に「聖餐式」のパンとぶどうジュース(本来はワイン)を配布する際に、10代から70代の代表者が前に出たが、それは単なるパフォーマンスに過ぎない。本質を変えたいのであれば、多世代の人に講師になってもらい、登壇してもらい、そして「互いに学び合う」という姿勢が必要ではないかと感じた。70代の人は、20代から学ぶことはないのか? そんなことはないだろう。いつだって、どの世代からも学ぶことはあるのだ。

 

 ちなみに、最後の聖餐式では思いっきりイースト菌の入ったパンを割くパフォーマンスをしていたが、聖書を読むと本来はイースト菌が入っていない「マッツァ」でやるべきなので、私はちょっと笑ってしまった。パフォーマンスをするなら、せめて正しい形でやってほしいと思う。

 

5:最後の祈りの内容と対象がピンとこない

 大会の最後に全体での祈りの時間があった。代表者と参加者全体が交互に、決められた文言を読み上げて祈る形だった。大会の最後を、祈りの言葉で閉じたのは良かった。しかし、その内容に違和感を覚えた。祈りは大変長いのでここでの紹介は避けるが、基本的な神学的な部分で大きな問題はなかったように見えたものの、「祈る主体をどう考えているのか」が気になった。

 例えば、以下の祈りの文言があった(強調筆者)。

「私たちは自分の世代の宣教を優先し、多世代で仕え合うことを軽んじ、福音の広がりを狭めてきました。他の世代から謙遜に聞かなかったことを赦してください

「私たちは、宣教の働きは自分たちの世代だけのものであると、思い違いをしてきました。キリストの弟子を作ることよりも、他の事柄を優先してきました」

 

 この内容に異論はないが、これを祈るべき「私たち」の主体は、こういうことを僕らの世代に対してしてきた老人世代ではないのか? という思いが湧いてきた。この祈りを今の50代、60代、70代が祈るならば分かる。でも、ずっとその世代に苦しめられ、我慢を強いられ、意見を聞かれなかったのはその下の世代だ。この世代の人々が我々に対して悔い改めを示すのならば分かる。けれども、参加者の主体は20代から40代の「若手リーダー」のはずだ(40代を 「若手」と言うかは多少疑問ではあるが……)。

 若手リーダーがこの文言を「祈らされる」という状態に、私は違和感を覚えた。そもそも私はこの前日、武田氏に提言したのに、それを拒否されているので、その武田氏本人がこの祈りの文言を祈っている姿がシュールで仕方がなかった。言うは易く行うは難し、である。

 

 そもそも祈りの文言を精査する時間もなく、一方的に与えられ、それを読み上げろというのも無理がある。「アーメン」(そう思います。同意しますの意)と言えるかどうか、その精査もせずに私は「アーメン」とは言えない。祈りは自分の心から、真実の心で祈りたいという思いがあるからだ。祈りの文言を事前に共有し、それを反芻した上で当日祈った方が良かったのではないかと思う。

 

 

 以上、5つの「悪かった点」について思うままに書いた。ぜひ31歳の若造が言うことを「生意気」と捉えずに、祈りの文言のように「謙遜に聞いて」欲しいものである。

 

 

 さて、思いつくままに記してきましたが、冒頭にも述べたように、私はただの一参加者に過ぎませんので、私の観察は大会のほんの一部を切り取ったものに過ぎません。私の知らないところでこの大会の背後ではさまざまなご苦労や議論があったのではないかと推察します。この大会を実現してくださった関係者の皆さまには心からの感謝を申し上げたいと思います。

 

 最後に、今回個人的に一番嬉しかったのは、さまざまな人々との交流が与えられたことでした。何年も会っていなかった人々と旧交を温めたり、新しい方々との出会いが与えられたりと、対面ならではの祝福をいただいた4日間でした。このようなイベントを通して人と人とがつながることから、次の時代の新しいうねりが生まれていくのではないかと思います。動画編集もあり、スケジュール的にはきつかったですが、やはり参加して良かったと思っています。

 

(了)

歴史を面白く学ぶ番組「COTEN RADIO」が、キリスト教についてあまりに間違っていることを話しているので苦言を呈したい。

 歴史を面白く学ぶラジオ「COTEN RADIO」をご存知だろうか。PodcastYouTubeといったプラットフォームで、歴史の様々なテーマについて語るラジオ番組である。Apple PodcastSpotifyのランキングで常に1位に輝いている、今や大人気のコンテンツだ。

coten.co.jp

 私も2021年にこの番組の存在を知り、ドハマりした。運転中や皿洗い中など、暇さえあれば聞き続けた。現在300話以上あるエピソードは、ほぼすべて聞き、楽しませてもらっている。まだ聞いたことがない方は、めっちゃオススメだ。

 

 さて、COTEN RADIOのコンテンツは大好きだが、一方で、正直に言うとキリスト教に対する理解が甘いところが多いと感じている。「世界三大宗教」編では、「イエスは何よりも愛が大切だと語った」と大味すぎて誤解を招くことを言ったり、「性の歴史」編では、「使徒パウロのせいでキリスト教は性に厳しくなった」という趣旨の歴史的にも神学的にも間違ったことを言ったり、室越さん初登場回では、れっきとした宗派のひとつであるペンテコステ派を「キリスト教のカルト」と偏った紹介をしたりと、とても聖書やキリスト教そのものを「学んでいる」とは思えない発言や理解が多くみられた。 

 大好きなコンテンツだけに、イチ信者、イチ牧者として、かなり「もったいない」と感じ、気になっていた。たぶんCOTEN RADIOの皆さんは、聖書を一貫して読んだことはないんだろうなぁ、と理解していた。

 

 とはいえ、僕が感じていた不満は、キリスト教についてほとんど知らない日本人にとっては些末なことに違いない。これで間違っていると騒いでも、はたからみれば「キリスト教のめんどくさい信者」である。そう見えたら意味がない。だから黙っていた。

 

 COTEN RADIOはもともと、聖典・原典にあたるのではなく、関連する一般書籍をキュレーションして、面白い上澄み部分を抽出するというスタイルをとっている。キリスト教に関する日本語の書籍(一般書もキリスト教系の出版物も)の質が決して高くないことを考慮しても、「間違ってはいるけど、その程度の解像度として捉えればいいか」と思い、これまで大きく声をあげることはしてこなかった。

 また、去年あたりから、COTENが会社としてアメリカの神学大学で学んでいる(教えている?)方から、直接キリスト教の講義を受けているということも耳にし、その際にパーソナリティーの深井さんが「今までキリスト教について何もわかっていなかった」とおっしゃっていたのは、素直に感心した。「今後、キリスト教についての理解を深めた状態での発信が楽しみだな」と、嬉しく思った。

 

 しかし、今回の「みんなちがってみんないい! 宗教ロジックが障害者にもたらす多種多様な専門職【COTEN RADIO #298 】」 を聞いて、ついに黙っていられなくなった。宗教の中で障害者がどう捉えられていたかを説明したうえで、宗教に障害者を排除するロジックと救済するロジックがある、という内容だったが、まず取り上げられたのが「キリスト教が障害をどう捉えているか」だった。

 この説明がさすがにひどすぎた。キリスト教について、誤解というレベルではきかない、重大な間違いを堂々と語っているのだ。ただの間違いでなく、教義を180度ひっくり返してしまうような、そんなレベルの間違いだ。例の講師の先生は、これを聞いて反論しないのだろうか、と不思議になった。

 問題の回は、これだ。筆者が問題だと感じたキリスト教についての言及は、開始9:30〜17:40なので、もしよかったらまずは聞いてほしい。

youtu.be

 深井さんは、冒頭で「宗教は一筋縄で語れるものじゃない」と一応の弁明をしていた。以下の通りだ。

深井氏(開始9:30~)
「宗教の話するとき、毎回、前回もこれいいましたけど、宗教って一筋縄に本当は語れるものじゃないので、それぞれの信者の方がこの話を聞いたら『いやぁ、そうじゃねぇし』って思う人いるかもしれないんですけど、その全部を包括して完全に語るっていうのはちょっとできないなって思ってまして、★いわゆる典型的な例として出していきたいと思います」

 

 つまりこれは、「あくまでも各宗教の『典型的な例』を扱うから、細かいことは語れないよ」というエクスキューズだ。宗派や教派ごとの考え方の違いまでは言及できないけど、「キリスト教」とか「イスラム教」っていう大きな枠組みで見るとこう言えるよね、という話をしますよ、という弁明である。

 

 もし、今回の話が「解釈の違い」とか些細な問題であったら、静観しただろう。しかし、今回のCOTEN RADIOのキリスト教に関する説明は、キリスト教の「典型的な教え」から見れば真逆の説明になっていたのである。教義の真逆を言っているのだ。完全に間違っているばかりか、ユダヤ教キリスト教をごっちゃにしているし、救いの理解を完全に間違えているし、イエスや聖書の言葉や文脈と真逆のことを言っているしで、さすがに一信者、一聖書マニア、一イエスの弟子として、黙っていられなかった。だから久々にキーボードを引っ張り出してきたのである。

 

 読者の方は、ぜひCOTEN RADIOの当該エピソードのキリスト教部分(9:30~17:40)だけでもいいので聞いていただき、この記事を読んで参考にしていただければ幸いである。

 

▼何が問題なのか

 では、COTEN RADIOの今回のエピソードが、キリスト教の観点からなぜ間違っているのか。問題は大きく3つ挙げられると思う。

 

1:ユダヤ教旧約聖書+口伝律法)と、キリスト教(旧約+新約聖書)をごちゃまぜにして語っている

 

2:「救い」に関する理解が、キリスト教の観点から完全に間違っている

 

3:聖書の文脈を完全に無視して引用しており、結果として間違った結論に導いている

 

 以上、3つを順に説明していくが、その前に一方的に文脈を無視した批判をするのもおかしいので、キリスト教の該当部分を聞いて文字起こしした。お時間がある方はざっと目を通していただければ幸いだが、長いので読み飛ばしても後にポイントは触れるので問題はないと思う。

 

【該当部分 文字起こし】(★は筆者追記、特に読んでほしい部分)

09:30~
深井氏
「…… 一方で差別と排除のロジックというものは強固に加速していってるんですよ。これはロジックなんですよね。またこれが実態社会でどれぐらい機能しているかっていうのは別なんだけど、結構連動してるかなとは思うんですけど、各宗教でこれこれこういう理由で障害ってこうだよねっていうみたいな話をし始めるわけです。それがどうなっているのかっていうこと」

 

樋口氏
「理由ね」

 

深井氏
「理由ですね。一方でやっぱり宗教のいいところとしては救済をしようともする。弱者に。障害者に関わらずですけど、弱者を救済しようとする。弱者の救済のロジックっていうのも出てくるので、その2つの側面を紹介していきたいなと思います

 

樋口氏
「なるほど。作り出しもするし救済もするっつうことか」

 

深井氏
「そうですね」

 

楊氏
「ダブルのロジックが働いているのが実は宗教の特徴としてあるかなぁと思いますね」

 

深井氏
「宗教の話するとき、毎回、前回もこれいいましたけど、宗教って一筋縄に本当は語れるものじゃないので、それぞれの信者の方がこの話を聞いたら『いやぁ、そうじゃねぇし』って思う人いるかもしれないんですけど、その全部を包括して完全に語るっていうのはちょっとできないなって思ってまして、★いわゆる典型的な例として出していきたいと思います

 

楊氏
「ということで、宗教について話していきたいというふうに思うんですけど~(割愛)」
キリスト教における障害者に関する記述はあります。目の見えない人、身体障害者精神障害者、思い皮膚病におかされた人たちが実は登場してくるんですよね。まずキリスト教での障害者に対して配慮したり救済するロジックですよね。これがどういうふうに出てきたのかというと、例えばですね、レビ記っていう書物に書いてあるんですが、『耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前で障害物を置いてはならない』というふうに書いてあるんですよね。これも、この裏でどういった考えがあるというと、★なんか『隣人』という考え方があるんですよね。なんか神と人との関係の規範と日常生活における隣人に対する倫理っていうのが働いてて、これは何かっていうと、ともに生きる、★互いに愛し合うというひとつの考え方なんですよ。だからそこに障害者も入ってきたっていう話ですよね。★障害者や社会的弱者を隣人としてともに生きていくという視点が重要視されてたという話ですよね」

 

樋口氏
「うんうん」

 

楊氏
「あとはイエスですよね、イエスによって障害や病を抱えた人を癒やしていくっていう物語って結構多く記載されているんですよね」

 

深井氏
新約聖書にね」

 

楊氏
「そうだよね。で、これはその、どういった解釈があるかって、いろいろ読んだんですけど、ひとつ紹介すると、障害があるがなかろうが、貧しかろうが豊かであろうが、神への服従を要求されている人間として同じであることを強調してるんですよね。まずそのイエスをちゃんと信じなさいと。それによって罪がすべてつぐなわれるという考えですね。そこに障害は別に関係ないと。★それまでキリスト教の中でも障害は罰であるっていうふうに旧約聖書とかの中でもそういうふうに読める記述とかがあったんですけど、イエスの登場によってそういうものがなくされていくと。そういうのは関係ないよと。★とりあえずイエスを信じればみんなは救われるっていうことを強調してますね」

 

樋口氏
「なるほど」

 

楊氏
「あとは、キリスト教で結構特徴的な挙動として出てくるのは障害者に対する救済っていうのが起きてくるんですよ。キリスト教が浸透するにつれて、★人間は現世における善い行い次第で死後最後の審判の際に天国か地獄がいずれか行くか判定されるっていう考え方が広まっていくんですよ。★その善い行いのひとつとして障害者の救済があったんですね。障害者に対する救済措置がとられていくというのが出てきます。ルカの福音書という書物がですね、これは新約聖書のひとつなんですけれども、★『宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、まぁ障害者ですよね、足なえ、盲人、目の見えない人ですよね、を招くが良い』というふうに書かれています。『そうすれば、正しい人々の復活の際にはあなたは報いられるであろう』といふうにあるんですよね。だからこれは何かっていうとですね、★社会問題を解決を目指してるわけじゃないんです。ソーシャルビジネスじゃない。ソーシャルな目的じゃなくて、★あくまで自分たちが救われるために障害者を救うっていうロジックですよね。★だから信者たちはですね、死後の救いを確保するために、障害者、あるいは貧者、貧しい者への施しと、教会に対して寄進をしたりとかするんですよ

 

楊氏
「で、一方ではですね。★差別と排除のロジックもキリスト教の中では用意されていますね。汚れた者として重い皮膚病が捉えられてたりとかしてますね。だから、汚れていると捉えているし、不浄であるので健常者の共同体から隔離されてたっていうふうに記述としては残ってます。あとは★身体に障害がある人たちは祭壇での奉仕は許されないんですよね。祭壇に近づいてはいけないと。これは何かっていうと、これは要するに宗教ってとても神聖性を重視するじゃないですか。★この神聖性を守るために聖なる領域が強調される必要があったんです。だから汚れた人たちを排除していくっていうふうなロジックが成り立つんですね。これはまぁイメージしやすいでしょうね」
「あとはこういった障害者を排除して差別していくっていうロジックの裏にはですね、当時の宗教の背景があってですね、会社でいうとスタートアップっていう感じですよね。スタートアップの時期にちゃんとチームビルディングをしっかりとしてチーム一丸となってやらないといけないっていうフェーズがあるじゃないですか。宗教にしてもそうで、ちゃんと宗教規範をすごく強化するっていうフェーズがあったんですよ。他にもいろんな宗教があるんですよね。★いろんな宗教のなかで自分たちキリスト教一神教を貫くためにちゃんとこう、なんていうかですね、他の宗教に染まらないようにしないといけないんですよ、自分たちのメンバーが。そのひとつの手段、脅しの手段として障害が罰として語られてた側面があるわけですよね。他の宗教にいくとお前こういう障害の罰を受けちゃうんだぞというふうな語り方をされる」

 

樋口氏
「そうねぇ」

 

楊氏
「これはもう宗教的なニーズによって生まれたひとつのロジックですね」

 

樋口氏
「アメとムチのムチ側というか」

 

楊氏
「そうですそうです。はい。というのがキリスト教ですね」

 

樋口氏
「なんかあれですね。なんか、ちゃんと書かれてた、旧約聖書に目の見えない人に物を置くな、目の前にというのがあって、逆に言うとそういう人がいたっていうことかなと思ったんですよね」

 

楊氏
「認識はされてたと思いますよ」

 

樋口氏
「ということですよね。だからなんか、宗教が障害を決めたっていう捉え方もできるけど、そもそもあったものをフォローするために明文化したっていう捉え方もできて、なんか鶏と卵じゃないですけど、どっちが先なのかわからないなっていう印象は今受けましたね」

 

楊氏
「そうですね」

 

樋口氏
「というのは思ったので、絶妙やなぁと思いました」

 

楊氏
「このやっぱり両方のロジックがあるっていうのが多分当時の宗教によって必要だったんですよね。自分たちの基盤を獲得するために。救うロジックを用意することによって社会から排除されてきたものを自分のグループに宗教共同体に入れることもできるし、★逆に障害を持つ人を罰として見ることによって、自分たちの神聖性を保ったりとかですね、自分の、メンバーに対してもしっかりとしめるという役割を障害に担わせたっていうことでもあるんですよね」

 

樋口氏
「そうですね。ちょっとコメント長くなりますけど、ソーシャル的な考えっていうよりはあなたが救われるっていうような話もあったですけど、もしかしたら根本的にはソーシャル的な目的をしていたけど、それを実際に行動させるためにあなたにメリットがありますよって言っている可能性もあるし、だから宗教の根本的な目的と、そこに書かれているメリットの提示みたいなものがまた離れている可能性はあるなとちょっと思ったですね。わかんないですけどね」

 

(※イスラム教の話へ~)

 

 この内容について、上に挙げた3つのポイントについて解説する。

 

 

▼1:ユダヤ教キリスト教を混同している

 今回のCOTEN RADIOの間違いのすべての原因はここにある。ユダヤ教キリスト教の違いが分かっていないのだ。言い換えれば、旧約聖書新約聖書をごちゃまぜにして、同じ「キリスト教聖典」という文脈で語ってしまっているのである。

 例えばこの部分。

楊氏
「まずキリスト教での障害者に対して配慮したり救済するロジックですよね。これがどういうふうに出てきたのかというと、例えばですね、レビ記っていう書物に書いてあるんですが、『耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前で障害物を置いてはならない』というふうに書いてあるんですよね。これも、この裏でどういった考えがあるというと、★なんか『隣人』という考え方があるんですよね。なんか神と人との関係の規範と日常生活における隣人に対する倫理っていうのが働いてて、これは何かっていうと、ともに生きる、★互いに愛し合うというひとつの考え方なんですよ。だからそこに障害者も入ってきたっていう話ですよね。★障害者や社会的弱者を隣人としてともに生きていくという視点が重要視されてたという話ですよね」

 

 ヤンヤンこと楊睿之(ようえいし)さんが引用したレビ記」は旧約聖書の書簡だ。いわゆる「モーセ五書」(創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記)の一巻であり、ユダヤ教で「トーラー」(律法)と呼ばれ、最も重要とされる書物のひとつである。楊さんが引用したのは、レビ記の19章14節で、確かにそう書いてある。引用自体は間違っていない。

 しかし、この「律法」がなぜ存在するのかという背景を話す際に、楊さんは「『隣人』という考え方がある」と説明している。この説明が間違っている。ひとつ、「隣人」とは旧約聖書では「同胞」という意味である。同じユダヤ人を指す言葉であり、文字通りの「隣人」ではない。しかし、これは語釈のマニアックな問題であり、キリスト教神学の世界では常識であっても、一般の方にここまで読み込めというのは多少酷であろう。

 問題は次の「互いに愛し合うというひとつの考え方」という部分だ。

 実は、「互いに愛し合う」という概念は、旧約聖書には出てこない。一度たりとも。だからレビ記の記述の背景に「互いに愛し合う」というのがあったという説明は事実と異なる。「互いに愛し合う」という概念を初めて聖書で出したのは、他ならぬイエスである。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネ福音書 13章34節)

 

 聖書の言葉に書いてあるように、これは「新しい戒め」だったのだ。イエスによるユダヤ教の革命だったのだ。だからインパクトがあったのだ。それまでユダヤ人は「隣人」、つまり「同胞」しか愛さなくてよかった。神に従わない「罪人」や、外国人(異邦人)は無碍に扱ってよかったのだ。しかし、イエスが「互いに」という考え方を導入し、すべてが変わった。これはユダヤ教にとって大革命であり、のちに「キリスト教」が生まれるポイントになった。

 

 また、さらに重要な点を指摘したいが、レビ記の記述を「キリスト教の規範」として紹介するのは大きな間違いである。旧約聖書の律法は「イスラエルの民/ユダヤ人」に与えられた規範であり、キリスト教徒が守るべき教えではない。エスはこの旧約聖書の律法を「更新」し、新しい規範を導入した。その結果、ユダヤ人ではない外国人も神の子となる権利が与えられ、律法を守る行いではなく、ただイエスを信じるだけで救われるようになったのだ。

 つまり、キリスト教徒が旧約聖書の律法を守る必要はないのだ。旧約の律法を守る義務があるのか、ないのか。これがユダヤ教キリスト教を分ける決定的な違いである。旧約と新約の違いの理解がないため、旧約聖書の律法を「キリスト教徒が守るべき教え」として紹介してしまっている。これは本当にまずい。

 キリスト教旧約聖書も信じている。しかし、そこに書かれている「律法」を守る必要はないと考えている。律法を守る「行い」によってではなく、神の「恵み」とイエスを救い主と信じる「信仰」によってのみ救われるからだ。これがカトリックプロテスタントに関わらず、キリスト教徒が「典型的な例」として信じていることだ。私の個人的な見解ではなく、ユニバーサルに「キリスト教」が信じていることだ。

 旧約と新約の違いを理解していないゆえに、楊さんのプレゼンの全体にわたり誤解のオンパレードになってしまっている。ハッキリ言って、旧約と新約の違いは、キリスト教を理解する上での基本中の基本である。正直、そこは抑えておいて欲しかった。

 

 そして、もう一つ重大なミスが、以下の発言に含まれている。

楊氏
「で、一方ではですね。★差別と排除のロジックもキリスト教の中では用意されていますね。汚れた者として重い皮膚病が捉えられてたりとかしてますね。だから、汚れていると捉えているし、不浄であるので健常者の共同体から隔離されてたっていうふうに記述としては残ってます。あとは★身体に障害がある人たちは祭壇での奉仕は許されないんですよね。祭壇に近づいてはいけないと。これは何かっていうと、これは要するに宗教ってとても神聖性を重視するじゃないですか。★この神聖性を守るために聖なる領域が強調される必要があったんです。だから汚れた人たちを排除していくっていうふうなロジックが成り立つんですね。これはまぁイメージしやすいでしょうね」

 

 キリスト教「差別と排除のロジックも用意されている」と聞いて、耳を疑った。まったくの勘違いだ。楊さんが引用した考え方はすべて旧約聖書、つまり「ユダヤ教」のものだ。イエスは「重い皮膚病」(ツァラアト)を汚れではないとした。重い皮膚病の人を共同体から隔離していたのは旧約聖書時代のユダヤ教であり、キリスト教ではない。エスがそれを打破したのだ。それまで社会的に差別されていた障害者や宗教的弱者を解放し、救いの道を示したのがイエスであり、そしてキリスト教である。

 祭壇での奉仕が許されていないというのも、おそらくレビ記21章の「祭司の資格」や、ダビデ王の時代の祭司制度を念頭に話しているのだろうが、これらも旧約聖書時代のユダヤ教のしきたりに関する話であり、キリスト教とはまったく関係ない。キリスト教では、障害者も司祭や牧者になれるし、実際にその例もある。これはカトリックでもプロテスタントでも変わらない「典型的な例」だ。使徒パウロも、障害があった(盲目、または弱視であった)可能性が指摘されている。

 それなのに、キリスト教は神聖性を保つために、障害者を祭壇の奉仕から排除した」と説明するのは、まったく事実と異なる。風評被害もいいところだ。これについては、黙っているわけにはいかない。旧約聖書の記述をそのまま「キリスト教では~」と説明に使うのは、まったくもって間違っている。

 

 付言するが、楊さんは「初期キリスト教は、宗教の基盤を確立するために、違う神を拝んだら障害者になると脅した」という旨の説明をしているが、これも完全な間違いである。

 先祖の間違った行いが障害として表れるという考え方は、確かに旧約聖書に存在するが、それ自体、旧約聖書で否定されている(例:エゼキエル書18章20節)。また、罪を犯した人に罰がくだるという考え方も、旧約聖書ヨブ記を読めば否定できるのは明らかだ。旧約聖書だけでも、因果応報は否定できる。ましてや、新約聖書以降の時代のキリスト教においては、因果応報は明確に、完全にクリアに否定されている。歴史的にみても、神学的にみても、宗教的にみても、楊さんの「宗教を確立するために障害者を利用した」という説明はまったく事実と異なる。謝罪が必要なレベルの、偏見に満ちた説明と言わざるを得ない。

 

 まとめると、楊さんの説明は次の理由から問題がある。

A:レビ記の記述はユダヤ教」の規範であり、キリスト教の規範ではない

B:レビ記の記述の背景説明に、ずっと後の時代にイエスが導入した「互いに愛し合う」という概念を用いて説明してしまっている。時代が合わないし「隣人」の概念も正確でなく、適切な説明とはいえない

C:障害者を排除するロジックとして紹介された例は、すべて旧約聖書ユダヤ教の規範や文化であり、キリスト教のものとして説明するのは適切ではない

D:「神聖性を保つために障害者を排除した」との説明は、旧約聖書の記述でも否定されている一部の考えの切り出しであり、適切ではない

 

 長くなるのでもう挙げないが、ほかにも旧約と新約の違いを理解せずに混同している例が多くあった。楊さんのプレゼンの一番の問題点はそこにある。ユダヤ教の、しかもイエスより前の古代の時代の概念、かつイエスがくつがえした概念を「キリスト教の考え方」として紹介するのは、どう考えても間違いである。

 

 

▼2:「救い」に関する理解が、キリスト教の観点から完全に間違っている

 今回のエピソードを聞いて、僭越ながら申し上げると「おっ、COTEN RADIO、やるじゃん」と思った。聖書を引用しはじめたからだ。これまでは、聖書を直接引用することはほとんどなく、一般書の記述のみでキリスト教を語っていた印象だった。その結果、上に挙げたような間違いや誤解を招く表現が多かった。しかし、今回、レビ記やルカの福音書を引用しているのを聞き、「ようやく聖書そのものにあたってくれたのか」と、嬉しく思った。

 しかし、あと一歩のところで、大きな間違いがあった。以下のルカの福音書の引用部分だ。

楊氏
「あとは、★キリスト教で結構特徴的な挙動として出てくるのは障害者に対する救済っていうのが起きてくるんですよ。キリスト教が浸透するにつれて、★人間は現世における善い行い次第で死後最後の審判の際に天国か地獄がいずれか行くか判定されるっていう考え方が広まっていくんですよ。★その善い行いのひとつとして障害者の救済があったんですね。障害者に対する救済措置がとられていくというのが出てきます。ルカの福音書という書物がですね、これは新約聖書のひとつなんですけれども、★『宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、まぁ障害者ですよね、足なえ、盲人、目の見えない人ですよね、を招くが良い』というふうに書かれています。『そうすれば、正しい人々の復活の際にはあなたは報いられるであろう』といふうにあるんですよね。だからこれは何かっていうとですね、★社会問題を解決を目指してるわけじゃないんです。ソーシャルビジネスじゃない。ソーシャルな目的じゃなくて、★あくまで自分たちが救われるために障害者を救うっていうロジックですよね。★だから信者たちはですね、死後の救いを確保するために、障害者、あるいは貧者、貧しい者への施しと、教会に対して寄進をしたりとかするんですよ

 

 楊さんの説明を簡単にまとめると、

キリスト教に障害者の救済の概念が出てきた

・人間は現世における善い行い次第で死後、天国か地獄か判定される

だから、障害者を救済する

・ルカの福音書にも、「宴会に障害者を招けば報いがある」と書いてある

・だからキリスト教信者は「社会を良くするため」ではなく「自分が救われるため」に障害者を助ける

 

 こういう説明である。この理解は、キリスト教の教義として明らかに間違っている。楊さんは、キリスト教の「救い」の概念についてまったく理解できていないで語っている。キリスト教における救いの「典型的な例」は、以下の聖書の言葉に凝縮されている。

4: しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5: 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(中略)
8: この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9: 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
新約聖書 エペソ人への手紙 2章4-9節)

 

 カトリックであれ、プロテスタントであれ、正教であれ、キリスト教の「典型的な信仰の例」の根幹は「行いではなく、神の恵みと信仰による」という部分である。これを否定するキリスト教はないし、肯定しなければキリスト教ではないと言っていいぐらいの基本中の基本の教義だ。

 つまり、楊さんの「人間は現世における善い行い次第で死後最後の審判の際に天国か地獄がいずれか行くか判定される」「その善い行いのひとつとして障害者の救済があった」とする説明は、完全に、完璧に、弁明の余地なく間違っている。行いによる救いを求めるのはキリスト教の考えではない。これは最も重要な教義のひとつであり、解釈違いとか、説明不足とかいうレベルの問題ではない。教義を180度くつがえすレベルの間違いだ。

 キリスト教が弱者救済のため努力するのは、ひとえに弱者によりそったイエスの姿に心打たれているからであり、罪ある者が赦されたということに感動し、その神の愛の大きさに心打たれているからである。自分が神の愛と恵みを受けたのだから、他の人も助けたいという心である。それを「ソーシャルな目的じゃなくて、あくまで自分たちが救われるために障害者を救うっていうロジック」と説明されると、怒りに手が震える。バカにするなと言いたい。

 エスの活動は、むしろ「ソーシャルワーク」として評価されている面も多く、実際にカトリックプロテスタントの一部では、自己の救済が目的ではなく、重要な信仰体現の活動の一環として社会活動をしている人々や団体も多い。楊さんの説明は、そういった活動をしている世界のすべてのキリスト教信者をバカにするものであり、とうてい容認できるものではない。軽々しく間違ったことを世に広めないでほしい。

 

 今回のCOTEN RADIOのエピソードは、終始、「キリスト教は自己救済とご利益のために障害者を利用している」という観点で語っている。自分が救われるために、障害者を利用して、救済しようとした。このような説明がなされている。これは明らかに宗教やキリスト教を敵視した、偏見に基づく理解であり、聖書の記述やキリスト教の「典型的な例」としても完全に間違っている。キリスト教は「行い」による救済ではなく、神の「恵み」と、イエスを信じる「信仰」を説いている宗教だ。これはキリスト教の基本中の基本中の基本であり、出発点から間違ってしまっている。

 大体、楊さん自身がこう言っているではないか。

楊氏
「★それまでキリスト教の中でも障害は罰であるっていうふうに旧約聖書とかの中でもそういうふうに読める記述とかがあったんですけど、イエスの登場によってそういうものがなくされていくと。そういうのは関係ないよと。★とりあえずイエスを信じればみんなは救われるっていうことを強調してますね

 

 このように、エスへの信仰こそが救いの道だという理解を一旦は示しているのに、その数分後に真逆のことを言ってしまっているのである。どうしちゃったの? 自分で言ったこと忘れちゃったの? と、思わずツッコんでしまった。キリスト教の「救い」について、もう少し勉強してくださいというレベルでさえなく、真逆のことを言ってしまっているので、さすがにこれは一キリスト教徒として黙っているわけにはいかなかった。

 

 

▼3:聖書の文脈を完全に無視して引用しており、結果として間違った結論に導いている

 また、ルカの福音書の引用もひどい。文脈を完全に無視している。楊さんが引用した聖書の箇所は以下と思われる。

<楊さんの聖書引用>
「『宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、まぁ障害者ですよね、足なえ、盲人、目の見えない人ですよね、を招くが良い』そうすれば、正しい人々の復活の際にはあなたは報いられるであろう』といふうにあるんですよね」

 

<楊さんが引用したと思われる実際の聖書の記述>
12: イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。
13: 食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。
14: その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです」
新約聖書 ルカの福音書 14章 12-14節)

 

 これも、引用した内容は間違っていない。部分的に見れば、楊さんの説明も正しいように思える。しかし、前後の文脈を見ると趣旨が間違っていることに気がつく。

 ルカの福音書14章7節~24節は、主に3つのエピソードを描いている。いずれも、「宴会」をモチーフとしたエピソードである。福音書は詳細な時系列ではなく、テーマ別に構成されることが多いので、おそらくルカの福音書の筆者はこの「宴会」をテーマに3つのエピソードを並べたのだろう。では、3つのエピソードの趣旨を見てみよう。

<ルカの福音書 14章7〜24節で提示される3つのエピソードまとめ>
パート1(7節~11節):宴会で上座を選ぶユダヤ教宗教指導者たちへの批判
パート2(12~14節):宴会に招かれた人に、本当に招くべきは貧しい者であるとの勧め
パート3(15~24節):盛大な宴会に招かれた人々のたとえ話(神の呼びかけに答えないユダヤ人と、答える罪人や外国人どちがら神の国にふさわしいか説く)

 

 このようになる。この3つのエピソードを通じて、イエスやルカの福音書の筆者が伝えたいことは何なのか。パート1で、社会的地位があったユダヤ教宗教指導者パリサイ派の高慢さを批判し、パート2で本来招くべきは地位がある者ではなく、社会的弱者を招くべきであると教え、パート3では地位がある人が選ばれるのではなく、招きに応じる者が宴会に参加できるというたとえ話を通して、当時のユダヤ教選民思想を否定する。

 この流れを見ると、エスはここで「地位が高い者(ユダヤ人、宗教指導者)を神が選ぶわけではなく、むしろ神の呼びかけに応じる社会的弱者(宗教的咎人、障害者、外国人など)が選ばれる」という神の逆説的な真理を説いているのである。

 楊さんの説明だと、エスは「現世利益はないかもしれないけど、来世利益があるから、障害者に優しくしよう」と言ったということになる。しかし、それは全体の文脈を見ると正しくない。これは全体的に「神の国」に選ばれる者について話しているのであり、復活後(来世)でご利益があるというのがポイントではない。むしろ、樋口さんのリアクションの方が流れを正しく掴んでいる。

樋口氏
「ということですよね。だからなんか、宗教が障害を決めたっていう捉え方もできるけど、そもそもあったものをフォローするために明文化したっていう捉え方もできて、なんか鶏と卵じゃないですけど、どっちが先なのかわからないなっていう印象は今受けましたね」
「そうですね。ちょっとコメント長くなりますけど、ソーシャル的な考えっていうよりはあなたが救われるっていうような話もあったですけど、もしかしたら根本的にはソーシャル的な目的をしていたけど、それを実際に行動させるためにあなたにメリットがありますよって言っている可能性もあるし、だから宗教の根本的な目的と、そこに書かれているメリットの提示みたいなものがまた離れている可能性はあるなとちょっと思ったですね。わかんないですけどね」

 

 樋口さんの「根本的にはソーシャル的な目的をしていたけど、それを実際に行動させるためにあなたにメリットがありますよ」という説明が、この「パート2」を理解するうえでは、より適切である。

 このポイント3は、ポイント1(旧約、新約を混同)、ポイント2(救いの概念の間違い)に比べると、ややテクニカルだが、エスが「個人の来世利益のために、社会的弱者を宴会に招け」と教えたとするのは、やはり文脈を無視した無理解と言わざるを得ない。エスは「神が選ぶのは、強い者ではなく、弱い者なのだ」ということをたびたび言っており(例:マタイの福音書9章12節など)、その多くは宗教的(=社会的)強者と宗教的(=社会的)弱者の対比で言及しているのである。それを「個人のご利益のために」と説明するのは、いささか言いすぎと言わざるを得ない。

 

 

▼まとめ:宗教を語る時にこそ「メタ認知」が必要なのでは?

 以上、まとめると、今回のCOTEN RADIO「みんなちがってみんないい! 宗教ロジックが障害者にもたらす多種多様な専門職【COTEN RADIO #298 】」には、キリスト教の観点から教義を180度ひっくり返すような重大な間違いが多く含まれていた。

 ひとつ。ユダヤ教の規範である旧約聖書の記述を、あたかもキリスト教の教義のように説明していた点。キリスト教では、旧約聖書の律法を守る必要はない。この基本的な理解が欠けている。

 ふたつ。「救い」の概念を理解していない点。キリスト教はあくまでも個人の救いのために弱者救済をしていたのであり、社会的な目的ではない」との説明は間違っている。キリスト教において「救い」は神の「恵み」とイエスへの「信仰」によるものであり、「行い」によるものではない。個人の救いのためという説明は間違いである。また、イエスは社会的弱者を救済する活動をしたと評価されており、多くのキリスト教徒が彼の姿にならい、社会活動を行っている。

 みっつ。聖書の引用の際に文脈を無視している点。一部分を抜き出すのではなく、前後の文脈を理解することが必要である。イエスの発言をよく読めば、ルカの福音書14章の記述は「個人の来世利益のために弱者を宴会に招くべき」という意味ではないことは、簡単にわかる。

 

 私が今回のCOTEN RADIOを聞いて感じたのは、彼らの宗教への嫌悪感である。宗教は人を縛るものである。宗教は、昔の時代に社会的ニーズがあったから生まれただけの、今の時代から見れば古くて、悪いものである。宗教は多くの人への差別を生み、不幸にしてきたものである。このような「前提」を、彼らの言葉やアプローチから感じる。

 そして、その「前提」こそが、ポストモダニズム以降の時代に生きる私たちの思考のベースになっているのではないか。宗教を否定的に捉え「昔は社会的に宗教にニーズがあって、しょうがなかったけど、今人類は理性を得たから、宗教から脱却できるよね」と考える。そして、それが「進んでいる」と捉える。そんな思考がないだろうか。「歴史思考」とか「メタ認知」と言いながら、自分たちもこの歴史の渦の中で、宗教を偏った目で見て、理解していないだろうか。しかも、無意識に。

 ちょっと国を変えて、イスラム圏などに行けば、宗教や信仰があるのは当たり前。神がいるのも当たり前。宗教や神は人を不幸にするものではなく、幸せにするものである。宗教が不幸を生んだというロジックは、一部の国と時代の偏った考え方にすぎないのに、あたかもそれが普遍的で中立で理性的な視点かのように語っている。違和感を覚える。

 もちろん、パーソナリティの方々は「中立に」とか「宗教を否定したいわけじゃなくて事実を話してる」とか「本に書いてあることを話してる」と説明する。そう思っているのだから、当たり前だと思う。しかし、その読んでいる本の著者の意図はどうだろうか? 歴史の流れの中で、ポストモダニズム以降の「先進国的」考え方に影響された人の著作ではないのか? それを鵜呑みにしていないか? キリスト教の理解として間違っていないのか、確認したのか?「宗教なんだから、障害者を利用したに決まっている」と決めつけていたのではないのか?

 

 宗教は人を縛るもの。この考え方も、時代の影響下で生み出された考え方にすぎない。

 

 自分たちが宗教をどう見ているか。そのメタ認知が、まず必要なのではないか。そう提言して、終わりたい。これからのCOTEN RADIOのコンテンツを、楽しみにしている。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

「オンライン礼拝の “是非” 」を議論するイベントに参加してみた

コロナ禍以降急速に増える「オンライン礼拝会」について、現役牧師はどう捉えているのでしょうか? 聖書はどう言っているのでしょうか?

 

 

▼「オンライン礼拝」をめぐる神学バトル!

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 世界中がコロナウイルス関連の激変の渦に巻き込まれてから1年半。面白いイベントを見つけた。「オンライン礼拝」についての「神学バトル」だという。「JCFN」という団体が企画する「C-link」(クリンク)というイベントだ。

 「神学バトル!」と銘打って、現役の牧師2人が、オンライン礼拝会について「あり? なし?」と議論する。あえて賛否の立場を主催者側がパネラーに指定し、前半と後半でその立場を入れ替えて議論するという。面白そうじゃないか。コロナ禍になって1年半も経つのに、いまだに「是非を議論」というのは、いささか時代遅れのような気もするが、何もしないより議論した方がいい。興味深いイベントだ。

 私は「クラウドチャーチ」という「完全オンラインのプロテスタント教会の牧仕(牧師ではなく牧仕)を務めている。クラウドチャーチは完全オンラインでやっているので、オンライン礼拝会を否定されたらクラウドチャーチの存在そのものにケンカを売られているようなものである。参加しないわけにはいかない。

 (↓↓↓クラウドチャーチの詳細はこちら↓↓↓)

www.cloudchurch-japan.com

 イベントに参加してみた結果、面白かった。特に「オンライン礼拝会」についての問題点や課題が洗い出された点は評価したい。また、多くの質問が飛び交う中で、司会者がうまく論点を整理し進行していた点には拍手を送りたい。

 一方で、両氏の主張は、やや根拠が薄いと感じた。それぞれの立場を説明してはいるが、それが「なぜ」そのような考え方に帰結するのか、根拠立てが弱かった。聖書の言葉による裏付けも少なかった。

 また、「神学バトル」と銘打っていた割には、両氏の立場を説明して終わってしまい、ディベートというよりはむしろ「意見発表会」になっていた点は残念だった。もう少し、お互いの理論の弱点を指摘し合う、再質問が飛び交う、本物のディベートが見たかったなという印象だ。

 そもそも論として、単なる集まる集会でしかない「礼拝会」(礼拝集会・礼拝式。「礼拝会」についての記事はこちら)を、「礼拝」と銘打ち、イベント本番でも「オンライン礼拝」と表記・言及していた点はとても残念である。

 イベント自体は、論点が整理され、考えるキッカケとなる面白いものだった。そこで今回は、どのような議論が交わされたのかをはじめ、両氏の論点を整理し、どのような「ツッコミポイント」があるかを書こうと思う。その上で、「オンライン礼拝会」はアリなのか? という結論ミエミエの問いに対して、あえて私なりの意見も短く書く。

 この記事はあくまで私がイベントに参加した「感想」であり、運営者、司会者、パネラーの両氏に対する攻撃的な意図は全くないことを理解した上でお読みいただきたい。

 

▼両氏の意見まとめ

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 まず、パネラーの大坂太郎氏、鎌野直人氏双方の意見を簡単にまとめる。大坂氏も鎌野氏も現役の牧師であり、神学校(聖書や神学などを学ぶ学校)の教師(鎌野氏は校長)である(両氏のプロフィールはこちら)。

 重要な点だが、このイベントで「礼拝」と言っているものは、本質的な「礼拝」についてではない。教会堂や家庭など、一定の場所に物理的に集まる「集会」を指している。私は、クラウドチャーチでは一貫して「プレミアム集会」とか「オープン集会」とか「集会」と銘打っているし、意図して「礼拝」という語を使うなら「礼拝会」と言っている。この記事でも一貫して「礼拝会」と書くが、イベントでは「礼拝」との表記および言及がなされていた。その点は大変残念である。ただ、イベント冒頭に司会者から「今回『礼拝』と言う際は集会を意味する狭義の『礼拝』だ」と一応の説明はあった。全体として不満ではあるものの、その点は評価したい。

 そして、これもかなり重要な点だが、このイベントの立て付けは、主催者側が両氏に賛否の立場を指定し「もし仮にその立場だったら、どのような論理で賛成または反対するのか」というプレゼンを行うというものである。従って、以下にまとめる「両氏の論点」は、必ずしも大坂氏、鎌野氏個人の意見を100%反映してものではないと強調しておきたい。両氏には両氏なりの考えがあるだろうが、それは今回のイベントの趣旨ではない。あくまでも「賛成または反対の立場だったら、どのような論点を挙げるか」という視点で議論を行うというのが、今回の趣旨だ。だから、この後私が述べる「ツッコミ」は、彼らの「論点」へのツッコミであって、彼らを個人的に攻撃する意図は全くない。その点は明確にしておきたいと思う。

 また、読者の皆様も以下の論点を読みながら様々ツッコミを入れたくなるだろうが、それは後で書くので、まずは論点のまとめを読んでいただきたい。また「オンライン礼拝会」を議論するにあたり、大きな論点となる「聖礼典」サクラメント。主にバプテスマ聖餐式を指す)については議論が大きくなるのを避けるために、今回は深い言及を避けるよう運営側から指示があった。「聖礼典」については7月17日開催の次回イベントで大きな論点になると予想される。

●大坂氏の論点まとめ(オンライン礼拝会に「賛成」の立場の場合)

1:歴史的に教会の共同体は「テクノロジー」を用いてきたのだから、オンラインという技術も用いるべきだ

使徒パウロが宣教に用いた大船、グーテンベルク活版印刷、現代の教会が用いる音響や映像の手法などが挙げられる

 

2:礼拝会の形式は、時代や状況に応じて変化している。だからオンラインもその変化の一つであって、受け入れるべき

ユダヤ教においては、旧来いけにえをささげる行為が「礼拝」であったが、神殿が崩壊し、物理的にいけにえをささげることが困難になったため、会堂での集会や、旧約聖書の律法を遵守することが「礼拝」へと変化していった

・祭儀を重要視するカトリックでさえも、コロナ禍においてオンライン技術を許容する発言をしており、変化を受け入れている

 

3:オンライン礼拝会は宣教の場になる

・そもそも「会堂」に集まるという行為自体が、旧来の神殿での祭儀と比較すれば新しいものであった

・特に地方の教会にありがちな、牧師が不在だったり、別の教会と兼任だったりする教会にとっては助かるツールになる

・物理的に教会の集まりに参加するよりハードルが下がるし、対面には抵抗がある人もオンラインでは参加しやすい場合がある

 

●鎌野氏の論点まとめ(オンライン礼拝会に「反対」の立場の場合)

1:教会は、歴史的にパンデミックの中でも集まりをやめていない

・ペストやスペイン風邪でも信者は集っていたのだから、コロナ禍でも物理的に集まるのをやめてはいけない

 

2:信教の自由を確保する必要がある

・信教の自由を確保する必要があるので、政府の言いなりになり、集まりを自粛してはいけない

 

3:神学的な観点からも物理的に集まる必要性がある

・礼拝会は「恵みの手段」であるので、物理的に集まる必要がある

・礼拝会で「聖書の言葉」を聞き、「聖礼典」を行うために物理的に集まる必要性がある

 

4:人間は「身体的存在」であるので、物理的に集まる必要性がある

・礼拝会と「所作」は切り分けられないものであるから、物理的に集まる必要性がある

 

5:オンライン礼拝会を許容すると「礼拝会の商品化」につながる

・信者が好みの教会の礼拝会を選り好みする、「礼拝会の商品化」が起こり、それは好ましくない。

 

●鎌野氏の論点まとめ(オンライン礼拝会に「賛成」の立場の場合)

1:テクノロジーは積極的に使用すべき

・基本的に大坂氏の意見と同じで、教会は歴史的にテクノロジーを使ってきたので、現代においても教会はテクノロジーを用いるべき

 

2:礼拝会は継続すべきものだから、オンラインでも継続することが大事

・歴史的に教会は礼拝会を継続してきたので、パンデミックの中であっても礼拝会は何かしらの形で継続すべき

 

3:より多くの人が礼拝会に参加できる工夫が必要

・歩けない人など、オンラインでこそ出席が可能になる人がいる

 

4:毎日が「礼拝」であるので、「礼拝会」はその一部にすぎない

・オンラインであろうとなかろうと、本質は「礼拝」は日々の歩みなので、固定した場所や時間の「礼拝会」は本来聖書が言っているものではない。だから「礼拝会」はオンラインでも問題ない

 

5:対面だからといって「本当の姿」とは限らない

・物理的に対面で会っているからといって、相手が「本当の姿」とは限らない。オンラインだからこそさらけだせる「本音」もあるはず

 

●大坂氏の論点(オンライン礼拝会に「反対」の立場の場合)

1:歴史的な理由

・おおむね鎌野氏と同じ

・コロナ禍でも、ユダヤ教徒イスラム、保守的キリスト教会は集まることをやめてはいない

 

2:政治的な理由

・国によって集会が禁止されることに対しては戦わないといけない。国が自粛を要請しているからといって思考停止してはいけない

・「沈黙の同意」をして国に恭順してはいけない

 

3:神学的な理由

・鎌野氏の意見と同じ。「身体性」が大事なので物理的に集まるべき。オンラインでは「身体性」は確保できない


 以上が、両氏の意見を簡単にまとめたものである。次項で、各氏の論点の評価できる点とツッコミポイントを挙げたい。

 

▼論点を3つのポイントに整理する

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 両氏の「意見発表」は、オンライン礼拝会をめぐる論点が整理された点では良かった。大きく上げれば、論点は以下のようになろう。

A:歴史的な観点

・テクノロジーの導入の是非

・継続性の捉え方

・権力との関わりの捉え方

 

B:神学的な観点

・礼拝の捉え方

・「身体性」の捉え方

 

C:実践的な観点

・リーチできる人の範囲

・交流の深度の問題

 おおむね、このように分類できるだろう。この論点が整理されたのはよかった。

 しかし、両氏の主張は根拠が弱かった。以下、両氏の論点に対して私が思うツッコミポイントである。上にまとめた3点に整理して語ろう。繰り返すが、このイベントは「もし賛成/反対の立場ならどういう論理を立てるか」という立て付けであり、両氏の本音を反映したものではないと改めて強調したい。私は彼らを個人的に攻撃するつもりは全くなく、イベントで示された論点の矛盾点や根拠の弱さを指摘したいだけである。

 

▼A:「歴史的な観点」の問題点 〜論理の飛躍〜

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 大坂氏も鎌野氏も、オンライン礼拝会に肯定的な意見であれ、否定的な意見であれ、「歴史の継続性」を根拠に語っている。この際に両氏に欠けているのは、「なぜ歴史を継続しなければいけないか」という視点である。歴史を継続すべきという主張の根拠がないのだ。「歴史的にそうだったから今もそうすべき」というのは、単なる前例踏襲主義の思考停止である。

 歴史から学ぶのは大切だが、真に学ぶのであれば「歴史上の歩みが良い結果をもたらしたかどうか(結果)」「神学的に問題がないかどうか(神学)」「実践的に現代でも合理的かどうか(合理性)」などの視点から再検証すべきであろう。その意味で「歴史的観点」からの両氏の主張は、根拠が弱く、論理が飛躍していたように思える。私は「なぜ歴史を継続する必要があるのか」とコメント欄で質問したが、回答は得られなかった。

 特に鎌野氏の「ペストやスペイン風邪でも信者は集まっていたのだから、コロナ禍でも物理的に集まるべきだ」という主張は、当時は物理的に集まるしか方法がなかったのだから「オンライン礼拝会」について語る上では極めて不適切である。時代的背景がまるで違うのだから、集まりについて議論するなら、まず集まる目的を明確にしなければならない。その上で、オンラインという手法を通して、その目的が達成できるかどうかという視点での議論が必要だ。目的が達成できれば良し、達成できなければダメ。議論はシンプルだ。両氏の主張は、集まりの「目的」についての言及がほとんどなく、その点はかなり残念だった。

 

 「権力との関わり」からオンライン礼拝会を論じるという視点は、私にはあまりしっくりこなかった。3つの理由があるが、1)議論の前提が間違い  2)論理が飛躍している  3)神学的な裏付けが弱い  というのが理由である。

 まず、1)「議論の前提」だが、このディベートは「オンライン礼拝会の是非」がテーマである。権力との関わり云々の主張は、「オンライン礼拝会」が物理的な集会の代替品だという前提に立った意見である。しかし「オンライン礼拝会」は物理的な集会の代替品ではない。このディベートはあくまでも「オンライン礼拝会の是非」という議論なのだから、「オンライン礼拝会は物理的な集会の代替品」という前提で語るのは議論として不適切である。

 また、前提として「政府が集会を禁止している」という視点があるが、これも間違っている。少なくとも日本では罰則を伴う集会の禁止はされておらず、事実として会堂に自由に集えているのが現実だ。現実に則さない前提は、出発点から間違っている。

 また、2)「理論の飛躍」だが、「権力に負けないために物理的に集まるべきだから、オンライン礼拝会はダメだ」と論じるのは、どう考えても論理が飛躍している。物理的集会の制約とオンライン礼拝会の是非というのは2つの異なるテーマなので、切り分けて考えないといけない。仮に複合的に論じるのであれば、2つの点がどのような接点があるのか、どのように論理的につながり、正当性があるのか証明しなければならない。

 3)「神学的な裏付け」、これも弱い。「神学バトル」なのであるから「権力に負けないために」という前提の正当性を、まず神学的に証明しなければならないが、両氏とも証明できていない。また、聖書にはローマ13章など、時の権力者に従うことの重要性を語る部分もあることから、それらの聖書の言葉と「権力に負けない」という姿勢をどう両立させるのかの言及も必要だ。両氏ともこの説明は全くしておらず、私は「ローマ13章とどう両立させるのか」質問をしたが、回答は得られなかった。

 権力云々というのは、ある意味特定の政治的ポジションに立った論点で、「神学バトル」としてはおよそ不適切な論点ではなかったと私は考える。

 

▼B:神学的な観点 〜「身体性」という言葉のナゾ〜

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 神学的な視点からの論点は大きく2つある。「礼拝」の捉え方と、「身体性」の捉え方である。

 「礼拝」に関しては、このディベートの中で「礼拝とは何か」の定義づけがあまり深くなされなかったのがとても残念だった。「オンライン礼拝会の是非」を語っているわけなのだから、「礼拝」とは何か、「礼拝会」とは何かをまず論じ、定義づけなければその是非は論じられない。その意味で、このイベントの立て付け自体が少し脇が甘かったように感じる。

 鎌野氏はその問題を指摘し、「礼拝」の本質を論じた。「オンライン礼拝会に賛成」の立場の際の「4」がそれに当てはまる。私もこの点に関しては彼の意見に賛成だ。「礼拝」の本質を議論しなければ、適切な解が得られないのは自明だろう。

 両氏ともに重要なポイントとして挙げたのは「身体性」である。この「身体性」という言葉であるが、あまり意味が分からない。おそらく神学的な専門用語であろう。少し横道にそれるが、両氏は議論において専門用語を多用するきらいがあった。専門用語はその世界の人間にとっては議論をスムーズにする効果があるが、同時にその用語の意味や背景、前提を知らない人との断絶を生む副作用があり、この手のイベントのパネラーとしては専門用語をできるだけ排除するか、使用する際にその意味を簡単に説明する必要があったと個人的に思う。また、専門用語は「分かった気、説明した気になる」という大きな難点もある。噛み砕いて説明できなければ、それは分かっていないのと同じである。その意味で、両氏にはより分かりやすい言葉で説明をしてほしかったと、個人的に思う。

 「身体性」という言葉を、私は「人間は物理的な肉体を持った存在である」と解釈した。そう解釈した場合、両氏の意見は「人間は物理的な肉体を持った存在であるから、礼拝会も物理的であるべきだ」というものになる。ハッキリ言ってよく意味が分からなかった。なぜ人間が物理的な存在であると「礼拝会」は物理的である必要があるのか。やはり理論が飛躍していると感じた。

 鎌野氏はこれについて「礼拝会と『所作』は不可分」と説明したが、これも意味が不明瞭だった。「所作」という言葉も専門用語で、私には全く意味が分からなかったが、コメント欄で大坂氏が解説したところによると、「人間の動作であり、礼拝会においてはパンを割く等の行動のこと」ということらしい。ただ、あまり腑に落ちない。オンライン礼拝会でも、別にそれぞれの場所でパンを割く「所作」は可能である。どういう意味で「礼拝会と所作は不可分」と言っているのか意味が分からないし、それがどうして「オンライン礼拝会では所作が不可能」という結論になるのかも分からない。そもそも「人間は物理的な存在」だとしても、それがどうして「礼拝会も物理的であるべき」という結論に至るのか、全くよく分からなかった。

 また、鎌野氏と大坂氏は2人とも「礼拝会の『身体性』はとても大切なので、集まる必要がある。だからオンライン礼拝会はダメだ」という主張を展開していたが、これも謎だ。zoomの画面越しで「集まる」ことは可能であり、そもそもこのイベントもzoom開催である。仮に「zoomは『集まり』ではない」と主張するなら、その根拠を示さなければならない。両氏ともその議論は全くせずに、ただ「『身体性』が大事だから、物理的に集まるべき」との主張をしていた。私は両氏に「zoomが『集まり』といえない根拠は何か」と質問したが、回答はなかった。

 また、コメント欄にて他の参加者から「人数が多い教会では、コロナ禍前から、一部屋に全員が入らないため別室のモニターを見て礼拝会に参加する形式もあった。また、乳幼児がいるため母子室のモニターで礼拝会に参加するケースもあったが、それは身体性を損ねているのか」という的を得た質問も出た。これに対し、両氏は「いや、そんなことはない。別室モニターや母子室での参加は、物理的に集まっていることになる」と回答した。これは両氏の意見と矛盾する回答だ。もし矛盾しないとすれば、なぜオンラインでの集いは身体性を損ね、別室や母子室のモニターは身体性を損ねていないのか、その違いは何かを説明しなければならない。しかし、両氏はその点は言及しなかった。

 私は2人の回答を受け「どの程度離れていたら身体性を確保できるのか。その差は何か」と質問したが、両氏ともに「そういう細かい議論はしない」と、回答を拒否した。私からすれば、その「差」こそが今回の一番の論点であり、重要なポイントだと思うのだが、両氏にとっては違ったようである。

 おそらく「聖礼典」を除けば、この「身体性」というのは一番大きな論点なのだろうが、両氏の議論では何も明確にならなかった。1)人間が物理的な存在であることと、礼拝会を物理的に行うことの関連性  2)「身体性」を損ねるものと、損ねないものの「差」  3)「集まる」の定義と根拠  これらのポイントが両氏の主張に欠如しているため、全くのスカスカの議論になっていて、とどのつまり何も明確になっていないのだ。総じて「根拠が薄い」と感じた。

 

 また、他にも細い点だが、私が気になったツッコミポイントを挙げておこう。鎌野氏は「神が創った日曜日を大切に取り分ける必要がある」と論じた。しかし、神が創った「安息日」は金曜の日没から土曜の日没の「第7日目」であり、鎌野氏の意見は明確な間違いである。この点はコメントで指摘したが、鎌野氏は「土曜安息と日曜安息の話をするとキリがないからここでは論じません」と鼻で笑って質問をかわした。私は神学的にかなり重要なポイントであると感じたが、鎌野氏にとってはそうではなかったようだ。

 また、鎌野氏は「オンライン礼拝会を許容すると、信者が教会を選り好みし『礼拝会の商品化』が起こり、それは好ましくない。だからオンライン礼拝会は許容すべきでない」と論じていた。では、住んでいる地域にある教会の中から選ぶことは「商品化」ではないのだろうか。その場合「どこまでなら『住んでいる地域』」に入るのだろうか。その際に基準となるのは、距離か、往復の所要時間か。それに答えられなければ、「商品化」と主張するのは、やや拙速であると思う。私はコメント欄でこの点も質問したが、回答はなかった。また「商品化」がなぜ問題なのかも語られておらず、全体的に主張がやや薄いと感じた。

 大坂氏の主張で気になったのは「礼拝会には『没入感』が必要だ」という言葉だ。これは、上に挙げた主な論点には含めなかったのだが、イベント最後の「ぶっちゃけトーク」のところで大坂氏が挙げたポイントである。つまり氏の本音である。しかし、「なぜ没入感が大切か」を根拠を持って論じてはいなかったと思う。また、「没入できる環境」には個人差があり、ユニバーサルな「没入感」を生み出すのは不可能ではないかとも思う。神学的になぜ礼拝会に没入感が必要なのか、私も知りたいところである。

 

▼C:実践的な観点 〜現役牧者ゆえの力説〜

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 最後は、実践的な観点である。これは、歴史や神学をふまえて、現実的にどのようなメリットやデメリットがあるか、またどのような効果があるかというものである。両氏の主張には大きく2つのポイントがあり、1)リーチできる人の範囲(宣教的観点)と、2)交流の深度の問題(関わり・交わりの視点)である。

 リーチできる人の範囲の視点だが、この視点はむちゃくちゃ重要である。この視点ではオンライン礼拝会に賛成の意見が圧勝というか、ほぼ議論の余地はないだろう。両氏ともに「より多くの人に届く」という意味ではオンライン礼拝会に軍配を上げており、オンライン礼拝会に反対の立場のターンでも、この視点からの反論はなかった。

 実際、オンライン礼拝会は、住んでいる場所に限らず集まれるというのが最大の利点であるように思う。地方であっても、離島であっても、また国外であっても同じ集いに参加できる。足が不自由などの身体的な理由で物理的に会堂に集まるのが難しい人でも、オンラインなら集まりに参加できる。必要なのはインターネット環境と端末のみ。かなり広い門が開かれていると言えよう。

 一応、その利点に対するカウンターアーギュメント(反論)として「インターネット環境がない人の門が閉じられる」というものもある。両氏はあまりこの点には言及しなかったが、まぁ当然といえば当然で、オンライン礼拝会を行うからといって別に物理的な集まりを否定するわけではないから、インターネット環境がない人は物理的に集まれば良いというだけの話である。

 

 2つ目のポイントとしては、「交流の深度」が挙げられるだろう。これは鎌野氏が「オンライン礼拝会に賛成」の立場で挙げた「5」のポイントが当てはまる。

 オンライン礼拝会への反対意見として「交流ができない」というものがある。ぶっちゃけ言えば、これはオンライン礼拝会を単なる「配信」としか捉えていない誤解から生まれる愚問だ。確かに一方通行の配信であるならば、交流は基本的にはできない。コメント欄でも一部可能ではあるが、人間関係の構築の観点から、その深さが十分かは疑問に残るだろう。これもまたイベントの立て付けの問題点なのだが、「オンライン礼拝会」を語る際に、「配信」なのか、それとも双方向のやり取りが可能な「オンライン上の集まり」なのかによって全く議論が変わってくる。主催者には、「礼拝」と「オンライン礼拝会」の定義をしっかりした上でイベントを開催して欲しかったと思う。

 大坂氏、鎌野氏ともに、この点に関しては言及し、「双方向」の重要性を指摘した。その点は大きく評価したいと思う。特に鎌野氏は、「オンラインでこそ出せる本音がある」という本質を突いた主張を展開した。この点は大いに賛同できるところである。

 総じて、Cの「実践的な観点」については、さすが現役の牧師と言うべきか、両氏とも力のある議論を展開していた。両氏の主張にもおおむね賛同できた。実践的、現実的に考えればオンライン礼拝会を否定するということは、もはやできない。

 ひとつ注文を付けるのであれば、「神学バトル」と銘打っている以上、実践的な視点と神学的な視点を分けて論じた方がよかったのではないかと思う。やはりベースに聖書の言葉や神学があり、その上に実践があるのだから、主張の展開が神学ベースで始まり、そこから実践的なものに展開していく……といった方が、より説得力があったのではないかと思う。

 以上、3つのポイントに分けて両氏の主張に対して、私なりのツッコミを挙げた。総じて両氏の主張は納得できる部分はあったものの、1)根拠が弱い  2)理論が飛躍している  3)反論や質問に対して雄弁ではない  といった弱点があったと思う。

 

ディベートらしいところが見たかった

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 大坂氏の意見も、鎌野氏の意見も論点が整理された意味では良かった。しかし、個人的には物足りなかった。簡単に挙げただけでも、両氏の主張には根拠が弱く、論理が飛躍している点が多々あった。また、質問も多く挙がったが、結局のところ際どい質問に対しては玉虫色の回答が目立った。日曜日についての見解など、質問にそもそも答えない場面もあった。また、母子室のモニター問題のように、質問に対する回答が本来の主張の根幹を揺るがす矛盾も起きていた。しかし、それに対する質問や議論はほとんどなかった。

 何を言いたいのか。とどのつまり、ツッコミどころが多いのに放置されていたのだ。これが、私が面白いと思いながらも、スッキリしなかった理由なのだと思う。もう少し、こうしたツッコミどころに対する「再質問」が、パネラー対パネラーで、または司会者とパネラーの間でなされたら良かったと思う。「再質問」すなわち「カウンターアーギュメント」の不在が、このイベントを歪にしていたのだ。「神学バトル」と銘打って開催したディベートのイベントなのだから、もう少し「再質問とその回答」によるディベートらしいところが見たかった。「再質問がないために、前提や論理に問題がある主張が放置される」、これが違和感の正体だと私は思う。再質問があれば、玉虫色の回答は許されないし、参加者にも違和感が伝わる。その意味で、パネラーも司会者も、少し相手(もう一方のパネラー)に対して甘かったのではないかなと私は思う。

 パネラーは、もう少し質問に対して誠実になった方が良かったと思う。次回は質問に正面から答えていただけることを期待したい。

 イベント主催者には、2つ申し上げたい。1)議論の前に主たるテーマ(今回の場合は「礼拝・礼拝会」「オンライン礼拝会」)を根拠をもって定義すること  2)単なる「意見発表会」に終わらないよう、同じ議題について「再質問」が活発になされる環境作り  この2つをお願いしたい。

 パネラーには、1)質問に誠実に答えること  2)神学から実践へと論理を組み立てること  3)それぞれの意見の論理が飛躍しないよう注意し、根拠を明確に示すこと  を期待したい。

 そして……正直、両氏が挙げたポイントは論点整理の意味では良かったが、その中身は「まあそうだよね、そうなるよね」といった想像の域を出るものではなかった。「神学バトル!」と銘打ち、パネラーの経歴に「神学校教師/校長」などとあるから、さぞ深い議論が展開されるのかと思いきや、正直いうと裏切られた。論点はあまりにベーシックで、根拠は弱く、論理が飛躍しているといった感じで、ぶっちゃけ結構ガッカリしたというのが、まぁ本音である。失礼だからここまで書かなかったけど、やっぱり我慢できなかった。ごめんなさい。もっとワクワクする、私の想像できないような論点がたくさん出てくると思っていたが、期待しすぎてしまったようだ。

 

 

▼「オンライン礼拝会」に対する私の考え

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 最後に、「オンライン礼拝会」を私がどのように考えるかを短くまとめたい。正直、ほとんどの論点が既にブログに書いてあるので、過去記事を参照していただきたいが、短く簡単にまとめる。

 「礼拝」とは何か。礼拝とは神に自身をささげる「生き方」である。毎日が礼拝であり、人生そのものが礼拝なのだ。特定の曜日や場所に集まり、賛美の歌を歌ったり、祈り合ったり、聖書の言葉を読んだり、その解釈を聞いたりする集会は、単なる「礼拝会」であって、本質的な礼拝そのものではない。

 教会の共同体として、物理的かオンラインか手法に関わらず「集まる」のは重要である。この際、「集まり」を「2人以上の人間が人間関係を構築する場」と定義する。1人では「集まり」にはならない。また、数千人、数万人が物理的に同時刻に同じ場所に存在しても、それは聖書の言う「集まり」にはならない。なぜなら「集まり」を議論する際に、まず引用されるヘブル人の手紙10章25節の目的は、「励まし」であるからだ。人間関係がなければ「励まし」も、その前段の「愛と善行を促すために、互いに注意を払おう」ということはできない。イエスの教えである「互いに愛し合う」も実践できない。「互いに」が発生する場、つまり人間関係が生まれる場こそが、教会の共同体の「集まり」であると私は定義する。また「2人以上」というのは、これ以外にマタイの福音書18章のイエスの言葉が根拠となっている。

 この前提のもと「オンライン礼拝会」は「インターネット環境において、人間関係の構築が可能な双方向のやり取りが可能で、2人以上が集まる場」と定義できると思う。だから、私はYouTubeなどでの一方的な録画配信は「オンライン礼拝会」だとは思わない。それは、ただの「動画視聴」だ。コメント欄やチャットでのやり取りはどうか、これはグレーゾーンで、さらなる議論が必要だと思うが、私は「人間関係が構築される」という点で「礼拝会」「集い」に該当すると思う。

 

 では「オンライン礼拝会の是非」はどうかと問われれば、答えはもちろん「是」だ。

 まず神学的な観点だが、以上の「礼拝」「集い」「オンライン礼拝会」の定義をふまえると、その是非は「オンラインでも人間関係は構築できるか否か」という問いの回答次第となる。「オンライン礼拝会」の定義は、「インターネット環境において、人間関係が築ける双方向のやり取りが可能で、2人以上が集まる場」なのだから、オンライン環境で「人間関係の構築ができる双方向のやり取り」が実現可能であれば「是」、実現不可能または可能であっても著しく趣旨を損なうというのであれば「非」となる。答えはもちろん「是」である。これを「非」と言ってしまうと、そもそもオンラインでのディベートイベントが成り立たない。オンラインでも、zoomなど対面で相手の顔も分かり、名前も分かり、お互いに声を交わし、やりとりができる。これを「人間関係の構築」と言わずに、何が人間関係の構築なのだろうか。

 鎌野氏、大坂氏は「身体的」という専門用語を用いて、あたかも物理的に集まらなければ「礼拝会」ではないというように論じた。これはぶっちゃけトークで両氏がそう言っていたので、彼らの本音である。

 では、どんな環境でも、物理的に同じ場所にいれば「身体性を損なわない」のだろうか。例えば、例えば2人の別々の人間が東京ドームに同時刻に存在しているとする。一人は南側に、もうひとりは北側にいたとする。それぞれは反対側の席に座っている人の顔も、名前も知らない。言葉も交わさず、顔も名前も知らず、ただ同じ場所に来て、同じイベントを体験し、家に帰る。果たしてそれで「集まり」「礼拝」と言えるのだろうか。それは「身体性」を損なわないのだろうか。極端な例のように聞こえるが、現にアメリカや韓国などの超大規模な教会、いわゆる「メガチャーチ」では同様のことが起こっている。

 いや、せいぜい出席者が多くても50名から100名ほどの日本の教会の礼拝会でさえ、毎週顔は合わせるが、相手の名前も名字ぐらいしか知らない。どんな人で、どんな性格やキャラで、どんな人生を歩んで、どんなことで悩んで、どんな祈り課題があって……などを全く知らずに、ただ日曜日に同じ教会の礼拝会に出席して、家に帰る。そんな関係性の人が多いのではないだろうか。それは果たして「身体性」を損なっていないのだろうか。

 カギはやはり「物理的に同じ場所にいる」というところではなく、「人間関係を築けるかどうか」だと思う。エスは「神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカの福音書17章21節)と言った。2人でも3人でもイエスの名のもとに集まるところに、イエスはいるのである(マタイの福音書18章20節)。これらの言葉を根拠に、私はやはり「礼拝会のミソは人間関係が築けるか否か」にあると思う。物理的に同じ場所にいることではなく、お互いに関係を築けるかが是非を分けるのだ。

 そう考えると、「オンライン礼拝会」は「アリよりのアリ」だ。むしろ、zoomのブレークアウトセッションなどを使えば、普段全く教会の会堂では話さないような人とも話すことになり、関係性がより広く、深くなる。オンラインで開かれる関係性もある。オンライン礼拝会は神学的にも、多いにメリットがある。

 

 歴史的な観点は、私はあまり興味はないのだが、あえて一言だけ触れたい。大坂氏はこの点で良い指摘をしたと思う。ただし、「歴史的に教会がテクノロジーを使っていたから、今も使うべき」というのはやや拙速な論理かもしれない。テクノロジーは、果たして「礼拝会」にとって良い結果をもたらしたか。オンライン礼拝会の形態は、同じように良い結果をもたらしうるのか。この検証が必要である。

 実際、テクノロジーの発展は、良い結果をもたらしている。パウロは大船を使ったから、より多くの地域に宣教に回ることが出来た。グーテンベルク活版印刷があったから、聖書が一般庶民の手に届くようになった。航海技術が発達したから、日本をはじめとしたイスラエルから遠い地域にも福音が届くようになった。音楽の機材が開発されたから、より多くの人で同時に賛美の歌が歌えるようになった。言語の研究が進んだから、聖書翻訳が進んだ。インターネットが出来て、世界中の教会の活動が見えるようになり、聖書の解釈についての講話(説教)も閲覧できるようになった。聖書のデータベースのウェブサイトが出来たおかげで、誰でもヘブライ語ギリシャ語の意味を調べられるようになった……。上げればキリがないが、実際にテクノロジーや技術、研究の発展が、聖書の研究を深め、礼拝会の内容を充実させ、福音が広がるキッカケとなっているのである。

 歴史的には良い結果をもたらした。では、オンライン礼拝会の想定される形態では、同じ結果は出るのだろうか。これだけでひとつの記事が書けそうだが、結論として私は是だと思う。

 一番はやはり、礼拝会を形作る「人間関係の構築」が、オンラインの技術によって、より自由な形で可能になった点だろう。この後に挙げる「リーチする範囲」(宣教的な観点)においても良い結果をもたらすのは確実だ。

 また、聖書の言葉の理解を深めるという意味でも、オンラインならばより洞察の深い対話ができる集まりを居住地に縛られずに探せる。鎌野氏は「商品化」と批判したが、私はその批判は的外れだと思う。住んでいる地域で集える範囲内の教会の中から、集う教会を選ぶのは氏の言う「商品化」ではないのか。そして「地域」に縛られるのは「是」とするならば、人口の多い東京に教会をオープンするのは「商品化」ではないのだろうか。地域に縛られるのであれば、自宅から一番近い教会に集うのは「是」で、それ以外は「非」なのだろうか。往復30分以内はOKで、それ以上は「商品化」なのだろうか……様々な疑問がわいてくる。

 神をもっと知りたいと望む以上、より深い関係が築ける集まりを探すのは当然ではないか。「商品化」という批判は、自分たちの教会に人が来なくなってしまうという不安からくる教会組織や牧会者の恐れや怠慢から来るものであろう。オンライン礼拝会によって、より良いコミュニティに集うことが可能になる。その扉が開かれたと、私は感じている。総じて、インターネットというテクノロジーを使う意義は大きい。神学的にも問題はないどころか、むしろ利点が大きい。

 ……ここまで考えて、初めて「歴史的な観点」の考察・検証が意味をなすのではないかと、私は思う。

 

 最後に、「リーチできる人の範囲」をはじめとした「実践的観点」(宣教的観点)だが、これはもう言わずもがな、オンライン礼拝会に大きく分がある。オンラインであれば、インターネット環境さえあれば離島をはじめとした過疎地域の人でも、都市部と変わらない礼拝会ができる。地方の人に礼拝会が届く可能性が広がる。足が不自由など様々な事情で外出できない人も、参加できる。参加できる人の幅が広がる。転勤などで引っ越しをしても、なじみのある人間関係の中での礼拝会を継続できる。

 「届く範囲」以外の利点も、数多くある。会堂までの行き来の時間の短縮になる。オンラインだとスライドやビデオの共有が簡単。ブレークアウトセッションなどの機能を使えば、少人数のグループ対話が容易に実現可能。会堂など同じ場所でこれをやると、ガヤガヤして集中できないが、オンラインなら静かな環境で集中して少人数グループの話し合いができる。多くの教会で多大なコストをかけている「会堂」の維持費用が、オンラインではほぼほぼ不要。これは大きい。コロナ禍のようなパンデミックでも通常営業ができる。パジャマでも気兼ねなく参加が可能。お風呂に入っていなくても参加が可能。会堂では全員、頭しか見えないがオンラインでは表情が見える。人数が多くても平等な環境で参加できる。物理的な会場では、話者が見えないなどの状況が発生しうるが、オンラインだとそれはない。乳幼児がいても、まわりに気を使わずに参加できる。などなど……実践的なメリットは数多くある。

 これらのメリットを打ち消すデメリットがあるかだが、大きなものでいえば「実際に触れ合えない」といった部分だろう。物理的に「同じ釜の飯を食う」ができないのも大きい。また、音楽を一斉にワンボイスで歌うことが難しいという課題もある。話者としては、ミュートやビデオオフの状態だと、聞き手のリアクションが見えづらくて不安。写真撮影で毎回全く同じ画角になってしまう……などが挙げられる。ただ、どれも副産物的なもので、今後技術の発展次第では解決しうるだろう。また、実際に物理的に会堂に集まったからといって、「触れ合う」か? 「同じ釜の飯を食う」か? と考えると、ぶっちゃけ物理的に集まってもしていないことも多いのではないだろうか。

 そして、どのデメリットも、だからといって「オンライン礼拝会はやっぱりダメだ」という結論に至るほどではない。やはり、オンライン礼拝会はデメリットよりも、メリットがはるかに大きいと感じる。また、神学的にも、歴史的にも妨げるものはない。よって、オンライン礼拝会は完全にアリだと、私は結論づける。

 

 以上、私の意見を簡単にまとめた。これはあくまで私の個人的な意見だし、「ツッコミどころ」も多いと思う。ツッコミ大歓迎だ。ぜひ、相互的なやり取りが可能なコメント欄に、異論、反論、疑問、質問があれば書いてほしい。そして、私の知らない視点や知識、情報を共有してほしい。私は、必ずコメントを返そう。神を知るために、徹底的に議論する。互いに教え合う。それこそが、礼拝会の真髄だと、私は思う。

 

 次回のディベート「オンライン教会の是非」。こちらも楽しみだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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【まとめ】「週刊イエス」で筆者が伝えたかった5つのこと

週刊イエスも、これが公式には100記事目。何を伝えたかったのか、まとめました。

 

 

▼何を伝えたかったのか

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 基本的に毎週水曜日に記事を更新してきた「週刊イエス」も、これが100記事目である。ひょんな思いつきで始めたブログも、2年以上続いた。今では、毎週50ほどの国と地域から、4500PVほどのアクセスをいただくようになった。記事を読んでいただいている方々には、感謝したいと思う。

 読んでくださっている方々には申し訳ないが、この100記事を節目として、一旦「毎週」の更新に区切りをつけたいと思う。理由は、正直さすがにネタ切れになってきたのに加え、今年1月に結婚し、自分の中での優先順位が変化したからだ。聖書には、こんなユニークな規定がある。

人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。

申命記 24章5節)

 

 このように、聖書時代のイスラエルでは、新婚の男性は兵役が免除されたのである。その理由は「妻を喜ばせる」ため。私も、結婚したからには、妻との時間を大切にしたい。フルタイムの仕事もしながら毎週記事を書くのは、結構、時間も体力も知力も投資しなければならない。毎週続けるのは難しいと判断したところである。

 しかし、このブログはほそぼそと続けていきたい。これからは不定期の更新としていく。HUNTER×HUNTERぐらいの更新頻度にしたいと思う。まだ記事にしていない「温めている」インタビュー記事も3つほどある。リクエストはあるが、私なりの結論が出ていないがゆえに書ききれていないテーマ記事もある。それらの記事を、今後も楽しみにしていただけたらと思う。

 

 さて、私はこのブログを通して何を伝えたかったのか。もちろん、様々なテーマはあるが、振り返ってみて、大まかなポイントをまとめてみた。

 

 

▼1:クリスチャンの信仰は、あなたの人生を縛るものではない

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 このブログを始めたのは、「クリスチャンになったら毎週日曜日に教会に行かなきゃいけないの?」と、友人に聞かれたのがキッカケである。そこで、「クリスチャンになったら『毎週日曜日』に教会に行かなければならないのか?」の記事を皮切りとして、それまで個人的なメモに過ぎなかったブログを2018年3月1日に「週刊化」した。

yeshua.hatenablog.com

 クリスチャンではない友人と信仰について対話していると、どうやら「クリスチャンになると生活が制限される・一定の義務が生じる」という認識が一般的だというのが分かった。そのような「息苦しい」認識は、本来のクリスチャンとしての人生ではない。私が体験してきたようなイエスを信じる人生と、大きくかけ離れている。そう思った。そこで、今一度、聖書をひらき、イエスを信じる人生はどのようなものか考えてみた。

 毎週日曜日に教会に行く。「十分の一献金」をする。アルコールを飲まない。タバコを吸わない。教会で「奉仕」をする。クリスマスを祝う。そんな「クリスチャンのイメージ」は、全く聖書と関係ないと明らかにする。それがこのブログのひとつの目的だった。

 イエスに対する信仰は、日本人の多くがイメージするような、「あれはダメ、これはダメ、これこれをしなければならない」というような、人生を制限するものではない。むしろ、聖書にはこう書いてある。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

ヨハネ福音書 8章32節)

 

 イエスを信じる信仰は、あなたを解放し、自由にするものなのである。

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▼2:信仰だと思っているものは、ただの文化かもしれない

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 2つ目の大きなテーマは、クリスチャンが信仰として当たり前に考えているものが、実はただの「文化」ではないか、という問いかけだ。日曜日の礼拝会。クリスマスにイースター。「教会籍」に「牧師夫人」。大切だと思っているものが、実は聖書の記述とは関係なく、ただの「文化」だという可能性がある。もしかすると、聖書そのものよりも、この「文化」の方が大事になってしまっていないか。そうした問いかけである。

 さらには、教会での奉仕の強制、牧師への過度の依存、とりあえず「神学校」に行き、「とりあえず伝道師」になる・・・。こういった聖書にはない教会の「きまり」を、過度に重要視してはいないだろうか。もはや、イエスを救い主と信じる「キリスト教」ではなく、教会の文化を守るための「教会教」となってはいないだろうか。そういう問いかけである。

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 思えば、たいてい日曜日に行う「礼拝」も、「礼拝」とはいっているが、その儀式は全て文化によってできたものだ。賛美の歌を歌い、聖書を朗読し、牧師の説教を聞いて、賛美をして、献金をして、終わる。この「礼拝」の流れも、全部「文化」なのではないか。

 また、多くの人にとって人生に大きな影響を与える「恋愛・結婚」についてのテーマも、このブログでは大きく扱ってきた。「みこころの相手」や「過度な恋愛禁止」など、まるで聖書を無視したようなキリスト教文化によって苦しめられ、青春を歪められた人も多いのではないだろうか。このブログを読んで、少しでも解放される人がいたらいいなと思う。

 また、我々の知る「キリスト教」は、本来の聖書の文脈の大元である「イスラエルユダヤ」の背景から、大幅に逸れてしまっている。コンスタンティヌスやヘレナを始めとして、歴史上の人物たちは、聖書・信仰を「西洋化」し、政治的に利用してしまった。その結果、大切な伏線であるユダヤ的な背景が、聖書から切り取られてしまった。このブログでは、たびたび聖書の中のユダヤ的な背景に言及し、「キリスト教」という「文化」に警鐘を鳴らしてきたつもりである。読者の皆様に少しでも参考になれば幸いだ。

(参考記事)

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▼3:何に希望をおいているのか

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 クリスチャンは何に希望をおいているのか。無論、イエスにである。クリスチャンの基本的な信仰はこうだ。唯一の創造主なる神がこの世界を創造した。しかし、人は神と共に歩む生き方ではなく、自分の力で生きる方法を望んだ。それが「罪」であり、その結果、死が世界に入った。神はノアと契約を結び、アブラハムと契約を結び、モーセと契約を結んだ。それは全て、救い主(メシア)であるイエスによる契約の伏線だった。

 神であるイエスは、人間となってこの世に来た。そして、神と共に生きるよう、人生を方向転換を呼びかけた。様々な奇跡を行い、自分が神の子であると示した。そして、この世での最期に十字架で、私たち人間の罪を背負って、死んだ。3日後に、死を打ち破り、よみがえって多くの弟子たちの前に現れた。その後、イエスは天に上った。私たち人間は、このイエスを信じることのみによって、救われ、神と共に生きるようになれるのである。このイエスへの信頼が、クリスチャンの信仰である。自分の力で生きていた絶望から、神の愛が注がれる希望へと変わるのである。

 しかし、これで終わりではない。イエスは、天で私たちのために場所を備え、神が定めたそのときに、またこの地上に帰ってくるのである。そして、新しい天と地が創造され、私たちは一瞬のうちに新しい存在に造り変えられる。そして、いつまでも神と共にいるようになる。これこそが、クリスチャンの希望である。

わたし(イエス)の父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

ヨハネ福音書 14章3節)

私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。

(テサロニケ人への手紙第一 2章19節)

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。

(コリント人への手紙第二 5章1節)

 

 昨今のキリスト教の教会では、この「イエスが再び帰ってくる」という希望を、あまり語っていないのではないか。「信じた人は天国に行く」というシンプルなメッセージに終始するあまり、この希望が、なおざりにされているのではないか。この世でどう生きるかを強調するあまり、天地と、そして私たち自身が全く新しくなるという希望が、置き去りになっているのではないか。信じた者が救われるという真理も、この世でどう生きるかという視点も、大切である。しかし、もっと先の希望も、同じく大切ではないか。

 エスが帰ってくるのを待ち望むことこそが、今の時代のクリスチャンたちに必要な姿勢だと、私は思う。その希望があれば、もはやこの地上の人生で思い悩むことは少なくなる。やれサタンの攻撃だとか、疫病がどうだとか、人生に絶望しなくても良くなる。むしろ、パウロのように早くこの世を去りたいとさえ願う。聖書には、こう書いてあるではないか。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

ヨハネの手紙第一 4章18節)

 

 私は、イエスが帰ってくるのだという希望を、このブログでも強調したかったのだ。

(参考記事)

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▼4:自分で聖書を読んで実践することの大切さ

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 このブログを通して、最も伝えたかったのは、「自分で聖書を読む重要性」である。私は、10歳のときに始めて聖書を手にした。それ以来、何度も何度も聖書を読み返した。分からないこともたくさんあった。しかし、いろんなクリスチャンの友達と議論したり、教えてもらったりして、自分なりの聖書の理解を形作っていった。いつも、神ご自身の力の現れである、「聖霊」に助けを求めつつ、読み込み、日々聖書メッセージを心に蓄えていったのであった。

 聖書は誰かに教えてもらわなければ読めないものではない。それは、宗教改革以前の常識である。現代においては、ほとんどの場合自分の母語で聖書を読むことができる。それは、先人たちの多大なる努力によってのことである。今現在も、聖書を各地の言語に翻訳している人々もいる。また、インターネット上にも様々なツールがある。かつては大学の図書館にしかなかった原語の解説に、今や誰もがアクセスできるようになっているのだ。

 聖書は、神学校に行かなければ読めないものでも、教えられないものでもない。もちろん研究は進める必要はあるし、そういった専門家も必要だ。しかし、一般的にクリスチャンとして生きる上で必要なのは、何よりも聖書そのものを読むことである。

 聖書に出てくる、エチオピアの宦官が「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるのか」(使徒の働き8章31節)と言った話は有名だ。しかし、彼に教えたピリポは、学校に行った「神学博士」だったのだろうか。もちろん、パウロのようにユダヤ聖書学校(イェシバ)に通った可能性はあるが、そうではない可能性もある。アキラとプリスキラがアポロを教えたエピソードに代表されるように、イエス以降の時代の信じた者たちは、互いに教えあっていた使徒の働き18章24~26節)。また、私がこのブログに何度も引用した聖書の言葉には、こうある。

この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き 17章11節)

 

 大切なのは、神学校に行くことでも、神学書を読み漁ることでも、海外の牧師のメッセージを外国語で頑張って聞くことでもない。自分で、日々、聖書を読み、それを実践していくことこそが大切である。誰もが聖書を読み、誰もが教えることができる。誰もが聖書の言葉で励ますことができる。1人ひとりが、積極的に聖書を読み、自分で考え、行動するよう、励ます。これがこのブログの最大の目的である。

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▼5:イエスに信頼する人生はめっちゃ楽しい!

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 最後に申し上げたいのは、「エスに信頼する人生は、とてつもなく楽しい」という真実である。これは、心を込めて断言できる。私は、16歳でイエスを信じたが、それまでの人生と、それからの人生は、まるで人間が変わってしまったかのようであった。それまでの、人の目を気にしていた抑圧された人生から解放され、ただイエスの愛を感じ、心満たされる人生に変わった。読者の皆様にも、ぜひこのイエスに信頼する人生の素晴らしさを体験してもらいたいと、切に願っている。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

(ペテロの手紙第一 1章8節)

 

 このブログでは、「就活イエス」というタイトルで、「働くクリスチャン」たちへのインタビュー記事を掲載してきた。十人十色の人生だが、それぞれがイエスとの出会いに人生を変えられ、新しい歩みを始めている。彼らの人生が、読者の皆様の励まし、参考になれば幸いである。このインタビュー記事は、まだいくつかインタビューは行ったものの、記事にできていないものもあるので、今後、適宜、記事を更新していくつもりだ。

<就活イエス記事一覧>

yeshua.hatenablog.com

 

 以上、節目の100記事目に、このブログを通して皆様にお伝えしたいことをまとめた。ここで一旦、毎週の更新は終わりにしたいと思う。少しずつ記事を更新するので、また覗きに来てくだされば幸いである。

あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。

ヨハネの手紙第二 1章12節 新改訳聖書3版)

 

 

2年間、このブログをお読みくださり、本当にありがとうございました。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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【提起】コロナウイルス騒動にクリスチャンとして思うこと

ネムーンから帰ってきたら、日本中がコロナウイルスで大騒ぎになっていました。クリスチャン、そして記者として一連の騒動に対して思うことをまとめました。

 

 

コロナウイルスで大騒ぎ

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 ハネムーン先のタイから帰ってきた。日本中がコロナウイルスで大騒ぎになっていた。驚いた。メディアがその騒ぎの一旦を担っている感は否めないので、記者である私が言うのは恐縮なのだが、正直、「そこまで騒ぐ必要ある?」と感じた。今でもそう思っている。特に、トイレットペーパーやテッシュなどが店から消えている状態を見ると、人間のあまりの愚かさに残念な気持ちでいっぱいになる。同時に、「人の恐れ」のパワーの凄まじさを感じる。

 なぜ疫病は起こるのだろうか。神がいるのであれば、なぜ人は病気で苦しまなければいけないのだろうか。今回は、疫病が起こる意味について簡単にまとめる。そして、「人の恐れが一番怖い」という持論をまとめる。そして、何を一番に恐れるべきか、クリスチャンはこの状況下でどう対処していけばいいのか、私の考えをまとめる。

 

▼疫病はなぜ起こるのか

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 そもそも、疫病はなぜ起こるのだろうか。日本人と議論すると、決まって「神がいるのであれば、なぜ病気はなくならないのか」という指摘がある。神がいるのならば、なぜ苦しむ必要があるのか。この指摘に対しては、まずは聖書の大前提を語る必要がある。まずは、疫病について聖書が語る7つのポイントをまとめる。

<“疫病“について聖書が語る7つのポイント>

1:創造のはじめは、疫病はなかったと考えられる(「死」は存在しなかった)

2:人間の「罪」により、世界に「死」が入った。すなわち「疫病」もそのときに存在するようになった

3:神は、ときにこの「疫病」を用いて、人を罰する

4:神は、ときに神に従う民を救うために「疫病」を用いる

5:この地上では、神を信じる者も疫病で苦しむ場合がある

6:神には病を癒やす力があり、またその力を人に与えるときもある

7:新しい天と地には「死」がなくなる

 

1:創造のはじめは、疫病はなかったと考えられる(「死」は存在しなかった)

 聖書の基本的な価値観は、「神がこの世界、人間を創造した」「それらは全て良かった」というものである(創世記1章参照)。そして「<死>はなかった」のである。なぜなら、「人の罪によって死が入った」という記述があるからだ(創世記1~3章、ローマ人への手紙5章12節)。

 

2:人間の「罪」により、世界に「死」が入った。すなわち「疫病」もそのときに存在するようになった

 つまり、創造のはじめには、疫病は存在しなかったのではないかと考えられる。しかし、人は神の掟を守らず、神と断絶し、罪と死がこの世界に入ってしまったのだ。その結果、病がこの世界に入ってしまったのである。

 

3:神は、ときにこの「疫病」を用いて、人を罰する

 神は、この「疫病」を用いて、人を罰する。例えば、エジプトから脱出したイスラエルの民が貪欲になり、神に不平不満を言った結果、疫病が起こったという記述がある(民数記11章33節)。ダビデ王の時代にも、ダビデが神の計画から逸れて、(おそらく徴兵制導入のため)人口調査をした結果、激しい疫病が起こり、7万人が倒れた(サムエル記第二24章)。疫病による「神罰」の記述は、実に多い。

 

4:神は、ときに神に従う民を救うために「疫病」を用いる

 一方で、神はご自分の計画を遂行するために「疫病」を用いる場合もある。例えば、イスラエルの民がエジプトから脱出する際に「10の災い(奇跡)」があったが、その中には、家畜が死ぬ疫病や、「腫れ物」ができる病もあった(出エジプト記9章、申命記7章15節)。

 また、「神の箱」を持ち去ったペリシテ人や、ベテ・シェメシュという町では、疫病によって「死の恐慌」があったという記述がある(サムエル記第一5章~6章)。他にも、アッシリアの軍勢がエルサレムを攻撃しようとした際も、一晩で18万5000人の兵士が倒れたという記述がある(列王記第二19章35節)。これは、疫病によるものか明記されていないが、その可能性がある。このように、神が計画を遂行するため、ある意味「ポジティブ」な意味で「疫病」を用いる場合もある。

「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである

出エジプト記 15章26節)

 

5:この地上では、神を信じる者も疫病で苦しむ場合がある

 日本人の中には、「神を信じれば病気にならない」と考える人もいる。しかし、聖書は必ずしもそうは書いていない。この点な有名な人物は、ヨブである。ヨブは、神を信じる誠実な男だった。その真実さは、毎日「もしかしたら罪を犯したかもしれない」と思い、自分の子どもの分まで「いけにえ」を献げていた程であった。しかし、ヨブは死ぬほどの病にかかる(おまけに子どもも全財産も失う)。その理由を、聖書は書いていない。

 新約聖書にも、信者の中で「死ぬほどの病気にかかった」者もいる(ピリピ人への手紙2章27節)。しかし、「なぜ」その病が発生するのか、明確な理由は書いていない。確かなのは、このように神に信頼する者も、何らかの理由で病にかかるという事実だ。そして、ヨブもそれらの信者たちも、病気になっても神への信頼を捨てなかったのである。

 逆にアサ王は病気になったときに神ではなく医者(※当時の医者は現代における霊媒師・まじない師のようなものだと想定される)を求めた。アサ王はその治世の前半では神に従ったが、晩年はこのように神に従いきれなかった。その点では叱責されている(歴代誌第二16章12節)。(これは、現代において医者にかかってはいけないという意味ではない)

 

6:神には病を癒やす力があり、またその力を人に与えるときもある

 信じる者には、聖霊によって「癒やしのちから」が与えられる。

 イエス自身が、様々な病気の人を癒やした。熱病を癒やし、歩けない人の足を治し、ツァラアト(※社会的に差別された重い皮膚病)の人に触れて癒やした。ついには、死人のラザロさえ蘇らせたのであった。

 また、イエスはこの天に上る直前にこう言っている。

それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。

(マルコの福音書 16章15~18節)

 イエス自身が癒やしを行い、また弟子たちにこう命じているからには、癒やすちからは存在する

 他にも、病への勝利を宣言した部分は聖書にたくさんある。例えば、ダビデは何度も、「(主に信頼する者に)病は近づかない」などと歌っている(詩篇91編3~10節、詩篇103編3節など)。新約聖書には、「病気の人は手を置いて祈ってもらえ」とも書いてある(ヤコブの手紙5章14~15節)。神のちからによる癒やしは、確かに存在するのである。

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

ヤコブの手紙5章14~15節)

 

7:新しい天と地には「死」がなくなる

 世の終わりが来たら、どうなるのか。聖書にはこう書いてある。

それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。(中略)神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。

(黙示録 20章14~21章4節)

御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、12の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。もはや、のろわれるものは何もない。

ヨハネの黙示録 22章1~3節)

 もはや「死」がなくなる。そして、いのちの木の葉が、諸国の民を癒やすとも書いてある。病や死がなくなり、もはや嘆きも叫び声もなくなる。「疫病」からの完全な脱却、勝利は確かに存在する。これが、クリスチャンが持つ希望である。

 

 さて、「疫病」についての聖書の価値観を、ある程度簡単にまとめた。この上で、一連のコロナウイルス騒ぎに対する、私の個人的な見解を述べたい。

 

 

▼広がっているのは人の恐れである

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 一連の騒動を見て、私の個人的な見解を述べたい。本当に怖いのは、感染症そのものではなく、それに動揺する「人の恐れ」ではないか。

 巷では、不安からか、オイルショック時を彷彿とさせる、トイレットペーパーやティッシュペーパーの買い占めが起きている(歴史から何も学んでいない!)。咳をする乗客をめぐって、列車の中で諍いが起きている。政府が呼びかけているのは大規模なイベントの規模縮小や中止なのにも関わらず、少人数での集まりも続々と自粛が相次いでいる。首相の一声で、全国の学校が一斉に休校になる。東日本大震災の追悼式さえも中止になる。地下鉄はガラガラ。教会関係の集まりも続々と中止になっている。飲み会も中止になり、さらには、なぜかコロナビールまで売れなくなっているという。一体、なぜなのか。

 この騒ぎを通して私は、「人の不安は一気に広がる」と学んだ。もはやコロナウイルスが伝染しているのではない。人から人へ恐怖が伝染しているのである。これこそ注目すべき点ではないか。

 大学時代に、「戦争の原因は人の恐れである」と学んだ。しかも、それは「実態のない恐れ」なのである。この「恐れ」に「リーダーの判断ミス」が加わると、途端に間違った方向に行く。その行き着く果てが「戦争」である。そう学んだ。本当に恐れるべきは「人の恐れ」なのである。この恐れが、争いを生み、分断を生み、軋轢を生んでいるのだ。

 別にこのコロナウイルス感染症の騒ぎが戦争を生むと言っているわけではない。しかし、実態のない「人々の恐れ」ほど怖いものはないと言いたいのだ。連日テレビで「どこどこで新たな感染者」という報道がある。しかし、東京都の交番では毎日「今日の交通事故の死者」が掲示されている。それを見て騒ぐ人はいない。それを見て、「車に乗るのはやめよう」という人はいない。

 年間10~12万人が肺炎で亡くなっている。しかし、それを恐れる人はいない。インフルエンザでは年間約1万人が死亡していると推定されている(厚労省HPによる)。しかし、それで集会を自粛する人はいない。交通事故では年間3000人以上が死亡している。しかし、だからといって車に乗らない人は少ない。それなのに、なぜかコロナウイルスだけが騒がれている。おかしいのではないか。

 イエスが、「いのち」について何と言っているか見てみよう。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。(中略) ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。(中略)ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6章25~34節)

 私たち人間は、自分の命を1日も伸ばすことはできない。自分の命はコントロールできないのである。生きるときは生き、死ぬときは死ぬのだ。だから、心配しないで神に感謝して、お互いに助け合って生きようではないか。それがイエスの教えではなかったか。

 

 確かにコロナウイルスは、「新型」であるが故に、まだ確固たる治療法もない。しかし、致死率はそこまでは高くない。罹患してもしっかり対処すれば、回復するようである。パニックになって物資が足りなくなったり、病院が満杯になったり、十分な医療が受けられない場合は、その限りではないかもしれない。だからこそ、その実情を見て、落ち着いた対応をした方がいいのではないか。

 しっかり食べる。しっかり寝る。手洗いうがいをしっかりする。結局のところ、こういった基本的な対策をしっかりやるしかないのだ。心配しても、何もできない。ただ、自分にできる限りのことをしっかりして、安心していればいい。騒げば騒ぐほど、実情とは程遠い「恐怖の虚像」が出来上がってしまう。そして、それがいつしか現実のものになってしまうのだ。

 最後に、イエスが何を恐れるべきだと教えたか見てみよう。

 

 

▼何を一番恐れるべきか

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 イエスは、先の言葉に続いて、次のように述べている。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

(マタイの福音書 10章28節)

 人が本気で恐れるべきは、疫病ではない。また、悪魔でもない。人が本当に恐れるべきなのは、人をさばく権利を持っている神ご自身である。これこそが、本当に恐れるべき対象である。

 クリスチャンである私は、イエスが唯一の救いの道だと信じる。そして、信じない者に対するさばきは容赦のないものだと信じる。そして、神は私の命の権利を持っている。私は本質的にはすでに死んでいる。イエスの犠牲によって「贖われた」、つまり「買い戻された」のだから、その権利はもはや自分にはない。人の命の権利は神が持っているのである。

 であるならば、クリスチャンとしてはこのような疫病の騒ぎを恐れるのではなく、本当に霊までさばくことのできる神を恐れるべきではないだろうか。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

(伝道者の書 12章13節)

 私たちは自分の髪の毛を白くも黒くもできない。しかし、神には何でもできるのだ。

 

 

▼対策はする。でも心は揺らがず。

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 ここまで言っておいて恐縮だが、私は「対策を全くするな」とは思わない。教会の集まりを縮小したり、イベントをキャンセルするのも手だろう。韓国では、キリスト教系の新興宗教(新天地)が集会を続けたせいで、街全体を巻き込む感染拡大につながってしまった。そのような事態を招かないためにも、イベントの自粛はある意味で当然の措置だとは思う。また、これをキッカケに「毎週日曜日に何がなんでも教会に行くべき」という風潮が見直されたらいいとも思う。インターネットを利用した集会の形も、これをキッカケに検討していったらいいとも思う。

 しかし、何度も言っているが、個人的な集まりや、小規模の集まりまで強制的に中止せよという「自粛ムード」には、異議を唱えたいと思う。買い占めなど、無駄な行動が起こらないよう、冷静な対応が求められている。本当に怖いのは、「人の恐れ」なのだから。

 クリスチャンとしては、何があろうとも神に信頼する、揺るがない心が必要ではないだろうか。手洗い、うがい、よく食べて、よく寝る。できる対策はしっかりする。しかし、心は揺らがず、イエスが帰ってくるのを、ただひたすら待ち望む。困っている人がいたら、助け合う。これが、クリスチャンにできる最大の対策ではないだろうかと、私は思う。

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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【おすすめ】結婚式準備で実際に使ったオススメのツール10選!

結婚式編ラストです。私たちが実際に使った「オススメツール10選」をご紹介します!

 

 

▼断っておきますが

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 タイトルでお察しの方もいるかもしれないが、今回の記事はクリスチャンであるかとかないとか、もはやほとんど関係ない! ネタ切れである!! しかし、一部から要請もあったので、書くまでだ(決して浮かれているわけではない。いや、浮かれてはいるのだが)。

 結婚式の準備において、私たちが使ってとても便利だったもの10選+いわゆる「手作り」の結婚式はどのようなものか、ご紹介する。

 

 

▼1:Google Drive

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 まずはこれ。Google Drive。皆さんご存知、ファイルなどを共有できるツールである。私たちは、結婚式の準備にあたって、まず「結婚式準備用のGmailアカウント」を作った。そのアカウントに紐付けをして、ドライブを設定。必要なファイルはすべてそこにアップロードし、どこでもお互いが状況を把握できるようにした。

 共有すべきファイルはたくさんある。ゲストリスト。お手伝い依頼リスト。プログラム表。予算表。パンフレットの原稿データ。席次表のデータ。親族リスト。宣言(誓い)の文言、備品リスト、2人の写真や動画データ・・・等々。2人がどこでも同じファイルを共有するのは準備の上において重要だ。

 私たちは、私がMac、妻がwindows派だったので、必ず「元データ」と「PDFファイル」をアップロードするようにしていた。こうすることで、ファイルの誤変換を防いだ。また、ファイルを更新する際は、必ず新しいファイルを作成し、「日付け・タイトル・1版」のようなネーミングをした。こうすることで、どのファイルが最新のものか確認できる上に、状況が変わって前のファイルの状態に戻りたい時に便利なのだ。間違っても「最新@@@」や「@@@データ最終」などのネーミングをしないように。必ず「新・最新・@@@最終」などとわけのわからない状態になるであろう(笑)。

www.google.com

 

 

▼2:Weddingday

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 私たちはゲストがのべ500人いたため、紙での招待状送付は諦めた。住所の記入だけでも途方も無い作業になると想定したからであった。そこで、様々なWebサービスを検討した結果、「Weddingday」というサービスに決めた。Web招待状を利用してみて、メリット・デメリット両方あると思ったので、まとめてみる。

<Web招待状のメリット>

作成、送付の手間が圧倒的にかからない

出席、欠席の管理が圧倒的に楽

記入してもらった名前、住所、電話番号などが自動でエクセル出力できるため、管理が圧倒的に楽

・写真なども掲載できるため、楽しい雰囲気になる

挙式直前に追加で招待する際に間に合わせることができる

・招待者に一斉メールを遅れるので、事前のリマインド連絡が楽にできる

・手数料がかかるが、事前決済も利用できる。当日ピン札や封筒を用意する手間ば省けてお互いにハッピー。またドタキャン防止にもなる

<Web招待状のデメリット>

・紙での招待状と比べて、やはり少し格式が落ちる

インターネットに慣れていない高齢の方などには、電話や紙での招待状を送るなど、個別の対応が必要

・メールが迷惑メールに入っていたり、SNSのチャットを見ていない人に行き届かない可能性がある

・クレジットの事前決済で、仕えないクレジット会社もある(Weddingdayの場合はJCBのみ利用可)

・事前決済を用いた場合、受付で「事前決済をしたかどうか」確認する必要があり、ひと手間増える(※ゲストリストに事前払いか当日払いか記入する作業や、受付で確認する作業等)

 

 簡単にまとめると以上だが、やはりメリットがデメリットを大きく超えるというのが、使ってみた印象だ。格式にこだわらなければWeb招待状はかなりアリだと思う。なお、「Weddingday」は基本的には無料。クレジットの事前決済に4%の手数料がかかるが、金額が大きい場合は、受付の負担を減らし、リスクヘッジのためにも利用する価値はあると思う。

 なお、他にも「楽々ウェディング」というサービスもあり、利用を検討した。しかし、このサービスはあろうことかLINEやFacebookメッセンジャーで招待を送ると、冒頭に「★楽々ウェディング★」というタイトルがついてしまい、クソダサいのでやめた。開発者は送る人、受け取る人の気持ちまで考えた方がいい。

weddingday.jp

 

 

▼3:ラクスル

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 パンフレットなどの作成に欠かせないのが、「ラクスル」である。CMなどもバンバンやっているのでご存知の方もいると思うが、ハイクオリティな冊子を驚きの価格で印刷してくれるサービスだ。冊子だけでなく、封筒、ポスター、チラシなども作れる。最速で翌日の配送にも対応していて、急いでいる場合にオススメだ。逆に1週間後でよければ、その分単価も安くなる。

 テンプレートがやや複雑で、入稿がうまくいかない場合もあるが、電話のオペレーターがものすごく丁寧に対応してくれるので、心配な人は電話で聞きながら作業をすると良いだろう。私たちの場合は、プロフィールパンフレット、席次表、お車代の封筒を「ラクスル」で準備した。しかも、新規登録特典で、封筒が50枚無料になったり、パンフレットのお試し印刷無料になったりと、サービスも充実している。

raksul.com

 

 

▼4:Googleフォト

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 昨今は、誰もがスマートフォンを持っている。当日、公式カメラマンもいるが、もはや参加者全員がカメラマンになっている時代だ。皆が持っている写真も欲しい。そこで、私たちはGoogleフォト」のリンクをQRコードで作成し、プロフィールパンフレットに載せた。そして、参加者にそのリンクからGoogleフォトに飛んでもらい、そこに撮影した写真をアップロードしてもらう方法をとった。

 意外にも、多くの人が写真を共有してくれた。こうすると、新郎新婦だけでなく、参加者の方も他の人が撮影した写真を見ることができるので、とても便利だった。しかも無料。使わない手はない。

www.google.com

 

 

▼5:Japan Taxi(旧:全国タクシー)

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 日本交通のタクシー配車アプリ「Japan Taxi」もオススメだ。親族やお手伝いメンバーが式場から披露宴会場に移動するため、タクシーを準備する必要があった。様々なタクシー会社に電話をしたが、人数が多かったため「個人のお客様には対応できない」と断られた。しかし、日本交通は違う。「アプリでなら、複数の予約に対応できます」とのことだった。

 7日前から予約できるということで、スマートフォンから予約をした。「Japan Taxi」アプリを使えば、決済も自分のApple IDに紐付けできるので、請求がすべて自分のところに来る。親族やお手伝いのメンバーにお金を渡す手間も省けるので、とても便利だ。

 ただ、私たちの場合は、あまりにも数が多かったため、アプリ予約の上限に達してしまい、結局残りの数台は電話予約することとなった。

japantaxi.jp

 

▼6:アルプスPPS

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 「楽しい披露宴にしたい」という思いがあったので、「インスタグラム的なボード」を用意することにした。正直、友人の結婚式であったのを見ていいなと思ったのでパクった。調べてみると、様々な商品があったが、その中で、価格・中身共に吟味した結果、「アルプスPPS」というところが良さそうだったので注文した。

 注文してすぐゲラがデータで送られてきた。修正も1度までだが無料で応じてくれた。梱包も丁寧で、折れないように厳重にパッキングされて届いた。内容、サービス、価格、スピード、いずれも大満足である。楽しいパーティーにしたい方にオススメだ。教会関係のイベントなどでも、使ってみてはどうだろうか。

alps-pps.co.jp

 

 

▼7:Piary

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 何と言ってもオススメなのが、言わずと知れたこのサイト。「Piary」である。結婚式関連のありとあらゆるグッズを取り揃えているウェブサイトだ。岐阜県にある会社のようで、よくもここまで品揃えがあるなと関心する。引き出物からカタログ、席次表、席札、プチギフトまで基本的に何でも揃っている。

 驚きなのがその価格設定だ。様々なウェブサイトを参考にしたが、結局のところ、商品のクオリティや価格で総合的に圧倒的な優勝だと思う。私たちは、ここで引き出物のグッズや席札を発注した。席札は、エクセルで名前を自動入力できるので、人数が多くても比較的時間を短縮できた。

 ひとつだけ不満があるとすれば、岐阜県の会社だけに、配送が基本的に「福山通運」だという点である。福山通運は、私の地元長野でもよく走っているし、友人が就職したのでなじみがある。しかし、マンパワーでいうと、ヤマトや佐川といった大手にはかなわない。その結果、不在票に記載がある電話番号にかけても、つながらない場合が多い。電話をかけ続けて、何とか受け取れたが、時間を追い込んでいる時は肝を冷やすかもしれない。あと、サイトを利用するとすぐにyoutubeの広告が「プレ花嫁のみなさ~ん! Piary知ってる~?」になるので少しだけannoyingだ。

www.piary.jp

 

▼8:オリジナルプリント.jp

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 オリジナルのグッズを作りたい時には「オリジナルプリント.jp」がオススメ。私たちはここで、「マグカップ」を作成した。ポロシャツやTシャツ、トートバックまで、オリジナルのアイテムを作れる。こちらも比較的安価で作成できるので、結婚式に限らず、イベントやチームのオリジナルTシャツなどを作る際にもオススメだ。

originalprint.jp

 

 

▼9:目録系の二次会景品サイト

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 二次会には景品がつきもの。ということで、オススメしたいのが「目録系の二次会景品サイト」だ。商品の目録だけを当日に手渡し、ゲストが自分の住所を書いてそのハガキを送ると、後日郵送で届くといったシステムだ。商品が多いと、荷物がかさばるし、前日や当日似搬入しなければならない。ゲストが持ち帰るのも一苦労だ。お米5kgとか地味に辛い。しかし、目録を選べば、準備する側も、受け取る側も楽チンである。ウィン・ウィンとはこのこと。

 目録系の二次会景品サイトは様々ある。正直、甲乙つけがたく、どれも同じような内容だ。いくつかリストアップするので、検討中の方はご覧いただいて、気に入った商品があるサイトを選べば良いと思う。

keihin-chaplin.jp

ssl.nijikei.net

www.keihin-park.com

 

 

▼10:ダイソー最強説

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 最後に、飾り付けなどで威力を発揮するのが、ご存知「ダイソー」である。できれば、近隣の「大きな」ダイソーに行って見よう。意外とクオリティの髙い飾り付け用の小物が手に入るはずだ。私たちは、受付のちょっとした飾りや、会場内の写真展示のデコレーションなどのグッズを、ほとんどダイソーで揃えた。別にキャンドゥとか別の100均ショップでもいいのだが、個人的にはダイソーが一番クオリティが高いような気がする。いずれにせよ、「大規模店舗」というのがポイントだと思う。
www.daiso-sangyo.co.jp

 

 

▼「手作り」はどこが違う?

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 最後に、いわゆる「手作り」の結婚式は何が違うのかまとめる。私たちは、様々な理由から「手作り」を選択した。一体何が違うのか、経験をもとに書き出してみた。

<“手作り”の結婚式・披露宴の特徴>

ウエディングプランナーがいない

・それゆえ、プログラムの中身を全て自分たちで組み立てる必要がある

・また、当日のスタッフも基本的にはいない

・司会者や案内係などを自分たちで依頼する必要がある

・機械操作などを依頼する必要がある

引き出物を準備し、自分たちで搬入する必要がある

・パンフレット、席次表、席札などを自分たちで作成し、搬入する必要がある

要するに、「ハコ」だけ確保して、中身は自分たちで準備する必要がある。それが「手作り」結婚式である。

 

 つまり、基本的に中身を全て自分たちが準備するというものだ。メリット・デメリットを簡単に挙げれば以下である。

<“手作り”結婚式のメリット>

・内容を自分たちで柔軟に決められる

・プランナーを挟まないので圧倒的に経済的

・ケーキ、引き出物、招待状などが自前なので経済的

オリジナルの出し物や演出が可能

<“手作り”結婚式のデメリット>

・「型」がないのでプログラム作成が大変

圧倒的に事務的な作業が増える

引き出物などを自分たちで保管・搬入する必要がある

お手伝いを大勢の人に頼まなければならない

・ヌケモレが発生する可能性がある(例:ケーキの発注を忘れていた、等)

 

 ざっくりまとめれば、1:手作りの方が経済的だが、その分作業が大変。2:手作りの方がクリエイティブにできるが、その分作業が大変。という2つのポイントが挙げられるだろう。

 実際にやってみて分かったが、手作りの結婚式・披露宴はとてつもなく大変だ。もし、経済的に余裕があり、クリエイティブな結婚式をそこまで求めていないのであれば、「手作り」にこだわる必要はないだろう。

 ただ、「絶対にこの場所でやりたい!」という希望があれば、そもそも会場にプランナーがいない可能性もある。結局のところ2人で目的や価値観を話し合い、その結果どうするか決めるしかない。式や披露宴をやらないという選択肢も大アリのアリ。大切なのは、2人の話し合いと寄り添いだ。この記事が、少しでも参考になれば幸いである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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【疑問】クリスチャンの結婚式は何が違う?(結婚準備編)

ブログ管理人のコバヤシは最近結婚しました。そこで、結婚準備のために、実際どんなことをしたのかまとめてみました。

 

 

▼クリスチャンにとっての結婚とは?

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 ブログ筆者のコバヤシは、最近結婚した(おめでとう私! 2回目)。クリスチャン同士の結婚と聞くと「チャペルで十字架があって~」とか、「牧師が”チカイマスカ?”って言って~」とか、様々なイメージがあると思う。しかし、その「本質」はなかなか知られていないのではないだろうか。

 クリスチャンの結婚式にはどんな意味が込められているのか。具体的にどんな準備をしたのか。今回は、実際にクリスチャン同士の結婚式のために私たちがした「具体的な準備」などをまとめてみたいと思う。

 クリスチャンの「結婚の価値観」「交際のあり方」については、先週の記事を参照していただきたい。お付き合いそのものが、一番の結婚前の準備なのだ。

 なお、今回の記事は自分たちの体験に基づいた記事のため、聖書の言葉はほとんど引用していない。まぁたまにはこういうのもアリという事で、ご容赦願いたい。

 

 

▼1:結婚の準備とプロポーズ

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 クリスチャンはプロポーズを必ずしなければならないかというと、そうではない。また、いわゆる「婚約期間」が必ずなければいけないという決まりもない。以下、クリスチャンの「交際」から「婚約」まで、私たちが通った道を簡単におさらいする。

 

<婚約時に祈る>

 私の場合は、ベタに「結婚してください」というプロポーズをした。その場で、OKをもらったので、2人でこれから結婚の準備に入るにあたり、神に守りと祝福を祈った。これからの準備がよくできるように、適切にしかるべき人に連絡ができるように、結婚まで純潔が守られるように、結婚してからもお互いを大切にし、神と共に歩めるようにという趣旨の祈りを2人でした。その晩はそりゃまぁ嬉しかった。

 

<両親への報告>

 オススメとして、結婚するにあたって、それぞれの両親と挨拶はきちんとしておいた方が良い。報告は早い方が、その後の関係性の構築に役立つ。

 私の場合は、プロポーズをしたのが私の実家がある長野県だったので、そのまま即日、実家に向かい、私の両親に婚約を報告した。両親は喜んでいた。そのままその場で、北海道に在住の相手側のご両親とZOOMというオンライン会議のアプリで婚約を報告した。図らずしも、ビデオチャットで「両家顔合わせ」を行うという21世紀らしいプロポーズ・婚約の日となったのであった。

 私の個人的経験から言えば、「はじめは顔と顔で」とこだわらず、はやめにビデオチャット等で挨拶するのもひとつの手だと思う。せっっかくツールがあるのだから、それらを駆使して、「家族」としてのコミュニケーションを深めていったらいいのではないかというのが、私の意見だ。大切なのは「コミュニケーション」であって「やり方」ではない。

 

<”婚約式”はマストではない>

 日本の教会の多くは、「婚約式」という儀式をするところも多い。ただ、これは非常に日本的な文化であって、聖書に書いてある儀式ではない。知り合いの宣教師夫婦は「なぜわざわざ『婚約式』をするのか分からない」と言っていた。私の個人的な意見では、「結婚式」や「披露宴」の準備だけでも大変なのに、わざわざ「婚約式」までやらなくても良いと思う。大変じゃん。ただ、結婚式は地元でやるが、今住んでいる場所で友人たちに「お披露目」をしたいなどの理由があれば「婚約式」をやるのも良いアイディアだとは思う。

 ただ、もしイヤなのに「婚約式」を強制してくる牧師とかがいたら、ハッキリ断るようオススメする。礼拝会の最後に「僕たち婚約しました」とでも言ったらよかろう。ちなみに私たちは婚約式はやらなかった。

 

<祈ってくれている人への報告>

 先週の記事でも書いたが、私のオススメは、お付き合いが始まってから、すぐに家族や友人、そして教会の共同体への報告するというものだ。それは、もちろん祈ってもらう為である。祈ってもらっている場合、2人の関係に進展があれば、すぐに報告した方が良いと思う。祈っている側は、2人の関係が守られるように、進展があるように祈っているわけで、その進展があったのに報告をしないのは無責任と言う他ない。必ず、適切に報告するようにしよう。間違ってもfacebookのポストで知った、などないようにしたい。

 また、クリスチャンはクリスチャン同士で結婚したいと願うのが一般的である。日本は、クリスチャンが人口の1%にも満たない「超激戦区」である。同じコミュニティ内で「好きな人がかぶる」のは当たり前。しょうがないじゃん。クリスチャンが少ないんだから! しかも、厄介なことに、多くのクリスチャンがすぐに行動に移さず、「お祈り」をして様子を見る傾向にある。

 こうなると、ある問題が発生する。「知らないうちに2人が付き合っていた」とか、「知らないうちに婚約していた」なんてことがあると、その間にその人のために「祈っていた」人の時間はどうなるのだろうか。クリスチャンは超能力者ではない。誰と誰が付き合っているなど、神様はほとんどの場合、教えてくれない。相手が婚約しているのも知らずに、希望を持ってその人のために祈っているいたいけな少年少女の心はどうしてくれるのだ! きちんと報告しない不誠実さは、周りの人の人生を奪うことでもあるのだ。クリスチャンの方々は、よく肝に銘じてもらいたい。

 私たちの場合は、婚約してすぐに「家族」「メンター」「教会の共同体の仲間たち」「その他のクリスチャンの仲間たち」に報告をした。facebookのステータスも更新した。また、個人的に会った人には、お付き合いや婚約の旨を名言した。そして、結婚までの道のりについても祈ってもらうようにお願いした。

 

▼2:結婚式の目的すり合わせ

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 さて、プロポーズや家族や友人、共同体への報告が終わったら、次は「結婚式の目的のすり合わせ」である。これが意外と重要。目的によって、日にち、ロケーション、呼ぶ人数、内容がまるで変わってくるからだ。そもそも、目的によっては結婚式そのものをやらないという結論に至る場合もある。

 これはクリスチャンでなくとも重要だが、クリスチャンの場合はさらに細かくなってくる。「教会の建物(チャペル)でやりたい」のか「そうではない」かでもかなり変わってくるし、「自分たちが集っている場所で結婚式をしたい」となるのか、「別にどこでも良い」となるのか、目的によって全て変わってくる。

 私の場合は、まずこの「目的」を2人で話し合った。お互いに優先したい目的や要素を書き出し、お互いにすり合わせていった。その結果、2人の間でおおよその結論を得られたので、具体的な準備に入っていた。ちなみに、私たちの目的は以下だった。

A:2人が信じるイエスの名前が宣言される式にする

B:できるだけ多くの友人と一緒に祝う

C:参加者にリラックスして楽しんでもらう

D:2人と、僕らが信じるイエスについて知ってもらう

 

 

▼3:会場と日にちを抑える

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 目的が定まったところで、まずは会場を抑えなければいけない。目的に沿った「ハコ」を抑えるのが重要だ。私たちの目的は、A:イエスの名が宣言される、B:できるだけ大勢、C:イエスを知ってもらう、という部分が大きかったので、以下のような場所を探した。

<結婚式会場の条件>

1:東京都内であること

2:普段から「礼拝会」で使用される「教会」であること

3:できるだけ大勢、具体的には200~300人規模の人が入れるキャパシティがあること

4:駅チカであること(→リラックスにつながる)

5:なるべく安いところ(→目的とは別に単純にカネがないから)

 

 1については、2人が東京在住であり、友人の多くが関東圏に住んでいることから当然の成り行きだった。2は、イエスを知ってもらうためには、まずは会場の雰囲気が重要であると考えたから。3は、次の項目の「呼ぶ人のリスト」とも同時並行で勧めたが、おおよそその程度の人数を呼びたいという話になったために、MAX300人規模の会場を探したから。4については、呼びたいゲストの中に、高齢の方も一定数いたことと、親戚関係が遠方から来るため、駅から近い方が望ましかったからだった。5については若い2人の経済力が理由だった。

 このように、目的が定まっていると、場所も決めやすい。下見を何回もするカップルもいると聞くが、私たちは条件に当てはまる場所が少なかったというのもあり、場所はほぼ即決だった。

 しかし、結婚式会場が教会のため、披露宴は別会場で行う必要があった。このため、披露宴会場も別途探さねばならなかった。これも、目的が固まっていたので、結婚式会場に近く、また条件に当てはまる会場は自然と限られたので、1ヶ所のみ下見をして、その場所に決めた。

 場所が決まれば、次はその会場との日程調整になる。会場が空いていなければ使えないので、自然と会場との相談になる。私たちが準備を始めたのは7月末だった。挙式や披露宴の準備には4~6ヶ月ほどかかるだろうと見越したので、12~2月の間で会場が空いている日程と、家族の日程などを加味した上で日付を1月に設定した。

 日程についてクリスチャン特有の点を挙げるとすれば、日曜日は多くのクリスチャンが「礼拝会」があるため、土曜日に開催する場合が多い。ご多分に漏れず、私たちも土曜日に挙式・披露宴を行った。

 

 ひとつ、「教会側」の対応が民間ではありえないほど粗雑なのが残念かつ厄介な点だ。当初、12月に予約する予定だったが、一旦OKしていた教会側が急にキャンセルしてきた。また、教会側の反応がなかなか鈍く、1週間以上メールの返事がないこともザラだった。そのため、披露宴会場の「保証金」の支払期限に間に合わなかった。クリスチャンの方に伝えておきたいが、「教会」を会場にする場合、かなりの確率で教会側とのやり取りに苦労するだろう。この点については最後の章でまとめる。

 ちなみに、私たちの場合は数百万円単位のお金を保証金として披露宴会場に支払う必要があった。何とか苦労してお金を工面したのだが、実際に下見で顔と顔を合わせて打ち合わせをした結果、なんと保証金なしでOKという話になった。これは、経済的にかなり助かった。読者の方も電話してダメな場合も、実際に打ち合わせをするとOKの場合もあるので参考にしていただきたい。

 ちなみに、私たちは結婚式・披露宴を全て「手作り」で行った。いわゆる「ウェディングプランナー」を挟まずに、プログラムなどを自分たちで決めたというものだった。これについては詳しく別記事を書く。

 なお、私たちの場合は「二次会」も行った。こちらも、人数がかなり大規模だったために、自然と会場は限られてきたので、決めるのは容易だった。二次会会場は、二次会専門のお店で、スタッフの方がかなり手慣れていたので、準備が結婚式や披露宴に比べて準備がかなり楽だった。専門の会場は、やはり慣れているなと感じた。

 

 

▼4:呼ぶ人のリストを作る

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 結婚式・披露宴会場や日程が定まったら、次は「ゲストリストの作成」に入る。

 私たちは、まず思いつく限りの呼びたい人のリストを作った。2人で合計すると500人以上になってしまったので、泣く泣く選定作業に入った。これが一番辛かった。そもそも、呼びたいと思う時点で大切な友人なわけで、呼ばないという選択肢などない。しかし、現実問題、会場のキャパシティの問題があるので、どうしても削らなければならない。何か理由を作って、削って、削って、削る作業に入った。これがある意味一番辛い作業だった。 

 しかし、削るといっても呼びたい大切な友達を、削り切るのは困難だった。そこで、私たち2人が考えた「解決方法」は、二次会を開催し、呼びたい500人を披露宴に300人、二次会に200人といった形で分割するというものだった。これは案外、いいアイディアで、結果としてほぼリストに上げた方は招待できた。

 この際、参考になったのは、義姉のアドバイスだった。「結婚式は、招待した人のおおよそ10%が欠席するのが相場」というのが、彼女の助言だった。その通り、最初に招待状を送った人のうち、約10%の人が何らかの事情で欠席のお返事をいただいた。もし、これから結婚式・披露宴の準備をする方がいらっしゃれば、参考にしていただきたい。

 また、出席という返事が来た人の中でも、おおよそ5%ぐらいは様々な事情(※私たちの場合は、急な葬式、入院、インフルエンザ等)で突然来れなくなった。なので、実際に集まれる人は「最初に招待した人」×「0.90~0.85」(90~85%)ぐらいだろう。ご参考まで。

 ちなみに後述するが、私たちは招待者リストをgoogle driveで管理し、2人の間でリアルタイムに誰が返事をしていて、誰が返事をしていないか、出席は誰か、欠席は誰かなど逐一確認できるようにした。また、招待者が披露宴300人、二次会200人と多かったため、招待状は紙ではなく、オンラインのサービスを使用した。

 

 

▼5:予算、コンテンツのブレーンストーミング

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 目的→会場→日程が決まったら、次は「予算」を作る必要がある。正直、「目的」や「会場決め」の時点で、ざっくりとした予算は計算しておく必要がある。なぜなら、会場代が一番予算に関わってくるからだ。手元に100万円しかないのに、1000万円の会場は予約できない。実は、予算は目的が固まったらある程度は考えておく必要がある。

 さて、会場が決まったら具体的な予算立てに入る。必要なものを、頭からリストアップしていく。このとき、往々にして予定よりお金はかかるものなので、支出を多めに考えて計算するのがオススメだ。私の場合は、最終的に当初の想定より40万円ほど多くの支出があった。予算を早めに立てて、そこから逸脱しないように気をつけながら、計画を立てて、物品を購入したりもしていた。

 

 予算と同時並行で、結婚式や披露宴の「コンテンツ」も考えていく。まず、2人でざっくりと「やりたいこと」をリストアップしていった。「絶対やりたい」「できればやりたい」「やりたいけどそこまででもない」の3つの優先順序に分けて考えた。そのリストと予算をにらめっこして、何が現実的にできるか考えていった。

 この際、僕は苦手なエクセル(正確にはナンバーズ)で予算表を作り、google driveで妻とシェアした。リストなどは全てgoogle driveにまとめ、実務的なものはLINEのノート機能を使ってコミュニケーションをはかっていた。

 ここで、クリスチャンならではの部分として考えるコンテンツがいくつかある。ひとつは、挙式で行う「聖書の話」(説教)だ。牧師に依頼する前に、聖書のどの部分から、おおよそどのような内容を語ってもらうか考える必要がある

 また、一般的な結婚式では「~することを誓いますか?」などという問いかけに対し、「誓います」と言うが、クリスチャンの結婚式では違う場合もある。私たちは、イエスが「誓うな」と言っている事実を重く受け止め、「誓い」は行わず、2人がそれぞれ決意を述べる「宣言」とした(※ただし新郎の私がノリで「誓います」と言ってしまうというハプニングもあった笑)。

 また、私たち2人は、イエスの名前を宣言することを挙式や披露宴の目的のひとつとしていた。そのため、神をたたえる「賛美の歌」も必ずやろうと思っていた。このため、賛美の歌の曲目や、実際に誰に演奏をお願いするかなども考える必要があった。また、披露宴の中で、何か印象に残るようなクリスチャン的なセレモニーをしたいと考えた。そこで、夫婦がお互いに仕え合うという姿勢を示すために「洗足式」という、お互いに足を洗い合う儀式をすると決めた。結果的に「印象的だった」というフィードバックをたくさんもらったので、嬉しい限りである。他にもパンを食べ、ぶどうジュース(ワイン)を飲む聖餐式をやるカップルもいると聞く。

 

 オススメとしては、「お付き合い」が始まった頃から、お互いにできる限り貯金をすることだ。私たちは、これを若干疎かにしてしまったため、多少の口論に発展してしまったこともあった。また、コンテンツもできる限り早めに2人で話し合い、優先順序をつけて固めるのが大事だ。コンテンツが決まらないと、お手伝いの依頼もできないし、物品の用意もできない。内容は早めに決めてしまおう。

 

 

▼6:お手伝いしてくれる人に依頼

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 コンテンツが固まったら、お手伝いしてくれる人に依頼を始める。私たちは「手作り」だったというのもあり、多くの人にお手伝いを依頼した。ざっくりだが以下である。

【お手伝いをお願いした内容】

<結婚式>

・司式、司会

・会場責任者

・アナウンス係

・案内係

・受付

・親族案内、親族部屋準備

・花嫁介添

・カメラマン、ビデオカメラマン

・音響、音響セット係

・賛美チーム(ボーカル、ギタリスト、ピアニスト、パーカッショニスト、ヴァイオリニスト)

・飾り付け準備係

<披露宴>

・司会、全体統括

・会場責任者、総合幹事

・飾り付け係

・新郎新婦介添係

・受付

・親族案内、親族受付

・テーブル、引き出物準備係

・マイクアシスタント

・カメラマン、ビデオカメラマン

・賛美チーム

・音響チーム

・動画作成係

・動画再生係

・片付けチーム

・余興演奏者

 <二次会>

・司会、幹事

・アシスタント幹事

・受付

・ドアオープン係

・音響、映像係

・余興演奏者

・クイズ係

  以上、様々な役割をお願いした。ゲストの数も多かったため、受付の人数も通常2人でやったりするところを、6人でお願いしたりした。今数えると、のべ60名以上にお手伝いいただいた。多くの友人の協力がなければ、できない式、披露宴、そして二次会だった。

 私のオススメとしては、早いうちにお手伝いを依頼しておくことだ。そして、LINEグループを作るなどして、定期的に情報をアップデートしたらよい。依頼された側は、「どういう格好で」「何時にどこに集まり」「何を準備すればよいか」「何を持っていけばよいか」「当日なにをするのか」というのを知りたい。なので、早めにそういった情報をアップデートすれば、依頼された人たちも安心できるだろう。

 

 

▼7:必要な備品を準備する

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 コンテンツが固まり、お手伝いしてくれる人たちへの依頼が一段落したら、必要な備品の準備に入る。これが大変だ。イメージしても、必要なものがどんどん出てくる。以下、私たちが準備したものを挙げてみよう。

<結婚式>

・受付の飾り

・受付で使う名簿やペンなど

・プロフィールパンフレット

・お祝いを入れる紙袋

・ウェルカムボード(似顔絵)

・ウェルカムボードを立てるイーゼル

・BGMのCD

・音響機材(マイク、マイクスタンド、スピーカー、譜面台等)

・親族控え室のお茶など

ダンボール、養生テープなど

・中央にしくための白い布

・フラワーガールのお花とカゴ

リングピロー

・ブーケ

・ブーケスタンド

<披露宴>

・受付の飾り

・受付で使う名簿やペンなど

・会費のお釣り(大量!)

・プロフィールパンフレット余り

・席次表

・お祝い、会費を入れる紙袋やミニ金庫

・ウェルカムボードを立てるイーゼル

・BGMのCD

・音響機材(マイク、マイクスタンド、スピーカー、譜面台等)

・引き出物(これが大量にあった!!!)

・引き出物の紙袋

・インスタグラム的なボードとプロップ

・展示の飾りや写真

ダンボール、養生テープなど

・映像を流すためのパソコン

・BGMを流すためのiPad

HDMIケーブル

・ウェディングケーキ

・メインテーブルのお花

<二次会>

・受付の飾り

・受付で使う名簿やペン

・会費のお釣り(大量!)

・お祝い、会費を入れる紙袋やミニ金庫

・ウェルカムボードを立てるイーゼル

・BGMのCD

・プチギフト(大量!)

・余興の景品目録(便利!)

・展示の飾りや写真

ダンボール、養生テープなど

・映像を流すためのパソコン

・BGMを流すためのiPad

HDMIケーブル

  ざっとだが以上だ。いくつか、物品を揃える上で大切なポイントをまとめる。

 

<必ずリストを作る!>

 備品を揃える上で、やはりリストの作成はマストだ。何が購入済で、何が未購入なのか一覧がないと、混乱してしまう。不必要なものの購入も防げる。いくらかかったか書いておけば、予算管理も簡単だ。私は、購入済みのものはマルをつけ、値段も横に書いて予算管理をした。

 

<引き出物を自分で揃えるのは大変>

 私たちは、ウエディングプランナーを挟まない、いわゆる「手作り」で結婚式や披露宴を準備した。それゆえ、引き出物は自分たちで揃えて、持っていく必要があった。300名分の引き出物は、大きなダンボール箱がざっと10~15箱ぐらいあっただろうか。かなりの量だった。それを前日に搬入し、自分たちで紙袋に入れて、セッティングをした。前日に、多くの友人が搬入やセッティングを手伝ってくれなければ、できなかったであろう。「手作り」を検討している方は、この「引き出物」の作業はとても大変なので、早めの着手をオススメする。

 また、当然だが、物品を会場に運び込めるのは早くても前日ぐらいなので、それまでは自宅に保管しておく必要がある。食品などは、管理できる部屋があるのが大前提だ。私も、しばらくダンボールだらけの部屋で過ごしていたのであった。

 

<パンフレットや席次表の作成はお早めに>

 その他、大変だったのはプロフィールパンフレット席次表の作成だった。

 私たちはパワーポイントなどで、自分たちでデータを作成し、「ラクスル」というサービスを通じてパンフレットや席次表を作った。完成品は、色や文字の配置などが、自分たちのイメージと違う場合があるので、大量に発注する前に、まずは数部試作品を発注するのがオススメだ。

 納期が迫れば迫るほど、金額も上がってくるので、できれば数ヶ月前から準備をしたい。私たちは、挙式が1月だったので、パンフレットは11月中の完成を、席次表は出欠が出揃う12月中の完成を目指して発注した。どれも自分たちで作成したので、かなり大変だった。特に300人分の席次表は骨が折れる作業だった(※ほとんど妻がやってくれたのだが・・・)が、やって良かった作業だったと思う。

 

<音響関係の確認はしっかりと!>

 パーティーで大切なのは、音響関係がスムーズにいくかという点である。クリスチャンの挙式では、音楽の演奏がつきものだ。会場の音響システムがどうなっているか、必要な備品は何か、しっかりと確認しておく必要がある。私の場合は、私が音響の知識がほどんどなかったため、詳しい友人に頼り切りだった。彼には大きな助けをいただいた。感謝しかない。

 映像の音声がきちっと出力できるか。BGMを流す環境は整っているか。プロジェクターのケーブル、電源は確保できているか。マイクの本数は足りているか。ケーブルの端子は適合しているか。MacWindowsの互換性は問題ないか等、細かいがあらかじめしっかり確認しておく必要がある。特に、「動画の音が出ない!」というのはありがちなトラブルなので、しっかり音声の出力方法を会場側と打ち合わせておく必要がある。

 

<物品の引き継ぎはしっかりと>

 挙式会場と披露宴会場が同じ場所であれば、あまり気にしなくても良いかもしれないが、会場が違う場合は「物品の引き継ぎ」に注意が必要だ。誰が責任を持って、物品を次の会場に引き継ぐかを確認しておかないと、物品が放置されたままになってしまう。友人は、あろうことか受付で渡すはずの「お車代」が、挙式会場から披露宴会場に移動する際にどこかに紛失してしまい、とても困ったそうだ。誰が責任を持って物品を移動するのか、明確化しておく必要がある。二次会がある場合も同様に注意が必要だ。

 また、お金の管理方法はしっかり決めておく必要がある。ミニ金庫や紙袋、スーツケースなどを用意し、紛失しないように誰がどういう方法で管理するか決めておこう。

 

 

▼8:最後まで会場、スタッフと調整

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 会場が決まり、ゲストの出欠が出揃いはじめ、お手伝いも依頼し、物品も揃った。だんだんと形になってきた。これからは、会場、スタッフとの細かな調整に入っていく。

 私の何よりのオススメは、「メールではなく、電話でやりとりをする」というものだ。メールだと、返信を待たなければならない。電話であれば、その場で何往復もやり取りができ、確認が一気に進む。メールは、あくまでも何かのファイルを送る時や、電話がどうしてもつながらなかった時の手段としよう。できれば、顔と顔を合わせて会うのがベストだ。

 また、「どうなっているかよく分からない」という点は、早めの確認をオススメする。分からないまま進んでいき、直前になって「やっぱりダメです」となるのが、一番怖い。音響はどうなっているのか。支払いは。事前搬入は可能か。当日の入り時間は。撤収時間は。追加料金はかかるか等、確認は早めにしておこう。

 できれば、下見も早めに行った方が良い。会場スタッフや幹事をお願いする友人らとも、できれば直接会って話し合うのが大切だ。資料も手渡しできるし、一石二鳥である。また、当たり前だが、メールでファイルを送る際は、「PDF」で送るのをオススメする。

 また、状況において、プログラムや席次の微修正が必ず発生する。これは、式の当日まで最後の最後まで調整が続く。一度決めたものにこだわらず、状況に応じて柔軟に対応する必要がある。

 

 

▼9:当日は楽しむ!

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 当日は本人たちが楽しむのが一番! 細かいことにこだわらず、2人がニコニコしていれば、どんなトラブルもへっちゃら・・・のはず! 以上!

 

▼おまけ:こんなところに注意

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 クリスチャンの結婚式・披露宴で「教会」(の建物)を使うというケースはよくあると思う。実は、この「教会」が実に厄介なのである!

 自分が普段から集っている教会のコミュニティであれば、スタッフとも気心が知れているので、ある程度コミュニケーションは取れるだろう。問題は、普段から知らない教会(の建物)を借りる場合である(※以下、いわゆる「教会」を、カギカッコつきで「教会」と表現する。この場合、共同体たる教会ではなく、組織や建物としての「教会」を指す)。

 以下、私が「ありえない!」と思った「教会」の対応を軽くまとめる。いわゆる「式場」ではない「教会」を利用検討されている読者のみなさんは、ご注意願いたい。

 

A:連絡が遅い・連絡が取れない

 基本的に「教会」は、レスポンスが遅い。私が借りた教会は、一度電話をしてつながったのだが、まず「担当者が不在」というお役所的な言いぶりで連絡が取れなかった。後日電話をすると繋がったが、「希望日をメールしてくれ」とのこと。メールをしても、数週間返事がない。そこで、もう一度電話をすると「ああ、そのことですか・・・」といったリアクションをされ、開いた口が塞がらなかった。

 

B:一度OKした日にちをキャンセル

 なんとか連絡を取り、「いつがいいですか?」と聞かれたので、「教会側」の会堂貸し出し可能な日にちを聞いた。いくつか候補をもらったので、その日程の中で家族と調整をした。母の仕事があったのでそれを別日に動かしてもらって、何とか日にちを確保した。その日を希望しますと打ち返した。私たちは、すっかりその日に挙式をするつもりでいた。

 すると、しばらく経った後、「教会側」から、「その日は貸し出しができない」という連絡があった。候補日を出してきたのは、「教会側」であるにも関わらず、一方的なキャンセル。私は、怒りを覚えた。ありえない対応だった。理由を聞いても、「貸し出しはできません」の一点張り。せめて事情を説明して、謝罪するなどしてほしかった。

 仕方がないので、家族には平謝りし、別の日に挙式をすることに決めた。この時点で、組織の対応としてはかなりお粗末なものだなと感じた。

 

C:当日の担当者が高圧的

 当日、会場に集まった。普通、こういう時は施設のスタッフに一言あいさつするのが筋なので、インターホンを押して「おはようございます。今日はよろしくお願いします」とあいさつをした。ここで、普通の人間であれば「おはようございます」なり、「どうぞよろしく」などと返事をするだろう。しかし、この「教会」スタッフは「何か用ですか?」と聞いてきたのだ。「まだ貸し出しの時間になってませんけど」と言うのだ。これには呆れて物も言えなかった。

 結局、そのスタッフは1日高圧的な態度で、あいさつもしない、目も合わせない、1月の寒い中、時間が来るまで扉を開けない等々、、、私としては対応にあたってくれた友人に嫌な思いをさせてしまったのが残念でならなかった。「教会」の人間の対応がこれかと思い、ガッカリした。

 

D:説明にない追加料金を取ってきた

 当日、会計をしようとすると、聞いていたよりも高い金額を請求されていた。内訳を聞いてみると、「教会」の備品を触っていた人がいたから、だという。私は少し呆れてしまった。事前に何の説明もなかったのだ。料金が発生するのであれば、事前の説明が必要ではないのか。ただ、「触ったから課金します」なんて、今どきなんていう悪徳商法だ!

 一応、会計時に「そんな、説明もなしに(数万円単位)追加料金を取るっていうのはいかがなものですか」と言ってはみたものの「いえ、ルールなんで。ちゃんと目視で確認したんで」「あんたたち、さんざん触っていたでしょう! この目で見たんですからね!」と言われて、もはや私はこの「教会」というものに呆れ果て、何も言えなかった。「本気かこいつら・・・」と思いながら、お金を払って出ていったのであった。

 

E:当日の朝にゲストにパンフレットを折らせる

 これは私ではなく、友人の結婚式での体験である。私は受付を依頼されていたので、予定より早い時間に会場に到着した。すると、「教会」のスタッフが大量の紙を抱えて、それを私の目の前の受付台にドンッと置いた。「これ、プログラムなんで、折ってください!」と言って、どこかに行ってしまった。「えっ、これ俺たちが折るの?」と思ったが、仕方がない。紙に手を触れると、ほんのり暖かった。今さっき印刷してきやがったな。受付開始の15分前だった。これが、「教会」の対応である。

 

 

・・・いかがだろうか。およそブライダルの常識からすれば、考えられないことばかりだろう。しかし、これがキリスト教の「教会」の現実である。原因は様々だが、最たるものは人材不足であろう。世間ではありえない対応を、「教会」の内部では許され続け、スタッフがスポイルされているのだと思う。常識が分からない、閉ざされた世界に生き続けると、こうなってしまうのだろうと感じた。

 挙式を受け付ける「教会」の多くは、「イエスの素晴らしさを知ってほしい」という思いでやっているのだという。だったら尚更、しっかりとした対応をしなければいけないのではないか。正直、クリスチャンでなかったら、もう二度と「教会」に来たくないと思うような粗雑な対応だった。こればかりは、褒めるわけにはいかない。同じクリスチャンとして残念でならない。

 もし、キリスト教の「教会」での挙式を検討している方がいらっしゃるのであれば、もしかするとこのような雑な対応をされて、嫌な思いをするかもしれない。残念だが、それが日本の「教会」の現実だ。願わくば、日本の「教会」がもっと心が広くなって、「来てよかったな」「選んでよかったな」と思われるような対応をしてほしいものである。

 

※次回は結婚式編ラスト!” おすすめのアレコレ10選!+「手作り」とは? 乞うご期待!

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com